笠岡市観光ボランティアらが編集し十月に発売した「笠岡ふるさとガイド」が好評なので読んでみました。笠岡にまつわる多くの話題にあれこれ目を引かれましたが、中でも社会的弱者の救済に力を尽くしてきた歴史に関心を持ちました。
いくつか紹介しますと、僧侶で画家の津田白印(一八六二〜一九四六年)の話が載っています。白印さんは一九〇〇(明治三十三)年、笠岡市内に「甘露育児院」を設け、一九二四年までの二十五年間で延べ四百六十九人の孤児を受け入れました。石井十次と並び称されるべき人物で、「教育あるものはあえて罪過を犯さず」との信念を持ち、自分の絵を売って運営費を工面し、子どもたちに教育を施しました。
一九一四(大正三)年には当時の小田郡医師会長・渡辺元一らが、無料で患者を治療する医療施設「悲眼院」を開きました。「ガイド」では「県下最初の救療事業」と位置付け、岡山や倉敷市、広島県からも患者が訪れたとしています。渡辺は甘露育児院の衛生主任も務めました。
終戦後の一九四九(昭和二十四)年には、金浦中学校に特別支援学級、つまり障害があって個別支援が必要な子どもたちの学級が設けられたとあります。そして「これは県下の公立小中学校にとっても、全国的にも初めてであろう」と解説しています。
「格差社会」や「弱者の切り捨て」が問題となっている昨今ですが、こうした弱い立場の人々に手を差し伸べるという地域の歴史をしっかりと振り返り、語り継ぐことが大切だと思います。
(笠岡支社・河本春男)