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第13発『負け戦』


「あいつが今回のターゲット、屋代摩子よ」
 修学旅行二日目の夕食は、宿泊先のホテルの豪勢なバイキングだった。
トレイを自分のテーブルに運ぼうとしていた僕の袖を、隣にいた北原がひっぱった。
彼女が見つめる先、四組のテーブルの一角に、屋代摩子とおぼしき派手な化粧をした女子生徒
の姿がある。
その隣には、両腕を組み、大きく開いた脚を貧乏揺すりしている、浅黒い肌の男子生徒。
二人して全身からDQNなオーラを放っている。鳩の群れの中に二匹だけ紛れ込んだカナリア
みたいに、明らかに周囲から浮いていた。なんというか、強烈なカップルだ。
「山田光義。最近屋代摩子と付き合い始めた男子生徒」
北原が小声で補足してくれた。
 見れば、屋代と山田の二人は、互いのスプーンで料理を相手の口元に運ぶという、良識のあ
るカップルなら考えても行動に移さないような、前近代的なじゃれ合い方をしている。
「甘ぇ。マジうめぇ。ミルキーなところもありつつ小悪魔的に攻めてくるっつーか…なんかジ
ャムってんだよね」
山田はそんなわけの分らないことを、料理を咀嚼しながらのたまっている。行儀の悪さもDQ
Nかくありきといった様子だ。文字通りのバカップルぶりをこうも見せつけられると、いっそ
微笑ましいようにすら感じられた。
 そんな二人の微笑ましい姿を、北原は睨めつけるような目つきで捉えていた。
「明日、あなたが思いつく最良の手段で、屋代に制裁を加えて……一生忘れられない修学旅行
にしてやる」
 まったく…今に分かったことではないが、北原はおとなしそうな顔をしている割に、ずいぶ
んと陰湿なところがある。
その陰湿な生徒の私怨に半強制的に付き合わされているのだから、僕もつくづく、運がない。

 ホテルで相部屋の長岡は、消灯時間を過ぎても一向に眠る気配を見せなかった。
長岡が床に就いたのは午前二時。
それまで彼は両目を磨き上げたボーリング球みたいにぎらつかせてテレビの深夜アニメに夢中
になっていたが、一度テレビの電源を切ると、あとは自分自身もスイッチを切ったかのように
穏やかに眠りに落ちた。
そして、僕は長岡が熟睡しているのを確認して、行動を開始した。
 500mlのペットボトルを片手に、ユニットバス式のトイレへ。扉の錠を下ろして、ズボンを
下げる。
さぁ、二日ぶりのお楽しみだ。


 修学旅行最終日の空は澄み渡り、頭上からは僕らの来訪を祝福するかのような太陽の光が降
り注いでいた。これ以上ないほどの行楽日和だ。
 午前十時、ユニバーサルスタジオ・ジャパンの園内に全クラスの生徒が集合した。
この日は午後三時半まで自由行動だ。
前二日とは違い私服での行動となるのだが、ここはファッションセンスの見せ所とばかりに意
気込んで分不相応にもやたらと着飾った生徒がわんさかいて、見ていて痛々しいばかりだ。
 生徒指導部の教師から、くれぐれも人様に迷惑をかけないようにとの諸注意が言い渡された
後は、各班、思い思いのアトラクションの方角へと四散した。
「おっ、他の班が次々と動き始めてますぞ〜!?さて、我々はどこから回りましょうかね〜」
朝から無尽蔵のテンションの片鱗をうかがわせる長岡。
昨晩は夜更かししたにも関わらず、しっかり充電は完了しているようだった。
 だが、悪いな長岡。巡回コースは、僕が決めるんだよ。
「とりあえず、あっちの方に行ってみないか?」
 僕が同意を促すと、北原が無言で頷いた。
持ち前の付和雷同ゆえか北原への好意ゆえかはわからないが、それを見てピザ太も「じゃあ僕
も」と同意した。
「ふむ…御三方がそうしようというのなら、私も同意するにやぶさかではありませんぞ〜」
そんなこんなで長岡の同意も得て、僕が先頭を切って移動を開始する運びとなった。

 僕の移動の指針となるのは、屋代摩子と山田光義がいる四組の班。
ターゲットとなるあの二人の班から、怪しまれない程度に距離を保ち、探偵よろしくあとを尾
けて回る心積もりだ。
「あの二人を尾けてるってことは、何かいい作戦が思いついたの?」
