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「Infoseek モバイル」
「―――ってな事があったんだわ、昨日」
「お前、もっかい病院でCT撮ってもらった方が良いんじゃないか? 夢、見過ぎだぞ」
「安心しろ。 お前の頭よりは至極マトモだ」
「じゃあホントのホントのホントに、”あの”森川由綺と喋ったってのか?」
「喋ったどころじゃない。 頭をぺしぺし叩いたりほっぺをにょーんとしたり、ああそう言えば肩を貸してもらったりもした」
「……相沢」
「なんだ」
「今だけお前を森川由綺だと思って抱きついても良いか?」
「やってみろ。 講義室の端まで吹っ飛ぶほどの熱い一撃を見舞ってやる」
そんなふざけた会話を、多少はトーンを落しながらしかし結構おおっぴらに話している火曜日の二コマ目。
80人からを収容した四階の講義室で行われている授業は、初老のお爺さんによる考古学概論だった。
俺と北川は互いに相談して履修する科目を決定している為、その殆どが同じ授業で構成されている。
今回もその例に違う事無く、こうやって席を並べて無駄話に興じている訳だが。
「ま、お前の気持ちも判らないでもない。 俺だってまさか”あの”森川由綺と会話するだなんて思ってもみなかったからな」
「羨ましいったらありゃしないぞ。 そんなイベントが待ってると知ってたら俺だって応募したのに」
「っは。 運が悪けりゃ死ぬような怪我を負ってまで会いたいとは思わねーよ」
「それはお前が実際に会って話をしたからだ。 世の中には死んでも良いから生で森川由綺を見たいとか言ってる奴等だって居るんだぜ?」
「だとしても、ADのバイトにはもう入れないだろう。 特に俺は、な」
「そんなに倍率高いのか?」
「殆ど年末ジャンボだ」
「それは言い過ぎだ」
「俺もそう思う」
そこで話しが一段落した事もあり、俺達はそれから暫しの間、黒板に書き連ねられた象形文字をルーズリーフに書き写す作業に没頭した。
なるほど、これは確かに考古学だ。
だがしかし、ロゼッタストーンばりの難解な文字を解読するのは概論じゃなくて既に実践だと思うのだが。
何て読むんだよ、その漢字。
「時に相沢」
「ん?」
「年末はどうすんだ?」
「どうすんだ、ってのは随分と曖昧な質問だな。 取り敢えず飯は喰うし呼吸もするし恐らくだが酒も呑むぞ」
「いや……そう云う事じゃなくて、な……」
「歯切れが悪いな。 お前らしくもない」
「あー……だからな……”あっち”に戻るのかって、こと」
「何だその事か。 ったく、女の娘同士じゃあるまいし。 そうやって必要以上に気を遣うのはやめれ」
「ほら、俺って根が優しいから」
「言ってろ」
苦笑しつつ、横に置かれたデミタスを一口含んでゆっくり嚥下する。
ブラックには無い確かな存在感が喉を通り、奥から込み上げる焙煎された薫りに深く息をついた。
”あっち”か。
名雪と別れたのが七月の末だから……そうか、まだ半年も経ってないんだな。
もうずっと前の事だと思ってたんだが。
「向こうで何かイベントでもあるのか?」
「いや、そーゆー訳でもないんだが。 ほら、俺の場合は実家が向こうだから」
「俺はそうだな………向こうに行っても泊まる場所が無いし、冬休みも短いし、まだ会うのはちょっとだし………帰らない事にするわ」
そもそも、向こうに実家の無い俺が『帰る』って表現を使ってるってのもどうかと思うけどな。
それでも違和感なく『帰る』って言葉を使ってる自分がいる事を、俺は誉めてやりゃいいのか。
未練がましいと貶せばいいのか。
俺が自身に内包した問題は、自分の事にも関わらず考古学よりも難しい気がした。
「まさか水瀬がなー……」
「名雪だからこそ、だろ」
「お前等が幸せいっぱいだった頃に美坂から聞いたけど、七年間もお前の事を……なのに想いが叶ったら半年も持たずにか?」
「だから、だよ。 七年間会ってなかった分だけ、一緒に居られる事が嬉しかったんだろうよ」
「……論旨が破綻してないか? どうにも背反した事柄を喋ってるようにしか聞こえないんだが」
「一緒に居られる事が幸せだって知っちまったから、一緒に居れない時間と対峙した時にアイツは成す術を持たなかったんだ。
待つ事が普通だって錯覚し続ける事が出来ていたなら、今でも俺はアイツとバカップルをやり続けてたよ」
「でも、それを知らなかったらお前等は始まらなかった」
「壊れるくらいなら始まらなきゃ良かったって思ったこともあるよ」
「今は?」
「……あーあー、頭が痛い。 この話題はもう勘弁」
半分は冗談で。
半分は本気で。
言葉と表情では茶化しつつ、目だけは真剣に話題を打ち切った。
北川も、それ以上は話を続けようとしない。
当然だ。
微妙な空気の変化に気付けないような奴とだったら、ここまで友達を続けてない。
親友だなんて、呼んでない。
「………美坂チームで、もっかい呑みたいんだけどな」
ぽつりと落された最後の一言も含めて、だ。
* * *
あの後。
非常に気まずい時間を何とかぶち壊そうと思って俺が取った行動は、お世辞にも誉められる類のものではなかった。
いわゆる一つの、大脱走。
自分が今いる所が局内の医務室ではなく、病院の一室であるとの情報を得た後ならば尚更だった。
精密検査とか検査入院とか、年の瀬も迫ったこの時期に冗談じゃない。
「あ、あの……何やってるんですか?」
「何って。 家に帰るだけだ、です」
さんざん怒鳴った後に敬語で話すのもなんか変な感じがしたが、それでも”あの”が冠詞に付くアイドルに向かって平然とタメ口をきくのはどうしても憚られた。
何をどうしたって、やっぱり彼女は『違う』のだから。
で、その『違う』彼女が何やら取り乱しているのを無視して、俺はベッドから降り立った。
当然、家に帰る為に。
いつの間に着替えさせられたのだろうか病院着になっている事が問題と言えば問題だったが、別に犯罪を犯している訳でもないので平気だろうと思った。
「ダメですよー。 あ、頭から血が出てるんですよ?」
「出てきたのがコーラじゃないだけまだ正常って事で。 じゃ、森川さんもお気を付けて」
しゅたっと手を挙げて何事も無かったかのように窓を開ける爽やか大学生、相沢祐一。
常温よりもかなり高めに設定されている病院内の温度によって熱を持った身体が冬の夜に晒されて、急激に鋭敏な感覚を取り戻していくのが感じられた。
だがしかし、寒いと言ってもその風はまだ温い。
この街には、滅多に雪が降らない。
「お気を付けてって言うかここ八階なんですけどっ!」
「ぉおっ?」
踏み出した足を瞬時に引っ込める。
次いで顔だけ出してそーっと窓の外を見てみると、なるほど地面は遥か眼下に小さく街灯と共にしか見えなかった。
これは死ぬな、流石の俺でも。
「……ここで死んだら、殺人容疑は森川さんにかかるのか?」
「えっ? えっ? そうなんですか?」
「階段から突き落としたって前科もあるし。 うん。 まぁ九割方他殺の線で決まりだな」
「ご、ごめんなさいごめんなさいっ」
ぺこぺこと。
冴えない大学生に向かって必死に謝るアイドル。
気を抜いたらつい普通の女の娘同様にからかって遊んでしまいそうな雰囲気を持ったアイドル。
他愛も無いウソに、全く持ってまの抜けたリアクションを返してくれるアイドル。
見た目とは別次元で、可愛いと思った。
「許してほしかったら、目を瞑って10秒数えろ。 ゆっくりだ」
「は、はいっ」
子犬の様に従順に。
ぎゅっと目を瞑って、小さく「いーち、にー」と数え始める森川由綺。
その姿を尻目に見ながら、俺は音を立てない様に病室のドアを開けてそのまま廊下に出た。
人の気配の無い、真っ暗な路。
ここが病院である事を除いても、そこはかとなく不気味な風景だった。
「しーち、はーち」
「む、こうしちゃいられん」
そしてそのまま。
一生懸命に数を数える森川由綺を病室に放置して、俺は家路についたのだった。
* * *
「あれ? おい相沢ぁ、お前学生部にお呼びがかかってるぞ。 しかも大至急」
「うそっ。 朝は無かったはずだぞ、そんなもん」
「2コマ受けてる間に貼られたんだろ。 大至急ならちょうど良いんじゃね?」
「ちっ。 今日から学食はアジアンフェアだと言うのに」
学生掲示板を見ると、そこには確かに俺の名前が記されていた。
『1-B相沢祐一 大至急学生部窓口まで』
どうしようもなく腹が減ってはいるものの、ベトナム風生春巻き程度じゃ『大至急』の呼び出しには勝てないのもまた事実だった。
まったく。
どうせなら何用かも明記しといてくれりゃいいのに。
これでくっだらない用事だったら暴れるぞ俺は。
「席、取っとくか?」
「んー……いや、いい。 ベトナムはまた今度にする」
「そうか? じゃあ俺もタイはまた今度にするわ」
暗に、俺の用事に付き合ってくれる事を意味している北川の言葉。
気を遣うなと言ったばかりなのに、もうこれだ。
嬉しいだろバカ。
「ひょっとしたら相沢が必修を落としまくって、もっかい一年生をやるかもしれない瀬戸際だからな」
「ちょっと待て。 チキチキ前期末試験レースで俺に負けた事をもう忘れたのかコラ」
ちなみに、『チキチキ前期末試験レース』と言うのは前期末試験の結果で行われた賭けの俗称である。
『優』が3点、『良』が2点、『可』が1点の総合得点バトル。
採ってる教科もその数も同じ俺と北川だからこそ成立する賭けだった。
結果は勿論、俺の勝利。
他人の金で喰う焼き肉は非常に美味かった。
「それ以外だとすると、まぁ考えられるのは昨日の一件だな」
「……やっぱ病院を抜け出してきたのはまずかったか?」
「まずいって事は無いと思うが、治療費くらい払ってくるべきだったんじゃないのか?」
「ぐはっ。 また無駄な出費か」
「所詮は臆測に過ぎないし。 まずは行ってみるべし」
「治療費請求だったら逃げてやる」
「じゃあ俺が追っかけてやる。 取り立て人、マリリン・マンソンだ」
鉤爪状に指を曲げ、にやっと笑う親友。
ブルータスは裏切り者だった。
* * *
「大至急で呼び出しくらってた相沢ですけど、何の用ですか?」
「えっ、あっ、はいっ、相沢さんですねっ?」
なんだその反応は。
受付のまだ若いおねーちゃんを見ながら、俺は彼女が示した態度に軽い違和感を覚えた。
隣に居る北川も不思議に感じた様で、『?』を三つほど頭に浮かべている。
一般生徒であるこの俺が必須教科を数個落とした所で学生部のねーちゃんにはそんな事は関係無いだろうし、病院の治療費を踏み倒した事だってそんなに驚くべき事ではない。
ってことはアレか、そんなにも俺の顔が格好良くて一目惚れしちまったってか。
………
自分で言っておきながら有り得ぬ想像だと自嘲し、受付の、名札を見る限りでは『山崎さん』に向き直る。
そこでまた山崎さんは一通りはわはわし、何処か遠慮がちに二の句を告げた。
「えーと……つい先ほど、森川由綺さんからお電話がありました」
「………誰からだって?」
「は、はいっ。 緒方プロダクションの、森川由綺さんからです」
北川を見る。
『マジで?』の表情。
山崎さんを見る。
『マジです』の表情。
俺の表情は?
