お名前 | お便り |
ななしのごんべい 07/12/21 | 「自分を愛せない」事も悩みですが、これの付属品がもう一つ!
「他人に甘えられない!」です。なんて言うか「甘え方の程度」が解からず、 「遠慮してしまう」甘えている人を見ると「ズウズウしく」思える (相手に迷惑?御当人は相手が合わせている事がもちろん知らない) それに「精神疾患」が自分にあるから、「甘えていいのよ」と言われても 後々あの人「振り回されて、しんどいわー」と言われるのは私。 いや、オチである。 でも知人は「人間、一人で生きて行く訳ではないから、 時には、甘える事も必要になるよ」では「あなたはずっと、甘えないように生きていくの?」 と言われて困ってしまった。同じ事を夫にも言われたが、やっぱり困った。 私は、甘える事が「恥ずかしい」と美学にしてきた。40にもなって「甘えるなんて」 やっぱり恥ずかしい。では「甘えたい?」私が甘えたい時は「いつも人がいない」 軽度だが、自閉症もあるから仕方がないとは思っている。 |
ちょい悪親父 07/11/26 | 精神障碍当事者(統合失調症)です。
人の顔色を見てしばし、話しかけるのを躊躇してしまいます。 今は睡眠障害以外は割りと落着いていて、よいのですが、ここが教会って思う事もあります。 自分の事だけに関心を寄せて、他者を省みない状況もあります。 一言や表情で心を傷つけていると思わないのかなと感じられることもあります。 教会員数だけ誇って魂への配慮に欠けた牧師もいます。 実際に牧会者自身・教会員がそういう病気に罹患した事がないというのもありますけど。 |
しゃろ〜む 07/10/09 | 「最も愛しにくいものを、にもかかわらず愛する」と言う表現。私も、どっきりしました。連載を読んで居らず、文脈が分からないので仕方ないと思いましたが「べてるの家から吹く風」に出てくる話を思い出しました。酒乱で家族を大変苦しめる様子を目の当たりにして、苦しめて居る酒害当事者に対して「自分はこの人達を愛せない」との思いを持ってしまう自分に苦悩した向谷地さんが書かれていまいた。自分が怒りを感じた時に、その怒りの感情(肉)に囚われるのでは無く、怒りを捨てよう、「愛そう」と霊的な思いに肉を服従させる姿は見事だと感じました。世(全ての人)を愛して、命までもお捨てになったイエス様の御霊に従うならば、我々クリスチャンにとって「愛さなくて良い」人は存在しない。「愛しにくい」にもかかわらず「愛する」ことに行き詰まる事なく「最も愛しにくい(理由が在る)」にもかかわらず「主に在って愛し続ける」ことが神様の御旨なのだと改めて示されました。 |
ななしのごんべい 07/10/03 | すいません。
私も精神障害があるから、まわりの方が「対応がしんどい、大変さ」もわかります。 (理解しています)べてるの本の紹介の時にも感じたのですが、 「精神障害者=もっとも愛しにくい者を「にもかかわらず」愛するの 表現を変えてほしい。(言いたい事は、わかります。) でも、「にもかかわらずは、精神障害がある、精神障害がないを関係なく、 罪人の私達を罪があるけど、罪があるにもかかわらず、愛してくれる神様」の意味ですよね? できれば、取り消して欲しい。なぜなら、 「本人が好んで、精神障害者になった」のではないからです。 もちろん。私は「キリスト者は精神障害者を受け入れるべき」とは言いません。 (それは、人にも教会にも無理=限界があるから) 障害者=かわいそうな人。これは日本の考え方の文化だから仕方が無い。 「フォローしてあげてるのに」「我慢して向き合ってあげてるのに」も理解してます。 でも、あのキャッチフレーズが、「パリサイ人の視点」に感じる。なぜでしょうね? こんな風に思う事は、「私だけ?」かな?(イエス様の視点なら何て言うのかな?) |
しゃろ〜む 07/10/01 | 私の悩みは、教会に殆ど行けないことです。礼拝が守れません。昔通った教会の様に、夜の集会が多かったり、夕拝があればと思います。
精神病院の側にある関係で、障害者が多い教会があります。そこは、水曜の午後にも、集会では無く礼拝を持って居ます。また、ある友人は、何年もの入院中に礼拝テープを送ってもらっていたそうです。私は、この友人にヒントを得て現在は欠席の際の礼拝録音を送付して頂いてます。大変感謝です。時々しか礼拝に行けなくとも毎回、自宅で礼拝を持てるのは祝福です。けれど、夕拝のある教会ならば毎月2回は無理なく出席出来、交わりを持ったり教会にもっと溶け込めるのではと思います。主日、夕方テープ礼拝って、だめかな。それとも、夕拝のある教会を求めて、また転会?悩みます。 |
しゃろ〜む(40) 9/14 | 現在、客員会員として通って居る教会には20年来の友人が居ます。彼女
