2005年10月18日(火)
女性記者も驚いた長嶋監督の激しいスキンシップと退任ヒント
 2001年のある日、いつものように監督室の前で立っていると長嶋監督が広報とやってきた。珍しく周囲に報道陣はいない。チャンスだ。「監督、来年の進退なんですが…」と言いかけたその瞬間「元気がないですね〜」と私の背中をバンバン叩いてきた。さらに二の腕のぜい肉をムニュムニュつまみながら「どうしたんですか〜」。
 容赦ないスキンシップ≠ノ困惑していると「しかし巨人の担当とはかわいそうですねぇ〜。まだ担当になったばかりでしょ? もう修羅場は体験したの?」。何が何だか分からぬまま「たぶん…まだです」と答えると「じきに体験できますよ〜」とニッコリ笑って監督室に入ってしまった。
 その翌月、長嶋監督の勇退会見が行われた。当時は違う新聞社に在籍していたため「長嶋退任!」ときれいにスクープしていた東スポをうらめしく見つめながら私はあわてふためきながら原稿を書いた。まさに修羅場だった。
 後日、長嶋監督は「修羅場を経験できたでしょ〜」とニンマリ笑いながら、あの時と同じように背中をバンバン、二の腕をムニョムニョ。あれが長嶋監督のくれたヒント≠セったとその時やっと気がついた。   (水香和美)
2005年10月11日(火)
夜のデートで田尾監督を支え続けた宏子夫人
 9月25日、楽天初代監督・田尾安志氏が電撃解任された夜のことだ。どうしても生の声を聞きたくて試合後、自宅に向かった。不在だったため周辺の飲食店をのぞいていると、後ろから「何してるの?」。振り返ると田尾氏が宏子夫人と仲良く腕を組んでいた。
 シーズン中から夜の散歩デートは恒例だった。解任されたこの夜も歩きながらいろいろなことを話していたようだ.。田尾監督が1年間指揮を執れたのも、宏子夫人がこの散歩デートなどでストレスをうまく発散させてあげていたからだろう。そうでなければフロントとの確執で、とっくの昔にユニホームを脱いでいたかもしれない。
 安定した評論家生活から勝負の世界に飛び込むことを迷っていた、田尾氏の背中を押したのが宏子夫人だといわれている。「私はパパがやりたいことをやってくれればいいと思っているの。失敗しても二人なら何とでも生きていけるから」。シンガーソングライターとして活動している宏子夫人のこんな天真爛漫さが、それこそ毎日のように田尾氏の短気を鎮めたのであろう。
 苦労ばかりだった田尾氏を支え続けた宏子夫人にも心から「お疲れ様でした」と言いたい。    (関根香世子)
2005年10月4日(火)
「東スポLOVE」と抱きしめてくれた原さんとの忘れられない話
 巨人次期監督就任が確実な原辰徳氏と初めて顔を合わせたのは2001年春だった。当時ヘッドコーチを務めていた原氏に名刺を渡そうとすると「おう、東スポか! オレは物覚えがいいからキミの貴重な名刺は受け取らなくても大丈夫だよ」と白い歯をのぞかせ、延々30分近くも話をしてくれた。やっぱり爽やかな人だ。しかし、そう思ったのはこの日だけ。以降は、ナゼか「東チュー!」と別のスポーツ紙の社名で呼ばれ、心の中でズッコケ続けた。
 やっと認知≠オてもらえたのは、監督就任が発表された直後の同年オフ。1面で書いた記事をめぐって、球団側と丁々発止の事態に。秋の宮崎キャンプで「お騒がせしてすみません」と頭を下げると、原氏は屈託のない笑顔でこう言った。
「キミが噂の三島クンか! お初にお目にかかるね! 大丈夫、オレは東スポLOVE≠セから!」。武藤敬司ばりの言葉とともに力強く抱きしめられ、心の中で「何でお初なんだよ…」と思わず笑ってしまったが、その優しさには自然と涙もこぼれた。
 そんな原氏が落ちぶれた巨人をどう立て直してくれるのか。注目している。   (三島俊夫)
2005年9月27日(火)
記事に怒りまくる広島・新井に「受けて立つ!」と宣言したら…
 広島の新井が本塁打王争いでトップを走っている。打球はケタ外れのパワーでスタンドに運ばれる。それを見るたびに広島担当時代の試練を思い出す。
 とある記事がきっかけで温厚な新井が激怒したことがある。「何なんですか、あの記事は! もう絶対に許しません」。説得する、ひたすら謝り倒す…。何をやっても聞く耳を持たず、口をきいてもらえない日々が続いた。困り果てた末、苦し紛れの打開策を実行に移した。格闘技好きの新井に向かって「怒りを直接ぶつけてくれ。好きなだけ技をかけていい。受けて立つ!」と挑発したのだ。
