業界事情を考える T 2006.2.15
第一部 医療および医療類似行為を考える
第I 医療を考える
第1章 医療とは
〔1〕医療の概要
医療とは「医術で病を治すこと(広辞苑)」です。医師法には、医師の職分とは「医療および保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上および増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保する」ことであると定められています。 医療法によれば、医療は「医療を提供する体制の確保」を図り、「国民の健康の保持に寄与する」ことを目的とするものです。 また医療法では、医療は「医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係」に基づき「医療を受ける者の心身の状況に応じて行われる」ものでなければなりません。 そして医療の内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む「良質かつ適切なもの」でなければなりません。
〔2〕医療を選ぶ権利
まずはじめに基礎知識として、日本の医療制度の概略を見てみたいと思います。 医療は本質的には患者の選択権に委ねられる性質のものです。私たち一人ひとりが、誰にどんな医療を受けるか自由に判断できる基本的人権を保障されています。この権利は国家権力をもってしても奪うことができません。医療を自由に選べる権利を持つ人々がいる限り、その療法が法的な医療制度の中にあろうとなかろうと、人々が満足し納得する技能を持つ療法が生き残っていくことは自然の道理であり今後も変わることはありません。
〔3〕医療は患者の利益を優先
患者や顧客が医療業界に求めているのは、。可及的に速やかな苦痛の除去や健康回復にあります。医療制度は、いわゆる健康に関する社会の福祉制度を保障するための社会政策の一環です。 医師の行う医療行為であっても、それが患者の期待や信頼に応えられない不得意分野であれば、いつまでも患者を手放さないでいるということは懸命な態度ではありません。もし、アプロ−チに限界があるのであれば、速やかに他の得意分野の治療家に委ねることが患者の利益になる場合もあります。これは、資格制度や既得権益の問題ではなく、ましてプライドの問題でもありません。まぎれもなく「患者の利益」の問題であるといえます。
第2章 「医療の担い手」を考える
〔1〕国民のための医療とは
問題は、素人である一般の人々には専門的な医学知識がなく、この選択を誤る危険性があることです。国は国民がこのような危険を避けられるように、公共の福祉の観点から医療制度を法律で定めています。ただし、この内容は、政治に関与できる圧力を持つに至った療法を個別に認可してきたもので、将来の医療業界の行方を見据えた整合性はありません。医療の従事者を認可するにとどまり、療法家一人ひとりの技能を認定したり、治療効果を保障をしているものではありません。単に、医療に従事することができる人を示しているだけです。本来ならば個人一人ひとりの技能を認定して、誰の目にもわかりやすくすれば、医療事故が格段に減少していたことは明らかです。
〔2〕医師の医行為とは
医師が業務独占できる「医行為」とは「医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ、人体に危害を及ぼし、または及ぼす恐れのある行為をいう」と判例により定義されています。この判断方法は「行為の態様、作用に着目して判断する」もので「施術の実態が医業内容に該当すれば業務独占規定に抵触する」ものになります。 医師の手で行う医行為は、犯罪等の違法行為でないかぎり、適法行為であることが推定解釈されてます。この医業の典型例は「外科手術、注射、投薬、診断、放射線照射、採決など」です。
〔3〕国家資格は技能や専門知識を保証しない
国民の健康増進と公共の福祉のために法制化された医療の国家資格制度は、この目的からすれば、その根幹となるものは客観的に水準化された「技能」や「専門知識」でなければなりません。しかし、実際は個々の資格の内容は「所定の修養カリキュラムと手続きを定めて」資格付与の条件とするものであり、国民が期待する技能の水準を示したり安全を保障するものではありません。誰に医療を受けても安心だという保障はない、ということを充分に理解し、国民一人ひとりが自分の症状に合わせて、最適な医療を選ばなければならない自己責任があります。
第3章 医療の問題点
〔1〕化学薬品の功罪
化学薬品には、その毒性を治療に利用している特性により、漢方薬に比較して、より早くより大きな効果が期待できます。ゆえに、これを扱うには厳格な匙加減が要求され、医師や薬剤師の資格が必要となります。 最近、ある免疫学の専門家の著書に深い感銘を受けました。まさにこの匙加減により「医療機関は人々を病気や苦しみから救っているが、同時に、副作用により病気をつくることもある」のです。医療の現場や医療関係者なら誰でも思い当たる周知の事実ですが、これを医師の立場で指摘することはとても勇気あることだと思います。
〔2〕投薬問題(医師会と薬剤師会の微妙な関係)