多分だけど、『んなバカな』の表情。
「おいおい山崎さん。 嘘つきは雷様におヘソを取られちゃうんだぞ?」
「う、嘘じゃないですし嘘つきが取られるのは舌ですししかも取るのはエンマ様です」
「じゃあ何か。 山崎さんは”あの”森川由綺が、こんな一般ピープルの俺に、わざわざ電話をよこしたと言うのか」
「だって本当なんですもの……そりゃ私だって電話を受け取った時はびっくりしましたけど」
最後の方はボソボソと歯切れ悪く呟く山崎さん。
なるほど。
それで俺を見た時にあんな驚き方をしてたのか。
要約すると、『貴様、何奴っ!』って感じ。
まぁ俺だって、例えば緒方理奈が北川を名指しで電話してきたら『何者だ貴様っ!』な目で見るとは思うが。
「……判った。 あのバカっちが電話して来た事は信じる」
「ば、バカっ?」
「アイドルの自覚が無いアイドルなんてバカっちで充分。 で? アイツは何て言って来たんですか?」
「あっ、あっ、はいっ。 えーと、『お時間が許すのであれば、今日の午後7時に局の方へご足労願えませんでしょうか』、だそうです」
だ、そうです。
「北川。 どう思う?」
「デートのお誘いか、ワナか」
「やっぱそうだよなぁ」
何しろ相手が『普通』ではない以上、こちらとしても『普通』の範疇で物事を考えてはいられなかった。
どーでもいいような用事でわざわざ電話をかけてくるとは思えないし、かと言ってそれが好意的な感情からだと無条件に思えるほど俺は安穏としていない。
結果として呈される選択肢は二つだったが、昨日の時点で俺が取った言動を考えると答えは自ずから一つに絞る事が出来た。
「……ま、罠だと判ってても引く訳にはいかない。 どっちにしろもう一回は局に行かなきゃならないんだからな」
昨日の夜。
俺は局から病院に搬送され、その病院を脱走して帰路に着いた。
つまり、置いてきてしまったのだ。
TV局に。
俺の愛する彼女、eveを。
きっと今頃は孤独のあまりに泣いている事だろう彼女を思うと、何やら胸の辺りがしくしくと痛んでどうしようもなかった。
「相沢」
「ん?」
「サイン、もらってきてくれ」
「は?」
「森川由綺のだよ。 会うんだろ? 今日」
「いや、たった今ワナだって言ったばっかだろお前」
「万が一の可能性が無いとも言えないだろ。 な、頼むよ」
「報酬は?」
「トムヤムクン奢り」
「のった」
”あの”森川由綺のサインが、たかだか380円の学食トムヤムクンで売買されている事実。
この事を知ったらきっとファンとかは怒り狂うんだろうなぁとか思った。
いや、逆に大挙して押し寄せてくるかもしれない。
380円払うからサイン下さいふーふー。
うわ、おっかねぇ。
「あ、あのー」
「はい?」
「私も、サイン、欲しいなー…とか」
山崎。
* * *
「ゆーいちっ」
「おう、名雪。 どした?」
「んふふ。 イイコト、してあげる」
「いっ、イイコトっ? って、おま、ちょっ、待っ」
制服のチャックを下ろす音が、誰も居ない放課後の教室に響き渡る。
それはとても背徳的で、とても官能的だった。
夕日に照らされて真っ赤な机。
つい先程までの強い筆圧が撒き散らした白いチョークの欠片。
窓の外から聞こえるテニス部の掛け声。
全ては名雪の息遣いを際立たせる為のオプションにしか過ぎなかった。
「くっ……っ!」
「祐一さっきまで寝てたから、元気だね」
それは体力的な事か。
それとも寝起き故に直立不動の姿勢を崩そうとしない愚息の事か。
快楽で頭が白くなっている俺には、それはどっちでもいい事だった。
名雪の小さな口。
短い舌。
甘い唾液。
それら全てを俺の欲望の象徴に従事させてる事を思うと、肉体的な快楽よりも精神的なそれの方が遥かに上回っていた。
「ん……っふぅ……んー」
「バカやっ、人が来たらどう……」
ギリギリの理性が口を付いて出た瞬間。
教室の戸がガラガラと無粋な音を立てて開き、そこに佇んでいたのは―――
「どわあぁぁぁぁ! も、森川由綺ぃっ?」
講義室内の『音』が、全て消し飛んだ。
代わりに残ったのは、間抜けた表情で突っ立ったままの俺一人。
生徒はおろか講師までもがあっけにとられて身動きを取れないでいた。
時計を見る。
午後二時五分。
放課後なんかじゃない。
それどころか此処は高校の教室じゃなくて大学の講義室だし、隣りに居るのは名雪じゃなくて北川だった。
って事はえーと……?
「……随分と楽しい夢を見ていたようだな、そこの男子生徒」
「あー、いや、思ったほどエロくはありませんでした」
直後。
大爆笑と怒声と北川に後押しされて、俺は教室から逃げるように立ち去った。
背中から拍手が聞こえてきたのは何かの気の所為だと思いこむ事にする。
それと、来週からあの授業はもっと端っこで受ける事にしよう。
うん、そうしよう。
「お前な……」
「よし、自主休講になった事だし今日はもう帰るか」
「は? キリ教と哲学は?」
「掲示板見ろよ。 キリ教は休講って貼り出してあったろ」
「うそっ」
「哲学は出席見ないし、第一してキリ教の空き時間を挟んでまで受けようとは思わん」
「……だな。 じゃあ俺も帰るわ」
早々に帰ることを決意するダメ大学生二人。
ちなみに、キリ教ってのはキリスト教学の略称である。
授業中でもロビーや玄関には人のざわめきがあり、その中には笑い声までもが交じっている。
タバコの匂いやコーヒーの匂い。
さっきまで見ていた夢の所為だろうか、俺は大学校内の随所に『高校』との違いを見出さずにはいられなかった。
制服じゃない。
自分の教室なんてのもない。
その気になれば、俺は何時だってこの場から空気の様に姿を消す事が出来る。
望むべくも無い、匿名性。
俺をこの場に繋ぎ止めているモノなんて、それこそ横にいるコイツぐらいなものだろう。
「冬休みは俺もバイトしよっかなー」
「やめとけ。 年末年始にバイトを始めるなんて阿呆のする事だ」
「マジで?」
「年末年始、年度の終わりと始め、夏休み。 バイトの採用率と仕事のキツさは、お前が思ってるよりもずっと顕著な正比例だぜ」
俺が実際に体験したのは、春から夏休みに掛けての居酒屋バイト。
今でこそ自分もその中の一人なのだが、当時は店で一気のみコールをするバカ大学生に本気で殺意を覚えたものだ。
そりゃまぁ大学合格が決定して嬉しいのも判るし、新歓コンパが盛り上がるのも判るし、夏休み突入が嬉しいのも判る。
だが、それとこれとは話が別だ。
自分が苦しい時に他人が楽しそうにしているのを笑って容認できるほど、俺は人間ができちゃいない。
「って、俺が言えた義理じゃないんだけどな。 明日っから家庭教師のバイトも入ってんだこれが」
「取れたのか?」
「この時期からの採用なんて胡散臭いとは思うんだけどな……時給の良さには勝てなかった」
「いくら?」
「週イチで、その度に最低保障が一万つくってさ」
「たかっ!」
「気が合う奴だといいけど。 敵意剥き出しのヤンキーか根暗小僧だったらどうする? そいつと週イチで二人っきりのラブラブ授業だぜ?」
「……それを考えると時給の良さが怪しくなってくるな」
「だろ? 逆に恐いっての」
もし仮に、受け持った生徒が屋根にまで逃げていったとしたら。
俺は屋根の上まで追いかけていって星空の下で授業をしなくてはいけないのだろうか。
……この寒空の下で?
