[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

 
 
 

 
接点を求めた事すら無かった。
目に見えずとも、境界線は確かに在ると思っていたから。
どんなに必死になって手を伸ばしても、辿り着けるのはブラウン管を覆う画面まででしかなく。
どんなに必死になって叫んでも、この声はキミには届かなくて。
そこから先には身体を、生活を持ったままじゃ辿り着けない。
今の自分を取り囲む全てを捨てる覚悟を持たなければ、近寄る事すら出来ない。
それは絶対不可侵の 【領域/聖域】
キミが居るのは其処で、俺が居るのは此処。
まるで彼岸と此岸の境の様に。
その差は何を持ってしても埋まる事なんて、絶対に無い。
そう、思っていた。
 
全国の何処にでもいる普遍的な大学生である自分。
授業には出るが、半分は寝てしまって。
学食には行くが、席が無くて途方に暮れて。
コンパには出るが、面倒臭くなって途中で帰ってしまって。
一人暮しの部屋にはぽつんとTVがあって。
たまに点ける画面の中では、キミが笑顔で唄っていたりして。
Tシャツとジーンズでカップラーメンを食べている俺の目の前で、キミは綺麗な衣装でスポットライトを浴びていて。
なんだかバカみたいに可愛く見えたりして。
 
だから、思った事も無かった。
境界線があやふやなんだって事も、キミが息をしているって事も、『本当』に笑っているんだって事も。
何一つ『本当』の事として見ることなんて、出来やしなかった。
 
アルバムは白く。
汚れる事無く。
汚れたとしても時がまた、全てを白く。
 
灰色の空から雪がちらつき始めたこんな日には。
今年も残り少ないと感じられるようになったこんな日には。
ふと、思い出すんだ。
 
心の押入れの奥。
ずっとしまわれていた、しまっておいた1冊の、真っ白な、アルバム。
撮り散らかされた想い出と云う名の写真は、未だに整理されていない。
いつまでも真っ白なままの、あの冬の日々。
 
鍵を外そう。
ページを開こう。
きっとそこには、あの日の俺達が居る。
誰よりも一生懸命に、誰よりも傷付きながら生きてきた俺達が。
 
雪が薄く降り積もる日々
キミの名を冠した欠片達が儚く舞う日々。
取り留めもなさ過ぎて、何一つ整理すらできずにいた毎日。
想いを馳せればすぐにでも浮かぶ、だけどアルバムに入れる事ができずにいた。
そんな想い出たち。
いつまでも白いまま。
俺達が確かに生きていた日々の【記録/記憶】を。
 
今、何よりも愛しく想うから。
 
鍵をかけていたアルバムを、そっと、開こう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
W ―――――― WHITE ALBUMに鍵をかけて ――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日は大変な一日だった。
一時間目に必修の総合英語があったし、三時間目の音声表現では歌を唄わされたし、五時間目の体育実技ではレスリングをやらされた。
それ以前に、昨日は明け方の五時までレポートを書いていた。
タイトルは講師指定で、『ポケベルの有効性』
携帯電話がこれだけ普及している世の中でポケベルの有効性を示せと言うのは、殆ど生徒に対する嫌がらせの類だと思う。
なので、『ポケベルの有効性は皆無である。 ところでカムチャッカ半島だが―――』とやって全く関係の無い事でレポート用紙を埋め尽くしてやった。
『不可』にされないか非常に心配だ。
で、そのレポートを提出する授業に出たら、休講だった。
頭に来てゴミ箱を蹴ったら、掃除のおばちゃんに怒られた。
絶対に、今日は厄日だと思う。
しかも、『今日』はまだ終わらないし。
 
「相沢。 今日もバイトか?」
 
実は高校の時から吸っていたらしい煙草を咥えながら、北川が俺に向けてコーヒーを投げる。
BOSSの無糖。
既に十二月に入ったにも関わらず、『冷た〜い』コーヒーは体育で汗をかいた身体にとても心地良かった。
 
「ああ、今日はテレビ局のADやる事になってる」
「それはまたキツそうなバイトだな。 大丈夫か?」
「ま、金がいい事だけは確かだからな。 仕送りの少ない苦学生はバイトに励むしかないのだよ」
 
家賃が、月に七万円。
仕送りが六万円。
食費とか光熱費とか節約とか言う前に、根本的な時点で何をどうしたって赤字だった。
世の中には学費すら自分で払っている学生が居るそうだからあまり大声で不満は言えないが、それでも。
せめて家賃分くらいはちゃんと出して欲しいと思っている俺は、やはりどこかで親に甘えているのだろうか。
 
