久留米市で1日にあった暴力追放市民総決起大会でのこと。壇上であいさつした人たちの大半が原稿の棒読みで、あまり危機感を感じなかった。同じように思った人が多かったのか、プラカードなどを持った参加者の後方では、おしゃべりに熱中する人が多く「一体誰のための暴追集会なのか」という印象を受けた。
久留米市などでは昨年5月以降、指定暴力団道仁会の内部分裂による抗争事件が続発。暴力団関係者6人が射殺されただけでなく、無関係の一般の1人が巻き添えで尊い命を絶たれた。組事務所のある地域では、子供たちが親の送迎や集団による登下校、通路の変更、あるいは外出規制などを強いられている。寒い中、街路で子供たちの安全を見守るボランティアの苦労もしのばれる。
こういう非常時にありながら、原稿の棒読みはないと思う。住民の暴力団への怒りは頂点に達しており、迷惑千万な気持ちは誰にでもあるはずだ。特に政治家は、市民の付託を受けて行政をつかさどる住民の代表であり、住民の生命・財産が脅かされているのに、事前に用意した原稿の棒読みでは「本当に危機感があるのか」と疑問だ。
私は人前で話すのが苦手で、テレビ局勤務時代もカメラの前でのリポートはいつも避けてきた。思っていたことがなかなか言葉にできず、もどかしさを感じていたからだ。昨年4月の久留米支局赴任後も、棒読みまではいかなくても、いくつかのあいさつで原稿を読んだことはある。だが、報告・説明と聴衆に賛同や理解を求めるスピーチでは思い入れが違う。
暴追集会の後日開かれたある式典で、私もこれまでの点を反省し、原稿を読まずにスピーチした。大事なのはうまく話すことではなく、自分の言葉で思いを伝えることだと思う。<久留米支局長・荒木俊雄>=次回は来年1月7日掲載予定です。
〔筑後版〕
毎日新聞 2007年12月17日