2007-10-22
■当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。
今日は、マイミク(←はてなダイアリー上で、こう書くのはへんな感じだが^^;)の裕美さんが昨夜アップされたフェミニズムのお話が非常に興味深く面白く、許可をいただいたので、こちらに転載させていただきます。
全文掲載させて欲しいとお願いしたら、裕美さんはまだ未整理段階だからせめて引用程度にしてほしいとのことでした。
で、引用しようと思ったのですが、例えば学術的な部分だけ引用すれば、それはわざわざここでアップしなくても、学術書を読めばことたりることであり、私がここで読み手に向ってしたいのは、そういうことじゃなく、とりあえず選択肢が多様にある現代社会で、現代の女性が自由意志で?選んで生きて行く上で、それぞれの現場で対峙する困りごと、そこから生まれる肉声みたいな、そういう息づかい、息吹や共鳴共感を読み手に感じ取っていただきたいのが本望で、そうすると結局、引用というか、ほぼ全文に近い転載になり、裕美さん、申し訳ありません、そして引用の許可をありがとうございます。
また裕美さんの日記では本来は「男と暮らすフェミ、で気づいたこと」というタイトルなのですが、私は文中にあった「当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。」という裕美さんの肉声がなんともフェミニストの裕美さんらしかったので、そこを切り取って私の今日のエントリのタイトルにさせていただきました。
さて、では先日のエントリでも登場された裕美さんが、学会の発表も終えほっとされたところでしたためられた文を以下に掲載させていただきます。
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(途中から引用)
作業をしながら同時平行で、若いマイミクさんの日記でかなり仰天した、ということがあり、それは前の結婚話でも、「???」ではあったのだけど、北原みのりも、大学時代フェミって女性ががんばって自立して働くこと、みたいなイメージがあったと言っていたことに結構衝撃で、そんなメッセージ全然送っているつもりがないのにどうしてそんなステレオタイプ?北原さんまで?と、思ったのだが、フェミを自称する人の中でも、世間の「いわゆるフェミニスト」像が内面化されているのに、いまさらながら驚いた。(ていうか秀才タイプのT女子大の風潮なのかな?赤松良子以来?らいてうや塩沢美代子のN女子大ではあまりないんだよな、まったりしていて。そういうフェミニスト像とは反対。ま、それはあまり関係ないかな。余談)
むかし、強者フェミのトピックでフェミコミュに書いた違和感、本当に、全く違うものが、横行しているのではないかと思い、どうしてそうなんだろうと思った。ウーマンリブの頃から、世間のリブ像と実態はずれてることはずっとそうなのだが。
今回、改めてなぜそうなのかをなんとなく発見した。
私にとっては、リベラルフェミ(上野さんはリベラルをいれずに社会主義フェミを入れるが)、ラジカルフェミ、マルフェミ*1(資本主義的家父長制分析、ただしそれを同じものとする一元論と別に考える二元論がある)というフェミの流れをフェミニズムの常識だと思っていた。別に上野さんに教わったわけではなく、最初からそう思っていて彼女が言うからそれがフェミの定番、スタンダードだと思っていたのである。私が面白くて読む下部構造フェミはたいていそれだし。だから、私が子どもを生んで働き続け、パートの問題に取り組むのは全くフェミの教科書どおりだと思ってきた。どうしてそういう人が少なすぎるのか、全く理解の外だった。フェミ栄えてフェミニストなし?教科書書く人のほうが、読んで生活に生かす人より多いんだろうか?そんなことってあるのかなあと、全く今日まで不思議だった。
マルフェミはパート問題と、再生産労働と労働現場の男女差別、これだよ、これしかないと思うわけ。一生懸命仕事するとか全然フェミじゃないし。男も女もないただの能力主義。
ミースは、賃労働のオルタナティブを実践として提案するけど、私としてはそれじゃあ生活クラブの主婦、産業社会に依存し男社会で余計に稼ぐ男におんぶしてのオルタナティブになっちゃうだろうと思っているわけです(夫の働き方を問うべき)。