僕の隣に並んだ北原が、長岡たちに気取られないように、囁くような小さい声で訊ねた。
「隙を見計らって、屋代の手荷物にこいつを放り込む」
僕は昨晩、手間隙かけて用意したそれを鞄から取り出し、北原に手渡した。
「…ペットボトル?」
「中身は抜いて、別のものを入れてある」
「別のもの?」
北原が不可解そうな顔をするので、僕はボトルのキャップを外し、その口を北原の鼻面に突き
出してやった。北原は犬みたいにその臭いを嗅ぎ取って、顔をしかめた。
「なんか変な臭い…」
「だろうね」
周囲を警戒しつつ、ペットボトルを覆っているビニールを剥がしてやった。
透明なボトルの中身をはっきりと確認すると、北原は一瞬にしてその幼い顔を青く染めた。
「っ…!」
僕の肩をばしんと叩いてから、手にしたペットボトルを僕につっ返してきた。
「へっ、変なもの触らせないで…!」
「大袈裟だな。中身に触れたわけでもあるまいし」
僕は人目に晒される前に、さっさとペットボトルを鞄に仕舞いこむ。
北原は「もう!」と唸って、羞恥に頬を染めていた。
 腹を抱えて笑ってやりたい気分だ。取り引きという名目で、くだらない復讐の片棒を担がさ
れているのだ。これくらいのささやかな仕返しは、させてもらわないとな。
 僕がペットボトルに仕込んだのは、僕の精液が付着したティッシュペーパー。丸めたそれを
二枚も三枚も詰め込んである。そのほうが屋代に視覚的なダメージを与えられると踏んだため
だ。北原が嗅ぎ取ったのは、時間経過によって精液が発する栗の花の臭い。
修学旅行の前日から数えて三日分の僕のリビドーは、今こうしてペットボトルの中に収まって
いる、というわけだ。
「こいつに屋代が吐き気を催すようなラブレターを沿えて、彼女の鞄に投函してやる。頭の悪
そうな屋代だって、それが性的な嫌がらせと気づかないほど馬鹿じゃないだろう」
「…できるの?そんなこと」
「だから、丸一日かけて隙をうかがうんだ。班のメンバーたちから離れて、屋代が一人になる
瞬間を狙う」
「でも人目につく場所ではそう首尾よく行かないと思うけど」
「ああ。だから細心の注意を払う必要がある。…けどまぁ、なにかのどさくさに紛れれば、な
んとかなるだろう」
 勿論、なんとかなるだろう、というのは希望的観測に過ぎない。
いや…希望、というのは語弊があるかもしれない。
なにせ僕は、今回の計画が成功することなんて、毛ほども希望していないのだから。
 北原の復讐に加担するのは、やはりどう考えても、僕に分が悪い。本意でもないのに計画犯
も実行犯も一任されなきゃならないなんて、どう考えても理不尽だ。
 僕は、わざと無謀な計画を立てて「実行に移すタイミングが掴めませんでした」というオチ
で無事に修学旅行を終えられることを、密かに期待しているのだ。
仮に北原を同行させている手前、計画を実行せざるを得なくなったとしても、この計画なら、
屋代が負うダメージは、直接自分や自分の所持品にイタズラをされるよりも軽いはず。
あえて、そういう手段を選んだ。
 内藤恭子の時もそうだったが、今回も須川と原田に制裁を加えた時とは事情が違う。僕は北
原の境遇に同情はしても、彼女の思想に共感はしていない。願わくば、僕が手を汚すことなく
この一日が終わらんことを。
 こうして僕たち三年三組D班は、屋代たちの班を見失わない程度の距離で尾行しつつ、園内
を巡った。
気取られないように、かといって見失わないようにあとを尾けるというのは、なかなか難しい
ものだ。
屋代たちの監視にばかり時間を割くわけにもいかず、適度に長岡たちの相手もしなければなら
ないからだ。
 それと、もう一人のターゲットにも、気を配らねばらならない。
「ねぇ、黒沢くん。私と手を繋いで」
途中、いきなり北原がそんなことを言い出した。彼女の意を察して、僕は左手を差し出した。
「えぐいことするね」
「そんなことないってば…」
 わざとピザ太に見せつけるようにして、僕と北原は手を繋いだ。
そればかりか、北原は時折、僕に寄り添うように肩を寄せた。
 自分が好きになった女性が目の前で他の男とくっついて歩いているのを背後から眺めるの
は、どんな気分だろう?
