安井修二研究室


★安井修二のプロフィル

1945年愛知県生まれ
所属:経済学部
1.教育
2007年度後期担当科目
 アジア経済論
 
中間試験の採点結果
 レポートの採点結果
 基礎ゼミ 3年次演習 4年次個別演習 夜間主演習T

2.研究
最新論文 「有機農業と循環型社会について」(『香川大学経済論叢』第80巻第3号)


異論・反論

12月25日の「四国新聞」
'07香川の焦点@「教育改革」 のなかから引用する。学長が教育改革について語っている。

−どのように教育改革を進めるのか。
一井 ポイントは、教員中心主義の教育・研究システムを学生中心主義に転換すること。そのため検討しているのが、将来構想に掲げる教育組織と教員組織の分離だ。学部に所属している教員を別組織化し、学部・学科の壁を超えた新しい教育を推進したい。研究の幅も広がるのは間違いない。

 さて、これを読んでいろいろ思ったのだが、以下に書くのは、一人の大学人としての感想でしかない。迷惑がかかるといけないから書いておくが、もちろん経済学部の意見ではない。それに、私は、この学長が主張する改革案が実現する時には、この大学にはもういないのである。じゃあ「余分なことは書くな」ということになろうが、そういう自由を許容しているのが大学の自治なんだろう!!

 ここで、学長が言おうとしているのは、いま検討が進んでいるらしい学類・学系のことだろうが、そのことをここで言及しようとは思わない。私などが言うべきことではないからだ。私が言いたいのは、学長がいまのシステムに問題があるという言い方をしているところだ。じゃあ、現在われわれが実施している教育は、本当に学生中心主義ではないのか、と。
 研究システムが学生中心でないことは当然であるが、研究は、大学が果たすべき一方の柱であるから、それを学生中心に変えるなどということは考えられない。
 とすれば、この意味は、従来は教員中心主義で、どうしても研究システムに重点が置かれ、教育システムが軽視されていたが、これを少なくとも教育システムは学生中心主義に変更しなければならないということだろう。

 しかし、そうなると、そんなことはいままで言われ続けてきたことではないかと思うのは、私一人ではないだろう。
 われわれは、この間、研究・研究とばかり言っていては大学は生き残れませんよ、研究・教育ではなく、教育・研究ですよ、と言われ続けてきた。そして、その精神にそって、さまざまな教育改革をやってきた。じゃあ、あの改革は一体何だったんだろうか、と。
 学生による授業評価もやってきたし、それに基づいた教員の教育評価もやってきた。経済学部の例でいえば、コース制の導入までやってきた。農学部にコース制を入れたのは、現学長ではなかったか。

 だから、改革をするというなら、現状のどこが問題なのかをはっきり明示化すべきであろう。多くのエネルギーをかけてやってきた教育改革が十分でなかったという評価はありえてよい。しかし、まずは、いままでの改革のどこが問題なのかを明確化しなければならない。さもないと、新しいアイディアがその限界を克服できるかどうかもわからないではないか。
 文科省の言い方を借りるなら、評価→改革案の作成→改革案の実施→再度の評価→この繰り返しでなければならないからである。大事なことは、まずは、評価であり、どこに具体的な問題点があったかを、構成員全体が共有しなければ、改革などうまくいくはずがないではないか。

 われわれの教育改革に対する評価はどうであったか

 私は、長い間、学生による授業評価の実施部隊で仕事をしてきた。それに基づく報告書を何度も書いた。だから、この間の改革の評価について、現学長よりよほど詳しく知っている。
 いうまでもなく、文科省が求めるのは、言葉ではなく、数値情報である。その意味では、学生に授業評価ほど文科省的なサイドからみた場合、好都合な情報はないのだ。

 経済学部の例でいえば、授業評価の全体の満足度は着実に上昇してきた。そして、経済学部だけが毎年実施してきたカリキュラムに関するアンケートでも、点数は着実に上昇してきた。授業評価は所詮5段階評価であるから、上昇といっても制限がある。5に届くということはありえないからである。