「やべっ、局に六時入りなんだよ。 じゃな」
「おお、芸能人っぽいぞ」
「アホ。 芸能人だったらタクシー使って行くわい」
 
軽口を叩き、俺は駐車場においてあるバイク置き場まで走った。
CBXやXJの間に挟まれる様にしてこじんまりと佇む俺の愛車。
HONDAのeve。
原チャリで形式も古くてタンク容量も少ないけど、真っ赤なボディーとスレンダーな体躯は他のどんな単車【オンナ】よりも素敵だと思う。
中古屋で見かけた瞬間、『コイツだっ』と思って手に入れたeve。
日々をギリギリで生きている俺に五万の出費は痛かったが、それでも今こうしてコイツと共に動ける事は幸せな事だと思った。
 
「って、時間マジでやばっ」
 
無理矢理に思考を中断させ、キーを突っ込み、エンジンを始動させる。
二・三度は描け直しを覚悟していたのだが、予想に反して一度ですんなりと掛かった。
2サイクルエンジンの気紛れな彼女は冬になると機嫌を悪くしがちだったが、今日はどうやらご機嫌の様だ。
大学が在る小高い丘を一気に降り、電車で二区間ある市街まで爆走する(って言ってもせいぜいが50km/hだが)
身を切る風が確実に冬の到来を告げている事を感じ、俺は季節の変わり目にいつも感じている一種の昂揚感を隠せず、薄く微笑んでいた。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「ADー! ぼさっとすんなー!」
 
フロアーにディレクターらしき人の怒声が響いた。
いや、一概に『AD』と呼ばれても誰を呼んでるのか判らないんですけど。
とか思いつつも、呼ばれたのが位置的に自分ではない事を知ってほっとした。
仕事がキツイと噂で聞いてはいたが、なるほど確かにこれはキツイ。
同じバイトでも、マクドやチロルなんか目じゃないくらいだった。
とにかく立ち止まっている事が許されない。
大道具を、小道具を、照明を、音響を、特効を、とにかく『アシスト』するのが役目なのだから、当然と言えば当然なのだが。
それにしたって、今日は尋常ならざる忙しさだった。
理由はたった一つ。
『今晩九時からナマでスペシャル番組をやるから』
これ以上ないくらい判りやすくて、それだけに不満の捌け口を見つけられない完璧な理由だった。
倍率の高いとされているテレビ局のバイトに何のコネもツテも無い俺がありつけたのも、このスペシャルのおかげだろう。
手っ取り早く言えば、どんなんでもいいからとにかく人員が欲しかったんじゃないかと。
そんな事を思ってしまうほど現場の雰囲気は殺伐、かつ雑多としていた。
 
「おい、そこの!」
「はいっ?」
「第二倉庫から足場の資材、ありったけ持ってきてくれ」
「あ、ありったけですか?」
「早くっ! 場所は判ってるんだろ?」
「い、いえっさー」
 
時間が経ち、本番に近付くにつれ、殺伐とした雰囲気は更に高まっていく。
比喩表現抜きで、ここは戦場だと思った。
上官に逆らったら死んでしまう。
いや、実際は死なないのだが。
 
「第二倉庫、第二倉庫」
 
そんな戦場から――勿論任務としてだが――一瞬でも逃避できるのは、嬉しいと言えば嬉しい。
だが、その任務内容が『足場の資材をありったけ持って来い』ってのは、やはり少しヘビーなんじゃないかと思った。
スペシャルのメインとなる1スタから第二倉庫までは、局内でも真逆の場所に位置している。
そっから資材を調達しなければいけないと云う事は、それだけスタッフもテンパってるんだろう。
バイト人員としてはエライ迷惑なのだが。
とは思うものの、仕事に手は抜けない。
支給されたスタッフTシャツの背中は既にびしょ濡れだったが、それでも俺は第二倉庫までダッシュするのであった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「……おもっ!」
 
足場の資材は半端じゃなく重たかった。
具体的に言うと子泣きジジイくらい。
ちっとも具体的じゃないとか云う突っ込みは無視する。
兎にも角にも重たい。
絶対にこれは一人で運ぶ重量じゃないと思った。
あの野郎(俺に指示を出した奴)、覚えてやがれ。
 
