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枯れ木とアスファルトの乾燥した色ばかりが目に痛い、暖冬のおかげで雪がまったく見当たらない一月下旬の木曜日。
数ヶ月に渡る努力の結晶である卒業論文が学生部に正式受理された結果、僕が大学生としてやるべき事は、後は卒業証書を受け取るだけとなってしまった。
長いようで短かった四年間を振り返り、少しだけセンチメンタルになる。
だけど感極まって涙を流すには、雪のない町並みはいささか乾燥しすぎていた。
灰色の空、黒味がかったアスファルト、枯れ草の色までもが僕に泣く事を許さない。
無言で愛車に乗り込んだ僕はせめて車の中だけでもと思い、吐息に潤いを求めてみたが、何の事はない、ただフロントガラスが曇って視界が悪くなっただけだった。

午後四時。
学校の近くの大衆食堂で、遅い昼食を済ませた。
大学を卒業してしまえばこの食堂にも来る事はなくなるのだろうと思うと、それが少しだけ名残惜しかった。
大しておいしくないけど200円だからって理由でいつも頼んでた、どの辺が『特製』だか判らない特製ラーメン。
やたらと味付けが甘くて最後の方になると飽きちゃうんだけど、三日後にはまた食べたくなってる、そんな不思議な味のカツ丼。
密かに計画していた全メニュー制覇の夢は、日によって増えたり減ったりする気まぐれな献立のせいで、ついに最後まで叶えられそうにない。
数え切れない思い出は、まるでこの店の天井のシミのようだった。
だから僕は、考えるのをやめた。
ズルズルとすする特製ラーメン、今日だけはスープも全部飲み干した。
最後に何かお礼のような事を言って帰ろうと思ったけど、僕の口から出た言葉はいつも通りの「ごちそうさま」で、返ってきた答えもいつも通りの「ありがとうございました」だった。
恐らくはそれが僕と云う人間の四年間の集大成であり結果なのだと思うと、乾いた笑いすらも浮かんでくる事はなかった。

暗くなりつつある景色が好きで、僕は家に帰る最短ルートから少し外れた道に車を入れた。
そこは、大きな人口の池をぐるりと周回する形で自然公園と散策路が設置してある、僕の大好きな道の一つだった。
越冬のために訪れる白鳥が湖面を賑わすその公園は、夏の間は白鳥ボートがその代役を勤め上げる。
どちらが先かを詮索するような野暮な人間は、一人も存在しない。
本来であれば車の存在すら遠慮願いたいような公園ではあったが、さすがに主要幹線道路沿いと云う立地条件ではそれは望めなかったらしい。
事実、ここが車両通行禁止区域となってしまうと、この付近に用事があった場合に数キロ単位での距離的ロスが発生する。
そしてそんな事情とは全く関係のないところで恩恵を受けているのが、僕のような怠惰な自然愛好者なのであった。
ここまで歩いて自然散策など冗談ではないが、季節感の溢れる景色は是非とも拝みたい。
テールランプとアスファルトと幹線沿いのラーメン屋の看板はもう見飽きた。
東京まで続く国道四号線は、車の数が多すぎる。
そんな人間がこの道を使い、少しだけ心を癒され、またバイパスに戻っていく。
そもそもが距離的ロスを省くために設置された道路が今ではその本質を外れて距離的ロスのために使われているとは、いやはや、これが現代社会のゆがみと云う奴だろうか。
だけどよくよく考えてみれば、道路より以前から存在している公園の存在意義こそが人の癒しだったはずで。
やっぱり世界は丸くできていて、今日も明日もぐるぐる回っているのだなと。
そんな事を思いながら自販機で缶コーヒーを買い求めたら、どうやらボタンを押し間違えたらしく、取り出し口からは『まろやかコーンポタージュ』の缶が出てきた。
しかもぬるかった。

缶コーヒーを買いなおす気力もなく、裾の長いコートのポケットに両手を突っ込みながらフラフラと歩く。
特に当て所もなく歩いていた僕の足が辿り着いたのは、人気と云うものがおよそ感じられない寂れた南側の湖岸であった。
白鳥に餌をやる人々とそれに群がる白い群像を対岸に遠く見るこの場所は、冬の間はほとんど人が寄り付かない。
しかしその代償と云うわけでも無いが、なだらかな丘に連なるこの南側の湖岸は、桜の時期には花見客でごった返す絶好の宴会ポイントに早変わりしたりするのだった。
季節によってうまく地形の活用がなされているものだと感心したのは、この町に住み始めて二年目の春だっただろうか。
そんな事を思いながら誰も居ない東屋に一人腰を下ろし、意図的に焦点をぼかしながら白い息を吐く。
傍から見れば酷く孤独な青年に思われるのだろうけど、その程度の事に頓着しながら生きるほど、僕は人目を気にする性格ではなかった。
無論、別に孤独を望んだ訳ではない。
人目をはばかる何かがしたかった訳でもない。
車を停めた駐車場がその場所の近くであった。
僕がこの場にいる理由など、ただそれだけの事だった。

「ね、パンちょーだい」

後ろから唐突にかけられた声に驚き、必要以上に勢いよく振り向く。
開口一番にそんな突拍子もない事を言い出したその娘の第一印象は、紛れもなく『白鳥』そのものだった。
純白のダッフルコートに白いタートルネック、コートから伸びるすらりとした両足の肌もまた白い。
そしてその白と対をなすかのように映えるのだが、年頃の女の娘にしては珍しく一切の脱色がされていない、綺麗な濡羽色のロングヘアーだった。
全身を覆う白と、一極だけの黒。
その対比が、想いの他に美しい。
今年の冬は雪が降っていないだけに目に慣れないその白の存在は、それこそ目が眩むほどのものだった。

「……パン?」
「パン」
「欲しいの?」
「お腹すいてるの」

ぐー、とタイミング良く女の娘のお腹が鳴った。
どうやらお腹がすいていると言うのは嘘ではないらしい。
そもそも初対面の僕に対して嘘をつくメリットが存在しない以上、彼女が嘘をついているとは考えられないのだが。

「悪いけど、お金ないんだ」
「10円も?」
「いや、10円ぐらいならあるけど」
「あそこで売ってくれるよ。 10円でお腹いっぱいになるくらい」

細く白い指先が、対岸のある一箇所をぴっと指差す。
そこには、公園管理者詰め所なるちっぽけな小屋がひっそりと建っていた。
夏場はボート貸し出し所として人が賑わうその小屋だが、冬の今時期は中に人がいるのかと疑いたくなる程に、ひどく閑散としている。
だが注意してよく見てみれば時折子供連れのお母さんなんかがやってきて、詰め所に声をかけては小さな袋をもらっているようだった。
なんて、そんな説明をするまでもなく、僕は『それ』を知っていた。
これでもこの土地に住んで四年にもなるのだ、知らない方がおかしいくらいになる。
ならどうして彼女がそこを指差して「パンを売ってる」と言った時にすぐ理解に至らなかったのかと言えば、それも実に簡単な事だった。
だってあそこで売っているのは、パンはパンでも人が食べるサンドウィッチとかクロワッサンなどではなく――

「あそこで売ってるのって……パンの耳だろ」
「そうだよ?」
「人が食べるもんじゃないぞ」
「でも、食べられないって訳じゃないんでしょ?」

どうなのだろう。
少なくとも僕は、あそこで売っているパンの耳を主食にしようと思った事はない。
そしてこの公園近辺に住んでいる人の大勢も、そんな事をしようとは思わなかったに違いない。
何故なら僕たちにとってあの場で売っているのは『白鳥のエサとしてのパンの耳』であり、しかも僕らは言葉の本質を『パンの耳』ではなく『白鳥のエサ』の方に置いているのだった。
一度『白鳥が食べるもの』として認識されたパンの耳は、例え本質的な部分で人が食べても問題が無い物だとしても、口にすることに抵抗を覚えてしまう。
別に人間と比較して白鳥をどうこうって言う訳ではないけれど、それでもやはり両者に対する区別はあってしかるべきものだと僕は思っていた。
そしてだからこそ彼女が「パンが食べたい」と言った事とあの小屋でパンの耳が売られていると言った事実が、僕の中ではまったく結びつかなかったのだった。