「そこまで言うなら許します」との言葉を期待していたが、甘かった。すぐさまロシアンフック、エルボー、チョークスリーパーなど技の嵐を浴びた。もちろん手加減してくれたのだろうが、馬鹿力はひ弱な記者の体をアザだらけにした。最後はたまらずタップ(降参)して、ようやく開放された。
 起き上がることができず仰向けになったままの記者に新井がいだずらっぽく笑った。「いやあ、もうそんなに怒ってないですよ。あんまり好き勝手に書くから、ちょっとお灸をすえようと思って」。文字通り体を張った和解劇。記者稼業も楽じゃありません。     (小原太郎)
2005年9月20日(火)
星野SD招聘プラン仕掛け人は「デッカイ仕事」が口癖の一茂氏か
「オレと組めばデッカイ仕事ができるぜ」。巨人の次期監督問題を取材していて、若かりし頃の長嶋一茂氏から投げかけられた言葉を思い出した。
 一茂氏と記者とは昔から因縁浅からぬ間柄。公衆の面前で「畳の上では死ねないと思え!」と暴言を浴びせかけられたこともあれば、女性問題を報じた時は「せっかく別の女とうまくいきそうだったのに」と猛抗議を受けたことも…。その一方では本紙のスタンスに同調し「もっとパンチのある記事を書け」と激励してくれたこともあった。
 冒頭のセリフはそんな一茂氏が本紙評論家に名乗りを上げた時の発言で「マジでやってみたいと思っているんだ。いろいろと企画も考えている。ギャラも安くていいぞ」と言っていたっけ。残念ながら、これは実現しなかった。
 一茂氏は今や読売トップの信頼を得て「監督人事のキーマン」と言われるほどになった。阪神・星野SDの招へい案が出てきた時にピンときた。一茂氏のこと、おそらく渡辺球団会長にも「デッカイことをやりましょう」と言ったに違いないと。  (溝口拓也)
2005年9月13日(火)
記者の結婚式に熱いメッセージをくれた星野SD
「オマエはオレの目をまともに見れるのかぁ!」
 目の前に立ちはだかって声を荒げる鬼神≠ノ思わず足がすくんだ。体中が凍りついた。この感覚は経験したものしか分からないだろう。阪神・星野SDが今以上に血気盛んな40代の青年監督時代、とにかくよく怒られた(今もだが…)。しかし叱り飛ばした選手への対応同様、マスコミにも怒った分だけフォローがある。
 十数年前、記者の結婚式に「デスクに負けるな!」というメッセージをわざわざ寄せてくれた。仲人が当時の直属デスクだったのを承知の上での熱い言葉だった。「闘志なきものは去れ!」が星野スタイル。住んでいる世界は違ってもファイティングスピリットは絶えず忘れるな!≠ニのゲキと受け取っている。
「ユニホームは戦闘服、グラウンドは戦場」との星野SDの名言がある。この人はいつも闘っていないと気が済まないのだろう。もちろん阪神SDとして戦っているのだろうが、いつの日か再び戦闘服に身を包む時も来るのではないか。だから、まともに目を見て言いたい。
「巨人監督として、逆風だらけの中であえて戦う姿を見てみたい!」と。 (山口真司)
2005年9月6日(火)
ゴジラは怒ると怖い!身をもって知った日
 早いものでヤンキース・松井との付き合いは10年目になる。飾ることなく思いやりの心を持っている男で「人間ができている」という印象は初対面から不変だ。その松井をたった一度だけ、激怒させたことがある。
 1998年5月12日、横浜スタジアムの駐車場での出来事だった。午後2時半過ぎに球場入りした清原と雑談していると松井がシボレーで到着。清原のベンツの右隣にバックで入れ始めた。「タイヤ止めがないけど大丈夫かな」と思ったが、警備員がいるので誘導するだろうと判断して清原との話を優先した直後「メリ、バリバリ」と嫌な音が響いた。タイヤ止めがあると思った松井がクルマを目一杯下げたため、リアウインドウが壁と激突して大破したのだ。
 清原は大爆笑、悪いとは思ったが記者もつられてしまった。そこへ引きつった表情で降りてきた松井。その剣幕は凄まじかった。「本間ちゃん、見てたのに何で教えてくれないんだよ! キヨさんと笑うなんてひどい!」と激昂だ。初めて目にする清原を超えようかという迫力だった。
 1時間後には許してくれたが、松井が怒ると怖いという噂は真実。身をもって知ったのだから間違いありません! (本間壮児)
2005年8月30日(火)
横浜・佐々木の「大魔神カレー」を食べたい!!
