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NOTE.  

DATE.  2007 . 12 . 19

サヨナラは言わへんよ、島ちゃん

 サヨナラは言わへん。いつかまた、あの世でも一緒にやろう。一緒にチーム作りやって、一緒にまた戦おうといった。柩のなかの島ちゃんの顔はすっかりやせていたけれど、なんだか笑っているようにも見えた。

 去年、胃がんの手術をして退院。転移もしていず、奇跡的にうまく摘出できて、しばらくは大きな心配をせんでもいいという話だった。競輪選手の息子さんが引退して、自立して再出発することになったので、そういう息子を支援するためにもまだまだ元気にやっていかないかんと。島ちゃんはそれくらい良くなっているように見えた。

 11月の初め、全日本の神戸合宿にわざわざ自分でクルマを運転して激励に来てくれた。その頃は入退院を繰り返していて、とうにもう大分深刻な状態だとは聞いていたのだけれど一時間ぐらい、あれはどうする、これはどうする、あそことここはどうですかといろいろ話をしたり、心配してくれた。「台湾にも行きたいんだが…」といっていたけれど、二人でじっくり話をしたのはあれが最後だったということだ。

 東京から帰ったその足で病院に行った時(15日午前)は、意識がもうろうとしているようでもう話ができなかった。知らせを聞いたのはその日の夜だった。次の日(16日)、家に帰った島ちゃんの枕元で一時間くらい、37、38年もの間のいろいろなことを、胸にわきあがってくるままにいろいろな思い出を話しかけたように思うんだけれど、もう目を開けることも口を開くこともなく、無言で横たわるだけの島ちゃんの姿を見ていて、なにかがガラガラ崩れてしまったような気がした。

 わたしの監督生活の隣にはいつも島ちゃんがいた。先輩、後輩、長幼の意識も強い世界で三つ年上の島ちゃんには人に倍する気苦労や辛抱や心配もかけたと思うけれど、島ちゃんには完璧に支えてもらった、というよりいつもこちらで頼りきっていた。わたしがデザインを描く。あとの線描や彩色は島ちゃんがやってくれるというか、わたしがビジョンを描けば島ちゃんが、あとは指導、教育、管理、戦略、人事、全部やってくれていたから、頼りきったというより任せきっていたという方が本当だったかもしれない。

 だから、わたしの勝ち星の全部は島ちゃんの勝ち星だったといっていいし、優勝して胴上げをしてもらうたびにいつも、本当は島ちゃんのことも胴上げしてもらいたいと思っていた。タイガースもそういったところはよくわかっていてくれて、島ちゃんの役どころや待遇ということに常に理解や好意を示してくれていたわけだけれど、わたし個人の思いのなかにはもし島ちゃんを切るならばまずおれを切って、というような覚悟もあった。

 まだまだタイガースにも必要な人だったし、わたしとは今さらではないが盟友というか同志というか、不即不離の関係だったと、改めてそんなことを振り返ったりしていたものだ。

 人が亡くなるのは仕方がない。若いの早いの、なんだのと今さらのようにいってみたってもう仕方がない。今はそれよりも、女房もおふくろも、そして島ちゃんも、来年の北京オリンピックには連れて行く。いや、必ず何らかの形で島ちゃんと一緒に行きたいと思っている。いやいや、連れて行かないといっても必ずついてくるに違いないんだけれど、彼のことだから。


© Sen’ich  Hoshino’s on-line report.