ゴメン、悪いが俺は屋根にまで登らない。
むしろ『エロ本勝手に漁るぞ』って言っておびき寄せる。
「男か、女か。 それすら判ってないからな」
「可愛い娘だったら紹介しろよ」
「バカ言え。 教え子が妊娠させられちまうような事を誰がするか」
「避妊ぐらいするっつーの」
「手を出すことは否定しないのかよ」
猥らな会話をしながら学生部の前を通り、丘を下り、バス停の前まで歩く。
年間パスを買った北川はバス通学なので、俺とはここで別れる事になるのだ。
くそ、いいなぁ、年間パス。
学校自体は都心から若干離れた場所に在るが、俺達が住んでいる場所は結構な都会の中に在る。
駐車場もそうだが、基本的にはマイカーや免許を取得する為に数十万の金を使うくらいならば無駄なほどに発達した公共の乗り物を使った方が便利なのだ。
故に、俺は原チャリの免許しか持っていない。
北川は中免を持っているが、冬の今時期は寒風が厳しいとの理由でバイクには乗らず、こうやってバス通学をしているのだった。
ブルジョアめ。
「じゃな」
「サイン、忘れんなよ」
北川の言葉には応えず、俺はただ後ろ手をひらひらと振るだけに留めておいた。
* * *
駅前に在る巨大なモミの木は、十二月も初めとなれば既にイルミネーションをその身に纏い始める。
多分に早過ぎるのではないかとも思うのだが、しかしせっかくの飾り付けを出来るならば長い間人々に見てもらいたいと云う気持ちも判らないではなかった。
物事の時期を解さない無粋者なのか、人情を重んじる粋な奴か。
飾り付けの時期を決めた奴がどっちでも構わなかったが、とりあえずは自己弁護の意味も込めて後者であると思う事にしておいた。
綺麗な物は、ただ其処に在るだけで人の心を和ませるのだ。
と、人通りの多いロータリーで上を向きながら歩いていた所為か、俺は前から接近してきた人に気付かずに肩同士をぶつけ合ってしまった。
幸いな事にヤン僧(ヤンキー小僧)ではなくおっさんだった様で、そこから変な因縁などは吹っ掛けられる事はなかった。
だが、よかったよかったと思ったのも束の間。
気付けば、指先で弄んでいたバイクのキーが忽然と姿を消していた。
恐らくはぶつかった衝撃で取り落としたのだろうが、何しろ雑多な喧騒の中。
革靴やらスニーカーやらが次から次へと視界を横切る中、灰色のコンクリートの上で銀色のキーを捜すのは非常に困難な事だと思われた。
だが。
「はい」
「え、あ?」
「この鍵、貴方のでしょ?」
目の前にすっと差し出された白く細い手に、俺は一瞬だけ時を止められた。
都会と呼べるこの街で他人の親切に触れる機会などは極稀だし、探し出すのが困難だと思っていた鍵が即座に戻ってきた事にも驚いた。
だが何よりも、こうやって頭の上の位置から『誰か』に手を差し伸べられた機会なんてのは、俺の知る限り一度しかなかった。
雪の降る街で。
湿った木のベンチで。
あの時もこうやって、差し伸べられた手にはあったかい缶コーヒーが―――
「あの?」
「あ、あぁ。 ゴメン、ありがとう」
「どういたしまして。 それじゃ」
紫色の制服にツインテールのちんまい女の娘。
御世辞にもセクシーだとは言えなかったが、その分だけ純粋に『可愛い』と言う言葉が似合っていた。
背筋をピンと伸ばして歩く姿も、見ていてとても心地が良い。
周りの大人よりも頭二つ分くらい小さな女の娘は、しかし少しも周囲に紛れずに景色の向こうへと消えていった。
まだ居るんだな、あんな女の娘も。
「……行くか」
たった数秒の逢瀬で抱いた感情は十一月の雪の様に儚く消え、後に残ったのはまた雑多な駅の喧騒でしかなかった。
それでも、何だか気分が良くなっているのだけは否定できなかった。
* * *
「ったく、やっぱりどこか抜けてやがるなあのバカっちは」
溜息を吐きながら呆れ勝ちに呟いた今の時刻は、午後七時を十分ほど経過した所。
一向に姿を見せる気配の無い森川由綺を待ちながら、まぁそれも当然の事だと俺は思っていた。
『局の方にご足労願えますか』
電話口で森川由綺が言ったらしき言葉通り、俺は『局の方』へと足を運んだ。
嘘は言っていない。
此処は『局の方』だ。
厳密に言えば、一般来客用の地下駐車場だ。
「……『局の方』なんてアバウトな呼び出しで会えるとでも思ってたのか?」
言うまでもないが、TV局ってのは大抵の建物が結構な規模を誇っている。
ましてやそれが全国にネットを広げている大手の局だと言うのだから、後は言わずもがなだろう。
正面玄関で待ち合わせるアイドルも居ないだろうし、スタジオに呼びつけるバカも居ないと思う。
だとすると控え室か人目につかない場所しかないと思い、そこまで絞ったからにはもう答えなんて一つしかなかった。
”あの”森川由綺の楽屋に、何処の馬の骨とも知れないバイトが、しかも野郎が招かれるか。
答えは当然、否。
俺がアイドルでもそんな事はしないし、マネージャーだったとしても許さないだろう。
それ以前に彼女の楽屋の場所を知る手立てを持っていない俺としては結局、この暗くて寒い場所で佇んでいるしかないのであった。
雪が降らない。
風も肌を刺さない。
だけれども冬の近くなったこの時期、やっぱりこうやって独りで所在無く佇む時間に身を置くと、どうしてもアイツの事を考えてしまう自分が居たりした。
雪が降らないからこそ、雪の振る街の景色を鮮明に思い出してしまう自分が居たりした。
「抽象は写実より、より写実的」って言ったの、誰だっけか。
名雪じゃない事だけは確かなんだけれども、そこから先はどうしても思い出せなかった。
名雪。
告白は、俺の方から。
別れ話は、名雪から。
ひょっとしたらこの悲劇は実は喜劇で、泣いたり笑ったり怒ったりしていたのは全て壇上の俺【ピエロ】だけだったんじゃないだろうか。
最近になってふと、そんな事ばかりを思うようになっていた。
恋心を自覚してから八ヶ月。
恋人になってから五ヶ月。
今までの距離を壊すのが怖くて、だけど自分でも制御できない感情に突き動かされて、告白したのは七年ぶりに再開した時と同じ様な雪景色の中だった。
真っ白な雪の中で、真っ赤な顔をしながら頷いてくれた名雪が、バカみたいに可愛かった。
浮気をされて五ヶ月。
嫌いになれなくて、二ヶ月。
そもそも名雪が嫌いになって別れた訳じゃないから、たとえ破局の原因が新しい男の存在だったとしても、俺は名雪自身を嫌いにはなり切れなかった。
嫌いになろうとしても無駄で、結局は楽しかった事ばかりを思い出して。
そして、そっちの方が辛いと気付いたのは、ごく最近の事だった。
「……森川由綺でも探しに行くか」
恐らくはこれ以上此処で待っていても彼女は来ないだろう。
待ち合わせの時刻からキッチリ20分が過ぎた事を備え付けの電光時計で確認し、俺はその場から立ち上がった。
そもそもこの場所で待ち合わせた訳ではないので、別に森川由綺が遅刻したとは思っていない。
でも、それでも何となく虫の居所が悪くなっているのは、隠しきれない事実だった。
あのバカっちを見つけたら、とりあえず文句の一つでも言ってやろうと心に決めた。
幸いな事に昨日のバイトで使った通用口の鍵は掛かっておらず、また守衛の人も朧にだが俺の顔を覚えていてくれた様で、あっさりと通行を許可してくれた。
話を聞けば、どうやら俺は救急車ではなくスタッフの誰かの車で病院まで搬送されたとの事。
なるほど確かに”あの”森川由綺が血塗れになりつつ救急車に乗り込んだとなったら、それは大変なスキャンダルになるだろう。
本人の怪我でない事が発覚したとしても、今度は同乗していた人物の存在が的にかけられる。
森川由綺本人がそこまで考えれるとは悪いが思えないので、俺はそこに第三者の影を思い浮かべた。
が、面倒臭いのですぐに思考を打ち切った。
他の誰が知っていようと、それは俺の人生にあまり関係が無い。
どうせ何があったって「この事は他言無用だ」と釘を刺されて終わりだろうと思うと、いっそ森川由綺本人に会う必要性も無い様に感じられた。
せっかくなので一応は探してみようとは思うが。
「もう傷は大丈夫なのかい?」
訊いてくれたおっさんに、「おうっ」と元気良く答えた反動で頭の傷がズキンと痛んだのは、自分だけの秘密にしておいた。
* * *
局内は、暖かかった。
別に優しいおばちゃんが居るとか人の温もりとかそんな感傷的な事ではなく、ただ純粋に空調によって。
雪の振る街に比べればと自分を納得させていたものの、やはり十二月の地下駐車場は基本的に人間の身体には優しくないらしい。
皮膚に張りついた『冬』がゆっくりと溶けていくのを感じながら、俺は昨日の主戦場である1スタへと足を向けた。
森川由綺の所在は、依然として謎のままである。
わざわざ俺を呼びつけるくらいだからこの局内の何所かには居るのだろうが、それにしたって捜索範囲が広すぎる事も事実だった。
楽屋に居るのか、会議室に居るのか、はたまた本番中なのか。
プロデューサーでもマネージャーでもない俺が森川由綺の動向を逐一把握しているはずも無く、結果として残された手段は昨日の『あの時点』に立ち戻る事のみだった。
無論、あの場に居た人員の殆どが臨時雇いである事は百も承知である。
しかし溺れる者は藁にも縋るのだ、困った俺が人間に縋ったとしても何の問題も無いだろう。
理想形としては、森川由綺本人が1スタに居る状態。
そうじゃなくても何らかの繋がりで森川由綺の動向を知っている人間が居れば、それで俺の目的は八割方達成されたような物だった。
森川由綺が居なくて且つ誰も行方を知らないと云う最悪の場合でも、常勤のスタッフさんに言伝をお願いすればいい。
何だこんな簡単な事だったのかと足取りも軽く1スタに向かった俺は、ほぼ意図的に『こんな簡単な事』にも気付かずに外で身体を冷していた事実を無かった事にしていた。
ウルサイ、バカじゃない。
* * *
「ぉおおおおっ! 少佐だっ! 少佐が戻ってきた!」
失礼な、誰が小太りの大隊指揮官代行か。
1スタに入るなり浴びせ掛けられた歓声とも驚きともつかぬ声にびっくりした俺は、目を丸くしたままそんな事を思っていた。
初めに気付いて声を張り上げたのは、誰だったか。
気がつけば俺の周囲には昨日見た事のあるスタッフで囲いが出来ていて、その垣根は口々に『少佐、少佐』とのたまっていた。
口調や態度から察するに歓迎されているだろう事は把握できたが、どうにも自分が『少佐』と呼ばれている理由が判らない。
判らなければ訊いてみるのが一番だと思った俺は、とりあえず一番近くに居た人に尋ねる事にした。
俺って奴はいつの間に昇進したんですか。
「昨日のあの時、頭からシャツまで真っ赤だったから」
「……それだけですか」
「それと、アイツはよく働いてたからってFDが。 『速くて赤いって言ったら少佐しか居ないだろ』って」
「いや『だろ』って言われても…」
世代が違ったら全く話が通じないと思うのは俺だけなのだろうか。
そんな事を考えながら周囲を見渡せば、しかしその場にいる全員が全員『少佐』の意味を把握しているようで。
