『ランデヴー<rendez-vous>』 橘 紅緒
格調高いホテルのロビーラウンジで、彗は一人、文庫本を開いていた。それを鞄に常備する習慣がついたのは、大学に通いだしてからだ。電車での通学時や、突然休講になった講義時間を凌ぐのに、そこそこには暇が潰せるアイテムだった。
紙面の活字を追いかけながら、コーヒーカップに指をかける。ソーサーから持ち上げたカップを口に運ぼうとして、液体の揺れを伝えてこない軽さに、あれ、と中身に目をやった。
「…あー、」
溜息のように、小さく声をもらす。
カップの底には、茶色の膜が薄く沈澱していた。
ソーサーにカップを戻し、文庫本を持っている手首をくるりとひねって時間の経過を確かめる。
「どなたかと待ち合わせですか?」
斜め前方から、人の気配とともに声がして、彗は腕時計に落としていた目をチラと動かした。そこに、テーブルの脇でこちらを向いているスーツの三釦を見て、ゆっくりと視線をあげていく。最終的に、自分を見下ろしている見知らぬ男性の笑顔とかち合った。
どうやら話しかけられたらしいとわかり、彗は文庫本を閉じて、音を立てないようにテーブルの隅に置く。面識のない人物から声をかけられる、こういったシチュエーションにはわりと慣れていたので、あまり驚かなかった。
「なにか?」
男を見上げ、彗はおっとりとした語調で尋ねる。男が次にとる行動が、彗には予想できていた。案の定、男はスーツの内ポケットから名刺ケースを抜き取る。
相手が引き際を心得ていることを願いながら、彗は断りの文句を喉元に準備した。
「突然、すみません。実はわたくし、こういう者でして」
男が前置きを述べ、肩書きが書かれた名刺を差し出してくる。受け取らずにさっと目を通し、彗は「興味ないんで」と、左の掌を立てようとした。その手を、ぴたり、と止める。
ロビーからラウンジへの段差を、待ち人が緩慢な足取りで下りてきたのに気づいたのだ。遠目でさえ実に華やかなルックスは、職業がモデルだと紹介されれば疑う余地がない。けれど、実際の彼の仕事はといえば、モデルを撮る立場にあるカメラマンだった。
十二月の寒波に上着を持ち合わせていないところから察するに、ホテルの地下に車で乗りつけたのだろう。キャッシングコーナーの前を横切りながら、静の視線がゆっくりとした流れでラウンジを洗う。目が合ったので、彗は中途半端にあげていた手を顎の横で小さく振った。
彗の仕草に、おや? という表情をして男が振り向く。もうすぐそこに来ていた静の姿を認めるや、スーツの背中が「静先生…!」と、驚きの声をあげた。
男の顔を、静は数秒じっと見て、ゆっくりとしたまばたきと同時に視線を外す。
「申し訳ない」
相手を記憶していないことを素っ気なく告げ、静は彗の向かいに深く怠そうに腰をおろした。
「いえ、そんな、」
男が目を大きくして焦った声をだす。
「こちらで勝手に存じ上げているだけでして、ああ、申し遅れました」
慌てふためかせていた身振りを正し、男は両指で真っ直ぐ水平に持った名刺を静に向ける。
「大変失礼を致しました。わたくし、KAZAMIプロダクションで高瀬イズミのマネージメントをしております、小松原、と申します」
「……ああ、風見社長ンとこの。―――スカウトですか?」
静にズバリと言い当てられ、小松原はばつが悪そうに眉で八の字を書いた。
「実は、ここで人待ちをしていたんですが、―――ええ。彼、なんというか、そう、とても目を惹きましてね」
小松原の弁明を、静は話半分でしか聞いていないようで、半眼にした双眸で斜に彗を眺めている。肩を竦め、彗は左右に二度首をふった。
やましいところなんて、ない。
「……ふーん」
視線を遠くに流し、静は感情の見えない無感動な相槌をうつと、指に挟んだ小松原の名刺を眼前に翳した。
「――小松原さん、」
名前を読み上げた名刺で、小松原の背後を指す。
「待ち合わせの相手がお見えになったようですよ」
静に教えられ、小松原は「え、」と、名刺が示す方向に首を動かした。
彗もそちらを見る。
キャッシングコーナーの前で、恰幅のいい年配の男が静に会釈してきた。目挨拶だけでわざわざこちらにやってこないところから察するに、煩わしいことを嫌う静の性格を熟知した間柄なのだろう。小松原は慌てて男に頭を下げ、静にも同様に一礼をした。