「あそこのパンの耳、固いよ?」
「ゆっくり噛んで食べるから平気」
「お世辞にもおいしい物じゃない」
「お腹がいっぱいになれば一緒だもん」
「それに不衛生だ。 悪くなってないとも限らない。 そもそもキミは――」
「買ってくれないなら、いい」

僕の言葉を遮ったその声は、後から思い出してもそれだけで泣きそうになってしまうくらい、透明な哀愁に満ちていた。
弾かれたように視線を向けたその先では、彼女はもうこちらに背を向けていた。
このまま放っておけば二度と振り向かずに去っていくのだろう、まるで羽ばたくように潔いその去り方。
だけど、長い髪が風に揺れてふわりと舞った瞬間、それは『潔い』んじゃなく『儚い』んだと気付かされて。
触れれば折れてしまいそうなくらいに華奢なその後姿は、初見で抱いた白鳥のイメージと云うよりもむしろ、指先で儚く溶け往く春先の雪のようで。
だからだろう、貧乏で気弱で優柔不断なはずのダメダメな僕は、いつになく強い調子でこう叫んでいた。

「だから! もっとおいしいパンを買ってくるから! そこを動くなって言いたかったんだ!」

――沈黙。
立ち止まりはしたものの振り向いてくれない彼女の背中を見つめながら、僕は殆どあらゆる思考を停止していた。
考えるのが、面倒臭い。
もとい、考えながらの会話じゃ彼女が消え去ってしまう。
流れの中の会話で見限られてしまうならまだしも、本来僕の物ではない知識と常識の狭間で練られた会話に対して愛想を尽かされてしまうのだけは、まっぴらゴメンだった。
何故なのかはさっぱり全然これっぽっちも判らないのだが、僕は、彼女に嫌われる事に、酷く怯えていた。

「カレーパンとかがいいかな。 それとも甘いパンの方が好き?」
「……わかんない」
「じゃあ適当に買ってくるよ。 ハズレばっかりでも怒らないでくれるかな」
「耳でいいよ」
「じゃあ、耳も買ってくる。 焼きたてのパンの耳の方が、あの小屋で売ってるヤツよりずっと美味しいはずだから」
「おいしくなくてもいい」
「僕も少し摘もうと思ってるから、美味しいパンの方がいいんだ」
「お金ないってさっき言ってた」
「そこは否定しない。 でも、まったくの文無しって訳でもない」

言いながら、僕は財布の中身を必死に思い出していた。
諭吉大先生は論外だ、僕の財布の中に常駐しているほど彼は温情に厚い人間ではない。
新渡戸先生も論外だ、彼は日米の不平等条約を改正するために日夜忙しいため、やはり僕の財布に常駐してなどいられない。
夏目さんは流石に小説家だけあって佇まいが落ち着いてらっしゃるけど、さて、今日ははたしてご在宅だっただろうか。

「……やっぱりいいよ。 お金ないみたいなのに、悪いもん」

いつの間にこっちを振り向いていたのだろう、彼女の遠慮がちな声が鼓膜を揺らす。
その冬の空気にも負けないぐらい硬質な響きもさる事ながら、僕はその「お金ないみたいなのに」の部分に、どえらいダメージを受けていた。
ま、まったく無い訳じゃないって言っただろ!

「僕はパンを買いに行く。 これはもう決めた事だから」
「……強情」
「そんな風に形容されたのは初めてだよ。 少し嬉しいくらいだ」
「マゾ」
「それは嬉しくない」

彼女が、少しだけ笑った。

「じゃあ、十分ぐらいで戻ってくるけど。 ここで、待っててくれるかな?」
「うん」

小さな声で返事をし、こくりと頷く彼女。
そこはできれば「いいともー」と答えてほしかったのだが、高望みは良くないと曾爺ちゃんが夢の中で言っていたような気がするので、頷いてくれただけでも満足しておく事にした。
ふと気がついて「飲み物は?」と訊いたら「水でいい」と云う答えが返ってきたので、ミルクティーと緑茶を買っていって問答無用の二択をかける事にした。
そして財布の中の夏目先生が一人残らず旅に出ている事に気づいたのは、彼女の姿が完全に見えなくなった車の中での事だった。
パン屋の前にATMに行く必要ができた。





* * *





ATMに駆け込んで残金を根こそぎ下ろし、パン屋『Bullet or Bread』で大量のパンと飲み物を買って戻ってきた時。
彼女は、まるで静物ででもあるかのように景色の中に佇んでいた。
沈みかけの日の光も、冷たく頬を撫でる風も、まるで彼女を意に介していない。
およそ世界の全てから存在を無視されているかのようにどこまでも孤立した立ち姿を見せる彼女は、だがそれだけにまた、何にも干渉されない完成した美しさを持っていた。
真一文字に結ばれた唇。
濡れた瞳の見つめる先には、羽を大きく広げる白鳥の姿。
美大に進んだ人間ならばファインダーを覗くかイーゼルを設置するかと云う所だったが、生憎と僕は自分でも何がしたくて選んだのかも判らない、三流私立文系大学の学生だった。
創作意欲を喚起させられる訳でもなければ、誰かにこの感覚を伝えたいとも思わない。
美しいものを美しいと思う心こそはあるものの、それを誰かに共有してもらおうと思ったりなどはしなかった。
知っているのは僕だけでいいし、それを保存するのに文字やフィルムなどと言った媒体は必要ない。
あらかじめ劣化すると判っているものに頼るくらいならば、乾燥して涙が出るくらい徹底的に網膜に焼き付けた方が、他の何かをするその何倍もマシだと思った。
例えばこれから年老いて、目も耳もダメになって外部から情報を受け取る事が一切できなくなったとしても。
例えばそれが真っ白で無機質で、肌で季節を感じることすらできない調律された温度に囲まれた病院のベッドの上だったとしても。
僕は、脳内に焼き付けた彼女の姿を何度も何度も反芻できる。
それが今から楽しみでしょうがない。
そんなある種犯罪チックな事を勝手に思ってしまうくらい、遠景の中に佇む彼女は反則的なまでに綺麗だった。

反則的なまでに綺麗だった彼女は、僕が買ってきたパンを見るや否や、まるで捨てられた仔犬のような瞳をして喉を鳴らし始めた。
思わず額に手をかざして「マテ」と言ってしまいそうになったけど、そんな事をしたらパンの代わりに僕の手が美味しくかじられてしまいそうな気がしたので、素直にパンを渡す事にした。
そして、事態は現状に至る訳だけど。

「がつがつがつがつ!」
「少しは落ち着いて食べなよ」
「がつがつがつがつ!」
「そんなんじゃ味も分からないだろ?」
「(ぶんぶんぶんぶん!)」
「あ、一応味は分かるんだ」
「(こくこくこくこく!)」

これ以上の質問は食事の邪魔になるだろう。
スポンサーである僕がそんな風に遠慮してしまうほど、彼女の食べっぷりと質問に対するジェスチャーは力いっぱいなものだった。
手持ち無沙汰に灰色の空を見上げ、特に飲むでもなくミルクティーの缶を傾ける。
特に感慨もない、ただ事実上の間接キス。
ちなみに何故間接キスになるのかを簡単に説明すると、飲み物の二択を迫った時点で彼女が「両方を飲み比べないと分からない」と言い出したからであった。
一応「そんな馬鹿な」とは思ったものの、そもそもこの飲み物は両方ともが彼女のために購入された物だった訳で。
缶ジュースの回し飲みができないほど潔癖でもなければ間接キスに頬を染めるほど純情な人間でもない僕としては、彼女の提案を断る理由なんかどこにもなかった。
両方を一口ずつ飲み比べた彼女が選んだのは「女の娘は甘いものが好きだろう」と云う陳腐な僕の予想をきっちり裏切った、『あたたたほわ茶!』の方だった。
こうしてめでたくミルクティーと間接キスの権利を同時に得た僕は、どうせならストレートティーを買ってくるべきだったと、今更ながらの後悔なんかをしている訳である。
甘すぎだろ、これ。

