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2007-10-22

当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。

なんだか妖しげな?タイトルですね。(笑)

今日は、マイミク(←はてなダイアリー上で、こう書くのはへんな感じだが^^;)の裕美さんが昨夜アップされたフェミニズムのお話が非常に興味深く面白く、許可をいただいたので、こちらに転載させていただきます。


全文掲載させて欲しいとお願いしたら、裕美さんはまだ未整理段階だからせめて引用程度にしてほしいとのことでした。

で、引用しようと思ったのですが、例えば学術的な部分だけ引用すれば、それはわざわざここでアップしなくても、学術書を読めばことたりることであり、私がここで読み手に向ってしたいのは、そういうことじゃなく、とりあえず選択肢が多様にある現代社会で、現代の女性自由意志で?選んで生きて行く上で、それぞれの現場で対峙する困りごと、そこから生まれる肉声みたいな、そういう息づかい、息吹や共鳴共感を読み手に感じ取っていただきたいのが本望で、そうすると結局、引用というか、ほぼ全文に近い転載になり、裕美さん、申し訳ありません、そして引用の許可をありがとうございます。


また裕美さんの日記では本来は「男と暮らすフェミ、で気づいたこと」というタイトルなのですが、私は文中にあった「当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。」という裕美さんの肉声がなんともフェミニストの裕美さんらしかったので、そこを切り取って私の今日エントリタイトルにさせていただきました。


さて、では先日のエントリでも登場された裕美さんが、学会発表も終えほっとされたところでしたためられた文を以下に掲載させていただきます。

*************************************************************

(途中から引用

作業をしながら同時平行で、若いマイミクさんの日記でかなり仰天した、ということがあり、それは前の結婚話でも、「???」ではあったのだけど、北原みのりも、大学時代フェミって女性ががんばって自立して働くこと、みたいなイメージがあったと言っていたことに結構衝撃で、そんなメッセージ全然送っているつもりがないのにどうしてそんなステレオタイプ?北原さんまで?と、思ったのだが、フェミを自称する人の中でも、世間の「いわゆるフェミニスト」像が内面化されているのに、いまさらながら驚いた。(ていうか秀才タイプのT女子大の風潮なのかな?赤松良子以来?らいてうや塩沢美代子のN女子大ではあまりないんだよな、まったりしていて。そういうフェミニスト像とは反対。ま、それはあまり関係ないかな。余談)



むかし、強者フェミのトピックでフェミコミュに書いた違和感、本当に、全く違うものが、横行しているのではないかと思い、どうしてそうなんだろうと思った。ウーマンリブの頃から、世間のリブ像と実態はずれてることはずっとそうなのだが。




今回、改めてなぜそうなのかをなんとなく発見した。

私にとっては、リベラルフェミ(上野さんはリベラルをいれずに社会主義フェミを入れるが)、ラジカルフェミ、マルフェミ*1資本主義的家父長制分析、ただしそれを同じものとする一元論と別に考える二元論がある)というフェミの流れをフェミニズム常識だと思っていた。別に上野さんに教わったわけではなく、最初からそう思っていて彼女が言うからそれがフェミの定番、スタンダードだと思っていたのである。私が面白くて読む下部構造フェミはたいていそれだし。だから、私が子どもを生んで働き続け、パートの問題に取り組むのは全くフェミの教科書どおりだと思ってきた。どうしてそういう人が少なすぎるのか、全く理解の外だった。フェミ栄えてフェミニストなし?教科書書く人のほうが、読んで生活に生かす人より多いんだろうか?そんなことってあるのかなあと、全く今日まで不思議だった。



マルフェミはパート問題と、再生労働労働現場男女差別、これだよ、これしかないと思うわけ。一生懸命仕事するとか全然フェミじゃないし。男も女もないただの能力主義



ミースは、賃労働オルタナティブを実践として提案するけど、私としてはそれじゃあ生活クラブ主婦、産業社会依存し男社会で余計に稼ぐ男におんぶしてのオルタナティブなっちゃうだろうと思っているわけです(夫の働き方を問うべき)。