「すみません、バタバタしてしまいまして。あの、また是非、後日改めましてご挨拶させて下さい」
辞する言葉を慇懃に静に告げると、小松原は小首を傾げるように、ニッコリと彗に微笑みかけてきた。指が名刺ケースから新しい一枚を抜き取ろうとしている。制す言葉を発そうとした彗よりも早く、静が先に口を開いた。
「これは、ダメですよ」
静から低い声音の忠告を受け、小松原は「ああ、」と、合点がいった面持ちで彗を見る。
「もうどこかと契約を?」
口惜しげな問いかけに、彗ははにかみ、小さく頷いた。
「一歩遅かったかあ」
大仰に片手を額にあて、小松原が独りごちる。
「五年遅い」
呟いた静の声を、小松原はうまく聞き取れなかったのかもしれない。それとも意味を理解しかねたのか、不思議そうに首をひねっている。
「筒井さんがお待ちですよ」
口端を歪めた静から退去を促され、小松原は思い出したように後ろを振り返った。
「ああ、いけない、本当だ。すみません、それではこれで、失礼します」
最後に再び静に腰を折った小松原と入れ替わりで、ウエイターが水を運んできた。
「ご注文は?」
「いや、もう出るんで」
ウエイターにクレジットカードを渡して、静が席を立つ。珍しく煙草に手をつけなかったから、おそらくここに長居はしないのだろうなと思っていた彗も、黙ってそのあとを追った。
ラウンジを出て、地下駐車場へ降りようとしているらしい静に従い、エレベーターに乗り込む。他に同乗者がいなかったので、彗はそっと静に寄り添った。
「おかえりなさい」
静の肩に額をあてて、ひっそりと囁く。
見下ろしてくる視線を感じたけれど、顔はあげなかった。
「昨夜、言えなかったから」
呟く彗の言葉と重なり、軽い到着音でエレベータードアが開く。もしも人目があってはいけないと、彗は半歩、静から離れた。
地下駐車場の冷たい空気が、吐き出す息を微かに白く染める。
約一か月、撮影のためヨーロッパに滞在していた静が、今朝ベッドで目覚めると彗の隣で眠っていた。今日着く便に乗るとは聞いていたけれど、まさか夜が明けるまえに帰ってくるなんて思いもしなかったのだ。そうと知っていれば、夜通しでも起きて静の帰宅を待っていたのに―――。
今朝は午前の講義が入っていたから、大学に行く用意をしながら何度も寝室を覗いてみた。死んだように深く眠っている静は起きる気配もない。結局はそのまま、話すこともできずに家を出た。
「起こしてくれればよかったのに」
なじるように彗は呟く。
「そっちだって起こさなかったじゃねぇか」
すこし前を歩いている静が振り向きもせずに反論を寄こしてきた。
「そんなヤだよ、寝てるとこ起こしたらすっごい機嫌悪くなるの知ってるもん。もうあれ、最悪。どうにかなんないかな」
「なんねぇな」
考慮するつもりなど更々ない声を返してくると、静は前方に連なる車の内、一台のハザードランプを点滅させた。見慣れたシルバーボディのシーマだ。これに乗るのも一か月ぶりだな―――と、軽い懐かしさを感じながら助手席のドアを開く。
「時間は?」
すでに運転席で煙草を燻らせている静に空き時間を尋ねる。このあとまだ仕事があることは知っていた。
「そんなに」
答えは芳しくない。そのうえひどく曖昧だ。
「一緒にゴハンする時間とか」
「ない」
躊躇ない答えに、「なんだ、」と、気持ちが沈む。
「がっかり」
率直に思いを伝え、彗はコツン、とシートに頭を当てた。
「ちょーどなあ、スタジオ移動しようってときにおまえから電話あったからさ」
「え、」
シートベルトをかけようとしていた手をぴくりと止めて、彗は静の横顔を見た。
「――それ、何時入り?」
「六時」
「いま、五時半なんだけど……」
「ああ」
そんなことは言われなくても知っているという態で、静は細く紫煙を噴く。
「ウチまで送ってく。それともなんか予定入ってんの?」
―――空けているに決まってるじゃないか。
開きかけた口を、思い直してキュッと結ぶ。
―――送っていくなんて、なにを寝惚けたことを言っているんだろうこの人は。
そんなことは不可能だ。
「だから、いま五時半だって言ってる」
低く押し殺した声で彗は時刻を繰り返す。
「なに機嫌悪くなってんのおまえ」
口角を歪めて笑う静に、胃の底がキリッと痛んだ。
―――どうして?
