酒場に入った時間が遅かったので、お開きになったときには日付が変わっていた。係長は忙しい身なのに大丈夫だったんだろうか。
 今日はジュノに泊まるんだな、と確認してきてから係長は、なるべく白門の自室を出入りするのは人通りのある時間帯にした方がいいと忠告してきた。何の反応もないことに焦れて、実力行使に出る可能性もある、と。
 小心者のキモオタをびびらせないでください。やだなあもう、そんなこと言われたらますますヒキ度に拍車がかかってしまう。
 しかしこんな俺に惚れるのもにわかには信じがたい話だが、それを真に受けて嫌がらせに走る男の心理も分からない。アレナちゃんハァハァと思いながら発射した精液だったのだろうか。かわいそうな精子だ。ホモ妄想で無駄に生み出される俺の精子とどっちが哀れか分からない。リダはただのお調子者だと思っていたけど、色んな隠れた面があるものだなあ。
 俺がキモオタでエロ妄想野郎で、しかもそのベクトルが男同士の絡み合いに向いていることも、みんなにとっては隠された面になるんだろう。
 人類皆変態ということか。なるほどな。
 目の前にいるこのさわやかイケメンも変態だったらしい。長い付き合いなのに知らなかったよ。
「ルチ。聞けよ」
「きっ…聞かねえ! 絶対聞かねえ、さっさと出て行け!」
「ここ俺の部屋だから」
「帰る!!」
「帰さない」
 ジッカがずずいと顔を近づけてくるので、俺は尻でずりずりと後ずさる。後頭部が壁に当たった。もう逃げ場がない。
 とても酔っているようには見えないところが恐ろしい。酔って俺を女の子と間違えているならよかったのだけれど。
 ジッカは俺が床で握り締めた手を取り、やさしく撫で擦る。何してんの、おまえ。
「言うつもりはなかったんだけど」
「うん、いい、言わなくていいから」
「なんか腹が立って…」
「なんで!? 腹が立ったからってなんでこんな行動に出るわけ!?」
「おまえ散々ヒュームは嫌だって言ってたのに、なんであんなヒゲがいいんだよ」
「うおお係長は受だっつーのウオオオ」
「そんな専門用語分からねえし」
 ジッカが背を屈めて尚も顔を近づけてくる。壁沿いに逃げていると、とうとう身体が横倒しになってしまった。
 やばい。
 覆いかぶさられている。
「ジッカ! ジッカちゃん! よく見ろ、俺だぞルチだぞ!」
「分かってる。ごめん。マジごめん」
 ごめんって言いながらキスしようとするその心理が理解できないしたくもない。このままでは俺が受になってしまいそうだ。
「待てっ…待てジッカ、俺はホモじゃないんだ、おまえもそうだろ!?」
「他の男には興味ない」
 やめてくれ。それはBLの王道だ、おまえが無意識に口に出していい台詞じゃないんだ。わきまえろ、ジッカ(受)。
 俺は必死にジッカの顎を押さえて最後の一線を守ろうとする。身体を捻って仰向いている状況でこれはなかなかつらい。眼鏡も思い切りずれているし、きっと情けない顔になっていることだろう。腹筋に力をこめる余りに足が浮き、いつのまにかジッカの脚が俺の両脚の下に挿しいれられている。
 俺だぞ? と思うと泣きたくなってきた。
 百歩譲ってジッカがホモでも攻でもいいとしよう。でもなんだってその相手が俺になってしまうんだ。
「ちょ…っと…、退けろって、頭冷やせこのバカっ…」
「もし俺じゃなくてあのヒゲだったら、大人しくしてたんだろ?」
「するわけねー!!」
「なんで俺じゃだめなんだよ」
 悲しそうにジッカは言い、ようやく俺の上から身体を起こした。ついでに俺の腕も引っ張り上げてくれる。
 涼しげな目、形のいい額、薄い唇。どれを取っても美形で、何をしなくても女の子が寄ってくるこの男が、一体何をどうしたらキモオタ童貞彼女いない歴二十数年の俺相手にこんな台詞を吐くというのだ。
 そもそもなぜ係長が引き合いに出されているのか。その辺に何か理由があると踏んで、俺は冷や汗を拭いつつ眼鏡の位置を直した。