「わ」
「ん?」
「これダメ。 嫌い」
「カレーパン……。 あそこのカレーパンは結構美味しいって評判なんだけど、口に合わなかったかな」
「多分、どこのでもダメだと思う。 ごめんね、折角買ってきてくれたのに」
「いいよ。 僕はカレーパン好きだし」

ひょいっと受け取り、かぶりつく。
間接キス、パートU。
カレーパンはその評判の通り生地がサクサクしていてとても美味しかったが、僕はここである一つの疑問を抱いた。
どうしてカレーパンだけが他の調理パンと違い、油で揚げられているのだろうか。
それはとても下らない、解明されたところで僕の人生を何一つ豊かにはしないだろう疑問だったが、それでも気になったものはしょうがなかった。
そもそもカレーパンのみが油で揚げられているその理由と云うものが、僕には思い浮かばない。
そりゃコロッケパンとかカツサンド辺りを油で揚げたら『二度揚げ か!』と物凄い突っ込みを入れられるだろうけど、だからと言ってそれがカレーパンを揚げる理由にはならないだろう。
油で揚げた方が美味しくなるのだとしたら食パンから何から全て揚げられているはずだし、今現在そうで無いと云うならばやはりパン生地は焼いた方が都合が良いと云うことになる。
購買層的にも『油で揚げる』と云う行為がカロリー増加と云うイメージでマイナスに転じている以上、頑なにカレーパンを揚げる必要なはいと思うのだけれども―

「なんでそのパンだけ油で揚げられてるんだろ」
「……え?」
「かれーぱん、だっけ。 今あなたが食べてるパン」
「あ、ああ」
「それだけ他のパンと違うのが気になったの。 あなた、理由わかる?」
「いや……判らないな」
「そ。 残念」

言葉とは裏腹にさほど残念そうな素振りも見せず、お茶のペットボトルを斜めに傾けてその中身をこくりこくりと嚥下する。
透明な飲み口に押し当てられ、その形を軽やかに歪める桜色の唇が、何故だかとても妖艶に見えた。
そしてそれよりも遥かに色気の無いありふれたただの一言が、僕の胸の内で鳴り響いて止まなかった。
今までこんな事を思った事はなかった。
本当に不思議だ。
カレーパンだけが油で揚げられている事の意味も、この少女の言葉がここまで心に尾を引くのも、まったく不思議でしょうがない。
だけど何より不思議なのは――

「そろそろ、訊かせてくれるかな?」
「むぐむぐ……ふぁにおー?」
「君の名前とか…何でそんなにお腹すかせてるのかとか…」
「もぐもぐ…わひゃひのなみゃえ…むぐむぐ…えっふぉね…もぐ」
「何でそんなにパンの耳をおいしそうに食べてるのか、とか訊こうとしたけど……いいよ、食べ終わってからでいい。 ……ついでに言えばゆっくり食べていい」
「もぐ」

それは否定か肯定か。
首がもげそうなくらい思い切り頷くと云うジェスチャーを目にしていなければ、僕はそんな疑問を彼女に投げかけているところだった。
出会って小一時間ほどしか経っていないにもかかわらず、僕は彼女に対して疑問ばかりを抱いている。
それは言い換えるならば、僕が彼女に興味を持っていると云う事になるのだろうか。
うん、そんな馬鹿な。
ぽわんと浮かんできた自分の思考を即座に否定し、更には鋭利な切れ味を持った『理性』と云う名の刃で両断にする。
何故なら僕が彼女について知ろうとしている情報など、本来であればほぼ無条件に与えられていて然るべき物であるからだ。
少なくとも今までの人生で僕は、こんなにまでも情報の少ない相手と接してきた覚えが無い。
名前や年齢、所属などと云った言わば外延的なものは、人と人とが接点を持つ時に半ば通過儀礼のようなものとして紹介しあうのが今までの常だった。
だから、だ。
前例の無いこの状況をどうにか既知のベースに当てはめようとしているから、僕は彼女についての情報を求めているのだ。
それ以外の理由など、決して無い。
断じて無い。
と、言いたい所なのだが…

「ふー。 ご馳走様でした」
「おいしかった?」
「ん」
「そりゃ良かった」

笑顔で頷く彼女の顔を見て、嘘じゃなく、そう思った。

「だけど何でそんなにお腹空いてたの……って、訊いてもいいかな」
「何でって、人は生きてればお腹が空くものでしょう?」
「………」
「冗談」

一瞬、本気で頭をひっぱたいてやろうかと思った。
恐らくはその気配が伝わったのだろう、彼女が即座に軽い謝罪を入れる。
一心不乱にパンの耳を食べている姿を見ていても思った事だけど、どうやら彼女は初対面の印象と現実の性格にえらくギャップのある存在であるらしい。
それを好意的に捉えるか否かは、人によって分かれるところだろうけど。
少なくとも僕にとっては、あまり不快ではない。

「実は…」
「実は?」
「私…」
「私?」
「パンを食べないと死んじゃう病気なの」
「………」

ひょっとしたら彼女はあまり深い所に突っ込んでほしくないのだろうか。
まだ二言三言ながら一筋縄ではいかない彼女との問答に、僕はそんな懸念を抱き始めていた。
何しろ自慢じゃないがこの僕は、こと『空気を読む』と云うスキルに関して、いっそ潔いくらいに素質が無い。
こうやってすぐに「素質が無い」と言ってスキル習得を放棄している辺りも、恐らくは現状が改善されない一因なのだろう。
だがそれでも性格的に無駄な事が大嫌いなのだから、これはもうどうしようもない。
いつのころからか、僕はそう自分に言い聞かせることで全てに怠惰な諦めを叩きつけながら、日々を過ごしていた。
人が人の気持ちを完全に把握する事など、ありえない。
本当に伝えたい事ならば、確実に言葉にして伝えてくるはずである。
『空気を読む』なるスキル獲得に時間を費やすくらいなら、直球で相手にその旨を訊ね、そして言葉と云う確かな情報として獲得したい。
そんな考えを持っている自分が社会的に異端であると云う事に気付いたのは、大学に進学して四度目の夏を迎えた頃だった。

全てを言葉にして伝えてほしいと思っていた僕と、言葉にしなくても通じるものがあると云う事を信じていた彼女。
およそうまくいくはずのない二人が、何の間違いだか付き合い始め、そして半年も持たずに破局した。
たったそれだけの極々ありふれた、小さな恋の物語。
何よりも言葉を欲しがっていた僕に彼女がくれたのは、始まりの「好き」と終わりの「さようなら」だけで。
言葉よりも大切な物があると思っていた彼女に僕がした事は、言葉で全てを表そうとする事でしかなくて。
擦れ違って、空回って、最終的に二人が同じものに辿り着いた時、そこにあったのは「さようなら」の言葉だけだった。
言葉以外のものを求める彼女。
言葉だけを信じようとした僕。
一緒に見上げた空の色でさえ、あの頃なら同じ物を見ていると思えたのに、今では二人別々の景色しか見えていなかったような気がして――

「ちょ、ちょっと」
「ん?」
「な、なにも泣かなくてもいいじゃない」
「……はい?」
「悪かったわよ。 もうふざけないから、ほら」

回想から立ち戻った僕に投げかけられる、少し焦ったようなメゾソプラノ。
「まったくもう…」とか言って彼女は、自分のコートの袖で僕の頬をごしごしと拭き始めた。
恐らくこう云った事をするのにはあまり慣れていないのだろう、力加減が掴めていない彼女のごしごしは、はっきり言ってかなり痛い。
冬の乾燥したお肌には優しくないだろうなとか、ハンカチぐらい持ってないのだろうかとか。
そんな余計な事を考える部分にだけ必要以上のメモリを消費している僕の思考回路は、彼女が口にした謎発言に関しての考察を進めようとはしなかった。
浮かんでくるのはただただ幼稚な、小学校低学年のような疑問符。
泣いている?
僕が?
言葉が意味として認識されないような混沌とした思考のまま、僕は彼女の袖が触れている頬に手をやってみた。
柔らかい素材のコートの袖。
冷たい指先。
それらの後に僕の指が感じたものは、そこを涙が流れたと云う事を物語る、一筋の潮の軌跡だった。