加えて最悪な事に、第二倉庫は地下にあった。
ちなみに1スタは三階。
その差分は四階、階段数にすれば実に120段を数えるのだ。
資材を抱えながら登るって事を考えると、これは殆ど死刑宣告に近いんじゃないかとも思った。
思ったが、やっぱり諦める訳にもいかないので、俺は一段一段を踏みしめるようにしながら階段を昇り始めた。
一段。
もう一段。
汗が流れる。
それでも、もう一段。
 
ゆっくりとだが確実に、階段を制覇していく。
勿論、限界寸前の状況でだが。
腕の筋肉はパーキンソンよろしくぷるぷるしてるし、膝の関節は笑点もびっくりなくらいの勢いで大爆笑している。
おいおい笑い過ぎだろソレは、ってくらい。
だが、それも後少しで終わる。
ようやくの事で辿り着いた二階と三階の間の踊り場で一息つき、俺は最後の関門である階段を見上げた。
残り、15段。
ぬぐぐぐ。
14段。
ふおぉぉぉ。
13段。
少しずつ、だけど確実に。
ゴールが近付く。
あと少し。
もう少し。
 
「急いでくださいっ! もうリハ始まってますんで」
「は、はいっ。 すいませきゃっ!」
 
どんっ
 
瞬間を『永い』と感じたのは、19年間生きてきた人生でも数えるくらいしかない。
その中でも相当に、今回は『永かった』
衝撃。
浮遊。
落下。
隣接する死に脅え、感覚が暴走する。
事象の全てが速度を落とす。
全段ぶち抜きで転げ落ちるのに、実際には2秒も掛からなかっただろうが、本気を出した俺の感覚時間では10秒以上もの時が流れていた。
ゴールド・エクスペリエンスだ。
 
「うおおぉぉおおおおっ?」
 
落下だけならまだマシだった。
打ち所が相当に悪ければ死ぬだろうが、それ以外ならせいぜいが全身打撲で済むだろうから。
だが、今の俺が抱えていたのは建築資材。
ぶっちゃけて言ってしまえば、鉄の固まりを数十組だった。
それが、降って来る。
腕に、腹に、脚に、そして頭に。
痛みではなく、『衝撃』が体中を襲う。
本気で死ぬかと思った。
思った。
つまりは何とか死なずに済んだと云う事だ。
 
「あ……あ……あぁ」
「森川さん! 早くしてください!」
「で、でも……あの人が、わ、私の所為で」
 
鉄筋の間から、ぼんやりと見えた人影、二つ。
マネージャーらしきスーツの男と、もう一人。
 
森川由綺
 
階段から転げ落ちた衝撃で視神経がおかしくなったかと思い、目を数回擦ってみた。
だがそれでも、階段の最上部でおろおろしている彼女の姿は変わらなかった。
 
『森川由綺』
一家五人が揃えば、必ずその中の一人は彼女の事を知っている。
街頭で男子高校生100人に『森川由綺を知っているか』とのアンケートを取れば、102人が『知っている』と答え、その内の過半数が『愛してる』と答える。
それが、今の日本における『森川由綺』の知名度の高さだった。
いくら俺がアイドルやら歌手やらに疎くても、森川由綺くらいは知っている。
北川と二人で酒を飲みながら、『確かに可愛くはあるな』って言ってた事もあった。
 
”その”森川由綺が、目の前に(と言うには少し遠いが)居る。
ブラウン管の中でしか見た事の無かった、”あの”森川由綺が。
実際に、『存在』としてその場に『居る』
それは、とても非現実的な光景に見えた。
何しろ俺にとって『森川由綺』ってのは、『テレビの中の人』でしかなかったから。
ガキの考える事とは全く違った次元で、『この人はテレビの中の人だ』としか思っていなかったから。
 
ストレートな黒髪は、蛍光灯に照らされるだけでも美しく艶やかに。
驚くほど細い手足は、未だ少女のままの魅力を有し。
不安げに下がる眉は、それでも形良く。
舞台衣装であろうスカートの中から覗く逆三角形は真っ白で汚れなく。
いや、パンツが見えたのは不可抗力なのだけれども。
 
「いいからっ! たかがADですよ!」
「あ、あの、でも………」
 
それを最後に、森川由綺の声は聞こえなくなった。
恐らくはマネージャーの言う通りにスタジオへと走っていったのだろう、軽い足音だけを残して。
残された俺は数秒間だけ思考停止に陥っていたが、それでも何とか自分を現実世界に引き戻す事に成功した。
 