「あのねジッカちゃん。もしかしてアレかな、俺が知らない人間と意外と仲良くやってそうだから、取られたみたいでそういう気になったのかな? 最近やたらうちのLS来いって言ってんのは、俺が自分の知らない世界にいるのが嫌なのかな? 子供っぽい独占欲だってこと自覚してないのかな? かな?」
「ごめん今の理解できなかった」
「俺が好きとかじゃなくて、単に知らねえ奴にフレを取られたらさびしいってだけなんじゃね?」
「理解できた」
「そうかよかった、さあ退け数々の狼藉を土下座して詫びろ」
「好きなんだ、ルチ」
「……」
 さっと音を立てて血の気が引いた。
 それはおかしいよ、ジッカ。
 一体何を勘違いしたらそうなるんだか……。
「……でもごめん。おまえがホモじゃないんだろうなっていうのは気づいてた」
「あー…うん…?」
 でもおまえも違うだろう。限度を知らない女遊びのせいで、毛じらみうつされてパイパンにまでなった奴が言う台詞じゃない。
 ジッカは壁に張り付いた俺の前で項垂れている。膝の上で拳がぎゅっと握り締められたのが見えた。
「言うつもりなんかなかったんだけど…」
「……なんでこのタイミングで?」
「おまえは本当に俺のこと、何にもまったく意識してなかったんだな」
「いや…、だってそりゃ…」
「ああうん、分かってたつもりなんだけどさ」
 俯いてジッカはぽつぽつと話す。係長に対する態度が普段と違っていて不安になった、何も相談してもらえなかったことが悔しかった、ミスラに打ち明けられたときのようにこれまで何度もルチを独占しようとしてきたけど上手くいった例がない、それならいっそ、と。
 いやいやいや。
 俺がモテない人生を送ってきた原因は君だったのかね、ジッカくん。いくらキモオタでもこれはあんまりじゃないだろうかとちょっと思ってたんだよね。仮にもエルヴァーンなんだよ俺は。
 ……いや待てよ。
「え? いつから?」
「……自覚してからだけでも、もう三年、かな…」
 ジッカはどこかぼんやりしている。いつになく素直な口調が胸にきた。ちょっと誰か攻を連れてきてくれ、今ならこいつ落とせるから。
 でもなあ。
 俺が好きだって言ってるんだよなあ。
「三年前って何かあったんだっけ…?」
「覚えてないよな」
 何故だかジッカはそこで笑い、立ち上がった。影が落ちてきて思わずぎょっとする俺から彼は顔を背け、窓際へ歩いていく。
「帰るなら送ってく。泊まるならベッド使っていいぜ」
「おまえどこで寝るつもりだよ」
「ルチの寝顔見ながらマスかく。一晩中」
「帰ります」
「そうしな」
「ジュノだし、ひとりで歩いて帰るよ。別に心配ねえだろ」
「大丈夫か?」
「……」
 うへ。
 ジッカに今まで一度もこんなふうに心配の言葉をストレートに掛けられたことがない。照れるというよりはひたすら居心地が悪くて顔をしかめると、何となく伝わったらしくジッカが一歩足を退いた。
 何もしないよ、というように彼は両手を挙げてみせる。一応笑顔だった。
「おやすみ、ルチ」
「おう、おやすみ」
「変なこと言ってごめんな。気にすんな」
「おう」
 ジッカの部屋を出てドアを閉める。思わず吐いた溜息が白く煙った。
 みんな変態だ。それを隠して済ました顔で生きている。それだけのこと。なるべく軽く考えるようにしながらも、いつのまにか下向いてしまっている自分に気づく。猫背だからかもしれないけれど。
 今まで誰からも恋愛対象にされなかったからこそ根付いた妄想癖だ。恋愛なんて他人事。だから俺は無責任に妄想できた。妄想の中で誰がどんな目に遭っても、俺には関係のない世界だった。
 だからこんなのは、ちょっと困る。
 受ならイケメンから告白されたら、赤面してドキドキしなきゃいけないんだろう。げんなりした俺は、ホモでもなければ受でもないってことだ。かわいそうなジッカ(受)。いっそ係長に慰めてもらうってのはどうだ。あの人なら普通に攻もこなしてくれるだろう。
 俺は二人の妄想をしようとして、どうしても胸が重くなって諦めた。