これは私にとって20代のときから(すなわち20年前から)自明のことだった。



スウェーデンは、まるでマルフェミの国ぐるみ実践例だと私には思える。このメイド論争がまったくいい例だ。家事サービス市場化は女性にとっては普通朗報だと思うだろう。女性解放関係ない、むしろ女女間格差の可視化と、安い労働の創出による階級社会の強化、さらにジェンダー固定化いう理論はマルフェミでしかない。「脱商品化」de-commodification問題だから。



私が見つけたルンド大学修論も、そんな整理をしていた。「社会主義ラジカルフェミ」と呼んでいたけど、一応マルクス主義フェミニズムを踏襲していると。

今回家事サービス税金の控除を出してきた右派の女エコノミストも、一応フェミなんだろうけど、どういう理論なのかと考えたときに、私が、スウェーデンの中でも右派的なビジネススクールで習ったフェミを思い出して、ヨンショピン大学での講義パワーポイントのハンドアウトを引っ張り出してきました。

そこは私の理解とは全く違うセオリーになってました。




1経験主義フェミ、2スタンドポイントセオリー、3構築主義理論と続くのです。

これにはケアだの、産む性だの出てこないのです。1は本質主義男と女は同じだという本質主義。2も本質主義だけど男と女は違うという本質主義。マルフェミやラジカルフェミも入るらしいが、女性が周辺化されるという理論らしい。3は構築主義、本質主義ではなくジェンダーは可変である。いわゆるパフォーマビリティとかいうやつかな。




貼っとくか。レジメにも載せた。

1.フェミニズム経験主義

    リベラルフェミニズムから

    ジェンダーを問題にしない

    男女とも平等

    女性研究を付け加える

    差別や構造の存在を通して男性の従属性を説明する

2.立場理論

   ジェンダーの視点において本質主義者、ただ男女を違うものと見る

   いくつか異なる伝統がある

スタンドポイントフェミニズムマルクス主義理論

社会フェミニズム理論(USA)

ラディカルフミニズム

精神分析フェミニズムラカンフランス

   女性の従属を女性の考え方や振舞い方が周辺化されるためだと説明

3.構築主義理

     ジェンダーにおいて本質主義を採らない。

     男女は、ジェンダー特有の性格を持つ(社会的な特徴)

     しかし、性質は現実には構築され、学習しようとする

     女性の従属は男性性や女性性の構築によってあるいはジェンダープロセスによって説明する。

              (Helene J Ahl ヨンションピン大学

これ自身は分かりやすい話ではあります。そして、女性起業家(一応企業精神メインにしたビジネススクールだったから)のジェンダー的形容とか、水平的職務分離とか垂直的職務分離とか。ガラス天井とか、女性の権利を獲得した歴史とか、そういうのも分かりやすい。ただ、ケアとか、再生産とか、育児とか全く出てこない。言及部分は、再生産としての下半身でも下部構造でもなく、上部構造なんです。(なぜか敬体で書いてしまったが直すの面倒なので混在して変だがそのまま。)

ということで、どうも違うフェミもあるらしい(今頃気づく?)。

これはアメリカのフェミかな?もちろん、スウェーデンには右翼もいるのでこういうフェミニストもいるのだろう。

そして多くの人(スウェーデンでも半分くらい、多くの国はほとんど)はこれをフェミだと思っているのかもしれない、とはた、と思った。



つまり女だという差別、を表象として捕らえる。だから独身でいることとか、子どもを持たないのがフェミだと全く逆さに考えているようにみえる。




フェミニストだと自称する人で、労働現場を女仕様に変えようとか、パートの均等待遇とか、フェミの問題として闘っている人が意外にいないのはかねてからの不思議だが(そして逆にそういう活動家はフェミと一線を画しているようなのもまた不思議だった)、それがフェミの第1級の課題だと全く思っていないからなのだろう。




私のは実はフェミという一般名詞ではなく、マルフェミという固有名詞でしかないのだった。そしてそういうフェミは上野さんのような優れたアジテーターを擁しているのにもかかわらず(がゆえか)思いのほか普及していないのであった。