なるほど報道関係者とオトモダチになるにはガンダムネタから攻めれば良いのかと、この場を借りて俺はまたしても一つ賢くなったのであった。
いや、実際にはあまり使えそうにも無い知識なのだが。
「で、今日はどうしたんだ?」
「ああ、いや、ちょっとした用事がありまして……」
ちょっとした用事。
そこまで言って、俺はふと考えこんでしまった。
『森川由綺に個人的に呼び出されたんですけど、アイツ今どこにいますかね』
そして考えてみて、改めてその現実味の無さに頭を抱えた。
こんな用事の内容、誰が信じると言うのか。
詳細に説明しようとしたって『大学に森川由綺から電話があった』としか言い様の無いのが現状なのだ。
下手をしたらもう一度、今度は救急車で昨日の病院にUターンさせられてしまうだろう。
それだけは勘弁してほしい。
具体的に言うと治療費が未払いだから。
言いよどんだ俺を見て何事かを察したのだろうか、常勤らしき人々の表情が次第に変り始める。
だがその表情の変化は、多分に俺の予想とは掛け離れたものだった。
共感を伴った笑みとでも呼ぶべきか、噛み砕いて言えば『あーあー、判る判る、皆まで言うな』って感じの笑み。
本来の用事を気取られた場合には出るはずのないその態度に困惑した俺は、それはもう間の抜けた顔を見せていたのだろうと、後々になってからもそう思うのだった。
「あのー?」
「判ってるって。 昨日のバイト代だろ、少佐」
「へ? ああ、まぁ貰えるのであれば一も二も無く手を差し出しますけど」
「自分の口から言い出し難いその気持ち、よーく判るぞ少佐。 かく言う俺も学生時代にはバイト先の店長とケンカしてクビになった月の給料を巡って血で血を洗う大激闘を―――」
『ちぎっては投げ、ちぎっては投げ』と自分の世界に入り始めた照明担当のおっさんはさておき。
なるほど、バイト代。
あまりに衝撃的な出来事がジェットストリームアタックで襲ってきたために、俺はこの世の中で最も大切な物を忘れていたようだった。
少なくとも、今の俺にとって世界で最も大切な物。
労働に対する、正当な報酬。
愛するバイクも敬愛する親友も遠く離れた元恋人すらも、その大切さを噛み締めるにはまず俺が生きていなくてはしょうがないのだった。
そして俺が生きる為に必要なのが、身も蓋も無く言ってしまえばお金である。
英語で言えばマネー。
ただでさえ入り用な年末を笑顔で乗り切れるかどうかは、日々の労働に対する報酬があってこそなのだ。
マルクスもエンゲルスも知った事ではない。
思想じゃ腹は膨れない。
何となく人間の醜い部分が総動員されているかのような自分の思考に少しだけ辟易し、しかしその二秒後にはもう『下らない事』として考えるのをやめにした。
思考でも腹は膨れないのだ。
「ところで、俺のバイト代は一体何処に?」
「んー、FDに訊けば判ると思うけど。 あの人いっつも探すと居ないんだよな。 居なくてもいい時はそこら辺でふんぞり返ってるのに。 空気が読めないって言うか何て言うか」
「ほう……それは悪かったな。 何しろ俺は空気の読めない男でなぁ」
ぽんっと肩に手を置き、そのまま優しく凝りを揉み解すかの様にワキワキと動かす。
マンガみたいな汗を掻きながら振り返った照明のおっさんの前には、言葉通り偉そうな一人の男の人が立っていた。
恐らくはこの人が、FDその人なのだろう。
言われてみれば昨日のバイトでも見かけたような気もしたが、多忙な中で各人の顔まで覚えておけるような余裕は俺には無かった。
よって、初見と云う事にしておく。
「昨日の件は―――」
「おお少佐」
またか。
「―――昨日はどうもご迷惑をかけまして」
「迷惑だなんてとんでもない。 君は臨時雇いにしておくには勿体無いぐらいよく働いてくれた」
「はぁ……俺はただ指示の通りに動いてただけなんですが」
「その指示自体がだ。 昨日のは常勤の奴等ですらマトモにこなせないほどちょっとアレな指示ばかりだったんだよ」
自覚はあったんですねコノヤロウ。
口にも態度にも出さず、俺は曖昧な笑みを浮かべた。
これが出来るようになれば大抵の仕事はこなせる、言わば大人としてのソーシャルスキル。
子供が大人になる為に大事なものを捨てるとしたら、それは恐らく感情を素直に表す機会の事だろうと思ったりした。
「で、なんだっけ。 バイト代だっけ?」
「用件はそれだけじゃないんですが、まぁ一先ずは」
「実はそれの事なんだがな……いや、その何て言うか非常に言い難いんだが……」
「何ですか?」
言いながら、少しだけ警戒する。
バイトの学生如きにFDが言葉を濁すなんて、勘繰り過ぎかもしれないが、やはり何か裏を思って然るべきなのだろう。
誰に対してもこんな考えを持つのは無礼に値するかもしれないが、何しろ俺はそんなに日々を安穏と生きてはいない。
しかしその『何か』が考えても判らなかったので、そこで俺は考えるのをやめた。
人生須く、人間は目の前の問題に適切かつ迅速に対処できればそれでいいのだ。
ボンボンバカボン、バカボン―――
「キミさ、森川由綺と何か関係あるよね」
「ぼんっ?」
「……YESなのかNOなのか解釈に悩む返事だな、少佐」
「あの、いえ、何でそんな風に?」
「だってほら、昨日のカメリハの時に」
「……ああ、そーゆー事ですか」
俺が頭からの流血で真っ赤になり、その事でスタジオ内が一時騒然となった後。
これ以上の騒ぎを嫌った俺が覚束ない足取りでスタジオを出た後。
森川由綺が、追ってきたんだったな。
何処の馬の骨とも判らないADたった一人の為に、番組一つ潰して。
……あれ、俺ってば今ひょっとしてヤバイ?
番組潰した責任とか追及される?
「い、いや、知り合いって言うか別にそんな親しい訳じゃなくてって言うかあの時点じゃ言葉すら交わしてない訳でして」
「あれ? そうなの?」
「まぁ……一応は少し喋ったりしましたけど」
「そうだろうそうだろう。 じゃないと俺も説明できないからね」
「説明?」
何の説明だろう。
そう思った次の瞬間、FDがにっこり笑った。
お世辞にも無邪気とは言い難い、物凄く含みのある笑顔だった。
それはもう、思わず張り倒してやりたくなるぐらいに。
「キミのバイト代、森川由綺が持ってるから」
始めに、何を言っているのだろうこの人は、と思った。
何を言っているのかが理解できたその次は、何をしているのだろうこの人は、と思った。
何をしたのかがようやく理解できたので最後に、何でそんな事をしたのだろうかこの人は、と思った。
思うだけじゃ埒があかないので、取り敢えず訊いてみる事にした。
目付きと口調が心なしか剣呑なものになっていた件については、気の所為だと先に言っておく。
「……ディレクター?」
「ああいや、違うくて、その、森川由綺の方から直々にお願いされてだな」
「………」
「キミとは面識がありそうだったし、まさかアイドルが横領でもないだろうし、申し出るからには何か理由があるんだろうと思って…な?」
笑顔を引き攣らせながらも説明を続けるFD。
その言葉に嘘が無い事は態度や口調で判ったが、それ以上に判らない事が俺にはあった。
それは言うまでもなく、森川由綺の思考回路及び一連の行動。
昨日出会ったばかりで相互理解もクソも無いとは思うが、それにしたって奴の動向が俺にとって難解極まる物である事に違いはなかった。
それともう一つ、今の俺が判らないことがある。
そしてその『判らない事』は、バイト代の一件を経て『確実に知らなくてはいけない事』へとランクアップされた。
こればっかりは、難解の一言で片付ける訳には行かない。
「で、その森川由綺は今、何処にいるんですか?」
「今日は局内に居るはずだけど、詳細なスケジュールは把握してないな。 楽屋の場所なら判るけど」
「……それって、俺みたいな奴が知ってもいいモノなんですか?」
「少なくとも、バイト代を代わりに受け取ったりしてもらうぐらいの関係の人間じゃなきゃ教えたりはしないがね」
ニヤリと笑って、肩をぽんと叩く。
詳細の確認もせずに情報の譲渡を行なおうとする辺り、どうにもこの人は管理職の自覚に乏しいのではないかと俺は思った。
だが、少なくとも嫌いな類の人ではないなとも思った。
「……お願いします」
「うむ」
そう言ってFDはまた、ニヤリと笑った。
* * *
『すたっふ』
FD直筆のそんなネームプレートを胸に付けた俺は、何て言うか警備員に見られたら問答無用で一発レッド(退場)確定の不審者街道まっしぐらな青年だった。
事実、途中で擦れ違う『マトモ』な関係者は俺の事をジロジロ見てるし、中にはくすくすと控え目にだが笑う人までいる。
そりゃ俺だってこんな珍妙なネームプレートをつけている人間が局内をウロウロしていたら怪しむだろうし、場合によっては通報するだろう。
俺は問いたい、何故に直筆だ。
も一つ問いたい、どうして平仮名だ。
そして最後に言いたい、アンタ字ヘタクソなのな。
しかしヘタクソな字をいくら罵っても上手な字に変わる訳もなく、それどころかネームプレートに向かって話し掛けている変態に見える訳で。
これなら俺の字で書き直した方がいいんじゃないかとも思ったが、よく考えれば残念ながらその手段は限りなく『偽造』と呼ばれるシロモノな訳で。
何やら泣きたくなってとぼとぼと局内を歩けば、やがて見えてくる『関係者以外立ち入り禁止』の看板。
警備員の類が守護しているまでとはいかないものの、そこから先の領域は、明らかに『違う』オーラに満ちていた。
一般人の入って行く事が決して許されない『境界線』の、向こう側とこちら側。
本当に俺が入って行っていいものかと胸のプレートに目をやれば、そこに在ったのは何とも頼り無げな『すたっふ』の四文字だった。
捕まったりしないだろうな、コレ。
「……相沢祐一、突貫する」
暫しの躊躇いの後、しかし俺の思考回路は突貫を選択した。
捕まえたければ捕まえろ。
俺には後ろめたい所など何も無い。
だが、大義名分ならしっかりと持っているのだ。
そう、『森川由綺から金を奪い取る』と云う大義が。
「いやいや、違うだろ。 それだと犯罪だろ」
自分で自分に向かってズビッと突っ込みを入れる。
思ったよりもキレのある突っ込みは、その鋭さの分だけ余計に俺を虚しさの境地に立たせる事に成功していた。
この場に北川が居てくれたなら二段突っ込みが成立したのにとか、本当の大義は『森川由綺が俺から奪ったバイト代を奪い返す』のはずだとか。
一人暮らしをすると独り言が多くなると云うのはやはり本当の事らしいと、たった今の実体験から俺はそう思うのだった。
* * *
「居ないし……」
物凄くドキドキしながら『緒方プロダクション控え室』と張り紙がされた部屋をノックした俺に返って来たのは、中に人が居ない事を示す完膚無きまでの沈黙だった。
はてこれはどうしたものかと再度ノックを試みるも、返ってくるのはやはり沈黙。