彼女の事を思い出して今だに涙を流してしまう、自分の弱さに酷く辟易する。
だけどそれと同時に僕は、彼女の事を想ってまだ涙を流せる自分の心を誇らしく思った。
そもそも僕が言い出した別れじゃないのだから、二人が過ごしたあの日々を想って涙を流す事ぐらいは赦してもらえるだろう。
そんな風に思いながら僕は、だけど決して認められない言葉を、目の前の少女の発言の中に見つけてしまっていた。

「これは泣いてたんじゃなくて……その、涙が流れてただけだから…」
「それを世間一般的には泣いてるって言うんだと思うけど?」
「違う。 泣いてなんかない」
「強情」

呆れたような声音。
軽い溜息。
その端々に垣間見える、仄かな笑いの雰囲気。
あくまで傍観者であろうとする事が感じられる彼女の適度な距離感が、今の僕には心地良かった。
だけど、それでもやっぱり『泣いていた』なんて言葉を認める訳にはいかなかった。
涙を流す事と泣く事では、根本的な意味合いがまったく違う。
極端な例を挙げさせてもらえば、タマネギを刻んでいる時に流す涙を指して『泣いている』と表現しないのと同じ事である。
そりゃどんな状況だって涙ってものは本人の意思とは関係なく勝手に溢れて来るものなのだろうけど。
嬉し泣きとか感極まってとか、そんな意味での『泣く』って言葉がある事も知っているけど。
それでも今現在の状況を鑑みた場合、僕は自分が泣いていると解釈されるのなんかは、まっぴらゴメンなのであった。

「言っておくけど、本当に泣いてないから。 まして君が真面目に答えてくれないからとか、そんな理由じゃ絶対泣かないから」
「強情な上にしつこい」
「うぐっ…」

今度こそ、本気で泣きそうになった。
どうあがいても認識を覆す事ができなさそうなので、僕は抵抗を諦める事にした。

「じゃあもういいよ……泣いてた事にしても」
「うん、そうする」
「で、えーと、どこまで話が進んでたんだっけ?」
「多分、一ミリも進んでないと思うよ」
「……分かっててやってんのか君は」

自分が原因で全く話が進んでいない事を、あくまで素の表情のまま、粉雪ぐらいの軽さでさらりと言い放つ彼女。
ここまで超然としていられるとむしろ清々しくさえ感じられるのだから、人の感情と云うものも存外に不思議なものだと僕は思った。
しかしその人を食ったような受け答えが『深い所に踏み込んで欲しくない』と云う感情の表れだとしたら、僕は今すぐにでもこの話題を打ち切るべきだと云う事になる。
人の心に土足で踏み込む事がどれだけ禁忌たる行いであるか、判らないほどに僕は愚かな人間ではない。
まして自分がそれを犯してしまう事だけは、全力をもって阻止したい事柄である。
であるならばやはり無粋にすぎるだろうけど、これだけは口に出して確認しておかなければいけない事なんじゃないかと思った訳で。
自分の欠点を告白する事に対する抵抗は勿論あったものの、最終的には彼女を傷つけたくないと云う感情がそれに勝り、僕は小さな決心をして彼女に向かい合った。

「えっとね……」
「はいはい?」
「先に言っておくけど、僕は壊滅的なまでに空気の読めない男なんだ」
「ふんふん」
「だから、君の態度とかから『これ以上突っ込んじゃまずいな』ってラインを感じ取ってあげる事はできないと思う」
「へーへー」
「自分でもこんな事を言うのは無粋だなって思うけど、もし君が言いたくない事とか踏み込んでほしくない事とかあったら、ちゃんと言葉にして拒絶して――」
「ほーほー」
「――って、キミ僕の事バカにしてるよね! 絶対バカにしてるよね!」
「してないわよっ! こう見えても真面目に聞いてるもの! 心外だなぁ、もー!」

怒られた。
あれ、ひょっとして僕が悪いの?

「それに……」
「ん?」
「冗談言ってはぐらかしたのは……別にあなたの質問に答えたくなかったからじゃないわ」

ああ、やっぱりはぐらかしてたんだ。
口に出したらまた怒られそうな気がしたので、代わりに僕は別の言葉を口にした。

「なんで? って、訊いてもいいかな」
「いいわよ」
「じゃあ……なんで君は、答えをはぐらかしたのかな」
「………」

沈黙。
確かに僕は彼女の許可を取ってその質問をしたはずなのに、返ってきたのは無言の十数秒間だった。
太陽は既に西の空に沈んで久しく、陽光の残滓すらもが夜の帳に追われてその姿を消し去り始めている。
弱々しいとは言え僕らの町を明るく照らしていた日光も、コートが必要だとは言え暖冬と称するに充分である日中の気温も、やがて来る闇の世界が全て食い尽くす。
僕たちは今、毎日繰り返されている円環の、昼と夜の突端に座して言葉を交わしている。
そんな、普段は全く思いを馳せる事もない日々の営みに心を遊ばせてしまうくらい、彼女の沈黙と漆黒の瞳は不純物を含まない完璧なものだった。

「……先に言っておくけど」
「ん?」
「勘違い、しないでよね」
「……何が?」
「いいから約束して。 絶対に勘違いしないって」
「はいはい、約束します。 絶対に勘違いしません」

はて、何の約束だろう、これは。
いきなり突きつけられた理不尽な約束事に首を傾げたものの、別段不利益を被りそうな物でもなかったので、僕はそれを軽く受け流す事にした。
もとい、彼女の口調が今までとは少し違ったものになっていたから。
まず一般的ではない初対面の時から今まで、彼女が保っていたある種仮面の様でもあった素の表情が、少しだけ崩れたから。
誰に偽る訳でもないので正直に言えば、やはり『気になった』と云うのが妥当なのだろう。
彼女の少し照れたような表情の先が、どうしても気になって。
僕は、彼女が言い出した珍妙な約束を快諾したのだった。

そんな僕の表情を見て、まだ何かを決めあぐねているように視線を右に左に泳がせている彼女。
どうやら自分から言い出した約束事のくせに、快諾されたらされたで何かしらの不信感を持っているらしかった。
やれやれ僕はそんなに信用が無いのかと、軽く落ち込みかけたのも束の間。
出会ってから半日も経ってないくせに信頼云々を言い出すなんておこがましいにも程があると自嘲しかけた瞬間、ようやっとの事で覚悟を決めたらしき彼女が、キッと僕の方に視線をぶつけてきた。
それから、口を開いては逡巡し、決心が鈍ったのかまた視線を下に逸らし。
勝手な憶測からすればかなりの苦労の後に言葉にする事ができたらしい先ほどの質問に対する答えは、約束同様それはそれは珍妙に過ぎる物であった。

「その……質問に普通に答えてったら……一緒に居られる時間が短くなるんじゃないかって…思って…」
「……はぁ」
「か、勘違いしないでって言ったでしょ! 別にあなたと一緒に居たいって訳じゃないわ! でも…すぐに帰っちゃうのはちょっとだけ嫌だったから、えーと…」

元からの肌の色が白いせいか、今や彼女の頬は、見てるこっちが赤面してしまうくらい真っ赤になっていた。
冷たい風のせい、ではない。
すぐ隣に居る僕が気付かぬうちに頬紅を差した、訳でもない。
だとすればやはり彼女の頬が紅潮している原因は、『照れている』と判断するのが妥当だと思われた。
まぁ普通に考えればこんな思考をするまでもなく把握できる事柄なのだが、その辺りは『僕だから』と云う何とも不名誉な説明で一件落着させる事にする。
それよりも今最優先にするべきは彼女の発言の真意であって、それに比べたら僕が朴念仁だとか無粋だとか空気読めない人間だとか言う事は、は些細な事柄にしかすぎなかった。
いや、それらの改善点はいつかはどうにかしたいとは思っているのだが。

