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南山大学社会倫理研究所
2004年度第5回懇話会 ■講師 中山 俊宏先生■

講演の概要

2005年1月17日(月)、南山大学J棟1階特別合同研究室にて開催された社会倫理研究所2004年度第5回懇話会において、日本国際問題研究所主任研究員・中山俊宏先生による「アメリカが保守化した背景およびその外交的インプリケーション」と題する講演が行われた。中山先生によれば、アメリカにおける保守の特殊性は、回帰すべき「過去」のない国における保守であり、それゆえに革新的保守という矛盾を抱えている点にある。また、アメリカにおける保守主義は一枚岩ではなく、保守主義のたどってきた大きな物語と記憶の共有によって統一性を維持する思想運動として捉えられる必要がある。さらに、アメリカの保守主義は、リベラル・エスタブリッシュメントが支配する「アカデミック」とは区別される「インテレクチュアル」として、政治・社会におけるディスコースを変える方向で動いてきた。1950年代のリベラル派は、保守主義を「一時的な逸脱現象」として解釈したが、保守主義はひとつの思想潮流として独自のあり方をなすものであり、そのように正しく理解されるべきである。これらの点が確認された後、1950年代から現在に至るまでの保守主義をめぐる歴史的経緯が説明される。アメリカの保守主義には、反共主義、リバタリアニズム、伝統主義という3つの潮流があり、1950年代において、それらが分裂と統合を繰り返す中で、徐々に保守主義のコアが形成されていった。また、1960年代において、公民権運動に象徴される60年代とは別の、ゴールドウォーターにはじまる60年代があったのであり、YAFやACUなどの組織の活動により、保守主義開花のインフラが構築されていった。1970年代には、保守主義は、アイディア・インダストリーとして自らの研究成果を政策に反映させていくためのネットワーク、人材、戦略を整えるに至り、共和党の保守党化が進んでいくことになる。そしてついに、2004年、明示的に保守的政策を掲げて当選した初の大統領が誕生することになる。今後、ブッシュ政権は、2008年に向けて、「パーマネント・リパブリカン・マジョリティ」に向けた戦略に出るだろうし、これに対して民主党は、対抗できるだけの政治的な主張を組み立てられずにいる、と中山先生は指摘する。以上のように現在に至る歴史的経緯に言及した後、保守化の外交的インプリケーションについて検討される。保守派は、外交姿勢についても一枚岩ではなく、アイソレーショニズム、ナショナリズム、ネオ・コンサーヴァティズムといった相矛盾する諸派が含まれており、それらは国連不信を共通項としてまとまっているのが現状である。それゆえ、ユニラテラリズムにも多様な意味合いがあることになる。また、第二期ブッシュ政権の外交・安全保障政策について、ダメージ・コントロール・モードに入るであろうという予想され、現在日本にも見られる「軽い反米」ナショナリズムが政治的回路に流れ込んだときに日米関係にしこりができるかもしれない、と指摘される。(文責|奥田)


*以下のコンテンツは、懇話会で録音したものを活字化し、講演者本人の校正をへて作成されたものです。無断の転用・転載はお断りいたします。引用、言及等の際には当サイトを典拠として明示下さるようお願いいたします。

アメリカが保守化した背景およびその外交的インプリケーション

中山俊宏 (日本国際問題研究所・主任研究員)

もくじ

アメリカにおける保守主義一九五〇年代のリベラル派による保守主義の解釈一九五〇年代:運動の萌芽二つの一九六〇年代準備期間としての一九七〇年代レーガン、ギングリッチ、そしてブッシュ政権の誕生道に迷う民主党保守化の外交的インプリケーション第二期ブッシュ政権の外交・安全保障政策

ただいまご紹介にあずかりました日本国際問題研究所の中山俊宏と申します。私は学生のとき以来周縁部分からずっとアメリカ政治を見てきました。博士論文では「アメリカにおける共産党」をテーマとして取り上げまして、きょうのお話は保守ということで全く反対ですが、周縁部からアメリカのメインストリームを見るという視点では似たような取組かと思います。実はアメリカの共産党について発表させていただく機会はあまりなくて、最近ではむしろアメリカの保守ということで話をさせていただく機会が非常に多く、それはアメリカにおいて保守というものが相当程度メインストリームに入り込んでいて、アメリカ政治の動向にも大きな影響を与えつつあるということの証しなんだろうと思います。だから、きょう私がこうしてここにいるのもアメリカで保守が頑張っていることの証拠なんだろうと思います。

二〇〇四年の大統領選挙がついこの間終わって結果が出たわけですが、どういうことがわかったかというと、いろいろな意味でのギャップが明らかになったのだと思います。その中でも目立つのが、やはりアメリカと世界との間のギャップです。そのギャップの核心にあるものとして、六〇年代以降のアメリカにおける保守化現象があげられます。アメリカはここ三〇年、ますます保守化していき、それがアメリカと世界との間の溝をどんどん大きくしているひとつの要因となっています。

一般に保守化と言われていますが、きょうのお話では、アメリカにおける保守化とは具体的にどういう現象なのだろうかということを若干歴史的に位置づけて検討してみると同時に、その外交的インプリケーションついてお話しさせていただきたいと思います。

一.アメリカにおける保守主義

まず、アメリカにおける保守主義ということを話すときに幾つかの点を確認しておかなければいけないと思います。保守主義というのはある特定の国もしくは社会における文化もしくは歴史と非常に密接に絡み合っているわけですから、普遍性を志向するリベラル派、左派よりも、ある政治共同体の特殊性がより顕著に出るということが一般論として言えるんだろうと思います。

アメリカにおける「保守主義」とは何か。まず第一点目として言えるのは、ヨーロッパにおける保守、場合によっては日本の保守とも比較することが可能だと思いますが、回帰すべき「過去」がない国における保守という矛盾に常に直面していると言えます。回帰すべき封建的な価値観みたいなものがない国における保守は、結果として常に現状を変えるための保守という形で組み立てられる傾向が非常に強く、そういう意味で言えば、常に保守が「革新」であるという転倒が見られるということが一般論として言えます。「革新」という言葉がある種の政治的態度を内包しているので、誤解を招かないよう、より正確な表現を用いれば、変化を志向する保守といった方がわかりやすいかもしれません。

また後にお話しさせていただきますが、ブッシュ政権以降、特にイラク戦争に向けて大きな役割を果たしたとされる「ネオ・コンサーヴァティヴ(新保守主義)」と呼ばれる勢力は、通常の意味での保守とは全く違う人たちで、アメリカにおける保守の特殊性の中から生まれてきたグループだということを理解しておく必要があります。