が、非常な忍耐と優しさをもって私の躁状態の際に何度も助けてくれました。私に罵 声を浴びせられても、じっと静かに支えてくれた様子はクリスチャンの強さと、真実 な姿を証ししてくれていました。クリスチャンであることは知って居ましたが、学生 時代には全く知らなかった姿でした。実際、彼女は変えられたのではないかと思いま す。神様が彼女の霊的成長の姿を、生きて働かれる神様を十数年見せて下さっていた のです。そして、同じ教会に連なる今もです。長年教会員であり、ご奉仕で活躍する 姉妹のお陰で、たまに礼拝に顔を見せては居なくなってしまう私でも教会に連なって 居ることが出来ます。転会しようと言う時も、直後に入院した程の酷い躁状態でし た。朝早く教会を訪れて、僕師ご夫妻を呼び出し、訳の分からない事をどなりちらし て裸足で帰ったのを覚えて居ます。退院して、当然ながら教会に行きにくい私に「気 にして居るのは自分だけ」と言い聞かせてくれて、精神障害である私を堂々と友とし て迎え入れてくれたのです。 ※以下文字化けしていたので、続きの文章がありましたら、お手数ですが、再度ご投稿ください。(編集部より) |
ダビデの子孫(48) 9/3 | 教会の牧師をしています。開拓を始めて私の周りには、これまで8人の精神異常を持った方と接してきました。ほとんどの人が教会のカルト化の被害を受けています。その内一名の方は、アメリカのカルト教団の被害者です。私自身も教会のカルト化の被害の経験があります。直接的には2名の方と接して苦慮しています。現在は一人の男性の異常に気づき、専門的な治療をすることを勧めている最中です。すでに一年近くなりますが、本人が病識をもてません。私は素人で、精神病に対する知識も訓練もないので、この男性を回復させるにはどうしたらよいのか、非常に悩んでおります。私のような場合、どのような選択をすればよいのかすらわからない状態にあります。専門家の立場から、ご意見、アドバイスをいただきたくメールしました。私自身、ちょうど30代の10年間、精神的病気で薬で生きていました。今はすっかり回復し、神様に召されて牧師をしています。どうぞよろしくお願いいたします。 |
ななしのごんべい(39) 9/2 | 「自分が精神的病」を持つ事を「どう」受け止めるか?と言う事。
だってクリスチャンになる前から (自分も親も知らなかった病です)親から言えば「うちの子は別よ」 本人から言うと「みんな物事をうまく進めてるのでスーパーマンに見える」訳です。 そこで悩んでいるとクリスチャンは「神様がその様に作ったのだから...」と言う。 ではここの表示にあるように「もっとも愛しにくい者」の代表なんだよな。「私」は。 (では、愛しにくい者=対応が難しい人。でも本人の意思に関係なくを作ったのは神様?) さて、問題。 「精神に病がある場合、自分を愛せない」と悩むと罪なのでしょうか?他人が私を愛せないのは、 「わかります」(愛しにくい存在と言う事)でも。 「神様があなたを愛する」と言うのに、どうしてあなたは「自分が愛せないの?」と 言われると困ってしまいます。でも私は「神様は愛しています」不器用ですけど。 「私には主が必要です」病によって空いた穴は神しか埋められないハズ。 でも「なにかしんどい」信仰生活なぜでしょうね。 |
しゃろ〜む(40) 9/1 | 私は躁鬱病の信徒です。私が救われた、ペンテコステ派の教会では教会に通い始めてすぐに悪霊を追い出す祈りを持って頂きました。この際に、牧師の導きに従って罪の告白が成され今思うと非常に助かりました。これがカウンセリングの口火の様になって、その後も次々と出てくる過去の思い等を聴いて頂いては、その都度必要な祈りを
して頂き、大変癒されました。牧師を前に、自分としては神様に告白して居るので全く遠慮なく長々としかも頻繁に、今迄誰にも話た事の無いような事を告白しました。それが、神様の前に正しく良いことであると言われて居り、「申し訳ない」と言う様な聴いて頂いて居る相手のことはまるで頭にのぼりらず夢中でした。 朝が弱く、日曜の朝の礼拝には殆ど出られないのですが夜の集会が多く、日曜も午後と夕方に礼拝があって御言葉を聴く機会をたっぷりと持つことが出来、御言葉から直接の癒しを受けました。個人の弟子訓練もあり、教会に通って御言葉を学び、ぐっと神様に近づけた実感が持てました。 しかし、躁状態になり入院。不信仰だから癒されないのではとの思いに苦しみ、教会で「癒されよ!癒されよ!」と祈って頂くにつけ苦しみは募り、2年目には転会しました。 |
マルタ(32) 8/6 | はじめまして。
私は、小学生の時に性的暴行やいじめ受けて、PTSDとうつ病と不安神経症を発症している信徒です。 数年前にトラウマ体験の記憶が少しずつ蘇ってきたことによってうつ病と不安神経症の原因がわかり、不安感などは落ち着いてきているのですが、人間不信が強く、それによって対人関係が難しくなっていることもわかりました。 今では、病があることによって「私のことを、本当に見放さずに愛してくれるのはイエス様だけ」という信仰を頂いたことに感謝をしているのですが、教会生活での悩みは尽きません。 まず、人間不信が強いので神の愛を実践することに困難を感じます。 私の信仰が幼いと結論ずけてしまえばそれまでですが、その時には本当に心から喜んで進んでしているのに、後から人間不信の私と戦うことになるのです。