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今夜の番組チェック


 

 

「と、云う事が昨日ありまして」
「それはまたえらく妄想力に富んだ夢を見たもんだな。 やっぱりもう一回病院に行ったほうがいいんじゃないか?」
「安心しろ。 少なくともお前が将来に抱いている展望よりは、至極まっとうな現実を生きている」
「……なら、本当の本当の本当に『あの』緒方理奈にコーヒーをゴチになったって言うのか?」
「ゴチになったどころじゃない。 俺と彼女はすでに敬語を抜きにしてお喋りをする仲だ。 ちなみに彼女を呼ぶときは『理奈ちゃん』って言わないと、若干不機嫌になる」
「なあ相沢」
「おう」
「昨日に引き続き思った事をぽろっと口に出していいか?」
「どうぞ?」
「あー、えーと、ぶっちゃけ有り得ねぇ」
「それについても安心しろ。 当の本人が説明しながら有り得ないと思ってたから」

内面はどうであれ表面上は全く抑揚の無い声音でぐだぐだとお喋りをしている、水曜日の二コマ目。
出席さえしていれば単位が貰えると云うこの素晴らしき講義は、しかしその分だけ教授の適当さも相当なものだった。
『寝たければ寝ろ、腹が減ったら飯を食っても構わない、出て行くときは静かに出て行けよ』と一発目の授業で公言したこの教授の名前は、室田と言うらしい。
大学生ともなれば『自由』と『無秩序』の違いくらいはさすがに理解しているようで、現にこの授業の雰囲気は他の講義と比べてもとても落ち着いていた。
もっともそれは、俺たち二人を別としての話ではあるのだが。

「……うん、マジで有り得ねぇ……いくら頭に血が上ってたからって、アレはないだろ」
「ん? 緒方理奈に一方的な愚痴を言った事か?」
「違う。 いや、それもあるんだが」
「マネージャーに喧嘩を売った事?」
「違う。 あーいや、半分ぐらいはそれの中に含まれてるんだが」

昨日。
あの時。
あの場所で。
俺は。

「福沢大先生を……最低でも五人は……」
「ああ、その事かい」
「プライドじゃ腹は満たされないって判ってたはずなのに……俺はなんて馬鹿な事をっ」

思い返しただけでも腸が煮えくり返る。
それと同時に腹が減る。
記憶の発掘にも怒りの持続にも莫大なエネルギーが必要だと気付いた時にはもう既に遅く、俺の意識は講義室から学食へと浪漫飛行していた。
アジアンフェアー二日目、今日の目玉はカルビ・チムとヤアアム・ヌエア。
ただでさえキャパシティーの少ない食堂の席と混雑ぶりを考えると、オシラサマ信仰と馬頭観音の間に見受けられる様々な共通性など些細な事にしか思えなくなっていた。

「北川、行くぞ」
「どこに」
「学食」
「まだ早いだろ」
「崩御なされた故福沢大先生を偲んでのヤケ食いだ」
「ったく、殺したのはお前だろうに」
「ついカッとなってやった」
「反省は?」
「していない」

「後悔なら腐るほど」と付け加えて、それから俺は静かに講義室を抜け出した。
「ダメじゃねーか」と言う声が後ろから聞こえてきたので、どうやら北川も俺の後に続いたようだった。

 

 

* * *

 

 

「あれ? 相沢ぁ、お前また学生部に呼び出されてるぞ。 しかもまたまた大至急」
「は? それ昨日の張り紙だろ」
「いやいや、ばっちり今日の日付だぜ。 心なしか『大至急』の文字が昨日より力強い気がするけど、お前何かやったの?」

何かやったのと訊かれれば、何もしていないと答える事ができない自分が恨めしい。
恨めしい目付きで学生掲示板をギロリと睨み付けてみれば、そこにはまぁ予想通りの呼び出しが張り出されてなんかいたりした。
『1-B相沢祐一 大至急学生部まで』
なるほどたしかに言われてみれば、『大至急』の文字が昨日より自己主張を激しくしている気がする。
せっかく室田さんの講義を途中で抜け出してきたと云うのに、この仕打ちはあんまりなんじゃないかと思った。
ひょっとしてアレか、アジアは俺を嫌いなのか。

「ま、何はともあれ行かないとダメなんだろうな、やっぱり」
「ひょっとしてアレじゃないか? 森川由綺から再度のお誘いとか」
「っは、冗談。 言っただろ、俺と『あっち』の世界は完全に断絶したんだって」

『言っただろ』
そう、俺は北川に昨日の顛末を全て話していたのだった。
口封じの為に呼ばれたこと、その際に幾許かの金を掴まされたこと、その際に俺が抱いた感情まで。
森川由綺のマネージャーと交わした口約束の段階では、昨日の件について俺からの口外はしない事となっていた。
だがよくよく考えてみれば、北川はその約束以前の段階で『事件』のほぼ全てを知っていたのだった。
だとするならば、今更の緘口令なんてこいつには無意味だろう。
そもそも俺が口外しないと誓ったのだって『無関係の人間にむやみやたらと』と云う前提があったからな訳であって。
はっきり言ってしまえば、約束なんてしてもしなくても同じなのだった。
飲み会での自慢話にしようだなんて思っちゃいないし、頭の傷をネタに森川由綺をどうこうしようとも思っちゃいない。
何より俺がべらべらと『事件』を流布することで一番困るのが、あの真っ白な病室の中ですぴすぴと寝息を立てていた、とても可愛い彼女だと判り切っていたから。
細っこい手足、綺麗な黒髪、ちょっとマヌケな言動。
困らせたくなんてなかった、嘘なんかじゃない。
だからこそ俺は、ある程度内容が知れていた呼び出しにも冷静に応じたのだ。
蜘蛛の糸より細い接点が途切れる程度で彼女が安心を得ると云うのであれば、一も二もなくそれに応じようと思っていた。
そしてだからこそ、金をちらつかせて俺を抱きくるめようとした『奴等』が癇に障ったのだった。

「今更になって気付いたわ。 森川由綺って、実は可愛かったのな」
「……すげー今更だな」
「ああ……今更、だ」

そう言えばあいつが笑った顔、一回も見てないな。

だがそれすらも今更に過ぎる事だと思考を打ち切り、俺は掲示板に背中を向けた。
どうせブラウン管の中のあいつは、いっつも笑っているのだろうと思いながら。

 

 

* * *

 

 

「二日連続して大至急で呼ばれた相沢です。 俺のアジアンフェアを返せ」
「わ、私が奪った訳じゃありませんからねっ」

昨日に引き続き受付に座っている山崎さんを見つけ、不満の声を思い切りぶつけてみる。
向こうも俺の顔を覚えていたようで、初見の時よりはやや打ち解けたようにも思える言葉を返してきた。
だがしかし、その表情は昨日にも増して一段と訝しげである。
口語で表すとすれば、「あなた本っ当に何者なんですか?」な感じだろうか。
およそイチ学生を見るにはふさわしくない視線をたっぷりと浴びせ掛けた後で、山崎さんはようやく『大至急』の中身を口にした。

「えーと……つい先程、お電話がありました」
「ちょっと待てストップ。 落ち着け山崎さん」
「……私は冷静です」

ぷぅっと頬を膨らませて不満を表現する山崎さん。
その小リスのような仕草に7%ほどは和ませてもらったものの、残る93%は依然として警鐘を打ち鳴らしまくっていた。
まさか。
そう、それこそ本当に『まさか』の出来事だ。
昨日の時点であれだけ完璧に絶縁を果たした以上、向こうからコンタクトを取ろうとしてくるなんて絶対に有り得ない。
有り得ないはずなのに、じゃあ俺はどうして今、『大至急』で呼ばれている?
森川由綺は当然論外。
親父、母さん、どっちも論外だ。
何故なら二人とも、俺の携帯の番号を知っている。
火急の用事であれば真っ先に携帯にかけてくるだろう、そっちの方が確実だ。
それ以外で……それ以外で考えろ。
俺に火急の用事がありつつも俺の携帯番号を知らず、かつ学生部に『大至急』の張り紙を出させるに足る関係の人物と言えば―――

「水瀬の母さんとかじゃね?」
「っ!」
「そんなに驚いた顔すんなって。 普通に考えたらそこに辿り着いただけだ」

それは絶対に『普通』じゃない。
言おうとしたが、不毛な論争になりそうなので見送る事にした。

「……おーけー山崎さん。 心の準備は整った」
「はぁ、そうですか」
「で、誰からの電話だったって?」
「えーとですね、緒方理奈さんです」

………
……

「よし、心の準備は整った。 で、誰からの電話だったって?」
「聞かなかった事にしてやり直そうとしないでくださいっ。 私だってびっくりしたんですからね」
「……悪いが、素でもう一回訊く。 誰から電話があったって?」
「いいですか? 緒方プロダクションの、緒方理奈さんから電話がありました。 それも思いっきり名指しで、です」

『満足ですか?』と言わんばかりの山崎さん。
北川を見る。
『マジですか?』の顔。
もう一度山崎さんを見る。
『マジです』の顔。
じゃあ俺の顔は?
決まってる、『そんなバカな』の顔だ。

「相沢……今までも散々思ってきた事だが、今回ばかりはさすがに言わせてもらうわ。 お前、何者だ」
「じゃあ私も言わせてもらいます。 あなた、何者ですか?」
「ちょ、ステレオで珍獣扱いするんじゃねえ! 俺の名前は相沢祐一、没個性を信条に掲げ社会に埋没した一般市民だ、ヨロシク!」

言ってみてからそれはそれでどうかと思ったが、珍獣扱いよりは遥かにマシだと自分に言い聞かせることにした。
出る杭はスマッシュ。
それが世の常、人の常。
余計な摩擦を避けるために費やしたと言っても過言ではない穏やかな学生生活を送ってきた俺なのに、何がどうしてこんな事になったのやら。
大変だぞスカリー。
いやモルダーはどうでもいいのだけれども。

「……で、緒方理奈は何て?」
「今晩午後七時、お時間が許すようでありましたら、局三階にある緒方プロダクション控え室までご足労願えませんか、と」

昨日と同じような文句を口にする事に多少の躊躇いを感じたのだろう、山崎さんの口調がさっきまでとは違った色になる。
しかし当事者であるところの俺はと言えば、ここ二日ばかりでその圧倒的な非現実にも慣れてしまっていた。
いや、『慣れた』と云うのとも微妙に違うのかもしれない。
現に『あの』緒方理奈からの呼び出しに、心臓はバクバクしている。
頭ではありえないと思っている。
だがそれと同じくらいにやたらと自己を主張してくるのが、昨日の緒方理奈を焼き付けた記憶回路だった。

少なくとも、悪い娘ではない。
一度くらいなら騙されても構わない。

一時間にも満たない会話の切れ端が、泡沫の様に浮かんでは消える。
甘くも優しくもない、だけどあの娘と一緒に飲んだコーヒーの味が蘇ってくる。
九割九分の確率で罠だと判っていながらも、俺は残る一分に賭けてみたいような気がしていた。

「……行くのか?」
「ん……まぁ、呼ばれたからにはな」
「行かないほうがいいと思うぜ。 何しろ、昨日の今日だ」

『あっち側』の住人が俺にした事。
俺に求めた事。
それらは全て、今朝の段階で北川に話してある。
だからなのだろう、『境界線』の向こう側からの電話に、北川はいつになく厳しい表情を見せていた。
決して相容れない世界で行われた茶番劇。
それがつい先日、俺を傷つけた。
勿論『傷ついた』なんて泣き言は一言も口に出していないが、それでも。
不必要な傷なら負わない方がいい。
ましてそれが『違う』世界の人間からなら尚更だ。
察しが良すぎる親友の心遣いは、今の俺にとって何よりも愛すべき『現実』のパーツだった。
だが。

「あんまり平和な世の中じゃ格好悪すぎる。 だろ?」

関係を拒絶し。
金をちらつかせ。
この上まだ何かを言う事があるのであれば、面白い、上等だ、言ってみろ。
ただしこれだけは先に言わせておいてもらうが、俺のリミッターは既にアガっちまってるからな。
これ以上の鬱積なんか一ミクロンだってできやしない。
昨日あの時あの場所で、これ以上の『上積み』と『暴発』は完璧なまでにイコールで結ばれたんだ。
しばらく忘れていたこの感覚。
思い出してしまったからにはもう手遅れだ。

「まさかお前……」
「別に手当たり次第に宣戦布告しようって訳じゃないぜ。 いくら俺でもそこまで馬鹿じゃない」

そう言えば元々俺は気長な人間じゃなかったんだよな、とか。
思い出せる限りで最も直情的に生きていた日々を思い描けば、それは北川とつるんでバカな事ばかりやっていた高校時代だった。
いろんな事があった。
かなり無茶な事もした。
でも、あの頃に必死になってやっていた事は、今の生活に何一つとして生きていなかった。
強く握っていた拳も。
熱く滾っていた血潮も。
少なくともあの頃の俺は、『誰か』の言いなりになって薄い作り笑いをする未来の為に生きていたんじゃないはずなのに。

「ただ……最低限の我は張らせてもらうさ。 これ以上の流されっぱなしは、さすがに性に合わないんでな」

『緒方理奈の呼び出し』、なんて嘘に決まっている。
二日続けての『森川由綺』じゃ効果が薄いと思った『誰か』が、言わばエサとして『緒方理奈』の名前を出してきたのだろう。
冴えない大学生なら一も二もなく飛びついてくるだろうとの予測の基に持ち出された、現在のアイドル界で考え得る限り最高の『撒き餌』。
この俺ですら存在を知っているくらいの知名度なのだから、実際に何も知らない野郎が呼び出されたのであれば、その効果は抜群のはずだった。
だが今の俺は、背後で動く一人の人間を知っている。
恐らく今回の呼び出しも彼女が仕組んだのだろうと思うと、例えそれが罠だと判っていても出向かなければいけないような気がしていた。

森川由綺のマネージャー、篠塚弥生。

『緒方理奈』の名前で呼び出しをかけたのは、十中八九この人で間違いなかった。
俺がアイドルの名前に振り回される人間であれば、それでよし。
たとえ裏に彼女の存在を勘ぐったとしても、そこまで読める人間であれば逆に誘いに乗ると踏んだのだろう。
そして恐らく彼女は、昨日の俺の行動も全て把握している。
昨日の俺が緒方理奈と会ったと云う事実を知っているからこそ、彼女は呼び出しに『緒方理奈』の名前を使ったのだ。
篠塚弥生へと向けられる、九割九分の敵愾心。
緒方理奈へと向けられる、たった一分の信頼感。
思考の陰と陽とが刹那に混ざり合ってしまえば、相沢祐一にはこの呼び出しを断る術が残されてはいなかった。
見事に絡め取られた舞台の上、気が付けば踊らされている。
やれやれ、これだから年上の女ってのは厄介だ。

