http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/51197483.html
「頬白親父」氏は私について、次のように述べている。
「Pasさんがおっしゃるとおり、「自分自身では信じる気などさらさらないものを他人を裁く材料にして悦に入っている」生き方というのは、極めて頭でっかちで、聖書に出てくるファリサイ派的なものを感じる。」
ここで引かれているPasさんの「自分自身では信じる気などさらさらないものを他人を裁く材料にして悦に入っている」という言葉は、私にはまったく当てはまらない。こういうのを妄想と言わずして何と言おうか。
私はカトリックではない。未洗礼者であるばかりか、洗礼志願者でもない。これは事実である。しかし、この事実から「自分自身では信じる気などさらさらない」とは断言できない。なぜ私の内面を、赤の他人が分かるのだろうか?
この点で同類のピオシンパ、『護教の盾』のヨゼフ・ジェンマ氏が偉いなと思うのは、私との対話において、私が非信者であること自体は問題にしていないところだ。
私自身カトリックの友人知人がいるが、少なくとも彼らは、カトリックについて非カトリックである人間が語るということを、いちいち問題にしない。間違ったところがあれば正すだけである。信徒でない人間が宗教について語りえないとすれば、宗教学などの学問は不可能になってしまう。
「他人を裁く材料にして」も、まったく意味不明である。いつ私が判事なり裁判官になったのだろうか? 教会法あるいは教皇文書の意向に反しているかいなかは事実問題だから、判事でなくても、専門家でなくても判断できる。この点で、素人であるだけでなく、非信者でもあることは、かなりのディスアドバンテージではあるが、不可能ではない。ただ、その判断(裁定)に法的効力がないだけの話である。
かりに私のしている行為が「裁く」ことなのだとすれば、そもそも「頬白親父」氏と愉快な仲間たちもまた、同様に教会文書を用いて、典礼規定に反しているだの反していないだのと、司教を「裁いて」「悦に入っている」と言える。
私は該当記事において、プライマリーソースである教会文書に照らして「カトリック信徒は聖ピオ十世会のミサには行くべきではない」ことを論証しただけである。これが間違いだと言うのであれば、私がカトリックか否か(それを信じるつもりがあるのか否か)などという瑣末なことを論じるのではなく、同じレベルで反論していただきたい。できないならできないでもよいが、それならば私について根拠のない妄想にふけるのはまったく時間の無駄であると言いたい。
PS・ちなみに当記事から「頬白親父の一筆啓上」にトラックバックしたところ拒否された。自分に都合の悪いコメントは削除、自分に都合の悪いトラバは拒否、なるほどこれが「地の塩」たる「信徒」による「愛のわざ」なのか。
(文責・金田一輝)
僕には70年代後半から80年代にかけて極左テロリストに、「彼等」がダブって見えますね。やたら問題意識を振り回して増長するバカと、彼等の腹立ちにも一理有りと偏向報道を繰り返したバカマスコミ。
グリコの「○○限定」ポッキーの如く、バカと同調者はパッケージを変えて現れるんですねぇ。
最後に申し遅れましたが、主のご降誕まことにおめでとうございます。来年も宜しくお願いいたします。
あなたも、カトリックなのですか?
あなたのコメントが、正統なカトリックである「頬白親父」氏の「人格権」を侵害していることに、お気づきですか?
ただし「金田一輝は、カトリックの信仰を、信じる気がさらさら無い」のか?否か?という件に関して、師匠とじかにあった事もあるわたくしの主観的観察に基づく結論から言うなれば、まぁ「否」でしょうな。
ぎょーかい的な見地からするに、「招かれている状況である。」と見做しています、しかし他者であるわたくし的には、秘跡は神とその人との間において成り立つゆえに、いま現在、それにコミット出来るものではありませんね。ゆえに生暖かく見守っているという感じです。今後、どうなるかについては神のみぞしる。的に。
受洗を含めた神の奇跡は、これはもう論理的存在ではないですから、なる時ゃなっちゃうもんですし。駄目な時は駄目でしょう。正直に言ってしまうと、洗礼の秘跡と金田さんとの関係性においては「神に委ねる」という状況に到るにはまだまだ関門もあるかもしれないと見ておりますが、そんなの金田さんがやるこって、私がどうこう言うこっちゃないっす。だからギャラリーが秘跡の分野に相当することを勝手に決めつけて云々してるってのはかなり神様の事を信頼しとらんなというか、秘跡ってのは理性を越えたトコにあるんで、目に見えるような事で判断出来かねます。
我々が出来得るのは人間の己の限界を知った上での範囲で、教理とか神学とか、あるいは典礼上に見えるような表象の現象についてはまぁ語れる分野でしょうが、聖霊の働きについてはあれこれ出来ないです。
「教会」について金田氏がどう考えているのかはこれまた内面の問題ではありますから、単純に「信じていない」と結論付けられないとは思いますが。
わたくしは「教会」という定義を広義に考えるなれば「信じる状況下にある」と見做していますが、しかし今の処「カトリックの教会共同体」を「信じる」ということにおいてはよく判らん。という印象ですね。
ですが、それで「だからどうした?」って感じ。話せる事は話せるわけで。
「同調者」を増長させるのも何なので、サエキさんの発言にはノーコメントということで(笑
こちらこそ、来年もよろしくお願いします。
>あなたのコメントが、正統なカトリックである「頬白親父」氏の「人格権」を侵害していることに、お気づきですか?
質問です。なぜ「正統なカトリックである」人が、カトリック教会法に反したミサに出席し、それをネット上で公言するのでしょうか?
「正当なカトリック」である頬白親父さんが
靖國昇殿参拝し神道式礼拝に喜んで出てますが、
それはカーテンレールさんが所属する
カトリック教会では指導司祭も諸手をあげて
賛成していますか?
聖ピオX世会のように第二ヴァチカン公会議を
認めないなら異教排他が喜ばれませんか?
もし頬白親父さんが貴方がおっしゃるように
正当なカトリック信徒なら異教礼拝したことについて
告解しているでしょうから、こんな手前の心配事は
余計なお世話ですね。失礼いたしました。
はい、おっしゃるとおり、「余計なお世話」だと思います。
「正当」ではなく、「正統」です。
ご主張拝見いたしますに、カーテンレールさまが仰りたいのは、
「名誉毀損」である、ということで間違いないでしょうか?だとして、
ご自身で立派に反論され、人格権を守っておられるとお見受けします。
全く個人的見解となりますが、こういった場合、当事者同士にて、
(結果がどうあれ)公開の場にて解決の努力をすべき事案と存じます。
当方含めて、第三者は退くのが礼儀のように思われますし、
頬白親父氏はまずご自身のブログに反論のエントリーをアップされており、
代弁者の必要なお方には思われません。如何でしょうか?
×
> ご自身で立派に反論され、人格権を守っておられるとお見受けします。
↓
○
> 頬白親父氏はご自身で立派に対応され、人格権を守っておられるとお見受けします。