 翌日、今日は一日パールを外すと係長に伝えると、心配そうな短い沈黙があった。
「いや関係ないですよ。ちと風邪ひいちゃって鼻水が止まらなくって。大事を取って寝てます」
「そうか。ならいいんだが」
 お大事に、と言い残して通信が切られる。
 俺は結局ジュノへレンタルハウスを移さず、白門に帰ってきていた。だってジュノに越したらこの部屋は別人に割り当てられることになるわけで、とばっちりがいったら申し訳なさ過ぎる。
 ドアに異常はないことを確認してから部屋を出る。風邪は仮病ではなく、本当に鼻水が止まらない。昨夜寒いのに無理矢理エロ妄想をしようとして遅くまで頑張ったせいだろうか。オタは熱いパッションを常時抱えている割に軟弱でいけない。
 待ち合わせ場所は、今日はジュノ上層の酒場だ。ちゃんと今日が白魔道士限定の日であることは下調べ済みだ。シリルとジッカにも、ちゃんと白で来るように伝えてある。
 本当は、迷ったのだけれど。
 日を置けば置くほど話しづらくなりそうで、シリルに今日どうやってでもジッカを捕まえてきて欲しいと頼んだ。
 シリルは理由を訊いてこなかった。あーうん、といった上の空な返事だったのは、恐らく朝も早くから彼女と乳繰り合っていたせいだろう。俺がキモオタからキモホモに転身を遂げるかどうかの境目だというのに、暢気なチンピラだ。
 あれ、おかしいな。
 そのチンピラがあほのようなスピードでこっちへまっすぐに走ってくる。サポでとんずらを使えるレベルでもないくせに異様に早い。その後ろから駆けてくるのは陽気なジッカさんだ。
「おーい…、なんだよ酒場開いてねえか?」
「ルチ! 捕まえろ!!」
 はっ、食い逃げか。俺は咄嗟に構えを取り、頭を低くしてチンピラの腹に飛びついた。それでもシリルは走ろうと足を上げるものだから、膝が腹に入って痛い。
 ぜえはあと肩で息をしながら追いついてきたジッカが俺ごとシリルを地面に押し倒し、両腕を背にねじ上げたようだった。
「重い痛い苦しい!」
「ああ待って」
「おい何邪魔してんだコラ、離せ! 蹴っ倒すぞ!!」
 もがく俺に構わずシリルが背の上で暴れる。やめてくれ、背骨が折れそうだ。レベル36のチビのくせにものすごい力だった。
 ようやくジッカが俺の上からシリルを引き摺り下ろしてくれ、逃がさないように馬乗りになる。
「てめえクソ野郎、解けってんだよ、そこから退けろ!!」
「落ち着けウジ虫野郎。おまえが殴りこんでどうするんだ。話が大きくなるだけじゃねえのか? それで迷惑するのは誰だ、言ってみろ」
 何の話だかよく分からない。つまり俺は痛い思いをしただけ損したのだろうか。
 冷ややかなジッカの言い方に、シリルは余計頭に血を上らせたようだった。尖った八重歯を剥き出しにして、噛み付かんばかりに顔を持ち上げる。
「てめえらが反撃しねえから舐められてんだろうっ! ここまで相手を調子付かせたのは誰だ、なんでもっと早くに手を打たなかったんだ!」
「手を打つってのが殴りこみなのか、シリル」
「前歯叩き折ってやりゃ二度と変な気起こさねえだろうさ、ちっとは頭が回るならな!」
「おまえもちょっとは頭が回るなら、それでルチがどういう立場に立たされるのか考えろ」
 ジッカは怒ると人の揚げ足を取って反撃に回るという嫌らしいやり方をするので、こういう場面で相手をとりなすことに成功した例がない。
 今にも吼えそうなシリルに、俺は鼻水を拭いつつ近づいた。
 いくら今は過疎ったジュノとは言え、まったく無人というわけではない。ちらちらこちらを見つつ遠巻きに走っていく連中からは、暴漢に絡まれた情けないオタと、それを助けたさわやかイケメンに見えることだろう。
「あー、俺がなに? 何なのきみたちは」
「てめえはすっこんでろ!」
「え、俺の話じゃねの?」
「おまえの話じゃボケがぁっ!」
 何なの。昼から酔っ払ってるの、このチンピラ。
 説明しろよと視線でジッカに訴えると、彼は笑ってシリルの前髪を鷲づかみ、顔を上げさせた。
