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海峡を越えて

土壇場、祖国から支援
韓国の支援者とウトロ住民の交流会。歌声に合わせ、自然に「輪」は生まれた(11月11日、宇治市伊勢田町・府立城南勤労者福祉会館)
 在日二世の鄭準〓(チョンチュニ)さん(68)の目に涙が光った。「『ここで暮らせる』と九十歳のオモニ(母)にやっと言える」。在日韓国・朝鮮人約二百人が暮らす宇治市伊勢田町ウトロ地区。国と京都府、宇治市が地区のまちづくり支援策を検討する協議会を設立した五日、住民らは喜びをかみしめた。
 わずか二カ月余り前、住民は強制立ち退きの危機にあった。土地を所有する不動産会社「西日本殖産」(大阪市)との交渉は買い取り額の開きが大きく、行き詰まった。強制執行で家がブルドーザーで壊される悪夢に、「眠れない」「どうするんだ」と住民の間で不安が広がった。
 だが、交渉期限前日の九月二十九日、事態は劇的に動いた。韓国の支援組織「ウトロ国際対策会議」が韓国政府から三十億ウォン(約三億六千万円)の支援策を引き出し、地区東半分を五億円で買い取ることで西日本殖産と合意したのだ。

注)〓はネ偏に「喜」

訪韓し支援呼びかけ

 転機は「戦後六十年」だった。前年の二〇〇四年九月、住民四人が訪韓し、記者会見した。祖国を離れ、ウトロで戦時中の軍用飛行場建設に働いた経緯、進む高齢化と立ち退きの恐怖…。「私たちには時間がない」。懸命な訴えは「本国が忘れていた戦後問題」と新聞が一面で取り上げた。
 四人のそばに宇治市民らの支援団体「ウトロを守る会」の田川明子さん(62)の姿があった。土地明け渡しを求めて住民が提訴された八九年、公務員や会社員、学生らと会を結成した。「戦争がなければウトロ地区は生まれなかった」と、欠かさず公判に同行した。
 守る会は米国、ドイツでも問題を訴えた。国連人権委員会や韓国政府、国内外のマスコミや市民団体、学生らに地区内を案内して回り、住民の思いを語り続けた。

寄せられた募金は6千万円

 韓国では〇五年、メディアが戦後六十年の問題として集中的に報道する。八月十五日、韓国のテレビ局は衛星中継で特別番組を組んだ。「ウトロを救え」。韓国国民が寄せた募金は十四万人から計五億ウォン(約六千万円)を超えた。
 国際対策会議の中核の人道組織「地球村同胞青年連帯」のハイ徳鎬(ペドッコ)代表(38)は、韓国政府の支援決定は「世論に加え、戦後政策を再検証していた盧武鉉(ノムヒョン)政権に代わったことも大きかった」と話す。
 十一月十一日、韓国の支援者ら五十人が地区を訪れ、住民や守る会と交流会を開いた。一人が「アリラン」を歌い始めた。たちまち百人を超える輪ができ、大合唱が響いた。ウトロに「戦後」を見た日韓市民の思いが海峡を越え、解決への扉を開いた。

<ウトロ土地問題>

 土地は近鉄伊勢田駅西側の約2.1ヘクタール。国策会社を引き継いだ日産車体から1987年に個人、西日本殖産に転売された。明け渡し訴訟は2000年に住民敗訴が確定。住民による買い取り交渉は今年9月末が最終期限だった。
二十年にわたるウトロ地区の土地問題が解決に向けて動き出した。日韓の支援を得て新たなまちづくりへ踏み出そうとする住民たちの歩みと、今後の課題を追う。(南部支社取材班)

【2007年12月6日掲載】