投薬問題について平成14年7月の読売新聞の記事を紹介します。東京都港区の薬剤師会の会長が「介護が必要な高齢者らの一割強は、症状を悪化させる不適切な投薬を受けている」という主旨の論文を専門誌に発表しました。これに対して、医師会が反発し、強い圧力をかけられて会長職を辞任するという事態になりました。この医師会の強い反発は、「薬剤師が守秘義務に違反し、かつ、医師だけが持つ固有の既得権益である自由裁量権(診断権)を侵した」ということに向けられていました。しかし、この辞任劇は業務上で密接な関係を持つ医師と薬剤師の紛争が拡大することは避けなければならないこと、当事者間では問題点の白黒を明白にする意思がないことなどから、紛争の拡大をこれ以上は望まないというという現実的な解決方法で決着しました。 この問題の決着の仕方は、医師と薬剤師の日常業務の密接な関わりから、面倒なことにならないように、各関係者のさまざまな配慮があったと推測できます。しかしこの問題の主役は患者です。薬剤師の守秘義務違反や個人情報保護の問題、また医師の裁量権の侵害問題にすり替え過ぎたた感があります。本質的には、薬学・生理学のプロでなければならない、医師の能力の問題であり、患者の権利の侵害の問題と捉えるべきでした。社会福祉や患者の人権の向上のためには、この問題を先送りするかたちで決着をしたことはとても残念でした。
〔3〕投薬問題(テレビ特番)
2005年3月25日のテレビ朝日の『緊急3時間放送“ニッポンが危ない”』の番組の中で、出席した医師10数名(10年以上の経験者)の薬学の基礎知識をみるため「飲み合わせが悪い薬」がどれだけ解るか、という問題が出題されました。その結果、この平均点が20数点(100点が満点)しかなかったという事実が明かされました。これらの医師の言い訳として「薬の数が多い上に、名前の似ているものが多く迷ってしまった」というものがありましたが、もちろん、これは言い訳にはなりません。このようなことでは、医師の診断権や裁量権が泣くことになる、と思ったのは私だけではないと思います。
〔4〕過剰診療と不当請求の支払拒否
また、平成14年8月27日の読売新聞は、厚生労働省が「病院など医療機関が健康保険組合など保険者に請求した2001年度の診療報酬のうち、約2,122万件、金額にして、約2,000億円は不要な投薬や検査などに使われたとして支払いを拒否された」とする初の調査結果を公表したという記事が掲載されました。この記事は医療機関の過剰投薬や検査漬けの実態を明らかにしたものです。不当な請求は支払い拒否できる、という事実を示したことは大変に有意義なことです。
第4章 医療を選ぶ
〔1〕医師の評価は治療技能と経験そして人格と見識
現代医学は「解剖学に基づく外科手術」「細菌学に基づく抗生物質の開発と利用」「免疫学に基づく伝染病の予防」に他の医療の追随を許さない優れた業績をもっています。現代医学は人々の健康に対する不安を和らげ、信頼を醸成する大きな貢献を果たしてきました。今後もさらに発展を遂げ、社会に多大な貢献をしていくことは間違いありません。 しかし、現代医学がどれだけ優れた特性を持っていても、医療知識や医療技能は医師一人ひとりの、個人の努力と研鑚そして経験の積み上げでしかありません。これができる者だけが評価を受け、これができない者が評価を受けるということはありません。
〔2〕医療の選択権とは医師を選ぶこと
現代医学があらゆる症状に万能で適切な治療が可能なわけではありません。得意分野があれば不得意分野もあります。医師資格があっても、その治療内容を一般の人々が知ったときに、このレベルで患者が求める医療といえるのかと評価されるようでは資格が泣くことになります。医師の治療であっても、人々の医療選択権の対象から逃れることができない、と考えることはごく普通の道理なのです。
〔3〕医師個人には大きな能力差がある
例えば、外科手術、なかでも現代医学のイメ―ジを代表する高度先進医療や大外科手術などは、高度の技術を持つ医療スタッフと質・量ともに十分な施設と設備が整っていることを前提としたうえで、執刀医が具体的な数多くの症例数を持ち、かつ、高い成功率をもっていることが必要です。 もし、これらの高度な外科手術を受ける場合には、執刀医が本物の専門医であるかどうか確認することが必要です。相手に医師資格があるからといって、盲目的な信頼を寄せて、簡単に生命を委ねることは賢明な態度ではありません。実は、専門の外科医であれば、これからやろうとしている外科手術が何であれ、自分自身の能力が十分なものであるかどうかを十分に認識しています。 いまどき、医学の進歩のためにという古典的な大義名文を掲げて、他人の生命を、できもしない外科手術を冒険的にチャレンジする態度は許されません。この大義名文は、当該疾病が逼迫した病状にあり、かつ、外科手術の緊急性が高いにもかかわらず、他に方法がない場合等に限局してやむを得ず用いるものです。医師個人の興味や冒険心、いわんや功名心のためにみだりに用いることなどあってはならないことです。このような場合には、医師個人の医療技能が世界水準の治療能力と比較して、どの程度のものであるかどうかが問題となります。 もし、医師個人の治療経験が足りなければ、充分な経験を積んだ他の医師に替わるか,高い成功率を持つ他の医療機関を紹介することが賢明な態度です。 患者自身のかけがえのない生命や健康を法的に過分な身分保障を受ける医師に委ねるからには、医師個人の具体症例数や成功率をお聞きすることは決して失礼なことではありません。
〔4〕医師の治療能力を知ること