これは私にとって20代のときから(すなわち20年前から)自明のことだった。
スウェーデンは、まるでマルフェミの国ぐるみ実践例だと私には思える。このメイド論争がまったくいい例だ。家事サービスの市場化は女性にとっては普通朗報だと思うだろう。女性解放と関係ない、むしろ女女間格差の可視化と、安い労働の創出による階級社会の強化、さらにジェンダーの固定化いう理論はマルフェミでしかない。「脱商品化」de-commodification問題だから。
私が見つけたルンド大学の修論も、そんな整理をしていた。「社会主義ラジカルフェミ」と呼んでいたけど、一応マルクス主義フェミニズムを踏襲していると。
今回家事サービスの税金の控除を出してきた右派の女エコノミストも、一応フェミなんだろうけど、どういう理論なのかと考えたときに、私が、スウェーデンの中でも右派的なビジネススクールで習ったフェミを思い出して、ヨンショピン大学での講義のパワーポイントのハンドアウトを引っ張り出してきました。
そこは私の理解とは全く違うセオリーになってました。
1経験主義フェミ、2スタンドポイントセオリー、3構築主義理論と続くのです。
これにはケアだの、産む性だの出てこないのです。1は本質主義。男と女は同じだという本質主義。2も本質主義だけど男と女は違うという本質主義。マルフェミやラジカルフェミも入るらしいが、女性が周辺化されるという理論らしい。3は構築主義、本質主義ではなくジェンダーは可変である。いわゆるパフォーマビリティとかいうやつかな。
貼っとくか。レジメにも載せた。
1.フェミニズム経験主義
ジェンダーを問題にしない
男女とも平等
2.立場理論
ジェンダーの視点において本質主義者、ただ男女を違うものと見る
いくつか異なる伝統がある
女性の従属を女性の考え方や振舞い方が周辺化されるためだと説明
3.構築主義理論
女性の従属は男性性や女性性の構築によってあるいはジェンダー化プロセスによって説明する。
これ自身は分かりやすい話ではあります。そして、女性起業家(一応企業化精神をメインにしたビジネススクールだったから)のジェンダー的形容とか、水平的職務分離とか垂直的職務分離とか。ガラスの天井とか、女性の権利を獲得した歴史とか、そういうのも分かりやすい。ただ、ケアとか、再生産とか、育児とか全く出てこない。言及部分は、再生産としての下半身でも下部構造でもなく、上部構造なんです。(なぜか敬体で書いてしまったが直すの面倒なので混在して変だがそのまま。)
ということで、どうも違うフェミもあるらしい(今頃気づく?)。
これはアメリカのフェミかな?もちろん、スウェーデンには右翼もいるのでこういうフェミニストもいるのだろう。
そして多くの人(スウェーデンでも半分くらい、多くの国はほとんど)はこれをフェミだと思っているのかもしれない、とはた、と思った。
つまり女だという差別、を表象として捕らえる。だから独身でいることとか、子どもを持たないのがフェミだと全く逆さに考えているようにみえる。
フェミニストだと自称する人で、労働現場を女仕様に変えようとか、パートの均等待遇とか、フェミの問題として闘っている人が意外にいないのはかねてからの不思議だが(そして逆にそういう活動家はフェミと一線を画しているようなのもまた不思議だった)、それがフェミの第1級の課題だと全く思っていないからなのだろう。
私のは実はフェミという一般名詞ではなく、マルフェミという固有名詞でしかないのだった。そしてそういうフェミは上野さんのような優れたアジテーターを擁しているのにもかかわらず(がゆえか)思いのほか普及していないのであった。
はあ、そういうことか。私の「思想仲間」は日本には(教科書を書く人しか)いなくて、スウェーデンにいるのか。
事実婚の普及、産まない自由と「産む自由」(シングルマザーへの保障、子ども手当て)、均等待遇の短時間労働、保育園の普及、男性の育児家事参加、女性の9割は出産、この路線。
それが、男女賃金格差の少なさ、政治家の女性比率(5割弱、日本は2割弱)、女性の労働力率の高さ(80%)を達成している。
スウェーデンにこだわっている私の理由は明快である。はかからずも、労働組合を通して変えようとした私の思うフェミニズム(日本では失敗)を実際実践した国だからだ。日本では失敗したので、もう手本にも何もならないとは思うけど。