「……だよな」
 
所詮、住む世界が違うのだ。
彼女やその近辺に属する人からすれば、ADが階段から落ちようが宇宙人に連れ去られようが関係無い。
心配など、するはずもない。
漠然とだが判っていたはずのその『事実』は、それでも多少は俺の心を抉った。
『境界線』の、彼女は向こう側。
俺は、こっち側。
場所とか物理的な距離の問題じゃなく、彼女は『遠い』のだ。
ま、『本物』を見れただけでも良しとしておくか。
それと、パンツも。
後で北川にでも自慢してやろう。
 
「っしょい!」
 
無残にもばら撒かれた資材を掻き集め、もう一度担ぎ直す。
自分としてそのつもりは無かったが、結果的には体を休める事となっていたのだろう、意外と簡単に最後の難関を昇りきる事が出来た。
身体に痛みは、まだ無い。
後十分もすれば、もしくは帰る時になれば。
それこそ動けなくなるほどの激痛が襲ってくるかもしれないが、せめてその時間までは働こうと思った。
学生さんには金が無いのだ。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
「スイマセンっ! 資材、遅れました!」
 
スタジオに入り、遅れた事を詫びる。
謝罪と云うのは相手が言及する前にやってしまうのが人生のコツだ。
先に謝られては怒る気も削がれると云うもの。
そんな打算的な考えは無くとも、俺が資材を運ぶ任務の途中でトラブって遅れてしまった事は事実。
そしてそれを申し訳無く思っている事も事実だ。
だから、謝った。
思いっきり頭を深く下げながら。
 
ぽたっ。
 
何か、液体のような物が床に落ちた。
照明の当たらない暗い場所だった所為でよく見えなかったが、恐らくは汗だろう。
汗だくの勤労青年、相沢祐一。
うむ、ちょっと爽やかだな。
 
「資材はそこに置いといてくれー! 今からカメリハやるから、こっち来て!」
「あいっ」
 
元気良く声を出して、走る。
少し、ふらついた。
まぁアレだけの労働をして、謝罪の為に頭を振って、大声出せばくらっともするだろう。
そんな事を思いながらも、たかがこれしきで疲れたなどと寝言をほざいてもいられない。
故に、俺は一生懸命に走るのであった。
 
舞台裏から、照明の照りつけるスタジオへ。
膨大な量のライトに目を妬かれ、俺は一瞬だけ視力を失った。
ま、眩しい。
俺のような日陰者にはこの照明は眩しすぎる。
とか何とかアホな事を思いつつ、俺はさっき自分の事を呼んだFD(フロアディレクター)の元に駆け寄った。
 
臨時雇いのADが十数名と、元からのADが十名弱。
技術さんっぽいおっさんと責任者っぽいおっさんと、その他諸々。
合計で三十名近い人数がそこには集まっていた。
カメリハと云う事なので、余計な絵が入らないようにするためだろうか。
同じ服装のADがわさわさ集まっている姿は、ある意味奇妙だった。
 
「お、お前……」
「へ?」
 
俺もその輪の中に入ろうとした瞬間、一人のADがこっちを見てとんでもない形相を見せた。
言うなれば、『AVだと思ってラベルの貼ってないビデオを再生してたら貞子が出てきちまった!』って感じの。
周囲の人間もそれに引き摺られるように俺の顔を凝視し、そして皆一様に『貞子を見た顔』になった。
振り返って後ろを見ても、誰も居ない。
な、何だ?
貞子は俺か?
 
「ど、どうかしましたか?」
「あ、頭、から……」
「頭?」
 
外見で判るほど俺の頭は悪そうだとでも言うのか?
まさかとは思うものの、さりとて完全に否定出来ないところが悲しかった。
とりあえず指摘されっぱなしと云うのもなんなので、額から前頭部に向けてぺたぺたと触ってみる。
汗で濡れているのだろうか、何だか異様にぬらぬらしていた。
 
「なんだ? 妙にぬめっと……」
 
血。
手の平全体が赤く染まるほど、大量に。
ふと自分のTシャツを見てみると、これもまた見事なほどに真っ赤に染まっていた。
普段より三倍速く動けそうだ。
いや、そうじゃなくて。
 
「な、なんじゃぁこりゃー!」
 
思わず絶叫してしまった。
何しろ、今までの人生でこんな出血大サービスをした覚えは俺には無い。
包丁で指をちょっと切ったとか、道端で転んだとか、せいぜいそのくらいが関の山だった。
Tシャツが染まるほどの流血なんて、勿体無くて出来やしない。
 