それから、共有すべき「過去」がないということとも若干関係してくるんだろうと思いますが、保守の中にも幾つかの流れがあります。反連邦政府主義的な保守主義、反共主義、アメリカン・ナショナリズムを軸にした保守主義、そして伝統、家族、信仰心という漠然としたアメリカの伝統的な価値観を軸にした保守があります。アメリカの保守には、こうした様々な潮流があって、必ずしも一つの運動体ではないということを明確に認識しておく必要があります。これらは重複しつつも、根本のところでは、異なった考え方の上に立脚しています。

二〇〇四年の選挙で宗教保守派と呼ばれる勢力が共和党の支持基盤を盛り上げていくに当たって相当重要な役割を果たしましたが、ひとつの流れが突出すると、これは場合によっては保守派分裂の要因にもなりかねないという点も頭に止めておく必要があります。

もう一つ述べておきたいのは、アメリカにおける保守の強さということを考えるときに―これが実は一番重要な点なんだろうと思いますが、保守というものが今日のアメリカの政治文化、雰囲気を規定する大きな政治の物語を常に提供しているという点です。さらに、重要なのは、保守主義運動が五〇年代以来どのように運動を形成し、いまの地位を獲得したかということに関する記憶/物語を共有しているという点です。さきほど申し上げたように、様々な分派があって内部分裂する危険性を常に抱えつつも、基本的にはリベラル派と対峙したときに自分たちがどういう形で運動を形成し、盛り上げてきたのかという記憶を共有することによって、運動体としての一貫性を確保しており、そこに保守主義運動の強さがあると言えます。

アメリカにおける保守主義運動を考えるときによく利権という観点から説明がなされます。特に「新保守主義」の台頭は、石油利権、軍需産業との関係、さらにイスラエルとの関係にその台頭の原因を求めるような説明が少なからず見られました。しかしながら、これも意見は分かれるところだろうとは思いますが、私はアメリカにおける保守主義運動を見ていくときには、それを「思想運動」として規定し、分析していく必要があると思います。

ジョージ・ナッシュという人は、一般にはあまり知られていないアメリカの歴史家ですが、思想運動としての保守主義の歴史を肯定的に描いた人として知られています。いわばアメリカ保守主義運動の公式の歴史家といえます。ナッシュは次のように述べています。「アメリカにおける保守主義運動はインテレクチュアル・ムーブメントであった。しかしながら、そのインテレクチュアル・ムーブメントは単に世界を理解することではなく、まさに世界を変革するためのインテレクチュアル・ムーブメントであった」と。どこかで聞いたような言葉だとお思いでしょうが、これはマルクスの言葉を変換したものです。

後に言及させていただきますが、いわゆるリベラル派の知識人が世界を解釈することに終始していた間、保守派の知識人は、例えばシンクタンクを立ち上げたり、政治団体を設立したり、いろいろな運動体に自ら飛び込んでいくことによって、いわゆるメインストリームのアカデミズムの基準からは若干はずれたところで、党派的なパブリック・インテレクチュアルとして力をつけていきました。彼らは、実際の政治権力を奪取すべく、自分たちの知識を動員して活用した人たちです。そういう意味で、言葉の真の意味における「政治思想運動」と見なすことが適切なんだろうと思います。

このことは二〇〇四年五月一三日に行われた「アメリカン・コンサーヴァティヴ・ユニオン(ACU)」という保守系組織の設立四〇周年記念のパーティーで、ブッシュ大統領が行った演説を見ればよくわかります。この演説まさに、さきほど申し上げたような保守派の歴史の共有基盤を確認する演説になっています。この演説には保守系知識人の重鎮の名前がちりばめてあって、さらに保守的な理念がいかにアメリカを変えてきたかということがきちんと線形発展の物語として提示されています。

具体的に見てみますと、バリー・ゴールドウォーターという政治家への言及があります。彼は、一九六四年の共和党の大統領候補です。彼は明確に保守主義をスローガンとして掲げたはじめての大統領候補ですが、現職のジョンソン大統領に大敗します。しかし、ゴールドウォーターの敗北をもって、アメリカの保守主義運動は明確に政治的なベクトルを獲得し、ワシントンにおける権力のインフラ奪取という問題意識を持ちはじめます。政治運動が大敗北をきっかけとして、本格的に運動体としての勢いを獲得するということはめずらしいことではありません。そういう意味で、バリー・ゴールドウォーターは常にアメリカの保守主義運動のゴッドファーザー的な存在として言及されます。ブッシュ大統領の演説には、そのバリー・ゴールドウォーターの名前が引かれていて、さらにレーガンに至るまでの変化やその政治的な流れを背後で支えた知識人たちの名前も幾つか出ています。

その中に、ウィッテカー・チェンバースという人がいます。これはアルジャー・ヒスという国務省高官がアメリカ共産党のスパイであったと告発した人です。このチェンバース自身も元共産党員ですが、五〇年代にカソリックに改宗するとともに保守派の知識人として存在感を高めていきます。ちなみに、彼はレーガン大統領にアメリカの民間人がもらえるもっとも位の高い勲章(Presidential Medal of Freedom)を与えられています。さらに、ビル・バックリー・ジュニアという人への言及もあります。この人もやはりカソリックですが、彼はアメリカ保守主義の知的巨人で、保守系パブリック・インテレクチュアルとして運動の揺籃期から重要な役割を果たし続けています。それから、ラッセル・カークという思想家への言及もあります。彼は『コンサーヴァティヴ・マインド』という大著を著した人です。ブッシュ大統領の演説には、こういう人たちの名前がちりばめられていて、さらに政治家、知識人、アイディアが一体となって、いかにアメリカを変えてきたかということが簡潔に語られています。

こういう形で、大統領自身が保守主義運動の大きな物語の中に自分を位置づけ、さらに運動を六〇年代初頭以来支えてきたACUの設立四〇周年の場でこういうスピーチをするということは、まさに保守主義がアメリカの権力の中枢といいますか、政治の中枢まで入り込んだことの証拠というように考えてもいいんだろうと思います。

さきほど申し上げました点とも関係していますが、アメリカの保守主義を考えるときに「インテレクチュアル」と「アカデミック」の区別をすることが非常に重要だと思います。

アメリカの保守派は自らを常に「ムーヴメント・インテレクチュアル」と規定してきました。単純化すると、アメリカにおける保守派の知識人は、「リベラル・エスタブリッシュメント」の牙城であった大学という制度からは締め出された存在でした。保守派は、大学という知的エスタブリッシュメントに対抗するカウンター・エスタブリッシュメントを構築し、学会内での知的ディスコースを変えるのではなく、政治や社会という実際に権力が行使されている場面におけるディスコースを変えていくことに中心的な力を注ぎます。

