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9.11が起きた時にアフリカの事を書こうと執筆意欲が沸いてきたんです。

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PROFILE
 
 
 藤原章生 - ジャーナリスト -
1961年、福島県生まれ。北海道大学工学部卒業後、住友鉱山に入社。89年から毎日新聞社に入社し、ジャーナリズムの道へ。92年に外信部に所属し、93年にメキシコ留学。帰国後の95年から南アフリカ・ヨハネスブルグでアフリカ特派員、2002年からは、メキシコ市支局長、ラテンアメリカ特派員。5年半に渡るアフリカ特派員時代の取材を元にした著書『絵はがきにされた少年』で今年の開高健ノンフィクション賞受賞。
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セレナータは、かなり真剣なんです。(藤原)

そもそもジャーナリストになろうと思ったきっかけはなんだったんですか?

かなりいい加減なんですけど(笑)。大学時代、山登りをやっていまして、卒業した時は25歳になっていたんです。専門が工学部の資源開発だったので鉱山会社に入りまして、ある時中学時代の友人に久しぶりに会ったんです。そしたら「ジャーナリストになると思ってたよ」と言われたんですね。

ほぉ。

「理科系だし、報告書も山の事しか書かないし」なんて話していたんです。その日、友人とはそのまま別れたんですが、翌朝起きたらジャーナリストになる気になっていて(笑)。

お友達は何故ジャーナリストというイメージがあったんでしょうね?

それも彼に聞いたら、たまたま『大統領の陰謀』というジャーナリストが出てくる、アメリカのウォーターゲート事件の映画を見ていて、そこに出て来た男のジャケットが僕の着ていたジャケットと似ていたという理由で口にしたらしいんです(笑)。

なるほど(笑)。

ところが僕の方は、その気になっていまして。だけどどうやってなるか知らないし、まともに新聞も読んだ事も無かったので勉強しました。バブルの時代というのもあったと思うんですが、運良くジャーナリストになれました。

ジャーナリストって漠然としていると思うんですが、イメージはあったんですか?

その友人に会う前に、山の関係でアンデスに行く為に、メキシコと中米を旅行したんです。その時にスペイン語の音が凄く好きになって、もう一度戻りたいという気持ちがあったんですね。そこでメキシコの特派員と言いますか、特派員という言葉さえも知らなかった位ですが(笑)、入社してすぐメキシコに行きたいと思っていたんです。

あはは。

でも調べてみると特派員はすぐになれるものではなく入社してから、色々な所を回らなくていけなくて(笑)、時間はかかりましたけど。

その後、留学されたメキシコですが、僕は行った事がないんですが、どんな所ですか?

イメージで言うと太陽の国で、やはり日差しは強いですね。グワダラハラは第二都市で、当時の人口は150万人くらい。コロニアル風と言いますか、丁度いい規模ののんびりした所です。

なるほど。

今はそうでもないんですが、当時の意識としては反米的で。日本はどちらかというとアメリカに憧れていますけど、すぐ隣で全く違う言語や音楽が流れているんです。

なるほど。

アメリカに『We Are The World』という曲がありましたが、スペイン版があるんです。音楽も全然違うんですが、スペインの歌手達が同時にアフリカの為に歌うという。そういう日本に伝わって来ない世界もあるんだと驚きましたね。

なるほど。メキシコならではの思い出に残っている事はありますか?

グワダラハラのロマンティカと言いますか、トリオやマリアッチという楽団で有名な所なんですけど、そこにセレナータと言いまして、誰か片思いで好きな人が出来きて相当煮詰った段階になると、トリオの楽隊が相手の家の窓辺に立って歌うわけです。

雇うわけですね。

はい。僕はほとんど冗談だと思っていたんですがかなり真剣なんですね。たまたま僕の講師をやっていて今は友人なんですが、彼が失恋寸前になった時に、お金を出してトリオを雇って夜中1〜2時頃に行くんです。

本当にあるんですね!

そうなんですよ。そうすると3人のトリオが神妙に「今日はありがとうございました。では宜しいですか?」とギターか始まって歌い出すんです。セレナータというのは彼女がOKであれば電気を付けたりするんですが、そうでなければ12曲位、約1時間やって無視するわけで、とぼとぼと帰るんです(笑)。

はい(笑)。

その友人の時は曖昧な形で電気は付かなかったけど、窓だけ開いて彼女が降りてきたんですよ。彼女は感激したんですね。結局その後ダメになってしまったんですけど(笑)。

あはは。

その厳かな感じの恋愛至上主義なところに、なるほどなぁと思いました。

やっぱりあるんですね。



ずっとアフリカ中を回っていたという事ですね?(葉加瀬)
48カ国ありましたから、旅行記を書いている感じです。(藤原)

メキシコ留学から戻って、アフリカへ。これはどういう経緯ですか?