「かと言って、年下趣味って訳じゃないからな?」
「何言ってんだお前」

一転、呆れた顔の北川が印象的だった。





* * *





家庭教師のバイト。
あまりにも衝撃的な緒方理奈からの呼び出し(とりあえずそう云う事にしておく)で忘れかけていたが、今日の俺にはそんな用事があったのだった。
学生部に立ち寄ったついでに入手した書類によれば、俺が担当する生徒の名前は『観月マナ』と云うらしい。
蛍ヶ崎学園の三年生で、性別は女。
性別が発覚した段階で北川がやたらと元気になっていた件については、親友のよしみで深くは言及しないことにした。

「しかし三年生か……厄介だな」
「おいおい相沢。 三年生の何が悪いんだ? 発育次第ではウッハウハじゃないか」
「説明してやるからその手付きは止めれ。 少なくともここはまだ学内だ」

わきわきと動かされる両の手に突っ込みを入れ、ついでに触覚にもぺしっと打撃を入れておく。
高校時代から相も変わらず自己主張を続ける髪の毛が一房、ひよっと揺れた。

「俺たちだって一応は受験生だっただろうが。 その時の十二月って時期を思い返してみろ」
「……勘弁してくれよマイブラザー。 高三の十二月なんて、できればもう二度と思い出したくない暗黒の日々じゃないか」
「Correctだ北川。 センター試験を目前に控えた高校三年生が過ごしている十二月なんてのは、天使のいない十二月なんだよ」

天使なんていない。
キリストなんて関係ない。
神は死んだ! 神は死んだ!
あれはそう、12月24日を丸一日潰す形で組まれたフェネッセの模試の日。
ツリーもケーキもイルミネーションも無い教室で、俺達は涙ながらに叫んだものだった。

「まだ初旬とは云え、時まさに十二月。 そんな時期から家庭教師をつけようとする奴だぜ? 詳しい情報なんか無くても、どう云う奴だか簡単に察しがつくだろ」
「……メチャクチャに焦って悪あがきをしようとしている奴?」
「ご名答。 だから言ってんだよ、厄介だってな。 両親共々テンパった状態でお出迎えなんかされた日には、俺の方が発狂しかねん」

偏差値のポイントが一つ上下する度に、一喜一憂。
模試の合格判定ごときで生死が決まるかのような、大仰な受け止め方。
現役大学生であるくせに根本的な部分で学歴社会を斜めに見ている俺にとっては、どうしても理解できない領域がまさに其処であった。
自分で志願しといて何だが、気が進まないなこのバイト。

「面接は何時からだって?」
「五時。 いったん家に戻ってスーツに着替えてから行くわ」
「そのままでも良いんじゃね?」
「斡旋協会からのお達しだ。 初顔合わせの時は正装厳守、だって」
「うわ、めんどくせ」
「せめて人並みの正月を迎えるためだ。 多少の面倒くらいは我慢するさ」
「……なぁ相沢」
「断る」
「んなっ! まだ何も言ってないだろっ」
「年末年始ぐらいあの町に戻ろうってんだろ? 聞かなくても判るよ、そのくらい。 そして、俺の答えも変わらない。 帰るなら一人で帰れや」

ガス代、タダ。
水道代、タダ。
暖房費、電気料金、タダ、タダ。
食費、タダの上にスペシャルな腕前を持った最終兵器お母さんが愛情込めて作ってくれる。
そんな夢のような生活が待っている雪の町に、だけどどうしても俺は帰りたいと思えなかった。
理由なんて、最早言うまでもない。

「大丈夫だって。 何も今すぐ餓死しそうだとか水道が止まりそうだとか、そんな逼迫した状況じゃないんだから」
「別にそれだけを思って言った訳じゃないんだけどな」
「それも判った上で、だ」

前向きに歩いているように見せかけているだけで、俺の足は七月のあの日から一歩だって進んじゃいない。
いっそ不自然なまでに北川が帰郷を勧める背景には、そんな情けない俺の姿があるのだった。

「言ってなかったか? 元々俺は寒いのが嫌いなんだ。 だから、雪が解けたらだ。 雪が解ける頃には一緒に帰ろうぜ、なぁ親友」

その頃にはきっと、何もかもが優しい季節になっているだろうから。
その頃にはきっと、何もかも許せるようになっているだろうから。
だから、もうちょっとだけ待てや、親友。

「お前が参加しない限り、美坂チームで集まる事はしないと思えよ」

聞こえないふりをした。





* * *





午後四時四十五分。
冬の短い日が西の空に完全に沈む間際、俺はようやくその場所に辿り着いた。
表札を見る。
『観月』と書いてある。
地図を見て番地を確かめる。
間違いない。
どこかの国のスーパーハイレベルな工作員が何かをどうにかしていない限り、この家は『観月マナ』ちゃんの家だと考えて間違いはなさそうだった。

実はここに辿り着くまでに数回ほど道に迷っているのだが、それは秘密である。
もとい、結果が良ければ全て良いのだと、俺は勝手に自分に言い聞かせる事にした。
そしてそれは、今日から始まるかもしれない『これから』に対しても。
最終的な目標さえ達成できればそれで全てをいい事にしようと、俺は観月家の門の前で硬く決意した。
専門学校だろうが大学だろうが、合格させてしまえば文句はないだろう。
『あとは野となれ山となれ』と云う表現はあまり妥当ではないだろうが、たかだか三ヶ月程度、それも週一回の家庭教師のバイトである。
生徒との信頼関係の構築なんて期待する方がどうかしているし、そもそも向こうがそれを望んでいるかも判らない。
であるならば意識は初めから『仕事』と云う一点に集約した方が、きっとお互いのためになるだろう。
――なんて、結局は面倒臭そうな事から逃げているだけのくせに。

「いかん。 またネガティブモードだ」

『この後』に控えている、少なくとも俺の主観によれば不穏な呼び出しが、知らず知らずの内に思考を負の方向へと追い込んでいく。
良くない兆候だと思った俺は、深く息を吐く事で体内の憂いを全て外に出してやろうと試みた。
白く染まる吐息。
吐く量が多すぎたのか、普段よりも消えるまでに時間が掛かる。
それがまるで粘性を持って自分に纏わりついているかのように感じてしまった俺は、やはり相当に心が疲れているみたいだった。
冬は嫌いなんだよ…くそったれ。

「……あの?」
「っ!!」

不意にかけられた声に驚き、振り向く。
そこには。
そこには……
誰も居なかった。

「気のせいか?」
「あのーっ!」
「…うおっ」

再度驚き、掛けられた声のベクトルから視線を下方修正する。
するとそこにはちんまいツインテールの女の娘が、何故だか判らないけど物凄くおっかない顔をして俺の事を睨んでいた。
年の頃は十五歳か、下手したらそれより下かもしれない。
肩より少し長いくらいの濡羽色の黒髪を、マーガレットをモチーフにしたものだろうか、白い花飾りがついたゴムで二つに結っている。
紫の制服をセンス良く着こなしている割には、背も胸もまだまだ未発達な少女。
一目見た感想は、純粋に「かわいいな」だった。
無論それは『女性』に向けるような感想ではなく、むしろ縁側で寝ている猫を見た時のようなほのぼのとしたものであって――

「まさか『小さすぎて見えなかった』とか言う気じゃないでしょうね…」

訂正、サバンナでライオンを見た時のような殺伐としたものであって。
『正直に答えるのはまずい』と騒ぎまくる本能の警告に従い、「そんな訳ないじゃないですか」と曖昧な笑みを浮かべながら答える。
それでも俺の答えがあまりお気に召さなかったのだろう。
彼女は依然としてネコ科特有のプレッシャーを漂わせながら、嫌な汗を書いている俺の顔をじーっと睨みつけているのであった。
やばい、受け答えを間違ったら死ぬ。

「…うちに何か用ですか?」
「あ、あー、キミはこの家の人かい?」
「そう、ですけど…」

うん、すごく警戒されてるね。
決して門柱より中に入ってこようとしないその態度を見るまでもなく、俺は彼女の声の調子だけで自分が不審者扱いされている事を把握した。
はて、目の前の女の娘に警戒されつつこっちも命の危険を感じているだなんて、ここはいつから戦場になったのだろう。
何やら物凄い勢いで日常の世界からはじき出されているような感覚を覚えながら、俺はとりあえず『不審者』の疑いだけはキッチリ晴らしておくことにした。
昨日までならいざ知らず、今日から俺はこの家にお住まいになっている『観月マナ』ちゃんの家庭教師になる男なのだ。
家族の方に『不審者』と云うイメージを抱かれたままでは色々とまずいだろうし、何よりも俺がそんな状況だけは御免被りたかった。
どう見ても高校三年生には思えない外見から察するに、恐らくこの娘は観月マナちゃんの妹さんなのだろう。
兄弟すらいない俺の貧困な想像ではあるが、姉妹ってのはよほどの理由がない限りはまず仲良く暮らしているものである。
会わなくなってもうすぐ一年になろうかと云う今になっても鮮明に思い出せる、雪の降る町で出会った姉妹の存在がその仮説を裏付ける。
だとすればやはり、観月マナちゃんに最も近しい存在であろう彼女の頭の中から『相沢祐一=不審者』のイメージは払拭しておきたい訳で。
少なくとも、通学鞄を胸に抱えたまま『今すぐにでもダッシュで後方に逃げ出せますからね!』みたいな態度は今日限りにしてもらいたい訳であって。
…なぁ、俺はそんなにも怪しい人間だったのか?
ただちょっと門前で思案にふけっていただけじゃないか。
これが『昨日も一昨日もその前もずーっと』って言うならまだしも、何も初対面だってのにそんな警戒しなくたって…
と、そこまで考えて俺は、自分の思考に存在する一握の違和感に気付いた。

あれ、初対面……じゃ、ない。
俺は君の事を、確かに覚えている。

駅の雑踏。
落とした鍵。
拾ってくれた君。
視界の斜め上から差し伸べられた手は細く、綺麗で。
それはまるで、雪の降る町に足を踏み入れた『始まりの日』のようで。

「……この前の事、覚えてないかな」
「……なんですか」
「君さ、蛍ヶ崎の駅、使ってるよな。 そこで君が――」
「っ……す、ストーカー!?」

怯えたように呟き、冷めた瞳で俺を睨みつける。
ついさっきまでは『黒目がちで可愛い』と形容するに値していた瞳は、今や既に『警戒』なんてレベルじゃなく、完璧なまでの『敵意』で満ちていた。
何が起こったのかを把握するのに必要とした時間は、一瞬。
だがその合間すら、常に『現在進行形』を貫き通す現実世界においては長すぎたようだった。
彼女が息を吸い込む。
意思を言葉に変えて、更に声に変換する。
まるで淀みなく行われたそれら一連の動きは呆れるほどに速やかで、俺はこんな時に場違いにも、こんな事を思ってしまっていた。
ああ、彼女はきっと、物凄く芯の部分が強い女の娘なんだろうなぁ、と。
そんでもって、物凄く人の話を聞かない女の娘なんだろうなぁ、と。

「きゃぁ…」
「ちょ、ちょっと待った! ウェイト! プリーズ黙れお願いだ!」
「むぐー! むー! ふむー!」

叫ばれる!
壊滅的なまでの身の危険を感じた俺は、とっさの判断で彼女の口を自らの手で塞ぐ事に成功した。
ついでに彼女の背後に回り、その右腕を後ろに引き込んで鞄で殴られるような危険も回避する。
つい最近の体育実技Uで会得したばかりのレスリング技術が着実に身についている事を嬉しく思い、とりあえず俺は腕の中の彼女に優しく声をかけてみる事にした。
せっかくなので、臨床心理学で授かった知識『パニック状態の人間には冗長な言い回しなど逆効果である』と云う知識もハイブリッドしてみる。
体育学と心理学とを修士課程レベルで複合したハイクオリティな説得術が完成した事に喜びを感じた俺は、すぐさまソレを実行に移す事にした。
優しく。
ソフトに。
かつ、用件は簡潔に。

「騒ぐな。 そして抵抗もするな」
「―っ!! むぐぐー!! ふむむー! むぅぅーーー!!!」

おかしい。
抵抗が激しくなった。
それも、二度と後戻りできないレベルにまで、だ。
俺の計画ではここでおとなしくなった彼女にニコッと爽やかなスマイルを叩きつけた俺が『全て誤解なんだよ』と優しく説明するはずだったのに。
彼女もそれに納得して『なんだそうだったんですか』って自分の早とちりを軽く恥らう表情なんかを見せてくれたりするはずだったのに。
しかし現実はどうか。
客観的に状況を表せば以下のようになる。
『夕闇迫る住宅街の一角で大学生の男がひょっとしたら中学生かもしれない女の娘の口と腕を押さえて後ろから抱すくめた挙句に「抵抗するな」と脅している』
ジーザス、俺はどこで道を間違った。
いやまぁどこで道を間違ったかと言えばとりあえず観月さんちに着くまでに軽く三回以上は曲がる角を間違ったんですけどって、今はそんな話じゃない。
落ち着け。
とにかく落ち着け。
そして俺も落ち着くから君も落ち着いてくれないか、腕の中のリトルレディー。

「おーけい、わかった、手を離す。 君からも距離を置く。 それでいいか?」
「………」
「約束する。 危害は加えない」
「………」
「何なら叫んでも警察を呼んでもいい。 まぁその場合は……うん、多分この家と俺との接点は二度と生まれないだろうけど」

ここまで言っても信用が得られないのであれば、その時は俺の方から身を引かせてもらう。
そりゃ誤解で『変質者』扱いされたまま関係を断つってのは後味が悪いけれど。
名前も知らない君に恐怖だけを与えて逃げるってのは俺自身納得いかないけど。
それでも、根本的な部分で信用されていない事を知った上で笑うなんて、俺にはできそうにないから。
この世界で『うまく』生きていくためにはソレが必要だと判っているけれど、それでも俺はぎりぎりまで拒み続けていたいと思うから。

などと思っていた矢先。
ふと、腕の中の彼女から抵抗の意思が抜けたのを感じた。
そもそも抵抗と言っても腕の中にすっぽり納まってしまうくらい小さな彼女の事だから、押さえ込むのに殆ど力が要らないくらい微々たる物だったのだが、それでも。

「……手、離すよ」
「………」

こくん、と頷く。
ツインテールが揺れて、少しくすぐったかった。

「まずは謝る。 手荒な真似して、ごめん」

俺の束縛から解放された彼女がその場を動かなかったので、俺の方から三歩ほど後ろに下がる。
すぐ後ろに彼女の家のドアがある事に気付き、この位置関係は少しまずいかなと思った。
見ようによっては、彼女が家の中に入ろうとするのを阻むような立ち位置とも取れる。
しかし彼女の方にはやはりその場を動く意思がないらしく、仕方がないので俺はそのまま言葉を続ける事にした。
相変わらず、彼女の表情からは緊張と警戒の色が消えない。
それが少しだけ、心に痛い。

「それから、別にナンパとかしようとした訳じゃないんだ。 君の方に覚えがないなら、その件についてはもう口にしない。 元々俺も人の顔とか覚えるのは得意じゃないんでね」
「………」

彼女の瞳の色が、少しだけ変わった。
それは今この場で出会ってから初めて、彼女が俺の顔をちゃんと『見た』瞬間なんじゃないかと思った。
ようやく、正面から向き合えた気がした。

「覚えがありません」
「そうか。 なら、構わない」

考えてみれば、当然の事だった。
俺にとっては『鍵を拾ってくれた唯一の人』であっても、彼女にとっては『鍵を落とした誰か』でしかない。
記憶に残らなかったとしても、それは当然と言えばあまりにも当然だった。
だが俺はあの時、君の姿に『始まりの日』を重ねてしまっていたのだ。
印象は殊更に強くなった。
君の顔が網膜に焼き付いてしまった。
君が知る由もない背景を勝手に重ね合わせて、それでこんな事を想うだなんて本当に馬鹿げていると思うけど。
何故だろう。
君の記憶の片隅にも残っていないと知った今、俺は、何だかすごく寂しいと感じている。

「じゃあ最後だ。 俺がこの家の前にいた理由」
「………」
「俺は、君のお姉さんの家庭教師なんだよ。 とは言っても、まだ正式に採用されるかどうかは決まってないけどな」
「お姉さん?」

その瞬間、またしても彼女の周囲の空気が変わった。

「私に…姉なんかいませんけど」

『私に妹なんかいないわ』
どこかで聞いた事のあるフレーズだ、と思った。
ひょっとしてマナちゃんはすごく病弱なのかな?