アメリカの大学、特に一流大学ではリベラル・エスタブリッシュメントの影響力がいまだに強いといわれていますが、シンクタンク等の活動を見ていると、圧倒的に保守系の組織の方が優勢です。例えばワシントンにおける三大シンクタンク―これは予算規模で見た場合ですが、ヘリテージ財団、アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)、ケート研究所はいずれも保守系のシンクタンクです。この三つのシンクタンクは、研究そのものを目的とするのではなく、社会を変革するための政治活動すれすれの研究を行い、そのプロダクトを売り込んで行くためのメカニズムと予算的な裏づけに支えられた組織です。このような組織が保守主義の台頭を支えてきたと言えます。

二.一九五〇年代のリベラル派による保守主義の解釈

ここで時代をさかのぼって、一九五〇年代に保守派が台頭してきたときにリベラル派がそれをどのように解釈したのかということについて若干お話しさせていただきたいと思います。

ダニエル・ベル、ルイツ・ハーツ、リチャード・ホフスタッターなど当代一流の知識人は、保守主義の萌芽みたいものを、いずれも反知性主義、排外主義、孤立主義、偏狭な反共主義(マッカーシズム)など、反動的な感情の一時的な表出に過ぎないと解釈しました。単純化すると、彼らは、「保守的なるもの」を、ジョン・バーチ協会、ミニットマンなどの極右異端勢力に封じ込め、保守化現象をアメリカにおける大きな知的地殻変動の兆候ではないと解釈しました。つまり彼らは、右翼勢力の台頭を歴史に取り残された勢力の一時的なバックラッシュ現象でしかないと見なしたわけです。六〇年代が「進歩と変革の時代」であったことも、彼らの解釈の正しさを示す証拠として受け止められました。

保守派を逸脱現象として解釈する傾向は、それ以来ずっと一貫して続いてきました。さきほど申し上げたゴールドウォーターが一九六四年に大統領候補になったときにも、いわゆるエスタブリッシュメント・メディアは、ゴールドウォーターを無知蒙昧な危険な政治家と分類しました。レーガンも、多かれ少なかれ同じように位置づけられました。一九九四年にニュート・ギングリッチ率いる共和党下院議員が久しぶりに議会で多数派を獲得した際も、「怒れる反動的な白人の男」が立ち上がってギングリッチを支えのだという評価しかせず、一時的な逸脱現象と見なされました。

二〇〇四年大統領選挙におけるブッシュ大統領の勝利も、本来の「進歩」からの逸脱として解釈されました。終末論的な思想を信じる宗教保守派集団(エヴァンジェリカル)が、信仰心のあついブッシュ大統領を一致団結して支えて勝利をしたのだと。恐らく、常にこういう「悪玉さがし」をリベラル・エスタブリッシュメントはやってきたんだろうと思います。

確かに今回の選挙で宗教保守派は極めて大きな役割を果たしました。しかしながら、もう少し大きな政治文化の変容がアメリカに起きているということを見極めることのほうが大切だと思います。それは、連邦政府に対する不信感とか、価値相対主義に対するある種のバックラッシュとか、そういった変化です。保守化現象を、単に反知性主義、もしくは排外主義の表出とみなすべきではなく、もう少し大きな政治潮流の変化があるということを見極める必要があります。いずれにせよ、一九五〇年代のリベラル派の知識人は、保守主義運動のポテンシャルを正確に予測することはできませんでした。気がついてみると、保守主義運動はホワイトハウスまでも手中におさめていたわけです。

ダニエル・ベル編『ラディカル・ライト』という右翼研究書が一九五〇年代半ばに出版されます。この新版が九〇年代後半に再版されます。その中でダニエル・ベルは、「自分たちは保守派の台頭を予測できなかった」と告白しています。ベルは、五〇年代当時大きな影響力を持っていたリベラル派のパブリック・インテレクチュアルがもはやほとんど姿を消していることを指摘し、今日、パブリック・インテレクチュアルと呼ばれる人たちはいずれも保守派であって、一九五〇年代当時、自分たちは保守派の台頭を予測しきれなかったと自己批判しています。

いずれにせよ、五〇年代を代表するベル、ハーツ、ホフスタッターといった人たちは、保守主義運動の台頭という歴史的潮流を必ずしも正確に把握しきれませんでした。しかし、当時、アメリカ社会の中で完全に異端であった保守派自身も、現在の保守派優勢の状況が出現することを予測することはできなかったでしょう。

三.一九五〇年代:運動の萌芽

保守主義運動は政治運動としてのインフラを五〇年代後半以降、固めていくわけですが、当初アメリカの保守派には三つの潮流がありました。基本的にはいまでもこの三つの潮流は生きています。

一つは「反共主義」。要はアメリカにとっての脅威に断固たる態度で臨む、勢力均衡ではなく、場合によっては「巻き返し」をも目指すことを掲げた勢力です。この勢力は、敵が誰なのか、脅威が何なのかということによって変わってはきますが、五〇年代には反共主義という形でひとつの形をなしていきました。当時のアメリカには「反共コンセンサス」はあったわけで、民主党の中にも例えばケネディみたいなリベラルな反共主義者がいました。トルーマンもそのような流れに位置づけられます。しかし、保守派の反共主義は、やはり「国内の容共主義者」、いわばアメリカ国内に入り込んだコミュニストに寛容な勢力を告発していくという意味においてリベラルな反共主義者とは違う存在でした。そういう意味で、ここでいう反共主義は「マッカーシズム」そのものは肯定しないまでも、共産主義がアメリカ国内に入ってくることはやはりよくないことだ、さらに国際共産主義運動とは断固として対決すべきだということに対する強い信念を持っていました。マッカーシー上院議員の手法には反対しても、反共主義そのものは否定されるべきではないということを強く信じた人たちがこの潮流を形成していました。

それから、「リバタリアン」と呼ばれる人たちがいます。これはハイエク、ミルトン・フリードマンなどに連なる考え方で、いまでもケート研究所を中心に非常に強い影響力を持っています。リバタリアンと呼ばれる人たちは、連邦政府の権力の肥大化に対して極めて批判的で、これがいまのアメリカの保守主義運動を支える減税推進のような考え方と共鳴し合ってひとつの大きな勢力を形成しています。自らリバタリアンと自己規定しなくても、リバタリアン的な心性は保守主義の重要な柱です。

