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宮崎正弘の国際ニュース・早読み
平成14年(2002)6月25日(火曜日)
通巻368号
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「遵義会議」の跡地は観光名所化に失敗し閑古鳥が鳴いていた
瀟洒な商店街、遵義の街の活況はまだ夢を持たせるが。。。。。。。
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遵義会議会址は随分と遠い。延安までの長征の途次に毛沢東の党内主導権が確立された歴史的会合の場所であるが、今日、そういうことに歴史的意義を認識する中国人さえが珍しい。
時代は迅速に価値観を変化させている。
○魯迅の孫の亡命手記
まずは次の逸話から始めよう。
文豪・魯迅の嫡孫は周令飛である。魯迅の本名は周樹人。妻は海嬰。周令飛は北京で特権階級の家庭に育ったせいか、かなり勝手気ままで慇懃無礼な性格である。
当時、北京ではじめてオートバイを乗り回したので「どら息子」と言われた。父親は西欧のレコードを山と収集していたが文化大革命の最中にすべてを棄却した。
周令飛は小さな頃から買い与えられたカメラ、ビデオ撮影に興味を持ち、「先進国」だった日本へ「ビデオ技術」修得のため留学する。
「事件」は日本を舞台におきた。
同じく台湾から東京へ留学していた女子学生と恋に落ちたのだ。女性のほうの父親は篤実な国民党支持者として知られた。
周は悩み抜いた挙げ句、1982年に台湾へ「結婚亡命」するのだ。
無論、台湾では大歓迎を受けたが、周は「中国は一つ、私は台湾を旅行しているに過ぎない」とするスタンスをとり、この巧妙な台詞で、今では台湾と日本ばかりか、中国大陸へも自由に渡航している。
さてここからが私事にもわたる。台湾への亡命直後、私は「週刊文春」の取材で、この周令飛に台北まで遭いに行った。同行者は当時、週刊文春編集部にいた中村彰彦(直木賞作家)氏だ。
周令飛は我々をさして「日本から初めてきたジャーナアリストだ」と言った。
なるほど、あの当時、台湾にあった日本のマスコミ支局は産経一社のみ、各紙は北京に配慮して魯迅の孫の亡命劇を大きく扱わなかった。
周令飛とのインタビューの中身は拙著「中国の悲劇」(山手書房刊)に詳述したのでここでは繰り返さない。
双方の記憶が鮮明だったせいか、それからおよそ十年後に羽田空港でバッタリ周と再会した。彼も東京で仕事をしたあとで台北へ帰るところ、偶然にも同じ飛行機で、私はと言えば村松剛氏と台湾へ取材へ行くところだった。機内で村松氏とともに色々な話をしたものである。
彼が書いた亡命手記「さらば北京」(産経新聞社刊)は、斯界でしか注目されなかったけれど一番興味をそそられたのは中国共産党内部の常習行為、即ち「写真の改竄」について触れた箇所だった。
冒頭に紹介したように周は北京で写真技術を活かして党の宣伝部に所属していた。かれはそこで日常茶飯に、「誰と誰を写真に付け加え、誰と誰を写真からはずせ」という党幹部の命令に従い、歴史的な党史を書き換える手伝いに駆り出されていた事実を淡々と述べているのである。
この逸話を、これから綴る「遵義会議レポート」の枕に置いた意図は既におわかりだろう。
○それは1935年1月のことだった
「1958年11月、トウ小平が遵義を再訪問した折、遵義会議記念館に飾られた会議参加者の写真のなかに、自分の写真がないことに不快を隠さず、この会議に参加したことを主張した」(寒山碧著「トウ小平傳」、中公新書、伊藤潔訳編)。