(霊の戦い?) また、受洗の証で病名を公表して文書でも証が配られたのですが、それについて一人も触れてくることもなく普通に接してこられるので、覚えていただけているのかも気になりますし、「私は人間不信です!」とわざわざ言うわけにもいかずに困惑しています。 もちろん、教会には様々な重荷を抱えている方がいらっしゃるので、それぞれが主との個人的な深い交わりを通して癒され、教えられ、導かれていくものだとは思いますが、信徒どうしが互いを受容して祈りあい、時には実際的な手助けを通して互いのニーズを満たすことも必要と思います。 特に最近感じることは、教会も高齢化が進んだことによってそれらが高齢者に限定されてきていることです。 ご高齢の方を敬い、大切に扱うことはとても大事なことですが、若い者は精神障害があるないにかかわらず、これからの教会を担う者です。 高齢者や大病の方には励ましのお手紙や電話、家事や通院の協力をしているのに、精神障害の方にはなされないということが私の知る限りの教会での現状です。 私はカウンセリングも仕事にしていますので、確かに精神障害をもつ方は依存心が強かったり、急に態度が変わるなど接する側としては精神的な負荷も多くあって理解も必要となるため困難だとは思いますが、診察やカウンセリングでは得られない部分(兄弟姉妹としての交わり)を心がけていければと思います。 補足:精神障害の当事者や家族からの協力依頼や期待が、多く牧師に寄せられていて知識は必要だと思いますが、知識があるからと深くかかわる必要はないと思います。執事や一般信徒も同じです。 知識があるからこそ、あえて医師やカウンセラーの領域には入らず、あくまでも兄弟姉妹として接すること(声かけや、ニーズを聞くこと)が賢明であり、当事者やその家族にも理解してもらう必要があると思います。 |
ななしのごんべい(40) 7/12 | 私は回避性人格障害を持ってますから、「人とは向き合えない」一面を持っています。
おまけにPDD(広汎性発達障害 自閉症)ですから、「相手の方が行動して、初めて返事」 つまりその行動に関して「いいか=yes」「いやや=NO」と言える (わざわざ、私が言いやすい環境と質問を作らないと、言えない。何でやろ? そこで、話が乗ってきたら本音がボロボロでる。) これをしないと、相手は(A子さんは) 私が「本音をはけない、弱さを知っているから」でもこれは、 相手の親密さ、私に対する理解度、(病気の理解も性格も) 信頼(口先だけか、その相手の性格から親切で言うが無理)等の総合して、私も返事します。 いかにも「相手が無理しているなー」と思うとその支援は1回きりで終わる。 (私が断るのです)だって無理した相手の負担が=報われるとは限らないから。 それに、「手がかかる」事は、私も「悪い」と思うから。 では、わたしはこの本音に、わざわざお膳たての環境を作ってくれるA子さんに「悪い」と思うかと 言えば、「感謝している」あれ?矛盾してるやん?実は、A子さんには、私なりの「お礼ができる」 このお礼を「遠慮なく」「ありがとう!」と受け取ってくれる面がある。 (ある人は、クリスチャンだからいいよ。と返したが、私としたらわざわざ時間を割いてくれて、 ありがとうの気持ちを「言葉だけでなく、こちらの気持ちでお菓子でもわたすのが) こんな事書けば、笑われるがA子さんとは、意見の行き違いもある。けど。 A子さんの事は嫌いには、今はなれない。 (それは、時間を割いて関係をA子さんの方から作ってくれたし、ある意味裏表がないから) 本音でいえるから、安心するわけです。でもここまで来る事に6年かかってる。 |
忘れられた人(37) 7/11 | 僕のすべてを変えてくれた女性がいます。
そう、かつて「久保田早紀」として「異邦人」で一世を風靡した、久米小百合さんです。 彼女がこの1月突然テレビCMに登場した時、少し驚きました。そして懐かしくなりました。 「彼女、今どうしているんだろう???」 その「素朴な疑問」が動機で「パワー・フォー・リビング」を請求させていただきました。 それからもう6ヶ月以上経つでしょうか・・・。 精神障がい者のこの僕でも、 「生きている感動」と「奇跡」が信じられないくらいに満ちている毎日を、今現在も過ごしています。 イエス様を信じるって、本当に素晴らしいことです。 もう、「信仰」は間違いなく生活になくてはならないものです。 最近、それに気が付かないまま僕たちのケアに汗しているお医者さんや医療・福祉職のみなさんに、 僕はあわれみを感じるようになり始めてきました。 僕の周りにも「精神障がいを持つクリスチャン」が次第に増え始めてきています。 そして、僕もそのひとりです。 「精神障がいでも心が満たされる人々」。 「信仰なき医療や福祉の奉仕により、罪で身を削る人々」。 「ケアに携わる人々」と「ケアを受ける人々」の「心」に、もうここまでの開きができてきているのが「現実」です。 僕は「うつ歴20年」で、それゆえの「波乱万丈の人生」を送ってきました。 しかし、「イエス様の十字架」を心から信じ、「祈る」ということを知ったその時から、 僕の人生は「苦しいもの」から「エキサイティング」なものへ変わり始めました。 