もう一つは「伝統主義」。これも時代によってどういう形で表面化するかは変わってきますが、アメリカの伝統的な価値観、特に家族を中心とするような価値観を復権させようという人たちで、いまでは宗教右派のような人たちがこの勢力の中心になっています。彼らは大衆社会の出現にともなって生じた価値相対主義に大きな懸念を抱いた人たちです。伝統主義はよく「ニュー・コンサーヴァティズム」という呼ばれ方をします。これはアメリカの保守派を語る時のジャーゴンなのであまり重要ではないかもしれませんが、「ニュー・コンサーヴァティズム」とは、五〇年代に伝統や宗教などを軸に保守主義を明確に「政治運動化」しようとした人たちのことをいい、七〇年代以降に出てくる「ネオ・コンサーヴァティズム」とは別のものです。「ニュー・コンサーヴァティズム」は、当時、エリート主義的な色彩が強く、いまの宗教的ポピュリズムに根ざした運動とは大分雰囲気が異なっていたことも付け加えておく必要があります。

このような必ずしも常に同じ方向を向いているとは限らない三つの流れを、ひとつの方向に向かわせないと運動としての力は発揮することはできません。例えば、反共主義はアメリカの国防力・軍事力の強化を常に志向しますが、リバタリアンは連邦政府の強大化を常に否定的に見ますから、反共主義とリバタリアンは場合によっては対立することもあります。また伝統の復権を政治活動の核に掲げることに対してもリバタリアンは否定的です。リバタリアンは、とにかく「放っておいてもらいたい」という発想が核にあります。また伝統主義もリバタリアンも基本的には内向きで、積極的な対外行動を志向する反共主義とは両立しえません。しかしながら、こういう内部対立をやっていたのではいつまでもリベラル・エスタブリッシュメントに対抗できないということで、ある種の「ビッグ・テント・コンサーヴァティズム」、つまり保守派内部の対立を最小化して一つの政治運動として方向づけをし、リベラル派と対抗していこうということが常に運動としての保守主義の課題でした。これが実際に成功したときに保守主義運動はぐっと力を増してきました。

この方向づけの名人がレーガンです。レーガンは、場合によっては対立し得る三つの流れを一つにまとめ上げて、リベラルなエスタブリッシュメントにぶつけていった。これをアメリカの保守主義のジャーゴンでは「フュージョニズム」とよく言っています。

フュージョニズムという立場を体現する人が何人かいますが、なかでもビル・バックリー・ジュニアという人が一番有名です。この人は一九五五年に『ナショナル・レビュー』誌という保守系のジャーナルを創刊します。同誌は、保守派のオピニオン・ジャーナルとして極めて重要な役割を果たしてきました。いまもって健在で、保守派の言論フォーラムとして機能しています。バックリーが『ナショナル・レビュー』誌を出したことによって、ひとつの方向性を持ってリベラル派と対決していかなければいけないという意識が、保守派での間で全国的に共有されたとよく言われます。そういう意味において、バックリーの『ナショナル・レビュー』誌は単なる雑誌ではなくて、学校、大学、政党のような役割さえ担ったとも形容されます。

『ナショナル・レビュー』誌と非常に近い人で、フランク・マイヤーという人がいます。この人は同誌のエディターをつとめていたこともあります。この人が『コンサーヴァティヴ・メインストリーム(保守本流)』という本を出版して、これがアメリカにおける政治運動としての保守主義のバイブルになって、その後の運動の在り方を規定していきます。

もう一つ『ナショナル・レビュー』誌が果たした役割、特にフュージョニズムが果たした役割で非常に重要なものがあります。それは「フィルター」としての役割です。どういうことかと言うと、極右団体を排除していく役割を『ナショナル・レビュー』誌が担ったことです。つまりジョン・バーチ協会とかミニットマンなどのミリシア・極右団体を排除して、保守主義運動をなるべくメインストリームに参入できるような信頼できる運動に練り上げていく。これが『ナショナル・レビュー』誌が果たした非常に大きな役割だといえます。

一九五〇年代にはこのほかにもその後のアメリカにおける保守主義の古典になるようなものが次々と発表されていきます。それはいずれもシカゴ大学周辺の知識人によって書かれたものです。さきほどアメリカのエリート大学ではリベラル・エスタブリッシュメントが非常に強いということを申し上げましたが、シカゴ大学は例外的です。具体的にはリチャード・ウィーバー、彼はシカゴ大学の英文学の先生ですし、ハイエク、フリードマンもシカゴ大学です。カークはシカゴ大学ではありませんが、中西部の知識人です。新保守主義に大きな影響力を与えたとされる亡命政治哲学者のレオ・シュトラウスもシカゴの人です。そのメカニズムをまだ私は解明していませんが、シカゴという場所が保守の磁場となっていたことは明らかです。

こういう形で、まだ完全には表面化していませんでしたが―アンダーグランドという言葉が適切かどうかわかりませんが、だんだん保守主義思想の中核が水面下で形成されるような状態で六〇年代に入っていくわけです。

四.二つの一九六〇年代

六〇年代というのは、一般に日本でもアメリカでもラディカルな時代という形で記憶され、事実そのとおりなんだろうと思います。アメリカでは公民権運動にはじまって、その後ベトナム反戦運動が全国的に盛り上がり、そこにニューレフトが絡むような形でフェミニズム、マイノリティ運動、そのさらに後には消費者運動、エコロジー運動とか、いろいろな意味でリベラリズムの可能性が認識された時代です。しかし、そういう公民権運動にはじまる六〇年代というものだけに我々はどちらかと言うと注目ばかりしていて、もう一つの六〇年代があるということにはあまり気をとめてきませんでした。

実はもう一つ、さきほど申し上げたゴールドウォーターにはじまる一九六〇年代というものがあると考えるべきです。もちろん規模としてははるかに小さいのですが、いまから考えると、政治的な効果としてはもしかすると公民権運動にはじまる六〇年代と同等の影響力を持っていたかもしれない六〇年代というものがあります。ゴールドウォーターは『保守派の良心(コンシャンス・オブ・ア・コンサーヴァティヴ)』という本を六〇年代初頭に発表していますが、実はこの本とともにはじまった六〇年代というのも一方であるのだと思います。

一九六〇年の大統領選挙はニクソンとケネディの対決でした。ニクソンはともすると保守派と見られることもありますが、保守派から見ると裏切り者と見なされることさえあります。それは最終的に、七〇年代にニクソン政権が押し進めた政策(「中共」との国交回復、デタント路線の追求)によって確認されます。一九六〇年当時、背後で誰を副大統領候補にするかということをめぐって共和党内で論争がありました。ゴールドウォーターを推す保守派の流れがあって、結局ゴールドウォーターは任命されませんが、共和党の主流派が掲げる路線に不満を抱いた保守派の青年たちが政治団体を設立します。これはYAF(ヤング・アメリカンズ・フォー・フリーダム)という組織で、いまなお保守派の学生組織として機能しています。その若い学生たちがリベラル化するアメリカの政治的・社会的な風土に違和感を持ちつつゴールドウォーターを支持するわけです。YAFは、その後、保守派の人材の供給源みたいな形で機能していきます。YAFは学生組織ですから、YAFの卒業生たちが、さきほど申し上げたACUを設立し、その後、保守派のパワーハウスとしてワシントンで影響力を発揮していくことになります。