はあ、そういうことか。私の「思想仲間」は日本には(教科書を書く人しか)いなくて、スウェーデンにいるのか。





事実婚の普及、産まない自由と「産む自由」(シングルマザーへの保障、子ども手当て)、均等待遇の短時間労働保育園の普及、男性育児家事参加、女性の9割は出産、この路線。

それが、男女賃金格差の少なさ、政治家女性比率(5割弱、日本は2割弱)、女性労働力率の高さ(80%)を達成している。


スウェーデンにこだわっている私の理由は明快である。はかからずも、労働組合を通して変えようとした私の思うフェミニズム日本では失敗)を実際実践した国だからだ。日本では失敗したので、もう手本にも何もならないとは思うけど。

この国が世界一男女平等な国になっているのだから、私の(フェミ戦略の)正しさはやっぱり証明されていると思えるのだが・・・。

スウェーデンの主流フェミ(?)は自力、とか誰もいわないとおもう。心がまえとしては男女に限らず当たり前のことでもあるし、ことさら言うのも本当は変で。

自力って言うのは基本的にない。生まれてから、何を食べさせてもらい、どんな教育を受けさせてもらえたかによって現在のがんばれる自分はできているわけで、たった一人で生きてきた人はいない。結局資産(親)のあることや環境によって、はじめて、自分でなんとかする、とかいえるわけで、最初からそれは不平等なので、そういうことがすべての人に保障される社会システムをつくることでしか、自力というのは、存在しない。




不平等を具体的に是正しないのに個人のがんばりということだけ言うのは右派思想だ。

「私的な解決から、公的な責任へ」それがスウェーデンのこれまでのフェミニズム

組合を変え、圧力をかけ、社民党投票し、政府に援助させ、支援させ、女性総体でそれを勝ち取る。

スカンジナビアフェミニズム国家論は、女性プライベート依存からパブリック依存に動いたとよく主張される。・・・スウェーデンデンマークのような国では女性たちは公務員や、社会サービス消費者として国家に頼る。一方アメリカイギリスでは、庇護を受ける者として頼るのである。

 スウェーデンでは、女性の多数は、労働組合関係の深い社民党を支持してきた。したがって、スウェーデンでの平等戦略は、女性たちは労働者グループとして扱われる利益組織化されたシステムを通して、遂行されてきた。英米などの他の国では、平等戦略女性たちが個人として扱われるシステムを通して主に遂行されたのだ。

15,18 Mosesdottier, Lilja, 2001, The interplay between gender, market, and state in Swedem, Germany, and United States, Ashgate Publishing Limited. より

**


考えてみるとフェミニスト党の失敗や分裂は、この辺の問題があったかもしれない。彼女たちは左右を問わず、といったが、スウェーデンでは右と左は妥協できなく存在するから。それプラス、セクマイや独身者という、伝統的なマイノリティと、子どもや男と生きるが、性差別をなくしたいマジョリティ日本では最も少数派)の利害も少し対立するということがあったんだろうなあと思う。そう考えると、マイノリティとして生きようとするフェミと、マジョリティを変えようとするフェミの分岐、というか、そういう問題の表れと考えることもできるかもしれない。




実際スウェーデンのフェミがフェミならこれはあまりにも退屈すぎる、と思う人はいる気がする。

それは優れてフェミの今日的問題でもある、まあフェミニスト党は実際失敗したので、ネガティブな話ではあるが。



結局このようなフェミが受け入れられる余地はこの極東の島国にはなさそうなので、私は当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。私の頭の中で夢想することが実際起こっている場所なのだから。

結局私の言っているのは、フェミニスト左翼であるべきだということに見えるかなあ。でも左翼が先にあるのではなく、正しくフェミニストであろうとすると左翼社会民主主義)になるということだと私は思うけど。

事実そうだし・・・。


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以上、裕美さんの日記より転載させていただきました。


裕美さんはコメント欄でも続けて、

女が男並みに働くことをフェミニズムは標榜した訳ではない。

と続けておられる。

(女が)男並になるってなーーーんも魅力がない。

もしフェミがそういう思想なら女を永遠に疎外し続ける抑圧思想だ。

スウェーデンも70年代の労働省の文書の中で、「女が仕事をするということは、男に成りすますこと以上のもの」、と言っている。


らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。

人である女、であるのは当たり前だけど、真の女っていうのは、男の目から形成される女ではなく、女にとって当たり前の、男の価値観と違うところですっくと出来上がる「本当の」女。