こっそりドアを開けて中を覗いてみてもやはり返ってくるのは沈黙でしかなく、ここでようやく俺は『スカされた』と気付くのであった。
あの野郎、一度ならず二度までもこの俺を謀るとは。
いや別に森川由綺自体が俺を困らせようとしている訳じゃないんだろうけど。
ああもう、面倒臭い。
早く返って来い。
「……さて、どうしたもんだか」
取り敢えず部屋を覗きながら考えこんでいる状況ってのは、最もヤバイ光景である。
少なくとも俺が警備員なら「ちょっと来なさい」って肩を叩くだろうし、関係者なら「モシモシ警察デスカ」って通報する。
仮にもアイドルの身辺を思うなら身元の知れない、しかも野郎に対しては、過敏になり過ぎるなんて事はないのだ。
そこで第二の選択肢として俺の脳内では、『控え室の前でウロウロする』が挙げられた。
そして、ゼロコンマ五秒で否定された。
中を覗いている状況よりは幾分かはマシなものの、どっちにしろ「キミちょっと署まで」状態である事は間違いない。
じゃあ自販機ゾーンで少し時間を潰そうかとも考えたが、分刻みで動いているだろうアイドルの動きを思えば擦れ違いのリスクは負いたくないのが本音だった。
これでも自称マジメなイチ大学生。
提出期限の迫ったレポートやら授業の予習などの予定は考え出せばキリがないのだ。
無論、その全てをやるかどうかは別として。
最終手段として『中に入って待つ』と云うのはどうだろうと、考える。
これなら擦れ違いのリスクは完全に消え去るだろうし、不審者として他人の目に晒される危険性も回避できるだろう。
だが、いざ緒方プロダクションの関係者に見つかった場合を考えると、安易に決定する訳にはいかなかった。
ストレートに森川由綺が返ってくればそれでいいが、もし仮に何も事情を知らない人間が俺の姿を見止めたらどうなるか。
考えたくもないが容易に想像できる未来が俺の脳裏を過り、ついでにイヤな汗が背中を流れるのを感じた。
やれやれ、本当にどうしたもんだか。
「あら?」
「ん?」
「……どちら様?」
「あーいや、そこは今問題じゃないんだ。 要は俺がどれだけ人に怪しまれる事の無い風体を装えるかであって」
「今の時点で充分に怪しいんだけど……」
「そんなバカなっ。 確かにこの胸の直筆『すたっふ』は怪しいけど……って、アレ?」
何時の間にか『誰か』との会話になっている事に気付き、ふと後ろを向く。
声からして女性である事は予想できていたから、そこの部分に対しては別に驚きはしなかった。
だが残念な事に、それ以外の部分での驚きが、俺に対してはあまりにも大きすぎた。
それは振り向いた俺の目の前にいた女性が、森川由綺の時をひょっとしたら超える勢いで『非現実』だったから。
非現実で、非日常で、ついでに言えば単純にメチャクチャ可愛かったから。
俺は、たった五文字の彼女の名前を呼ぶのにすら、酷く難儀した。
「……お、おが、緒方…理奈?」
「あら、私のこと知ってるの?」
意外そうに言う国民的アイドルの姿に、軽い眩暈を覚える。
知ってるなんてレベルじゃない、そもそもアンタを知らない人間の方を俺は知らない。
どうにも最近の自分は圧倒的な『現実』に流されがちだと自嘲する暇もあればこそ、当然の如くそんな暇などありはしなかった。
緒方理奈。
現在の日本におけるアイドルのトップに君臨する人はと問えば、八割方の人が彼女の名前を挙げるだろう。
前述したアイドル『森川由綺』の先輩にあたるが、その実力は森川由綺を圧倒的に凌ぐとさえ言われている。
歌唱力や技術は勿論、彼女にのみ備えられた一種のカリスマ性。
森川由綺が庶民派の、いわゆる『親しみやすさ』をウリにするアイドルだとすれば、緒方理奈は天性の『アイドル』と言える。
『天才』と呼ばれた緒方英二を兄に持つ彼女のプレッシャーは計り知れないだろうが、彼女ならばそれすらも自らの力に変えて飛び立てるだろう。
―――出典:『週刊現在』
そう、森川由綺にはまだ『親しみやすさ』なるモノがあった。
本人の意図しているところかどうかはさておき、確かに俺もヤツと言葉を交わすのに途中からは違和感が無くなっていた。
だが、緒方理奈は違う。
過敏なまでにプライベートを徹底して隠している彼女は、それだけに【偶像/アイドル】としての完成度が桁違いだった。
ステージ衣装に包まれた肢体は完璧と言えるほどのステータスを誇り、洗練された動きは瞬き一つにまで気品を感じさせる。
初めて見た、『本物』の緒方理奈。
ブラウン管越しに見ているだけでも近寄り難いと思っていた彼女を間近にしてしまった俺の驚きは、それはもうとんでもないモノだった。
「え、な、なんで此処に?」
「だって私の控え室、ここだもの」
ぴっと細い指を一本突き出し、『緒方プロダクション』のプレートを指差す。
説明の必要も無いくらいまっとうな条件提示に、俺は思わず『そらそうだ』と頭の中で頷いた。
目下の所一番の場違いはこの俺であって、緒方プロダクションの控え室に緒方理奈が戻ってくるのは決して不思議な事じゃない。
それどころか不審者として通報されないだけ、目の前の彼女に感謝してもいいくらいだった。
「ところで、あなたは?」
「あー、いや、その、何て言ったらいいのやら……」
1.『森川由綺にバイト代を持ち逃げされた、しがない大学生です』
2.『理奈ちゃんのファンで、一目逢いたくてずっと部屋の前で張ってました』
3.『なーに、名乗るほどのモンじゃあございません』
瞬時に三つの選択肢が脳裏を過ったが、どれを選んでも事態が好転しそうにない事だけは確かだった。
一番は当然の如く信用されないだろうし、二番は最も選んではいけない選択肢だと本能が告げている。
三番は何となく言ってみたい台詞だけど、質問の答えになっていない。
かと言って黙りこくっていてもそれはそれで怪しかったりする訳で、さりとて現状を打破する答えもすぐには用意できない訳で。
あーでもないこーでもないとパニック寸前の頭で色々考えてみたが、妙案の代わりに俺の頭脳を刺激したのは、昨日から引き続きの頭痛でしかなかった。
「っつ……」
難しい事を考えると頭痛がするとかよく言うけど、あれは医学的にも本当の事なんじゃないかと俺は思う。
考え事をするってのは多かれ少なかれ、脳に血液を集める行為に他ならない。
そこに例えば今の俺のように、頭部に怪我を負っている状況が重なればどうなるか。
言うまでもない、頭痛がするのだ。
ちくしょう頭が痛い。
鎮痛剤くらい貰ってから脱走すればよかったかな、昨日の病院。
「その頭の傷……ひょっとして、由綺の? って言うか大丈夫?」
苦痛に歪んだ表情を見たからだろう、何処となく遠慮がちな声が俺の鼓膜を揺らす。
しかし安易に近寄って介抱をしよう等としない辺り、やはり森川由綺との違いは歴然だった。
アイツなら、事の前後など全く関係無しに手を貸すんだろうな。
思い出せる範囲での昨日を思い出し、薄らいでいく頭痛の波間に何故か森川由綺の顔を思い浮かべながら、俺は薄くだが苦笑していた。
「あ、ええ、もう大丈夫だ…です。 で、えーと、その森川由綺の事なんだけど」
「ふーん……あなたが……」
何かに納得しているかのようにゆっくりと言葉を噛みながら、俺の事を上から下まで見渡す。
それからもう一度俺の顔を見て、緒方理奈は一つだけ「うん」と頷いた。
どうやら俺は何かに合格したらしい。
「ね、少しお話ししない?」
「いや、俺まだ何も言ってないんですけど」
「言っておくけど、由綺なら三十分以上待たないと戻って来ないわよ?」
「……お付き合いします」
「ふふ、ありがと」
笑う彼女はやはり、完璧なまでに『アイドル』だった。
* * *
「砂糖とミルクは?」
「へ? あー、いや、俺の分は要らないですヨ?」
「ノアール……ブラックで飲むんだ。 ふうん、格好良い」
実に軽快な勘違いをした緒方理奈の手から渡される、ブラックコーヒーの入った紙コップ。
普段から砂糖もミルクも入れずに飲んでいるからあながち間違いとも言い切れないのだが、現状に対する違和感だけは流石に拭いきれなかった。
コーヒーを奢ってもらっている。
誰に。
アイドルの、緒方理奈に。
自称しがない大学生の俺が経験するのにこれ以上の非現実があるとしたら、誰でもいいから教えてほしいくらいだった。
ああいや、昨日の森川由綺事件も相当にアレな事態だったのだけれども。
「ごめんなさいね。 自動販売機のコーヒーなんかで」
白い湯気の立ち昇る紙コップを両手で包み込むように持ち、俺の横にふわっと腰を降ろす緒方理奈。
さり気無い仕草のどれ一つを取っても『完璧』としか言い様が無い辺りに、俺は自分との違いを改めて感じていた。
アイドル、なんだよな。
「ところでえーと、相沢……なにクン?」
「え、祐一…ですけど」
「ゆういち。 祐一君、か」
「はい?」
「ね、あなたのこと、祐一君って呼んでいい? 私の事も名前でいいから」
「理奈、さん?」
「お高いと思われるのイヤだから、『ちゃん』でいいわよ。 あ、それから敬語もなしね」
「理奈……ちゃん?」
物凄い違和感だ、と思った。
「い、いいでしょ。 みんなそう呼ぶんだから」
少しだけ頬を赤らめながら、納得の様子を示さない俺に向って不満げな表情を見せる緒方理奈。
なんだか判らないけどメチャクチャに可愛い。
だがいくらそんな顔をされたって、違和感を受けるものは受けるんだからしょうがないとしか言いようがなかった。
ブラウン管の向こう側で素敵な笑顔を見せていた『あの』緒方理奈の事を、本日今この瞬間からしかも本人を目の前にして、”ちゃん”づけで呼べ。
普段からアイドルを”ちゃん”づけで呼んでいる方々ならともかく、自称一般人の俺にとってこの注文は流石に無理がありすぎた。
こと環境対応能力に関しては右に出る者など存在しないと自負している俺だが、いくらなんでも物事には限度と順序と云うものが存在する。
仮にその限度を100非日常だとするならば、目の前のアイドルがさらりと言ってのけた要望は実に7800非日常もの数値を叩き出していた。
ちなみにこれは、俺の経験した生涯最高記録である。
「ところで、祐一君」
「はい?」
「あなた、由綺とはどういう関係?」
それは俺の方が知りたいデス。
かなり切実に心の中で思った返答はしかし、決して口に出される事はなかった。
「どんなって言われてもですね……とりあえずあのバカに階段から叩き落されましたけど」
何やら著しく森川由綺の評判を落としかねない答えだったが、嘘ではないのでしょうがないと思った。
勿論、彼女の先輩である緒方理奈に打ち明けるのだからそう大した問題にはならないだろうと踏んでの返答である。
まぁ精々が、『またまたそんな冗談をー』で済むだろうと思って。
だが目の前のアイドルが真っ先に反応したのはそこではなく、俺の予想とは全く見当違いの所だった。
「敬語」
「へ?」
形の良い眉をキッと吊り上げながら、再び不満気な表情を俺に見せる緒方理奈。
あまりの唐突さに何を言われたのかが判断できなかった俺は、なんとも間の抜けた返事をしてしまっていた。
へ?