では、ACUはどのような経緯で設立されたかというと、一九六四年の大統領選挙で共和党はゴールドウォーターを大統領候補に指名するわけですが、ゴールドウォーターはジョンソンに歴史的な敗北を喫するわけです。その敗北を通じて、いかにリベラルなエスタブリッシュメントが強いか、いかに政治的なアイディアの市場において優位を維持しているかということを痛烈に肌で感じるわけです。これに対してカウンター・エスタブリッシュメントを明確につくっていかなければならない。そのコアになるのがACUだと。つまり、二つの敗北、一回目の一九六〇年の敗北からはYAFが生まれて、一九六四年の敗北からはACUが生まれるわけですが、このような組織が中心になって保守主義のインフラづくりがはじまります。

ちょっと話が前後してしまって申しわけありませんが、YAFが一九六〇年に「シャロン声明」というものを採択します。一九六〇年代を代表する政治文書と言えば、一番有名なのは「ポートヒューロン声明」で、これはニューレフトを代表する組織であるSDS(民主的社会を求める学生同盟)がポートヒューロンというところで採択した文書です。それに先駆けること二年、保守派の若者たちは「シャロン声明」を採択します。これはいまにも連なる保守派の理念を非常に短く凝縮した声明です。反共主義の再確認とか、「デモクラティク・キャピタリズム」、つまり民主主義と資本主義は不可分の体制だということを明確に主張していたりとか、保守主義の核心みたいなものが既に六〇年代冒頭に確認されているわけです。

なぜこういうマイナーな文章をここであえて申し上げたかと言うと、これはあまり科学的な方法ではありませんが、シャロン声明とポートヒューロン声明を、いま例えばグーグルなどを使って検索しますと、シャロン・ステートメントはきちんとYAFやACUのサイトをヒットして、シャロン声明を作成した組織が明確にワシントン、もしくはワシントン周辺で活動していることが明らかになります。しかし、ご承知のようにポートヒューロン声明を作成したSDSは六〇年代後半には解体して、いまはもうないわけです。ポートヒューロン声明を検索すると、検索した時期によって結果はいろいろ違うとは思いますが、私が最後に検索した時はSDSの同窓会みたいなサイトをヒットしたことが象徴的に物語っているように、ここにも保守派の組織の「スティッキー」な性格というんですか、組織が根づいて実際にワシントン周辺にとどまって影響力を行使し続けているという構図を示しています。

他方で、一九六〇年代にリベラル派が立ち上げたものは、目に見えない形で非常に大きな影響力を及ぼしています。例えば、環境問題が認識されたのもこのころですし、女性やマイノリティの権利の向上であるとか、またゲイやレズビアンの存在が認知されはじめたのもこの時期です。明らかにこういう形で社会の変化に大きな役割を果たしていることも間違いありません。リベラル派は、色々な意味で政治的・文化的ディスコースの変容をもたらしました。

しかしながら、政治権力の奪取という側面に限って言うと、ニューレフトは政治というものを非常に文化的に定義したことによってワシントンの権力闘争に関心が向かわなかったわけです。他方、保守派は古典的な意味での権力闘争にこだわって、実際にワシントンにおける権力行使の戦略的な拠点をきっちり押さえていきました。その結果として、確かにいまのアメリカでは、テレビ・ドラマ、映画、ポップカルチャー、音楽の世界を見渡しても、いわゆる保守派が望むものでないような情報が氾濫しています。しかし、政治権力ということに限ってみると、やはり保守派が圧倒的な力を示しているというのは、こういう認識の差から生まれてきているのかなということが恐らく言えるんだろうと思います。

興味深いのは、SDSのポートヒューロン声明、YAFのシャロン声明とも、六〇年代の若者が感じていた閉塞感・疎外感の克復をテーマにしています。しかし、いま申し上げたように、見ている方向が全く違いました。つまり、YAFは政治を動かしているのは若者じゃないんだという強い認識を持っていて、そのためにはワシントンにおいて政治を動かしている人たちに自分たちのメッセージを伝えて、彼らを通じて社会を変革していく必要がある、彼らとのネットワークを構築する必要があるという認識にもとづいて運動を組み立てていきました。それに対してSDSの場合は、確かにポートヒューロン声明を持ってホワイトハウスに行ってケネディの補佐官を務めていたアーサー・シュレシンジャー・ジュニアと面会はしますが、その後のフォローアップはなく、むしろ学生運動は反戦運動、それから例えばブラックパンサーとか、ウェザーマンとか、日本でも見られた現象でしたが、どんどん急進化していって、政治的・社会的メインストリームとの接点をどんどん失っていくという形になっていきました。

ニューレフトが政治・社会の中核部分と接点を失っていく間にも、ACUは次世代を育て、ネットワークを構築し、一見地味ですが出版のような活動にも積極的に乗り出していって、その後の保守主義が開花していくインフラみたいなものをつくる中心的な存在になっていきます。

こういうふたつの六〇年代があって、七〇年代に突入していくわけです。

五.準備期間としての一九七〇年代

七〇年代を共和党はニクソン政権とともに迎えるわけですが、ニクソンは保守派からしてみると非常に複雑な存在です。一般的には、ニクソンは赤狩り、ウォーターゲート事件にかかわったため、反動的で保守的と見なされがちですが、大きな政府という考え方に対して違和感を必ずしも持っていませんでしたし、「中共」とも対話をはじめたわけで、保守派からしてみるとある種裏切り者的存在でもあります。さらに、共和党の評判をウォーターゲート事件によって地に落としたということで、保守派の台頭の物語を語るときにニクソンについての言及は一切ない。そういう意味で、ニクソン政権期は、保守派からしてみると逸脱期間でしかありませんでした。

その背後で保守派は何をやったかと言うと、やはり共和党を建て直すというか、共和党を、保守主義を軸としていかに再構成できるかということを真剣に考えていました。その一環として、一九七二年にいまでもワシントンで非常に影響力を持っているヘリテージ財団というシンクタンクが設立されるわけです。