 いまでいえば、むしろ、問題点は逆のマイナス面が発生していないかということにある。点数を上げるために、教員が易しく教えているということはないだろうか、合格率を上げていることはないだろうか、というような点である。しかも、その点についていえば、いま外部評価をやろうとしていて、答案用紙等の提出が義務づけられているから、合格率を意図的に上げるなどということもやりにくくなっている。ここまで進めてきた教育改革のどこがまずいのか、はっきり言ってほしいものだ。
 経済学部でいえば、コース制を実施した学年が来年度から演習を履修する。彼らが卒業するまでいって、それ以前の学生と比較して、改革案の正否がわかることになっている。まだ、その評価もできないうちに、改革案を作成するというのは一体どういうことなのか。
 最後はどうなるか。「改革疲れ」だろう。首相が替わるとすぐ教育改革を言い出す。思いつきである。御用学者が出てきて何らかの案を作る。ほとんどうまくいかない。教育改革などというものは、そう簡単にうまくいくものではないからだ。学長が替わるたびに、新しい「改革」では制度疲労を起こしてしまうよ。

 ついでに言おう。
 教育組織と教員組織の分離という意味では、似たような例があった。教養教育は、各学部から教員が出動する形で成り立っている。そうすると、どうも責任主体がはっきりしない。そこで、考えられたのが、科目領域会議だ。
 たとえば、教養の共通科目に「経済学」がある。これを担当してきたのは、経済学部経済学科の教員であった。それを変えたいというのが、当時の近藤学長のアイディアであった。
 科研費の申請の時に、それぞれの教員が属する専門分野がある。それを根拠にすれば、すべての教員をどこかに貼り付けられる。そういう考えで、全教員を無理矢理割り振った。たとえば「経済学」という科目領域会議には、工学部や農学部の教員も所属することになった。
 それで、どう動いたか。何も変わらなかった。学長がどんな命令を出そうと、教員は納得できないことには従わない。だから、科目領域会議は作成したが、ほとんど機能せず、共通科目の実施は、関係者が電話で話して終わりというのが大部分であった。私は、「経済学」の科目領域幹事に年齢順でさせられたので、数回、経済学部以外の教員にも連絡して、きちんとした会議を開いた。これは全くの例外であった。
 工学部や農学部の教員の意見も聞いた。しかし、実際は、ミクロ経済学やマクロ経済学を教えることになる教養の「経済学」は、従来通り経済学部経済学科の教員が担うことになっている。
 学部・学科の壁を超えた新しい教育

 そんな話がどう実現するんだという気がする。上に書いた科目領域会議という制度の実施例をみればすぐわかる。
 ここで、もう一つ例を出しておこう。学部の壁を超えるということが意味がないわけではない。キャンパスが離れている医学部・工学部・農学部の学生が経済学の科目を学びたいということはありうることだからである。
 しかし、学者なら誰でもわかるが、いまは、学問が細分化されているから、医学部の学生が、将来の病院経営のために、経済学や経営学や会計学を学びたいと思ったとして、それぞれの学問の体系(基礎)を離れて、急に医療経済学を学べるかというと、そう簡単ではない。
 経済学・経営学・会計学の基礎がないと、結局十分理解できないことになってしまうからである。
 最近、香川大学では、高学年の学生が学べる教養科目を用意しようという話が出ている。私は、経済学部が他学部の学生に提供する高学年用の教養科目があるとすれば、それはやはり「ミクロ経済学」「マクロ経済学」「会計学」(地域社会システム学科でいえば「人間論」)しかないのではないかと主張した。その通りになるかどうかわからないが、学部の壁を超えた教育というなら、まずは、こういう改革案を実施してみて、その評価をやってみて、どこに問題点があるかをきちんと把握してからにすべきだろう。

 最後に、やはり学類・学系に、一言
 経済学部のなかで私が所属している地域社会システム学科は、境界領域の学問分野を目指したものであるから、いつも再編成の標的になってきた。この大学には、人文系の学部がなく、人文系の先生は、経済学部と教育学部に分かれて存在している。
 といっても、文科省が、いまの時点で、人文学部の設置などは認めないことは明らかである。だから、どうしても、ある種の中途半端さは覚悟しなければならない。地域社会システム学科を創設した本人がそういうのであるから、間違いないところである。
 もしこの中途半端さを変えたいのが理由で、学類・学系などを言うなら、回り道しないで、直接それをぶつけるべきだろう。学類・学系といってみても、キャンパスが離れている医学部・工学部・農学部がそれによって大きな変更をするということは考えにくい。
 だから、この案で再編成を余儀なくされるのは、幸町キャンパスにある教育学部・法学部・経済学部であろう。それなら、そこそこうまく動いている法学部や経済学部本体(経済学科や経営システム学科)を、改革の名前の下に、悪い方向に変えていくことは避けるべきだ。焦点をきちんと絞れ!!
 地域社会システム学科を創設した人間の一人(→私のこと)が、もうじき辞めていく。チャンスではないか。