共産党の歴史のなかで、最も重要とされる会議となったのが貴州省の奥地、どちらかと言えばトウ小平の生まれ故郷である四川省に近い遵義で開催された。
正式には「政治局拡大会議」だが、1935年1月に毛沢東、周恩来、朱徳、陳雲らが集まった。会議が行われた場所は国民党第25軍師団長だった柏輝章の私邸だった。
当時の遵義では一番立派な建物、それを国民党の幹部が会議及び宿舎として提供したのだ。
トウ小平にとって青春時代の想い出にも繋がり、しかも中央書記として正式に参加したにもかかわらず、その後の失脚によって革命後の展示でも、トウの写真パネルが欠落していた。
「遵義会議」がなぜ重要か。それは「長征」で延安へと潰走する中国共産党が、途中に寄り道をした場所で、その後の方針を決め、ここで毛沢東の主導権が確立されたからである。同時に周恩来、朱徳の軍事指導者としての地位も確立した。
この遵義会議に出たか、出ないかでその後の党の序列が揺れることになろうとは!その当時、誰もが予想できたことではなかったが。。。。
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6月4日、丁度天安門事件から13周年の日と重なったが、私は深センから飛行機で貴陽市へ飛んだ。
貴州省の省都である貴陽市の人口は260万人。三日と太陽は雲間から覗かず、太陽をみると犬が吠えるという。太陽がそれほど尊いので「貴陽」と命名された。
この都市には太陽が燦々と降り注ぐ日は一年に何日もなく、こんもりとした雲に覆われ、雨の降る日が多い。しかしこの町は意外に活況を呈している。
飛行時間は一時間十五分、結構満員である。着くと三十五度くらいの酷暑、からだがふらりとなって何かに寄っかかりたい。
売店をからかう気力も湧かず、バスで市内へ。途中、何村か少数民族のバザールが出ていたが、写真を撮るのももどかしく、ともかくターミナルの手前でバスを降りてタクシーを掴まえ、金筑ホテルへ入った。
いそぎ旅装をとくとカメラと地図と帽子をもって飛び出し、長距離バス駅へ向かうべく再びタクシーに乗る。
貴陽から遵義まで汽車でも行けるが、一日に7,8本しかない。長距離バスは三十分に一本の割で出ている。
ただし二時間もかかる。それを午後から夕方までに往復しようという腹づもりのため、ホテルを飛び出し、昼飯もとらず、ひたすら先を急ぐことにしたのだ。
遵義の街は意外に通りが美しい。物価は安いようで市場に人が溢れている。路地裏に迷い込むと小さな個人商店、屋台、行商人たちの阿鼻叫喚。独特のにおいの奥にこじんまりとした「小休息」(つまり淫売宿)がつづく。
私は市場を通り抜け、ちょうど大通りの角で客待ちしていたオートバイ・タクシーに飛び乗った。日の高いうちに、ともかく会議所跡地へ到着できた。
周辺は観光客を当て込んでの瀟洒な商店街になっている! 浅草ほどでないにしても地蔵通り商店街のごとき整然とした町並みは人工的で美しい。しかし観光名所化の思惑がはずれ、買い物客が殆んど居ないのだ。
その商店街を曲がったところが「遵義会議会址」で手前の窓口でチケットを買う。
入り口は確かに中華門だが、「記念館」の建物それ自体は西洋風の二階建て。二階奥の狭い部屋ーー楕円形のテーブルを囲んで十人も座れないーーが、中国共産党を画期した「歴史」の原点とは、とても思えないほどあっさりとした間取り、家具にしても安物である。
(えっ。これだけ?)