ヘリテージ財団の設立にかかわった保守派の知識人たちの関心は、共和党の建て直しではありませんでした。やや極端な言い方をすれば、共和党の建て直しには一切興味がなかった。いわゆる保守的な政策を実現するためにはどのような手法があり得るのか。彼らの関心は、この一点に集中していました。だから、場合によっては(現実性はありませんが)民主党でもよかったわけです。彼らがいまでも言うことは、「自分たちはリパブリカンではないんだ。自分たちはコンサーヴァティヴなんだ」ということを明確に主張します。しかし、現実問題、保守主義を軸にアメリカ社会を変えていこうとする場合、民主党を踏み台にはできませんでした。なぜなら、一九七二年の民主党はマクガバーンというサウスダコタ州出身の非常にリベラルな反戦派の上院議員を大統領候補に指名するわけで、民主党を手掛かりに保守主義を実現していくということは全く現実的ではなかったわけです。そういう意味で、共和党を変えていくことによって保守主義をアメリカに定着させようと考える人たちがヘリテージ財団周辺に集まっていました。

それから、いま申し上げた民主党がマクガバーンを選んだことによって、かつてケネディ政権下、もしくはトルーマン、ケネディ政権下にいたような反共リベラルというような人たちが、民主党に愛想を尽かし共和党に転向していきます。さらに民主党の大きな政府志向を批判し、転向したグループもいます。これが後々、新保守主義と呼ばれることになる政策集団です。これはすでにいろいろなところで紹介されていますが、新保守主義のルーツは民主党にあり、こういう七〇年代初頭の民主党の左傾化、大きな政府志向とともに、自分たちの居場所を見いだせなくなった集団が共和党に移行していくという現象が七〇年代に起きます。

この時期の保守派に顕著に見られる現象は、「アイディア・インダストリー」という視点を軸にして運動を組み立てていることです。優れたアイディアを生み出し、それを本に著わし、それで終わりということでは社会は変わらないんだ、それを政策として売り込み、議会もしくは行政府に対して働きかけていくことによって、はじめて実際に社会が変わっていき、そうしてこそアイディアは意味を持ってくるんだと。つまり、知識人は本を書いてそれで終わりにするのではなくて、それを持って回って営業をしなければいけないんだと。さらに、営業するためにはお金も組織も必要です。それを担っていくのがシンクタンクになるわけです。

ヘリテージ財団やアメリカン・エンタープライズ研究所は、七〇年代初頭を転機にして、保守系のアドボカシー・タンクとして機能していきます。AEIはもともと反ニューディール系のシンクタンクとして四〇年代に設立されますが、当初は比較的企業寄りの地味な研究活動をしてきたのですが、七〇年代前半にいま申し上げたような問題意識をベースに表舞台に登場します。

次に、こういう活動の資金を誰が提供したのかということを若干説明させていただきます。研究活動に資金提供する財団としては、例えばフォード財団とかカーネギー財団などの大手の財団が有名です。こういう財団の予算規模は非常に大きい。しかし、このような大型財団の活動は、ある特定の研究・調査プロジェクトに対する支援である場合が多い。例えば、ある一つの研究を何年から何年の間にやってくださいという形での支援です。

このような大型財団の活動に対抗するかたちで、中西部もしくは南部の新興実業家が設立した小規模の保守財団が、六〇年代以降、頭角を現します。例えばスカイフ財団、オーリン財団、リチャードソン財団など、これらは規模としては大型財団とは比較になりませんが、彼らは「ストラテジック・フィランソロピー」ということをやります。どういうことかというと、メインストリームの大型財団とは違って、これらの保守系財団はプロジェクトへの支援ではなくて、組織そのものへ支援を行います。

例えば、保守系財団は保守系の組織にまとめて活動資金を提供し、何のために使ってもいいですよという形で、しかもそれを必ず継続的に行う。なぜかと言うと、保守系の組織は、自分たちはこうこうこういう理念に立脚して活動をするということを常に外に対して明示していますから、お金を出す側も、それがどのような目的に使われるか心配にならないわけです。そういう形で、規模としては必ずしも大きくない中規模の財団がヘリテージ財団とかアメリカン・エンタープライズ研究所などの活動を支え、彼らが後々にワシントンのアイディア産業みたいなものを結果として牛耳っていくというような構図が生まれました。七〇年代には、このような仕組みが出来上がっていくわけです。

ブルッキングス研究所などの名門研究所は、「生徒不在の大学」ともいわれ、まさに大学出版が出すような分厚い研究書を研究成果として出してきました。しかしながら、ヘリテージ財団などの「アドボカシー・タンク」がやるのは、二、三枚の紙に問題となっている政策をコンパクトにまとめて、それを無料で議会スタッフやメディアの人たちにどんどん発送するという戦略です。要は、議会の人たちや日々報道に携わっているジャーナリストたちは、長大な研究書などを読む時間がないわけですから、こういう手法を通じて保守系組織はどんどん自分たちの考え方を現実世界に注入していきました。

六.レーガン、ギングリッチ、そしてブッシュ政権の誕生

こういう形で一九七〇年代に保守派の運動インフラみたいなものが組織化されていって、言葉は悪いですが、七〇年代後半には事実上共和党を「ハイジャック」する。そういう中で保守主義を掲げ、レーガン政権が誕生します。ちなみにレーガンはさきほど申し上げたゴールドウォーター・キャンペーンのために応援演説を行ったときに、初めて政治的な素質がある人物として保守派に見いだされます。その後カリフォルニア州知事を務め、七六年に選挙に出て、共和党の予備選でフォードに破れるわけですが、八〇年にはカーターに勝って大統領になる。こういう形で保守派は政治権力を奪取し、アメリカ政治の表舞台において確固たる存在感を示しはじめます。

それ以降、保守主義の台頭を語るときに述べておかなければいけない政治的な事象が幾つかあります。その一つはさきほど申し上げたギングリッチ下院議長の役割、それから二〇〇〇年のブッシュ政権の誕生などがそうだと思います。これはさきほど若干触れさせていただいたんですが、保守派が勝利するごとにある種の悪玉さがしが儀式のようにメディアにおいて行われる。しかしながら、より大きな政治文化の変容というものも見ていかなければいけないということはすでに述べた通りです。

保守派の台頭という文脈で二〇〇四年大統領選挙の意味合いをあえて言うとすると、レーガンの時代と比べると、共和党自身が相当程度保守化していると言えます。

レーガンは、確かにレトリックのレベルではいろいろ保守的な政策の実現を訴えましたが、政策実績を見てみますと保守とは程遠い部分がある。それはレーガン政権時代には、共和党内にも東部エスタブリッシュメントを支持基盤に持つ中道的な共和党員がまだ確固たるポジションを党内で確保していたためです。また議会における民主党優位の構図もレーガンの目標実現を阻んでいました。しかし、一九九〇年代後半になると共和党自身が相当保守化していました。また議会においても、九四年以降、共和党有利の構図が出現します。二〇〇四年の選挙では、この傾向が再確認されたということがいえるかと思います。