ケイゴ?
あの二人組ミュージシャンの片割れの名前か?
「け・い・ご」
一言一言を叩き付けるかのように、しかし根底の優雅さは微塵も損ねずに言い放つ。
おっかなさと素敵さが同居している声音に魅せられながら、ようやく俺は彼女の言いたい事を理解した。
「あ、ああ……えーと、『突き落とされたぞ』」
「よしっ」
何をそこまでこだわっているのかは判らないが、とりあえず彼女が『よし』と言うのでそれで良い事にした。
強情に敬語を使い続ける理由も存在しないし(多分に違和感は残るが)、下手に逆らって機嫌を損ねてもらっても何かもったいない気がする。
涙を流す姿が美しいとか物憂げな表情が素敵だとか言う意見もあるが、個人的にはやはり女の娘は笑っている方がいいと思う。
ましてそれが『あの』緒方理奈であれば、尚更の事だった。
「それで?」
「それで……頭を怪我した俺が医務室に向かって歩いてる時にアイツが後ろから歩いてきて……」
『近寄るな』とか『目障りだ』とか言った事は伏せておくことにしよう。
やたらな勢いで本能が鳴らした警鐘に、俺はおとなしく従う事にした。
「で、そこから先の記憶が無いんだ。 気が付いたら都内の救急病院の一室に寝かされてたし、驚いた事に付き添ってたのは『あの』森川由綺だし」
「……だし?」
「挙句の果てにあのバカ、俺の横ですぴすぴと寝ていやがった。 いや、そりゃ毎日がハードスケジュールで疲れてるんだろうなってのは判ってはいるんだが」
「……信じられない。 警戒される対象本人を前にして言うのもなんだけど、あの娘、警戒心とか無いのかしら」
「それは俺も思った。 警戒される対象本人の俺が言うのもなんだが、見ず知らずの男の前でああも簡単に寝顔を晒すアイドルってのもどうなんだか」
そこまで言って俺達は、ふとお互いの顔を見合わせた。
目と目が合い、数瞬の空白があり、ほとんど同時に息を吐く。
それから自然と込み上げてきたのは、あの懐かしい『放課後』の微笑だった。
誰も居ない教室の机の上。
夕暮れ迫る校庭を眺めながら。
他愛もない会話がやたらと楽しくて、俺達は外が真っ暗になるまで夢中で喋り続けた。
授業のこと、音楽のこと、マンガのこと。
そしてその場には居ない、大好きな人のことを。
勿論その会話の内容は本音なんかには程遠く、青臭さに彩られた惚気半分の愚痴だったのだけれども。
『まったくあいつには困ったもんでさ―――』なんて、本当はそんな所を可愛いと思っているくせに、素直になんか欠片もなれなくて。
そしてそんな打ち明け話を共にした俺達は、いつしか放課後の共犯者として意味ありげな笑みを浮かべることになるのだった。
仲間外れなんて大仰なことではなく、本気の愚痴なんかでも勿論なく。
だけど決まって『しょうがない奴だよなぁ』みたいな事を言った後に微笑み合う瞬間が、俺達はもうたまらなく大好きだった。
瞬間、緒方理奈と交わした視線と微笑。
今の俺達はまさに、放課後の共犯者としての笑い方をしていた。
まさか『あの』緒方理奈とそんな笑い方をできるなんて、思ってもみなかった。
無論これは俺が勝手に抱いた感情だし、緒方理奈に押し付けようとも思っていない。
だけど確かに今この時、俺は緒方理奈にある種の『共鳴』を感じてしまっていたのだった。
まったく身の程知らずもいい所だと言うのに。
「俺と森川由綺の関係はこれで終わり。 付け加えることがあるとすれば、今日の七時にあいつから呼び出しを喰らってるって事だけだな」
「由綺が? 祐一君を?」
「あ、ああ……そうだけど?」
「ふーん。 私には一言も言わないで隠しておくなんて、あの娘もやるじゃない」
何やら意味深な事を呟き、ふふっと小さな微笑を浮かべる。
彼女の見せた笑みにどう云った意味が付加されているのかは判らなかったが、とりあえず俺が辿り着いた答えはたった一つだった。
罠の可能性、物凄い勢いで上昇中デス。
言動から察するに、森川由綺と緒方理奈の仲は悪くないらしい。
って言うか相当に良いともとれる。
ライバル関係とか事務所内の云々までは把握できないが、少なくとも緒方理奈が森川由綺の事を語った時に見せた表情は柔らかかった。
それすらもアイドルの付けた『仮面』の範疇であるとすればお手上げだが、個人的な希望的観測も含めて、二人は概ねの所で仲が良さそうだった。
だがその仲の良い先輩後輩の間ですら、『相沢祐一の呼び出し』は秘密にされているらしい。
話題にする必要もないくらい軽んじられているとかなら俺としても非常に気楽なのだが、何しろ前日が前日だ。
極秘扱いを受けているのにはそれなりの理由があるからだと考えてかかるのが、賢いアルバイターとしての選択だと俺は思った。
ブルータスだって裏切ったのだ、あの森川由綺が何を企んだって不思議は無いだろう。
いや、あいつの企み程度なら軽く切り抜けてやる自信はあるんだが。
「ね、相沢君っていつもここでバイトしてるの?」
「いや、ここに入ったのは昨日が初めてだな」
「そうなの?」
「ああ。 そもそもここのバイトは外部の人間をほとんど当てにしてないみたいだし」
「言われてみればそうね。 働いてるのはいっつも同じ人みたい」
「仕事慣れしてる即戦力が欲しいとかの理由も考えられるけど、第一にはやっぱり防犯上の理由だろうな」
なにしろ物騒な世の中だ。
普通のバイト場ですら履歴書の裏を取るご時世に、テレビ局が何処の馬の骨とも知れない人間を雇う訳がない。
審査を厳しくするためには、それなりの人の手が必要になる。
人手も金も使わずに済むのであれば使いたくないってのが、商売人の鉄則。
だとすれば求人の際に内々で回しあうことが慣例となるのにも、そう長い時間はかからなかったはずだ。
「別に悪い事だと言うつもりはないんだが、できれば外に仕事を回してほしいって言うのが本音だな」
「そんなにここでのバイトって条件が良いの?」
「時給換算にすれば家庭教師以外の全てに勝ってるし、何より……」
「何より?」
「こうして、緒方理奈に会えたりもする」
言おうかどうかを数瞬だけ迷って、それでもやっぱり言ってみる事にした軽口。
どうせ二度と会う事もないのだからと思い始めると、それこそ敬語を使わなくても平気になるのだから不思議だった。
だが、
「お上手ね。 でも、そんなお世辞は聞き飽きてるの」
ぴくりとも眉を動かさず、あくまで笑顔のままでぴしゃっと言い放つ。
怒るより照れるより明確な拒絶を見せられた気がして、俺はしばらくの間、口を開くことすらもできなくなっていた。
『彩―イロ―』の見えない微笑。
彼女は再び、『仮面』を被った。
森川由綺の事で一緒に溜息を吐いてみせたりしたあの瞬間に見えた表情とはまったく異質な、『偶像』としての完璧な微笑み。
あまりにも一瞬のことで躊躇う隙さえ与えられなかったが、確かにそれは彼女が『境界線』の向こう側に行ってしまった瞬間だった。
線を引かれた。
「此処からキミ、入れない」と言われた。
そして俺は、『向こう側』の彼女に対して酷く臆病になる自分を感じていた。
「お世辞……にしか取ってもらえないか」
「初対面だもの。 お互いにしょうがないと思わなくっちゃ」
「初対面、か。 まるで二度目があるみたいな言い方だ」
「……ないのかしら?」
あるはずがない。
そもそもこの邂逅すら、本来ならば有り得ない出来事なのだから。
幾億もの砂粒の中からたった一粒同士が出会う事ならば、まだ奇跡と云う言葉を用いれば納得もできるだろう。
だが俺達のこの出会いとは、言うなれば深海魚と高山植物の鉢合わせなのだ。
『偶然では有り得ない確率の事象が引き起こされた場合は外的要因を疑え』と云うのが科学者の一般的な見地であるらしいが、ではこの場合はどんな外的要因があると言うのか。
強いて挙げるとすればそれは『神』とか云う使い古された陳腐な存在を表す言葉でしかなく、そこに到ってまた俺の思考は堂々巡りを繰り返すのであった。
「言っただろ? ここのバイトは外部の人間を極力入れない体制だって」
「それはあくまで雇用側の意見でしょ。 問題は、あなたの意思だと思うわ」
「それも言った。 できることなら外にも仕事を回してほしいってな」
「なら―――」
何故だろう、緒方理奈は不思議なほどに食い下がってくる。
いつの間にかまたその表情は『仮面』の範疇から脱却しているようにも見えて、それがなんだか妙に嬉しかったりした。
だが。
「局が外部にバイトを要請する確率。
俺がその日に他の仕事を入れてない確率。
局の人間が俺を雇う確率。
その日にあんた―――理奈ちゃんがここで仕事をしている確率。
俺の仕事場と理奈ちゃんの仕事場、移動でもいいけど、それが重なる確率」
もちろん単純な計算では出てこないだろうけど、それが天文学的な数値だって事は文系の俺ですら簡単に理解できた。
俺の言わんとしている事を彼女も理解したのだろう、しばらくの無言が二人を包み込む。
特に厭うほど居心地の悪い静寂ではなかったが、好んで続けようと思うほど『それ』は優しくもなかった。
何より、彼女が静寂をどう感じているかが判らなかったから。
だから俺は、この静けさに終幕を求めた。