「え、お姉さんいない? 高校三年生の」
「………」
「名前は観月マナさんって言うんだけど」

そこまで言ったとき、彼女が急に笑顔を見せてくれた。
陳腐な言葉で表現するならば、まるで天使のような無垢で愛らしい表情。
ひょっとしたら、口からでまかせじゃなくてちゃんとしたお姉さんの情報を知っていると云う事で、俺に対する信頼度がアップしたんじゃないだろうか。
もしくは、誠実な対応が実を結んだのではないだろうか。
ひゃっほう、やったぜ相沢祐一。
なんて――
後になってから思う事なのだが、俺はこの時ほど、自分の間の抜けた思考を後悔した事はなかった。

「ちょっと耳、貸してください」
「はいはい」
「えっとですね――」

ご す っ !

優しげな笑顔に釣られて、警戒心の欠片もなく耳を貸した瞬間。
俺の足に、物凄い激痛が走った。
具体的に場所を言うと、向う脛の付近。
そこは俗に『弁慶の泣き所』と呼ばれる危険部位であり、ここに打撃を受けた場合は極小の威力ですら絶大な痛みとなって脳内を駆け巡るのである。
って言うか今現在、まさに痛みがノンストップで駆け巡っているのである。
本気だろ、今、本気で蹴っただろお前。

「ぬぐぐぐ……い、一体何を…」
「マナ」
「そう! だから俺はそのマナちゃんに用があってだな!」
「だから、私がマナなの!」
「決してお前のようなちんまい小娘に脛を蹴られるために…って、へ?」
「…ちんまい?」

ど ご す っ !

俺の失言を耳にした彼女がその形の良い眉をひそめ、周囲に不穏な空気が流れた次の瞬間。
避ける間もない神速の一撃が、またしても俺の足にメガトンヒットしていた。
具体的に場所を言うと、向う脛の付近。
そこは俗に『弁慶の泣き所』と呼ばれる危険部位であり、ここに打撃を受けた場合は極小の威力ですら絶大な痛みとなって脳内を駆け巡るのである。
って言うか今現在、まさに痛みがノンストップで駆け巡っているのである。
なるほどこりゃ立ち往生と云う見事な最期を遂げた弁慶ですら痛みに泣き出してしまいかねない――じゃねぇ!

「一度ならず二度までも…この小娘が…」
「あなたが悪いのよ。 人の話もろくに聞かないから」
「……じゃあ、本当に君がマナちゃんだって言うのか?」
「そうよ。 何か文句あるの」
「……おかしいな、資料には高校三年生って書いてあ――」
「〜〜っ!!」

め ご す っ !

瞬間、俺の足に三度目の激痛が走った。
具体的に場所を言うと、向う脛の付近。
そこは俗に『弁慶の泣き所』と呼ばれる危険部位であり、ここに打撃を受けた場合は極小の威力ですら絶大な痛みとなって脳内を駆け巡るのである。
って言うか今現在、まさに痛みがノンストップで駆け巡っているのである。
ぬおお、こりゃ弁慶どころかゴメンナサイ、そろそろ俺が本気で泣きそうです。
久し振りに味わったぞ、声が出せないくらいの痛みってヤツ。

「お…同じ場所への三度目の攻撃はバーゼル協定違反…」
「え? バーゼル協定は発展途上国へのゴミの輸出に関する協定でしょ?」

ちょっと不安そうな声だが、正確な知識。
悪辣非道な向う脛キッカーとは思えないぐらいマトモな答えが返ってきた事に、驚きを隠せない俺がいた。
こんな日常生活の中で欠片も役に立たない協定の意味を把握してるのは、よく訓練されたゴミ輸出業者か受験生かのどちらかでしかない。
そして目の前の女の娘は、どこからどう見たってよく訓練されたゴミ輸出業者には見えない。
いや、そりゃ普通に考えれば高校三年生にだって見えないんだけど、その辺は二百歩ぐらい譲るとして。
って事は、え、ひょっとして本当に?

「あー……その…えーと…」
「………」
「蛍ヶ崎高校三年生の、観月マナさんでいらっしゃいますか?」
「そうですけど」

うわやばい、めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
明らかに冷凍系の効果が付加されていそうな視線と声音に、流石の俺ですら恐怖の感情を抑える事が出来なかった。
ただでさえ寒風吹き荒ぶ十二月の夕暮れ。
これ以上の冷たい眼差しと態度は、俺のひ弱な精神に非常にヨロシクない。
何とかして機嫌を直して貰おうとは思ったものの、よくよく考えてみれば俺は『女の娘の機嫌をとる』と云う行為が物凄く苦手な類の人間なのであった。
歯の浮くようなお世辞も言えなければ、杉様御用達の流し目もできやしない。
何よりそんな上辺だけの部分で誰かと相対する事があまり好きではないので、俺は最もシンプルで判りやすい方法をとる事にした。
相沢流奥義、『平謝り』の発動である。
うるさい、情けなくなんかない。

「ご、ごめん。 俺が悪かった。 受験生ってだけでグリグリ眼鏡の女の娘を想像してたもんだから、つい」
「ちんまいとか言ってたけど…」
「……言葉のあやです」
「小娘、とかも言ってた」
「……褒め言葉です」
「高校三年生って部分にすごく納得いかなそうな顔もしてた」
「……と、とても垢抜けていたので高校生とは思えなかったんです」
「……言ってて苦しいとか思わないの?」
「ゴメンナサイ」

我ながら、一言余計に物を喋ってしまう性格だと、思ってはいるのだ。
だが思ったぐらいで改善されるのであれば、それは性格ではなくただの癖である。
俺が俺でいる限りはこの『一言余計に喋っちゃう病』は治らないのだろうし、これが発動しなくなった瞬間に俺は俺ではなくなる。
無論そっちの方の俺だって一個の概念としての相沢祐一に間違いはないのだろうけど、それでもやっぱり『違う』と思ってしまう以上それは違う自意識な訳で。
あー、そう言えば哲学の授業サボったんだったな、確か。
悪いなソクラテス、デルポイの神託は俺には受けられそうにもない。

「と云うことで、だな」
「どう云う事よ…」
「君がマナちゃんなら話は早い。 俺は、家庭教師の面接を受けにここまで来た訳なんだけど」
「あー、あなたが?」

納得、と言った体でふむふむと頷いてみせる観月マナちゃん。
何も考えずに見ている分には可愛らしいその仕草だったが、生憎と今の俺には弁慶に被弾したキック三発分の恨みが根強く息衝いていた。
納得って事は、家庭教師の誰かが来るって知ってたんじゃないか、この小娘。
それなのにこの俺をストーカーやら変質者扱いした挙句に蹴り飛ばしたってか、テメーコノヤロー。

「てっきり女の人が来ると思ってたのに……なによ」
「なんでもありません」

軽く睨んでいたら、どぎつい迫力で睨み返された。
そのあまりの恐さとついさっき肉体に刻み込まれたばかりの激痛の記憶が、俺に敬語と云う選択肢を取らせた。
助けて北川、ひょっとしたら俺はこの娘に一生の幕を閉じられてしまうかもしれないぜ。

「んじゃ入って。 面接するから」
「……お邪魔します」

かつて、『女の娘の家に入る』と云う状況でこれほど恐怖を感じた瞬間があっただろうか。
さほど多くもない経験の中から幾つかをピックアップしてみるものの、勿論そんなものに該当する記憶なんかあるはずがなかった。
だとすると、これが人生初の体験になる訳である。
俺史上初! こんなにも逃げ腰で女の娘の家に入ってく瞬間!
脳内でテロップを流してみたが、残念ながらちっとも晴れやかな感じにはならなかった。
むしろ軽い自己嫌悪に陥った。
何やってんだろう、俺。

「何やってんの?」
「何やってんだろうな…ほんと」
「?」

いつまでも家の中に入ろうとしない俺を見て。
問いかけに対して意味不明な答えを返す俺を見て。
ほの暗い家の中から小首を傾げて俺の顔を覗き込むマナちゃんは、やっぱりその姿だけを見れば、とんでもなく可愛いと形容するに値する少女だった。

足が、とても痛い。





* * *






「採用」
「はやっ!」

リビングで行われるかと思われた面接は、なぜかマナちゃんの自室の中で行われた。
親御さんの立会いのもとで行われるかと思っていた面接は、なぜかマナちゃんと一対一で行われていた。
しかも開始数秒もしないうちにマナちゃんの迷いのない澄んだ声が「採用」と告げ、迷いありまくりのうろたえた俺の声が「はやっ!」とそれに被さっていた。
えーと、なんだこの状況。

「何よ、文句あるの?」
「採用してくれるってのは非常に嬉しいんだが……ご両親は?」
「………」

一瞬。
俺が親の事を口に出したほんの一瞬だけ、マナちゃんの表情が陰りを帯びて俺の目に映り込んだ。
ともすれば見逃してしまいそうなくらいの微細な変化。
気付かない方が自然なくらい、僅かな時間。
気のせいだとしても何の問題もないようなその『色』の変化は、だけど俺にとってはあまりにも身近にありすぎた『色』だった。
空虚のキャンパスに寂しさのデッサンを描き、諦めの絵の具を薄く塗って、捨てきれない希望を吹きかける。
そんな、どうしようもなく悲しい色。
どうしても欲しいモノがあって、だけどどう願ってもソレが手にいれられないモノだと判ってしまって。
諦めるでもなく、忘れるでもなく、ただひたすら『欲しくないようなふり』をしながら、その想いに蓋をした。
そんな、俺が自身の瞳で見慣れてしまった色。
灰色にくすんだ空から降ってくる雪の色にも似た、輝きを持たない感情の色。
それが、なんだって君みたいな娘の瞳に――

「あなたは私の家庭教師でしょ! だったら私が面接して何が悪いのよ!」
「あー、はい、ごもっともです」
「まったくもう、人を子供扱いして」

逆らったら、火に油を注ぐどころの話ではなくなる気がする。
もし何か下手な事を言ったら、俺の脛に住んでいらっしゃる弁慶さんがかなり無残な感じでデストロイされてしまう気がする。
本能的な部分で危険を察知した俺は、ここはマナちゃんに好きなだけ話を進めさせておく事にした。
静かなること林の如く。
でも高校三年の時のクラスメートの林は喧しい奴だったなぁ。
などと下らない事を考えている俺の思考を露とも知らず、ぷー、と頬を膨らませるマナちゃん。
抗議の態度を示して貰っているところ申し訳ないのだが、その仕草は縦横斜めどの角度から見たってお子様街道まっしぐらだった。
最早それは『可愛い』と云う感覚を通り越し、『微笑ましい』のレベルにまで達している。
まったくもって小動物さながらである。
これで弁慶の痛みさえなければ完璧なんだけどなあと、俺は心の中で密かに嘆いてみたりした。
当然、何も変わらなかった。

「話は簡単。 アルバイトは週一。 金曜日、午後一時から――」
「ちょ、ちょい待った」
「…なに?」
「金曜一時からって、学校はどうしたんだ、高校生」
「受験生は自主登校が認められてるの」

『そんな事も知らないの?』みたいな白い目で俺を見る、マナちゃんの視線が物凄く痛い。
なるほど、受験生は自主登校が認められているとな。
あまりに聞き覚えのない通例の登場に、少しだけ小首を傾げる。
この街に来てから度々味わった感覚だが、こんな時俺は、雪の降る町で通っていた高校がいかに田舎の学校だったのかと云う事を思い知らされるのだった。

あの学校では、センター試験が終わってからだって自主登校なんか認められていなかった。
毎日毎朝定時に登校。
六時間の授業と課外授業をきっちりこなす。
中には課外授業よりも予備校の方を優先して帰っていた奴もいたけれど、大半の生徒は学校で行われている課外の方に参加していたものだった。
ぶつくさと文句を言いながら。
時には課外を抜け出して、学食の自販機でジュースなんかを買ったりしながら。
それでも、雪が降り始める頃にはもう、『こうやって教室でみんなと一緒に過ごす時間』ってのが残り少ないってみんな気付いてしまっていたから。
残り少なくなってから、大切だったって気付いてしまったから。
何だかんだ言って、みんな寄り添って時を過ごしていた。
推薦で進路を早々と決めた奴に悪態なんかついたりして。
それでもそいつに『一問一答問題集!』みたいなヤツを読ませてみたりして。
結局は誰も彼もが黄昏の教室で紅く染まりながら笑いあって。
雪が降る町だから。
一人でいるには、とても寒い町だから。

だけど今、俺が居るこの街には、雪が滅多に降らない。
人は、独りでいる事に慣れきっている。
そして、そんな人にも街にも慣れていない俺は、馴れ合いの少ない日々に、やはりどこかで寂しさを感じながら息を吐いていた。