きっと僕には想像できないような気分だろう。
だから、僕はピザ太が心なしか昨日よりも浮かない顔をしているように見ても、同情はしなか
った。
 そのあと、北原は昨日までとは一転して、積極的に僕とコミュニケーションを取ってきた。
北原は常時誰かに喋りかけている長岡ともほどほどに言葉を交わしたが、自分から声をかけて
くることの少ないピザ太とは一言も口を利かず、無視に近い状態になっていた。
そうなってくると、さすがにピザ太に対して憐憫を感じずにはいられなかった。たとえ恋が実
ったところで、きみが思っているほどこの女はいい奴じゃないよ…――ピザ太に向けて、心の
中でそう呟いた。
 園内のアトラクションを巡回している途中には、思いがけない出来事がいくつかあった。
ターミネーターに関するアトラクションの館内では、同じクラスの西本エリカと小林隆太を見
かけた。
二人は手を繋いで談笑しながら入場し、アトラクション内で席が揺れ霧が降りかかるシーンで
は、西本が「びっくりしたぁー!」と言いながら小林に抱きついていた。
 どうやら二人は、修学旅行の班行動を通して恋仲に発展したらしい。修学旅行で男女が仲を
深めるのは、珍しい話ではない。
ピザ太のように散る恋もあれば、小林たちのように咲く恋もあるということだ。
 初日同様、滝川が僕たちに同道する場面もあった。
僕たちが屋代の班を尾けてジュラシックパークライドの行列に並ぼうとしていたら、
キャラメルポップコーンを片手に抱えた滝川が駆け寄ってきたのだ。
「およよ?滝川どの、A班の皆々様方はどうしたのですか?」
長岡が訊ねると、滝川は息を整えながら「ああ、うん。抜けてきた」とあっさり答えた。
 彼女曰く、一つの班に固定されたまま行動するよりいろんな班に混ざって行動したほうが楽
しい、のだそうだ。
本当は自分の班から離れて行動するのは禁止されているのだが、滝川に悪びれた様子は全くな
い。
「このクラスのメンバーで修学旅行する機会なんて、もう一生無いんだよ?班行動なんて固い
こと言わずにさ、クラスの全員と想い出を共有したほうが、なんか面白くない?」
 彼女は修学旅行初日以来、長岡やピザ太とも、すっかり打ち解けている。
社交性に欠けるメンバーばかりが集まったD班にとって、彼女はいい刺激になっている。
「北原、手をほどいてくれ」
 滝川の耳に届かない程度の小さな声で、僕は北原に言った。
北原は口元に手を当てて二秒ほど考えた末に、「…滝川さんのこと、気になるの?」と返して
きた。
「そんなんじゃない。ピザ太や長岡だけならともかく…クラスの他の生徒に対して、いらぬ誤
解を与える必要はないだろう」
「滝川さんに誤解されるのがイヤなの?」
なぜか妙に食い下がる北原だった。
「だから、違うって。しつこいなお前も。いいか?僕は静かに学生生活を送りたいんだ。イジ
メられてて目立つ君と恋人同士だなんて誤解されると、面倒なんだよ」
「ふ〜ん……ま、いいけど」
そう言って北原は繋いでいた手をほどいた。
 自分でもなぜ、北原にそんな要求をしたのかは分からない。何故かはわからないけれど、滝
川に誤解されるのはマズイ。
その時ふと、そう思ったのだ。
 ジュラシックパークライドでは、全身びしょ濡れの憂き目にあった。
急斜面のウォータースライダーと聞いて、ある程度服が濡れることは予想していたが、まさか
頭の上でバケツでも引っくり返ったんじゃないかというほど水を被るとは、正直思いも寄らな
