2007年10月 壱岐・対馬

さあ、しゅっぱつだ!!レールスター8時2分発 よくみえる、 よくみえる

ヴィナスが入港する博多港.。壱岐郷ノ浦港まで1時間で着く


壱岐の北にある勝本港へ
イカ釣り漁船、よく見るとランプがあるよby一樹 一樹の言うアワビを刺身にしてくれた。

一樹の希望する大幸の赤生うに定食 このたべっぷり

三韓征伐の神功皇后を祀る聖母宮

あれ〜一樹がどこへ行っているのだろうby幹人


イルカパーク
バンドウイルカの餌ずけ


あ!いるかだあby一樹、紗希&幹人

イルカに触ろうとする孫たち。   『触れそうだ    あっ! だめだ〜』by一樹&紗希

きれいなビーチで貝拾い

勝本城山公園から望むと、いろんな島が見える。海が奇麗だ

松尾芭蕉の弟子の河合曽良の句『春にわれ乞食やめても筑紫かな』



掛木古墳、6世紀後半〜7世紀前半に造られた直径30mの円墳 鬼の岩屋(横穴式石室古墳)。直径45m,高さ13mの同時代の円墳。


さる岩
どちらが猿に似ているだろうか? 45mの高さの玄武岩。日本一の猿岩

黒崎砲台跡。第二次世界大戦の地下要塞、砲弾は1t



千年の宿平山旅館
伝承”神宮皇后三韓征伐の帰りに応神天皇の産湯に使った温泉”

神功皇后が仁徳天皇を出産しここ湯本温泉に浸かっている絵
茶褐色の湯本温泉

最初は赤生うに大喜び このおいしそうな食べっぷり


伊勢えびに大喜び いかの生き造り


この大きな生き造りに大喜び



原の辻遺跡
魏志の倭人伝には30国があるが、その内で都の場所が特定出来ているのは、壱岐国の原の辻遺跡のみである。
紀元前3世紀から紀元4世紀に形成された、周囲1kmの多重環濠集落。

鴨が害虫を食べてくれるので、稲が自然に成長する

竪穴式住居 日本一古い船着き場

右上は、古代の赤米、右下は、日本最古の秤の重り

壱岐国の王様とおきさき様


左は、壱岐のむぎ焼酎発祥の地。
産地ブランドを持つ。

鬼たこ(民芸品) 11時20分発のジェットフォエールにて対馬へ

壱岐・郷ノ浦港⇒対馬・厳原港へ  約1時間で着く
   時速80Kmで航行する。
 ”この海域は、鯨などの回遊生物が多く見られますので、急停車、急旋回することがあります。シートベルトをお締めください”
 『おれ、鯨を見張っていてやる』by一樹
 20%の乗車率、のんびりと1時間の船旅
お昼は、壱岐の海女心で購入した海栗めしに赤生うにをのせて食べる。大いに満足。

対馬藩お船江跡。5基の船着き場がある、



1615年万松院
百雁木とよばれる123段の自然石の大石段を登ると、御霊屋(おたまや)がある。

霊屋には第19代義智公から第32代義和公までの歴代藩主と正夫人の墓がある。 墓地は日本三大墓地(萩の毛利家、加賀の前田家)と言われている。
右の階段は殿様専用、左の石橋から上る階段は、家老以下が使用した。



 韓国併合時代1931(昭和6)年5月8日、第16代対馬藩主宗武志と朝鮮李王朝最後の王女、徳恵(とくえ)姫との結婚式が挙行された。
1528年建築の金石城。対馬宗氏の居城。



上:石屋根
対馬で産出される頁岩(けつがん)という板状の石で屋根を葺いた高床式の建物で、倉庫として使われていた。日本では対馬だけの珍しい建物。

 左:梅林寺は、538百済の聖明王が仏教、経典を伝えた仏教公伝ゆかりの地に、南北朝時代に建立された古刹。


和多都美神社
波静かな入り江に立つ鳥居は、竜宮伝説そのものであ。海神神社の一の宮として、遠く神話の時代、彦火火出尊が失った釣り針を求めてこの海宮を訪れ、豊玉姫と結ばれたと伝えられている。
 本殿正面の、波静かな浅茅湾の入江に立つ大鳥居は、海の干満によりその様相を変え神秘の環境の中にある伝説の神社である。

烏帽子岳展望台からの浅茅(あそう)湾をのぞむ


円通寺

峰町佐賀は1408年第7代貞茂が府を置き、1486年第10代定国が厳原に国府を移すまでの78年間、島主宗氏の居城があった。

円通寺は宗氏の菩提寺である。
朝鮮風の本堂。本尊の薬師如来座像(高麗仏)は見れなかった。

14.15世紀の李氏朝鮮風の梵鐘(県指定文化財)⇒右



対馬グランドホテル



藩校日新館門(尊王攘夷の対馬藩)この門は、藩主宗氏の中屋敷門であったが、藩校日新館に用いられた。
 1862年対馬藩は長州藩と尊王攘夷運動に対する共同戦線の盟約を結んだ。


壱岐国分寺
 客館は明治になって解体され、国分寺は火災で炎上したが、山門だけは類焼を免れた。
第12回朝鮮通信使は、対馬で聘礼(へいれい)式
 1811年徳川家斉の将軍襲職を賀す第12回朝鮮通信使は江戸まで行かずに、対馬で聘礼(へいれい)式が行われた。この方式になったのは、幕府、諸藩、朝鮮も莫大な経費を削減出来るからである。3月336名の通信使が対馬厳原に到着し、幕府側の上使は小笠原小倉城主、副使は脇坂龍野城主など、、、。この易地聘礼の成功により、対馬藩は2万石が加封された。この聘礼式で、朝鮮の国書に難解な字句があり、幕府の儒官が解せなかったのを、対馬藩の真文役、川辺清次郎がこれを解読し、その出典まで知っていたことを、『江戸にもない対馬の学問』と上使から賞賛された。川辺は家が貧しかったが、藩には奨励策(稽古料を給し、芳洲の作った学校で教育する)があったのである。
  朝鮮通信使の聘礼式の1807年国分寺に客館と山門が建立された。幕府から9万両の下賜金が与えられ、須佐奈湾、鰐浦港の整備や厳原の市街地整備にも使われた。

雨森芳州の墓。木下順庵の門下生で、弟弟子の新井白石と経費節約で論争する。対馬藩の朝鮮外交を担当した。 厳原発13:00⇒博多15:15着.

メニューをつかんで離そうとしないみどちゃん。
 めんこいねぇ。 ぷくみど時代と比較して頬のラインがすっきりしてきた。
もう10月下旬だというのに強い日差し、日中の最高気温は28℃、半袖で十分だ。 当地では今、どこもかしこもハロウィンだらけ。 とうさんがディズニーランドへ連れて行ってくれたよ