本質主義にみえるだろうけど。子どもを産む機能を持つことはパフォーマビリティじゃ説明できない女だけの経験だ。(「よき母親」とかいうのはパフォーマビリティの問題だと思うが)そしてそれを女が避ければ人類連続の基礎はないのである(もしたった今から全女類が、ひとりも子どもを産まなくなるだけで人類は必ず絶滅する)。

これを周辺化するということは、どう考えても不自然かつ間違っていることに決まっている。

これが女性抑圧の原因になっているのならその抑圧は明らかなる間違いである。

水曜に、スウェーデン日本ワークライフバランスのシンポに行ったけど、男女平等オンブズの40代くらいのスウェーデン男性が、多くのスウェーデン男性ジェンダーに対して男性が何もしないという過ちを犯しいている、男性男性に対して言っていくことが重要だと主張し、「スウェーデンの中にもある構造的ジェンダーレジメに書いてあった)ってなんですか」という会場からの(私もした)質問に、東京迷子になってしまった、男は人にものを聞くものではないというジェンダーのせいだと思う、そういう風にジェンダースウェーデン人の中にもある、そのせいで不幸になっているから変えていかなきゃいけない、と言っていた。スウェーデンのフェミは、別に社会だけ変えれば、それでことたれり、という思想でもない。男女個人の不断の努力と両方。

以上、裕美さんの日記コメント欄より引用抜粋させていただきました。

あらためてありがとうございます。


女性が生きている現場で(例えば「そんなに女性女性といわなければいけないほど私は自分が女性だと意識して生きていない」という人は、たまたま運良く無風地帯で生きて来れただけかもしれないし、まだ「女性だから」という理由で社会のなにがしかの現場で不条理な負荷を背負わされたり、疎外される経験をしていないだけのことでは?と私は思う)悩むこと、考えさせられること、疑問に思うこと、たくさんあると思う。


私がフェミニズムに出会って面白かったのは、自分がいったい社会のどういう構造の中に位置するのか生まれて初めてマッピングできた気さえしたことだった。

ほとんど無意識的に選択して来たことさえも「従来のスタンダート」「親や社会が私に求める規範」というイデオロギーイデオロギーとも気づかずに内面化し服従して来ただけだったことに気づけたことである。


フェミニズムを知っても、何も目からウロコが落ちなかったという人は、きっと最初から最後まで平穏無事に、ある意味しあわせに暮らすのだろうとも思う。

私は例え、自分が多少苦しくなっても、今まで言語化されなかった「ある現場の、ある種の息苦しさ」がなんだったのか、それが分っただけでもよかったと思っている。私にとってフェミニズムとは「女がこの社会で無自覚に生きないこと」「真の女たることの追求」そのものだと思っている。

だって女に生まれたからには、どうしてもそれは、まず無視できないことだから。

それは自分が「女であるからという理由では屈服しない・したくない」という意思表示、「スタンダード規範」を無自覚にイデオロギッシュに内面化した人や周囲への意思表示(自分にとっての最後の砦)でもある。



最後にここはもう一度、掲載しておきたいところ。

らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。


人である女、であるのは当たり前だけど、真の女っていうのは、男の目から形成される女ではなく、女にとって当たり前の、男の価値観と違うところですっくと出来上がる「本当の」女。


本質主義にみえるだろうけど。子どもを産む機能を持つことはパフォーマビリティじゃ説明できない女だけの経験だ。(「よき母親」とかいうのはパフォーマビリティの問題だと思うが)そしてそれを女が避ければ人類連続の基礎はないのである(もしたった今から全女類が、ひとりも子どもを産まなくなるだけで人類は必ず絶滅する)。