癒しの「奇跡」も体験させていただいています。 今、病状に大きな変化が起きている途中です。 「気分的な症状」がかなり軽くなり、頭痛や胃痛、不整脈などの「身体的症状」へと転換し始めています。 精神科と並行して通っている内科の先生から「心身症に変わっているかもしれないよ。精神科の先生に話してみたら?」 と言っていただけた時、なんか「おめでとう!」と神様から祝福されているのを感じ、心から感謝しました。 精神科領域の病気は「霊的な病気」、あるいは「罪ゆえの病」と言えるケースが多々見受けられます。 また、「画像診断」や「検査」で診断が確定できるというものでもありません。 「薬や注射で楽になる」と信じ「処方薬の依存」に陥る人もいます。 僕は今、心からこう感じます。 「病める人々」も「そのご家族様」も「お医者様」も「医療・福祉職のみなさん」も「行政のみなさん」も・・・。 もっとへりくだらなければならないと思います。 神様を認めて信じ、祈ることから全ては変わり始めます。 「イエス様の御名において、神様の御手にお委ねします」 その心こそ病いと向き合う「原動力」になると、まことに信じます。 おかげさまで、8月の誕生週の主日礼拝に向けて「洗礼式」を受けるべく、準備ができるところまで来ました。 「毎日の神様の祝福」と「神様のみことば」、そして「祈り」。 これに勝るほどの素晴らしいセラピーや薬がないその祝福を、僕は一人でも多くの人に感じていただくことができるよう、 お祈りしています。 お互いにお祈りしていきましょう。 でも・・・、 やはり体としても病んでいることは「否めない」ので、 きちんとお医者さんの診察を受けて、お薬も飲み続けていきましょう。 各教会の牧師先生には、「精神科領域の病気と薬物療法の特性」や「精神保健福祉・行政」の情報にも アンテナを張っていただけるよう、お医者様や精神保健福祉士の方との交流にも心がけていただけると誠に助かります。 ぜひご理解とご協力をよろしくお願いいたします。 このコメントを書かせていただけたことに、心からの感謝を込めてお祈りさせていただきます。 |
dismout(34) 7/6 | 病気に逃げるの掲載をありがとうございました。
「逃げたくない」のに、逃げてしまっている現状に「いつまで自分は逃げているんだろう」と、本人にもジレンマがあることが分かり、統合失調症や人格障害の方に対する理解が少し深まったように思います。 具体的には、一定の距離を保ちながら、「病気にならなくても、そばにいて助けるよ」というメッセージを伝え続けることが良いということでしょうか。 この掲示板をご覧になっている方の中には、統合失調症を患っている方々もおられるようなので、どのように接したらよいか受けて側のご意見もお聞かせいただければ、幸いです。 また、「心配性のおせっかいさん」に本人が遠慮くださいと言えるようになるためには、「私は病気に逃げてきた」という気付きが前提になるようにも思います。その気付きが与えられるためには、やはり「当事者研究」のようなミーティングが有効なのでしょうか。牧師と当事者という二者では、どうしても非援助者と援助者という構図をぬぐい切ることができず、難しいように思います。そこで、私の仕えている教会でも統合失調症の方が何人か集まっているので、当事者研究をはじめられたらと願っています。そのために心得ておくこと、アドバイスなどがありましたら、教えていただけないでしょうか。あるいは、当事者のメンバーが集まらない場合でも、牧師と障害者とでも、当事者研究をすることができるなら、そのやり方のアドバイスもいただければ幸いです。 |
ゆり(53) 6/14 | 統合失調症の娘との関係は、非常に難しい。
感情の波が激しいので親子であっても、戸惑ったりいらいらしたり怒れてしまう事も多い。 母娘で教会生活五年。 娘の言動で肩身の狭い思いもする。 迷惑かけてるなと思い、行事への参加も消極的になる。 しかし、礼拝のとき牧師先生や兄弟姉妹に声をかけてもらい、 受け入れられているのを感じることは とても大きな励ましとなっている。 もちろん、『神のことば』というパンは、 母にも娘にも必要不可欠である。 |
こひつじ(36) 6/14 | 私は二年前に洗礼を受けた、うつ、摂食障害、境界性人格障害をもった者です。今でも薬は減ったけど飲んでます。でも働いています。一人暮らしもしています 三回入院しましたが。
