ずいぶん若い副館長だと思って年齢をたずねると、37歳だという。北京郊外、中国人民抗日戦争記念館の一室で相対していた李宗遠(リー・ツォンユワン)氏である。館長にしても今年で47歳、私と同い年と知って少々驚いた。人民抗日戦争、日本でいう日中戦争の記録と記憶を継承し、対外的にも説明する重職に、今や30代から40代の人が就いている。
終結から62年もたてば当然とはいえ、もっと古老然とした人たちを想像していたのだが、先の中国共産党大会で50代の2人が最高指導部入りしたことを思い返せば、なるほどあちこちで世代交代は進んでいるのだった。
抗日戦争は長きにわたる日本の侵略から民族を守るための戦いであり、世界にとっては平和を実現させる戦いであった。そうした中国のいわば公式見解も、李氏はもちろん語る。それでも、こちらの問いに返ってくるのは紋切り型ばかりではない。
抗日戦に駆り出された中国民衆を実証的に跡付けることも必要ではないか――。最近の日本の研究書を例に私が聞くと、李氏はその必要性を認めて「中国でそうした研究があるのかどうか。日本で本が出ているなら、ぜひ読んでみたいですね」と語った。悪いのは日本だと一蹴(いっしゅう)するでもなく、口調に皮肉を込めるでもない。
私の念頭にあったのは、笹川裕史埼玉大教授らによる「銃後の中国社会」だった。これまであまり目が向けられてこなかった日中戦争下の中国側の総動員体制を扱い、むりやり兵士にされたり食糧を徴発されたりした農村の実態を史料で丹念に追っている。急いでつけ加えれば、日本の侵略という事実を前提に、史実としての日中戦争の全体像をかたどっていく作業だ。
記念館は、展示が2年前から少し変わっている。もっぱら共産党の戦いとして描かれてきた戦争だが、そこに蒋介石(チアン・チエシー)(しょう・かいせき)の率いる国民政府軍の説明が小ぶりながらも加えられた。李氏は小学校時代、国民政府軍は抗日戦争に消極的だったと教わったといい、「それは正しくなかった。その役割は積極的なものだったと今は評価されている」と語った。
■世代交代進む中国 記念館も新装
微妙な変化は、南京で拡張工事が進む南京大虐殺記念館をめぐってもあった。「大虐殺記念館」ではなく、「平和記念館」と改称する案が内輪で提起されていた、と複数の関係者は言う。だが、虐殺があったこと自体を否定する声が日本にあるうちはとんでもない、時期尚早だと話は流れたのだった。
新装の南京大虐殺記念館は、事件から70年となる今年12月に開館する。「反日」強化かと見られがちだが、実際には「反戦平和」の趣旨をより強調する展示になるとも聞く。南京師範大学で会った張連紅(チャン・リエンホン)教授は「互いに負の遺産をきちんと見つめ、将来に向けて平和な関係を築くことが大切で、その時は記念館の名称も変わるだろう」という。ちなみに、この大学の南京大虐殺研究センターの主任を務める張氏も、昨年40代に入ったばかりだ。
「世代交代」は中国の都市そのものにも著しい。来年の五輪開催へひた走る北京は言うまでもなく、今や700万都市となった南京でも、至るところで高層ビルの建設工事が進む。もともと水と緑の美しい古都だが、市の中心部では粉じんのせいか、歩くのにマスクが欲しいほどだった。日本企業も続々進出し、南京市の税収の3割を外資が占める。
■国際都市で戦闘 「日本の横暴」に注目
思えばまったく無謀な戦争であった。
発端は、37年7月7日に盧溝橋付近で起きた日中両軍の小競り合いに近い衝突である。今なら北京中心部から車で40分ほどのところで、人民抗日戦争記念館は橋からすぐそこにある。橋のたもとには北京五輪のマスコットの絵が壁を飾った小さな店が出来ていて、過去と未来の奇妙な同居を描いている。
だれがまず発砲したのかは、今も諸説がある。間違いないのは、そこは中国で、日本軍が夜間演習を終えた時に起きたということだ。日本は1900年の義和団事件(北清事変)に列強と介入して以来、「支那駐屯軍」を置いていた。
どだい国家の体をなしていない中国など、一撃すればひれ伏すに違いない。近代化で先んじていた日本はそう思い込んで戦線の拡大を続け、しまいに破局に向かっていった。統帥権を盾に取った軍部独走、その軍内部でさえ割れた意見、目先のことにとらわれた「点と線」の進軍――。理由はさまざまあるが、最大の要因は、中国に高まっていたナショナリズムと、国際社会の動きをいずれも見誤ったことにある。
日清、日露戦争に勝って以降、対華21カ条の要求から満州事変、そして「満州国」建設と、日本は中国で好き勝手に振る舞ってきた。「満州国」ばかりか、さらに周辺の5省を支配下に置こうと画策してもいた。日本国内にあっても日清戦争以来の中国人蔑視(べっし)がきわまった時代だ。
だれしも我慢には限度がある――とは当時の日本はあまり思わなかったらしい。遅れた人々だと日本が見下げていた中国は、しかし実はそうではなかった。各地ばらばらで地方軍閥の支配を支えていた貨幣制度ひとつ取っても、イギリスの手助けで統一し、近代化へ歩を進めていたのだ。
激しく戦っていた蒋介石の国民政府軍と共産党が、うそでも「抗日」で歩調を合わせることになった西安事件は、日中戦争が始まる前年である。国民政府による徴兵制度も始まっていた。
盧溝橋に発した戦争は上海に及んだが、中国側には国際都市での戦闘で「日本の横暴」に世界の目を向けさせる狙いがあった。すでに不戦条約もあれば中国の主権を尊重する9カ国条約もある。第1次大戦のあまりの惨禍に、世界はとにもかくにも戦争回避の流れに動いていた。だが遅れてきた帝国主義国家の日本は、どちらの条約にも入っていながら、遅れた帝国主義のまま突き進んでいった。