かった。
「やだも〜、びしょ濡れ…」
アトラクションを出たところで、滝川が服の裾を絞りながら笑っていた。
全身びしょ濡れの滝川……
あえて凝視するような素振りは見せず、それでも僕はその画をしかと脳内に収めた。アトラク
ションの開発者に、心の中で励ましのお便りを送った。
 滝川とはそこで別れた。彼女は「次はE班!」と言って、元気良く僕たちの前を去った。
一方で、屋代への報復計画は難航していた。
日がな一日中、距離を置いて屋代たちの班を張っていたのだが、なかなかチャンスが巡ってこ
なかったのだ。
屋代の傍らには常に山田光義や彼女の班のメンバーの姿があったし、屋代に気取られずに彼女
のバッグにペットボトル爆撃をしかけるような隙は、一向に見当たらなかった。
「ちょっと、早くしてよ。このままじゃ集合時間になっちゃう」
北原の表情にもはっきりと焦りの色が滲んでいた。
午後三時半には、どの班も今朝と同じ集合場所に戻らなくてはいけない決まりになっている。
それがタイムリミットだ。
…しかしこのままタイムリミットを迎えてくれたほうが、僕としては都合がいい。
北原の私怨に振り回されるのは、もうたくさんだ。
 だが、僕のそんな甘い考えをよそに、チャンスは最後の最後で巡ってきた。
「黒沢くん、今ならいけるわ」
 集合時間の間際、屋代は土産を買いにグッズ売り場へと足を向けた。
窓ガラスの外から見た店内は、大混雑の様相を呈している。
レジカウンターに人が納まりきらず、店員が店の外で客を誘導しているほどの盛況ぶりだ。
店内は、僕と同年代くらいの学生服や私服姿の若者で溢れていた。
どうやら、僕の学校の生徒と、日程が被った他の修学旅行生たちが、集合時間を前に大挙して
押しかけているらしい。
 人が溢れているこの店内でなら、屋代に近づいて、彼女のバッグにペットボトルを忍ばせる
ことも、そう難しくはなさそうだった。
「確かに、やるなら今しかないな…」
そうは言ったものの、やはり屋代に爆撃をしかけるのは、気が引ける。
そんな僕の戸惑いを察知したのか、北原が僕のシャツの袖をぐっとひっぱった。
「早くやってよ」
その声には、まるで感情なんてこもっていないようだった。
「ちっ…仕方ないか」
僕は「ちょっと土産物見てくる」といって、長岡たちの班を離脱した。

 口を開けた僕の鞄の中には、ティッシュ詰めのペットボトル。
その効果を高めるために、ペットボトルに添えたラブレターには、いもしないストーカーの影
を感じさせるような内容をしたためてある。
こいつを屋代の手荷物に紛れ込ませる。難しい作業ではないはずだ。
 ここに来て僕は後悔していた。屋代のあとを尾けるポーズさえ取っておけばいい。実際には
この爆撃を実行するタイミングなんてほとんどないだろう。そうタカをくくっていた。
甘かった。こんなことなら、爆撃の効果を高めるための細工なんてしなければよかった。もっ
と屋代にとってダメージにならないような手段が、考えれば他にもあったはずだ。
 屋代が肩から提げているトートバッグは、通常のものよりサイズが大きいので、ペットボト
ル一つなら放り込むのに苦労はない。この喧騒の中でなら、尚更。
 虎視眈々と機会を窺って、ようやく巡ってきた好機だ。
北原に逆らえない以上、僕の意志とは無関係に、逃すことはできない好機。
 一歩、二歩、三歩…
