靖国神社参拝の是非について
―自ら「宗教法人」になることによって、靖国神社はどう変わったか―
最近、わたしのホームページに書き込みがあり(「教育基本法改正案をめぐって」の項)、カトリック信者にとって靖国神社の参拝は、その祭神にカトリックの神に並ぶような神威・霊威はなく、戦没者合祀の目的も追悼・慰霊であるから、神の第1戒に反しないのではないか、との疑問が寄せられた。折角の問題提起だから、以下、わたしの見解を述べてみたい。
1-神社非宗教論と国家神道
神社非宗教論とは、神道における祭祀と宗教を分離し、神社神道を一般の宗教から切り離された特権的地位を持つものとする明治以来の議論である(三土修平著『靖国問題の原点』参照。以下、靖国問題の歴史的経過についても同書参照)。たとえば、1882年(明治15年)、神官は葬儀に関与せず、祭祀に専念する宗教官僚とされたが、このようにして、信教の自由とは抵触しないものとして「国家神道」が形成されて行く。しかし、昭和になり、皇民教育の一貫として神社参拝が義務付けられるようになると、カトリック信者にとっては良心上の重大な悩みが生じた。神の十戒が禁じる偶像崇拝を恐れたのである。
2-カトリック教会における神社参拝容認
1932年(昭和7年)、上智大学における神社参拝をきっかけにした配属将校引き揚げ事件の際、東京大司教の質疑に対して文部省は、「国の求める神社参拝は「宗教的」なものではなく、愛国心と忠誠心を表す「愛国的」なものである」と回答した。これに基づき、日本のイエラルキア(教区長たち)は、「国家神道の神社で行われる国家神道的な儀礼に参加すること」を容認し、ローマ聖座も1936年(昭和11年)の布教聖省指針でこれを追認した(カトリック中央協議会福音宣教研究室編『歴史から何を学ぶか』の中の資料参照)。こうした教会の決定は、残酷な精神的拷問とも言える神社参拝の重荷から信者を解放し、その良心の平和を保証するものとなった。
私事ながら、当時、わたしは姉たちが学校の団体神社参拝から逃れようとどんなに苦心していたか、子供心に覚えている。神社参拝の強制は、偶像崇拝を禁じる神のおきてに忠実に従おうとするカトリック信者子弟の良心に重くのしかかっていたのである。わたしは昭和10年の小学校入学であるから、すでに神社参拝が容認されており、良心上の悩みなく神社参拝に参加していたが、それでも神社の祭神を拝む気持ちは毛頭なかった。小学生といえども、カトリック信者は神に従うことを何よりも優先していたのである。
3-靖国神社の宗教法人化による事情の変化
戦後、文部省はは国家と神道の分離(国家神道の解体)を求めるGHQの「神道指令」(1945年(昭和20年)12月15日)に基づき、靖国神社側の同意を得たうえで、同神社を宗教法人とする方針を決定し、翌1946年(昭和21年)2月2日の「改正宗教法人令」に基づいて、同7日、宗教法人として登記を完了した。
この宗教法人化によって、靖国神社は、事実上国家から切り離され、政治も介入できない一宗教として信教の自由を享受する一方、靖国神社自体が信仰の対象となり、英霊として祀られているその祭神は礼拝の対象となるため、単なる戦没者の慰霊の場ではなくなった。その結果、靖国神社参拝はれっきとした宗教行為となり、その是非は、信教の自由に関する各個人の良心の判断に委ねられることとなる。ただし、カトリック信仰の立場からすれば、靖国神社の参拝は、太陽崇拝などと同じように、神ではない被造物を祀り、これを礼拝する偶像崇拝に相当するから、偶像崇拝を禁じる神の第一戒に違反するものと考えられる。従って、神社参拝を容認した戦前の教会の決定は、神社の宗教法人化によって自動的にその効力を失ったと見なければならない。
コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。
ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。
ご教示ありがとう