「で、金曜日なんだけど…」

最近じゃ、週末の予定なんて入れた覚えがない。
高校三年間を帰宅部のエースとして活躍していた俺がサークルなんかに興味を示すはずもなく、したがってそっち関係の予定なんか入る訳もなく。
名雪にフられた直後の頃には半ばやけになってクラスの奴らと飲み会を繰り返していたものの、結局は一緒に飲んでいて楽しいと思える奴が北川くらいしか居なかった訳で。
何より、生活費を稼ぐためには一日をフルに労働に当てられる『休日』と云う名の『仕事日』が非常に重要な訳であって。
時が流れて十二月。
俺の週末の予定には、『バイト』と『北川』の二種類しか存在しないようになっていた。
自炊のコツも節約の仕方も、少しずつだけど掴んできている。
前みたいに『寝る間も惜しんで』ってぐらい働かなくても余裕が出来るようになった。
だけどようやく自由を手に入れた俺は、その時間の使い道が判らずに、前よりももっと寂しくなった。
これなら忙殺されていた方がマシだったかなと、暗い部屋で一人呟いて。
百円均一で買ったクリスタルグラスもどきに、素手で握りつぶしたグレープフルーツ果汁とウォッカ。
つけっぱなしのテレビには、森川由綺がいたりして。

だから今。
俺は、少しだけ喜びを感じていた。
予定がある。
誰かのために、時間を割く。
例えそれが『アルバイト』と云う金銭を仲買にした関係であっても、俺にとっては一種の救いであるように思われた。
何故ならこの仕事は今までみたいに『何か』のためじゃなく、他の誰でもない『キミ』のために行われるものだから。
レジ打ち、配送、居酒屋の厨房。
どれもそれなりに他人との接点はあったけど、それが等式で『誰かのため』になった事なんて一度もなかった。
だけど、これからの金曜日は違う。
その事に、奇妙な高揚感を覚えている俺がいる。
いきなり『俺の生徒』だなんて思い上がるつもりはないし、多分だけど『熱血先生』にはどうやってもなれないと思う。
それでも、この時間を楽しみにしている。
この感情には、偽りがないと思うから。
観月マナちゃん。
毎週金曜日、一時から。
しっかりばっちり把握した。
キミの希望する進路とかまだ把握してないし、俺もプランとか全く考えてないけど。
だけど、この仕事だけは絶対サボったりなんかしないから。
末永くって言うのも変だけど、どうぞよろし――

「別に毎週来なくたっていいわよ」
「なぬっ!?」
「そんなに驚く事ないでしょ。 …えっと?」
「……相沢…相沢祐一」
「相沢さんだって、週末なんだから色々予定が入ったりするんでしょ。 別にサボったからってお給料減らしたりしないわよ」

「別に私が払うわけじゃないし」と付け加え、さも面白くなさそうにそっぽを向くマナちゃん。
限りなく俺の存在に興味がなさそうなその仕草に、俺はただ呆然とするより他になかった。
『”好き”の反対語は”嫌い”ではなく、”無関心”である』
教育心理学の授業で小耳に挟んだ知識が、ふいと鎌首をもたげて俺の現状を嘲笑う。
つまるところ今の俺はマナちゃんにとって空気のようなもので、『嫌い』とか『邪魔』とかのレベルにすら達していないと云うことだった。

いやいやいや、そんな馬鹿な。
今のはアレだ、学生に特有の『ちょっとした反抗心』に違いない。
もしくはマナちゃんなりのフラットなジョークに違いない。
そ、そもそも学生の方から『毎週来て下さいねっ、センセイっ☆ミ』なんていう訳がないじゃないか。
生徒は先生を疎むもの、これ常識。
俺だって学生時代はそうだったじゃないか、むしろ課外とかサボりまくってたじゃないか。
おーけい、くじけるな相沢祐一。
俺とマナちゃんのハートウォーミングなコミュニケーションはここから始まるんだ。
それじゃあまずは「毎週来る事ない」って部分に軽い突っ込みを入れつつ――

「俺は――」
「それじゃ」
「マカロニウェスタンが……って、へ?」
「今日はこれでおしまい。 疲れちゃった。 お疲れ様でした。 さよなら」
「あー、はい。 お疲れ様でした」

ぺこりと頭を下げて。
畳んでいたコートを広げて羽織りかけて。

「じゃねえ!」

思わず帰ってしまいそうになったところを、寸でのところで思い止まった。
頑張れ。
空気以下の存在にならないように頑張るんだ、相沢祐一。

「俺はバイトの面接に来たんだ」
「なによお、今やったじゃない」
「本人の了承だけで事がスムーズに運ぶんだったらな、そもそも家庭教師連盟になんかエントリーしてないんだよコッチは」
「………」
「あんまり大人ぶってこんな事は言いたくないんだけどな……後から面倒事になるのはお互い困るだろ?」

また、だ。
マナちゃんの目が、また『あの色』に染まっていく。
いや、『染まっていく』だなんて、何を他人事のように。
まるで自分がその変化に干渉していないかのように。
『染めている』んだ、俺が。
マナちゃんにとって触れてほしくない部分、家族の事を口に出す事によって。
踏みにじってる。
『何か』を確実に傷つけている。
今はそれが何かなんて判らないし、訊いてみても恐らく彼女は答えてはくれないだろう。
俺たちはまだ、そんなレベルの会話が出来る関係じゃない。

「……ママに会ったって、意味ないよ。 どうせ相沢さんも、私の監視役ぐらいにしか考えられてないから」
「監視…役?」
「…いいの! 今日、ママはお仕事なの! いないんだから会える訳ないでしょ!」

限界だな。
彼女の雰囲気から、俺はそう悟った。
少なくとも、マナちゃんが俺と母親の邂逅を阻んでいるようには思えない。
だとすれば、今日のところは本当にマナちゃんの母親と会うことは出来ないのだろう。
俺は小さく溜息を吐き、中途半端に着かけていたコートをきっちりと羽織る。
その仕草から俺が帰るのだという事を把握したのだろう、マナちゃんも無言のまま椅子から腰を浮かせた。
そして俺たちは無言のまま、階段を下りて玄関にまで辿り着いた。

「じゃ、適当に時間があったら勉強教えてね、相沢センセイ。 ばいばい」

もう隠そうともしない。
露骨に『帰れ』と言っている。
玄関の敷居と云う『境界線』をまたいで彼我に分かれた俺たちは、よほどの意志を持たない限りは二度目の接点を望めない位に遠く離れてしまっていた。
初めて目にした時には気付かなかった、観月家の大きな造り。
反比例するように、小さく佇むマナちゃん。
なぜかその対比が恐ろしいまでに薄ら寒く思えてしまった俺は、つい普段よりも大きな声でこう宣言してしまっていた。

「金曜日、来るよ。 絶対、何があっても」
「……好きにすれば」

冷たく呟き、重いドアが閉ざされる。
直後。
心の奥底まで響いてくる無機質な施錠音が、凍りついた空気の中でガチャ――と鳴いた。

なるほどな……
俺の事を玄関まで送りに出てくれた訳じゃなく、ただ単に俺が居なくなった直後に鍵を閉めたかっただけ、と。

確認すれば悲しくなるだけの現実をそれでも噛み締めながら、俺は観月家の玄関に背を向けた。
結局、親の意向は確認できず仕舞いである。
それどころか彼女が希望する進路も把握していないし、学力だって未確認のままである。
文系か理系か、それすら判っちゃいない。
そもそも彼女の言った『採用』を本当に信用していいものかと思うと、なにやら先の事を考えるのが馬鹿らしいような気にもなった。

「何にしろ、前途多難だな…」

呟いてから思い出した。
向う脛が、酷く痛む。
来週までにフットサルのサークルに入ってる奴からレガースを借りておこうと、痛む脛を抱えながら俺は強く決心した。
『家庭教師のアルバイト募集 ※要脚部防具着用』
こんな募集要項だったら絶対に断っていたんだろうなぁと思いながら、俺は駅に向かって歩き出した。

俺が前途多難なのは、何もアルバイトに限った事ではないのである。





* * *






『今晩午後七時、お時間が許すようでありましたら、局三階にある緒方プロダクション控え室までご足労願えませんか、と』

二日連続で『大至急』を喰らって呼び出された学生部。
そこで聞いた山崎さんの言葉。
同時に、これもまた二日連続で味わう事が許されなかったアジアン・フェアーの事をも思い出し、俺は一人思い出し怒りにふけるのであった。
おのれ山崎、どうしてくれようか。
実際には彼女が悪い訳ではないのだが、残念ながら怒りとはその本質として常に矛先を求めるものである。
そもそも俺が呼び出された件だって、内容的には俺が学内にいる間であればいつ把握しても構わないような物だったではないか。
窓口終了までに俺が現れない最悪の場合でも、学生部に緊急連絡用として渡してある携帯電話の番号を探し出して話をつければいいだけの事である。
結論、山崎さんが悪い。
正確に言うと、山崎さんの運が悪い。
『元凶が何を言うか』と云う至極マトモな相沢Aの意見を無視した俺は、今夜の呼び出しについて何度目かの熟考にふけるのであった。

それは、少なくとも山崎さんが受け取った限りでは『緒方理奈』と名乗った人物からの呼び出し。
だが、『あの』緒方理奈から呼び出しをかけられる原因なんて、いくら考えたって思い浮かばない。
罠だろう、恐らくは。
そして恐らくは罠だろうと思いながらも、むしろ罠だろうと思うからこそ、自ら進んで局入りをしようとしている俺がいた。
二重に張られた網の上で、どちらに転んでも俺の行動は向こうの思惑の中にしかない。
ならばせめて、背を向けることだけはしたくない。
そんな事を思ってしまう俺はやはり『あの女』のような類の人間から見れば単純馬鹿でしかないのだろうと思い、俺はそこで深遠なる溜息を吐いた。
やれやれ、どうにも女を相手とする駆け引きは苦手でしょうがない。

今の俺がいる場所は、昨日と同じテレビ局。
もっと詳細に場所を言うのであれば、テレビ局正面玄関。
を、果てしない勢いでスルーした先にある排気ガス臭い地下駐車場へと続く暗い道である。
そしてこの道をずっと行けば、名目上は『一般用』とされている出入り口に到達する。
しかしその出入り口はあまり人目につかないような場所にあり、照明も申し訳程度にしかなく、おまけに人が二人も並べば窮屈になるようなチャチな作りでしかなかった。
スポットライトが輝く表舞台とは程遠い、コンクリート打ちっぱなしの冷え冷えとした通用口。
だけどそれが『境界線』の向こう側にいる奴等にとっての『一般用』であると云う、彼我の認識の差が浮き彫りとなった紛れもない現実の姿。
やり場のない不快感はきっと、不可解な呼び出しに心がささくれ立っているせいだと、暗い通路で俺は、自分をなだめるのにとても苦労した。

「こんばんわー」
「おや、昨日の」

昨日も事務所に詰めていた人の良さそうな守衛のオッサンに、笑顔でご挨拶。
昨日覚えていた顔を今日になって忘れているなんて事もなく、オッサンの方も笑顔で挨拶を返してきてくれた。

「今日もいいですかね」
「知った顔だから構わないけど……なんだい、今日もバイトかい?」
「いや、今日は『中』の人に呼ばれてきたんですけど」
「なら表から正々堂々と入ってくればいいじゃないか。 ネクタイ締めて立派な格好してるってのに、あっちからは入れてくれなかったのかい?」
「……さぁ。 試してないから判らないですけど」
「お前さん、まだ若いんだ。 こんな暗い通路を自分から選んで歩くもんじゃないよ」

からからと笑い、ばしばしと俺の背中を叩く。
そんな事を言われてもと思いながら、俺は正々堂々と正面玄関から入って言った場合を頭の中でシミュレートしてみる事にした。



……

自動ドアが開く。
受付のねーちゃんが居る。
そこに颯爽と現れるスペシャル好青年、相沢祐一。
して、曰く。

「緒方理奈に会いにきたんだが」
「……ただ今確認いたしますので少々お待ちを」

怪訝な顔をしながらどこかに連絡を取る受付嬢。
数秒後、その表情に明らかな不審が浮かび上がる。

「失礼ですが、お約束などはなされていらっしゃったでしょうか」
「へ? 確認したんじゃないんですか?」
「はい。 確認いたしましたところ、そのようなご予定は緒方様の方にはないとの事で」

焦るスペシャル好青年、相沢祐一。
すわ、やはり緒方理奈の名を騙った篠塚弥生の罠だったか。

「あー、それじゃあ篠塚弥生……森川由綺のマネージャーに話を取り次いでもらえますか?」
「すみません。 一般の方からのそう言ったご要望にはお答えできない事となっておりますので」
「ち、違うんですって! 別に緒方理奈がダメだったから篠塚弥生って訳じゃなくて、いや、実際にはそうなんだけど、あれ? ちょっと、どこに電話してるんですか? おねーさーん?」

そこで、ぽんぽんと肩を叩かれるスペシャル不審人物、相沢祐一。
振り返れば、そこには素敵なウィル・スミス……ではないが、黒服と黒サングラスのよく似合うコワモテのおにーさんが複数人いたりして。
祐一ちん、ぴんち!