俺の叫びに、スタジオ全体が少しだけ騒然となった。
照明も、音響も、スタンバってたタレントも、こっちを気にし始める。
その事に、少しだけ負い目を感じた。
さっきのマネージャーの言葉じゃないが、『たかがAD』の怪我なのだ。
十把一絡げの俺が、仕事全体に支障を来すような事はあってはならない。
絶対に。
それはわずか数時間の間に芽生えた『AD』としての意地だったのか。
それともただの一般市民が感じた、番組製作への畏れだったのだろうか。
どちらとも判らないがとにかく、俺は場がこれ以上の騒ぎになる事を拒んだ。
 
「ちょ、俺、医務室行ってきますわ」
「誰か付き添いを……」
「いや、大丈夫ですから。 歩けますし、意識もありますし、医務室の場所も判ってますから」
「そ、そうか?」
「ええ。 気にしないでください。 頭ってのは大した傷じゃなくてもやたら血が出るんですよ」
 
ははっと、笑って。
元気を装って、スタジオを出る。
集合の時に俺が垂らしたのだろう、点々と続く血の斑点を見詰めながら。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
意外と早く、『それ』は訪れた。
いや、むしろ遅すぎたのかもしれない。
階段転落から、時間にして凡そ十数分。
ようやくと言った感じだが、俺は全身を鈍く駆け巡る痛みに喘いでいた。
特に、頭の裂傷(血が出てるって事は裂けてるんだろう)がヤバイ。
鼓動に合わせてじくじくと痛む傷は、まるでそれ自体が生きているかのようにも思えた。
更に輪を掛けて、俺は『見て』しまった。
自分の頭から流れ出ている、真っ赤な血液を。
他人はどうだか判らないが、少なくとも俺の場合はマズイ。
傷の存在と云うか程度(深さと置き換えても良い)を視覚してしまった事によって、自らが傷を認めてしまったのだ。
傷が在る。
血がめっちゃ出てる。
痛いはずだ。
ヤバイに違いない。
そんな電気信号が脳から身体全体に行き渡り、不必要なまでの痛みを通して俺に傷を『判らせる』。
痛みは生命維持のための信号だって体育理論の講義で聞いた事はあるけど、それの所為で意識を失う寸前ってのはまさに本末転倒じゃないだろうかと思った。
 
「……やば」
 
ついには意識が朦朧とし始めた。
見ている風景が、ぼんやりと輪郭を無くしていく。
過去に数回しか経験した事は無いが、その全てに合致する『気絶』のパターンだった。
だが。
 
「……まだだ、まだ終わらんよ」
 
倒れる訳にはいかない。
少なくとも、医務室に行くまでは。
唇を噛み締め、その痛みで自分を繋ぐ。
拳を握り締め、笑い死に寸前の膝に活を入れる。
殆ど無駄にも思えたが、それでも少しだけ意識は取り戻せた。
そしてまた、歩く。
壁に手をつきながら、半ば足を引き摺るようにしてゆっくりと。
 
「だ、大丈夫ですかっ?」
 
不意に後ろから聞こえる、声。
これが大丈夫なように見えるんだったら、マザーテレサもびっくりだと思った。
てか、ちょっと待てよ。
今の時間(カメリハ中)にこのフロアを、しかも俺の後ろ(スタジオ)から歩いてきただと?
いや、それ以前にこの声は……
 
「……近寄るな」
「っ」
 
森川由綺。
聴き間違いじゃなければ、階段の上から聞こえてきた声と背中から掛けられた声は完全に一致していた。
プラス、俺の耳がおかしくなってなければだが。
 
「……何の用だ」
 
降り返った先には、やはり本人。
さっき見た時よりも近くに、確たる存在感を持って、彼女は立っていた。
思っていたよりも小さい。
思っていたよりも、可愛い。
そう思う感情とは全く別次元で、俺はもう一つの事を考えていた。
 
「……何でここに居る」
 
アンタは『違う』だろ。
俺の、ADの心配をする必要なんて何処にも無い。
アンタが生きる場所は、こんなちゃちな蛍光灯の下じゃない。
アンタを必要としているのは、頭から血を流してるたった一人の男じゃない。
もっと多くの人が、もっとアンタを必要としている人が、画面の向こう側には居る筈だ。
戻れよ。
『あっち側』に。
じゃないと何の為に俺がこうやってんのかも判りゃしないだろ。
 