僕はまたメキシコに行きたかったんですが、会社員ですから(笑)。人事的に別の人がメキシコに行ったばかりだった事もありまして、当時の上司が「他に行きたい所ない? 次の3つのうちだったらどこ? 1シドニー、2ニューデリー、3ヨハネスブルグ」と言われて即座に「ヨハネスブルグ」と。

即答ですか(笑)。

アフリカの事を全く知りませんでしたから、そういう地に何か面白いものがあるんじゃないかと思ったんです。

やはり何かを見てみたい、という求める気持ちが大きかったんですね?

はい。日本に戻ってくる前に、キューバに遊びに行っていたんです。当時、経済的に酷い状況にあったんですが、そこでアフリカ系キューバ人と知り合って「そうかラテンアメリカはアフリカと繋がっているんだ」と知ってから、関心があったんです。

なるほど。アフリカの第一印象はどうでしたか?

僕が暮らしたのは南アフリカでしたからアフリカでもまだアパルトヘイトの名残がある所だったんで、その極端に社会自体が別れている世界に驚きました。ところが、色んな人と付き合っていくと、個人主義的な考え方を持っている方が多くて。

そうですか。

例えば、日本でも「政府が何かやっていても私は関係ないよ」という人は居ると思うんですが、それがもっと極端で。個人の独立心の強い国ですね。白人だから悪、黒人は善という訳ではなくて、白人の中でもかなりリベラルな人もいますし沢山の子供を養子にしている人もいますし、黒人同士の差別もありますし。複雑ですよね。

なるほど。実際にヨハネスブルグでのアフリカ特派員時代は、どういったお仕事をされていらっしゃったんですか?

特派員は「何をやってるんだろう?」と思われますけど(笑)。『恋に落ちたシェイクスピア』という映画がありますよね。あの映画の脚本家も元特派員だったんです。彼が「特派員とは、始めての国に行って高級ホテルに行って、さぁ何をしようかと考える人。もしくは既に伝えられていたものを本国に、さもニュースの様に報じる人」と言っていたんです。

あはは。

まぁ、それは極端な解釈だと思うんですが(笑)。アフリカ特派員の場合だと、南アフリカに住んではいましたけどカバーする国が48カ国ありまして。

という事はその間ずっとアフリカ中を回っていたという事ですね?

そうですね。半分以上の時間は旅行しているという。

すごいな。

極端に言うと旅行記を書いているという感じですね。

そういうことですよね。

ルワンダやコンゴは7回くらい行きました。

南アフリカに対するイメージなんですが、非常に危険だったり、治安が悪かったりだと思うんですけど、実際に住んでみると全然違う面もあるんですか?

アパルトヘイト時代は白人政権が軍事的に抑えていた事もありますから割と平穏だったんですね。その後、政治的な闘争が終わって、僕が住んでいた95年以降は一般犯罪がかなり荒削りの状態で、かえって危ないんです。

というと?

「金を出せ!」という交渉も無いままにボンッと撃って車を乗っ取って逃げるという、僕らはハイジャックと呼んでいたんですが、そういう事件が増えていた時期なんで、運が悪ければ当たるというロシアン・ルーレットの感じで(笑)。

ははは。

でも、友達に言われて悟ったのが「今、運が悪ければ殺されるし、運が良ければ全然問題無い。確率の問題だから考えてもしょうがない」。そう開き直るとわりと暮らしやすくなりましたね。色んな人間がどうしてそこに住みたいのかというのは、色んな選択の理由があると思うんです。

はい。

ヨハネスブルグの場合ですと、車で20分も走れば大平原が広がっているんですね。その広さとか、黒人の友人達には昔からの暮らしが残っていますしね。「総合的に考えると、危険率の高さは、その中の1つの要素に過ぎないかな」という感じになるんですね。

そうなんですか。

妻と子に「もう1度、住むとしたらどこに暮らしたい?」と聞くと「ヨハネスブルグ」と言いますから、気に入ったんですね。人間同士の関係を第一に考えて暮らしている人たちが多いんです。かといって、ラテンアメリカのようにベタベタはしていない。気持ちの上でのつながりが強いですね。

なるほど。



ヨハネスブルグの料理って肉を焼くだけなんです(笑)。(藤原)

南アフリカのお薦めのスポットはどこですか?