彼女はまず言った。
勘違いするな、と。
つまりその後に続いた彼女の発言に対しては、率直な感想をそのまま真意として捉えてはいけない事になるらしい。
ちなみに言うと僕の率直な感想は、『ナイスツンデレ!』である。
しかし彼女との約束により勘違いしてはいけない事になっているので、僕はこの感想を捨てなくてはいけないのであった。
彼女はツンデレではない。
と云うよりもむしろ、僕に対してデレている訳ではない。
恐らくは彼女が勘違いするなと言ったのもこの部分なのだろうと思えば、まずは交わされた約束事に関しての問題点はなくなったと言って良い事になる。
ならば後は簡単だ、日本語を日本語として順当に理解すればいい。
仮にも僕は文系四年制大学の卒業が確定している、便宜上ではあるが文学士としての資格を持っている人間である。
国語の成績に関しては中学時代から誰にも引けを取った事のないこの僕が、この程度の文章の主旨を理解できないと思ったら大間違いだぜ。

「つまり君は、一人になるのが嫌だった。 そう捉えればいいのかな?」
「まぁ……でもそれは――」
「別に僕じゃなくてもいい。 って言うより、『特定の誰かじゃなくてもいい』って解釈した方が妥当かな」
「……そう、だけど」
「現状、傍に居るのが僕だった。 だから僕を必要とした。 冗談とかでお茶を濁した理由に関しては言葉のまま捉えるよ」
「……そう、なんだけど――」
「ま、単純に言えば寂しかったって事かな? その理由に関してはまだ疑問が残るけ――」
「〜〜〜〜あーもう! 誰がそこまで分析しろって言ったのよ! この分析魔! 解析魔! 国語の先生デス、かっ! あなた、わっ!」

ぶち切れた。
遠景の中に佇んでる姿を見た時に感じた楚々とした雰囲気なんか粉微塵になって吹き飛んでしまうくらい、盛大にぶち切れられた。
自分よりも頭二つ分ぐらい小さい女の娘に額をつんつんされながらマジ説教されるだなんて、僕の人生の中でも初めての事なのではないだろうか。

「どうすればそこまで無遠慮になれるのかしらまったく! あなたにはえーと、あの…あれ……デモクラシー! そう、デモクラシーが足りないのよ!」

なるほど、僕には大正浪漫が足りないのか。
なんて、そんな軽口を叩いたら彼女の怒りがそれこそ帝都を震えさせるぐらいになる事が目に見えていたので、僕はひたすら「ごめんなさい」を繰り返してこの場を凌ぐ事にした。
僕はデリカシーが足りない分、危機回避能力には長けているのだ。
いや、まぁデリカシー不足のせいで彼女を怒らせてしまっているのだから、危機回避能力に関しても非常に怪しいものなのだが。

「本当にごめん。 頼むからそんなに怒らないでくれ」
「……本当に反省してる?」
「同じ過ちを繰り返さない自信はある」
「それ、反省とは別次元の問題じゃない」
「そうか。 ならそれとは別に、反省もしてみるよ」
「……あなたって変わった人ね」
「いやいや、君には負ける」

本当、いきなり「パンちょーだい」なんて声を掛けてくる女の娘なんて、今の今まで聞いた事もなければ見た事もなかった。
言おうとしたら思いっきり睨まれたので、またしても口を閉ざす事となったのだが。

「……あなた」
「同じ過ちは二度と繰り返しません。 ごめんなさい」
「その都度その都度で新しい過ちばっかり繰り返してたら意味ないじゃないの」
「あー、まあ死ぬまでにはなんとなるんじゃないかと思ってはいるんだけど」
「楽天家」
「褒め言葉だと思うことにする」

彼女が思いっきり呆れたような溜息を吐いた。
白い吐息を纏った彼女の横顔は、何故だかとても楽しそうに見えた。
だけど、きっと気のせいだろうと思う事にした。
何故なら僕は、勘違いを禁止されている。
この約束がいつまで効力を発揮しているのかは確認しそびれたけど、きっと僕と彼女との間ではこのルールが暗黙のうちに成立していた方が、物事はずっとスムーズに行くのだろう。
なんて、まるで僕たちの関係に『これから』があるような事を前提とした考えを持っている自分がいる事に、後になってから気付いた僕は、酷く驚いた。

「じゃあ質問を再開しようか」
「待って」
「はい?」
「ねえ、一方的な質問はずるいと思わない?」
「思わない」
「………」
「思わない」
「思いなさい」
「思います」
「よろしい」

頷きながら見せる、満足気な表情。
既に二人の力関係が明確になり始めた感じがするのは、僕の気のせいなのだろうか。
片や大学卒業が確定した立派な成年男性。
片や年齢不詳ながらどう見たって未成年丸出しな感じの、華奢な少女。
順当に考えるならば主導権は僕の方にありそうなのに、蓋を開けてみればこの有様である。
自分自身の名誉のために気のせいだと思い込むことにしたが、何やら釈然としない感は未だくすぶり続けている。
「いつか分からせてやる」なんて言い出したら末期なんだろうと思うから口にはしないものの、それが時間の問題である事は、他の誰でもない自分自身がよく分かっていた。
うるさいな、情けなくなんかないぞ。

「それじゃあまず、君のお名前は?」
「白鳥麗子でございます」
「………」
「冗談」

頭痛がした。

「次に答えをはぐらかしたら、何かペナルティだからね」
「えー」
「『えー』じゃないの。 って言うかまだはぐらかそうとしてたのっ?」
「……さっき理由言った」
「へ?」
「さっき理由言った!」
「え…あ、ああ……ごめん」
「ばか」

彼女が僕の質問に、一発で真面目に答えない理由。
さっき教えてもらったばかりなのに、僕はそれを失念していた。
それを口に出すまでに彼女がどれほどの決断を要したのかは、今の僕には判らない。
だけど今こうやって彼女が怒っていて、だけど話の通じない愚かな僕に対して頑なに『二度目』を口にしようとしない。
いくら空気の読めないこと山の如しである僕だとは言え、これで選択を誤るようなら、それこそ山に入って修験者にでもなった方が世のため人のためであると思われた。
僕が言うべき言葉。
今、彼女にかけるべき言葉。
ついさっきまで国語の成績が良い事に誇りを持っていた僕は、こんな時に授業の内容が全然使えない事に驚き、適切な答えを探し出すのにえらく苦労した。
そして探し出した言葉を口に出すことにも、これまたどえらく苦労した。
何故ならこんな時代錯誤なセリフ、今じゃドラマの中でだって耳にする事ができなくなっているのだから。

「約束、するよ」
「……へぁ?」
「君が許可するまで、僕はどこにも行かない。 それを約束すれば、君も真面目に答えてくれるだろ?」
「な、何もそんなに本気な顔しなくても」
「先に本気になったのは君の方だ」
「………」
「デモクラシーが足りない発言だった。 ごめんなさい」
「……ゆずは」
「ん?」
「譲(ゆず)り葉って書いて、ゆずは。 白鳥譲葉。 本名よ。 嘘じゃない」
「あ、ああ」

僕の方にまったく視線をよこさず、呟くように質問に答える彼女。
ともすれば吐息に紛れてしまいそうなくらいか細い声は、だけど僕の耳にだけ、やけにはっきり聞こえてきた。
彼女の視線の先には、冬を象徴する渡り鳥の姿。
湖面に在りながら雄々しく翼を羽ばたかせてみたりするそいつらは、風物詩としてのみで語るには惜しいぐらいの美しさを持っていた。
なのに何故だろう、白鳥の群れを見つめる彼女の瞳はひどく寂しげで、物憂げな感じすら漂わせている。
目にするのが嫌ならば背けてしまえば良いだろうに、それでも彼女は頑ななまでに白鳥の群れから視線を逸らしたりはしない。
それまるで小さな子供が、手の届かない所にある甘いお菓子を見詰めているような。
手が届かないと判っているのに、それでも諦めきれずに涙目でじっと見詰めているような、そんな切なげな眼差しだった。