1)神道指令のことですが、これはGHQが日本政府に宛てたもので、政府は靖国神社側と話し合い、神道的宗教性を捨てて戦没者慰霊の公共施設にする選択肢があったにもかかわらず、宗教法人とすることで合意して、1946年1月25日、「靖国神社を含め、宗教法人にする方針」を閣議決定したようです。そして、同年2月2日の改正された宗教法人令に準拠して、同7日、登記を完了したということです。
2)1936年の布教聖省指針は、おっしゃるとおり、「国家神道の神社で行われる国家神道的な儀礼と、宗教としての神道の礼拝との間の区別に基づくものとして、学生、生徒、児童の団体に要求されている敬礼の唯一の目的は愛国心と忠誠心を表すことにほかならない」となっています。現場ではただ神社参拝で通っていたことは確かです。
なお、ビッター神父が天皇制存続等に尽力したことは聞いていますが、彼が重要な教会の代表であったかどうかは分かりません。
靖国ー善きにつけ悪しきにつけ、いつもー
1 明治時代以前は戦争は武士が主軸である事が基本でした。百姓や町人は徴用されたり、町や村が破壊されたりして迷惑この上なかったのが日本の歴史です。しかし、明治に国民国家となり国民皆兵となった為に、政府は国家の為に殉じた国民を慰霊する必要に迫られました。慰霊鎮魂しないと怨霊と化すのが千五百年の長きに亘り、日本人の常識でもあったこともあるでしょう。私の住む街は怨霊を鎮魂して御霊とする為の寺社仏閣で溢れています。国の為に殉じた者は慰霊する、というのは国が国民に行なった「お約束」であったわけです。その施策として世に言う「国家神道」なる「祭祀」と「信仰」を分離すると言う宗教の自殺行為を明治政府は断行しました。国が国民への「お約束」をコロリと裏切るという姿は年金問題にも見られる「お上」の体質ですが、靖国という「お約束」も1945年に反古になりました。この時点で何の手も打たなかった事が今日まで続いています。
私の母方の伯父2人は靖国に祀られています。1人はレイテで、1人は沖縄で戦死しました。遺族にとっては「お約束」を一方的に反古にされては堪ったものではありません。カトリック信徒で戦死した方も大勢いらっしゃるでしょう。別に靖国に参らずともお墓に行けばいい、と言う考え方もあるでしょう。私のように幼児洗礼の信徒はそれで良し、と出来ます。しかし、私の母のような世代はそうはいきません。大半が自ら求めて教会の扉を叩いた世代です。日本人の情緒が染み込んでいます。私はそういう世代が何かの機会の東京を訪れ、靖国に参詣するのはカトリック教会の信仰への裏切りに値しないと考えています。
私や私の司教様も職務柄、諸宗教施設を頻繁に訪問します。私は寺でも神社でもその本殿に対し、深く一礼します。「貴方が信じている対象に対し、私は敬意を表する」との姿勢は崩しません。しかし、それ以上の事はしません。それはカトリック教会が最も警戒するシンクレティズムに陥るからです。所詮、諸宗教対話という世界は「貴方も私も被造物」である事を共通認識として持たなければ成立しない世界です。相違の中で一致点を発見する作業です。
2 「靖国」論議が沸き立つ度に、私はローマのビットレオ・エマニュエル2世記念堂を思い浮かべます。あの壮麗な無名戦士の墓は24時間イタリア3軍の兵士が交代で歩哨に立っています。あそこではキリスト教、イスラーム、ユダヤ教等の区別を問わず、各々の典礼で祭儀が行なえます。私は靖国の宗教法人を解散させて、国の管理による諸宗教多目的慰霊施設に変更するという大鉈を振るっても良いのではないかと考えています。政教分離に抵触するとは思えませんが、するというなら国と諸宗教が出資する社団法人を設立して管理を行なえばいいでしょう。あるプロテスタント系の大学の神学部長に「靖国神社が駄目なら、靖国教会なら構わないのですか?」と質問した事があります。即座に「OKだ」と回答され些かたじろぎました。面白い事に有力神社の見識ある神主さんの多くが「靖国は馬鹿だ。それをどうにも出来ない神社本庁の官僚も馬鹿が揃っている」と一杯飲むと本音を漏らす事です。同時に返す刀で「キリスト教の左派も馬鹿だ。いつまで革マルや中核みたいな事を言ってるんだ」怪気炎が上がります。これが実態です。
長文になりました。お赦し下さい。
ご意見ありがとう
戦前の教会の神社参拝容認との関連で、宗教法人化した靖国の「宗教行為」としての参拝の是非について、厳しい見解を示しましたが、あとは、本文で述べたとおり、個人の良心の判断の問題ですね。