「シリル。腹減ってきたな」
「あ?」
「おまえ朝から何も食べてなくね? ほら、なんか力入らねえだろ」
「…あ…腹減った…」
「どうするよシリル。何も食ってないのに暴れるから、胃の中空っぽになっちまってるぜ」
 シリルが切なげな顔で、ううと呻いた。言われると本当にそんな気になるのか、肩や首から力が抜けている。暴れた名残で髪が乱れ、顔もまだ上気しているのが色っぽい。本当に見た目だけなら美少年といっても通用するような顔立ちなのに、どうしてこいつには知性が欠片も存在しないんだろう。常識もないけど。
 腹減ってるから力が入らないだろ、とジッカは繰り返しバカに暗示をかけつつ、腕を取って肩に担ぎ上げた。
「なー、おまえら酒場から飛び出してきたんじゃねの? 金払ってきた?」
「着く前に走り出したんだよ、こいつが」
「ああ、じゃあまあ普通に入れるか…」
「運動したら俺まで腹減った」
「なんで走り出したんだ? つか何の話?」
「昼に酒場に入るのっていいよな。ぐうたらしてるぞって感じで」
 そういう台詞は思い切り白々しく言うから効果があるのであって、おどおどと目を逸らしつつ言うのでは疚しいことがあるんですと言っているのと同じだ。そうかおまえか。顛末を一部始終チンピラに話しやがったのか。
 ジッカが目を逸らしたり俯いたり空を仰いだりと挙動不審なのは、今頃になって、昨夜自分が何を言ったのか思い出したせいに違いない。
 どうだ、気まずいだろう。後先考えずにあほなこと言うからこうなる。そもそも今日チンピラを呼んだのもおまえの言動が発端だ。
 昨日の今日で俺がジッカに声を掛けても、のらくらと逃げただろう。そして、あーもうどうでもいいよクソが、おまえは一体何がしたかったわけ? と俺が思うようになるタイミングで、ようやく何事もなかったかのような顔で会いに来たに違いない。そして人を気遣うことに長けた俺は、ああなかったことにするのね、と寛容に受け入れてやっただろう。
 そんなことはお見通しなんだよ。おまえはどうせ昨日一睡もせずに己の愚考をねちねちと反省してたんだろう。
 何回このパターンを繰り返してきたと思ってるんだ。
「鍋食おう鍋。全種類」
「何でもいいからすぐできるやつから全部」
 アホが二人で店員にあれこれと注文している。俺は隙を見つけて飲み物だけ確保した。
 店員が去り、嫌な沈黙が流れる。ジッカがこの期に及んで、ああやだもうやだ逃げ出したいという顔で天井を仰いだ。その隣で空腹の余り死んだ魚のような目をしたシリルがだるそうに頬杖をつく。
「んで」
 そのシリルの生気のない声がぼそっと吐き出された。
「アロイスってやつとリーダー、どっちが黒幕なんだ?」
「……」
 違いますから。それ今日の会合の目的とは一切関係ありませんから。
 ジッカはほっとするどころか、死刑宣告が伸びたような絶望的な顔になった。おまえが余計な話をするせいだぞ。
「や、本題は違うんだろ、そりゃ分かってんだけど。どうするつもりなのか先に教えとけよ、ケツがむずむずしてしょうがねえ」
「どうもしない」
「……」
 シリルがじろりと目を上げる。料理はまだだろうか。いや本題に入る前に食欲に夢中になられても困るけれど。
「やってることはそりゃあいつらが悪いけどさ、俺も全然気ぃ使ってなかったから恨まれるのも分かる気がするんだよ。反応しなきゃその内飽きるだろうから、ほっといてやって」
「だからってなあ…」
「俺らにとっちゃ知らねー奴らだから、ふざっけんなって思うけど、ルチにとっては長く一緒にいた仲間だから」
 ジッカが取り成してくれて、シリルは何か言いたそうだった言葉を渋面で飲み込んだ。
 腹を立てるというより、もう気にしないでおきたい、忘れてしまいたいと思ってしまうのは、きっとジッカが言う理由のせいだ。今はこんなことになってしまっているけれど、リーダーとは何年も同じ足取りで歩んできた。同じことで笑い、同じことで悲しんできた時代があったのだ。
