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田舎の神童が国連事務総長へ…潘基文外相の生い立ち

 潘基文(パン・ギムン)外交通商相の幼い頃の特技は「勉強」だった。1944年、忠清北道陰城郡で生まれ、小学1年生のときに忠州に移り住んだ潘氏は、子どもの頃から常に成績はトップで、信頼も厚く、いつも学級委員に選ばれていたという。倉庫業をしていた父(潘明煥(パン・ミョンファン))が50年代末に事業に失敗する前までは比較的裕福な環境で模範生として成長した。

 「4男2女の長男だった兄は、小学校の頃から勉強ができることで有名だった。弟や妹は皆、学校で“潘基文の弟(妹)”と呼ばれた」(4男のパン・ギョンヒさん/薬剤師)。

◆忠州の英語の神童

 今日の潘氏を作ったのは英語の実力だった。忠州中学に通っていた頃、英語の教師がその日に習ったことをノートに10回ずつ書いてくるという宿題を出した。潘氏は毎日しっかりとその宿題をし、文章を丸暗記するようになった。高校1年のときには、同じクラスの生徒たちのために英語の教材を作ったこともある。潘氏が高い英語力をつけることができたのは、忠州の肥料工場のお陰だった。その工場には米国人のエンジニアとその家族20人が暮らしていたのだ。「米国人のエンジニア夫人たちが順番で英会話の指導をしていたが、忠州高校の潘基文という生徒が1番優秀だと言っていた。その生徒は英語の文章であれば何でも丸暗記してしまう。英語にとりつかれた人のように…と言っていたことを思い出す」(故郷の先輩/安栄洙(アン・ヨンス)慶熙大学教授/女性)

 並外れた英語の実力で、高校2年生のときに赤十字社が主管する「外国人学生の米国訪問プログラム(VISTA)」に出場することになった。韓国からは4人が選ばれたが、小都市出身の潘氏が選ばれると、「忠州市が大騒ぎになった」(弟/パン・ギサン/事業家)と話す。潘氏は翌年、高校3年の夏に1カ月間、米国を訪問することになったが、米国人への手土産にして欲しいとして、忠州女子高校の生徒たちが家庭科の時間に絹製の小さな巾着を作ってきた。これを代表で渡しに来た女子生徒こそ、潘氏の未来の妻になる忠州女子高の学生会長・柳淳沢(ユ・スンテク)さん。柳さんは潘氏が国家公務員採用Ⅰ種試験に合格した翌年の71年、ソウル黒石洞の家賃10万ウォンの一間で潘氏と新婚生活を始めた。

 潘氏は米国を訪問し、ワシントンで外国の学生たちと共にジョン・F・ケネディー大統領に会った。潘氏はこのときの写真を時折眺めては、外交官、長官、国連事務総長への道を一歩一歩進んでいった。

◆米国ではなくインドの総領事館を志願

 父の事業の失敗により経済的余裕がなくなり、苦学生としてソウル大学外交学科を卒業した潘氏は、70年に国家公務員採用Ⅰ種試験に合格、外交官になった。チェ・ソンホン元外相に次ぐ全国第2位の成績だった。潘氏は家族に「これまで1等にしかなったことがなかったのに、初めて2等になった」と話したという。新入外交官の研修を終えた後に再び1等になり、駐米大使館に発令を受けることになっていた。しかし、当時潘氏は発展途上国のインド(ニューデリー)総領事館での勤務を希望した。潘氏の弟のギサンさんは「米国に行けば貯金が難しいが、発展途上国ならば経済的に余裕ができ、家族を助けることができると判断したためだろう」と話した。

 潘氏のインド総領事館勤務志願は潘氏の外交官生活に少なくない影響を与えたノ・シニョン在ニューデリー総領事に出会うきっかけとなった。インドとの国交のために派遣されたノ氏は、新米外交官の英語の実力、敏捷さ、判断力、誠実さに一目置いていた。73年、韓国とインドの国交樹立により、在ニューデリー総領事から在インド大使になったノ氏は、会議で潘氏を公開的に称賛した。ノ氏は回顧録でインド勤務当時のことを回想しながら「わたしを助け、たくさんの仕事をすることになった潘基文事務官はまだ新婚だった」と書いている。

 ノ氏は国家安全企画部長を経て首相になると、1級のみに任命するはずの儀典秘書官に3級の潘氏を指名した。これに続き、87年に理事官(2級)に超高速昇進させた。すると潘氏は当時の自分の同期、先輩、後輩など100人に1週間に渡って手紙を書いた。「早く昇進してしまって申し訳ない」という内容だった。

◆ABM事件

 潘氏は金泳三(キム・ヨンサム)政府で外交部次官補、大統領府儀典首席、大統領府外交安保首席へと順調に昇進を続けた。しかし金大中(キム・デジュン)政府ではその勢いに歯止めがかかった。在オーストリア大使から2000年になったやっと次官になるにとどまった。潘氏と同じ時期に長官に任命された李廷彬(イ・ジョンビン)国際交流財団理事長は当時、記者たちに「わたしは運がよい。潘基文を次官にして長官になるとは…わたしは楽に長官職を務めることができるでしょう」と述べている。

 2001年、潘氏の外交官人生は31年目の峠を迎えた。その年の2月、実務者らのミスで、韓露首脳会談の合意文に、ブッシュ行政部が破棄を主張していた弾道弾邀撃ミサイル制限(ABM)条約の「保存と強化」を骨子とした文章が含まれてしまったのだ。

 韓米間で大きな波紋が広がった。金大中前大統領は2001年3月、ワシントンで行われた韓米首脳会談を終えた後、「わたしがこの問題で米国側にどれ程謝罪をしたかわからない」と述べた。李廷彬長官と潘氏は更迭された。問責レベルの人事だった。不名誉な退陣をした潘氏は、「死にたい。わたしは自分のために1時間の時間も使ったことがないのに」とし、一切の連絡を絶った。慶熙大学の安栄洙教授は“失業者”になった潘氏に「もう運転手付きの車はないのだから、地下鉄に乗るように」と回数券を買って渡したという。

◆災い転じて…

 その4カ月後、韓昇洙(ハン・スンス)元外交部長官が抜擢された。韓長官は自身が国連総会議長になると、潘氏を国連総会議長の秘書室長兼国連代表部大使としてニューヨークに赴任させた。外交部次官を務めた人物が国連で局長級の仕事をするのかという揶揄もあったが、この仕事が結局、潘氏が国連事務総長選挙に出馬することに有利に働いたのだった。

イ・ハウォン記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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