この国が世界一男女平等な国になっているのだから、私の(フェミ戦略の)正しさはやっぱり証明されていると思えるのだが・・・。
スウェーデンの主流フェミ(?)は自力、とか誰もいわないとおもう。心がまえとしては男女に限らず当たり前のことでもあるし、ことさら言うのも本当は変で。
自力って言うのは基本的にない。生まれてから、何を食べさせてもらい、どんな教育を受けさせてもらえたかによって現在のがんばれる自分はできているわけで、たった一人で生きてきた人はいない。結局資産(親)のあることや環境によって、はじめて、自分でなんとかする、とかいえるわけで、最初からそれは不平等なので、そういうことがすべての人に保障される社会システムをつくることでしか、自力というのは、存在しない。
不平等を具体的に是正しないのに個人のがんばりということだけ言うのは右派の思想だ。
「私的な解決から、公的な責任へ」それがスウェーデンのこれまでのフェミニズム。
組合を変え、圧力をかけ、社民党に投票し、政府に援助させ、支援させ、女性総体でそれを勝ち取る。
スカンジナビアのフェミニズムの国家論は、女性がプライベートな依存からパブリックな依存に動いたとよく主張される。・・・スウェーデンやデンマークのような国では女性たちは公務員や、社会サービスの消費者として国家に頼る。一方アメリカやイギリスでは、庇護を受ける者として頼るのである。
スウェーデンでは、女性の多数は、労働組合と関係の深い社民党を支持してきた。したがって、スウェーデンでの平等戦略は、女性たちは労働者グループとして扱われる利益を組織化されたシステムを通して、遂行されてきた。英米などの他の国では、平等戦略は女性たちが個人として扱われるシステムを通して主に遂行されたのだ。
15,18 Mosesdottier, Lilja, 2001, The interplay between gender, market, and state in Swedem, Germany, and United States, Ashgate Publishing Limited. より
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考えてみるとフェミニスト党の失敗や分裂は、この辺の問題があったかもしれない。彼女たちは左右を問わず、といったが、スウェーデンでは右と左は妥協できなく存在するから。それプラス、セクマイや独身者という、伝統的なマイノリティと、子どもや男と生きるが、性差別をなくしたいマジョリティ(日本では最も少数派)の利害も少し対立するということがあったんだろうなあと思う。そう考えると、マイノリティとして生きようとするフェミと、マジョリティを変えようとするフェミの分岐、というか、そういう問題の表れと考えることもできるかもしれない。
実際スウェーデンのフェミがフェミならこれはあまりにも退屈すぎる、と思う人はいる気がする。
それは優れてフェミの今日的問題でもある、まあフェミニスト党は実際失敗したので、ネガティブな話ではあるが。
結局このようなフェミが受け入れられる余地はこの極東の島国にはなさそうなので、私は当分男のいる北欧の女護ヶ島で遊ぶことにする。私の頭の中で夢想することが実際起こっている場所なのだから。
結局私の言っているのは、フェミニストは左翼であるべきだということに見えるかなあ。でも左翼が先にあるのではなく、正しくフェミニストであろうとすると左翼(社会民主主義)になるということだと私は思うけど。
事実そうだし・・・。
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裕美さんはコメント欄でも続けて、
女が男並みに働くことをフェミニズムは標榜した訳ではない。
と続けておられる。
(女が)男並になるってなーーーんも魅力がない。
もしフェミがそういう思想なら女を永遠に疎外し続ける抑圧思想だ。
スウェーデンも70年代の労働省の文書の中で、「女が仕事をするということは、男に成りすますこと以上のもの」、と言っている。
らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。