「ちょっと事務所までご同行願います」
「できれば緒方プロダクションの事務所に案内してくれると助かるんですけど」
「……おい、警察を呼べ。 どうやらコイツに必要なのは俺たちのお説教じゃなくて優しいカウンセリングみたいだ」
「んなっ! 俺をそこらのアイドルマニアとか妄想虚言癖を持ったアリスちゃんと一緒にするんじゃねぇ! 俺は緒方理奈に呼び出され…じゃなくて森川由綺のマネージャーが!」
「オーケーオーケー、そうだな、お前さんの頭の中では緒方理奈も森川由綺もお前の事が大好きなんだよな。 マネージャーまで好きにしやがって、シアワセな野郎だぜ」
「んっだらあぁぁあ!!!」

……



嫌な汗をかきながら、シミュレーションを終了する。
あまりにも救いのない結末と一概には否定できそうにない未来のあり方に、俺は思わず地下通路を選んだ事を神に感謝していた。
アーメン、ハレルヤ、アッラー・アクバル。
自他共に認める平和主義者である俺の頭の中では、宗教間対立など起こりはしないのだ。
と、それは兎も角。

「やっぱ俺にはこっちの方が合ってるみたいですよ」
「そうかい? お前さんだって今の格好見る限り、すぐに『表』に行ける気がするんだけどなあ」

『表』
正面玄関から大手を振って入れる人間。
それがどのような種類の人間の事を言っているかを瞬時に把握した俺は、お世辞にも『愛想の良い』とは言えない顔と声でそれに反応した。

「御免ですよ。 そんなのが似合うようになったら……俺は、二度とこの場所に来ようとは思わない」
「……理由(わけ)アリかい」
「下らない意地ですよ」

へらっと笑い、身に纏った不穏な空気を意図的に散らす。
何も知らないおっさんにまで、俺の不機嫌をぶつける事はないだろう。
そう思うくらいならば始めからすべてを笑って受け流せればよかったのだが、それが巧くできるのであれば、そもそも俺はこんな場所にまで足を運んではいないのであった。
まったく、嫌になるくらい『予定調和』だぜ。
それも誰かに描かれた行動予定図の上だってんだから、最悪にも程がある。

「それじゃあ、行ってきます」
「何だが判らんが、頑張ってきな」

おっさんの声が背中を押す。
やはり俺には、こっちの道の方が合っているみたいだった。





* * *





約束の時間までには、まだ若干の余裕がある。
平凡なるイチ小市民の俺としては、緊張のあまりに喉が渇いてしまっている。
それより何より身分を証明するものを何一つとして持っていない今日の俺は、傍目から見る分には正真正銘の『不審者』である訳で。
結論、『呼び出しの時間ギリギリまでコーヒーでも飲みながら心を落ち着かせよう』
二日連続で『アイドルの控え室の前でうろうろする不審者』を演じる事を嫌った俺は、大人しく休憩コーナーで時間を潰す事にした。
日本人的な価値観からすれば5分前行動が正しいのだろうが、アメリカ人の感覚で言えば呼び出し時間には少し遅れていくくらいが好ましいのである。
勿論俺も、俺を呼び出した篠塚弥生もアメリカ人ではないのだが、それはそれ。
むしろ時間にルーズな部分を見せて更に嫌われようとしているんじゃないだろうかと、俺は自分の行動をそんな風に分析した。

怒ればいい。
困ればいい。
二度と顔を見たくないと思うくらいに俺の事を嫌悪すれば、こうやって呼び出されたりする面倒もなくなるだろう。

無論、実際にはそんな事を本気で考えていた訳ではなく。
ただ単に俺は、『境界線』の向こう側に位置する『アイドルの控え室』に近付きたくないと。
そこに居る時間を一分でも一秒でも縮めようと。
こうやって誰にするでもない言い訳を作りながら、必死になって女々しい努力をしている。
ただ、それだけの事なのであった。

情けないと自嘲する。
こんなはずじゃなかったと不甲斐なさを謗る。
何も悪い事をしていないのだから正々堂々としていれば良いじゃないかと、毎度毎度の事ながら相沢Aが正論をまくしたてるんだけど。
でも俺は――

拒絶、されたんだ。
二度と『こっち』に立ち入るなと、まるで何か壊れたモノを見るような目で言われたんだ。

あの瞬間、俺は怒りに身を任せた。
轟々と音を立てながら燃え盛る炎は、他の全ての感覚を遮断した。
拒絶に対して拒絶を返し、嫌悪に対して嫌悪を返す。
己の頭では何も考えず、ただ感情を写し返す一枚の鏡になって。
そうして俺は何もかもを対等にして、あの日の夜と今までの全てを終わらせたんだと思い込んでいた。
だけど、次の日の朝。
目覚めた俺の心には、抜けない棘が深く突き刺さっていた。
只中に居た時は怒りでごまかしていたけれど、俺も同じように相手を嫌えばそれで済むと思っていたけれど。

痛かった。
その相手が誰であれ、存在の否定を叩きつけられるのは、とても痛かったんだ。

今更になって思う。
北川の言う通り、あの女からの
呼び出しなんて無視していれば良かったのだ。
何もかもに目を瞑って、俺を拒絶した『向こう側』の世界を嘲笑って、暗い部屋で酒でも飲んで寝てしまえばよかったのだ。
そうすればきっと、こんなにも不安な気持ちに苛まれる事なんてなかっただろうから。

多分北川は、俺以上に俺の事をよく判っていたんだと思う。
俺が独りになった時に、こんな風に心許ない思いをするんだって事を判っていたからこそ、北川は俺の事を止めてくれていたんだと思う。
あの時。
学生部でのやりとり。
お前が隣に居てくれたから俺は、『向こう側』からの呼び出しにも強気でいられた。
無条件で存在を肯定してくれるお前の隣だからこそ、俺はこの不可解な呼び出しにも一縷の希望を抱く事ができたんだ。

一度は俺の存在を拒絶した人間から、再びの邂逅を要求する呼び出しがなされた。
それはつまり、俺と会う意志があると云う事に他ならない。
無論、関係の修復なんて夢は見ていない。
それまでの事情を全て無視してそんな懸想に耽る事ができるほど、俺は夢見るアリスちゃんではない。
しかしながら俺と『向こう側』の世界は、既に昨日の時点で明確なる決別を果たしているのである。
そんな俺が、放って置けば二度と接点を持つ事のないはずだった俺が、何の因果か『彼女』によって再び呼びつけられている。
甘い希望に縋って考えるならば、それは『存在の全否定』と云う最悪の事態を免れた上の結果だった。
少なくとも『彼女』には、俺に会う意志がある。
ならば俺も今一度、『境界線』を踏み越えてみよう。
なんて、北川が傍に居てくれるだけで、こんなにも前向きな考えを持つ事ができたと云うのに――

じっとりと汗ばむ手の平で、熱いコーヒーの入った紙コップをそっと握る。
真っ黒な水面に小さな波紋が立ち、写り込んでいた蛍光灯の白が歪な形となってその表面を飾る。
ブラックコーヒーなのにまるでミルクを溶かし込んだみたいだと思いながら、俺は昨日の記憶をゆっくりと反芻していった。
森川由綺にさよならを告げる前。
篠塚弥生に拒絶を受ける前。
今となっては夢か現かと言い出してしまいかねない、だけどそんな事を言ったらきっと君は物凄く怒るだろう。
緒方理奈ちゃん。
昨日と同じこの場所で、俺は今日も同じ物を飲んでいる。
ジャンクフードと缶コーヒーに慣れた俺の舌は、雪すらも降ってくれない街に凍えた俺の身体は、君の言う『こんな紙コップのコーヒー』ですらまんざらじゃないと思っていた。

おいしいコーヒー、か。
この街でそんな物を飲ませてくれる店を俺は知らないけど。
許されるものなら、いつか雪が積もる頃にでも。
あの町に、あの店に、君を連れて行きたい。
いつも『二人』で通ってたあの店。
いつも微かに流れていた、ベン・E・キングの『Stand by Me』
思い出すほどに思い知る。
やっぱり君の言う通り。
こんな紙コップのコーヒーなんか、ちっともおいしくなんかない。
それでも君が隣に居てくれれば、まだ違った味わいがあったんだけど――

「理奈ちゃん…か」
「呼んだ?」
「うぉあっ!!」
「……その反応、自称アイドルとしては凄く傷付くんだけど」

じとーっとした視線で俺を咎める『自称アイドル』。
って言うか日本屈指のトップアイドル。
アンタが『自称』なんて言い出したら他のアイドル候補生の立つ瀬がないだろうと、全く関係のない世界の事で余計な心配をしてしまう俺がそこにはいた。
余計な思考で脳回路をフル稼働させておかなければ、あまりの唐突な出来事に感情がオーバーフローしてしまいそうな俺がそこにはいた。

「お、おが……緒方…理奈さん」
「…さん?」
「理奈……ちゃん」
「続けて」
「…緒方理奈ちゃん」
「はいよくできました。 こんばんわ、祐一君」
「……はい、こんばんわ」

一日経ってもやはり敬語を許してはくれないらしい。
さながら女教師の如くに俺の言葉遣いを正した彼女は、それはそれは満足気な笑顔を見せるのであった。
冗談抜きで魂を抜かれているような気さえする。
これが、『緒方理奈』の微笑み。
ブラウン管越しにすら大勢の人を魅了する『それ』を近距離で叩き込まれてしまった俺は、思わず後先考えずに「結婚して下さい」と言ってしまうところであった。
一瞬とは言え俺に我を忘れさせるとは。
恐るべし、理奈ちゃんスマイル。

「でもよかった。 来てくれなかったらどうしようかなって心配してたのよ」
「……はい?」
「電話した後に失敗したなーって思ったの。 祐一君だっていきなり『今日』って呼び出されたりして迷惑だったでしょ? せめて明日とかにするべきだったとは思ったけど――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。 え、いや、あの、あれ?」

来てくれなかったらって。
電話したって。
呼び出したって。
言ったね。
うん、言ってたね。
誰が?
目の前の、緒方理奈が。
誰を?
言うまでもない、この俺をだ。
って事はつまり。
って事は、本当に?

「理奈ちゃんが……俺を呼び出したの?」
「え? だから祐一君はここに居るんじゃないの?」

ごもっとも。
別に俺は暇つぶしでここに立ち寄った訳でもなければ、紙コップのコーヒーを飲みに来た訳でもない。
俺がここにいる理由を単純に説明しろと云うのであれば、理奈ちゃんの言う通り『呼び出されたから』としか言い様がなかった。
だが、問題はそこから先の部分である。
確かに学生部にかかってきた電話の主は『緒方理奈』と名乗ったらしいのだが、勿論俺はそんな物を信用してはいない。
何故なら俺には”あの”緒方理奈に呼び出される理由がただの一つとしてなく、その代わり『緒方理奈を騙る誰か』になら呼び出される心当たりがあったのだから。
無論その『誰か』が俺を呼び出す真意についてだって、俺の与り知るところではない。
可能性としては考慮するべきだったと、今更ではあるが反省もしている。
しかし思い当たる節が『カケラでもある』か『ゼロ』かの違いは予想以上に大きく、そして予想以上に強く俺の思考回路を支配していたのであった。

いつの間にか『ひょっとしたら』って考える事すらやめていた。
シニカルに笑いながら『ありえない』って呟くのがクセになっていた。
この世界で誰よりも信頼していた人に棄てられたあの夏の日から、俺はもうずっと『何かに期待する』ってのが怖くてしょうがなかった。
だからまず、疑った。
そして強く否定した。
常に最悪の事態を想定しながら生きていれば人は、裏切られたと悲しむ事も、予想外の事態に絶望する事もしないで済むんだと。

それは、頭の悪い俺にお前が教えてくれた、最後の真実。
二人で作った、最後の思い出。
宵闇、名雪、十六夜月。
綺麗だと思った。
月も。
お前も。

「……まさか本当に”あの”緒方理奈……あー、えーと、理奈ちゃんに呼び出されるとは思ってなかったよ」
「変なの。 じゃあ私が呼んだって信じてなかったのに、ここに来たってこと?」
「勿論、少しぐらいは信じてたさ。 そうだな……マンボウの卵が無事に孵化して成魚になる確率の分ぐらいは信じてた」
「……三億分の一じゃない、それ」
「三億分の一はさすがに言い過ぎたか。 
だとしても、正味一億二千万分の一なんて確率、真面目に考える方がどうかしてるだろ」

一億二千万分の一。
つまり、日本の人口分の一。
本質的な部分で接点を持たない他人同士が繋がる確率なんてのはそんなもんだろうと、俺はそう思っていた。
人と人とが出会い、言葉を交わす。
それは、この世界の大多数が思っているよりもずっとずっと奇跡的な確率の上に存在している。
だからこそ俺は、その確率を超えて付き合っていく事ができる親友の存在を何よりも大切に思っているのだ。
そしてだからこそ俺は、緒方理奈からの呼び出しを信用しなかったのだ。
なのに彼女は――

「でも、この世界に緒方理奈は私一人よ?」
「そりゃそうだ」
「あなたも、この世界に一人でしょ?」
「今のところは」
「なら、私があなたに連絡を取ろうとした時、お互いが繋がる確率は100%になるんじゃない?」

その発想はなかったわ。
人差し指をぴんと立てながら本日二度目の女教師モードに突入した理奈ちゃんの笑顔に、俺はただただ呆けた顔を晒すのみだった。
なるほど確かにキミが言う理論であれば、今のこの邂逅に何も不自然な点は存在しない事になる。
キミの笑顔もそのままの意味で受け取る事ができる。
だがそれを無条件に承認してしまうには、今の俺は少しばかり猜疑心に身を任せすぎていた。
いや、猜疑心と云うよりもむしろ自己否定。
もっと単純に言えば、『アイドルに対する劣等感』と言ってもいいのかもしれないが。
信じる事ができなかった。
キミの事も、自分自身も、傷付きたくないから何一つとして。

だってその理論の構築には何よりも、キミが俺を『世界でたった一人の』と認識してくれる事が必要不可欠なのだから。

「……なんでだ?」

何でキミは、俺を呼び出した。

「俺は一体、何をやらかした?」

日本中の人が認識している『緒方理奈』と云う存在が、何の理由で、群集に埋没している一個人である『相沢祐一』を認識した?