「だってその傷、私の所為で」
「……『たかがAD』……だろ?」
「―――!!」
 
自分でも思う。
何て最低の態度だろう、と。
だがそれでも、彼女の手を煩わせる訳にはいかなかった。
彼女が思い悩むような事があってはいけないと思った。
『あの』森川由綺が、俺の怪我などの所為で笑顔を曇らすなど。
それに、今の彼女は既にステージ衣装に着替えている。
血塗れの俺に手を貸そうとすれば、間違い無くその衣装も汚れてしまうだろう。
ダメだ。
そんな事はダメだ。
できる事ならこう思ってくれれば良い。
心配するにも値しない、無礼で無様なADが居ただけだと。
そう思えば目の前で流れている血すらも、気に病む事は無くなるだろうから。
 
「わ、私はそんな風に思ってな―――」
「……スタジオに戻れ。 目障りだ」
 
話は終わり、とばかりに俺は森川由綺に背を向けた。
返って来るのは、無言。
どんな顔をしているかなど想像もできないが、彼女が抱いているだろう感情は簡単に予想できた。
俺にとってはあまり面白くないであろう、その感情。
詳細に考えれば、それはそれでヘコみそうな内容だった。
だが、所詮は人気アイドルとバイトの大学生。
ある意味では次元をも超えた邂逅など、この一時のものでしかない。
つまり、彼女が俺に対してどんなに否定的な印象を持ったとしても、俺がそれを気にする必要など何処にも無いのだった。
喜ぶべきか、寂しいと感じるべきか。
個人的状況から前者を選択し、そのまま思考を強制的に中断した。
そうじゃなくても他の事を考えていられるほど、俺の体調は猶予を持っていない。
ずりずりと壁にもたれかかりながら、一心不乱に医務室を目指す。
一歩、二歩、三歩。
四歩目でぐらつき、五歩目で転倒確実な姿勢になり、六歩目で誰かに肩を貸され、七歩目には俺の意識は既に無かった。
 
最後に感じたのは、さらさらとした髪が頬をくすぐる感覚だった。
 
 
 
 
 
* * *
 
 
 
 
 
目が覚めたのは、眩しかったからだった。
決して睡眠とか休息が十分だったとかじゃない。
太陽や月の光とは真逆の、明るいのに冷たい光に網膜を灼かれ続けるのは苦痛だった。
だから、目が覚めた。
開けた瞼の隙間に映し出されたのは、見慣れぬ天井。
言うなれば、『無機質』を平べったく敷き詰めたみたいな真っ白な天井だった。
何の面白みも無いその景色に、二秒で飽きる。
他の関心事を探す為に身体を動かそうとした瞬間、頭と首と肩と胸と脇腹と骨盤と太腿と脛と足首に痛みが走った。
早い話が全身、痛い。
しかも驚くべき事に、下半身が全く動かなかった。
まるで鉛の枷を付けられた様に、酷く鈍重な感覚。
そもそも自分が何故に横になっているのかを一生懸命に思い出し、その結果としてとんでもなく面白くない想像が頭の中に浮かんできた。
階段を転げ落ちた事による、脊髄損傷。
本当に面白くない。
まさかこの歳で下半身不随になるだなんて思ってもみなかった。
ああ、さようなら俺の健常者人生。
そしてこんにちは車イス生活。
こうなったらバスケでも始めてみようか。
『リアル』ばりに。
どれ、最後にもう一度だけでも退化する前の脚を見ておくか。
これからは筋肉の欠片も無くなってしまうだろう、俺の蝦夷シカのような美脚よ。
 
「………なんだこの物体は」
 
痛む上半身をどうにか起こし下半身に目をやった俺の網膜に飛び込んできたのは、何か真っ黒な物体だった。
とりあえずぺしぺし叩いてみる。
だが、その変な物体は一向に動く気配を見せなかった。
 
「てか、よく見たら人だしな」
 
今となっては昔の話だが、あの冬の日々の中。
暖かい朝食が並ぶテーブルに、名雪が突っ伏して寝ていた光景をふと思い出した。
あの時も変な物体だって思ったんだよな、確か。
 
「うーむ、それにしてもコイツは一体?」
 
ぺしぺしぺしぺし。
見なれぬ黒髪を叩きまくる。
すると黒髪の主は、「うーん」とか寝苦しそうな声をあげた。
何だか可哀想になったし叩きっぱなしと云うのも悪い気がしたので、こんどは髪の流れに沿って撫でてやった。
軽く、優しく。
なでなでなでなで。
艶やかな黒髪を俺の手が滑る感触。
久しく誰にもやっていなかっただけにそれは、どうしようもなく甘美な一時に思えた。
撫でられているコイツも叩かれるよりかは気持ちが良いのだろう、やすらかな寝息を立て始めた。
やれやれ、俺は保父か何かか?
 