それで二〇〇八年に向けてのブッシュ大統領の課題ですが、「パーマネント・リパブリカン・マジョリティ」をつくることが中心的な課題になってくるわけです。二〇〇八年に再び共和党の大統領がホワイトハウスを手中にすること、上下両院で共和党が勢力をのばすこと、最高裁に保守的な判事を送り込むこと。これらを実現すれば、「保守革命」の実現といっても過言ではありません。大統領職については、優れた候補者を示せれば、民主党が勝つ可能性は十分あります。しかしながら、上院、特に下院においては、人によっては二〇年くらい共和党優位という構図が続くだろうと言う人もいます。

七.道に迷う民主党

民主党の迷走というのは、基本的にはさきほど申し上げた一九七二年のマクガバーン以来のことだと思います。マクガバーンは強いアメリカというものを放棄して、世界と共存し得るアメリカ、共産主義と対決していかないアメリカを軸に選挙キャンペーンを組み立てたわけですが、それ以降やはり民主党は安全保障に弱い政党、とにかく政府の役割をなるべく大きくしていこうという政党というイメージが定着してしまっていて、新しい政治文化の変容に対応していけなくなっているという傾向が見受けられます。宗教と政治の連関の新しい構図の出現にも民主党はうまく対応しているとはいえません。

九〇年代に二期八年間も民主党が政権を取っていたではないかという意見もあるかと思います。しかしながら、クリントン政権の八年間を振り返ってみますと、クリントン自身の発言にも随所に見られましたが、もはや大きな政府の時代は終わったということをクリントンは主張せざるを得ませんでしたし、さらにより重要なのは、クリントンは自分の個人的な資質によって支持を集めたわけで(その意味で彼のことを生まれながらの政治家だという声はいまも消えません)、なにも政治政党としての民主党のインフラがうまく作用して八年の政権が続いたわけではなかったという意見もあります。

色々個人的問題を抱えてはいたものの、クリントン自身の人気が非常に高かったため、民主党は資金集めに苦労することなく、また党のインフラの根本的見直しをすることなく、九〇年代を乗り切りました。他方で共和党はきちっと組織づくりに力を注いできました。

『エマージング・デモクラティク・マジョリティ』という本があります。これは今後民主党が多数派になっていくだろうという議論を展開した本です。このアイディアの核にあるのは、今後人口に占めるマイノリティの割合が増えていき、その結果として民主党は必然的に多数派になるという考えです。この場合、重要なマイノリティ・グループは、ラティーノ・アメリカンです。

しかし、二〇〇四年の選挙を見てみますと、ヒスパニックは半数以上が確かに民主党には投票したものの、アフリカ系アメリカ人とは異なり、相当部分が共和党にも投票しています。これは彼らがカソリックであること、さらにカソリックであるがゆえに文化的に相当保守的であること、であるがゆえにいわゆる社会階層、所得という基準で自分たちをアイデンティファイするのではなくて、文化の問題で自分の支持政党を決めていったということです。ここでいう文化の問題とは、中絶や同性婚にかかわる案件です。その結果として、相当数のヒスパニック票が共和党に流れました。この傾向が今後弱まらないとすると、エマージング・デモクラティク・マジョリティ論は完全に頓挫してしまうわけです。

そういう中で民主党は党の再定義に取り組もうとしています。一番目立つのはジョン・ポデスタです。彼はクリントン政権のチーフ・オブ・スタッフを務めた人ですが、この人がアメリカ進歩センター(CAP)という、これもやはりシンクタンクをつくります。このシンクタンクは民主党版のヘリテージ財団を作る必要があるという問題意識の下に設立されています。つまり、ブルッキングス研究所のように大掛かりな学問的な研究をする研究所ではなくて、民主党系アドボカシー・タンクとして民主党の支援に回るという問題意識で設立され、活動しています。この組織は二〇〇三年の夏頃に設立されましたが、本来は二〇〇八年に向けてつくられたものだと思います。今後このジョン・ポデスタ周辺の動きはどんどん活発化していくんだろうと思います。

しかしながら、さきほど申し上げたように、保守派は別に共和党の立て直しを図っていたわけではなくて、当初は保守主義をどうやってアメリカ社会に浸透させていけのるかということを中心に考えていたわけです。つまり、明確な「アイディア」が運動のコアにあったわけです。それと対比させると、ジョン・ポデスタ周辺の動きはあくまで民主党の再建です。では、民主党の再建のためにどういうアイディアが核にあるのかと探ってみると、なかなか明確なものが出てこない。二〇〇四年の選挙の際、民主党陣営は「反ブッシュ」のスローガンの下に結束し、盛り上がりを見せましたが、自分たちがどういう政党でどういう大きな歴史的な物語を語れて、それを国民とどうやって共有していくのかという方程式が見えてこない。そういう意味で言えば、民主党はいま完全に守勢に回っていると言えます。

八.保守化の外交的インプリケーション

ではこういう保守化現象の外交的なインプリケーションは何なんだろうかということについて若干お話しさせていただきたいと思います。

さきほど保守派にもいろいろ相矛盾する勢力があると申し上げましたが、外交面でも恐らくそれが現れているんだろうと思います。例えば伝統主義とか、特に宗教右派などの勢力は必ずしも外交に積極的な勢力ではなくて、確かに九・一一というある種の異常事態の中でこういう明確な区分けが崩れた時期もありますが、傾向としてアメリカにおける保守は限りなく孤立主義的な傾向が強く、積極的に外に出て行って世界を変えようという気質はむしろない。ブッシュ大統領自身もこういう思想的―思想というとちょっとオーバーかしれませんが、こういう流れに本来は属していたと言えます。

もう一つはナショナリスト勢力の台頭という現象もあります。アメリカにおいてナショナリズムという言葉を使うのはあまり一般的ではありませんが、それはアメリカ自身が「アメリカ」を普遍的なものとして定義していて、普遍的なものというのはナショナリズムとは全く別の方向を向いていますから、結果としては「アメリカン・ナショナリズム」ではあるんですが、アメリカ人自身はそれをナショナリズムとは認識できないという捩れがある。アメリカン・ナショナリストは、アメリカへの脅威に対しては武力を行使してでも積極的に立ち向かっていくべきだと主張しますが、それが普遍主義と結びついているためになかなか抑制作用が働きにくい。