終わらせようとして選んだ言葉。
唇から紡がれ始めたにもかかわらずその目的を終局に据えられた言の葉は、自分でも驚くほどに懐古と羨望に彩られた音を奏でることとなった。
「嫌なんだ。 その、ありもしない『次』を期待するのは。 できれば二度と」
君には関係ない。
関係のない事なんだけど……
いろんな約束をした。
俺達は、いろんな約束をしていたんだ。
海に行こう。
山に行こう。
映画も見よう、花火もしよう、お祭りにも行こうね。
初めて一緒に過ごした夏は、それでもまだ二人は恋人じゃなかったから。
「来年の夏は必ず」
そう言って俺達は、冷たい小指を絡ませながら約束の誓いを立てた。
嘘ついたら針千本。
飲むのは俺か、それともお前か。
どっちでもいいさ、どうせ夏には戻れない。
『想い』じゃどうにもならない事がこの世には腐るほど溢れてるって、俺はもう知ってしまったから。
立ち上がる。
紙コップを額の位置にまで持ち上げる。
視線を床から緒方理奈の顔に移したその時にはもう、俺は完璧な笑顔を創ることに成功していた。
「変なこと言ってごめん。 コーヒー、おいしかった。 ありがとう」
「……おいしくないわよ、こんな紙コップのコーヒー」
君が一緒に飲んでくれたから。
言おうとして言えない自分がいた。
じゃあ今度、美味しいコーヒーを飲ませる店にでも。
誘おうとして、二の足を踏む自分がそこにはいた。
* * *
さすがにあの言い方はなかったんじゃないか?
昨日に引き続きご登場の相沢Aが、ついさっき別れた緒方理奈との会話に対してそんなご意見をぶちかます。
だが昨日に引き続きそんな事は言われなくても判り切っていたので、俺は相沢Aに向かって「喧しい」と言い放って意見陳情を無かった事にした。
手持ち無沙汰な午後八時過ぎ。
森川由綺はまだ来ない。
こんな事ならもう少し緒方理奈とお喋りを続けていたかった、とは今更になったから思える事だった。
少なくとも、只中の俺はそう考えていなかった。
じゃああの場を一刻でも早く立ち去りたかったのかと言われれば語弊が生じるが、談笑を続けたいと思えなかった事もまた事実だった。
いや、それも少し違うかな。
要するに俺は、会話を続ける自信がなかったのだ。
あまりにも整然とした佇まいの『アイドル』に対し、何を言えば良いのか判らなかった。
結果として俺は、露骨なほどに自分をさらけ出した。
日本を代表するトップアイドルの緒方理奈に。
彼女の言葉を借りれば、初対面であるにもかかわらず、だ。
「死にてぇ……」
新しすぎるほどに新しい恥の記憶は、俺の精神をコレでもかと言わんばかりに責め立てる。
恥の文化を尊ぶべき日本人としては非常に良い兆候なのだろうが、勿論そんなものは欠片も嬉しくなかった。
唯一の救いと云えば、もう二度と会う事もないと云う点だけであろうか。
しかしそれはそれで挽回のチャンスが与えられないと云う事とも同義であり、どちらにせよ俺にとって喜ばしい事態ではない。
どっちに転んでも困り果てるしかないと云うのであれば、今の俺に出来る事は取り合えず「うぐぅ」と小さく呟いてみる事ぐらいだった。
「うぐぅ」
大して何も変わらなかった。
「うぐぐぅ」
アレンジしてみた。
それでも何も起こらなかった。
「うぐぐぐうぐうぐ―――」
「あ、あの……どこか痛いんですか?」
「うぐ?」
「うぐぅ」を激しくミキシングしている最中にかけられた、物凄く心配そうなそれでいて心の奥底に『すとん』と落ちて往く優しい響き。
どうせならもっとマトモな状況で声をかけてもらいたかったと、後々になってからも俺はそう思うのであった。
いくら親しみ易さがウリとは云え『あの』森川由綺に声をかけられたのが、よりにもよって『うぐぅミキシング中』ってお前……
ダメだ、死にてぇ。
「……よう、昨日ぶり」
「あの、えーと……頭、大丈夫ですか?」
状況と重ね合わせて考えた場合、その発言は凄く俺の心を傷つけるからやめてくれ。
言おうとして、どうせこいつは一発で理解してくれないんだろうなと思って諦めた。
自分で自分の発言にフォローを入れるのは悲しすぎる。
それが軽いボケの意味も含めているのであれば、尚更だった。
「別に頭が痛くて唸ってた訳じゃない」
「そうなんですか? でもすごく痛そうで……」
まだ引っ張るか。
ま、こいつの場合は単純な『心配』にプラスして『自分の所為だ』って引け目があるからだろうけど。
……気にするなって言っても難しいんだろうな、やっぱり。
「昨日言っただろ。 あんたはあんたの出来る事をやればいいんだ。 少なくともこの怪我は、あんたが心配したからって塞がったりはしない」
「あ……昨日と言えば」
「ん?」
「逃げましたよね。 私を置いて」
じーっ、と。
あくまで控えめながら明確に咎めの意味を付加した視線が、森川由綺から俺に対して叩きつけられた。
それも怒りから来る咎めではなく、どちらかと言えば『どうしてそういうことするかなぁ…』ってな感じの抗議の視線。
無視しようとすれば簡単に出来てしまうくらい弱々しい眼差しに、これならまだ高圧的に叱られた方がマシだったかもしれないと俺は思った。
ぬぅ、なけなしの罪悪感が。
「判った、ごめん。 あの場に置いてった事は謝る」
「……すごく怖かったんですよ?」
「まぁ俺としては血で汚れたステージ衣装を着た黒髪の女が夜の病院を歩いてる映像の方が圧倒的に怖いんだが」
言ってからその情景を想像してみて、本格的に恐ろしい映像だと思った。
B級スプラッタホラーも真っ青だ。
「あ、あなたがそう云う事を言うんですかー?」
「いや悪い、つい本音が」
「本音……じゃダメな気がするんですけど」
がっくりと肩を落としながらうなだれ、再び恨めしげな視線を浴びせかけてくる森川由綺。
そのあまりにも『普通』の仕草に、俺は自然と浮かんでくる笑みを隠しきれなかった。
考えてみれば七月のあの日以来、いやそれよりももっと前からか。
俺の周りには、こんな会話がまったくないのが普通の事になっていたんだ。
北川と喋っている時ともまた違う、形容の仕方も判らないようなぬるま湯の感覚。
あの頃は日常の中でしか得られなかったこの感覚なのに、今の俺は圧倒的な非日常の中でそれを感じていた。
森川由綺。
昨日は気付かなかった、その声の優しさも、視線の暖かさも。
出来ることなら今少しの時間だけでも君との接点を―――
「由綺さん、そろそろ宜しいでしょうか」
「え、あ、ごめんなさい。 喋りすぎちゃったかな」
「いえ。 ですが、用事は早めに済ませたほうが良いかと思いまして」
そう言ってから俺の方に向き直る、主観的に見れば大人の女性。
整った顔立ちもタイトなスーツから立ち上る色香も他人に不快感を与えるものではなかったが、ただ一つだけの部分で彼女は圧倒的に他人を拒絶していた。
まるで感情と言うものが感じられない、冷たい眼差し。
暗闇に明滅するだけのライトを模したかのような色の無い視線は、さながら機械の様に『俺』と言う人間を分析しているかのようにも思えた。
「初めまして…ではありませんね。 私、森川由綺のマネージャーの、篠塚弥生と申します」
「……俺とあなたは初対面のはずですが?」
初めましてではないと言う彼女の言葉を頼りに、記憶の糸を手繰り寄せてみる。
だが該当する出来事は一つして浮かんでこず、俺はまたしても傷が痛むほどの過負荷を頭に与えることとなった。
くそ……頭が痛ぇ。
「記憶の混濁……あれだけの裂傷と出血では無理もありませんね」
「説明、してくれますか?」
「あ、あのですね、実は昨日あなたが意識を失った後――」
す――と。
森川由綺の口元に伸ばされた手が、その後の言葉を摘み取った。
次いで篠塚弥生と名乗った女性が見せたのは、俺に向けたものとは全く異質の表情。
「私が説明します」と優しげな口元が紡いだ言葉すら、俺に向けられていたものとは全くの別物であった。
それからまた俺に向き直ったときにはもう、彼女の瞳に温度は宿っていない。
つい二秒前まで見せていたものとは対照的な温度を叩きつけられた俺は、その事によってある一つの事を確信するに到った。
彼女には、感情が無いのではない。
ただ俺に向ける感情と言うものを必要としていないだけなのだ、と。
「順を追って説明します。
まず、意識を失った相沢さんを森川が発見し、マネージャーである私に連絡を入れました。
救急車の到着を待っていては手遅れになるかもしれないとの判断から、都内の救急病院までの搬送は私の車で行いました。
移動中の車内で相沢さんは数回に渡る不定期な覚醒をなされ、その際に相沢さんと私とは若干の会話を交わしました。
それを指して私は『初めましてではない』と云う表現を用いましたが、どうやらその事は覚えていらっしゃらなかったようですね」
なるほど、やっぱりな。
森川由綺のマネージャーの口から語られる『欠落した昨日』の情報は、俺が予想したものとほとんどの部分で合致していた。
スキャンダルを恐れ、救急車以外の運搬方法を提案した第三者。
手遅れになるかもしれない云々の部分は俺の判断の及ぶ所ではないが、少なくともそれだけが救急車を嫌った理由ではないことは確かだった。