と、そこまで一連の動きをしてから不意に目に入った、黒髪の主の服装。
白い手袋、ピンクに近い赤を基調とした衣装、細い足を覆うニーソックス。
何処をどう見ても、一般人の服装じゃなかった。
こんな服装で街中を歩いている奴が居たら俺でも引く。
だがしかし、これを着ているのが彼女ならば誰もが納得するだろうと思った。
納得するどころか尊敬や憧憬、時には情愛の念すらをも込めて彼女を見るのだろう。
それほどまでに『特殊』な衣装は、『特殊』な職業に就いている彼女には似合うものであった。
例えばそう、トップアイドルであるところの森川由綺とかならば。
 
「………も、も、森川ゆ…き?」
「……ふぁい? にゃんれすか?」
 
寝ぼけてやがる。
『あの』森川由綺が、俺の膝を枕にして、寝ぼけてやがる。
あれか?
これはひょっとして夢か?
よし、確かめてみよう。
ぎゅー。

「いひゃっ、いひゃいいひゃいれふー」
「痛いか」
「は、え、はい。 痛かったです」
「そうか。 って事は夢じゃない訳だ」
「そ、そうなんですか」
「良かったな」
「え、えと? あの、あ、はい」
 
夢じゃない。
どうやらそれは確からしい。
そう言えば目を覚ました時点で俺は自身を貫く痛みを感じていたはずだった。
って事はコイツはつねられ損か。
可哀想な奴だ。
いや、違うだろ俺。
 
「………本物か?」
「だ、誰がですか?」
「おま……あ、いや……あなたは、その、森川由綺さん……ですか?」
「はい。 そうですけど?」
 
そうですけど、じゃない。
一体全体、何がどうして全国区のトップアイドルがADの付き添いで医務室にカンヅメしなければならないのだ。
ファンに見られたら殺されるぞ、主に俺が。
 
と、そこで気が付いた。
ピンクと白で構成されているステージ衣装に、どう見ても不協和音として存在している赤黒い汚れ。
左肩から胸元までを覆うように、べっとりと。
彼女自身のイメージを勝手に『清純』だと決めつけるならば、確かに彼女は『汚されて』いた。
他の誰でもない、俺の頭部から流れ出した血液によって。
 
「……に……ってんだ」
「え?」
「何やってんだアンタはっ!」
 
怒り、とは少し違った。
一番近く形容するならば、憤りだろうか。
もしくは、罪悪感。
彼女の衣装を、彼女を汚してしまったと云う、一種の畏れ。
それらが綯い交ぜになった瞬間、俺は無意識の内に声を荒げていた。
 
ポケットに入れてあった携帯を取りだし、ディスプレイの時計で時間を確認する。
22:43
俺の記憶が確かならば、ナマのスペシャルは二時間枠だったはずだ。
それなのに彼女が此処に居ると云う事はつまり
 
「何で……何でそんな事……馬鹿じゃないのかアンタ!」
「あ、あの……」
「何人がアンタの事待ってると思ってんだ! 殆ど放送事故だぞ! アイドルの自覚無ぇのか!」
 
トークの時間。
歌の時間。
彼女の存在感。
全てを総合した場合、一体いくらの引き(予定よりも進行が早まる事)が生じるのか想像もつかなかった。
それ以前に、彼女がスペシャルに出演すると云う事は事前の段階でかなり大勢の人間が知っている。
テレビ欄、CM、雑誌。
それなのに本番を見たら彼女が出演していなかったなんて事になったら、クレームどころじゃ済まないだろう。
端役のタレントなら兎も角、スペシャルのメインを張るべき『森川由綺』なのだから。
 
「で、でも……」
「………」
「その、でも、あの……」
「……何だよ」
「悪い事して……ないと……思うんですけど……わたし……」
 
知ってるよ、んな事は。
あの場で意識を失った俺を、救ってくれたのは確かにアンタだ。
その行動自体は責められるべくも無い、まったくもって『正しい』行動。
だがな……
 