 リーダーはミスラ大好きと言ってアレナにメロメロだったから、アレナは恋愛感情を向けられているとは思わなかったのだろう。あの二人は実際仲がよかった。それで多分アレナが、ぽろっとリーダーにこぼしてしまった。俺が好きなんだけど望みがないみたい、といったようなことを。
 タイミングが悪かったんだと思う。そうしている内に俺が係長たちと行動することが増え、そういったコンテンツに行きたいけれど行けないアロイスがだんだん声を大きくしていった。リーダーはそれに乗ってしまった。俺にいい感情を持っていなかったから。
 元々リーダーとアロイスはフレだから、LSでは言えないことも二人で話すことがあっただろう。あんなキモイ奴に彼女が惚れてるらしくてさとか、俺もあいつ気に食わないんだよねとか、そうやってエスカレートしていったのかもしれない。
 そんなところなんだろうな。
 ジッカやシリルのいるLSはオカマ率いる男集団だから、ぴんとこないかもしれない。二人して消化不良の顔をしている。
 が、料理がいくつか運ばれてきたので、とりあえずシリルは元気になった。昼だというのに彼の胃袋マジックは鮮やかだ。
「んで、なに。おまえ告ったって?」
 さっきまでとは違う、どうでもいい話のようにシリルが肉を噛み砕きながらジッカに顔を向ける。ジッカはぎこちなく頷き、勢いよく酒を煽った。酔いが顔に出ない彼は、どれだけアルコールを摂取しても土気色の顔のままだ。
「もうちっとタイミング考えろよ。バタバタしてるときに、んなこと言ったってインパクトねえだろが」
「なんか…頭がカーッてなって…」
 呆れ顔のシリルに、ジッカはぼそぼそと言い訳する。
 この展開もおかしくないですか。タイミングがどうとか以前の問題がありませんか。
 まずどこから突っ込もうかと口をぱくぱくさせていると、あ、とシリルが顔を上げて俺の皿に肉を一切れ入れてくれた。ありがとう。
「あ、でもよりによってパイパンのときに告るってのは結構いい話だナー」
「脱いでねえし」
「当たり前だろ、モロ見せしながら告白なんざしたら変質者だ」
 脱いではないけど覆いかぶさってきていたジッカが、ちらりと俺を見た。目が合って慌てた様子で顔を背けられる。キモイ奴だな。
「まあ、ルツィエよ。あんま深刻に考えねえで、これまで通り普通にしてやってよ」
 料理に夢中のシリルが、顔も上げずにそんなことを言った。多分、何でもないふりをしたんだろうと何となく思った。ジッカはその台詞にちょっと身動きを止めてシリルを眺め、ややしてやっぱり俯いた。
 それまでのシリルの話しぶりは軽くて、もういいじゃん二人で新境地を開拓しろよおめでとう、とでも言いたげな様子だった。ジッカもそう感じ取り、肩の力を抜いていた。でも「これまで通り普通に」。
 シリルとジッカは俺よりも長い付き合いのある二人だ。シリルはきっと、俺の反応から脈がないことを見て取って、さりげなくジッカに諦めるよう伝えたのだ。
 分かりきっていた話じゃないのか、ジッカ。
「普通にとか、無理じゃね」
 しばらくぶりに口を開いた俺に、シリルが目だけを上げた。
「……。まあまあ…」
「でもさあ、ジッカもちょっとは勝算があって思い切った真似に出たんだろ?」
「いや勢いです」
 あ、そうでしたか。
 聞かなかったことにした。
「俺はマジでホモじゃないし、受のジッカに乗っかられても困るし、彼女いたことない人生なのに先に彼氏ができるとか悲惨すぎるし、ジッカで筆下ろしすることになったら目も当てられないし」
「あーその辺で止めてやれ、こいつそこまで深く考えてねえから」
 シリルががちゃんと音を立てて皿を置いた。
 彼の慌てっぷりとは対照的に、ジッカは表向きは平然とした顔でじっと聞いている。ルチたんの声かわいいなあとか思ってたらどうしよう。
「そもそも、当たり前だけど俺、ジッカに恋愛感情持ってないんだよね」
「だからもうやめろって。ひでえな、おまえって」
