2.研究
最新論文 「有機農業と循環型社会について」(『香川大学経済論叢』第80巻第3号)
何ということか、話は逆転してしまった。以前の教授会報告で、「最終講義をやるかどうかは、本人の意思が尊重される」ことになり、私はやる気はないから、もうやらなくてもよいものだと思っていた。
ところが、学部長が、突然前言を翻し、「全員、やってもらうことにしたい」と言い出したのである。私は、「話が違う」と言って、一歩もひかない姿勢で反対した。教授会には緊張した空気が流れた(そうでもないか)。
ここで、突然、わが仲良しの同僚・オノレ先生が発言を求め、「是非、全員やるべきです」と主張し、私がいつまでも言い張るのが許されない状況になっていった。
というわけで、もうあきらめて、やることを了承することになったのである。
よく考えてみれば、しかたがないかなとも思うのである。
私は、定年より1年前に辞める。そういう場合に、当大学では、事前に申請があれば、自己都合退職ではなく、定年退職という扱いになった。しかし、それは退職金の計算上で、不利益にならないように、そういう処理をするだけで、定年より前に辞めることに変わりはない。
正しくいえば、不利益にならないようにというほど、大学当局は親切ではなく、「もうあなたも年なんだから、早く辞めてくれませんか」、そのためにこういう条件も用意しましたから、というところが当局の本音だろう。
だから、それなら、定年前に辞める人間は、従来通り最終講義はやらないでいいではないかと私は主張したのである。そして、その主張には一定の根拠はあった。しかし、そうなると、通常の定年をむかえる人達も、最終講義はやりにくくなる。最終講義は、最終講義実行委員会ができて、準備を教職員がやることになっているから、やらない人がいたら、誰もが「それでは自分も他人に迷惑をかけられない」と思って、止めざるを得なくなるからである。
経済学部の執行部はそう考えて、前の方針を変更したのだろう。もちろん、私以外にも最終講義などやりたくないという人もいるかもしれないが、そうしたら、全員事実上できなくなる。とすれば、安井が何を主張しようが、「全員やってもらう」という方針を出さないといけなかったのだろう。
というわけで、せっかちな私は、それならどうしようかなと考えるのである。要するに、やるのは、たぶん2009年の1月だろうが、その内容をいまから考えてみるというのが、私の私らしいところである。
あれほどいやだ!いやだ!と言い張っていたが、やらざるを得ないというなら、どうしようかとすぐ考えるのである。よく言えば、柔軟性のある生き方なんだが、人からは「すぐ豹変する、だから、ついていけない」と言われる所以である。
最終講義の難しいところそこで、こうしよう。最終講義というのは、通常の講義の最後にやるから、最終講義なのだが、多くの教員は、その講義から離れて、自分の研究してきたことを総括的に述べるというやり方を取る。
そうすると、前の授業で、試験のことまで話しておかねばならない。試験のことを聞いてしまえば、もうその授業は学生にとっては意味がない。だから、どうしても学生がどこまで集まるかという問題が起こる。そうすると、最終講義実行委員会のメンバーは、人集めなどということを気にしなければならなくなる。
こんなことに時間をかける位なら、各自研究していた方がいいというのが私の意見であった。
そこで、どこかで、授業を履修している学生が最終講義も聞かないと、試験の解答が難しくなるというようにしておかねばならない。しかし、通常の授業をやったのでは、最終講義にはならなくなる。最終講義というと、少数といえども(先生方も含めて)、通常の授業を履修していない人も集まるからである。
最終講義のテーマは、「研究者としての自分史」とすることにしよう、と。
ちょっと待て、最終講義は、まだまだ先の話だった。今年の「アジア経済論」すらまだ終わっていなかったんだ!