「もしやと思うが、何か気に障る事でもしてたんなら――」
「はい」

特別な人間からの認識に、ともすれば『嬉しい』と感じてしまいそうな己を恥じつつ一気に捲くし立てる俺。
そんな俺の言葉を易とも簡単に遮ったのは、目の前に差し出された白い指と、その指に身体を預けている一枚のカードの存在だった。
って言うかごめん、近すぎてよく見えない。

「なんだこれは」
「見て判らない?」
「近すぎて見えない」
「え? あっ、ごめんなさいね」

少しだけ照れ笑い、顔面直前に指し示していたカードをすっと引く。
やっとの事で焦点を結ぶ事が出来たその先では、何とも見慣れたマヌケ面がやる気のない眼で俺の方を睨んでいた。
確認するまでもなく、それは俺自身の写真。
これは確か、履歴書に貼った写真のはずだが。
何でこんなもんを突きつけられているのかと不思議に思った次の瞬間、俺の目にはその写真の横に印刷されている文字が飛び込んできた。
見慣れている文字で記された、見慣れない言葉。
瞬時に把握するには時間が必要な、その言葉の意味。
そこに記してあったのは、『STA
FF』と云う文字だった。

「……なんだこれは」

数秒前と同じ言葉。
しかし今度は含まれている意味が違う。
自分の写真が貼られている意味も『STAFF』と云う言葉の意味も把握した上で、それでも俺は疑問詞を投げかけたのだった。
いきなり与えられた分不相応の権利。
無条件で喜ぶほどガキじゃない。
まさか理奈ちゃんが俺を罠に嵌めるつもりで用意した訳ではないだろうと思うものの、それでも俺の眼差しは疑いの色を強くする一方だった。
声の調子と訝しげな視線で俺の意図する所を察したのだろう、理奈ちゃんの表情が若干曇る。
そんな表情をさせたかった訳ではないと誓えるけれど、何に誓ったら良いものかも判らない。
神も仏もいない事は名雪にフられた夏の時点で把握していたので、仕方なく俺は目の前の理奈ちゃん本人に向けて誓う事にした。
頼むから、困らないでくれ。
そんな顔は見たくないんだ。
いや、憂い顔もまた素敵なんだけど。

「昨日、祐一君が言った事。 覚えてる?」
「……色々ありすぎて、どれの事やら」
「私とあなた、祐一君の言葉を借りれば『自分と緒方理奈には二度目の接触はないだろう』って、そう言ったわよね」
「……ああ、言ったな」
「だから、こんな物を作ったの」
「……正気か?」
「嫌いなのよ私。 その『何かをする前から諦めちゃう』ってのが。 凄く、ね」

信じられない、と思った。
何をしているのだろうかこいつは、と思った。
あまりにも自分の住んでいる『現実/リアル』とかけ離れた世界の産物を突きつけられた俺は、瞬間的な衝動に身を任せる事でしか事態に対処できなかった。

「こんな物を作っていいと思ってんのか」
「思ってるわ」
「『普通』の人間じゃ作る事もできない物を……アンタ一人の好きとか嫌いとかで動かしていいと、本気で思ってるのか」
「その辺の思い煩いは、この世界に入ってからすぐの頃に通り過ぎたわ」

ふと、透明になる声。
硬質な輝きが瞳に宿る。
目の前で『理奈ちゃん』が『緒方理奈』になっていく瞬間を目撃した俺は、その時に至ってある一つの事に気付かされた。
それは彼女の同門である森川由綺とは、まったくの対称である真実。
凍て付くほどの存在感。
緒方理奈は、周囲の温度を零下にまで下げる事のできるアイドルだった。

「あなたの言う通り、私は『普通』じゃないわ。 でも、その事を受け入れて私は『緒方理奈』として生きているの。
 だから『これ』は、『緒方理奈』にとっての普通。 何も後ろめたくなんかないし、分を越えた行為だとも思ってないわ」

反論の余地など欠片もない。
そもそもの意志の強さが、圧倒的に違う。
人が己を『他の何者でもない』と認識する事は此処までの物なのかと思うくらい、『緒方理奈』の言葉には魂が宿っていた。
またしても俺の眼前に現れた、明確なる彼我の『境界線』。
本質的な部分での、俺と彼女の遠い距離。
埋める気はなかったし、埋められるとも思っていなかった。
なのに今。
他ならぬ彼女自身の手によって。
細く頼りなく朧気に、微風にすら軋むほど心許ない物ながら。
両者の間に存在する渓谷に、橋が架けられようとしていた。

「勘違いしないでね。 別にこれは、何を強制するものでもないわ」
「……全ては俺次第、か」
「ええ。 あくまで私は選択肢を用意しただけ。 逆に言えば、『選択肢がない』って言い訳する逃げ場を奪った事にはなるけれど」

そう言って悪戯に笑い、今一度カードを俺に向けて差し出す理奈ちゃん。
表情に悪意は全く感じられない。
しかし情けない事ながら、この選択が後の全てを決定するような気がした俺は、その『チケット』に即座に手を伸ばす事ができなかった。
何かを得るためには、何かを棄てなければならない。
そして一度何かを手に入れてしまったら、今度はそれの消失に怯えて過ごさなければならない。
嫌になるほど知っている。
痛みは今も残っている。
あんな思いをするくらいならもう二度と、何も手にしたくないと思った日々を、忘れた訳では決してない。
でも。
だけど――

「もう二度と会えないなんてこと、なかったでしょ?」

そんな風に柔らかな声で、まるで歌うようにキミが告げるから。
これからもずっと傍で見ていたいと思ってしまうくらい、素敵な笑顔を見せるから。

「なら…二度あった事だ。 三度目を期待させてもらおうか」

緒方プロダクションの控え室に行った時は、不意打ちを喰らった気分だった。
今日の呼び出しに関しても、キミが来るとは思っていなかった。
だけど今回。
三度目の正直と云う訳でもないが――

カードを受け取り、額の前にかざす。
お世辞にも無邪気とは言えない笑みを唇の端に浮かべ、理奈ちゃんを真正面から見つめる。
それは、もう『アイドルの緒方理奈』に対しても卑屈になったり眼を逸らしたりしないと云う、今更ながらの俺なりの意志表示だった。
次こそ。
今度こそ。
俺は俺の意志で、『境界線』を踏み越えていく。
俺は俺のままで、『こっちの世界』を歩いていく。

「改めてよろしく。 理奈ちゃん」
「やっと普通に呼んでくれたわね。 こちらこそよろしく、祐一君」

笑顔の理奈ちゃん。
やっぱり笑ってる方が可愛いな。
なんて事を思っていたにもかかわらず、俺はその笑顔に対して、同じような笑顔を返す事ができなかった。
凍りつく表情。
意図せず厳しくなる目付き。
黒く淀んでいく思考。
不意の表情の変化に驚いたのだろう、理奈ちゃんはその原因を探るようにして俺の視線の先にあるものへと目を遣り。
そこに見知った人の姿を見止め。

「あ、弥生さん。 由綺も一緒じゃない」

その名を、口にした。





* * *





「………」
「………」

互いに互いを睨み付けたまま、しかし二人ともただの一言たりとて口にしようとしない。
限りなく居心地の悪い静寂が、ロビーの一角を支配していた。
警戒や敵対と云う感情すらも飛び越えて、既に無機質としか形容しようのない視線を俺に叩きつける篠塚弥生。
自分の方から言葉を発する気など欠片もないと、無言のままに相手を睨み続ける俺。
場を満たしている一触即発の空気は、触れれば裂けてしまうぐらいの緊張感に満ち溢れていた。

俺は最初、今日の呼び出しを『緒方理奈の名を騙った篠塚弥生の罠』だと思っていた。
だが実際には篠塚弥生の企みなど存在せず、『緒方理奈の呼び出し』は正真正銘本物の緒方理奈からの呼び出しであった。
これには本当に驚いた。
だがそれと同じくらい、素直に嬉しかった。
何しろ俺は、平々凡々たる一庶民である。
更に言わせて貰えば、可愛い女の子を見れば普通に『可愛いな』と云う感想を抱く、極々普通のオトコノコなのである。
そんなオトコノコに対し、それこそ”まさか”のお呼び出し。
それも日本を代表するトップアイドル、緒方理奈から直々の。
これで嬉しくないなんて言う奴が居たら、地獄の閻魔様に舌を引っこ抜かれてしまえばいいのだと思うくらいだった。

だから、ここまでだったらハッピーエンドのはずだった。
見目麗しい彼女にお呼ばれして、こんなに間近でお話しをして。
「それじゃあごきげんよう」と笑って帰路につけたのであれば、今日のこの日は記念すべき素晴らしい一日として終わるはずだったのに。

「……たった二十四時間すらも約束を覚えておけませんか」
「や、弥生さんっ?」

腕時計を微かに眺め、今現在の時刻を確かめた上で、吐き捨てるように呟く篠塚弥生。
その余りに素直な嫌悪感の表し方に、さすがの森川由綺ですら驚きの表情を隠せないようだった。
言いたい事は判る。
抱いているであろう感情も、よく判る。
何しろ俺が『二度と森川由綺と接触しない』と云う約束をしたのは、彼女の言う通り『たった二十四時間』も経っていない昨日の事なのだから。
しかもあれだけの別れ方をした後だ、まさか昨日の今日で俺と対面する事になるとは思ってもいなかったのだろう。
しかし現実には、二度と顔を合わせるはずのなかった二人がこうして出会い、互いの顔を真正面から睨み付け合っている。
おまけにその背後では、『笑顔の似合う清純派アイドル』が困惑しきった顔でオロオロしている。
やれやれ、やはりどうにも俺の存在では、森川由綺を笑顔にはさせてやれないらしい。
出会う度に誤解と疑惑が積み重なっていくような錯覚の中、俺は最終的に『今はそれどころじゃない』と云う結論に達して、今回もまた森川由綺を放置する事に決定した。
ごめん、説明とか面倒なんでまた後でな。

「……勘違いするな。 約束を忘れた訳じゃない」
「なら、貴方はどうしてこの様な場所に居るのですか」

そりゃ勿論、緒方理奈ちゃんに呼ばれたからです。
うん、口が裂けても言えないなこりゃ。
格好つけて威勢良く切り返した次の瞬間には説明不能な状態に陥っているなんて、どれだけ起伏に富んだ人生なんだろうと俺は思った。

緒方理奈と森川由綺は、同じ緒方プロダクション所属のアイドルである。
年齢が近い事もあり、二人はよくニコイチの様な感じでマスコミに取り上げられていたりする。
全てが真実であると錯覚するほど盲目ではないが、雑誌やテレビなどから得られる情報の範囲内から推察すれば、二人の仲は至って良好である。
そして昨日。
理奈ちゃんと二人きりでお喋りする機会に恵まれた際に、その推察は確信に変わった。
緒方理奈と森川由綺の仲は、少なくとも互いを好ましい人間であると思っている程度には、良好である。
特に偏る事のない平凡な価値観を持っている俺にとって、可愛い女の娘二人の仲が良いと云うのは、ただそれだけで非常に喜ばしい事柄だった。
他に考慮すべき問題点さえ存在しなければ、非常に喜ばしい事柄だったはずなのだが――

ならどうして、相沢祐一と篠塚弥生の間に交わされた約束を、緒方理奈が把握していないんだ。

特定の一個人を警戒すると云う事態は、むしろプロダクションとして情報を共有するべき事柄のはずである。
秘密にしておく必要性など、どこにも存在しない。
そして逆に、『理奈ちゃんが俺を呼び出している』と云う情報が篠塚弥生に伝わっていないのも、不審と言えば不審だった。
しかもただ呼び出してお喋りをしただけではなく、スタッフのネームプレートまで用意していると云う状況である。
いくら彼女が日本を代表するトップアイドルとは言え、今回の様な人事権に関する事柄までは、流石に好き勝手できるはずがない。
だとすればそこには、プロダクションとして何らかの力が働いたと考えるのが妥当だろう。
だが、プロダクションとして動いた結果がこのネームプレートであるならば、やはりその事を篠塚弥生が把握していないと云う道理が立たない事となる。
これが一日限りの付き人とかならまだしも、仮にも篠塚弥生は森川由綺の専属マネである。
『プロダクションの息のかかった学生アルバイト』なんて特殊な人間。
教えられといてそれを忘れるほど、篠塚弥生と云う女性は愚鈍ではない。
つまり彼女は『忘れた』のではなく、『知らされていない』と云う事になる。
理由は判らないが、結論は出た。
なら俺は、その結論に対してどう向き合うべきか。
断片的な情報と経験のみを頼りに計算式で導き出せない答えを模索する作業は、今日の午前中に授業をサボった民俗学の講義内容に酷似している気がした。
真面目に受けておけば良かったと、そんな後悔なんかは無論しなかった訳だが。

「……ねぇ由綺。 なんか尋常じゃない雰囲気なんだけど、どうなってるの? これ」
「え、えっと、私にも何が何だか判らないんだけどね…」

安心しろ、俺にも何が何だか判らない。
俺と対峙する篠塚弥生の背後、揃って声を潜める日本屈指の二大アイドルの姿を見ながら、俺は自嘲気味にそう思った。
与えられた命題は、『緒方理奈に呼び出されたと云う事実を隠蔽しつつ、篠塚弥生との約束を反故にした理由を説明せよ』。
個人的な名誉を守るために付与される条件は、『反故にした理由にはそれ相応の正当性を持たせること』。
こんな難しい問題に出会ったのは、俺の短い生涯の中でも極めて稀な事柄であった。
これがレポートの課題やテスト問題だったら、ほぼ間違いなく『不可』の評価を頂くレベルである。
そう考えれば、この難題にぶち当たったのが学校の試験とは関係ない場所だと云う事がむしろラッキーだったとすら思える訳ないだろクソッタレ。

「………」
「口に出せない理由。 と云うよりも、最初から理由など無かったのですね」

呆れたような。
蔑むような。
そんな感情ですら、滲ませてくれていたのであればどれだけマシだっただろうか。
相手の瞳に自分が映っていると実感できる分、どれだけ心が楽だっただろうか。
「どうしてこのような場所に居るか」と云う問いに、答えられずにいた十数秒間。
相対した瞬間に垣間見えた感情も既に立ち消え、篠塚弥生の瞳に残ったのは、出会った時と同じような無機質な光だけだった。

理由ならある。
全く予測もつかなかった『緒方理奈』と云うファクターではあるが、口にしてしまえば確実に篠塚弥生の感情を揺さぶるだけの威力を秘めている。
だが、現状ではそれを説明する事はできない。
してはいけない。
何故ならば、篠塚弥生と緒方理奈の間には、俺の与り知らぬ部分での擦れ違いが生じてしまっているからだ。
俺が「緒方理奈に呼び出された」と言ってしまえば、プロダクションの意向を問わずに行動を起こした理奈ちゃんに対して責めの発言が行われるだろう。
もっと言ってしまえば、俺が約束を反故にした責任の追及までもが行われる事態も考えられるだろう。
無論、そこに疑問の種は残っている。
それは相沢祐一と云う一個の人間の処遇に関して、プロダクションが篠塚弥生と緒方理奈と云う両者に対し、相反した対応を取っている件である。
一方には突き放すよう指示し、もう片方には受け入れるような下地を作ってみせる。
まったくもって難解極まりない。
だがそれでも。
何かをどうにかしてこの珍妙な構図に、一応の説明をつけようとするのであれば。
それは、『どちらか片方がプロダクションを通さずに完全に独断で動いている』と云う、前提自体を覆すような仮説に則った上での事でしか為しえない業であった。

一人の大学生を局関係から完全に閉め出す。
一人の大学生を特別扱いで局に迎え入れる。
各関係者に対し、どちらの方が大きな波紋を投げかけるかなど、渦中でありながらも基本的に部外者である俺なんかが知る由も無い事柄である。
同じ理由で、どちらの無理を押し通す方がより力量を要するかなんてのも、言わせて貰えば知った事ではなかった。
結局、思考は堂々巡りを繰り返す。
どちらが何を偽って、どちらの何が真実なのか。
誰が悪いのか、そもそも誰かが『悪い』のか。
判らない。
何一つ判らない。
いい加減面倒臭くなった俺は、そこでいつもの様に心の中である言葉を呟き、思考を意識的に断ち切った。
LET IT BE.
”なる”ように”なる”。
最終的に守りたい人が心の中で決まっている以上、無意味な思い煩いに時間を費やす事だけは避けるべきだと俺は思った。