また、これとは若干別の勢力として新保守主義者グループがいます。この人たちはさきほど申し上げたように、本来民主党もしくはリベラル派の中で反共的立場にたっていたグループで、つまり共産圏と対決してでもアメリカは冷戦という構造を打破していくべきだということを主張していた人たちです。この人たちは孤立主義であるとか、いわゆる脅威を前提にアメリカの国防政策を語るナショナリストたちとも若干別の存在です。その根幹にあるのは、「脅威」ではなく、「アメリカの歴史的使命」です。そういう意味で、保守派の外交政策と言っても様々です。

配布資料に「ひとつでない様々なユニラテラリズム」と書きましたが、伝統的な保守の場合には一方的にアメリカが世界から撤退するという意味でのユニラテラリズムで、ナショナリストの場合にはとにかくアメリカに対する脅威であればほかの国との関係は考慮せずにそれを断固として排除していくべきだというユニラテラリズムです。具体的に言えば、ABM条約から脱退してでもアメリカはミサイル防衛システムを構築すべきだという形で現れるようなユニラテラリズムです。さらに、最後のユニラテラリズムは、アメリカはとにかく世界に出て行って世界を変え、アメリカにとって望ましいものはすなわち世界にとって望ましいものという考えに支えられたユニラテラリズムです。

この三つのユニラテラリズムは、実は別の方向を向いています。従って、アメリカはユニラテラリズムの国だということは、何も説明していないのに等しくて、その中で幾つかある流れが微妙にどう相互作用し合っているかという点を見極めていかなければいけないんだろうと思います。

九.第二期ブッシュ政権の外交・安全保障政策

最後に、これは本当に直近の話ですが、第二期ブッシュ政権の外交・安全保障政策について触れさせていただきたいと思います。

パウエルというある種の政権内のバランサーがいなくなることによって、ブッシュ政権は今後第一期政権のユニラテラリズム傾向を一層加速化させるのではないかというような見方が恐らく一般的なパーセプションです。

しかしながら、私は必ずしもそうは見ていなくて、それはライス新国務長官が、実務家のゼーリックを副長官に任命したことなどにも顕著に表れているといえます。ライス国務長官は確かにホワイトハウスで第一期ブッシュ政権の外交政策を支えましたが、彼女は本来共和党旧主流派の考え方を引き継ぐリアリストです。彼女はブレント・スコウクロフト元大統領補佐官の系譜に位置づけられる人物です。そういう意味で言うと、本来は非常にリアリスト的で、勢力均衡的な観点から国際社会を見る人物です。

国務副長官としてジョン・ボルトンという人を指名するのではないかとの見方もありました。彼は対北朝鮮強硬派ですし、対イラン強硬派です。そういう意味で、ボルトンが任命されるとアメリカは相当つき合いにくい相手になるなという意見があったかと思います。しかしながら、ライス国務長官はUSTR代表のゼーリックを指名しました。ゼーリック新国務副長官はイデオロギー的な視点から物事に取り組むようなタイプの人ではなくて、ハード・ネゴシエーターではあるけれども、ある種のプラグマティストで、こういうところにもライス国務長官の本来の考え方の影響が出てきているといえます。

ラムズフェルトとウォルフォウィッツは留任したではないかという意見もあるかと思います。しかし、全体として、二期目のブッシュ政権においては、国防省主導ではなく、国務省主導傾向が強くなると思われます。

それから、第二期ブッシュ政権は自らがつくり出したポスト九・一一テロ以降の世界情勢に相当程度拘束されつつ政策運営をしていかなければなりません。パウエルというバランサーが辞任しても、むしろ現実の世界情勢がブッシュ政権を拘束するような形になるのかと思います。

その結果として、第二期ブッシュ政権の外交・安全保障政策はダメージ・コントロール・モードに入っていくのではないでしょうか。そういう意味で、私は、次はシリアだ、次は北朝鮮だということにはならないと見ています。むしろ、保守が関心を寄せる国内的な課題に取り組むことによって、自らをゴールドウォーター、レーガン、ギングリッチに連なる分水嶺的な保守派の政治家として位置づけるべく、例えば社会保障政策の改革とか減税の恒久化とか訴訟社会の改革とか、こういう国内的なイシューを軸に第二期政権は運営されていくことになると思います。

いま第二期政権はダメージ・コントロール・モードに入ると言いましたが、アメリカでイラク問題が本当に選挙のイシューになるのは二〇〇八年ではないでしょうか。一月三〇日にイラクで選挙が行われる予定になっていますが、この四年間でイラク情勢がそんなに簡単に収まるとは思えない。となると、共和党の中からどういう批判の声が出てくるのか、もしくはブッシュ政権のやってきたことを踏襲するような形で誰かが出てくるのか。さらに、民主党がそれに対してどういう議論をぶつけていくのか。二〇〇四年はやはりまだ九・一一の余韻があって、イラク戦争を本格的に選挙のアジェンダに掲げることはできませんでした。そういう意味においては、四年遅過ぎるとの批判もあるでしょうが、二〇〇八年にイラク情勢が大統領選挙のアジェンダになっていく可能性があります。

最後、簡単に第二期ブッシュ政権の日米関係ですが、確かにアーミテージ国務副長官であるとか、ケリー国務次官補であるとか、日本の特に政策コミュニティが馴染んできた人たちが政権からいなくなって、若干風通しが悪くなる可能性はなくはありません。しかし、同じ政権が続くということで、少なくとも政府レベルの日米関係は良好な状態が続くと思います。新しく就任するシーファー駐日大使ですが、ブッシュ大統領とも個人的に非常に親しく、直接電話ができる人らしいので、日本がいままでなじんできたような大物の元政治家の大使ではありませんが、実際にワーキング・レベルでいろいろな仕事ができる大使を送り込んできたということで、日米関係は少なくとも政府レベルでは良好な関係が続くのだろうと思います。

他方で、若い人に限らないのかもしれませんが、ある種の「軽い反米」、つまりまだ本格的に政治的回路に流れ込んでいってはいませんが、アメリカに対する不信感みたいなものが、やはり日本国内でも相当高まってきているのではないでしょうか。こういう「軽い反米」が基地問題のハンドリング・ミスとか、ほかの何らかの事態を通じて、政治回路に流れ込んでいくと、厄介な状況が発生する可能性がないとはいえません。ブッシュ政権に対する日本国民の違和感と、ブッシュ政権が実際に世界でやってきたことに対する反感みたいなものが、今後の日米関係にどういう影響を及ぼしていくかということはきちんと見ていかなければいけない問題だと思っています。

どうもありがとうございました。

――中山氏 講演 終了

南山大学社会倫理研究所