自分は勉強はできないが、ほかに何か才能があると思い込む。「学校の勉強なんて社会じゃ役に立たない」 が決め台詞。「自分は成績は良くないが頭は良い」と妄想をしている。学歴が高い人間にはどこか性格的に欠落している部分があると信じている。馬鹿高に入ったor進学校で落ちこぼれたのは単に勉強しなかった、環境が悪かったからだと信じ、自分の能力は疑わない。自分自身の問題からはひたすら目を逸らす。「自分はやる気に成れば出来る人間だ」と根拠のない自信を持っているが、いつまでもやる気にならない。就職も進学も「本当に自分がやりたい事」が見つかった時に決めれば良いと思っているが、いつまでも決まらないでいつも手遅れになる。「自分次第」「入ってから頑張る」が決め台詞だが今まで自分が頑張るべき時に頑張らなかったという事実を自覚していない。どういう風に生きたっていいじゃん!と言いつつ、高学歴がエリート街道からドロップアウトすると心の中で小躍りしている。
まぁ、それらを好きな連中はお前のことを耳が腐ってると思ってるから。
努力が実ってよかったじゃん。すりゃあなんとかなんだよ。
この間久しぶりに、遠くに住んでる異性の友人に会ったら、
開口一番「かわいい!」
って言ってくれた。
確かに自分でもかわいいと思う格好してたのだ。
自分でかわいいと思ってる格好を、かわいいと言ってくれるのってうれしい。
その人は実は変な顔だけどとてもモテる。
モテるのってこういうとこからなんだろな。って思った。
perfume,capsule,m-flo,sugiurumnが大っ嫌いなので、最近の日本のクラブミュージックは全然おもしろくない。
こいつらをいいよねーとか言ってるやつを見ると、耳が腐ってるんじゃないかとすら思う。
genki rocketsはギリギリゆるせるが、それでももっとよい日本のポップなハウスミュージックはいっぱいあるように思えてならない。
前々から感じてはいたけど、この前「ドグラマグラ」が青空文庫で公開されて確信した。
みんな夢野久作が好きすぎる。
夢野に限らずいわゆる狂気系といえばいいのか、みんなそういうのが大好きだ。
それは例えば「tanasinn」だったり、「ゆめにっき」だったり、シゾフレの描いた猫であったり、
斧をふりまわしたりヒロインだったり、恋敵の腹をかっぱさくエロゲアニメだったりする。
音楽だってそうだ。
ヤスタカだってpalだってセラニだって結局はテクノかポップの皮を着たサイコなミニマルじゃないか・・・
なんだろう、これは。
みんな揃って破滅願望でもあるのだろうか。レミングスか。
少なくともただ漠然とした不安如きで自殺する気なんてさらさらない酔っ払いに思えるのです。みんな。
では、これはいったいなんなのか。
このテンデンシーとは。
厨二病の延長なの、か、な?
それはあるいはマイノリティーを「みんな」とマスっぽく飾ってみるような。
人間って本当に個人差が多彩だと思うわ。
「自分は凡人です」っていうのに対して「謙遜にしかきこえない」と言うと「勉強してないから凡人」らしい。
名言紹介系のようなテキストが順番に出るタイプの動画があると思うんだが、ああいうのをストレスなく見られたことというのが自分でも驚くほど少ない。基本的にテキストの切替が遅すぎる。五回読んだんですけど続きマダー、という事態になって途中でイライラして見るのを止めてしまう。もうちょっと早く切り替えてもらえないものか。あるいは動画サイトに1.5倍速再生機能のようなものが実装されないだろうか。
皆も言ってるけど、品定め、っていう単語が悪いイメージであって、行為自体が悪いうわけではないと思う。
結婚するかどうか、一緒に暮らせるかどうか、それを「見極める」ってことだし。
というわけで、見極めるという言い方なら、どうだろう。
あーそやね、一人称とかそのへん何にも考えずに書いてたわ。あとまあ理想論っていう反論は真摯に受け止めるよ、現実には難しいってのは重要だからね。
理想論って語るのはいいと思うんだけどその理想を元にして是非の判断しちゃうと色々問題出てくるよね。
あと妙にしゃっちょこばった文章を書こうとするんだったら一人称の統一位した方がいいんじゃないかな。普段はそんなの気にしないけどそれだと目立っちゃうから。
養育者は教育の責務を負っている。子供が森羅万象に対して理解を深め良い人生を送れるようになるまでには、独力で処理するには余りにも膨大過ぎる量の疑問にぶちあたるのが普通だと、そう私は考えているわけだ。となると極力、子供が質問することに臆病とさせてはならない。まあもちろん静粛な場での質問とかはそりゃその場ではせず後で質問するように諭すなどの例外はあるわけだが、基本的には養育者への質問は歓迎するように育てるべきだ。
