2007年12月25日

典礼難民1

12月23日(日)、待降節第四主日である。『主の降誕』の聖なる祝いを目前にして、残念ながら自分は『典礼難民』となってしまった。

教会報によれば、『十二月の予定』として、23日のミサ中、教会学校の演劇が行われるという。大阪大司教区の『バンブーダンス』ほど酷いものではないが、ミサ中に、祭壇の上で演劇会を開催するとは……。

なぜ、このようなことを主任司祭は許したのであろうか?
それは、ミサ後の祝賀会の一つの余興としてすべきものではないのか?
司祭として、「ミサ」をどのようなものと考えているのか?疑問を抱かざるを得ない。

自分は、ミサ中にこどもたちの拙い芝居を見るほど暇ではない。ということで、隣の赤羽教会(東京大司教区)のミサに与ることにした。こちらは、伴助任司祭によるミサで、いつものように淡々と、サクッとしたミサではあった。

帰宅後、教会での様子を聞くと、説教はなく、その代わりに演劇が行われたそうである。であれば、ミサの参列者はこどもたちの拙い芝居を見ざるを得ない。ミサ後にやったのでは、こどもたちの父兄以外誰も見ないであろう……。



kasahara_7524 at 00:45 │Comments(2)TrackBack(0)カトリック  | 日記

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この記事へのコメント

1. Posted by 彦左衛門    2007年12月23日 22:17
いや頬白親父さん、驚きました。嘗ての大阪教区でのバンブーダンスと言い、今度の教会学校の演劇と言い、ミサ聖祭を汚す冒涜以外の何物でもない。

 こういうことをして恥じない聖職は教会から抹殺すべきだ。それは信徒の権利である以上に義務だ。信徒は自分の霊的利益を守る義務と権利を有する。
 
 政治的言動に現を抜かす司教のもとで、こういう非行が行われていることは、両者が、連動していることを如実に語っている。
2. Posted by 彦左衛門    2007年12月23日 22:40
 ミサ聖祭はキリスト様の十字架の犠牲が時空を超えて現前する厳粛で聖なる時間だ。

 教会学校の演劇が信仰的題材を取り上げていても、演劇は演劇、人間の技だ。そういうものをこの聖なる時間と空間に持ち込むことは許されない。
  しかもこれを演じるのは子供たち、到底説教に替わるものではない。

 それが説教の代わりになると考える神父は、既に聖なるものの感覚を喪失し、さらにまた司牧の責任を放棄しているとしか言えないだろう。不幸なのは、こういう神父に対して、何も言えない信徒たちだ。

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