「あなたの名前は?」
「橘夾碁(たちばなきょうご)。 上でも下でも、好きなように呼んでいいよ」
「私も、好きなように呼んでいいわ」
「じゃあ白鳥さん、で」
「……やっぱり譲葉って呼んで」
「……自分の苗字は嫌いかい?」
「それ、二個目の質問だと受け取るわよ」
「なら撤回する。 えーと、歳は?」
「女の娘に年齢を訊くなんて――」
「ごめんなさい」
「ペナルティとして、質問の権利は私に移るわ。 あなたの歳は?」
「二十二歳。 君の職業は?」
「年齢聞いてるのと変わらないじゃない。 却下よ。 ペナルティ発動。 あなたの職業は?」
「今年の三月までは大学生だ。 四月以降の事はまだ決まってない。 どこから来たの?」
「北。 あなたはこの町の人?」
「えらく曖昧だな……。 僕は元々この町の人間じゃない。 大学入学と同時に一人暮らしを始めたんだ。 君はどうしてこの町に?」
「越冬のため。 あなたの地元ってどの辺?」
「南。 もう一度訊こう、君はどうしてこの町に?」
「逃げてきたの。 彼女はいる?」
「半年ほど前に振られた。 君、一人?」
「恋人がいるかって意味なら、イエス。 あなたの家はこの近く?」
「車で10分程度かな。 家族はどうしたって意味だ」
「答えたくない」

拒絶。
後、沈黙。
質問の権利を持っている彼女がそこで口を噤んだため、質問と回答のめまぐるしい応酬は一時的に中断される事となった。
「答えたくない」とはっきり口にした彼女に何やら危うげな雰囲気を感じはするものの、それを問い詰める権利は自らの手ですでに破棄している。
質問の権利もこの場を立ち去る権利も手の内に残っていない今、僕ができる事と言ったら、彼女に関して手に入れた情報を脳内で整理してまとめるぐらいのものだった。

本名、白鳥譲葉ちゃん。
態度から察するに、自らの苗字をあまり気に入ってはいないらしい。
僕としては初対面の印象――まるで白鳥のようだと思った――と見事に合致していたのでむしろ苗字で呼びたいぐらいだったのだが、その辺りは本人の希望を尊重する事にした。
あとこれは僕の勝手な憶測なのだが、「譲葉ちゃん」なんて呼んだらきっと、「レディを子ども扱いするなんて――」と怒られるに違いない。
きっとそうに違いない。
なので「馴れ馴れしい」と罵られる事を覚悟の上で、ここはあえて名前を呼び捨てにする事にした。
無論、他意はない。

次。
年齢、不詳。
職業、不詳。
外見から判断する限りでは高校生ぐらいだとは思うものの、迂闊な事を言って無駄に怒らせるのは得策ではないとの判断から、表立っての推察はしない事にした。
何しろ女と云う性別に属する方々ときたら、若く見れば「子ども扱いすんな」、年上に見れば「そんなに老けてない」と、こと年齢に関しては安定した回答が用意されていないと云う非常に厄介な生体をしていらっしゃる。
最近でこそ長年の経験から、「ああこの位の年齢の人に対しては少し年下に見えたと言う方が具合が良いだろう」ぐらいの判別はつくようになったものの、それが必ずしも正解ではないのが世の常と云うものである。
よって今回も上下幅三年と云う非常に便利な区切りをもって、彼女の年齢に関しては「たぶん高校生ぐらいだろう」と云う結論で落ち着くことにした。
って言うか一方的な質問はずるいとか言っておきながら、この仕打ちはいかがなものかと思うのだが。
勿論、口になんか出したりしないけど。

最後、現状について。
実家がこの町ではなく、家族と別行動中であり、しかも自分の口から『逃げてきた』とまで言っている。
多分だなんて推測の言葉を挟む余地が無いくらい完璧な、家出少女Yだった。
ちなみにこのYとは彼女の名前であるYUZUHAの頭文字なのだが、この際それはどうだっていい。
問題なのは彼女がどう見ても未成年である事と、家出真っ最中としか思えないような現状におかれている事だった。
いくら暖冬の影響で雪の姿が見えないとは言え、今は立派な一月下旬。
水溜りに氷も張れば空き地に霜も降りるような気温環境の中、帰るべき家に帰れない状況であると云うのは、心身共に非常によろしくないのではないかと僕は思った。
何しろ彼女は10円のパンの耳を買うお金すら持っていなかったのだ、所持金はゼロか限りなくそれに近い数字であると見て間違いない。
だとすれば当然宿泊施設に関してだって手配が済んでいるとは思えないし、辺りが暗くなり始めてもこんな人気の無い場所から動こうとしない以上、誰か知り合いの家に泊めてもらっていると云う可能性も考えにくかった。
だが…

「……なに?」
「なんでも……」

だが、それが判ったからと言って僕に一体何ができると云うのか。
答えは簡単だ、『何もできない』に決まっている。
何らかの事情を抱えて家を飛び出してきた彼女に対するに、僕の両手はあまりに小さくて、僕の心はあまりにも頼りなかった。
宿を手配してあげる金銭的余裕もない。
かと言って彼女を警察に突き出して身柄の保護を依頼し、「良い事をした」と勝手な自己満足に浸れるほど独善的な人間でもない。
そんな僕にできる事など、せめてこうして隣にいて、話を聞いてあげるぐらいが関の山だった。
これが同姓なら家に泊めてあげる事も考慮の一端に据えられるのだろうけど、さすがに年頃の異性に対してその提案をする訳には――

「ね」
「ん?」
「今日、あなたの家に泊めてくれないかしら」
「君は……僕の心が読めるのか?」
「え、と? 何を言ってるのかよく分からないんだけど」

狼狽する僕の態度を見て、怪訝な表情を浮かべる譲葉。
言外に「何を言っているのだコイツは」みたいな目で見られてしまった僕は、悲しい気持ちになりながら彼女の瞳に向かい合った。

「僕の家にって……本気で言ってるのか?」
「私は冗談なんか言わないわ」
「どの口がそんな事を――」
「少なくとも今は本気」

本気、らしい。
確かに、僕を真正面から貫くクリアブラックの瞳には冗談を言っているような雰囲気が欠片も感じられなかったし、状況的にもそんな場面じゃない事は互いに判っているはずである。
しかし本気であれば本気であったでまた、幾許かの問題が浮かび上がってくる事も事実なのであった。
何しろ今のこのご時世、家出少女を家に泊めてあげるだけでも『未成年者略取』なる大業な前科がついてしまうのである。
法律用語で言う所の善意の第三者でいられればまだ良かったのだけど、彼女が家出中であると云う事情を聞いてしまった今となっては、その言い訳もできそうになかった。
いや、そんな社会的な体裁なんかむしろ後付けの理由にしかならない。
問題の本質はもっとずっと単純な所であって、そして単純だからこそ如何ともしがたい物なのであった。

「僕は男だぞ」
「女には見えないわ」
「それに、君は女だ」
「知ってるわ。 それとも確かめたいの?」
「それだよ。 そういう展開に結びつく懸念があるって事を分かった上で、君は僕の家に泊めてくれと言っているのか?」
「ベッドの脇に包丁を置いて寝ることにするから平気よ」
「………」
「本気」

ああ、本気だね。
目がそう言っている。
思わず自宅の出刃包丁の収納場所を確認してしまった僕は、そう言えば今朝に限ってまな板の上に置きっぱなしであった事に気付き、それから彼女に夜這いをかけようとして刺される事が前提となっている自分に思考に気付き、酷く落ち込んだ。

「なんでそんなに落ち込むのよ……この変態」
「安心してくれ、君に手を出せなくなったと知って落ち込んでる訳じゃない」
「何よそれ。 元から私になんか手を出すつもりはなかったってこと?」
「平たく言えば」
「平たい胸には手を出す気も起こらないですって!? 誰の胸が平坦なのよ!」
「言ってないよそんなこと!」