それは自分が訊きたい台詞だった。
どうして、気づいてくれないのだろう。
「いい。自分で帰る」
言い捨てて助手席のドアを押そうとした手首を伸びてきた手に掴まれた。
まったくわけがわからないと、静は訝しげな表情でいる。
「なに? 帰んなら送ってくっつってんじゃん」
「そんな時間どこにあんのッ」
ヒステリックに静の手を振り払った己の言動に、彗は瞳を大きくして揺るがせ、ゆっくりと、額を押さえこんで俯いた。
―――なにやってんの。
きっと、みっともない顔をしている。
重い沈黙が停滞している空間に、煙草を揉み消す小さな音が聞こえた。
こめかみに、撫でるような軽さで静の指が触れる。
「――彗」
「……ごめん。ほんと、なにイライラしてんだろ」
浅く息をつき、一瞬だけ掌を重ねた静の手を、「大丈夫だから、」と押し返す。
顔を見ることはできなかった。
なんとなく、温度差を感じたのかもしれない。自分が静を想うほども、相手は情熱を持っていないのだと。彗にとっては長い一か月が、静にしてみればたかだかというレベルなのだろう。
帰ってきたよと、すぐに起こして報せてくれなかったことが寂しかった。
傍にいられれば、それだけでいいと思えた頃もあったはずなのに―――
―――欲張りになるばかりだ。
「……仕事――、」
言葉を切り、気持ちを落ち着けて、運転席に顔を向ける。焦点を絞るように細くした目が、じっと彗を見ていた。
「……がんばって」
ぎこちなく微笑み、彗は車を降りようとドアに手をかける。肩を、強い力で掴まれた。びっくりして振り向いた頭を大きな掌にしっかりと覆われ、引き寄せられる。
唇に、噛みつかれたのかと思った。
「んッ…、」
―――にがい……
煙草の味。
馴染み深いマイルドセブンの苦みが、舌の根を掬うようにして絡みついてくる。
突然のことに、彗は静の上腕にぎゅっと縋った。
唇の合わせ目が緩い強弱で深くなり、浅くなって、また深くなる。繰り返されるリズムに、きつく瞑っていた彗の瞼から力が抜け落ちた。重ねる角度を変える都度、お互いの唇の間で濡れた音がたつ。両腕が、知らず静の首を抱いていた。
「――…は、…ァ」
震える吐息をつく彗の唇の形を確かめるように、静の舌先がそこを辿る。
「カーセックスなんてな、そんな不便なことするヤツの気が知れねぇって思ってたけどさあ」
話しながら、唇で唇の表面を掠めてくすぐると、静はニヤリと笑って運転席に躰を退いた。
「意外にアリかもな。シートベルトしろ」
甘く痺れる躰をシートに預け、彗はのろのろと頭を動かす。掌をあてた首筋が、通常よりもずっと速い脈拍を刻んでいた。
「……でも、」
異論する息も、いまだ熱に浮かされている。
「ここからウチまでって、三十分はかかるし……」
彗を六本木のマンションに送っていては、撮影の入り時間に確実に間に合わない。
ステアリングに手をかけ、足でパーキングブレーキを解除する静が、「だからそれさぁ」と、口を開く。
「六本木スタジオなんだよ」
「……え?」
「シートベルト」
横目でウエストを睨まれ、彗は慌ててシートベルトを引いた。
「悪かったな」
静が口早な謝罪を寄こしてくる。なにに対してそう言われたのか判然とせず、言葉を返せずにいる彗に、静の目がフロントガラスからチラと動いてきた。
「ハラ減ってんだろ?」
「…………」
あまりに的外れたことを言われたせいで、口が半開きになってしまった。
先刻の彗のヒステリーを、どうやら静は空腹のせいだと思っているらしい。
呑気な誤解をしている静に、彗は重い溜息を腹の底から吐き出した。
―――……呆れた。
まるで、わかっていない。
「馬鹿じゃないの」
口のなかで愚痴る。
「なんつった?」
聞き咎めた静が地を這うような低い声で確認をとってきた。
タイヤがスロープを駆け上がり、シーマが走り出た街の空は、もうすっかり夜の帳が降りている。
「何時に帰ってこれそう? って、訊いた」
流れていくネオンを車窓から眺め、彗はまったく別のことを口にした。
静が小さく鼻を鳴らす。
「シラっとごまかしてんじゃねぇよ」
「うん。でも、本当に。今日、何時に帰ってこれる?」
運転席に首を動かし、彗が改めて尋ねると、静はしばし考えるように、ステアリングを人差し指でトントン、と叩いた。
「24、5」
告げられた業界読みの予定時刻を、彗は「1時かぁ…」と、換算して呟く。
「起きてろよ」
もちろん、そのつもりだった。
「でも寝てたら、起こして」
昨夜の皮肉をこめて予防線を張っておく。それなのに静はフロントガラスを見たまま、うんともすんとも返事をしようとしない。
「起こしてよ?」
運転席にやや身を乗り出すようにして彗は念を押した。
「寝てるおまえは起こしたくない」
おもむろに述べられた静の言い分に、彗はまんまるくした目を徐々に眇めていき、鼻のつけ根に力をためた。
「人聞き悪いなあ。僕そんな、静さんみたいに寝起き悪くない」
心外だと反論する彗を、静は呆れたように口端で苦笑う。
「そういうこと言ってんじゃねぇよ」
「……じゃあ、なに?」
他には理由が思いつかず、彗は訝しく運転席の横顔を窺った。
「――彗。おまえさぁ」
「うん?」
小首を傾げる彗に、静が嫌そうな目を向けてきて、すぐに前方へ視線を戻す。そしてどこか困ったように左の眉を下げ、「馬鹿じゃねーの?」と、笑った。
おわり
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