女マネージャー、篠塚弥生。
意識不明の流血野郎を目の前にしてもアイドルの世間体を最優先に考えられるその心根は、ある意味では賞賛に値するのかもしれなかった。
だが。
「昨日限りのADとしてバイトに入っていた、相沢祐一です。 ご迷惑をおかけしました」
言って、ぺこりと頭を下げる。
言葉や態度とは裏腹に、俺はその動作や声に一切の感情を絡ませなかった。
社交辞令よりも露骨な、今の状況でこの相手にのみ通じるであろう一種の『サイン』。
『挑発』と言うよりも『応答』と言った方が近いような無礼さはしかし、俺以上に聡明であろう彼女の理解を得るには十分なほどの判りやすさを秘めていた。
「……なるほど。 これは意外と早く話がつきそうですわね」
「そうですね。 俺も回りくどいのは嫌いな方なんで」
「え? なに? どうしたの?」
一人、蚊帳の外で『?』を浮かべまくっている森川由綺。
俺の顔とマネージャーの顔を交互に見やっては首を傾げるその仕草が、なんだかとても可愛いものに見えたりした。
別に慕情を抱いた訳じゃない。
この思いはきっと、仔猫を見たときに抱くものと同系列のものに違いない。
俺みたいな一般人がアイドルをどうこうしようなんて思考の片隅に置いたこともなかったし、これからだって抱くつもりは欠片もない。
ただ、ただ一つだけ残念だと思う事があるとすれば。
こうしてもう二度と会えなくなるって瞬間になってようやく、目の前にいる森川由綺ともっと一緒に居たいなんて思い始めるなんてな。
「昨日の件について、俺からは一切の口外はしない。 ここのバイト…はあんた等の方から手配すれば俺が入る事もなくなるだろう。
後は俺の感情の問題だが、それもまぁ些細な事だ。 そもそも接点なんか最初から無かったんだからな、どうせすぐに忘れるさ。 それで全ては事もなし、だろ?」
もう少し以前から、森川由綺を知っていれば。
森川由綺に、関心を持っていれば。
街頭で流れる歌に耳を傾けていれば、ブラウン管の中で笑う姿を見止めていれば。
きっとあの出会い方だけはどうしようもなかったんだろうけど。
頭の傷だってこれっぽっちも良くなったりはしなかったんだろうけど。
だけど。
「えーと、あの? 何の話ですか?」
組み合わさっていたパズルが一つだけでもずれていたとしたら、俺はキミに、あと少しだけでも優しくする事ができただろうか。
怒鳴ったりせずにいられただろうか、夜の病院に置き去りになどしたりしなかっただろうか。
数えるほどしか目にしていないキミの仕草や声や眼差しの一つ一つを、もっと確かにこの胸に記憶する事ができただろうか。
だけど全ては繰り言にしか過ぎず、今からまた俺達は何の接点もない人間同士になる。
それも信じられない事に、意図的に、だ。
意図的に俺はキミの事を忘れる。
声をかける事すらも、意志を持って止めなくてはならないのだそうだ。
まったく、何の冗談だか。
その制限には大前提として、『相沢祐一と森川由綺の親交』が必要だと云うのに。
そして俺と森川由綺の間には、そんなもの欠片も存在していないと云うのに。
『心』なんか要らないのか。
そんなものを排除した世界だからこそ『彼女達』は、この世界で輝いていられるのか。
必要なのはシステム。
そして外界に向ける綺麗で素敵な笑顔の仮面。
面白い、面白い、反吐が出る。
「これ、お預かりしていたバイト代ですわ。 どうぞお確かめになってください」
マネージャーの手から『給与』と書かれた封筒と共に、人質に取られていた諭吉が戻ってくる。
まさか横領でもないだろうと受け取ったまま懐にしまおうとしたが、二つ折りにした段階で俺はその違和感に気付いてしまった。
失礼無礼ならず者、全ての罵倒を判った上で封筒の口を破り捨てる。
まさかの行動だと思ったのだろう目を丸くしている森川由綺の前で俺は、封筒の中から出てきた諭吉『数人分』に不快感を露にした。
「……なんの真似だ」
「話の判る方だとお見受けしていましたけど…説明が必要ですか?」
手切れ金。
いや、口止め料か。
貧乏学生には金でも掴ませとけば従順になるだろう、ってか?
「くっだらない事しやがって……」
「単なる副収入とお考えくださいませ。 それでこの世は事もなし、ですわ」
「気に入らないな。 最っ高に気に入らねぇよ」
「考え違いをなさっているようですけど、私はそのお金で『約束』を買ったつもりはありません」
「なら、なんのつもりだ」
「労働災害手当て、と言う名目にでもしておいてくだされば結構です。 もっとも、それ以外で相沢さんが納得できるものがあればそちらでも構いませんが」
あくまで感情を見せず淡々と事務をこなすかのような話し方に、激情を駆られる。
最近ではもう感じることすら稀になっていたその赤黒い焔は、生まれた次の瞬間にはもう俺の全身を灼き焦がしていた。
バイトの日当は、突っ払いで一万キッチリ。
何人いるかも判らない諭吉の中から一人だけを取り出した俺は、その残りを封筒と共に強く握りつぶした。
眉一つ動かさずに俺の行動を観察しているマネージャーと、さっきより更に目を丸くしながらおろおろしている森川由綺。
さすがにこいつに罪は無いのだが、この場に立ち会ってしまったのを不運だと思ってもらうしかなかった。
悪いな、森川由綺。
あと一回だけ、困った顔をさせちまう事になるわ。
「貰った金ならこいつは俺の自由にさせてもらう。 それでいいんだな」
「ええ、構いませんわ」
「なら……おい、森川由綺」
「ひゃいっ?」
唐突に自分の名前を呼ばれて驚き、変な声で受け答えをしてしまうアイドル。
マネージャーでもない上に原因である俺が言うのもなんだが、咄嗟の対応にはもう少し気を配ったほうがいいと思った。
「これ、やるよ」
「え、あ、えっ?」
ぽいっと投げられた封筒を、わたわたしながら受け取る。
受け取ったら受け取ったで、今度はそれをどうしていいのか判らずにわたわたし始める。
蚊帳の外ながらも一応の事態は把握していたようで、つまりそれは自分が受け取ったのが万札である事も理解していると云う事だった。
「昨日の迷惑料だ。 取っとけ」
「そんな…迷惑だなんて」
「ならクリーニング代だと思え。 なんなら感謝の証だと思ってもらっても構わない」
「でもっ」
「要らなきゃ捨てろ。 とにかく、その金は俺がお前にやったものだからな。 後は好きにしろ」
言った後で、マネージャーと視線がぶつかり合う。
俺の行動に何事かを言おうとしていたようだったが、これ以上事態がややこしくなるのを嫌ってか、ついに口を挟むことはしなかったようだった。
ただしその代わり、今まで温度が感じられなかった俺を見る眼差しにはいつの間にかたった一つの感情が見て取れるようになっていた。
そう、その感情の名前は、限りなく強い『嫌悪』。
「では、私達はまだ仕事が残っておりますので」
「ああ」
「あの、でもまだ私……」
「さ、由綺さん、参りましょう」
まだ戸惑いを色濃く残す声が聞こえ、しかしそれもマネージャーの声に遮られてぷつりと途切れる。
徐々に遠くなっていく、二人分の足音。
もうすぐ聞こえなくなる。
そして俺達は永遠に―――
「由綺!」
「えっ?」
気が付いたら、その名前を呼んでいた。
理由なんか判らないけど、何故だか馬鹿みたいに焦っている自分がいた。
呼び止めたって、何ができる訳でもないのに。
住む世界の違う彼女に、何が言える訳でもないのに。
そもそも俺が、何をしたかったのかすらも判らないのに。
白い蛍光灯に照らされた廊下。
俺が立ち入る事を許されない『聖域』。
突き付けられている嫌悪と監視の眼差し。
強く名前を呼ばれたことに不思議そうな顔をしているアイドル。
全てはただ、立ち位置を間違えた弁えぬ愚か者を責め立てるために存在しているかのように思われた。
接点を求めた事すらなかった。
『生きている』キミを見ることなんて有り得ないと思っていた。
ましてこうやって言葉を交わしたりすることなんて、誰が何の悪戯でやっている事かと勘繰ってしまうくらいの出来事だった。
同じ空間に生きていながら何処まで進もうとも特異点を迎えることのない俺達の道は、さながら『ねじれ』の関係だなんて。
思っていた、考えていた。
そしてそれは、今日と云う日を迎えてついに実感するに到った。
「あー、いや……恐らくはもう二度と会う事もないだろうから、最後にこれだけは言っておこうと思ってな」
「何を、ですか?」
「昨日の事。 ありがとうな…本当に」
「そんな、元々は私が…」
「申し訳ありませんが、『約束』の効力はすでに発動しています。 由綺さん、行きましょう」
「これだけは嘘じゃなく、感謝してる。 嬉しかったよ、あの時、追いかけてきてくれて」
「でも弥生さんっ、これじゃまるで――」
「話は終わりました。 予定も押してます。 さあ」
「頑張れよ、森川由綺。 応援してる。 それじゃあ」
「ま、待って――」
「さよなら」
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