いきなり話題が500マイルほど斜め上方にすっ飛ぶのは、ひょっとしたら彼女の仕様なのだろうか。
だとしたら、誰でもいいからバージョンアップのディスクを持ってきて、彼女の頭に叩き込むようにインストールしてやってくれはしないか。
痛む頭を抱えながら、僕は切実なまでにそう思った。
もしくはSNS(サテライト・ナビゲーション・システム)辺りでなんとかならないものだろうか。
何かこう、クールな感じのHMX-13型みたいな感じで。
意図せずして疑問ではなく反語になってしまう辺りに、僕の疲労と諦観が色濃くにじみ出ている気がした。
何しろ彼女の言動と来たら、僕が今まで言葉を交わしてきたどの女性よりも、いっとう激しくフレキシブルである。
しかも加えて厄介な事に、そのステキな言動を駆使なされるお嬢様はと言えば、見た目で判断する限り『飛び切り可憐で清楚なお嬢様』なのである。
人を外見で判断する事など滅多にしないこの僕をして、「一体このお嬢の何処をどう突付けばこんなセリフが」と思ってしまうくらいの、スーパーエキセントリックなその言動。
そして、相反するその容姿。
あまりに一致しない二つの要素が脳内で絡まりあい、オーバーヒート寸前にまで追い込まれた僕の脳内演算回路は、最終的にある一つの答えを導き出す事で全ての過負荷に終止符を打った。

結論:そんな事もたまにはある

二十数年生きてきた中で、今までにないくらい自分で自分が嫌いになった瞬間だった。

誤解の無いように言っておくが、別に彼女のそれが不快だと言っている訳ではない。
不快だと言う訳ではないのだが、ただえらく疲れるのである。
まったく自慢にはならないがこの橘夾碁、物心ついた時から『予定調和』とか『計画通り』とか言った言葉に心の安寧を求めながら生きてきた人間である。
物事には常に綿密な計画と事前の準備を必要としてきたし、それらが完璧に機能した時などむしろ快感すら覚える。
そんな所が教師からは良い意味で、生徒間では良くも悪くも『優等生』と評されてきた。
僕自身、それでいいと思いながら生きてきた。
だが、多くの小説やドラマ、漫画などでも語られているように、優等生とはえてしてアクシデントに弱いものである。
突発的な事態への対応が苦手だから物事に段取りを求めるのか、段取りに慣れすぎたから不測の事態に対応できないのか。
その辺はニワトリとタマゴのどちらが先かと云う議論に近くなるので割愛するが、とにかく。
物事を定形にはめて安心を抱く僕のような人間にとっては、彼女の存在自体が既にイレギュラーであり。
更にその彼女の言動がイレギュラー要素満載であったときたら、これはもう主導権を握ろうとする方が無謀に過ぎるのではないかと思われた。

「ね、ちょっと」
「……だけどこのまま流されっぱなしと云うのも少し情けないような気が」
「ねえったら!」
「はい! ごめんなさい!」
「べ、別に怒ってなんかないでしょ。 って、そんなこと言ってる場合じゃないわ!」

そう言って急に顔を伏せたかと思えば、声の音量までをもぐっと下げる。
まるで草食の小動物が肉食獣の姿を見た時のような身の縮め方で僕の陰に隠れようとするそれは、圧倒的な怯えの具現化にも思えた。
彼女の隠れ方と相対的に判断して『敵』が居ると思わしき方向に目をやると、そこにいたのは何の変哲も無いサラリーマンのおっさん。
特に体格がいい訳でもなければ目に見える武器を持っている訳でもない、濃紺のスーツにネクタイを締めた、いわゆる普通のサラリーマンであった。
こんな普通のおっさんに何を怯える必要があるのかと、首をかしげたのも束の間。
「そんなジロジロ見るんじゃないわよバカ」なるお叱りと共に頭をがしっと捕まれ、僕の顔は強制的に彼女の方へと向き直らさせれた。
そんでもって開口一番、何の前置きもなしに彼女は――

「ね…抱いて」

そんな事を言い出すもんだから、今度は僕の方が焦る番だった。
さすがに男としての最後の意地で、捕食者を前にした小動物のような態度だけは取りはしなかったが。

「だ、だ、抱いてって?」
「いいから抱いて! 早く!」
「いや、その、いきなり抱いてって言われてもこっちにも心の準備って物が――」
「愚鈍!」

その言葉を最後に、僕の視界から彼女の姿は消え去った。
ただその代わり、とても柔らかでとても温かくてオマケにいい匂いのする物体が、僕の胸の辺りにぼふっと突っ込んできた。
何事かと思って視線を下に向ければ、そこにあったのは彼女の艶やかな黒髪と細すぎる肩のライン。
くぐもった声で「抱き返してよ! できればそのコート丸ごと使って私が隠れるぐらいに!」ってな指示が聞こえてこなければ、僕は自分の胸の中に彼女が居るだなんて状況に気付くのに、あと十数秒はかかっただろうと思われた。
そしてその声がなければ、唐突な行動に驚くばかりだった僕は、『どうして』彼女がそんな行動に出なければいけなかったのかについても気付かなかったのだろうと、深く反省した。

今、彼女は必死である。
他の何を差し置いても『身を隠す』と云うその一点のみにおいて、彼女の行動は極限レベルで必死である。
勿論その理由に関しては僕の知る所ではないし、今この状況で逐一問いただしたりしようとするほど空気の読めない男ではない。
つまり、今この場において僕が得る事を許されている情報はたった一つ。
『彼女は今、迫り来る”何か”から身を隠すことに必死である』と云う、ただそれぐらいの物でしかないのであった。

彼女の言動に合点のいく事など、今の所は一つもない。
ただし不審な点ならば、一山幾らで叩き売りにしてやりたいほど山の様に堆積している。
その上僕と彼女の関係はと言えば、互いに初顔合わせをした瞬間から半日と経過していないときたものだった。
信頼しろと云う方に無理がある。
心を許すなんて馬鹿げているとさえ理性が叫ぶ。
事実、条理を好み不条理を唾棄すべしとして二十年来生きてきた『橘夾碁』は、胸の中に抱いた彼女の存在を断固として認めたがろうとしなかった。
今ここで無条件に彼女を抱き留めてしまうようであれば、それは物心ついた時から培ってきた僕の中の『橘夾碁』を全否定する事に他ならなかった。

――今ならまだ戻れるぜ
理性が呟く。

――面倒事は嫌いだろ
長年連れ添った冷静な思考回路がそう囁く。

納得しかけた。
頷きかけた。
否定する要素なんて、僕が僕である限りは欠片も存在しないと思いかけていた。
何故ならば、『そいつ』の事は僕自身が一番よく知っているはずだったのだから。
『そいつ』が何を考えて次にどんな判断をするかだなんて事は、考えるまでもない普遍的な事柄だったはずなのだから。
損得勘定でしか物事を判断せず。
斜に構えた姿勢から冷めた目付きで世界を眺めて。
いつも心の中では不測の事態に怯え、予定調和を求めてはうろうろと間誤付(まごつ)き、長い物にはグルッグルに巻かれて生きてきた。
価値基準や自己規範と云う二つ名を持った『そいつ』の名前は、橘夾碁。
言うなれば、僕の中の僕。
『そいつ』は、今までずっと優等生だった。
不条理な判断を下した事など、一度だってなかった。
つまらない意地を張る事もなかった。
くだらない感情に流される事もなかった。
いつもいつもつまらなそうな顔付きで、理性に逆らった事なんて今までに一度だってありはしなかったはずなのに――

――ぎゅっ

「……こう、でいいのかな?」
「私が分かる訳ないでしょ、バカ」
「……ごもっとも」

僕は、彼女の事を抱きしめていた。
つい数秒前まで声高らかに存在証明をしていた理性さんは、何時の間にか消え去ってしまっていた。

「愚鈍」とか、今どき耳にしないような言葉で罵られたりしたのに。
今のこの判断は間違いなく、これからの日々に大いなる波乱万丈を引き寄せると判っているのに。
それなのに。
それでも彼女が何かに必死であるならば、僕はその力になってやりたいと思ってしまった訳で。
全くもって不覚ながら、何故だか強くそう思ってしまった訳で。
勝ちか負けかで言うならば、僕は確かにこの瞬間、彼女に負けてしまっていた。
『守りたい』と云う感情を抱いてしまった以上、抗う術なんて何処にも残されていなかった。
僕は言われるがまま、彼女の姿を覆い隠すように、大きく強く抱きしめた。
小さいなと思った事は、生涯口にしないでおこうと心に決めた。
恐らく、正しい判断だった。

