2007-12-13
■[レベル3][憲法]ビラ配り有罪―常識を欠いた逆転判決?
http://www.asahi.com/paper/editorial20071213.html#syasetu2
この社説は、高裁判決を叩き、地裁判決を持ち上げているが、東京高裁の判決の方が妥当である。立ち入りが禁止されている共用部分に立ち入った場合は、住居侵入罪が適用される。判例は「他人の看守する建造物等に管理権者の意思に反して立ち入る行為は「侵入」に当たり、本条の罪が成立する。(最判昭58・4・8刑集三七・三・二一五)」とするが、立ち入りを禁止している共用部分に立ち入ることは管理権者の意思に反した侵入に当たるからである。したがって、共用部分に立ち入ってビラを配布したかどうかにかかわらず、有罪である。この点、このようなケースに住居侵入罪を適用することは、表現権の侵害であり、いわゆる適用違憲であるとして争うこともできるが、ビラ配布は憲法21条の表現権の一環として認められているところ、表現権と言えども無制限に行使が許されるわけではなく、憲法12条の公共の福祉によって制限を受ける。そして、本件の住職は立ち入りが禁止されていたマンションの共用部分に立ち入ったのであるが、普通に考えて、一戸一戸にチラシを投げ込んでいくのは非効率極まりないし、今ではインターネットがあるのだから、ホームページを開設して閲覧させればよく、他に代替手段がいくらでもある。すると、住居に侵入させてまで表現を行わせる必要性に乏しく、他方で居住の平穏を保護する必要にかんがみると、このようなケースで住居侵入罪を適用違憲とすることは難しい。また、東京地裁は、「マンションに入ったのはせいぜい7〜8分間。40年以上政治ビラを配っている住職はそれまで立ち入りをとがめられたことがなかった。ピザのチラシなども投げ込まれていたが、業者が逮捕されたという報道はない。ビラ配りに住居侵入罪を適用することは、まだ社会的な合意になっていない。」と言っているが、これは事実上のものであり、客観的な同意とはいえない。もしこのような不確定要素を判断に盛り込むと、どのような場合に同意があったとするのかがあいまいになり、法的安定性を害するので、極めて異例な場合を実質的違法性阻却で救済するのならばともかく、通常は住居侵入罪で擬律するべきではないか。
■[レベル3]全体主義的な一元管理で何が悪い
http://d.hatena.ne.jp/feuilles/20071210
政財官至上主義(笑)については,「代表=表象」の範囲が二重化している気がします。「消費者」が消費行動(=選択的な隷属)を通してある企業体として集合的に表象される,ということと,複数の企業があるグループによって単一の主体として表象される,ということの二つが平行になっているかと。んー,でも前者の前提として後者が行われ,それによって後者が再組織化されるとしたら両者は一連の過程として位置づけられるのかしら,とも考えてみたりしています。
が,そこまで肩の力を入れて生活していない私としては,複数の団体を,それほど意識せずにその場その場でコンビニ的に利用しながら乗り換えていくのがポストモダンな生き方で,逆に言えばそういう選択の多様性(共時的に見れば,それはスクリーニングなのでしょうが,通時的には自由の拡張といえるでしょう)の確保が,インフラを超えた「アーキテクチャ」の方向性なのではと思います。もちろん不確定性はちっとも縮減されませんけど,それで全然構わないと思うのです。アナーキーな方が全体主義的な一元管理もしにくいでしょうし,少なくとも私には生きやすい。
id:feuillesさんの社会観は本当に眠たくなることしきりです。まず、不確定性を縮減しようとしないところが締りがありませんし、集団のコンビニ的利用とか自由の拡張といった浮ついた社会(その実、政官財によってコントロールを及ぼされているのだが)なんて糞喰らえです。早い話、締りや覇気が無くて眠くなる。こういう考え方で実際に実現するのは、カオスばかりで意味の発生しない弛緩した社会であり、又吉イエスはじめ私のような者にとっては腹立たしいことことのうえない。
なぜ全体主義的な一元管理(不確定性が最小)の内容を改善していこうという発想がないのかなと思います。
まあ結局は女性であり肩に力の入らない生活を望むご自身の存在と自己愛に帰着されるのですけれどもね。
そして政治へ。
ところで
二重化(笑)
選択的な隷属(笑)
二つが平行(笑)
一連の過程(笑)
乗り換え(笑)
共時的(笑)
通時的(笑)
不確定性(笑)
縮減(笑)