人生で一度は見て欲しい所はケープタウンという街にあるテーブル・マウンテンですね。山がテーブル状なんです。オーストラリアのエアーズ・ロックのような山で、地球の誕生が45億年前と言われていますが、大陸が出来た30億年前と同じ形で残っていると言われる山なんです。

ほぉ。

ヨーロッパではポルトガル人が初めて船で寄港するんですが、まだアジアに行くためのスエズ運河が開いていない時代にポルトガル人がケープタウンを選んだ理由が直感的に分かったんです。

それは?

テーブル・マウンテンが神の台座のように見えるんですが、あれを沖合いから船で見て「なんだろう?」と吸い寄せられていったんじゃないかと。その景色は見る価値がありますよ。なぜヨーロッパの航海士達がアフリカの南端に住み始めたのかという視点で見るとだいぶ違うし。とても綺麗です。

なるほど。アフリカでは食生活に煮詰まったりしませんか?美味しいものはありますか?

僕が思うに1番美味しいのは日本なんですが(笑)。

あはは。

南アフリカでは17〜18世紀に牛飼いがどんどん開拓していった歴史があって、アメリカ西部のフロンティアを目指した時代の料理がヨハネスブルグに入ってきましたから、ヨハネスブルグの料理って肉を焼くだけなんですね(笑)。あとはビーフジャーキーみたいな干し肉で、お客さんが来るとそれを出すんです(笑)。

非常にシンプルなんですね (笑)。

はい。ただしインドネシアからジャワの時代にオランダを植民地として来ているのでカレーみたいな料理もあります。

特に南アフリカは色々なものが混ざってきているんでしょうね。

世界をみても、食べ物はアジアという気がしますよ。ラテンアメリカでもメキシコとペルーは特別に美味しいですよ。「なんでだろう?」と思って歴史学者や民族学者に聞いたら、昔フィリピンがスペイン領だった時代、三角貿易でリマとアカプルコという2つの大きな港にフィリピンから中国人が入ってきて、そこからバラエティに富んだ食べ物が広がっていったと。アジアと付き合っている国は食べ物がすごく美味しいんです。

地図で見ると離れていますが、点ではなく線で結ぶんですね。

そうですね。色んなものが交わっている所に希釈されていいものがあるように、ざるを洗うと光るダイヤが残ると。

なるほど。



僕の先入観や偏見がどう崩れたのか書けば、アフリカを紹介することになるかな、と。(藤原)

藤原さんがアフリカについて書かれた本『絵はがきにされた少年』は本年度の開高健ノンフィクション賞を受賞されました。おめでとうございます。

ありがとうございます。

この本を書こうと思ったきっかけは何だったんですか?

僕はジャーナリストなので5年半暮らしたアフリカから帰って来た時に「何か書きたい」と思っていたんです。9・11が起きた時に国際報道をサポートする部門にいて急に忙しくなったんですが、その時にアフリカの事を書こうと執筆意欲が沸いてきたんです。色んな議論の中で「テロの温床は貧困で、世界の貧困を救うのが第一じゃないか」と思って、本当に貧しいのはアフリカだと言われたりしますよね。

はい。

でも、アフリカ人がアメリカ人をテロで標的にするなんてまずないし、貧困問題を取り上げる時だけ“アフリカ”と提示している。実際アフリカでどんな人がどんな事で悩んで暮らしているかを把握しないで“アフリカ”というキーワードを出してくる。僕はたまたまアフリカを経験したから違和感を覚えるだけで。

行った事がない人には分からないですもんね。

“僕がアフリカに行って、先入観や偏見がどんな風に崩れていったのか”を書けば、道案内的にアフリカを紹介することになるかな、という事で書き始めたんですね。

本の中ではご自身のお子さんを通じて人種差別のエピソードも書かれていますよね?

はい。南アフリカのダーバンという街に行った時に当時6〜7歳の息子と2人で夕暮れ時に歩いていたんですね。息子が「どうして僕達、歩いているの?」と、「なんで?散歩してるんだよ」と言ったら「僕達はズールーじゃないのにどうして歩いているの?」と言うんです。

ズールー?