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○ヤルタ、ポツダム会談の跡地とくらべる
私はポツダム会議が開かれた東ドイツの「ツェツェリンホフ宮殿」とヤルタ会議の行われた「リバーディア宮殿」の壮麗さを即座に思い出し比較してみるのだった。
東西冷戦が終わってすぐに東ベルリンからクルマをチャーターしてポツダムへ行ったことがある。その会議場となったツェツェリンホフ宮殿は華麗なホテルを兼ねていた。
周囲は広大な庭園で、緑がどこまでも広がり、庭の中には清澄な小川が流れている。ここではポロ競技も出来ればゴルフも出来る。
げんに乗馬を楽しむドイツ人が、広大な緑のなかで愉しそうに馬を馴らしていた。
それから二、三年してウクライナを一週間ほど旅行したときにヤルタをまわり(寝台列車でキエフから十九時間)、リバアーディア宮殿の中に入った。ここが「ヤルタ会談」の跡地だ。
贅を極めてつくられたロマノフ王朝の夏の別荘だけに、それはそれは立派な外見をほこる、白塗りの建物である。当時の雰囲気をそのまま残し、目の前は黒海の漣(さざなみ)。
ヤルタ会議の会場は歴史教科書にも出てくるが、華麗な宮殿の中の宴会場と思しき部屋があてがわれ、いま、その前で記念写真を撮ることも出来る。
それらに比べると遵義会議址は侘びしく、貧弱である。
もっともこちらは当時の反蒋介石ゲリラ組織の、しかも解体寸前という脆弱な環境のなかで、それも敗残中のゲリラ部隊が追い込まれて、たまたま立ち寄った遵義の宿舎でしかないのだ。第二次大戦中に列強が大がかりに「戦後秩序」を決める議定書作りの場としたセレモニー会場の輝かしき場所と一緒に比較するわけにはいかないだろう。
(それにしても。)と私は思った。何かが欠けている。
遵義会議会祉のなかに立つ「遵義会議記念館」には、あの毛沢東旧居や劉少奇旧居へ護符を求めて全国から駆け付ける中国人の熱気を殆ど感じることが出来ない。
中はそれほど閑散としている。会議そのものが風化しているからであろうか?
会議場で、たまたま紛れ込んできた若いアベックに写真を撮ってくれ、と頼むと「どうしてこんな汚い部屋の前で写真を撮るのか」と訝しげな顔をされた。
会議祉の建物を出ると中庭の壁に毛沢東の詩が掛かっている。売店は日溜まりの中に窒息しそうなほど、手持ちぶさた。売り子らは、私に見向きもしないでテレビをみている。
そこから庭園を抜け、民家の脇をくぐって細道を辿ると今度は「紅軍総政治部」の跡地へと通じる。対面に小学校があり、何と江沢民が揮毫した大きな石碑が正面玄関を飾る。学校のゲート前にはアイスクリームがおやつを売る行商屋台がズラリ。一人っ子の子供達の小遣い銭を狙う商売がこれほどまで逞しいのも中国である。
「紅軍総政治部旧祉」は孔子廟のごとき風情を保ち、なかなか立派な建物であるが、これまた閑散として展示物も少ない。
入り口で僅かに毛沢東伝記などを売っているが誰も手に取らないのだ。
ナルホド、遵義会議なるは共産党潰走中の偶発事件で、後世に毛沢東神話が形成されてゆく過程で浮かび上がってきた(米国人作家ソールスベリーは毛沢東のたどった「長征」のコースを精密にたどり、あれは作り話が混ざり、実際の潰走ルートとは異なるのではないかと疑義を呈した)。
後智恵の産物には現世の御利益が少ないと言うわけなのか。
○辛い料理とマオタイ酒と
帰り道、遵義の鉄道駅(火車点)に行ったが貴陽行き列車は夜まで無い。
仕方なくバス駅へとぼとぼと歩いて、構内の粗末な食堂で牛肉素麺を注文した。四川よりも辛いのが貴州料理、舌が火傷したかと錯覚するほど辛く、泪がでてきた。
そうだった。貴州にマオタイ酒がつくられるのは、この辛い料理に合わせるためでもあるのだ(マオタイ酒は小瓶でも千五百円、豪華箱入りの大瓶には十万円以上のものがたくさんある)。
と言うわけで遵義は「辛さ」と「泪」しか印象が残らないのである。
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■ 宮崎正弘 サスペンス小説
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