これを周辺化するということは、どう考えても不自然かつ間違っていることに決まっている。


これが女性抑圧の原因になっているのならその抑圧は明らかなる間違いである。

*1:マルフェミ=マルクス主義フェミニズムの略

浜Q浜Q 2007/10/24 12:29 えこまさん、ご無沙汰してます。どうもフェミというと反応してしまいます。(笑)本来はmixiでコメントさせていただくべきところですが、あいにくマシン環境が悪くmixiにログインできないので、こちらにコメントさせていただきます。
裕美さんのおっしゃるマル・フェミは、わたしには新鮮でした。というのも、わたしが学生時代に馴染んで半ば信奉していたフェミは、ボーヴォワール女史が唱えた、男性が占有する社会的な権利を女性も手にしたいという、「奪権主義」のフェミなものですから。
このあたりのところは、内田樹教授の「疲れすぎて眠れぬ夜に」p.59で述べられている通り。
以下引用--->ボーヴォワールが主張しているのは、平たく言ってしまうと、「男の持っているものを女性も持ちたい」ということでした。権力と社会的地位と高い賃金。
---<
内田教授は、これら男性が占有しているように見える、社会的なリソースを公平に分配する限り、必ず「分配されるものには価値がある」ということを前提とせねばならないが、はたして社会的リソースにそれほど価値があるのだろうか、男性は価値を認めているのだろうか、と疑問を呈されます。
じつは、ボーヴォワールが主張したフェミニとって、この点がアキレス腱であり、彼女は論争の渦中、「価値を認め」たため、以後「エリティスト(選民思想主義者)」というありがたくないレッテルを貼られたのですが。。。
内田教授は、おっしゃいます。
--->問題は、男たち自身は、「そんなもの」にほんとうはたいした価値があるとは思っていないことです。
だから、「そんなこと」のためにはそれほどがんばらないのです。
(中略)
(めざましいサクセスを遂げてしまうことがあるが、)欲しがると手に入らない。欲しがらないと向こうからやって来る。そのことを男たちは何となく知っているのです。---<
反対に、女性でサクセスする人も居るが、彼女達は例外なく「まじめ」であり、自分の地位を「いかに精神刻苦努力して勝ち取ったか」語る、とも。
わたしが学生時代に標榜していた、ボーヴォワールが主張していたフェミは、或る意味、マル・フェミとは真逆の立場にあるけれど、どちらも「それってそんなに価値のあるものなの」というものを目指していたように感じられます。
文化的な「男らしさ」「女らしさ」を大切に、限りある生を燃やすことに、近頃大きな魅力を感じ...
その意味で、「らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。」に共感を覚えます。

えこまえこま 2007/10/25 16:59 浜Qさん、コメントありがとうございます。

>わたしが学生時代に標榜していた、ボーヴォワールが主張していたフェミは、或る意味、マル・フェミとは真逆の立場にあるけれど、どちらも「それってそんなに価値のあるものなの」というものを目指していたように感じられます。
文化的な「男らしさ」「女らしさ」を大切に、限りある生を燃やすことに、近頃大きな魅力を感じ...その意味で、「らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。」に共感を覚えます。



私も現在の浜Qさんの心境にシンパシーを感じます。
フェミニズムって、どうあがいても?言ってること正しいんですよ。すばらしいし。
正しいんだけど主張する態度や表現がベタだと、こうも他者や仲間からまではじかれるのかと、つくづく私は自称&他称運動家を(特に無理をしてきたことを自負する方)を見ていて思う。
自分のやり方がベタだと気づいたらどうして、そのやり方を変えようとしないのか、自分と同じように無理をする人の存在や登場を望むのか不思議だけど(つまり私だけが苦役を背負ったという認識とアナウンスは、運動の結果が成功していない限り、残酷だがほとんど無益だと思うのだが)私は何も運動はしないからあえて言わない。言わないし、「なんで私と同じように煮え湯を飲まされた上で、活動しない、運動しない」とにじりよられると「引く」ことしかできない。(こんな簡単な構造がどうして理解できないのかな?誰だって正しさの追求よりも、人間として豊かな心情になる、幸せになるほうを望むものだ)

フェミニズムもフェミニストも正しい。
だけど「正しさだけでは決して豊かには生きられない」。


浜Qさんも私も結局、結婚や子育てを通して「女として豊かに生きる」ことを選んだ人間だと思います。
(それが無理をしてきた運動家には、はがゆく映るのも知っています)


だけど私は神経をすり減らして正しさ主張するりも
ゆるやかにたおやかに流れに身を任せて生きる方を選んだ。
「ごめんね。ありがとう。」とだけ無理をしてきた活動家には心の中で思っておこうと思ってます。
だってやっぱり私は尖ったフェミニストもフェミニズムも大切に思っているから。

裕美裕美 2007/11/01 15:42 浜Qさん、お久しぶりです。お元気なようでうれしいです!

