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数歩先行く米国ダブルワークに学べ

  AM9:00からPM4:00までは、個人事業のビジネス・コンサルタント
  PM5:00からPM8:00までは、クラブのジャズ・シンガーも珍しくない国。

 アメリカには、二つの仕事を持って活躍している人達が沢山いる。ユニークな発想を元に、自ら新しいビジネスを展開し、夢を夢のままで終わらせなかったダブル・ワーカー達だ。自分の可能性を信じて、自分らしい生き方を見つけたい。そんな熱い思いが伝わってくる

結婚後、アメリカに渡り、周囲の人に薦められて日本語講師に
日本語講師・ヨガ教育

メルテス・高沢・伴子 さん


 高沢さんは、ご主人との出会いがきっかけで、アメリカに住む事になった。当初は子供もまだ小さかったので、子育てに専念したいという気持ちが強かったという。そんなある日、日本語教育の会合に出席する機会があり、日本語講師の需要が非常に高い事を知った。

「当時、地元では日本への関心度が強まっていて、私が考えていたより日本語は人気があったのです。日本語ブームが起きているような気がしました」

 その頃、帝京大学と提携した大学がアイオワ州にでき、日本語講師を募集していた。国文科を出ていた彼女には、周りから日本語を教えてほしいという声も多く、結局、否応なく大学での授業を引き受ける事になった。勤務時間は、午前9時から午後5時のフルタイム。教材はすべて手作りで、独自の教授法も確立したそうだ。


フルタイムからパートタイムへ、一つの仕事からダブル・ワークへ

 日本語を教える仕事は収入も良くて順調だったが、フルタイムという事もあって、家族と過ごす時間が少なくなり、2年半で退職を決意。その後、子育てと家庭の仕事に戻ったが、もう一度、仕事をしたいという気持ちになり、間もなく、他のコミュニティー・カレッジで非常勤講師として日本語を教える事になった。パートタイムになると、時間にも余裕ができたので日本語を教えるだけでは物足りなく感じるようになり、ヨガも教えようと決心した。

「日本語の他に何か教えられるものはないかと考えていたらヨガが思い浮かんできたんです。私は体が弱く、17歳の頃にヨガに関心を持って以来、20年近く勉強してきました。」

 最初は、コミュニティー・センターで若い人や中年の女性を中心にヨガを教えていたが、高齢者の生徒も少しずつ増えていった。医師だった祖父の影響を受けて育った彼女は、患者や高齢者に対する思いやりが人一倍強く、彼らにヨガを教えたいという願望が強くなっていった。


誰もやっていない事をやりたかった

 高沢さんが住んでいる地域では、ヨガ教育がほとんど普及していなかったため、新しいマーケットを開拓するという気持ちで取り組んだという。

「ヨガというものをまったく知らない人が多く、最初は受け入れられるか心配でしたが、アメリカの人たちは東洋医学にとても興味を持ってくれたのです。ヨガの評判が予想以上に良かったのには驚きました」

 一年目にすごく反響があり、二年目からは小さな町で念願の高齢者だけのクラスも作れるまでになったのだ。

「アメリカのお年寄りは、東洋的な予防医学についてはまったく知識がなかったので、ヨガを通じて東洋の医学や考え方を紹介し少しでも彼らの役に立てたらと思いました」

 ヨガ教育の中では、東西文化の比較をするだけではなく、成人病予防のための食生活を含む生活全般の指導にも力をいれている。


相手を説得できれば必ずチャンスをくれる

 日本語のクラスもヨガ教室も軌道に乗り、精神的にも大分ゆとりが出てきたが、最初は仕事を得るのに大変な思いをしたそうだ。

「フルタイムで働いていた頃は、日本語講師の需要も高く職探しに苦労はしなかったけれど、いわゆる日本語ブームみたいなものは以前ほどではなくなっていたのです。日本語教育の大切さを理解してもらうのに、かなり時間がかかりました」

 手当たり次第、日本語講師の採用について学校などに問い合わせたが、ほとんど断られたという。しかし、一度うまく行かなかったからと言って簡単には諦めなかった。Western Iowa Tech大学で積極的に自分を売り込んだ結果、面接を見事通過。採用が決まるとすぐに教室の開設をしてくれた。まさに、とんとん拍子に決まっていったのだ。

「自分で直接出かけて行きました。どんなに難しいと思われる事でも、自分の意志や目的をきちんと伝え、やる気を見せれば必ずチャンスをくれます」

 アメリカという国は、人種のるつぼと言われるほど沢山の移民で成り立っており、その国際性の豊かさが国の繁栄にも貢献してきた。だから、日本人としてアメリカに渡り、日本語や東洋文化を正しく紹介していくという役目は極めて重要だと思われる。

 彼女の場合、自分はどのマーケットが適切で誰に必要とされているかを良く把握していた事が、ダブル・ワークを成功させるカギになったと言えるだろう。


生き甲斐を見つけたかったからダブル・ワークを選んだ

 仕事を2つ抱えながら母親という役割を完璧にこなし、多忙な毎日を送っている高沢さんだが、単に「お金がほしい」という理由でダブル・ワークを始めたのではない。

「ダブル・ワークを始めたきっかけは、自分のメインの仕事の他にLife Work(ライフ・ワーク=一生の仕事)を持ちたかったから。生きがいを見つけたかったんです。お金は二の次です。今の生活の方が充実してますよ。」

 今後は、東洋と西洋の接点から両方の良いところを紹介できるような橋渡しの仕事をしていきたいという。

 少しずつ将来の展望も開けてきた今、更に大きな夢に向かって前進している。

プロフィール

日本女子大学国文科を卒業後、公務員として働く。日本在住のアメリカ人と出会って結婚、渡米。アイオワ州に在住。2児の母。帝京大学と提携している大学で日本語講師として2年半勤めた経験がある。現在は、Western Iowa Tech大学で日本語の非常勤講師をする傍ら、主に高齢者を対象にヨーガ健康法を教えている。














 

※ご利用に際して

当情報は 2000年の春〜秋に発行された雑誌「DOPPO」の各記事を元に編集されております。
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