との考え方を抱く俺が増田を見るに、増田は養育者への質問自体を(上手に質問できなかったという点を勘案しても)恥と捉えていると感ぜられるのであって、そのこと自体が、子供と養育者との関係として宜しくない証左だと考える。
まったく異常じゃないですよ。普通です。
幼少のみぎり、ワイドショーで流れた聞き慣れない単語「トップブリーダー」とは何ぞやと親に尋ねたが説明するのが面倒だったらしく返答が得られずに言葉を濁されて以来長いあいだ「ブリーダー」とはエッチな言葉だと思っていた。いまも「ブリーダー」と聞くとエッチだ!と反応してしまう。
馬鹿ですみません。
私の母は専業主婦で、田舎の出身だったせいか、ほとんど冷凍食品や惣菜を買わない人だった。外食というと、高いレストランや寿司、あるいはラーメン屋やうどん屋に行くくらいで、私はファミリーレストランというものに行くことがないまま成人した。ほとんど母(と父)以外の手による料理を食べることなく成長したのだ。
そのせいで、私はとても外部の味に弱い人間に育ってしまった。
例えば、小学校の行事などで泊まる、所謂「青少年課外活動センター」的な施設で出される料理の数々が全く喉を通らない。一般に家庭料理と呼ばれる料理、例えば煮物や漬物、卵焼き、味噌汁、酢の物。これらの料理の「美味しい」の幅が完全に母親の味で狭められてしまって、全く適応できなかったのだ。「食べ物を粗末にするのは下品なことだ」と理解はしていても、美味しいと思えない料理を食べる苦痛ほど、子供にとって大きな苦痛はない。
ああいった施設で出る料理は決して美味しくはないが、一般的にいえば、そうまずくないレベルにはあると思う。しかしそれらが私にはどうしてもまずく思えてしまう。おかず類に一切手をつけることなく、ご飯と味噌汁のみを食べる私はひどく奇異に思われたものだった。
ただ給食はまだマシだったと思う。シチューやカレーは比較的差の出にくい料理であったし、家でほとんどパンを食べることのなかった私はパンというだけで嬉しかった。小さいおかず(とうちの学校では呼んでいた)は食べられないことが多かったが、それでも担任の先生に恵まれて残すことを咎められたことはなかった。
仕出しのお弁当がおそらく私が最も苦手とするもので、完食できた試しがない。色々なシチュエーションで食べる機会が巡ってくるのだが、未だに苦痛でたまらない。そして大半が残ったお弁当を見て、人は言う。
「偏食はよくない」と。
しかし偏食ではないのだ。私は煮物も酢の物もお浸しも大好きだ。大好きだが、「まずい」それらは好きではないのだ。もちろん、自分の好みの狭さはどうにかしないといけないと思っているし、引け目に感じているのでそんなことを言い返したりはしない。それでも「偏食」だと連呼されるといやになる。
本当にこれが美味しいんかい、と問い詰めたくなる。
仙台に旅行に行って牛タンを食べたら、明らかに味の素の味がしたので、「あんまり好きじゃないかも」と遠まわしに言った。そうしたら、「ああ、こういうの嫌いよな。自分好き嫌い多すぎ」と言われてしまった。そうかな。2500円も取っておいて味の素バリバリなその牛タンに原因はあると私は思ってしまうんだが!
味の素が嫌いなわけじゃない。適量の味の素は素晴らしい。でもものには限度があると思うのだ。塩は素晴らしい調味料だが、塩辛すぎる料理は誰も美味しいとは言わないだろう。過ぎたるは及ばざるが如し。むしろ調味料に関していえば、及ばない方がましだ。
この文はほとんどあの牛タンへの恨みで出来ている。期待したのに裏切られたのだから仕方がない。しかしあれは美味しくなかった。むしろマズイと言い切ってしまってよいレベルだった。
しかし鬱憤をこんなところで吐き出しておいてなんなのだけど、自分はちょっと味覚に関しては狭量過ぎる所があるのかな、と最近思ったりもしている。わさびも生姜も柚子もセロリも紫蘇もNOTHANKYOUなのは、確かに偏食な気がするのだ。これらの香りもの類に関するセンサーは、かなり高感度のものが搭載されていて、セロリに関してはサッポロ塩ラーメンですら拒否反応が出るくらいなのだ。少し病んでいるかもしれない。
そんな私だが、ファーストフードは嫌いじゃないのが自分でも不思議だ。しかし、ハンバーガーに関しては、母の味がインプットされていないせいかもしれない。子供の頃は食べる機会がなかったので、成人してからは好きなだけ食べられることが結構嬉しかったりもしている。
チキンフィレオが一番美味しい。
おわり。