戦争開始時の首相は近衛文麿(このえ・ふみまろ)、国民的人気に迎えられてその座についたばかりである。だが近衛は不拡大方針だと言いながら何もできず、結局は軍部を追認しながら逆に走っていった。後年、手記にはこう書いている。
「当時かかる事件が勃発(ぼっぱつ)することは政府の人は勿論(もちろん)一向に知らず、陸軍の本省も知らず専ら出先の策謀によったものである」
「力足らずして全支は戦乱につつまれ、国民もまた故なき出師(すいし)に苦しむ結果となったのである」
出師とは出兵のことだ。「故なき」出兵――。しかも上海から南京、さらに漢口へと延びきった戦線で補給もままならずに「現地調達」となったから、行く先々で住民は悲惨な目に遭わされた。私は日本で中国戦線に行った元兵士に会い、南京では虐殺事件を生き延びた老人を訪ねたが、聞けば聞くほど地獄絵図である。だが新聞は皇軍の進撃を日々あおり立て、国民は戦果に酔った。
戦争初期には泥沼化を避けようとする動きも日本になかったわけではない。だが駐中国ドイツ大使トラウトマンを通じた和平工作といった試みは、目先の戦果と抜きがたい楽観のなかでついえていった。「国民政府を対手(あいて)とせず」と声明で叫んでしまっては、計画性も何もあったものではない。
■接近する米中 焦る日本に危うさ
日中戦争をたどると日本の無軌道ぶりに暗然とするが、その戦争を正当化するような主張も日本では絶えない。とくに政界でのそれは、今に至る日中間の火種となってきた。両国の歴史問題の中核である。
憂う一人、自民党の野田毅衆院議員は、こと対アジア、とりわけ中国については「少なくとも対華21カ条の要求からは明らかに日本の侵略的行為が前面に出ていった」と語る。日本側の言い分があったとしても、それは学問の場で検証していくことであり、政治の世界でやるべきではないという。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝で再燃した日中そして韓国を含む歴史問題は、日本軍の慰安婦問題をめぐってアメリカからも批判された安倍晋三政権を経て、福田康夫政権の今ようやく落ち着きを取り戻しているように見える。
この先はどうか。
2けた成長で台頭著しい中国は、先の共産党大会で向こう5年の新体制を整えた。アメリカでは来年の大統領選挙で向こう4年の新体制が決まる。その有力候補、民主党のヒラリー・クリントン上院議員は「米中は21世紀で最重要の二国間関係」とまで言い切った。政治の混迷が続く日本は「焦りに似たナショナリズム」(野田氏)をさらに高めることにもなりかねない。
北京や南京で私が感じた中国側のそこはかとない余裕は、単に世代交代によるものばかりではないと思える。日中戦争をめぐる認識は中国にとってゆるがせにできないものであり続けるだろうが、ことさらに言い立てようともしていない。急激な経済成長でゆがみを内に抱え、余計な刺激は避けたいことも大きいが、何より自信をつけ、何しろ忙しい。
今年、「価値観外交」という言葉が自民党のなかに出てきた。だが価値観の違う国とどうつきあうかが外交である。ナショナリズムを前面に、変わりゆく中国と世界を日本が再び見誤ることがあれば、あの戦争の教訓は何だったのかということになる。
(福田宏樹)
キーワード:9カ国条約
1922年2月、アメリカの呼びかけで開かれたワシントン会議で、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、そして日中両国の計9カ国が、中国の領土保全や政治的独立の尊重、門戸開放、機会均等などを確認して結んだ条約。武力によって中国に新たな権益を求めるようなことはしないという約束で、日本の進出を牽制(けんせい)する狙いがあると同時に、欧米の帝国主義の変化を示すものだった。
キーワード:日中戦争
1937年7月からほぼ8年間にわたった日本の中国に対する侵略戦争。現在の北京郊外で起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに全面戦争へと進み、41年にアジア・太平洋戦争に拡大したのち45年の日本のポツダム宣言受諾・無条件降伏で終わった。
この間、日本は多い時で約100万人の兵力を中国に展開した。両国の死者数は正確には分からないが、中国での日本軍の死者は累計で約45万人と見られる。中国側は1931年の満州事変から45年までを抗日戦争とし、この間の中国軍民の死傷者について「3500万人余」を政府の公式見解としている。
「満州国」をつくった日本は、その南側の華北5省からも蒋介石率いる国民党の影響を除こうと分断工作に入る一方、中国側は国民党と共産党とが「一致抗日」で内戦を停止していた。盧溝橋事件が起きると、当初は不拡大の方針だった第1次近衛内閣は軍部先行で増派を決め、中国側は徹底抗戦に入った。日本は初めは「北支事変」、のちに「支那事変」と呼び、宣戦布告をしなかったが、これは米国の中立法適用を招いて軍事物資の輸入が出来なくなるのを恐れたためだった。
8月には上海で戦闘となり、制した日本軍はさらに首都・南京に進撃して12月13日に占領したが、その前後を含めて兵士も民間人も問わない南京大虐殺事件を引き起こした。これに限らず、日本軍はこの戦争で毒ガスや細菌の使用、人体実験、性暴力など非人道的な行為を重ね、無差別爆撃もした。
国民政府は南京から重慶に首都を移して抗戦を続け、共産党の八路軍もゲリラ戦で日本軍と戦った。不戦条約や9カ国条約も顧みない日本の戦争は国際社会からも非難されたが、41年には対米英開戦へと戦線を拡大していった。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。