このような特別な外科手術でなく、ごく一般的な手術でも医師の技能が未熟であれば危険性は決して低いものではありません。信頼される、外科医を育成するシステムがあるのかどうか疑いたくなる事例を多くの人が体験したり、見たり聞いたりしたことがあると思います。医師免許さえあれば誰でもいいんだ、といって医師の募集をしている病院等があるのは事実です。医師資格さえあれば健康保険が適用される治療行為が堂々とできるからでしょう。
〔5〕医師の信頼度は治療能力の力量できまる
驚くべきことに、一般人や患者の中には、病院の建物や什器備品、設備が立派かどうかで、その中の医師も高い能力があると思っているフシがしばしばあります。医療設備が充実していることは大変結構なことですが、実際に診察や治療をするのは、その中の一人の医師です。重要なことは一人の担当医の個人能力です。この当たりはずれが問題なのです。 医師資格のみで病気が治せるわけではありません。、たくさんの具体症例を経験した医師の治療技能のみが病気に立ち向かえる資格といえるのです。
〔6〕医師の治療能力(日本麻酔科学会の調査)
2005年5月26日読売新聞に、手術中の大量出血の45%が外科医のミスであるとする記事が掲載されました。この日本麻酔科学会の調査は、2003年暮れから2004年初めにかけて、設備やスタッフが充実し、安全な麻酔措置ができると日本麻酔科学会が認定した782病院の麻酔科医に書面を送付する方法で実施されたものです。 これによると、2003年1月から12月の1年間に危機的な大量出血が541件発生し、166人が出血が原因で手術中か、その直後に死亡したということです。その原因を探ったところ、外科医の判断や技術に問題があったとする回答が、有効回答数476件のうち216件(45%)ありました。手術の難易度や血液供給システムの不備など複数の要因が考えられますが、より詳細な検証に取り組む必要がある、とのことです。
〔7〕医療機関の治療実績の情報公開「中間報告」
医療機関の治療実績の情報公開について、政府の規制改革・民間開放推進会議が2005年7月14日に次のような原案を明かしました。「患者の死亡率や治癒率、再入院率など、医療機関を選ぶ目安となる治療実績の情報公開を2005年度中に医療機関に義務化して公開させる必要があると提唱しました。このため、医療法の一部改正が必要となりますが、公開に関する指針の策定と、情報を蓄積する仕組みを提唱しました。 社会保障審議会(厚生労働大臣の諮問機関)の医療部会でも治療実績を広告できる新制度を検討していますが、実績の算定方法に関して議論がまとまるのを待っている状況です。(2005年7月15日読売新聞の記事) このように、もっぱら医師の自由裁量に委ねられてきた医療が、このままでは危ないと考える人々が増加してきて、医療を変えたいという社会的な風潮になってきました。日本の医療法規には元々問題のあるものがたくさん含まれています。
〔8〕高度医療の「特定機能病院」の信頼失墜
軽症患者が大病院に集中することを避け、病院の規模や機能に応じた診療体制を整えることを目的として、1992年に制度化された特定機能病院の信頼が失墜しています。この制度は、高度な医療を提供する病院として診療報酬上の優遇を公的に認めていますが、現在、原則として、すべての大学病院の本院が承認されています。しかし、執刀医の技量不足が原因となる患者の死亡が複数の大学病院で相次ぎ、承認が取り消され信頼が失墜していました。 これについて、厚生労働省社会保障審議会医療部会は7月28日、特定機能病院だからといって、必ずしも高度な医療を提供しているとは限らないとして、来年の通常国会でこの制度の医療法を改正したいという意見を取りまとめました。新制度は、手術実績や先進医療への取り組み状況、医療ミス防止策の徹底などを考慮し、新たに承認条件を設ける方向で協議に入るということです。(2005年7月28日読売新聞)
〔9〕信頼されない日本の専門医制度
ところで専門医資格について、2005年4月8日の読売新聞に外科医の専門医資格の取り消しが問題となった未熟な医師の外科手術の失敗による死亡事故の防止に関して次のような解説記事が掲載されました。 「未熟で知識も乏しい医師が専門医として認定され、大学病院の中心医師としてメスを振るっている。日本の専門医制度は甘すぎる。各学会が認定する専門医資格の基準はそれぞれ違うものである。実技試験を行う学会は少なく、研修会に出席すれば比較的簡単に取得できる専門医資格が多すぎる」。これに対して、ある学会の幹部は「厳しい基準にすれば、レベルに達しない会員の不興を買う。学会は会費頼みの組織である以上、ある程度の人数が取れる資格にせざるを得ない。」と胸のうちを明かしました。その結果、全国の医師数26万人に対し、延べ30万人がなんらかの専門医資格を持つ粗製乱造になっているのが実態です。 専門医制度ができた目的は、。患者に対して質の高い医療を提供するためのものです。学会の論理を優先して安易に専門医の看板を与え、結果として、患者の安全を確保できないのでは本末転倒もはなはだしい、という内容です。
〔10〕日本の専門医制度に改革の動きがある
2005年8月19日の読売新聞に、日本医学会と日本医師会が昨年11月に発足した専門医に関する検討会で、専門医の実技試験や定員制・年齢制限などの改革により、専門医制度の改革を協議したという記事が掲載されました。医師の既得権に触れる問題があるなかで、画期的なことのように思えます。 日本胸部外科学会など三学会でつくる「心臓血管外科専門医認定機構」は今年から手術の実技を認定審査に加えることを決定しました。同機構の専門医は約1600人ですが、本来は執刀医として20件以上の手術経験があることに加え、筆記試験に合格すれば認定されることになっていましたが、実際には手術の技術評価はなく、未熟な医師が専門医資格を得るケースがありました。現在、120種類ある専門医のうち、外科手術の実技試験を認定しているのは10学会程度です。