人である女、であるのは当たり前だけど、真の女っていうのは、男の目から形成される女ではなく、女にとって当たり前の、男の価値観と違うところですっくと出来上がる「本当の」女。
本質主義にみえるだろうけど。子どもを産む機能を持つことはパフォーマビリティじゃ説明できない女だけの経験だ。(「よき母親」とかいうのはパフォーマビリティの問題だと思うが)そしてそれを女が避ければ人類の連続の基礎はないのである(もしたった今から全女類が、ひとりも子どもを産まなくなるだけで人類は必ず絶滅する)。
これを周辺化するということは、どう考えても不自然かつ間違っていることに決まっている。
これが女性抑圧の原因になっているのならその抑圧は明らかなる間違いである。
水曜に、スウェーデンと日本のワークライフバランスのシンポに行ったけど、男女平等オンブズの40代くらいのスウェーデン人男性が、多くのスウェーデン人男性はジェンダーに対して男性が何もしないという過ちを犯しいている、男性が男性に対して言っていくことが重要だと主張し、「スウェーデンの中にもある構造的ジェンダー(レジメに書いてあった)ってなんですか」という会場からの(私もした)質問に、東京で迷子になってしまった、男は人にものを聞くものではないというジェンダーのせいだと思う、そういう風にジェンダーはスウェーデン人の中にもある、そのせいで不幸になっているから変えていかなきゃいけない、と言っていた。スウェーデンのフェミは、別に社会だけ変えれば、それでことたれり、という思想でもない。男女個人の不断の努力と両方。
以上、裕美さんの日記とコメント欄より引用抜粋させていただきました。
あらためてありがとうございます。
女性が生きている現場で(例えば「そんなに女性、女性といわなければいけないほど私は自分が女性だと意識して生きていない」という人は、たまたま運良く無風地帯で生きて来れただけかもしれないし、まだ「女性だから」という理由で社会のなにがしかの現場で不条理な負荷を背負わされたり、疎外される経験をしていないだけのことでは?と私は思う)悩むこと、考えさせられること、疑問に思うこと、たくさんあると思う。
私がフェミニズムに出会って面白かったのは、自分がいったい社会のどういう構造の中に位置するのか生まれて初めてマッピングできた気さえしたことだった。
ほとんど無意識的に選択して来たことさえも「従来のスタンダート」「親や社会が私に求める規範」というイデオロギーにイデオロギーとも気づかずに内面化し服従して来ただけだったことに気づけたことである。
フェミニズムを知っても、何も目からウロコが落ちなかったという人は、きっと最初から最後まで平穏無事に、ある意味しあわせに暮らすのだろうとも思う。
私は例え、自分が多少苦しくなっても、今まで言語化されなかった「ある現場の、ある種の息苦しさ」がなんだったのか、それが分っただけでもよかったと思っている。私にとってフェミニズムとは「女がこの社会で無自覚に生きないこと」「真の女たることの追求」そのものだと思っている。
だって女に生まれたからには、どうしてもそれは、まず無視できないことだから。
それは自分が「女であるからという理由では屈服しない・したくない」という意思表示、「スタンダードな規範」を無自覚にイデオロギッシュに内面化した人や周囲への意思表示(自分にとっての最後の砦)でもある。
最後にここはもう一度、掲載しておきたいところ。
らいてうは「人たる女よ、真の女たれ」といいました。
人である女、であるのは当たり前だけど、真の女っていうのは、男の目から形成される女ではなく、女にとって当たり前の、男の価値観と違うところですっくと出来上がる「本当の」女。
本質主義にみえるだろうけど。子どもを産む機能を持つことはパフォーマビリティじゃ説明できない女だけの経験だ。(「よき母親」とかいうのはパフォーマビリティの問題だと思うが)そしてそれを女が避ければ人類の連続の基礎はないのである(もしたった今から全女類が、ひとりも子どもを産まなくなるだけで人類は必ず絶滅する)。
これを周辺化するということは、どう考えても不自然かつ間違っていることに決まっている。
これが女性抑圧の原因になっているのならその抑圧は明らかなる間違いである。
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