引退が決まった横浜・佐々木にお願いがある。お手製の大魔神カレーを食べさせてほしいのだ。1994年から3年間、横浜を担当した縁もあって一昨年のマリナーズ取材ではいろいろな話を聞かせてもらった。その中の一つに「最近、料理に凝っているんだ。特にカレー。調味料やスパイスを集めて試行錯誤したおかげで、なかなかの味だよ」という自慢話があった。
 この時はあまり興味がなかったのだが、後日、佐々木が通う有名店のシェフから「佐々木さんは絶対、料理人に向いている。舌がしっかりしているのもあるけど、一番の適性は人を思いやる気持ちが強いこと。料理は人に食べてもらうものだから自己満足じゃいけない」という話を聞いて、一気に食欲がわいてきた。
 確かに佐々木は「いつもマウンドでは心臓バクバクだよ。オレが打たれたら今まで投げた人の勝ち星を消してしまうし、その選手の生活にも関わってくる。それがつらい…。もし失敗したら、奥さんや家族にも電話で謝るんだ」と常に同僚を気づかってきた。そんな心優しき大魔神の手料理がまずいワケがない。佐々木関連の取材メモを読み返すたびに「食べたい!」という気持ちが強くなる。(石川隆議)
2005年8月23日(火)
憧れの巨人山本ヘッドが取材のイロハを教えてくれた
 学生時代からこっそりロッテファンをやっている。初めてサインをもらったのは山本監督(現・巨人ヘッドコーチ)だった。それだけに記者になって1か月ほどたった昨年、初めて山本ヘッドを取材した時は緊張した。学生時代にサインをもらったことを告げると「そうなんや」と微笑み、取材すると「そういう聞き方は失礼。こういうふうに聞けば…」と教えてくれたりした。想像通りのいい人だ。
 しかしチームが不調だからか、もともとの気質なのか、たまに理不尽要求を突きつけてくる。鈴木が今季一軍に初めて昇格した日だった。「鈴木が(開幕直前に)ひじを痛めたのは両打ちと二塁コンバートを同時にさせたから。オレの責任やて」と話したのも束の間。「でもオマエは自主トレの時、鈴木を『頑張ってください』って励ましただろ!」。「3回くらい言いました」と答えると「3回で十分だて。そのせいで鈴木は頑張りすぎたんやて。責任の半分はオマエが持て」。そりゃないですよ。
 ある時には「オマエが来ないと勝つな。もう来るな」。そりゃない…ってそうでもないか。現に記者が巨人担当になってから巨人は弱くなったんです。すいません、ヘッド。(前田 聡)
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記者プロフィール
プロ野球担当 藤野高司
1978年入社 関西大学文学部フランス文学科卒業 南海を皮切りに阪神、阪急、オリックス、近鉄と関西全球団を担当した。今年から合併球団・オリックスの担当。20年を越える記者生活で優勝経験は2001年の梨田・近鉄での1回だけ。「インケツ記者」と呼ばれる。
プロ野球担当 山口真司
1986年入社 國學院大学卒 昨年まで阪神担当キャップ。今年から遊軍。中日、広島、オリックス、阪神と入社以来プロ野球担当一筋。星野番、落合番、イチロー番などを務めた。闘将・星野監督には怒鳴られ、蹴られ、ハタかれたこと多数。星野監督の中日2年目X(88年)、阪神2年目X(03年)を両方担当した唯一の番記者でもある。長崎県佐世保市出身。
プロ野球担当 本間壮児
1989年入社 青山学院大卒 整理記者として入社したが、わずか8か月で野球部に異動。大洋(現横浜)1年、西武6年、巨人9年の合計16年の野球記者生活のストレスが原因で(?)ふさふさだった髪が見事になくなってしまった。労災を主張するも、当然のように却下された。昨年は野球部初の五輪取材を経験。今年から遊軍。
プロ野球担当 岩崎正範