■[レベル3][憲法]日本の法体系とはどういうものか
六法全書の複雑極まりない規定群の意味を一言で言うなら「人権行使の公共の福祉への強引な連続化」に尽きる。民法の強行規定や取締規定(公の秩序に関する規定)、独禁法や商標法などの経済規制法は、その連続化の部分に当たる(そのほかの任意規定は公の秩序に関しないものとして自由である)。たとえば、民法で契約自由の原則を謳いつつ、90条でホステス保証契約が禁止されるのは(判例)、そのような契約が事実上ホステスにとって過酷な結果を招いており、放置していると社会を不幸にして公共の福祉に反するといえるからだし、独禁法でカルテルや私的独占が禁止されるのも、それらが経済社会を硬直化させ経済の流動性を阻害して公共の福祉に反するからだと説明できる。しかしこれはかなりこじつけを含む。なぜならこれは、個人主義と全体主義という、もともと矛盾し合うものの無理矢理な接合・妥協だからである。日本の法システムは、いうなれば、独仏の徹底的な個人主義(自然権を制限するものは他者の自然権のみであり、国家は警察等以外は社会に介入しないというもの)と全体主義(ファシズムなど)を強引にくっつけた折衷主義である(公共の福祉という概念がこれを媒介する)。もっと簡単に言うなら、個人の価値観と世間の価値観の強引な連続化である。国民は世間の価値観の一部によく当てはまるように自己の価値観を形成しなければならないという暗黙の了解があり(憲法12条が示唆)、それによって、日本は一見個人主義的でありつつ全体主義を実現するという離れ技をやってのけているわけである。もちろんこれは現実には矛盾と破綻だらけであり、論理性は全然ないのだが(そもそも世間の価値観に当てはまろうと思いつつ個人主義的に自己の価値観を形成するには、無知、妄想、暗愚を媒介にしなければならない)、矛盾の糊塗と隠蔽のテクニック、そして同調圧力や日本語の柔軟性、努力根性や相互愛などによってどうにかこうにかごまかしおおせているわけである。
■[レベル3][憲法]個人主義を全体主義に連続化させるのは論理的に無理
「人権を公共の福祉のために利用する責任を負う」(12条)という文からすると、公共の福祉にとって有益でない人権(たとえば地下鉄にサリンを巻く人権)を憲法は否定しているわけだろう。だったら結局、人権などと言う必要はなく、公共の福祉に合致する行為をする権利だけが認められていることになる。それなんて全体主義。
結局、論理的には全体主義を採るしかないのであって、個人主義をメディアによって全体主義に連続化させるというような論議は、言葉の魔術であって、論理的には不可能である。よい全体主義を採ればよいだけの話。
■[レベル3][憲法]立憲主義は個人意思単一原則違反
官庁とテレビ局を爆破する結論となる思想を持っているのだが、なぜ公共の場ではそれと違う思想を取ることを強制されるのか(どうみても統合失調になります)。
■[レベル3][憲法]日本流人権思想も純正人権思想も破綻している
日本の憲法には「人権(自然権)は公共の福祉のために行使しろ」(日本憲法12条)と書いてあるが、ドイツ憲法2条、フランス人権法4条には、自然権行使は他者の自然権行使を妨げないということにしか限界を持たないと書いてある。別に公共の福祉(=全体の幸せ)のために人権を使えとは書いていない。簡単に言うと、独仏では、他者の人権を害しなければ何をやってもよいことになっているが、日本では、人権の行使は他者の人権を害しないだけではなく公共の福祉というよく分からない観念に合致しないといけないという注意がついている。ここがよく分からない。
日本のやり方がいかがわしいのは明らかだが、では独仏のやり方ならよいのか。つまり、他者の人権を害しない範囲なら何をやってもよいとすべきなのか。これには反対である。それでは伝統が発生せず社会が進化しないのは明らかである。それに、独仏のような原理を貫くと、社会格差などのひずみを論理的に解決するすべがなくなる。ひずみを修正しようとして福祉法や経済法を制定し国家が社会に介入した時点で、人権思想の原則は破綻する。人権思想そのものがエラーだったと言えよう。それにもかかわらず世界全体が人権思想を維持し、修正主義でお茶を濁そうとするのは、背後に何か黒い目的があるのは明らかである。エラーなのが分かったなら、さっさと又吉イエスのような伝統主義に回帰すればよいからである。
結局、社会は自然権承認による多元主義ではなく、よい思想で一元化するしかないのであって、人権思想も民主主義も矛盾を糊塗することでかろうじて成り立っている詐欺思想に過ぎない。