私は、実家に戻れません。精神科の先生に固く禁じられてるからです。だから、帰るのはお正月だけ。二泊以上は駄目、といわれています。それは、私が母依存症だからです。月に一度くらい会うのですが、べったりです。母のことは名前で、ちゃんをつけて呼んでます」大好きなのですが、大嫌いなのです。反抗期は普通に迎えて(普通よりひどかったかも)家出したり、もしました。 母は、イエス様が大嫌いです。哲学が好きですが、キリストあたりになると、もう読みません。かといって信仰しているものもなく、普通に実家には仏壇があって、浄土真宗です。 だから、私は自分がキリスト者だということを両親に言っていません。唯一、弟だけには言いました。何が違うんだ?と聞かれたので、入るお墓が違う、といいました。あと、私はお経じゃないから、って。 なんで、母が大好きな私が大嫌いなキリスト者になったのでしょう? 精神科の先生は、母から離れたかったのね、と言ってくれました。母が来ると甘えるので、安定剤飲んでふらついて実家の二階から落ちて救急車で運ばれて脳外科に行った時も、それで左頬の骨を折って転院して入院した時も、母はきませんでした。先生から,行くなといわれたからです。精神病院に入院している時も、テレフォンカードを何枚も買って母に電話で責めました。何できてくれないのかと。手紙も書きました。感情的でした。母の前だと私は幼稚園児より子供です。子供時代、父が仕事で忙しく、殆んど顔を合わせなかったので、余計母にくっついていた子供だったようです。そして私は初孫で、親にして見れば長女。可愛くて仕方なかったのでしょうね。幼稚園も、近所にあったのに、わざわざ小学校受験で有名な所に、スクールバスで通い、バレエのレッスンの時は迎えにきてくれました。洋服はいつも銀座のファミリア(その名残か、今でも可愛い洋服が好きで、ピンクハウスとか着ています)。とにかく弟が生まれる五歳の時まで、母を独り占めしていました。 それが、病気の元、だったのかは解りません。過食は16の頃から始まっていました。高校受験を失敗して、どうでもいい所に入ってしまったのです。学校生活は楽しくなく、夜中に食べることだけしか考えてなかったです。そしてとうとう中退しました。アルバイトの生活が始まりました。19から21までイギリスに留学しました。毎日母に電話しました。手紙も書きました。帰ってきて、下剤の存在を知り、それから私の過食は増え、体重を気にするようになりました。自分でもおかしいと思って、初めて精神科の門をくぐりました。色んな薬をくれる先生で、色々飲みました。リストカットも始まりました。今でもあとは残っています。その時、一回入院しました。精神科では有名な病院ですが、こんどは何もたべれなくなり(というか、過食が始まってからは人前では殆んど食べれませんでした)毎日エンショアという経口栄養ドリンクのみで過ごしました。そこは、先生と親とが合わなく、ひと月ででました。それで先生を変えて今にいたるのです。私はますます病状が進み、家で暴れ、包丁を振り回し、母に向けました。 死ね なんであたしを産んだんだ。と。 それで二度目の入院。今度の病院は完全閉鎖病棟で鍵だらけ。ベッドの部屋も少なく、布団部屋でした。朝と夜、布団を運ぶのです。びっくりしました。ご飯は相変わらず食べれず、米をパンに、牛乳をコーヒー牛乳にして、でも口にはしませんでした。一応ひと月ででましたが、また問題を起こし、三度目、入りました。前の病院は個室、ベット、ベットメイクもしてくれて、お風呂も一人づつ入れて、患者用に冷蔵庫もあって、自由に外出できて、友達も呼べて、至れり尽せりでした。かなり高かったらしいですが。二度、三度とはいった所は、自由はなし、作業療法、音楽療法(効くとは思えませんでした)お風呂も小さい銭湯のような監視の目が光っていて、途方にくれました。 そこで一年いました。やっと退院して、今、まだ閉鎖を紹介してくれた先生に通っています。でも、薬は随分減りました。それは、イエス様とイエス様を紹介してくれた恋人のお陰です。15年使っていて、一日最高144錠も飲んでいた下剤ともやっとお別れできました。自然に出るってこういうのなんだーと感激しました。彼に、 あなたのおかげね といったら、 いや、イエス様を信じているお陰だよ。 って返って来ました。であった所はパソコンの出会い系でした。でも、運命的な出会いでした。彼はすぐ自分がキリスト者だと私に告白し、私の病気を知って、お付き合いをしてくれるようになりました。そして、導かれました。 礼拝に連れて行ってもらい、感動しました。イメージどおりではまったくありませんでした。十字架のイエス様もマリア様もステンドグラスも、十字架さえ飾ってありませんでした。はじめ、え?って思いました。でも、礼拝が始まったら、兄弟姉妹の祈りに、賛美に、心震えました。礼拝三度目でパンとぶどう液にあすかり、イエス様を知って4か月で受洗。母より彼が大事、彼よりイエス様が大事になって、私は救われています。 私の仕事は訪問介護と、知的障害者のガイドヘルパーです。これも、先生が「合うんじゃないの?」って言ってくださったからヘルパーの勉強初めて2級をとり、今年の5月に1級を取りました。合ってるようです。楽しいです。 私は、今、生まれたと思っています。先生も、薬をどう減らすか考えてくれています。病気の名残はまだたくさんありますが(特に過食)、母に100パーセント頼らなくても良くなってきました。実家に帰るつもりはありません。 彼と結婚に導かれるかはわかりませんが、この人が私の最後の人になると思います。イエス様を中心とした生活が今、心地よいです。何でもイエス様には言えます。これからが私です。長々すみませんでした。病気は、治ります。 |
ななしのごんべい(39) 5/11 | ななしのごんべいです。(オイ出すぎやちゅうねん!)