1992年入社 龍谷大卒 入社時からプロ野球担当として万年Bクラスのダメ虎・阪神を担当。監督問題などお家騒動≠フ連続で野球の記事を書かせてもらえない日々を過ごす。その後、巨人担当として、長嶋茂雄、松井秀喜らを擁して達成した2000年ミレニアムVを取材。01年から再びトラ番.。03年に阪神が優勝したことで、過去にいないであろうGT優勝経験記者となった。
プロ野球担当 宮本泰春
1992年入社 早稲田大学卒 横浜―ヤクルト担当を経て94年からずっと中日ドラゴンズ担当。東スポ入社前はあの山一證券で証券マンとして働いていた。口癖は「オレに資産を預けろ。年利10%で回してやる」。だがこの男が株で儲けたという話は誰も聞いたことがない。
プロ野球担当 伊藤順一
1992年入社 早稲田大学卒 3年間の整理記者を経て野球担当。ヤクルト、西武、ロッテ、日本ハム、メジャー、遊軍記者と巡って、今年3度目の西武担当に。西武の球団社長からは「またオマエか」と嫌がられている。餃子を含め2度ご馳走になっている王・ホークスの担当経験はない。中日のMVP左腕・野口に似ているとタマにいわれる。
プロ野球担当 石川隆議
1994年入社 早稲田大学卒 横浜、阪神、オリックス担当を経て今季から阪神担当に復帰。野球記者として12年目を迎えるが、担当球団の戦績はAクラスなし。4位2回、5位2回、最下位7回と惨たんたるもの。2年目で背水の陣となる岡田・阪神の運命は?
プロ野球担当 三島俊夫
1995年入社 九州スポーツ配属となり、Jリーグ・アビスパ福岡を5年間担当。中田を追ってセリエAも取材。2001年から東京野球部に異動し、現在は巨人担当。肉体を誇示したがる悪癖があり、昨年のメジャー取材では、ジーターにピタピタのポロシャツ姿を気味悪がられ「キミはゲイ?」と聞かれたことも。もちろんノンケです。
プロ野球担当 霞上誠次
1995年入社 日本大学法学部新聞学科卒 編集局名古屋分室・中京スポーツ配属となりレース部、文化社会部を経て昨年から野球担当。いきなり落合・中日のV1を取材し、優勝直後のベンチ裏で信子夫人に歓喜の抱擁を受けた唯一の記者。何をしでかすか分からず、他社の記者仲間から「スター」と呼ばれている。
プロ野球担当 関根香世子
1997年入社 成蹊大学卒 ゴルフ担当を経て野球担当となる。日本ハム、横浜、ヤクルトと担当し、今季は新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルス担当。栄えある本紙初代楽天担当記者となった。趣味は食べ歩きとお酒。最大酒量はワイン4本。「女ドカベン記者」と呼ばれる。春から赴任する仙台では牛タン店の全店制覇をもくろんでいる。
プロ野球担当 山田 洋
1997年入社 野球部ひと筋で横浜、巨人、西武、ダイエーと渡り歩き、今年1月から広島担当。強豪チームばかり担当しながら優勝は一昨年の王・ダイエーの1回のみ。かなりのインケツぶりを発揮している。
プロ野球担当 渡辺卓幸
2003年入社 早稲田大学政経学部卒 競馬記者志望だったが、野球部に配属され、すぐに巨人担当に任命される。学生時代は合コン王と呼ばれたものの、多忙のため最近はごぶさた…。だが、名古屋遠征の際、コッソリ合コンしていたことが先輩記者にバレ、大ひんしゅくを買う。特技は大食い。相撲取りもビックリの食欲でいつも周囲を驚かせている。
プロ野球担当 前田 聡
2004年入社 早稲田大学卒 巨人担当 大学には勉強が好きなので5年通った。酒の失敗が多いのが悩みの種。休日前に飲みすぎると翌朝、いつも郵便局の前で目が覚める。目撃者によると「郵便局は国が運営しているから大丈夫。安全」と主張しているらしい。泥酔時は壁やテレビにいる妖精さん≠ニ会話ができるのが自慢。
プロ野球担当 田才 亮
2004年入社 早稲田大学卒 就職活動していた当時、同棲していた彼女に「東スポなんてイヤ!」と言われてケンカになり、しまいには刺されそうになった苦い経験がある。彼女とはその翌日、高尾山へハイキングに出掛けて仲直りするも結局、ジ・エンド。ヤクルト担当の間に、仕事かこつけてチェンジアップ≠フ修得を目論んでいる。