もう10年も前のことですが、京都の司教さんのご紹介で延暦寺と上賀茂神社を訪問しましたが、大変親切に迎えられ、丁寧な説明をいただいたこと懐かしく思い出しています。一致点を見出すのは困難ですが、諸宗教対話が進展することを心から願っています。
お返事有難うございます。
靖国神社参拝の是非について
糸永司教様のコメントの前に発言することは、きわめて不躾と存じますが、Paul.I.SUGHINO 様のご発言に強く感激致しました。「靖国教会」には本当にオドロキましたし、素晴らしいと思いました。
私は「遺族」であり崇敬奉賛会々員でもあります。秋の例大祭第二日祭に参列致しました。例大祭祭儀の中では折口信夫先生の「鎮魂頌」が歌われます。靖国の例大祭は、つまるところカトリックのレクイエム・ミサでしょう。このような言葉があります。
現し世の数の苦しみ
たたかひにますものあらめや
私は残念ながら古語を失った世代ですが、
「世の中に多くある苦しみの中で、戦争以上のものはない」
との意味と思っています。
10月29日の「神社新報」紙はこの例大祭について、
「英霊246万6千余柱の御霊を慰め、平和を祈念する靖国神社」云々と記しています。平和を祈念する、ということです。
ごく当然のことで、戦死した御霊以上に、平和を求めるものはないでしょう。
私は例年、10人前後の友人と、二月の第一土曜日に靖国に昇殿参拝しています。拝殿で十字をきり、「主祷文」「天使祝詞」「平和のための祈り」を祈ります。神官は横に静かに侍ります。祭文奏上まで靖国は許容します。
仏教徒、僧侶たちも来られるそうです。
「ビットレオ・エマニュエル2世記念堂」は、靖国においては、すでに実現しているのです。
私は、靖国に行くことによって信仰上の動揺を来すことは皆無です。靖国は私に何も求めません。
以上、司教様を差し置いて失礼致しました。
ご意見ありがとう
Re: ご意見ありがとう
コメント、ありがとうございます。
> いつになったらすっきりした解決が見られるでしょうか。
私自身は、「すっきりした解決」など必要ない、という立場です。
行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい。放っておけばいいと思います。
日本のカトリック教会には、もっともっと重要なテーマがあると存じます。靖国を問題にするヒマはないと思います。
いつも勝手な発言を許して下さる司教様の寛容にお礼を申し上げます。
今後ともよろしくお願い致します。
対話のためにもう一言
1)教会は宗教間対話を大切にしており、各宗教の教えや実践を正しく識別した上でこれを尊重し、その違いに立って対話に臨みます。従って、靖国神社の場合も、先方が自らを宗教と名乗る以上、わたしたちの信仰との違いを無視するわけにはいきません。たとえば、見学や表敬や対話ではなく、それが参拝となれば、それは靖国神社教に対する信仰告白となるでしょう。この場合、意図だけでなく行為自体が問われるからです。
2)社会的に見れば、靖国神社に対する内外の評価には互いに対立する多様な意見があり、一致していません。たとえば、
①靖国神社にはすべての戦没者が記念されているわけではありません。千鳥ヶ淵戦没者墓苑には国のために死んだ35万柱の遺骨が納められています。戦争ゆえに国に命を捧げた者は他にもたくさんいます。その意味で、特定の戦没者だけを記念する靖国は差別の象徴とも言えます。
②靖国神社にはかつての国家神道が分離されないまま皇国史観とともに温存されており、先の戦争の負の部分についての反省もなく、その理念は戦争肯定そのもののように見受けられます。国の内外に分裂や対立を生むそんな靖国神社への参拝は、果たして真の平和祈願となり得るかどうか疑問です。
3)ですから、特定の宗教やイデオロギーと結びつかず、万人がすべての戦没者を等しく偲ぶことのできる公的な施設ができることを多くの国民が望んでいると思います。
Saito Yoshihisaさまへ
納得されないなら、まずこちらでまずご意見述べて対話し、
すっきりさせるべきではないのですか?