勿論、篠塚弥生に対して言い訳なんかはできやしない。
今回の件に関しては、一方的に俺のルール違反である。
もう二度と逢わないと誓った。
なのに俺は今、森川由綺の目の前に居る。
そこを有耶無耶にする気はないし、かと言って理奈ちゃんの呼び出しのせいにする気もなかった。
今まで同様、そしてこれからも。
自らが行う全ての行動に関して、自由と責任は常に己のみで完結させるべし。
負担も、迷惑も、心配も。
他の誰にも負わせる事無かれ。
それが、両親も従妹も友人もかなぐり捨てて俺が選んだ、たった一人で生きるために必要とした唯一の鉄則だから。

「……そうだな、理由なんか何処にも無い」
「では、ご自分が約束を簡単に違えるような人間である事も、お認めになるのですね」
「現状じゃ否定できないだろ。 今こうして、アンタと喋ってるんだから」
「否定が欲しい訳ではありません」
「知ってる。 アンタが欲しいのは、昨日の約束の確実な履行。 ただそれだけだ」
「判っているのなら、貴方は何故ここに居られるのですか?」
「そりゃ、約束を守る気がなくなったからだろ」

溜息混じりに、自嘲も込めた薄っぺらい作り笑い。
自分で言っていても気分が悪くなるような、本当に最低で一方的な約束の破棄。
本当ならこんな事は言いたくないし、こんな事を言うような人間にもなりたくはなかった。
軽く口にした訳ではない、軽口。
砂を食(は)むような思いで口にした、偽りの本音。
しかし其処に至るまでの葛藤は当然の事ながら、その全てが俺の心の中だけで完結する類の事柄である。
葛藤も、逡巡も、その果てに俺自身を追い詰める膨大な質量の自己嫌悪にも。
篠塚弥生は、気付かない。
俺が口にしたその事だけを『相沢祐一の本音』と捉え、彼女の中には『約束を平気で反故にする人間』としての『相沢祐一』が構築されていく。
最低な人間像が、外堀からじわじわと固められていく。

だが、それでいい。
全てはまったく、それでいい。
何故なら、『真実の隠蔽』と言うそれこそが、今の俺の最大の目的だからである。
俺がこの場所に存在する理由。
緒方理奈の関与。
それを必死で押し隠そうとする、俺の本心。
俺と言う人間が抱いている、様々な自己矛盾及びそれに端を発する種々の痛み。
気付かないのなら、それでいい。
気付かれたくないのだから、構わない。
だから、本来であれば『これ』は、諸手を挙げて喜ぶべき事柄なのだった。
表面上はどうであれ心の中では『計算通り』と舌を出し、悪人面をしながら陰でくすくす笑うべき所なのだった。

篠塚弥生が俺に、紛う事無き軽蔑の眼差しを向けていると言う現状。
それは、他の誰でもない俺自身が『そうあってほしい』と思い描いた通りの、完璧な未来予想図であったはずなのに――

覚悟はしていた。
理奈ちゃんの存在を隠し通すと決めた時点で、彼女に”そう”思われると云う事は重々承知の上のはずだった。
『誰か』を守るためならば、どれだけ傷付いたって構わない。
『誰か』の笑顔のためならば、どんな痛みでも耐えられる。
映画とか、漫画とか、ゲームとか小説とかアニメの中の主人公はいつも、そんな台詞をカッコ良く叫んでは敵をぶっ飛ばしていた。
全てはフィクションだったり着ぐるみだったり0と1の集合だったりする事を把握した今だって、俺は『彼ら』の言葉を強く信じていた。
だけど。
だけどやっぱり此処に居る平凡な大学生の俺は、ヒーローでも勇者でも主人公でもなかったりするものだから。
痛かった。
『誰か』からの拒絶を受ける事は、とても心が痛かった。

「それでは一体貴方は、何が目的なのですか?」
「……」

目的など無い。
強いて言うなれば、他よりも賃金面で優遇されている此処での仕事がほしい。
だがそれを口にすれば、究極的には「金が欲しい」と言っているのと同義になる。
今以上の軽蔑と誤解を招く事を怖れた俺は、またしても状況に無言を強いられた。
無言でいることが、ある種の誤解に対する決定的な『肯定』になりかねないと知りながらも――

「もしも貴方の要求が森川との個人的な接触であれば、それは承諾致しかねます。 ですがそれ以外の条件でしたら――」

そこまで言って、唐突に声を潜める篠塚弥生。
続く言葉は、俺にしか聞こえない音量だった。

「――私の事でしたら、お好きにして構いませんわ」

微かに耳に残る甘い吐息。
対照的に、感情の見えない瞳。
艶のある唇。
冬を具体化したかの様な、冷たく儚い声音。
複雑に絡まりあって告げられた言葉は、俺の理解の範疇を完全に超えていた。

なにを。
何を言っているのだろう、この人は。

「それは一体……どう言う意味で――」
「言葉通りの意味、ですわ」

自分を好きにしていい。
その代わり、森川由綺には近寄るな。
言葉通りの意味で取れば、篠塚弥生の発言はそう云う事だった。
『好きにしていい』だなんて言葉、まさか飲み屋とラブホ以外で聞く事になるとは思わなかった。
だが、白く明るい蛍光灯の下で囁かれたからと言ってその意味を取り違えたりするほど、俺は清廉潔白な人生を歩んではこなかった。
早い話、彼女の言葉の後に『勿論、性的な意味で』と付け加えるだけで、状況の説明は全て完了する。
俺のふしだらな解釈が見当違いな物ではない保障は、他でもない彼女自身が十二分に行ってくれていた。
何故なら、俺が彼女の言葉に性的なニュアンスを感じ取らなければ、そもそも『好きにしていい』と言う言葉は取引の対象にすらならないからだ。
俺を発情期真っ盛りの雄であると認識し、自身が抱く価値のある女である事を完全に把握し、互いの性差をもって取引の対象とする。
自分をすら一個のモノとして冷静に値踏みするその交渉手段は、俺が感じている限りでは実に篠塚弥生らしい方法だった。
あまりに彼女らしすぎて、俺は思わず拳を強く握っていた。

「誰がそんな事してほしいって言ったよ……」
「貴方は何も提案していません。 提案したのは、あくまで私の方です」
「他人の……森川由綺のためにそこまでする理由は、一体何だ」
「私にとっての彼女には、それだけの価値があるのです。 ご理解頂けないのでしたら、それは価値観の違いなのでしょう」

『価値観の違い』
涼しい顔で、事も無げに言い捨てる篠塚弥生。
それは『理解などしてもらわなくて結構』と言外に告げる、彼女からの一方的な宣告だった。
何も判り合う必要はない。
感情を共有する気などない。
しかしそれらの無機質な反応は、逆にある一つの可能性を示唆していた。
『ひょっとして彼女にとってこの現状は半ば強制的な物なのではないか』と云う問いを、俺に抱かせた。

『仕事だから』
自分の中でそう割り切ってさえいれば、どんな苦痛や恥辱にも耐える事ができる。
理不尽な怒声にも。
納得のいかない指令にも。
『仕事だから』と云う言い訳の元に自我を放り投げてしまえれば、怒りも憎しみも感じる事はない。
それは、様々なアルバイトをこなしながら日々の生計を立ててきた俺が身につけた、酷く後ろ向きで情けない自己防衛のためのスキルだった。

だからもし、篠塚弥生が。
篠塚弥生も、『そう』だったとしたら。
使命感と諦観を足して二で割ったような状況の奔流に流されて、本意ではない言葉を口にしているだけだとしたら――

「……それは、『仕事だから』か…?」

擦れた声で呟く、問い。
しかし声にして初めて認識したそれは、問いと云うよりもむしろ願望に近い響きを持っていた。
自分がそうだから彼女も――なんて陳腐な連帯感がほしい訳ではない。
そんな表面的な部分だけの話ではなく、俺は彼女に自分勝手な『人間らしさ』を求めていたのだった。
だけど。


「仕事? 仕事ですって?」

彼女はそう言って、聞こえよがしに鼻で笑ってみせた。

「夢…です、私の。 才能ある女性を、頂点まで持ち上げてゆく事が」
「あなたの…?」

真っ白な蛍光灯の下。
彼女の『覚悟』が、露わになる。

「私のです。 ですから、由綺さんが成長してゆくのに妨げになるものは、何であろうと取り除いてゆくつもりです。 例えそれを、由綺さんが望まなくても…」
「……それで貴女が、どうなろうとも?」
「ええ」

揺るがない。
声も、視線も、まるで凍土高原の様に凍て付き、その様相を変えたりはしない。

「納得、いかないみたいですね」
「……」
「だから、価値観の違いなのですわ」

狂ってやがる。
一体全体、コイツの思考回路はどうなってやがるんだ。
ほんの僅かな分量すらもオブラートに包めやしない、それが俺の感じた全てだった。
「価値観の違い」だなんて、そんな言葉で片付けられるほど簡単な話じゃない。
人身御供をすら厭わない歪んだ価値観など、この真四角なビルが乱立する世界じゃ許容されるはずがない。
だが、彼女の価値観を完全否定することもまた、今の俺には為し得ない事柄だった。
何故なら俺は、知っているから。
森川由綺の事を語る篠塚弥生の瞳が、
間違っても狂信に心を濁らせた者のソレではない事を。
『誰か』の幸せを願う比類なく純粋な瞳が、雪の降る街で同じ時を過ごした人達にも共通する物である事を。

傷を隠して。
自分を殺して。
願ったのは、ただひたすらに平穏な日々。
笑顔も。
涙も。
時には愛情や命までをもその対価として支払って、求めたのは隣に居てくれる人の笑顔だけだった。
『コイツの為なら死んでもいい』と思えた。
もしも再びあの頃に戻れるなら、何度でも俺は同じ想いを抱くはずだった。
大好きだった彼女。
今ではもう、あいつの幸せの為に死ぬ権利すら与えてはもらえない。
万年雪の様に永遠だと思っていた誓いは、雪すら降らない街の温度にあっさりと溶かされてしまったけれど。
ああ、それでも記憶だけは残っている。
恋の為に死ななくては気が狂って死んでしまいそうなほどの、まるで熱病にも似た盲目的なあの感情。
枯れて乾いてささくれ立ってしまった俺の胸の内にも、それは確かに存在していたものだったから。

だから、判る。
篠塚弥生が嘘を吐いていないと云う事は、嫌と云うほどよく判る。
実際に対峙したら『狂ってる』としか表現できない程の熱量は、ある意味では本当に狂っているのだ。
他の事など見えやしない。
護るべき存在は、
既に自らの腕の中に居る。
俺は彼女を誤解していた。
『まるで感情を持たない機械のようだ』なんて、とんだ勘違いの産物だった。
全ては、逆だった。
誰をも愛さないのではなく、一人を深く愛しすぎているだけだった。
冷徹なんじゃない。
無機質なんかじゃない。
たった一つの願い事を叶える為に、彼女はそれを自らの意志で切り捨てたのだ。
これが。
これこそが、彼我の間に存在する『境界線』の正体。
『境界線』の向こう側に居る奴等が例外無く心胆に据えている、自分が自分である事を何よりも強く叫ぶ決定的な――

「それが、本物の『覚悟』ってヤツだ。 なぁ、青年」
「っ!?」

背後から唐突に投げ掛けられる、場違いにも程があろうと云うほど鷹揚とした声。
腰骨が捻じ切れそうな勢いで振り返れば、そこに居たのは下弦フレームの眼鏡をかけた優男。
全くの気配なく背中を取られた事を驚くよりも、俺はその男に対して『いいからまずは空気読め』と云う感情を抱いてしまっていた。
多分だけど、間違ってなんかいないんじゃないかと思った。

「……誰だ、アンタ」
「俺? 俺はホラ、通りすがりの――」
「に、兄さんっ!?」
「――緒方理奈の兄です。 どうも」

『訳知り顔の通行人』を演じようとして失敗した事がそんなにも悔しいのか、肩を落として無難な挨拶をする壮年の優男。
普段の俺なら愛想笑いの一つでも浮かべながら「ハイどうも」と言う所だったが、流石に今の状況では作り笑いを浮かべる事すら憚られた。

緒方英二。
広く世間に知られるアイドル緒方理奈の実兄であり、彼女が所属する『緒方プロダクション』の社長。
若くしてミュージシャンとして大成するほどの実力の持ち主だったが、その音楽世界が円熟期を迎える寸前、彼は突然に引退を宣言する。
引退後は、プロデューサーとして音楽世界に復帰。
当初、彼の突然の方向転換は、『金儲け主義』とも『若造の酔狂』とも言われ、周囲に酷く揶揄された。
だが、音楽家としてずば抜けていた彼のセンスは、その他全ての分野においてもまた、高い完成度を誇っていた。
巧みな映像技術、斬新な舞台構成、鮮烈な楽曲提供、独創的な衣装創作。
緻密なマーケティングと、大胆な販売戦略。
ありとあらゆる方面に卓越した手腕を見せる彼の名前は、活動開始から僅か数年の間で、既にブランドとして確立し始めていた。
そして彼の妹である緒方理奈のデビューと共に、緒方プロダクションの名声は全国トップレベルにまで飛躍する。
今や『音楽業界の株の動きは緒方英二の動向で左右される』とまで言われるようになった、彼はまさに日本音楽会の急先鋒である。
『produced by 緒方』の第二段である森川由綺の人気も凄まじいものがあり、今後もますます彼の動向から目が離せなくなるだろう。
――出典:経済評論誌『UZAI』


本来なら、俺なんかが口を利ける相手じゃないんだろう。
時給幾らで額に汗しているバイト君なんかじゃ、影だって踏めない存在なんだろう。
声をかけてくれた事にだって恐縮しなければならないんだろうし、『気さくな人だ』なんて好印象を抱いて然るべきなんだろう。

――だが

今の俺には、そんな事は不可能だった。
十中八九間違いではないだろう、とある仮定に基づいた判断により、俺はどうしてもこの男に尻尾を振る訳にはいかなかった。
コイツだ。
俺の予想が正しければ、コイツが全ての――

「――ひとつだけ、確かめたい事がある」

理奈ちゃんがくれたスタッフ証。
篠塚弥生が叩き付けた絶縁の約束。
待遇としては真逆でありながらも、この両者はある一点のみにおいて確実な共通点を持っていた。
それは、『一個人の裁量の限界を超えている』と云う部分。
決定の全てに上意が必要であるかどうかは定かではないが、少なくとも全くの独断で動かせる権限の範疇に無い事だけは確かだった。
緒方理奈。
篠塚弥生。
双方共に所属している組織の最頂点はと言えば、目の前で飄々とした体を見せている緒方英二その人である。
つまり彼女達は『緒方英二の承諾を得る』と云う形で一個人以上の決定力を有し、俺に対する一種の特別待遇を実現させる事に成功したのだろう。
そしてそれこそが、俺の頭を悩ませている最大の問題点だった。

