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平和をたずねて:出征兵士たちの港 取材を終えて (土曜文化)

 ◇宙づりの死者、どう悼むか--日本という「世間」を超えて

 日本最大の兵士の送り出し港だった門司港に鎮魂と平和を祈る碑を建てたい。そんな元兵士らの思いが左右両すくみの構図の中で宙づりになっている現状を知り、社会面「平和をたずねて」の一シリーズとして「出征兵士たちの港」を連載した。元兵士らの記憶の襞(ひだ)に分け入り、侵略の加害性をまとう日本人戦没者の死との向き合い方を考えたのだが、その中である確信を得た。それは、加害を贖(あがな)わされた死を再び悲しまぬために、手放してはならぬものがあるということだ。【福岡賢正】

 10年前に文芸評論家の加藤典洋氏が出した『敗戦後論』がきっかけになり、哲学者の高橋哲哉氏らとの間で激しい論争が起きた。加藤氏の主張を要約するとこうなる。

 政府が15年戦争を侵略だったと認めアジア諸国に謝罪すると、必ずセットで従軍慰安婦への軍関与や虐殺はなかったと侵略性や加害性を打ち消す保守政治家の発言が続く。それは侵略、加害性を認めれば、国のため命を捧(ささ)げた「英霊」の尊厳が傷つくと恐れるからだ。このように国民の精神は侵略の犠牲になった2000万人のアジアの死者と、300万人の自国戦没者という二つの死者の間で引き裂かれ、分裂している。だからアジアの死者に日本人総体として謝罪できるようになるには、まず先に300万人の日本人戦没者の「汚れた死」を汚れたまま悼み、分裂した自己を統合しなければならない。

 これに対し高橋氏は、概略次のような反論を行った。

 自国の死者への責任を果たすとは、彼らに代わり被侵略者に償うことであり、自国の「汚れた死者」への哀悼より、まず「汚辱の記憶」を引き受け、アジアの死者に謝罪・補償することの方が優先する。構想すべきは日本国民という自己の統一ではなく、ナショナリズムを超えた民主主義、ナショナリズム無き民主主義だ、と。

 論争を読んだ時、どちらの言い分にもなるほどとうなずきながらも、両者の論点が微妙にずれ、議論がかみ合っていない印象がぬぐえなかった。

 例えば高橋氏は、軍人軍属の遺族中心に自国の戦争犠牲者の援護費は90年代初頭までに40兆円に上るのに対し、対外支払額は1兆円止まりで、個人補償は一切行われていないことを示す。そして、自国兵士の死が先で他国の死者は後という加藤氏の主張は、とっくに実現済みだと説く。

 制度的、金銭的にみればその通りだ。高橋氏の主張には非の打ち所がない。しかし、門司港への祈念碑建立を巡る現状に端的に表れたように、加藤氏が指摘する日本人の精神の分裂状況も歴然とある。つまり、金銭的、制度的には日本人戦没者は手厚く処遇されたが、心情的には、加害性を帯びたその死の位置づけはいまだ確立されておらず、魂が宙をさまよっているのではないか。

 それゆえ今回の連載では、その死の収まるべき位置を、元兵士たちの記憶を掘り起こしながら考えた。その際、常に頭にあったのは、もし自分がその場にいたら、どうしただろうかという自問だった。

 「手を挙げ、白旗揚げて降参した人たちをバンザイ組と呼んどりましてね。そんなことしたら、もう郷里に帰れない雰囲気だった」

 そんな元兵士らの話を聞き、本を読んで思ったのは、あの時代にいれば自分も間違いなく戦争に加担しただろうということだ。百%自分は組織や時流に逆らえなかった。慰安所にも通った。周りが皆やっていれば、住民虐殺や強姦(ごうかん)にも手を染めないではいられなかったろう。新聞社内にいれば、軍部に迎合した記事を書き、天皇を賛美し、愛国心をあおっていたはずだ。

 鶴見俊輔氏は《一九三一年に始まって四五年におわった戦争は、「教養人」も「非教養人」も、大学を出ているものも出ていないものも、軍国主義に屈服するという点ではほとんどちがいがないことを示した》と書く。当時の一級の知識も教養も何の防波堤にもならなかったのだ。

 自分も、大半の日本人も、今なお内と外とを画然と区切り、他者を排除した内向きの「世間」の中で波風を立てぬようけん制しあって生きている。相次ぐ薬害事件や企業不正があぶり出すのは、社会正義よりも会社や組織内の評価や秩序を優先する私たちの心性だ。似た状況になれば、再び時代の奔流に逆らえずにのみ込まれていくに違いない。

 ならば打つ手は一つしかない。私たちはそういう存在であると前提し、理念によって歯止めをかけるのである。

 ジョン・ダワー氏が『敗北を抱きしめて』で論証したように、日本国憲法は間違いなく占領軍から与えられたものだ。その平和条項は、マッカーサーが日本をスムーズに統治するために必要とした天皇制の維持とセットで憲法に盛りこまれた。天皇訴追に強硬なソ連や豪州など他の連合国を説得し、米本国政府や米国民の「天皇制を残せば日本が再び軍国主義化する」との懸念を払拭(ふっしょく)するため、交戦権と戦力の不保持をうたわざるを得なかったのだ。それを日本人は喜んで受け入れた。

 時代の奔流の中で勝ち目のない無謀な戦争に駆り出され、自分なりに戦いの意義を見いだそうとあがき死んでいった兵士らを、私は非難する気になれない。同列に論じられぬとの声も上がるだろうが、昭和天皇個人の戦争責任を問いつめたいとも思わない。ただ、あの時代に日本人を狂気の戦争に駆り立てていく上で、天皇制という制度が果たした役割の大きさは否定しようがない。だから、日本全体を他者を排除する一つの「世間」にまとめ上げる上で心的な支えとなる天皇制を日本国民が保持し続ける限り、歯止めとしての平和条項の理念も絶対に手放してはいけないと思う。

 加害の歴史と正面から向き合い、加害を贖わされた死を死なねばならなかった人々の悲しさに共感する。そして、その悲しみを繰り返さぬ方策を考える。300万人の日本人戦没者は、それを何より望んでいるはずだ。

毎日新聞 2007年11月24日 西部朝刊

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