〔11〕日本内視鏡外科学会の技術審査の合格率。そして危険な手術例
日本内視鏡外科学会が今年行った消化器・一般外科の技術認定審査の実例では、受験した医師数422人の、合格率は53%でした。 実際の手術例の実例を2005年8月19日の読売新聞の掲載記事から紹介します。「直腸がんになった茨城県つくば市のT.Zさん(68)は『傷が小さく、回復も早い。99%安全です』と医師に言われ、腹腔鏡手術を受けた。ところが腹膜炎を起こしたうえ、排便や性機能に重い障害が残った。腹膜炎の原因は、手術器具で誤って腸壁に穴が開いたためと見られている。手術を担当した三人の医師は、いずれも日本外科学会などの専門医資格を持ちながら、腹腔鏡手術での直腸切除の経験がないか1件だけだった。事故の翌年の2000年、『手術ミス』と病院を提訴し係争中だ。」 また読売新聞が昨年末、全国の病院に実施した調査でも、胃がんの腹腔鏡手術を行った311施設のうち、年間手術件数が10件に満たない施設が70%を占めた、という結果がでています。
〔12〕医療ミス 医療ミスの防止策について、2005年6月8日の読売新聞に、厚生労働省の医療安全対策検討会議が、医師や看護師の研修に医療事故の被害者を招くなど、国民・患者の主体的な参加を医療安全対策の新たな柱とする報告書をまとめました。これまでタブ−視されてきた被害者の声を取り入れることで、医療者の安全意識を高め、患者の理解や協力を促したいとする試みです。これは縦割り組織の病院では、悲劇から学ぶ姿勢も乏しく、医療安全の当事者意識が芽生えにくい状況が続いていることを踏まえて取り組もうとするものです。 医師の選択は、患者にとってはとても難しい問題です。医師の当たりはずれにより、生命を失い、健康を失うことがあるのです。
〔13〕医療事故の本質
医療事故の本質的な原因は、施術者の技量の問題であり、療法の問題ではありません。医師であろうと、医療類似行為者であろうと、経験未熟な者や技能未熟な者は事故を起こします。事故は不注意や予見不足により起きるものです。予測不能の状態により起こったなどという稀な事例がしばしば発生してはなりません。特に患者や顧客との信頼関係がない場合は事故発生率が高くなる傾向性があります。
第5章 医療行政を考える
〔1〕医療制度には欠陥がある
制度とは、簡単にいえば、その業務を行うことに関して法律の定めがあるかどうかということです。医療に関する法律は、医療従事者の要件を定めるのみで、業務の定義、業務の内容や範囲を定めていません。法律が将来の医療を見通して、すべてを網羅するなどということは不可能です。せいぜい、その時代の政治的なニーズに応えるのが精一杯なのです。 このため有資格者は、資格に付随する既得権を拡大解釈する傾向性があります。できもしない技法やテクニックでも自分の業務内容であると思い込み、新規参入者を排除しようとする笑えない事実があります。理由は簡単です。自分の業務が侵害を受けたと思い込む被害者意識を持つ体質に原因があるのです。 現代医学は守備範囲が広く、専門性も多岐にわたります。、、一人の有能な医師が何でもできると考える人はほとんどいない、と思います。しかし医師資格があれば、何でもできるのです。すべての治療行為は医師の正当行為です。不幸の結果は患者に転嫁されてきたケースが少なくないことは、関係者なら誰でも知っている事実です。
〔2〕日本の医療行政の特徴
いつも不思議に思うことがあります。日本の医療機関が患者に投与している「薬」にも、市販の薬にも重要な注意書きとして「用法」「用量」の記載がありますが、「服用期間」については表示がまったくありません。国に「服用期間」について、行政指導する意思がないのは不思議です。これは欧米の医療先進国が服用期間の明示を義務化していることと比較すればとても不思議なことです。一般人の感覚では疑問を持つことが当然です。欧米の政府は、まず国民の顔を見ながら医療業界との調整を図っています。日本の医療行政は長年にわたり医師会や製薬会社の顔しか見てきませんでした。これが日本の医療行政の特徴です。
〔3〕医療制度は誰のためにあるか
この「薬」の大半は、人類の智恵が生んだ「化学薬品」です。化学薬品はさまざまな物質から科学的に抽出した、いわゆる毒性を薬効成分として組み合わせて精製したものです。これに救われた多くの人々がいますが、そうでない人々も少なからず存在しています。化学薬品は、その性質上、本来の目的である主作用ばかりでなく、不本意な「副作用」をも伴います。服用期間はこの副作用が軽い安全な期間の目印となるものです。この期間を超えれば、本来の目的とする主作用の効果よりも副作用のほうが強くなるので、飲めば飲むほど毒性が勝ることを意味しています。医療の自由裁量権を持つ一人ひとりの医師の処方箋によって、いつまでも化学薬品が投与できる医療制度をこのまま放置すれば、誰のための医療制度なのか分からなくなります。
〔4〕医療行政が健康保険の破綻を招く
