遺体なき葬儀
いろんな事件がある。
今日もニュースをつければ、散弾銃乱射事件、犠牲者の葬儀を伝えていた。
最近、『「死」の教科書~なぜ人を殺してはいけないか~』産経新聞大阪社会部(扶桑社新書)を読んでいる。そこには、JRの脱線事故で突然に愛娘を失った方の日記も紹介されている。
突然に、最愛の人がいなくなってしまう、受け入れがたい現実を前に、人はどう想い、どう考え、その後、どう歩いていくのか・・・
今日、葬儀があった。
でも、いつもの葬儀と違うのは、そこに「遺体」はなかった。
実は、15年前に突然に失踪した方の葬儀だった。事件に巻き込まれたということ。警察も「殺されている」と認めた上で捜査をしてきた。
その「現実」の中を、15年間もの長い間苦しみながら生きてきた母であるバアチャン。結局、息子さんは帰って来ないまま。そして、15年。
バアチャンは最近、夜になると、「息子さんの夢」を見る回数が増えた。同居している家族の皆さんもバアチャンを支えながらも共に苦しんできた。
そして、バアチャンは「区切り」「ケジメ」として、その息子さんの「遺体のない葬儀」を執り行うことを望んだ、そういう法要だった。僕にとっても、初めてのケースだった。
受け入れ難い「現実」を前にした家族、その人たちにかける「言葉」など、僕には持ち合わせていない。それがよく分かった時間だった。
ただ、バアチャンは明るかった。割り切れないまま、でも、明るかった。
「これで、心残すことなく、息子のとこへ逝ける・・・」
そう言ってまた笑った。
受け入れがたい現実を受け入れるのは、本人しかいない。その受け入れ方も、人それぞれにあるのだろう。
受け入れられないままに受け入れたバアチャンの笑顔のように。
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