ズールーというのは南アフリカの代表的な部族なんですが、誰も教えなくても子供は子供なりに、なんとなく南アフリカのルールを分かっているんです。車を運転しているのは白人、路上を歩いているのは黒人で、「自分達はなんでここを歩いているの?」という一番素朴な疑問なんですね。

子供の一番素朴だけど残酷な一言ですね。

僕は「ズールーだって白人だって日本人だってみんな道を歩くし、中には知り合いのチュラニおじさんみたいに黒人でも車に乗ってるじゃない。肌の色で分けないほうがいいよ」なんて一生懸命説明したんですけどね。

親としてはそうですよね。

ええ。だけど子供としては現実を見ている訳ですよ。「だけど、チュラニおじさんが乗ってた車はボロボロだし…」とか(笑)。そういう会話を通して自分自身を含めて人種観を描きたいなと思ったんです。

うん。

焚き火やこたつを囲んで「アフリカに行ってどうだった?」「こんなおじいさんに会って、そのおじいさんがこんな事言うんだよ」というような話を書いた方が読む人も感情移入できるし「もし自分がそこで生まれたらどうだっただろう」と考える事がその国を理解することだと思ったんです。

なるほど。 他にも何か印象的な話はありますか?

例えば、ある白人女性が白人右翼と言われていた夫を失ったんです。殺される瞬間の映像を何度もテレビで見せられて、そのうち彼女自身がおかしくなってしまって。何年か経ってようやくインタビューできた時に「あなたは東洋人で遠くの世界から来て遠くの世界に行ってしまうから話せるのかも」と色々と話してくれました。

彼女は何と?

「自分は南アフリカで白人の家に生まれ育ったけど、周りの環境だけで差別主義者だと言われるのはフェアじゃない」と言うんです。確かにその通りです。その後、撃ち殺した黒人にも話を聞きに行ったりもしました。

どう感じました?

アパルトヘイトの中で生まれ育ったのは悲劇だけど、色んな人の思いを伝えたいですね。本には「こうだ」っていう断定調の話はないので、中には「メッセージはなんだ?一言で言ってくれ!」という人もいますが、一言で言えれば解決してますよね(笑)。

うん(笑)。そんな簡単な問題じゃないですもんね。



南米はアメリカがやろうとしてることが実験的に表れる場所なんです。(藤原)

2002年からメキシコ市支局長として再びメキシコに行かれましたが、メキシコ留学した時にまたいつか来るだろうなという予感はありました?

そうですね。スペイン語を話せる人は社内にもあまりいないので、次が僕だというのは決まっていたんです。

そうですか。メキシコ在住の今はどんなお仕事ですか?

仕事の4割はフジモリさんの話題などのニュース報道。それ以外の6割は自分なりの視点で興味のあること、僕の場合はラテンアメリカ文学なので、例えばガルシア・マルケス、あるいは15年前にニューヨークで自殺したキューバの亡命作家のレイナルド・アレナスとか、そういう人達の話を書くんです。

はい。

彼らの小説が生まれた場所を訪ねて行って、住民や彼らの友人達に話を聞いて、小説も絡めて、僕の見方も入れた3つの視点で、5回のシリーズものでやってるんです。ガルシアの『エレンディラ』という作品がありますが、その舞台とか。最近は『予告された殺人の記録』の舞台になった街に行って。

そこで出会いがあるわけですね?

はい。たまたまモデルになった女性が最近亡くなったことを知ったり。取材をしていくうち「ガルシア・マルケスより彼女の生涯を描いたほうが面白いな」となるんです(笑)。彼のヒロインになってしまったため彼女には2度の不幸が訪れるんですけど。そういう話を書いています。

なるほど。南米を掘り下げていくと対アメリカ、対世界に対する価値観が全部出てくるかもしれませんね。

その通りですね。アメリカが何をやろうとしてるのか、一つの国家としてどんな方向に向かうのかが見やすい場所ではあると思います。例えばベトナムに以前ナパーム弾が打ち込まれましたけど、それと全く同じ製品ではないですけど、その前に中米で試されたということもありますし。

そうですか。

近年、世界的に遺伝子組み換え作物が増え始めてますけど、アルゼンチンでは大豆の9割が既に遺伝子作物になっていますし、アメリカがやろうとしてることが実験的に表れる場所なんですね。

それはあるでしょうね。さて最後に藤原さんにとって、旅とは?

僕の場合、原稿を書くことですが、クリエイティブな事をやってる時は、机の上だけでは煮詰まったりするわけで、そういう時に旅に出ると不思議な事に、いろんなものがスッと入ってきて、まとまらない考えもパッとまとまる。

そうですね。

あと旅をすると、自分からするともなしにいろんなことを吸収するので、若い気持ちがずっと続く。それは自分が成長するからでしょうね。そういう意味で、僕は延々と旅を続けていくと思います。


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