医療行政の特質をいえば、国民の顔を見ながら医療行政が行われている、という現象は未だかつてありませんでした。医療行政は、医師会を中心とした業者団体(医療を施す側)に対する既得権の利害調整にありました。政治圧力の強い医師会が一人勝ちする独壇場で、医師に医療のすべてを委ねるかたちで行われてきました。行政が国民の福祉向上のために医師会と対決して、説き伏せたという歴史はまったくありません。国民皆保制度に基づく国民健康保険制度はこの延長戦上にあって奪い合いのパイとなってきました。医療の自由裁量権を持つ一人ひとりの医師の処方箋によって、世界トップクラスの大量の化学薬品が患者に投与され続けるなかで、今、健康保険は破綻の危機を迎えています。
〔5〕医師会に有利な診療報酬を改定する動きがある
医療行為の単価となる診療報酬を決める中央社会保険医療協議会(中医協)の改革を検討してきた厚生労働省の「中医協の在り方に関する有識者会議」は、2005年7月20日、@診療報酬の改定率決定についての中医協の権限を縮小する。A中立的な立場の「公益委員」を増やし、、患者の声を中医協に反映しやすくする、ことなどを柱とする改定案を決めました。 これは従来より問題視されていた日本医師会中心の委員構成を見直し、患者の声を医療費の決定過程に反映する仕組みをつくろうとする改革案であり、中医協が診療報酬点数の設定を通じて医療政策を医師会に有利に誘導してきた、という批判の現れです。なお、中医協に代わって、診療報酬の改定に関する基本的な医療政策の審議を行う場として、社会保障審議会の医療保険部会や医療部会が挙げられています。(2005年7月21日読売新聞)
〔6〕医師国家試験には医師の既得権が強く干渉する
医師資格を認定する医師国家試験について疑問があります。厚生労働省医事課に確認したところ、医学部卒業予定者いわゆる現役の合格率は95%とのことでした。外国の医学部卒業者、そのほとんどは中国の医学部卒業者ですが、日本の大学でないので、予備試験を受けて合格しなければ、医師国家試験(本試験)を受験できない仕組みになっています。この予備試験の受験者が毎年30人前後あり、その合格者が5%ということでした。つまり、毎年1名程度しか合格できないということでした。とても不思議に感じました。中国の医学部は、日本の医学部より修業年数が1年短く(まもなく中国も6年制に移行予定)、科目数が若干少ないという違いがあります。しかし、中国の医学部が日本の医学部と比較し格段劣っているとは聞いたことがありません。卒業するのも楽ではないといいます。受験生は全員日本人で語学力に問題もありません。これで合格率の差が90%も違うものだろうか。予備試験の合格ラインは本試験に比較して特別仕様のハ―ドルで運用されていると考えられています。
〔7〕このままでいいのか医師国家試験
一般的に国民に広く知られている超難関の国家試験といえば、司法試験や公認会計士試験が有名です。 世間ではこれと同等か、むしろそれ以上の評価を受けている医師国家試験ですが、その既得権から受ける恩恵の大きさを比較すれば、その中でも圧倒的に有利な魅力があるといわれています。これらの資格者を養成する各学部の合格率・合格者数を比較してみれば、圧倒的に医学部が有利です。法学部や商学部の学生は数パ―セントの人しか司法試験や公認会計士試験に合格できません。これは厳しい実力試験といえます。 法学部や商学部を持つ大学は数百校もありますが、大半の大学が唯一人の合格者さえだしていないのが実態です。これは大学間に歴然とした格差があることを示しています。医学部のみ大学間の格差が問題にならないのはとても不思議です。これと比較すれば医師国家試験は受験者にとても甘い制度だ、という見方があります。現役受験者の95%が合格する医師国家試験の仕組み、選考方法や運用方法というものがどうなっているのかとても興味があります。人の生命を委ねなければならない医師の資格がどの程度のものなのか、誰でも知りたくなります。普通の感覚では、この制度は説得力がない制度だと思います。
〔8〕日本は医療先進国か後進国か
しかしここには日本独自の資格制度の信頼を損なう愁うべき価値観があります。資格の中身は「その医療行為を行うに相応しい医学知識と十分な経験を積んだ熟練の技能」であるべきです。 医師資格があるからといって、できもしない治療を行って医療事故を起こした場合は何らの責任軽減は必要なし、と考えるのが世界水準の欧米の医療のまともな見識です。 患者の立場からは、充分な経験を積み信頼の置ける技量の無い医師に、自分の命を委ねることはできないのは当然です。医師の冒険は、患者に対する充分な説明と納得のうえで行うべきです。もしこれを怠れば犯罪行為です。 日本の医療制度のように医療行為のすべてを医師に委ねるという政策をとる国は、欧米の医療先進国にはありません。医療技能は数千種もの膨大な量があり、どれにも精通している医師が実在するはずもありません。実際に人々の病気や心身の不調は無数にあるわけですから、これに対応できるだけの医療技能が必要となることは自然の理です。国民の健康に対して本当に責任を感じる医療行政であるならば、医療の多様化は避けられるものではありません。これを放置したり、禁止しようとする政策を続ければ行政が自らの存在価値を否定することになります。
第6章 医療の多様化を考える
〔1〕医師の既得権が医療制度の改革を妨げる
明治7年の医制の改革により、日本の医療制度はいわゆる西洋医学の「医師」が中心です。現在の法秩序の下でも、「医師に医行為のすべてを委ねる」のが医療制度の根幹です。医業は医師の独占業務領域であり、医師は国家によって大きな既得権を与えられています。そしてこの既得権を守るために、その他の「医療類似行為者」の新規参入には断固とした拒否反応を示してきました。欧米であれば典型的な独占禁止法違反です。