僕の胸に顔をぴたりと押し当てている彼女。
その視界は、完全なる闇に違いない。
さて、何かに怯えている状況で自ら視界を閉ざすと云った行動は、行動心理学的には果たしてどう解釈するべきものか。
『敵対者』が刻一刻と迫り来る現状の最中、僕は半ば意識的な逃避として、場違いなほど安穏とした思考に身を委ねていた。

人間が外界から得る情報と云うものは、その八割以上が視覚と云う入手経路を辿って脳に到達する。
これを逆説的に言えば、視界を閉ざすと云うことは外部からの情報をシャットダウンするのに、非常に有効な手段だと言う事になる。
つまり、何かから逃げている時に目を瞑ると云った行為は、そのままの意味で現在の状況に『目を瞑る』と云う事。
もっとはっきり言えば、自らが置かれている状況を無理矢理に全否定しようとする手段に他ならないのではないだろうかと、僕は思った。
無論そんな事をしても状況に何ら変わりはないのだが、少なくとも視界を閉ざした人間にとっての『セカイ』は、完全にその動きを止めている事になる。
ついでに耳も塞げば完璧だ。
昔の偉い人はこう言った。
「我思う、故に我あり」、と。
逆説的に言えば、この世界を構築する何事をも認識しない状況とは、この世界に自らが存在しない事、ひいては死んでいる事とほぼ同義となる。
そして、人が自らを擬似的な死に追いやる背景に関しては、最早論ずるまでもない。
自分を取り巻く何もかもから逃げ出したくて、人は肉体的な死の前に、自らの世界を閉鎖する事で、精神的な自殺を図るのだ。

だが、そこにはある一つの大きな問題点があった。
何もかもから逃げ出そうとして目を瞑ると言った経験は、誰にでもあるだろう。
確かに目を瞑って外界からの情報を遮断する事により、その人間の内的世界は時間停止にも似た状況になるだろう。
だが僕たちは、大人になってしまった僕たちは、脆弱でありながらも賢くなりすぎた、忌むべき愚かな存在である。
何も知らずに視界を閉ざす事を許された時期をとうに通り過ぎてしまった僕たちは、既に逃避する事すら許されない圧倒的な現実の重みを知っている。
『経験』と云う名の残酷な知識は、「目を瞑っても何も変わりはしないのだ」と、瞼を閉ざした僕たちの耳元で高らかに嘲り笑うのだった。

だがそれでも、人が不安から逃れるために目を閉ざす時があるとしたら。
迫ろうとしている危険に対して、無防備な背中を晒す事を許す時があるのだとしたら。
それは、親鳥の胸元で雛鳥が安心した寝姿を見せるように、絶対的な信頼を許した相手の胸の中だけでの事ではないのだろうか。
既知の現実が首筋に冷たい手を差し伸べる事が判っていてもなお、無心に縋りつく事ができる相手が傍に居る時だけなのではないだろうか。
なんともナルシスト全開で独り善がりの思考ながら、僕はこの考えを半ば確信に近い形で胸に抱いていた。
もちろん普段の状況であれば、こんなクソ恥ずかしい仮説なんて毛筋ほどすらも考えたりはしない。
しかし現状はと言えば、あまりにも小さくて華奢な背中を持つ女の娘が、自分に全てを委ねて無防備な姿を晒していると言った有様である。
状況が普通ではないのだから、思考もまた尋常ではいられないだろう。
そんな、誰に使う訳でもない適当な言い訳を用意しながら、僕はそんな事を思ってしまっていたのだった。
まったく、本当にどうかしている。

徐々に近付いてくるサラリーマンの足音に、胸の中の彼女が更にその身を縮こまらせようとする。
しかし既にダウンサイジングの物理的限界にある彼女の姿勢は、何をどうしようとも今より小さくなる事などはなかった。
ただぎゅっと、僕の胸に押し当てられる彼女の存在感が強くなるばかり。
こんなにも必死な彼女に対し、自分にできるただ一つの事が『何もしない』と云う事でしかない現実に、僕の心は一瞬萎えかけた。
だが、その心持ちもまた、刹那の後には覆される。
いや、『覆される』だなんて受動的なものじゃない。
自らの精神力によって僕は、物事の捉え方を強引に捻じ曲げてやったのだ。
『何もできない』のではない。
今この状況で『何もしない』事こそが、僕にできる『覚悟』の証明なのだ。

目を合わせれば気取られる。
身動きを取れば注意を惹く。
今はひたすら気配を消して、動かざることナマケモノの如く。
迫り来る敵に対して表面上とは言え無関心を装う事が、まさかこれほどまでに精神力を要する事だったとは思わなかった。
知らなかった。
知ろうともしなかった。
知ってしまった今だって、できる事なら早急に記憶回路の中から叩き出してしまいたいぐらいだった。
なるほど、これは確かに恐ろしい。
この腕の中に守るべき存在が収まっていなければ、今すぐにでも逃げ出してしまいたくなるくらいである。
『何もしない』と云う覚悟を貫くことに比べれば、不安を取り除くために自由な行動を取れることの方が、幾百倍もマシだった。

声を荒げて威嚇する事ができれば、腕ずくで追い払う事ができれば、走って逃げ出すことができたなら。
たとえ自らの力及ばず事が失敗に終わっても、しかしそこには『力の限り抗った』と云う一種の免罪符が残る。
『何もしないよりはマシだった』と云う、自己弁護と自己満足を足して二で割ったような勝手な理論を展開する事ができる。
そして僕を含めた数多くの意志薄弱な人間にとってそれは、如何ともし難いほど魅力的な『失敗のための大義名分』となるのであった。
極端に言ってしまえば人は、無為な成功よりも意思ある失敗を好む。
そこに自分の意思決定権が存在するのであれば、何の意味も無い失敗すらも、『得る物がある』とか言って正当化してしまえる生き物なのだった。
等と、まるで他人事のようにかく言う僕だって、その例に違う事などありはしない。
現に今だって、何らかの行動を起こしたくてウズウズしている。
これが自分一人だけの状況であったならば、とっくの昔に駐車場に向かって脚力全開Bダッシュしている所だった。
だが、今はそれができない。
否、してはいけない。
何故なら今この場における『失敗』とは、僕の損益とは全く関わりの無いものだからである。

ともすれば矛盾しているかのようにも聞こえたりするだろうが、別に混乱や錯綜などはしていない。
僕の頭脳は普段通り、至って明晰かつ冷静である。
加えて説明する必要があるとすれば、冷静かつ明晰な思考回路はそれにプラスして、壊滅的なまでに自己中心的であると云う事ぐらいである。
つまり僕が許せる失敗と云うのは、その結果の全てが僕にのみ帰結する類の物でしかないのである。

例えばそれが他人に迷惑をかけるとか云ったケースだった場合、その『迷惑』はそのままの意味で僕自身に対して『面倒』として降りかかってくる。
他人に迷惑をかけたくないと思っているのは言わずもがなだが、それ以上に僕はただ、単純に面倒事が嫌いなのである。
自らが抱く罪悪感、誰かに抱かせた不快感、それが及ぼす僕への嫌悪や不信感。
兎角に他人に与えた負の感情の処理と云うものは、難解な事が多いこの世の中でも一等ヘビーな仕事である。
だとすれば僕の様な面倒臭がりがそれを回避しようとしたとしても、そこには何ら不自然な事など存在しない。
10の面倒と100の面倒を比べて後者の方を選択しようだなんてマゾヒストは、自ら山に篭ったりする修験者の類とジーザス・キリストだけで充分なのだと僕は思った。




続く…