更新:12月27日 10:20デジタル家電&エンタメ:最新ニュース
「デジタル時代に著作権は存続し得ない」という視点
デジタル技術の前においては、もはやこれまでの著作権は存続し得ないのではないかという素朴な疑問がある。ダビング10、ダウンロード違法化などの著作権をめぐる議論が、私にはどうも自動車の時代に人力車を守るべきかどうかといったナンセンスにしか見えないのだ。(江口靖二のテレビの未来) ■デジタル技術の罪と罰 たとえばうちの近所の鎌倉の大仏では録音も録画も自由にできる。ただし拝観料を支払う必要はある。江ノ島も富士山も録音録画は自由だ。こちらは特にお金を払う必要もない。一方、音楽のライブコンサートは一般に録音録画不可。入場料として5000円以上支払っているにもかかわらずだ。5000円の対価はその時、その場限りのものとなる。 この違いは何かというと、建築とか仏像はデジタル時代になっても比較的コピーがしにくく、再現性があるとは言いがたい。一方、音楽や映像はデジタルコピーが容易だ。全く同じものを複数作り出すことがいとも簡単に可能である。なぜならば今の音楽や映像はオリジナルがそもそもデジタルビットだからだ。録音や編集の過程において音楽や映像は完全に入口から出口までデジタル信号として存在している。何回コピーしても劣化が生じないという、制作過程におけるデジタル技術の恩恵が圧倒的だからだ。 ところが同じデジタル技術が流通過程、つまりマネタイズの領域に入った途端に問題となってくる。違法コピー、違法ダウンロードという話になる。この「違法」という言葉の意味するところは何なのか。何がどう違法なのかということだが、これは要するに著作権者に金銭的機会損失を与えているから「違法」ということになる。非常に理路整然として反論の余地を与えてくれない。 ■著作権は本当に守るべきものなのか 視点を変えてみよう。たとえば人力車の団体が(そんなものがあったかどうかわからないが)、自動車産業に対して自分たちの権利(仕事)を守れと主張していたとしたらどうだろうか? この時期もっと身近な話題では、印刷業界が家庭用のプリンターによる年賀状の印刷は機会損失だと主張したらどうだろう? 石炭産業が石油という新エネルギーの登場によって衰退していったように、音楽などの著作権ビジネスもデジタルという新技術の登場によって駆逐されるとは言わないまでも変わらなければならないのではないかと思うのである。歴史を振り返るまでもなく、新技術の登場によって消え去った産業や職業は無数にあるではないか。 ■マネタイズだけでは議論が完結できない問題
「著作権者」はかつて「芸術家」と呼ばれていて、彼らはマネタイズの手法を貴族や資産家などのパトロンに求めた。その後メディアの時代になるとレコード会社、テレビ局などのメディアと組むようになった。そしてインターネットの時代になり、彼らに対して創作意欲の継続と経済的利益を還元しうる仕組みが見つかっていない、あるいは合意できていない状況なわけだ。 もうひとつ、著作権議論で重要な視点を忘れてはいけない。さきほどは著作権をマネタイズという視点から捉えて見たわけだが、いわゆるCGMの世界ではマネタイズ自体が必ずしも常に重要なファクターではないという点だ。ネットユーザーの多くはお金が欲しいという点よりも楽しみたいという点の方が重要だったりする。これまで表現手段を持たなかった人々が、自己主張という機能だけで十分満足しうるという状況である。ある意味この方が金で決着しないだけ厄介という見方もできる。 デジタルという新技術が、複製が容易な音楽や映画やテレビといった著作物を産業として葬り去ることになるのか?それは宿命なのか?少なくとも国民はそれを望んではいないはずであって、今求められているのは何回コピーがOKと言う議論ではないはずだ。権利者側も人力車をハイブリッドカーに乗り換えるのか、そのままノスタルジックな観光用途に徹するかを選択していかないとならないと思うがいかがだろうか。 今年もご愛読いただきましてありがとうございました。個人ブログへ頂戴した多くのご意見にも心から感謝いたします。皆様よいお年をお迎え下さいませ。 ※このコラムへの読者の皆様のご意見を募集してます。http://e_gucci.typepad.com/tv/2007/12/post-1.htmlをクリックすると、今回のコラムに関するコメントを受け取るための専用ページが開きます。(NIKKEINET外部にある江口氏個人のブログサイトにリンクしています) [2007年12月27日] ● 関連リンク● 記事一覧
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