芥川竜之介の短編「地獄変」は、最愛の娘を犠牲にしてまで芸術を完成させようとした老絵師の苦悩と恍惚(こうこつ)を描いた王朝物の傑作だ。
芥川が二十六歳で大阪毎日新聞社友となった一九一八年、同新聞と東京日日新聞に連載された。その直筆原稿の一部と、同年に同じ二紙に連載された未完の作「邪宗門」の別稿など、芥川研究の一級資料が倉敷で確認された。
倉敷市出身の明治詩壇の巨匠・薄田(すすきだ)泣菫(きゅうきん)の遺族が三年前に同市に寄贈した資料に含まれていた。そう聞いて、むべなるかなと思った。詩人として名を成した泣菫は、大正期に大阪毎日新聞に入り学芸部長などを務めた。菊池寛の「真珠夫人」を世に出すなど豊かな文壇交流があったからだ。
今回の原稿も芥川から学芸部副部長だった泣菫に送られたもの。当時、芥川は二十四歳で発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、新進作家としての地歩を築いていた。とはいえ、執筆を支えた編集者としての泣菫の力量は再評価されるべきだろう。
資料は、阪神大震災で倒壊した兵庫県西宮市の泣菫の長男宅に保管されていた。数奇な運命をたどり出身地に戻ったが、研究者の目に留まらなければ、日の目を見ることもなかった。
今年は泣菫の生誕百三十年。詩人、随筆家、編集者として活躍した多彩な才能に光を当てる格好の機会となった。資料の一般公開が待ち遠しい。