今まで書いた事は嘘ではありません。私がここに書き込みした動機は 「精神障害を持つ方が、信仰持つ難しさ」の現実をいつも自分の「?」(疑問)でした。 1990年頃のクリスチャン新聞で、「精神障害を持つ方を支える」テーマの記事で、 「支えてあげたいが、1から10まで精神的な面倒は見てられない」みたいな記事をみて、 「改めて難しい問題や」と感じていました。(当時私は病がないので例外。と思っていたでも) 1週間前大学病院の検査結果で、「たぶんPDD(軽度の広汎性発達障害)でしょうね。 たぶんと言うのは、あなたの知能と心理検査の傾向とあなたの話からみて、まちがいはないと 思いますが、0さいから20歳までの学校の様子や家庭の様子がどうかをみて、 判断しなければ診断名は出せないのです」私は「....」です。軽度だが、 広汎性発達障害(昔の呼び名は自閉症)だった。だから、「周りの空気は読めない」 「話や内容の偏り」「その場のふさわしい行動が出来なくて=変わった人やとみられ」 自信も社会性もない私が「どうやって自分の賜物をさがせるの?」 「信仰を維持するの?」(私とかかわる人が大変よもわかる。)こんな時ある言葉を思い出した。 5年前の言葉だが、「牧師が、認める認めないは別として1つ知って欲しい事がある。 あなたのその発達障害は「賜物だ」と言う事。「どうしてですか?」と聞くと 「これは、普通嫌だよね?それに賜物と聞くと違う意味がでイメージするよね?」 でもあなたの場合「この発達障害+うつ病+回避性人格障害も賜物になる。それは、あなたの 「どうして」のその葛藤で信仰を動かす動力源となっているから、 あなたから葛藤を取ると味がないよ」と。つまり「発達障害を賜物と認める事」 これにどうトライするか?だな。と 治ります様にとはまた違う視点 「神が願っている、神が私にして欲しい事はなんだろう?」この事を探すきっかけは、 この掲示板も1つ役に立っていると思う。(精神障害と闘いながら、) でも「神の御手は伸ばされている」と思います。 質問があればなんなりと、「質問してください」当事者の本人が言える範囲で返事はします。 (編集の方でも、書き込みの方でもなんでもいいですよ) |
クリスチャン新聞編集部 5/9 | ピッコロサムエル様、この掲示板を見てくださっているみなさまへ
はい。「精神障害」は「知的障害」ではありません。 おっしゃる通り、精神障害といっても、病名、またその症状は様々です。ですのであくまでも、「精神障害と教会(クリスチャン)」の視点から、精神障害をもつ人との関わりや、逆に精神障害をもつ人の立場からのお悩みやご意見をお寄せください。病名や症状について書ける方は書いてくだされば幸いです。 |
ピッコロサムエル(44) 5/9 | 先ず、この質問に対しての疑問があります。
精神障害だから、知的障害では、ないということですよね。 一口に精神障害といっても、精神分裂病(統合失調症)なのか、うつ病患者なのか、躁鬱なのか、 また、症状も多種多様でございまして・・・。 私は、介護という職業柄、配慮しつつ、普通に「人」としてのお付き合いをさせて頂き、土足で踏み込むようなことはしないようにと心がけております。 てんかん発作や、その他の発作が出た場合も、安全を第一に、関わっていってます。(得て不得手が有りますので、全員が関わる訳ではありませんが。) 相手が、興奮して、攻撃的になったときを想像すると、とても怖いですが、これも、対処法を勉強された方なら、問題は、ないように思われます。 所詮、人と人との関係ですので、極端に、神経質になる必要は無いと思います。 ただただ主にお委ねして、祈っていくしか出来ない・・・というのは、現状かもしれませんね。 まとまってない文章で、申し訳ありません! |
るつ(40) 5/1 | 私は今40歳になりますが、20歳の時と、29歳の時に入院していた経験があります。
躁鬱病と言われましたが、キリスト教病院では環境不適合だと言われました。 31歳で結婚してからは通院も薬も必要なく過ごしています。子供もいます。 だいたい精神障害の方は、環境不適合だと思います。 家族や仕事があわなかったり、おつきあいしている人と別れたりが殆どの原因ではないでしょうか。 環境をその人にもっともあう場所におくことができたら心身共に健康になれると思います。 私の場合、まわりのいろんな人がカウンセラーのようになってくださり、つらいときは相談したり逃げたりする場所があったので、全治することができたのかもしれません。 イエス様がカウンセラーなのですが、イエス様の導きによっていろんな方が助けてくださいました。 一度精神障害になったら完治はしないという間違った考えのお医者様や看護士さんがいますが、それは精神障害者と呼ばれる方の社会復帰に大きな落とし穴となっています。 信仰によって、導きによって、完治するということを伝えていきたいです。 |
ななしのごんべい(39) 4/29 | 再びななしのごんべいです。
実は悩みがもう一つあります。 それは、「自分で自分の病の受け取り方」と言うか「どこで折り合い」をつけるか? これは大きな課題。天国まで持って行く「宿題」です。 先の文章で、「社会性と能力が低い」と書きましたが、「知的障害」ではないのです。 よく「人間性がいいなら」なんて言うのですが、 「社会性が低い」だから「世渡り下手」な訳です。 (人間性より...)になってしまうのです。 「性格変える努力を」と言われても病が「○○性人格障害」ですから、 本人が困っても「本人もどうしていいのか?わからない」のが本音なのです。 (どこから手をつけていいのか?もわからないのです) また本人の中でも「能力」も「社会性」も低いので、心の底から勝手に(自然と) 不安が出てくる訳です。 (発達障害もあるので、「能力と社会性のレベルアップは |