〔2〕医療行為のすべてを医師ができるか
現行の日本の医療制度の中では、医療行為のすべてを医師に委ねるということが基本原則です。しかし社会情勢の変化により、はり・きゅう・あんまマッサージ指圧・柔道整復などの医療類似行為の各資格ができました。これらは、医師が日常の業務として行ってこなかった療法です。この意味では事実上、医師の既得権を侵害するものではないと一般的に考えられています。 では、整体・カイロはどの資格の既得権者に属するのでしようか。実は、整体・カイロは、どの既得権者の業務領域のものでもありません。既存の法律が認識してきた療法の概念とは異なるものです。つまり各法律が予定していなかった医療カテゴリーの概念です。 私たちが日常の業務としている整体・カイロの手技療法を医師の手で行えば、世論は大歓迎するでしょう。 しかし、この療法は手のテクニックの熟練を要する上に、一人当たりの施術時間が比較的にながく手間ヒマがかかります。かりに、新しい施術システムを提案したとしても、顧客は今のやり方と比較して、著しくサ−ビスが低下したと受けとるでしょう。また医師がこの技能を取得するとしても、手を挙げる医師はほとんどいないと思います。先にあるのは著しい業務効率の低下でしかないからです。 この施術は、大量のアルバイトを使って流れ作業で対応できるものではありません。必ず、即効性が目に見えないと支持されないのです。顧客が望む対応ができて、満足させうる者は熟練の術者のみです。今の医療機関のシステムでは対応できないでしょう。 いわゆる労多くして利益が少ない、というマイナス要素があります。この手技療法は医療機関の経営を圧迫することは確実であり、現行の保健医療システムでは実現の見込みはないでしょう。むしろ、医療機関としては、費用と効果の経営判断からみれば、いわゆる整形外科的処置を続けられる今の状態のほうが効率が良いといえるのではないでしょううか。
〔3〕医療制度は国民の福祉にかなう変革が求められている
医療制度は、本来的には何が国民の福祉にかなうものであるか、再検討すべき段階にきていると思います。例えば米国のように国民投票で国民の信を問うのも一つの解決策ですが、政府が国民を信頼しないかぎり、このような方法は取るはずもありません。 結局は、国民一人ひとりが受けたい療法を自分の意思で選択している現状の推移を見守るほかないといえます。
〔4〕医療制度はいずれ国際水準化に向かう
日本が医療の先進国を目指すのであれば、その医療制度のあるべき姿は、資格がすべての判断基準となるのではなく、「何がどの程度できるのか」を基準にすべき段階にきていると思います。医師も厳しい国際水準に基づく「専門医制度」に移行して行かなければ国民の信頼をつなぎ留めることが難しくなる時代がすぐそこまできていることは間違いありません。
〔5〕医療の自由化と多様化
現代の医療は自由化と多様化を求められています。医師を中心とする医療の独占システムのみでは、もはや国民の信頼をつなぎ留めることはできなくなってきています。患者本位の医療体制の見直しと。医療システムの再構築が求められています。保険制度の破綻が明らかになるにつれて、医療の自由化と多様化は避けられないものとなるでしょう。
第U 医療類似行為を考える
第1章 医療類似行為とは
〔1〕法制化された療法
医療類似行為の各資格名称は「あんまマッサ―ジ指圧師」「はり師」「きゅう師」「柔道整復師」の4つです。 医師の行う医療行為が医療の正系の制度であるのに対し、「あんまマッサ―ジ指圧と柔道整復」の各資格は社会政策の一環として立法化された傍系の制度です。これは医療行為とはいえないが、分類のうえでは医療の周辺に置くことになるので、医療類似行為といわれています。 ちなみに、カイロプラクティックは、欧米の法制化された国々では、正当な医療行為です。日本で各種療法として分類されるのは未法制のまま置かれているからです。
〔2〕医療類似行為のさまざまな生い立ち
いわゆる医療類似行為である「あんまマッサ―ジ指圧師、はり師、きゅう師および柔道整復師法」は業務範囲の制限を前提として、医師会の消極的な同意の中で法制化を実現できたものであり、傍系の制度にすぎません。それぞれに法制化の請願運動を行って制度として認められた異なる歴史的な背景をもっています。 明治44年に成立した旧法「あんまマッサ―ジ指圧師、はり師、きゅう師法(昭和22年改正)は、視覚障害者に対する社会的な同情を抜きにしては語ることができません。 大正9年に成立した旧法「柔道整復師(昭和45年改正)は、警察など取り締まり機関や行政機関に隠然たる影響力を持つ全国組織の柔道団体の圧力なしには、医師会の消極的な同意を得ることはありませんでした。 しかし立法が成立してしまえば、ここに、あらたな既得権が発生します。
第2章 業務範囲を考える
〔1〕資格には業務の許容範囲が伴う
また有資格者であっても、業務範囲を越えた未熟なテクニックで事故を起こせば責任範囲は軽減されないと考えることはまともな感覚です。例えば、カイロプラクティックは独自の理論体系と検査法をもつ特別な資格制度の上にある国際水準の医療制度であるから、あんまマッサ―ジ指圧師、はり師、きゅう師、および柔道整復師がこのテクニックで事故を起こした場合は、損害賠償責任の範囲については何らの軽減をすべきでないことは当然です。
〔2〕業務範囲を越えたものは違反行為