ジャーナリストなら、取材を申し込んででもされたらよいのでは、
と思います。今になって、こんなところでリンクつきで、しかも、
ここまで書かれるとは。フェアではないと思います。
〈〈 当てはまらないカトリック司教の靖国批判 〉〉
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/427583/
(以下引用)
>最後に、司教様は、「ですから、特定の宗教やイデオロギーと結びつかず、万人がすべての戦没者を等しく偲ぶことのできる公的な施設ができることを多くの国民が望んでいると思います」と結論を書いているのですが、じつに陳腐です。
このやり方がフェアであるならば、せめてこちらに書き込みされて
「私の意見はこうです」とURLを知らせてくださるくらいは、
されてもよろしいのではないのでしょうか?
糸永司教さま>
コメント欄汚し、申し訳ございません。しかし、一方的な批判の形に
なっているのであれば、閲覧者として納得できません。このこと、
司教さまがご承知であられれば、このコメントは必要ないと存じます。
有用な対話の場がまだ開かれているのですから、もう一度、
Saitoさまにはここでお話を願いたいものです。
興味深いお話をありがとうございます
いわゆる神道指令についてです。ご承知の通り、これは通称で、正式には「国家神道、神社神道に対する……」という長い長い名前のついたGHQの覚書です。
「3」のところに、「靖国神社が指令に応じなかった」とありますが、これは具体的にはどういう事実を意味しているのでしょうか。
もともとこの指令は、くり返しになりますが、GHQの覚書で、GHQが日本政府に対して発したものと私は理解していますが、そうではなく、GHQが神社に対して発したというご理解なのでしょうか。
また、「翌年の宗教法人令に基づいてみずから宗教法人になることを選択した」とありますが、そういう事実があるのでしょうか。
宗教団体法に代わる宗教法人令が出されたのは昭和20年暮れ、改正されたのは翌年2月ですが、その附則に「靖国神社は宗教法人令による法人とみなす」とありました。
みずから選択するも何も、勅令にそのような記述があり、しかも「6カ月以内に地方長官に届出」なければ「解散したものとみなす」とされていました(「神道史研究」昭和46年、渋川論攷)。だとすれば、「選択の余地がなかった」と見るべきで、「みずから選択」とはいえないのではないでしょうか。
戦後の靖国神社の歴史にとって、特記すべきことはビッテル神父の存在でしょう。焼却処分の声まで上がっていたとき、ビッテル神父がおこなったマッカーサーへの進言が神社の窮地を救ったのです。
「いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」(『マッカーサーの涙』)
これほど重要な教会の代表者の行動をなぜ司教様は言及されないのですか。
さらにいえば、1936年の指針は、国家神道神社での国家的儀礼と宗教としての神道の礼拝とを区別しており、そこが重要かと思いますが、司教様の論では「神社参拝」としてみんな一緒くたになっています。
その発想に立てば、キリスト者が靖国神社に参拝するのは改宗・棄教ということになり、信仰的な信徒であればあれほど受け入れられません。
しかしそんなこととはありません。教皇様がブルーモスクを表敬されましたが、誰も改宗とは思いません。
異教の文化を受けいる適応主義は、1936年の指針が言及しているように、その歴史は17世紀に始まります。導入したのはイエズス会でした。第二バチカン公会議の聖心を先取りする適応主義はその後、20世紀によみがえり、1939年にはバチカンは中国での孔子廟での儀式参加を許しています。違うのでしょうか。