前も言ったかも、私は教養がなく、ボーボワールを知りません。いまだかつてそういうものをフェミニズムだと思ったことがないと思います。優秀な人たちほど、男並みフェミ(??)に取り込まれてしまい、無駄なつらい思いをしているようで、悲しいです。

らいてうの母校のへたれ女子大では、男並女子がいなかったせいか、あまりそういう思想がなかったです。

男と違う扱いをされて怒るのはフェミじゃなく、それは差別への怒りだと思うな。黄色人扱いされたり、田舎もの扱いされたりというのに怒るのとまったく同じ、別にフェミとなづけたり、呼ぶほどのものでもなく、単なる人間として誇りある人の普通の正当な怒りというべきもの。普通の人権とか近代思想とかいうもの。東京の人は田舎者とは言われないように、男は女の癖にといわれないだけ。(でも他のいわれ方はするだろう、次男の癖にとか、私大卒の癖にとか??、いくらでもそういうのはある)

「なんで私と同じように煮え湯を飲まされた上で、活動しない、運動しない」

これはでも、言われると引くけど、同じことを地域の女性たちに言っていることってない?
「何?これ、女がこんな風なんて、不当で、屈辱。どうしてそこに甘んじてるの?」てそういうことはなんだかおたがいさまにありそうな気がする。

でも引いても、引かれても、何でも思ったことやればいいと思う。やった人とはやらない人より絶対に面白いに決まっているのだと思うから。

神経をすり減らして正しさ主張することが、思いもかけない出会いを重ねて、心豊かな経験や刺激的な交流を沢山積み重ねることでもあったりすると思う。女として豊かに生きることは一通りではないと思えます。

自分は豊かで幸せだと思っても他の人からはおろかで差別の再生産だと思える状態だってある。なんて馬鹿で、つまらないっと思っても、本人は幸せだと、心底思ってることだってあって、それはなんだか言い合っても仕方がなく、そう思わせる大きな状況や構造についていろいろ考える方が面白い気がします。

浜Q浜Q 2007/11/09 13:24 えこまさん、返信ありがとうございます。遅レスをお許しください。

>フェミニズムって、どうあがいても?言ってること正しいんですよ。すばらしいし。

そうなんです。正しいし、すばらしいし、若い頃はとにかく魅力的に感じられて、フェミニズムの思想に引き付けられてました。
自分が企業で総合職として努力し勉学し、キャリアアップすることが女性解放なんだ、という使命感、一種の陶酔感すら感じられて。そんな頑張る自分に自己満足してたのも、否定できません。

いわゆる運動家ではないけれど、自分はフェミニズムの先端を行っているんだと言う自負みたいなものもありました。
深夜労働や残業・出張による過労、夏場でもクーラーの効いた職場環境が女性としてのからだに負担をかけていることにはあまり配慮せず...
二十代後半にその重大さに気づくことができて、マイペースで豊かな日常生活を送るよう、流されて軌道修正ができたのは、ラッキーでした。個人的に見ると人生は長いようで短いですから。

女性解放・フェミニズムの運動家らしき人々とは学生時代には接点がありました。運動家たちの正しさを主張するあまり「熱い闘志みなぎる」様子には正直、不快感が先立ち、腰が引けていたのは確かです。わたしは生来、「快」と「正義」を比較すると「快」の方を選択してしまう「へたれ」なもので。