医療類似行為の各法律は業務範囲やどんな技法が保護されているのか明確にしていません。 業務範囲のない資格などというものが存在するはずはありません。その資格がどのような業務の定義と内容を持つものか明らかでない場合は、法律に定めがないということになるので、裁判所の判断を受けるか、法律を改正する手続きが必要です。 ところが医療類似行為の資格者は、それぞれの業務範囲をよく理解できていないように思います。それぞれの資格者が実際に行っている施術内容は、他の資格の領域に入り込んでいるように思います。業務領域を越えた施術は違反行為です。資格があれば何をやってもいい、というものではありません。各資格者は、その資格が有効な範囲内の業務に限定した仕事をしてほしいものです。
〔3〕無知や思い込みによる業務範囲の逸脱
健康保険の適用が認められる柔道整復師の業務範囲は四肢の関節の後遺障害に限定されていますが、日常的に、首・肩・背中・腰などの体幹に対して施術を行っていることは広く知られた事実です。その中には、本来の業務は競争力がないからか、ほとんどの施術内容が「ほぐし」や整体・カイロに切り替えて繁盛している整骨院が目立っています。本来の業務領域はほとんどない状態のところもあり、堂々と整体・カイロの看板を掲げている整骨院や接骨院が多くなりました。 あんまマッサ―ジ指圧師のなかには、自分達は有資格者だから整体カイロは自分達の業務範囲だといって、あたかも、軽トラックに大型バスを積み込もうとする無知の者までいます。医療類似行為の立法の趣旨や当時の日本の手技内容から類推解釈すれば、カイロ療法がこれらの療法に含まれないことは当然です。 日本ではカイロが未法制のままに置かれているからといって、勝手に医療類似行為者の既得権の中に入れようとすることなどあってはならないことです。
第3章 業務の侵害を考える
〔1〕業務の侵害とは何か
あんまマッサ―ジ指圧師の業務領域を各種療法が侵害している状況があるのではないか、ということが問題になります。しかし、実態からみれば、一日の顧客受付数が多く、しかも健康保険の対応ができる柔道整復師の整骨院や接骨院がもっとも多いはずだ、と業界ではいわれています。カイロ院や整体院では、あんまマッサ―ジ指圧師の業務領域の手技にはほとんど興味を持ちません。技法が違いすぎるからです。 各種療法の施術院は小規模で1日の受付数が一桁の零細なところばかりです。無資格だから犯人に違いないなどと魔女狩りをしているようでは世間の同情を失うことになりかねません。資格がどうだこうだといってみても顧客の選択権には勝てるはずもありません。
〔2〕整体と「あんまマッサ―ジ指圧」との違い
整体と「あんまマッサ―ジ指圧」との違いを考えてみます。あんまマッサ―ジ指圧は、明治初期に法制化され名称が統一されたものですが、「あんま・鍼(はり)・灸(きゅう)」は視覚障害者の生業として旧幕藩体制の下でも認められていた技法です。その手技の特徴は「指、主として母指の押圧による軟部組織のほぐし行為」や「はり・きゅう」のツボ療法にあります。明治新政府も、この系譜の保護の必要性を認め、この考えを踏襲して医師の非難にさらされないように法制化しました。 この「あんまマッサ―ジ指圧」の資格制度は、本来は視覚障害者の生業を保護するためのものでしたが、法制化されてしまえば、法の下の平等の原則によって、健常者が大量に参入することになりました。そこで当然のこととして合格者の何割かは視覚障害者に優先枠を与える運用がなされています。健常者の「あんまマッサ―ジ指圧師」の方々が、視覚障害者に対する社会的同情を全面的に前に出して、各種療法者が顧客を奪っていると非難し続けることは、自己矛盾そのものではないでしょうか。
〔3〕マッサ―ジとは
「マッサ―ジ」は西洋の手技の概念ですが、明治初期にはあんま・指圧と同じようなものとして扱われるようになったものです。「マッサ―ジ」について、今年、新たな展開がありました。神奈川県警の照会に対して、厚生労働省は、マッサ―ジの定義を「体重をかけ、対象者が痛みを感じる強さで行う行為」と回答をしました。 マッサ―ジ(massage)とは、フランス語やアラビヤ語に起源を持つ概念massa(手で人をやさしく扱う)という語にageがついて、「手で人をやさしく扱う行為」すなわち「もみ療治」という意味を持つ概念です。これが英語化され、外来語として日本語化されてきたもので、いわゆる西洋あんまと日本語訳されてきた概念です。広辞苑によれば、「手または特殊な器械を用いて体を擦り、揉み、叩くなどして行う治療法。血行をよくし、疲労を去り、筋肉の機能を高め神経の興奮をしずめるのに効果がある」とあります。私達が普通に理解しているマッサ―ジとはまさにこの概念のことです。厚生労働省のいう「体重をかけ、対象者が痛みを感じる強さで行う行為」という概念はマッサ―ジが本来的に持っている概念ではありません。この定義は意図的に曲げた牽強付会の強引な定義というべきものです。
〔4〕この定義は「後だしジャンケン」のような後味の悪さが残る
この定義には、これによって既得権の領域を意図的に広げようとするマッサ―ジ業界の政治的な圧力が見えます。視覚障害者に対する社会的同情を意図的にすり替えたマッサ―ジ業者の請願を無批判に受け入れたものであり、見識のない定義です。この定義の使い方次第では、整体がマッサ―ジ師の既得権を侵害しているという理論的な根拠を与えることになります。医療論としても法律論としても、この定義は支持できません。具体的な裁判事例を通じた判例を待って再度の検討を加える必要があります。
〔5〕マッサ―ジは法制化されていても定義はない