人垣の合間を縫って、背後からスヌーピーグッズの陳列棚を物色する屋代に近づく。
屋代の隣には山田の姿がある。彼女らの班のメンバーもいる。
だが、今なら屋代たちの注意は完全に陳列棚に向けられている。おしくら饅頭でもするかのよ
うに、ごった返している店内。彼女たちが僕に気付く要素は限りなくゼロに近い。
…やれる。
やるなら、今しかない。
 ペットボトルを片手に取り、屋代たちとの距離を詰める。
屋代たちとわずか1mのところまで、接近した。その時だった。
「ねぇねぇ、このストラップ買おうよ。同じやつ」
屋代が山田にそんなことを言うと、屋代の隣にいた生徒が二人を冷やかした。
「アンタら本当仲いいね!ていうかもうバカップルだから、それ!」
すると山田が、後頭部をぼりぼりかきながら、照れ気味に答えた。
「いや、何ていうか俺とマコって超気が合うっていうか、ビートが合ってんだよ。ジャズり方
が半端じゃないんだよね。ていうかここ超あちーねw不快指数高ぇよw」
解読に数秒を要するような山田語にも、屋代の友人たちは笑顔で対応した。
「いやいや熱いのはアンタらのほうだからw」
「ご結婚おめでとうございまーすw」
馬鹿っぽいというか、幸せそうというか、なんとも平和な会話だった。
屋代と山田は、恥ずかしそうにしながらも、仲良く肩を寄せ合っていた。
 二人の表情は、一日中陰湿な復讐のことを考えていた僕や北原とは対照的に、幸せに満ち溢
れていた。
「………」
それを見た瞬間。
なぜか僕は足が竦んでしまった。
最後の一歩が、踏み出せなくなっていた。
 熱が下がってゆき、虚脱感に、全身を支配された。
僕は、この二人には何もできない。するべきではない。
突如そんな思いが、僕の思考を占拠した。
一歩、二歩。後退する。
 気がつくと、僕はペットボトルを自分の鞄にしまいこみ、店を出ていた。


 午後五時。
修学旅行最終日、地元へと帰る新幹線の車内は静かだった。
強い陽射しの下で半日近く歩き回ったためか、半数以上の生徒がぐったりとした様子で眠りに
ついている。僕の隣に座るピザ太も、三日間あれだけ元気一杯だった長岡までもが、泥のよう
に眠っていた。
D班のメンバーで起きているのは、僕と、僕の向かいに座った北原だけだった。
 漂う沈黙。流れてゆく窓の外の景色。
どこかの街を通り過ぎ、どこかの街へ向かうことを告げる機内アナウンス。
それを合図に、北原が重い口を開いた。
「…なんで、屋代に復讐してくれなかったの」
「………」
どう答えればいいのか、わからなかった。答えようがなかった。
「取り引きのこと、忘れたわけじゃないよね?」
「…ああ、忘れてないよ」
「だったら何で」
北原は、二度とない好機を得ながらも、なにもできずそれを棒に振った僕を批難するような、
棘のある口調でそう言った。
 僕は、北原の目を見ずに、僕と北原の靴が仲良さそうに向かい合っている足元を見ながら、
返事をした。
「…勝てなかった」
そう、僕は勝てなかったのだ。須川たちや内藤の時とは違う…初の接近戦で、あの二人に、負
けたのだ。そうなった理由は、僕にもよく分からない。
ただ、よく知りもしない人間に悪さをすることへの躊躇いとか、北原への反感とか、そんな感
情とは、まったく別のところにそうなった原因があることだけは確かだ。

僕は、肩を寄せて笑いあう屋代と山田の姿に、なにを重ねていたのだろう。

…誰と誰の姿を、重ねていたのだろう。
「今回は相手が悪かったんだよ。勘弁してくれ」