ただし、妻・母・嫁であるわたし、つまり一時代前なら、家事・育児・介護・親戚付き合い・地域活動など「雪かき仕事」に忙殺されるはずの者が、こうして会社勤めをしながら子育てし、「まったりと」「マイペースに」日常生活をある程度余裕をもって送ることができるのも女性解放・フェミニズムの運動家のおかげだ、と感謝してます。(いわゆる封建的な家父長社会構造から生じる、「しがらみ」のようなものから開放され、自由を謳歌することができるわけで。)
社会構造のせいで不自由な生活を強いられていた、先人の女性運動家たちが、開放を目指して頑張り、流した、血と汗と涙についても、思いを馳せてみたり。


>だけど私は神経をすり減らして正しさ主張するりも
>ゆるやかにたおやかに流れに身を任せて生きる方を選んだ。
>「ごめんね。ありがとう。」とだけ無理をしてきた活動家には心の中で思っておこうと思ってます。
だってやっぱり私は尖ったフェミニストもフェミニズムも大切に思っているから。

まったく、共感いたします。

浜Q浜Q 2007/11/09 13:24 裕美さん、本当にお久しぶりです。返信ありがとうございます。

運動家としてだけでなく平行して家庭を持ち仕事をされており、現在は学究生活とたぶん実際の運動の方も継続してパワフルに活躍されている、志高き点に、やはり尊敬と感謝を感じます。
実際にお会いしたことはありませんが、人情篤く、姉御肌なお人柄もなんとなく伝わってきますし。

>男と違う扱いをされて怒るのはフェミじゃなく、それは差別への怒りだと思うな。黄色人扱いされたり、田舎もの扱いされたりというのに怒るのとまったく同じ、別にフェミとなづけたり、呼ぶほどのものでもなく、単なる人間として誇りある人の普通の正当な怒りというべきもの。普通の人権とか近代思想とかいうもの。東京の人は田舎者とは言われないように、男は女の癖にといわれないだけ。(でも他のいわれ方はするだろう、次男の癖にとか、私大卒の癖にとか??、いくらでもそういうのはある)

たしかに、「差別意識」は貧富、人種、男女、学歴、社会的な階層、思想、宗教、趣味など、多岐に渡って存在するので、男女差別はその中の一部分に過ぎないかもしれません。

>でも引いても、引かれても、何でも思ったことやればいいと思う。やった人とはやらない人より絶対に面白いに決まっているのだと思うから。

>神経をすり減らして正しさ主張することが、思いもかけない出会いを重ねて、心豊かな経験や刺激的な交流を沢山積み重ねることでもあったりすると思う。女として豊かに生きることは一通りではないと思えます。

主体的に生きる、ということは、誰がなんと言おうと自分の思う存分生きることでしょうね。裕美さんはたぶん、迷わずマルフェミに絞り込んで主体的に生きられ、命を燃やし続けてらっしゃる。わたしは若い頃から迷いが多く、「正義」よりも、自分の感じる「快」に流されやすかった。だからわたしは裕美さんに、人情篤き姉御肌が感じられるんだと。同性のために一肌も二肌も?脱いでくださってるような。
愛他精神で主体的に生きる裕美さんの人生を、他人のわたしがとやかく批判できるようなことではないです。

裕美さんとはmixiでも交流させていただきました。あのとき、たしか裕美さんがミースを研究され、ミースト実際に交流をもたれてたと思いますが、ミースが着目した、「祈り」「癒し」「魔女」といった、女性が男性に比較して強く持っている、無意識の潜在能力について、わたしに啓蒙してくださった覚えがあります。

女性のからだの過渡期にあるわたしにとっては、新たな自分が生まれるとしたら、ミースが着目した、「祈り」「癒し」の潜在能力を活かす方面ではないかと。今までの「自愛」から「愛他」へと、自分の中では流れが変わっているような気がしてます。またmixiで復活できたらいいのですが、その頃は北欧に渡ってらっしゃるでしょうか。

浜Q浜Q 2007/11/09 17:18 えこまさん、長文書き込みをお許しください。

内田樹先生が「(日本社会での)フェミニズムの終焉」を指摘されました。日本にフェミニズムが根付かなかった背景には、「『女性性』の文化」というか、「女性(母性?)尊重」が日本社会に根強くはびこっているような気がします。
その母性尊重について、まだ若かった頃は嫌悪感を抱いてました。
日本社会のシステム全体の崩壊が声高に警鐘を鳴らされているのに、かろうじて日本社会が保持されているのは、もしかしたら「母性尊重」のおかげだったのではないか、という直感も有り...