ななしのごんべい(39) 4/25 | 私は精神的な病をもっています。おまけに病気が重複してるので、「なんで生きているのか?」と
悩む事は山ほどあります。そして「あぁー普通になりたいなー」とつくづく思います。 そして、病の中に生まれつきの部分もあって「なんで!!」と神様に問いたくなります。 さて、こんな私でも教会は大切やなーと思います。信仰面もそうですけど、(神様との関係) 私の病を理解した上で、「はげましてくれるクリスチャンや牧師」がいるのです。 私は、社会性も能力も低いので、「私の賜物なんかない!」と落ち込むのですが、 「精神的な病を持っていても、神様を見上げようとする信仰も賜物ですよ」と励ましてくれます。 「病の持っている苦しさは、その本人しかわからない、でも同じ病の人なら、励ましたり、 支えてあげる事はできるよ。今は無理でもね」と。それに牧師の私たちもいるし、 A子さんもB夫妻だって、あなたの見方よ。それをわすれないでね。 精神障害の方は人間関係が苦手なので、今流行のバーチャル教会がいいと言われそうですが、 「携帯のメールで、励ましメールを送信する」事も現代の「よきサマリや人」ではないのでしょうか? 「元気?」「調子どう?」これだけでも、「自分は見捨てられてないんだなー」と思います。 精神的な病の人は、「手広い人間関係」は苦手だが、教会が「精神的な病を持つクリスチャンを励ます」役割は 大きいと思います。 |
あしふく(39) 4/24 | 昨今、精神科や心療内科等の診察科では、敷居が低くなるように看板を「メンタル・クリニック」等と工夫しているようです。
薬剤会社によるうつ病の新薬(SSRI SNRI、等)の広告やリーフレットをごく普通の内科で見る事も多くなってきました。 比較的大きな企業では、産業医が協力して「うつ病」等をキッカケとする休職や復職の際に、患者側にたったプログラムを提供しているようです。 一方、教会には何らかの精神性疾患ではないかと思われる方が、 他の集団よりも比較的多くお越しになるように思います。(感覚的なモノで定量的ではありませんが) それらの方々は、統合失調症(精神分裂病)、うつ病、パニック障害、アルコール依存症、境界型人格障害(境界例)など多岐に渡るようです。 「みんなが私の事を悪く云う」、「死んでしまいたい」、「急に金縛りにあうんです」 と訴えるモノから 不定愁訴までさまざまですが、 いずれにせよ 専門医の診察を受けた方がご本人の為であろうと思われる方が確かにおられます。 (境界型人格障害が治療の対象となり得るかどうかは、ここではおいておきます。) ところが、信徒(場合によっては牧師でさえ)によっては、 それらの訴えを『病気によるもの』と理解出来ず、 或る程度話を聴いて(このことに意味がある場合も確かにありますが)その後に、 「では、一緒にお祈りしましょう。癒されましょう。」 と、お祈りだけで済ませたり あるいは 「希望を持って」と 励ましてしまう方がおられるのが実情です。 親切な兄弟姉妹が、24時間 朝夕問わずにかかってくる相談電話に応じているような例もあるようです。 「歯が痛い」という相談なら「歯医者へ行った方が良い」、 「胃が痛い」という相談なら「まずは内科へ行った方が良い」、と、 誰でもアドバイスできますが、 心の相談を受けて「精神科へ行った方が良い」とアドバイスできる人は、残念ながら少ないようです。 また、精神安定剤や抗不安薬、あるいは睡眠導入剤に対して 「なるべく飲まない方が良い」などと、 無知による偏見も未だに珍しくありません。これも残念な事です。 --- 不信仰と云われるかもしれませんが、 例えば『うつ病』の人に必要なのは、直接的な「お祈り」よりも、 まず第一に薬物治療と充分な休養です。 他の病気に置き換えればすぐに理解出来る簡単な事なのですが・・・。 そして、 我々はその背景で「彼ら・彼女らの治療が十二分になされますように」と主にお祈りをする。 そんな姿勢を持つ事が大事だと思います。 他の「見える」病気と全く同じ事です。 -------------- いずれにせよ、 グループリーダーや牧会に携わる教職の方々と 信頼できる精神科医の連係プレーが これからはもっともっと重要で必要とされてくる事でしょう。 |
dismount(34) 4/24 | 掲示板のコーナーの作成をありがとうございます。
精神障害を持つ方とのかかわりで難しさを感じていることは、悩みを相談に来る本人が、「よくなりたい」と思っておられないように感じる場合です。精神病だと診断されていても、同じ病名でも症状には個人差があり、その病気の受け止め方も、かなりの差があるように思います。 病気をかかえながらも、神様がともにおられ、どんなに症状が悪くなっても「必ず主が助けてくださる」と信じておられ、その病気を利用したり、まわりの人を巻き込んだり、依存するようなことのない人と、「不安でパニック状態です」と落ち着いて電話をしてきたり、体のどこかが痛いということを繰り返し話して来る場合は、「何とかしてよくなりたいので、そのために助けて欲しい」という相談と言うよりも、病気を利用して、他の人の関心を得ようとしていたり、寂しさをまぎらわそうとしていたり、自分が抱えている本当の問題から逃げようとしていたり、という場合があるように思います。 前者のような場合は、病者と援助者と協力体制が組めますが、後者の精神障害を利用されているような場合は、なかなか協力関係を築くことが難しく感じています。もちろん、それが精神障害の辛さだとは思いますが、本人も自分の問題として取り組もうとするよりも「考えられません」とか「どうしたら良いか分かりません」と非協力的です。しかも自分の都合の良いことには知恵を使って工夫をされているのを見ると、こちらは利用されているだけのように感じてしまいます。依存的な生き方が10年以上も身に付いてしまっているので急に変わるのは無理かもしれませんが、病気に取り組んで行こう、という方向は持っていただけないと、余計に悪循環になるように思います。 どうしたら、本人が、これまでの依存的な生き方に気付き、それを捨て、自分の問題に面と向かって取り組むようになるでしょうか。そのために、どのようにして接していったらよいのか、あるいは、関わり続けるときの注意点などがありましたら、教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。 |