また法制化され既得権者が存在していながら、今まで法律要件の要素を決定する定義が欠如したまま放置されてきたということは信じられないことです。「マッサ―ジ」違反の裁判事例がなかったか、事実認定を争うことなく罰金刑を受け入れた軽微な事案しかなかったのでしょうか。なぜならば、定義の無い療法が裁判で保護を求めるなどということは考えられないからです。
〔6〕この定義は説得力なく紛争を引き起こす
顧客の主観的要素である「対象者が痛みを感じる強さ」を定義としたことには疑問があります。しかし、顧客が痛みを訴えなければ問題がない、ということでもあるから、顧客との信頼関係がある場合には、このような問題は発生しない、ともいえます。この定義を争う裁判事例が発生した場合には、事実認定の争点となり火種を先送りする可能性が高くなったといえます。 この契機となった被疑事件は、マッサ―ジ師派遣会社が無資格のマッサ―ジ師を全国の健康ランドやホテルに派遣していたというものであり、その代表者2名が容疑者として逮捕された事件です。逮捕前に神奈川県警が厚生労働省に照会し、厚生労働省は前記のとおり回答しました。 この事件はマッサ―ジ師派遣会社の無知または勘違いや思い込み等により発生したものと思われますが、取り締まり自体には妥当性があります。私達の業界から見てもこの事件は大変迷惑な出来事です。
〔7〕この定義が認められるには確定判決が必要
とはいえ、この定義は所管行政官庁の有権解釈として、これからいわゆる有力説として一人歩きすることになります。今は、この定義が争われる具体的な事案の確定判決がでていない段階であること、また、業界や法律家などの大勢が支持する通説になっていないことなどから、しばらく静観する他ありませんが、問題なのはこれを各種療法に対する圧力として拡大する動きを見せれば、座視できない性質を含んでいることになる、ということです。
第4章 世間の評価を受ける
〔1〕この被害者意識は誤解か、思い込みか
この業界の一部の強硬派は、整体・療術などの各種療法やカイロプラクティックは違法行為であるとして不毛の運動を繰り広げています。自分達はすでに法制化を受けたから後発の療法の新規参入は絶対許さないという態度を頑固に取りつづける人がいます。整体・療術などの各種療法やカイロプラクティックが顧客を奪い取っていると被害者意識を持っている人です。
〔2〕世間の同意がない医療は成立しない
しかし、このような考え方は世間の同意を得ることはできません。人々が自分の受けたい療法を選ぶのは、その施術者の技能などを期待するからであって、法制化された療法の施術者だからではありません。顧客の支持が受けられるかどうかは、ひとえに、施術者の技能実績や人柄など現実的な要素によるものです。 健康保険の恩恵を排他的に受けられる医師資格とは違い、医療類似行為の業界は、資格があるからといって簡単に商売できるほど甘い世界ではありません。顧客のシビアな選別に耐え抜くための実力が必要な世界なのです。 現実に、多数の整体やカイロの施術院に複数の医師・歯科医師・看護師などの医療業界の専門家が顧客となっています。いうまでもなく、この人々は業務経験を通じて施術効果の評価が客観的にできる方々です。
〔3〕資格があっても実力がなければ評価されない
実際に「あんまマッサ―ジ師指圧師、はり師、きゅう師および柔道整復」には興味を持たない人々はたくさんいます。このような資格や仕事には魅力を感じない人はいます。実力があれば、評価される整体・カイロだからこそ、やってみようと考える人です。創意工夫に満ちた「手の技能で行う施術行為」だから、自らが痛まず、疲れず、休まず」できると考えたのです。この人々は医療類似行為の真似事をしているのではありません。まったく異なる手技療法であると考えています。 私達がそうであったように、各種学校に入学してくる人々は資格問題で不利な扱いがあることを知っています。それでも、この道を選択した人ばかりです。もし、施術効果がなけれが、何らの評価も受けられないことを十分に認識しています。
第5章 人々の選択を受ける
〔1〕各種療法を選択する人々
これらの人々は、まず自分の業務範囲をキチンと守り、依頼してきた顧客に対してのみ、得意とする施術を行っています。売り込んだり、勧誘したりすることはありません。既得権を持つ医療類似行為の方々の業務範囲に入り込まないように留意しています。 整体・カイロを必要とする顧客と「あんまマッサ―ジ指圧、はり、きゅう」を必要とする顧客はまったく異なります。顧客が受けたい療法の選択は顧客自身が判断することだと考えています。
〔2〕人々の選択に耐える技能を身につける
これだけ多くの医療機関があり、しかも家計に有利な保険適用が受けられる医療や医療類似行為ではなく、整体、カイロ、その他各種療法家へのニーズがますます増える傾向にあるのはなぜでしょうか。 療法を選択する人々の立場に立ってみればとても簡単なことです。施術体験を通じて 既存の医療機関にはない満足感を感じるからです。保険が利用できないデメリットよりも大きなメリットがあると価値判断できるからです。 別の見方をすれば、整体、カイロ、各種療法の従事者は、医療および医療類似行為と比較されて、施術効果が低いと判断されたときその存在価値を失うことになるのです。 たとえどのような手技であれ、手技療法の世界は、人々のシビアな選択に耐えなければならない運命にあるのです。
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