「奪還論」のフェミは女性の男性化を唱え、マルフェミが男女の中性化を唱えていたように見えるわたしには、日本社会の「女性性尊重の文化」のおかげなのではないか、と直感的に思われます。

女性性は男性性に優る、男性は女性に敵わないのか、とも。

eco1eco1 2007/12/06 09:46 浜Qさん

お返事をしようと思いつつ、こんなに遅くなってすみません。


>わたしは生来、「快」と「正義」を比較すると「快」の方を選択してしまう
>ただし、妻・母・嫁であるわたし、つまり一時代前なら、家事・育児・介護・親戚付き合い・地域活動など「雪かき仕事」に忙殺されるはずの者が、こうして会社勤めをしながら子育てし、「まったりと」「マイペースに」日常生活をある程度余裕をもって送ることができるのも女性解放・フェミニズムの運動家のおかげだ、と感謝してます。(いわゆる封建的な家父長社会構造から生じる、「しがらみ」のようなものから開放され、自由を謳歌することができるわけで。)
>社会構造のせいで不自由な生活を強いられていた、先人の女性運動家たちが、開放を目指して頑張り、流した、血と汗と涙についても、思いを馳せてみたり。

すごく共感します。同じ感覚です。


>「奪還論」のフェミは女性の男性化を唱え、マルフェミが男女の中性化を唱えていた

なるほど、

>日本社会の「女性性尊重の文化」

ここはちょっときわどさも感じます。
というのも、古い集落や旧価値観を内包している世代の人ほどそういう美名?の名のもとに女性をまだまだ自分達にとって功利的な存在であるように(ほぼ無意識的に)束縛しようとする気配があります(無意識だからタチが悪いです)。うちの集落でも今だに婦人会を解体したことをネチネチと言っている年配の女性男性が少なからずいます。歳がいってもクチだけは元気、手は貸さないがクチは出す高齢者が増え、それらを少ない若者で支える人口構造の地域社会は大変です。日本全体の近未来の姿は、地方のあちこちではすでに顕現しています。

婦人会在籍者のみに課せられていた会館掃除義務(だいたい婦人会は、年に2回しか会館を使っておらず、ほとんど男性の寄り合いに使用されているのに)が、解体後は、村全体で一軒に1人、男女のどちらでもよいので掃除の人足にでるルールに改められたことや、村のイベントの炊き出しなど、いわゆるイベント時に簡易に動員できる女性役割組織がなくなったことの不便を愚痴る年配者もいまだにいます。でも病弱の妻の替わりに掃除や炊き出しび協力に参加しやすくなっという男性も出て来て、だんだん古い土地の常識や固定観念も風通しのよいものに変わりつつあります。「ジェンダーバイアスにとらわれず、出来る人が出来ることをやればよい」という柔軟な意識を集落全体で育むことが、旧集落が今後生き延びていけるコツだと思いっています。(女性役割を男性がとって替わってすることを、今だに「みっともない」とか「かわいそう」とか外野がうるさい風潮が残っている土地なので....)

それにしても、有名女子大出身で総合職を経験し、結婚してからも都市部在住の浜Qさんと全然違う環境・条件下に生きている私とが、なぜ共感できる事が多いのか考えてみました。


子持ちであり母である、ただそれだけではこれほど共感できる要素が重なることはないはずで...。
それは、浜Qさんも私も都市部の暮らしと田舎の暮らし、ライフスタイルや価値観の違いなど両方を知っていること、違いを経験で知っているからではないかと思えます。

歴史的日本の女性役割として女性を拘束させる枷、そして、奪還論的な女性解放とひきかえに、外で活躍し始めた女性の生活が、都化近代化に過剰順応しすぎると(仕事もできる上で、男目線にも耐えうるいい女であろうとする負担と困難も入っていると思いますが)、今度はかえって女性の身体性を損ない、女性としての負担と困難が更に増大してゆくこと、では女性の身体性の回復や快は?と、様々なことを苦労と回復を経験で味わってきたからこそではないか、と思いを馳せています。

ゲスト

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