アマチュア(72) 4/24 | 心を病んでいらっしゃる方が教会をお訪ねになります数が増えてまいりましたのは、30年前くらいからでしょうか。慣れていなかった牧師たちはお互いに情報を交換したり、個人的に医師たちから学び始めました。
ご本人、ご家族、医師、そして私たちの共同作業で、社会に復帰できた方も何人かいらっしゃいます。しかし、今、考えて見ますと、それは150人とか、200人とか、比較的多数が集う教会で初めて出来たことであったと思わされています。 農山村地帯に開拓を始めまして、すぐに反応がありましたのは、この方々でした。うつ、統合失調症、人格障害と通算、5人の方がいらっしゃいました。一人は他の病気で亡くなられ、もう一人は自ら命を絶ちました。 どうやら10人くらいが礼拝に集うようになりましたとき、そのような方の一人が、ある方に敵意をもった言葉を面と向かって、また、電話で頻繁に投げかけるようになりました。小さな池であるからこそ、投げ入れられた石の波紋は大きく、他の教会員も含め、3人が恐れを抱き、足を遠ざけてしまいました。 この方たちが安心してこられるところが、キリスト教会ですと話ましても、全員が全員、受け入れることはありません。200人の会員で3人でしたが、いま10人でははゼロ、接するのは私一人です。去った教会員からは苦しむ羊に手を伸ばさなかったと訴えられています。このような場合、えてして、そのご家族もお手上げの状態で、逃げ回っています。 今は、その方とご家族、そして来なくなった方々のために祈る日々です。 |
ぶどうの実(33) 4/24 | 精神科医をしております。家族にも教会にも精神障害を抱えている方が居ます。教会の精神障害の方に病気の相談を受けても、治療やカウンセリングはできない旨をお話ししたうえで、一緒にお祈りをすることがあります。牧師先生には患者様の病気についての説明や対処法をお話しする機会があります。患者様が教会生活を送る上で、人間関係のトラブルが起きた場合に何かと患者様の対応についてアドバイスを求められますが、たいていはどうしようもない状況になってから相談されるので、何も出来ません。そうなる前に話してくださるように話していますが、大体無視されます。患者様が通院している病院でクリスチャンとしての信仰を否定されたり、教会で奉仕を引き受けて疲れきって体調を崩してから、患者様も、牧師も、私に過剰な期待を抱いて相談されるますが、たいていは期待に沿う解決法を提供できないために、失望されることが多いです。教会では患者様の病気は決して公表してお祈りすることはなく、役員会でも公表せず、牧師と患者と対応する数人のみが把握しているために、患者様にとって負担の多い環境を周囲の教会員が作り出しては、お互いに傷つけ合うことを繰り返しているように感じます。そうなる前に、色々牧師にアドバイスを提供しても、患者様のプライバシーと患者様のご家族の感情を気遣って、アドバイスとは真逆のことがなされてしまいます。患者様が教会から離れることになることが多いように感じます。病気の公表と、病気があっても患者様が人間として尊厳を持って教会で生活できるように必死で牧師に訴えたいと思いますが、なかなか真意が伝わらず、上手く行きません。精神病は患者様や教会にとっては、扱いにくい、恥のように扱われるのだろうか、と心に痛みを感じます。複数の患者様の対応を苦しみぬいて対応している牧師に対して、気の毒な気持ちと歯がゆい気持ちが同時にあります。牧師は本音は、対応が大変で中身のない会話を繰り返す患者様の訴えに辟易しているようです。こういった状況が建設的な解決に導かれ、病気があってもなくても、教会で堂々として生きていける教会になったら良いのではないか、と神様にお祈りしている日々です。私の家族を現在所属する教会に連れて行く気持ちには全くなれません。 |
ミセスJam(39) 4/24 | だいぶん前に聞いた話ですが、
「クリスチャンになったら、心が平安になるので、精神的な病はならないよ」 「信仰がないから、精神的な病になるのでしょ?」と聞いた事がありますが、 本当に「信仰がない」からでしょうか? もし「精神的な病になったら、それは信仰がない証拠ですか?」 教会が精神障害者の方への「配慮」を教えてください。 たとえば、「孤立にさせない」とか。 |
hopeman(57) 4/24 | 当方、一地方教会で牧会している者です。20代で精神分裂病(統合失調症)を発症し、現在70歳となった教会員のことで苦慮しております。一番頭を悩ませていることは、本人から漂って来る煙草の臭いです。本人に聞きますと、精神科に通院している折に、担当医師から精神が落ち着くようにと、喫煙を薦められたそうです。それ以来喫煙が止められないということです。問題は礼拝の時、煙草の臭いが会堂中に漂うことです。礼拝に来る前に家で喫煙して来るようで、煙草の臭いが衣服にも、特に長年の喫煙で体にも臭いが染み付いているのでしょうか。会堂の広さは40畳程ですが強烈な臭いが会堂中に漂うのです。特に新しい方々や求道者が礼拝に来られた時には、本当に神経を使います。礼拝に来る時には喫煙しないようにとか、本数を少しづつ減らすようにと時々指導はしているのですが、あまり効き目はありません。禁煙運動が益々社会に広がる中、救いを求めて教会に来られた方が躓かなければと、気をもむ毎週の礼拝です。このような魂をどのように指導してゆけばよいのでしょうか。ご教授頂戴できると助かります。 |