「”たかが”ADの怪我に付き添って番組に穴空けて、それがアイドルのやる事か?」
「………た」
「あ?」
「……たかが……じゃ、ないです」
 
蚊の鳴くような声。
めちゃくちゃに脅えながら。
それでも、一生懸命に。
 
「私はっ……たかがなんて……思って、ない、です。
 私の所為で……怪我、させて……ずっとそれ、気になって、だから……」
 
俯きながら、衣装の裾を握り締めて。
殆ど涙目で。
そんなに恐いのか、俺は。
アイドルとかの概念はさておいても女の娘を脅えさせるのはあまり趣味ではない。
困らせるのも趣味ではない。
泣かせるのなんてもっと趣味じゃない。
だがそれでも、言っておかなくてはならない事が俺にはあった。
故に俺はまだ、二人の間に流れる凍った空気を弛緩させようとはしなかった。
 
「アンタがそう思うか思わないかは何の意味も無い。 判るか? って言うか判れ」
「………」
「癪だがな。 アンタに付き添ってたあの男の言ってた事は正しい。
 ああ勿論あの状況で俺にぶつかってしかも去ってったのが一般人だったら、有無を言わさず撲殺の対象だがな」
 
って、アイドルの前で撲殺とか言うのはどうかと思うぞ自分。
さりげなく引いてるっぽい森川由綺の表情を見ながら、こう云う時ですら『いつも通り』にしか喋れない自分を少しだけ怨んだ。
 
「気にすんなって言っても無理だろうから、せめてこう言っとく。
 いいか、俺に怪我させてまでまっとうしようとした仕事を捨てるような真似すんなバカ。
 中途半端に気にして抜け出してくるくらいなら、あの場で俺の傷にキスでもして癒しやがれコンチクショウ。 おっけー?」
 
言い終わって、5秒後。
さっきまでよりも深く俯いて一言も発しない森川由綺を見ながら、俺は久方ぶりの『やっちまった感』を味わっていた。
仮に反省を司る部分を相沢Aとするならば、そいつは今やっきになって「何もそんな言い方しなくてもいいだろうアホ! 相手は女の娘だぞ」って怒鳴り散らしている。
が、そんな事は相沢Aに言われるまでもなく主人格の俺が一番よく判っていた。
実際に言葉を発する前から判っていた。
判った上で、それでも言った。
こんな風にADの心配なんかに心と身体を削ってたら、彼女は間違い無く潰れてしまう。
心身の疲労が凄まじいアイドルなら尚更だ。
邂逅から数刻しか経っていないが、それでも判ってしまった『本当の姿』。
森川由綺と云うアイドルは、世間一般で言われているような『清純派のアイドル』ではない。
『清純なアイドル』なのだ。
今までに出会ったどの女の娘にもひょっとしたら負けないくらい、清純。
俺だって馬鹿じゃない。
アイドルってのが、芸能人って人種がどんなのかは大方判っていたつもりだった。
だってそうだろう?
スポットライトを浴びて観客の前で歌って、俺達が一年かかっても稼ぐ事が出来ない数百万の金を一夜で稼いで、ドンペリがフェラガモでサンローランがディオールな奴等が。
まさかADの怪我如きでここまでうろたえるだなんて、自分を責めるだなんて、涙をその大きな瞳に湛えるだなんて、誰が想像できるって言うんだよ、なぁ北川。
 
「………」
 
酷く空気が重い。
それを創り出したのが自分だと判っているだけに、二人が沈黙している部屋の空気は余計に重たかった。
時計だけが正確に、カチコチと時間を削り取る。
人間が勝手に決めた二十四時間と云う一日の区切りを、カチコチと、カチコチと。
楽しい時はあっという間のくせに、授業中はやたら長い。
だが、その授業中だって寝てしまえば時間の進みは早い。
故に、俺は万人に共通した『時間の長さ』を信じてはいなかった。
同じ一時間でも、長いと感じる奴もいれば短いと感じる奴もいる。
人によってその概念はバラバラ。
だのに。
 
死ぬまで接点が無いとさえ思っていた。
それを望んだ事すら、一度も無かった。
俺は大学生。
彼女はアイドル。
物理的な距離じゃないからこそ、何をしても届かないくらい遠いって事が簡単に理解できた。
なのに。
森川由綺と、今。
こうやって二人。
同じ場所で、同じ時を過ごしている自分がいる。
まさに不可思議。
俺にとってはアウターゾーンの一歩手前に匹敵する状況だった。
ミザリィめ、何所にいる。
 
秒針が刻む一秒は驚くほどに『一秒』の長さを堅持し、不可思議なこの場をより一層不可思議な物へと変化させるのに一役買っていた。
 
 
 



____________________________________________________________
Next day >>