「ワケわかんない…」
ワケが分からないのは僕も一緒だった。
 幸せそうにじゃれ合う二人を見た瞬間、突如、それまではあったはずの気力が萎えて、全身
を激しい脱力感が襲った。その後のことは、よく覚えていない。
魂が抜けたようにふらふらと店を出て、ペットボトルはどこか近くのゴミ箱に捨てた。
それだけが、記憶に残っていた。
「とにかく、今回はうまくいかなかった。元々リスクの高い勝負だったんだ。見逃してくれ」
北原はどこか釈然としないような表情をしつつも、最後には折れてくれた。
「……次はないからね」
「恩に着るよ」
 内心、今回取り引きを反故にしたことで北原が逆上しないかと心配していたので、胸を撫で
下ろしたい気分だった。
北原から指令を下された時以来張り詰めっぱなしだった緊張の糸が、一気にほぐれてゆく。
安堵した途端、今なら何でも言葉もできそうな気分になった。
「なぁ、北原」
「何?」
「お前が須川や原田や屋代…彼女たちからどんな屈辱を受けたか、僕は知らないよ。知らない
けどさ」
吐き出すように、言った。
「お前が彼女たちから受けた屈辱っていうのは、あんな幼稚なセクハラで精算できるようなも
のなのか?」
「……」
「こんなこと、いくら続けたって、お前の恨みはチャラにはならないだろう」
 ずっと―――取り引きを持ちかけられ、内藤恭子への報復を企てたあの日から、北原に伝え
たかった想いがある。
それを言ってしまおう、と思った。
「こんな幼稚な復讐を続けてたって、その場凌ぎのストレス解消にしかならない。お前が負っ
た傷が癒えるはずはないんだ。……こんなこと、不毛だ」
 北原は、黙り込んでいた。
自分の胸の内にある複雑な感情を表すことのできる言葉を、必死で探しているようだった。
そして、彼女はそれを口にした。
「…それでも、やっぱり私はあいつらが許せないのよ。弱すぎる私が、他に打てる手はないの
よ」
北原の膝の上で震える両の拳が、彼女の歯痒い思いを物語っているようだった。
「……だけど、君とこうして何度も密談を重ねるうちに、僕には、君がそんなに弱いようには
見えなくなってきてるんだけどな」
「え?」
北原は、意外そうに顔を上げた。
「君は強いよ。他の誰も持っていないような強い意志を持っている。…君ほどの強い女の子な
ら、もっと違う形で自分の感情に決着をつけることができるんじゃないかって、思う時がある
よ……たまにだけどね」
「どういうこと?」
「さぁ…僕にもよく分からないけれど」
分からないけれど、今は。
「…眠たいんだ。僕も寝ることにするよ」
 よくよく考えれば、今朝は消灯時間を三時間ほど過ぎてから床に就いたのだ。
僕より先に寝て日中あれほど元気だった長岡ですら今では心地良さそうに眠っていて、新幹線
の車内は水を打ったように静まりかえっている。
 僕もそろそろ、瞼が重くなってきていた。
「……言っておくけど、取り引きは今後も継続するからね」
「…ああ、分かってるよ」
北原は、なんだか煮え切らないような表情を浮かべていたけれど、それも最早どうでもよかっ
た。
 とりあえず今は、そろそろ引力に抗えなくなってきている瞼を、このまま下ろしてしまお
う。今後のことは今後のことだ。
姿勢をただし、瞼を閉じる。

おやすみは、言わなかった。
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