一方では暖かく許容し、返す刀では非情なまでに拒絶する。
同一人物(相沢祐一)に対し、同一人物(緒方英二)が下した、全く異質な二つの答え。
指示を出した人間が解離性同一性障害であると云う稀有なケースを除けば、それに対する答えは必然的にある一つの答えへと集約されていく事となる。
それは、そもそもの前提である『異質な指示を同一人物が出している』と云う部分に切り込む事でしか得られない答え。
つまり、『緒方英二は許容か拒絶のどちらかしか指示しておらず、残る片方は完全な独断で動いている』、とする見方である。
この解釈であれば矛盾は生まれず、片方を切り捨ててしまえば事が済む。
加えて理奈ちゃんの手には、プロダクションの協力無くしては在りえないであろう『スタッフ証』と云う物的な証拠までもが握られていた。
対する篠塚弥生の手には何も握られていない。
双方が置かれている状況も、俺が抱いている心情も、『篠塚弥生は黒だ』と主張している。
そう、ほんの数分前までだったら、俺は間違いなく篠塚弥生を黒だと断言できていたはずだったのに。
今はもう、それができない。
過激とすら呼べるほどの『覚悟』を目の当たりにしてしまった今では、疑う事すらできやしなかった。

森川由綺のためならば、自分自身を犠牲とする事も厭わない。
それが、篠塚弥生の『覚悟』。
無論、それは『自らを捨てる事』を目的とした覚悟ではない。
森川由綺を護るための覚悟である。
最後の一線を明確に把握している人間のやる事には、『そつ』とか『ぬかり』なんて部分が欠片だって存在しない。
最終的な意思決定を既に完了させている人間の取る行動は、いつだって常軌を逸しているほど綿密で完璧だ。

そんな彼女が、後に綻びとなる可能性のある『偽り』を、わざわざ計画の中に内包させておくだろうか。
根拠も必然性も充分に備わっている『危険人物の排除』を、緒方英二に内緒で行う理由なんて存在していたのだろうか。

俺はそれを、否と考える。
篠塚弥生が俺に提示した問題解決手段は、間違いなく緒方英二の判断の元、プロダクションの総意として決定された物に違いない。
そしてこの時点で、俺が疑いを向けるべき人物はただの一人しか存在しない事となるのだった。
理奈ちゃんは嘘を吐いていない。
篠塚弥生も嘘を吐いていない。
両者が共に『真』であるのに、両立し得ない命題がそこに課せられているのだとしたら。

「アンタが……仕向けたんだな」

其処には、”意図的に矛盾を演出している人間”が存在しなくてはならない。
踊らされている事への不快感から、俺の声と視線は明らかに『敵対する者』として緒方英二に向けられた。

「ああ、怒っちゃった? いや、ごめんごめん。 ちょっとした悪ふざけ、って事にしておいてくれないかな」

肯定、だな。
俺の断片的な言葉で質問の意図を理解する事など、普通の人間にはできやしない。
それを可能にできるのは、全知全能の神様か『全てを裏で仕組んでいた者』のみである。
そして、緒方英二は神ではない。
なら、目の前のコイツは間違いなく『裏で仕組んでいた者』だ。

「何が目的だ……。 返答次第によっちゃ、穏便に済ます気はないぜ」
「確かめたい事は一つだけ、のはずじゃなかったのかい?」

ぶちっ

久しぶりに。
実に久しぶりに、自分の中の『何か』がブチ切れる音を聞いた気がした。
緒方プロダクションの社長?
理奈ちゃんの兄貴?
知った事か。
一切合財がどうでもいい。
問題なのは、コイツが俺を躍らせて遊んでいる事だ。
お前の仕事が人を躍らせる事【プロデューサー】なのは百も承知だ。
でもな、それが万人に許されると思ったら大間違いだぜクソッタレ。
踊る阿呆に見る阿呆。
同じ阿呆なら踊らなければ損だし、俺はむしろ率先して踊るタイプの阿呆である事を自覚している。
だけど――
お前がどれだけ敏腕な『躍らせる阿呆』かは知らないが、お前に踊らされる事がどれだけ世間的な意味で価値のある物かも知らないが。
これだけは言っておく。
踊る阿呆は、自らの行動を自分自身の意志で決定しているからこそ、踊る事を楽しめているんだ。
誰かの指先一つで決められダンスを踊るマリオネットになんて、消しゴムのカス一つまみほどの興味だって抱けない。
あまり人を見くびるな。
踊る阿呆を、甘く見るな。
踊らされてんじゃねえ踊ってんだ!
どこかで聞いた事のあるフレーズが、俺の頭骨内に酷く残響した。

「……判った」
「うん?」
「篠塚弥生、って云ったな。 どうやらアンタのボスは、アンタ以上に人の心と行動を誘導する事に長けているようだ」
「…と、言いますと?」

まさか俺の方から声を掛けてくるとは思っていなかったのだろう。
一瞬だけ見えた素の表情が、篠塚弥生を妙に人間臭く感じさせる。
そんな、微かに抱きかけた親しみの感情。
敵対以外の選択肢。
全てを殴殺する様に、俺は一気に言葉を捲し立てた。

「力で脅すでもなく。 金を渡す訳でもなく。 欲望に訴えかけるでもない。
 そんな事をしなくてもアンタ等は、ただ俺に嫌われるだけで良かったって事だ。
 望外の特権を鼻先にぶら下げられて、犬みたいに涎を垂らしながら喜ぶ様を見れて満足か?
 排斥と歓迎の板挟みになって、知恵遅れの障害者みたいにオロオロと葛藤する様を見れて幸せか?
 踊らされるのは大嫌いだが、安心しろ。
 アンタの思惑は大成功だ。
 お前等が『そう』と望むその何万倍よりも遥かに強く、俺はもう二度とお前等に関わりたくないと思っている」

深く。
静かに。
しかし熱した鉄のような万感の怒りを込めて。
俺は、今再びの絶縁宣言を『彼等』に叩き付けた。

北川は正しかった。
やはり俺は『境界線』のこちら側になど、足を踏み入れなければ良かったのだ。
いつもいつもそうなのだが、北川が俺を心配して言ってくれる事は、何とも申し訳無い事にその大半が真実となってしまうのだった。
思い出せる限りではあの冬の日も、あの夏の日も。
結局今回またしても、北川の言った事は全くその通りの形で俺の身に降りかかり、俺はその事に対して非常に申し訳ない気分になっている。
心配してくれたのに、ごめん。
やっぱり俺は馬鹿だから、お前が心配したそのままの形で傷付いた。
ごめん。
本当にごめん。
俺が傷付いた事で気分を悪くしてしまうお前が居るって、判っていながらも騙されて傷を負ってしまった事。
『自由も責任も自分自身で完結させる』だなんて息巻いているくせに、お前にだけは心配も負担もかけてしまっている事。
甘えて、ごめん。
甘えさせてくれて、ありがとう。
面と向かってなんか口に出したりなんかはできないけど、感謝してる。
なんて、こんな感傷的になっているのだって、結局は俺自身が今現在心許ないだけのくせに――

「用は済んだな。 俺は帰らせてもらう」

帰りたい。
今すぐに、『境界線』のこちら側から抜け出したい。
傷付き、焦る思考は、まるで逃げ出すかのような体を俺に取らせた。

「本当に君はそれで良いのかい? 青年」

思いがけず、引き止める声。
本当なら、反応すらしたくなかった。
聞こえない振りをしたい。
存在すら無視して歩き出したい。
だが、そんな思い【ココロ】とは裏腹に、俺は踵を返して緒方英二の顔を真正面から睨みつけていた。

「まだ喋り足りないのならさっさと口を動かせ。 俺はそこまで暇じゃない」
「見た目に拠らず、意外と激情家なんだな、君は。 『彼』とはまるで正反対だ」
「英二さんっ!」
「ああ、そんな怒らないでよ弥生姉さんも。 これじゃまるで俺一人が悪者みたいじゃないか」

驚いた。
篠塚弥生が驚いて声を荒げたと云う事実に、俺は大いに驚いた。
鉄面皮とも呼べる彼女の仮面を一瞬にして剥ぎ取った緒方英二の言葉。
それは恐らく、会話の中に出て来た『彼』と云う単語だろう。
考えろ。
『彼』とは、誰を指す言葉だ。
普通なら篠塚弥生の恋人辺りを示す言葉なのだろうが、それでは説明がつかない。
『篠塚弥生の恋人』を話題にする程度では、篠塚弥生の感情は揺るがない。
それは、今日のやり取りで嫌と云うほど理解した。
彼女の精神も、肉体も、彼女が自由にできるモノの全ては森川由綺の成長の為に注がれている。
だから、篠塚弥生は『篠塚弥生』の恋人程度の話題では動じないのだ。
それはつまり――
まさか――

「家は遠いのかい、青年」
「……はぁ?」
「怒らせちまったお詫びだ。 家まで送っていくよ」
「……うぇあ?」

唐突に何を言い出すのだこの男は。
あまりにも胡散臭い申し出のタイミングに、俺は思わず奇怪な鳴き声をあげてしまっていた。
登場した瞬間にもそう思ったのだが、この男はもう少し場の空気を読むスキルを身に付けた方が……

……いや、違うな。
恐らくコイツは、意図的に言葉を外してきている。
予想外の言葉と展開で人を翻弄し、それに戸惑う思考の隙をつく。
そうしてコイツは、人を自分の思い通りに誘導しようとしているのだ。
切り替えろ。
思考のギアを、Uランクはアップさせろ。
目の前に居るのは雪の降る町に住む純朴な少年でもなければ、眠らぬ夜に振り回されてるだけの悪ガキでもない。
俺がポディマハッタヤさんと黒鉛の関係について学んでいた頃には、既にコイツは『境界線』の向こう側で頭角を現していたのだ。
何をどうしても、絶対的な経験値が違いすぎる。
腹の探り合いや騙し合いと言った土俵では、正直勝ち目が見えないほど分が悪い。
だが、尻尾を巻いて逃げるって選択肢を
選ぶには、この握り締められた拳があまりにも邪魔だった。
先の先は封じられ。
逃亡の道は自ら塞ぎ。
彼我の力量差を把握してそれでもなお、一矢報いるための方策を探すのなら。
残された手段は、捨て身でのカウンター狙いしかないだろう。
天才、緒方英二。
上等だ。
まずはその掌の上、土足であがらせてもらおうか。

「それじゃ、お言葉に甘えて送っていただきますよ……緒方英二、さん」
「……なるほど。 弥生姉さんがムキになる訳だ」

楽しそうな口元。
対照的に、鋭く尖る眼差し。
それは、喜悦と警戒とを足して二で割ったような奇妙な感情の色だった。
どうやら俺の反応は、ほんの少しだけ奴の予想を上回っていたらしい。
しかしその事に対する優越感など、砂粒ほどにすら感じさせてもらえない。
やれやれ、これは疲れるドライブになりそうだ。

「それじゃ、この青年は俺が預かっていくよ。 由綺ちゃん、この後のカメリハ頑張ってね」
「あ、は、はいっ。 お疲れ様でしたっ」

いきなり自分に話を振られて、まるで水飲み鳥みたいにぺこりと頭を下げる森川由綺。
裏も表も感じられないとびっきりの『素』の表情が、今の俺にとっては何よりも心地良い物だった。
『俺と緒方英二が一緒に帰ろうとしている』と云う異質な状況にも、恐らくは何も裏を感じていないのだろう。
恐るべき清純アイドル、もとい天然ボケアイドル。
その隣にいる理奈ちゃんが零下の視線を兄貴に叩きつけているだけに、森川由綺の存在はより一層暖かな物に感じられた。

「兄さ――」
「理奈。 悪いけど今日はタクシーで帰ってくれ。 何か言いたい事があるなら、家で聞くから」
「ちょ、そんな勝手な!」
「弥生さん、後はお願いね」
「……判りました。 その代わり、私にも後で詳細な説明をしていただきます」
「兄さん! 私はまだ納得してないわよ!」
「おー、こわ。 このままだと俺、殺されちゃいそうだし。 行こうぜ、青年」

ぎゅっ

肩を抱くな、肩を。
爽やかな笑顔を見せるな、爽やかなのを。
別に俺はアンタと仲良しこよしの関係を築くつもりなんて――

「由綺ちゃんに、バレるぜ?」
「――っ!」

耳元でぼそっと囁かれた言葉。
それは言葉を補うのであれば、『俺と険悪な雰囲気なのが』と云う感じになるだろう。
「何も知らせたくないんだろ?」
「由綺ちゃんには笑っていてほしいんだろ?」
肩に置かれた彼の手が、実際以上の重さでもって言外にそう告げていた。
あるいは緒方英二自身の願いもそこに反映されていたのかもしれないが、それでも。

察知されていたと云うのか。
俺が森川由綺に向けて感じた、あの僅かばかりの親しみの気配を。
やはりこの男、傍に置くのであれば一瞬たりとて気が抜けない。
内面の緊張を下手糞な作り笑いで覆い隠し、俺は森川由綺と理奈ちゃんに向き直った。

「うん。 それじゃあ、まぁ、そーゆー事だから」
「祐一君は……それでいいの?」

『それ』がどれを示す言葉なのか、今の俺には咄嗟に判断できなかった。
怒りに身を窶(やつ)す事か。
状況に流される事か。
緒方英二の企みにあえて乗る事か。
篠塚弥生に何の弁解もせずに軽蔑されたままでいる事か。
判らない。
俺には判らない。
そのどれもが感情の許容量を遥かに越えて不快すぎるせいで、今の俺には何一つ判断できなかった。

そりゃ、良くはないさ。
この状況を自分自身に許す事に、『良い』と判断できる要素なんて一つもない。
「懐に潜り込むため」なんて言いながら、いたずらにリスクを背負い。
「誰かを護るため」なんて言いながら、正義ぶった顔をして嘘を吐き。
終(しま)いには、こんなにも薄っぺらな作り笑いで。

「別に取って喰われる訳じゃないんだから。 ……それじゃあまた…いつかどこかで」

コーヒーの温かさと未来への道をくれたキミにまで、俺は限りない嘘を吐く。
『いつか』なんて永遠に来ない。
『どこか』なんて世界中の何処にも無い。
他でもない俺自身の意志により、俺達は再び『境界線』によって別たれた世界の両端に存在する。
それが望みだろ?
なあ、オニイチャンよ。

「俺、明日無事に仕事できるかな…」

呟いた緒方英二の顔は、何故だかとても引き攣っていた。





To be continued...