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第二の故郷

命かけて守った土地
飛行場建設に従事した作業員と家族が暮らした「飯場」跡。当時の苦しい生活の記憶が文さんから消えることはない(宇治市伊勢田町ウトロ)
 宇治市・ウトロ地区に暮らす在日韓国人一世の文光子(ムンクァンジャ)さん(87)は、今でこそ「ここが故郷」と胸を張って言えるが、それまでの長く、苦しい日々を忘れたことはない。
 土地問題に向き合ってきたウトロ地区の在日韓国・朝鮮人が、この地に住み始めたのは太平洋戦争開戦前年の一九四〇年ごろ。国策会社の国際工業が京都府久御山町に軍用飛行場を建設するため約二千人の労働者が集められた。主な働き手として建設地外れのウトロ地区に住んだのが、当時日本の植民地だった朝鮮出身の人たちだった。
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 「日本に行けば暮らしが楽になる」。そう信じ文さん一家も現在の韓国南部の慶尚南道から海を渡った。文さんは大阪で結婚して一度は家族と離れたが、先に飛行場の建設に従事していた父親らを頼る形でウトロ地区で生活を始める。二十歳を過ぎたころだった。
 長屋が集まった「飯場(はんば)」と呼ばれる作業員宿舎暮らし。一戸六畳ほど、杉皮を張り合わせベニヤ板で仕切っただけ。雨風が容赦なく吹き込んだ。夜明け前から仕事に出る夫や父ら作業員のための炊事や洗濯、薪拾いと働き続けた。深いしわを刻み、ごつごつした手がいまもその暮らしぶりを物語る。
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 終戦とともに飛行場建設は中止。日本人の責任者は姿を消し、約千三百人がウトロ地区に取り残された。親類や知人を頼って祖国に戻ったり、他地域に移っていったが、帰国を夢見ながらとどまった人も多かった。一九五〇年代末からの帰還事業は、朝鮮戦争で南北に分かれた祖国のうち「北」へのみ。韓国へは渡航費も生活のあてもない。「ここで生きていくしかなかった」と文さん。
 日本語の読み書きが満足にできないことで定職に就けず、低賃金の仕事を転々とする人も少なくなかった。終戦から半年ほどして十七歳でウトロに来た在日二世の金君子(キムクンジャ)さん(78)も、そんな一人。茶摘みや土木作業などで生計を立て、鉄くず拾いで狛田(木津川市)や長池(城陽市)まで歩いたことも。「朝鮮人いうだけできつい仕事が多かった」
 地区存亡の危機もあった。戦後、進駐した米軍が基地用地に接収しようと地区を取り囲んだのだ。一世たちは生きる場所を守るため、銃を構えた何百人という軍隊を前に座り込んだ。中には金さんの夫の父も。「一歩間違えれば命を落としていたかも…」。そんな人たちがいたからこそ、この土地に住み続ける。「負けたらあかん、いうて励まし合って生きてきた。ここにいたいんや」

【2007年12月7日掲載】

<在日韓国・朝鮮人>

 主に1945年以前に朝鮮半島から渡って日本で暮らす人やその子孫。終戦時約210万人を数え、1959年からの帰還事業は84年まで続いた。朝鮮戦争後の混乱で帰国できなかった人も多く、現在約50万人が日本に定住している。