「ひどくねえよ、当たり前だよ。でも俺のお得意の妄想と思い込みでその辺はどうにでもなる自信がある」
 シリルがずるずる音を立てながら鍋のスープをすすった。おまえって友人思いだったんだな。俺の台詞がジッカに聞こえてしまわないよう気を使っているようだ。
 俺は負けじと声を張り上げ、覚悟を決めたような顔をしているジッカを見据えた。
「だから付き合ってみようぜ、ジッカ。俺がダーリンで、おまえがハニーな」
 笑顔で言ってやったのに、シリルのずずずずという下品な雑音で台無しだ。まあね、キモオタらしく緊張して語尾がちょっと震えてたから、ちょうどよかったんだけどね。
 ジッカは事態が飲み込めていないらしく、口を半開きにして俺とシリルを交互に見やる。ごめん今の理解できなかった、といつもなら言っている顔だ。
「……でも…」
 ようやく声を出したと思ったら、でも、だった。
「でも、何だ!」
「俺を好きでも何でもないなら、多分すぐ嫌になると…思う…」
「じゃあなんであんなこと言ったんだ? 両思いかも、なんて思ってたわけじゃねーんだろ」
「ただの勢いです」
「おまえのせいでどんだけ悩んだと思ってんだ! 悩んで出した結論がこれなんだよ、ケチつけてんじゃねーぞバカ」
「あれ。何の話?」
 今頃話の流れが変わったことに気づいたシリルが、土鍋から顔を上げた。熱くないのか、そんなもの素手で抱えて。
「俺たち付き合うことにした! 立派なホモカップルになる! 今日はホモ記念日だ!」
「へ。あ、そうなん? すげえや、さすが柔軟だな妄想オタは」
「いや簡単に言ってんじゃねえよ、脳内とリアルはまた別もんなんだぞ。見た目のいい男がイチャついてんのが好きなだけだったのに、何が悲しくて自分が絡まにゃならんのじゃ」
「でもまーいっかって思ったんだろ。おまえ顔がよくてよかったな」
 鋭いことを言いながら、シリルがしみじみとジッカに言った。そこで頷くなよ、ハニー。
 ジッカはまだ呆然と俺を眺めてきている。ウィンクでもしてやればいいんだろうか。残念ながら俺は表情筋が発達していないので、そんな器用なことはできない。する機会もなかったし。
「つか、あれだよな。ルツィエは自分で言うほどキモメンでもねえよな」
「見慣れたんじゃね」
 シリルに憮然と言い返すと、彼はいやいやと手を振る。
「女にも惚れられてたんだろ?」
「あれはいい子だったからなー。内面で選ぶタイプだったんだろ」
「いや、おまえ間違いなく内面は腐りきってるから。顔の方がまだ普通だから」
 そう言われると納得してしまいそうになるが、しかし、間違いなくシリルやジッカには劣る三枚目で挙動不審で目つきが暗く、しかも内面は顔以上に腐りきっている俺を、何故ジッカは好きになってしまったんだ。
 しかも三年も前からと言っていた。
 ジッカは未だにはっきり寝不足の顔色で目の下にもどす黒い隈がある。なんか言えよ、と見返していたら、ふと彼が笑った。
「やべ、マジ嬉しい」
 そんな素直な笑顔にも、これぞ受顔だなと冷静に思ってしまうような俺相手なのに、なんだか不憫な奴だ。
「オタのエロ関係の知識はぶっ飛んでるから、覚悟しとけよ」
 知ってるかジッカ、男同士は尻の穴でセックスの真似事をするんだぞ。と言ってやりたかったけれど、さすがに控えておいた。ここでびびらせても仕方がない。
 しかしジッカは照れた顔でちょっと首を振る。
「そういうのは抵抗が大きいだろうから、無理しなくていい。恋人になってくれるっていうだけで十分嬉しい」
「……」
 ああなんか鼻水垂れてきたわ、とシリルが肩を震わせながら俯いて鼻を拭う。どう見ても笑いを堪えている。
 そして彼は笑いを堪え損ねた変な顔でジッカの背を思い切り叩いた。
「長年の思いが通じてよかったなあ。いやーさすがに無理だと思ってたぜ」
「よかった」
 神妙な顔でジッカは頷く。なんだ、それは。
「もしかしてシリルは知ってたのか」
「なに?」
「ジッカが俺のこと好きとかっていう…」
「そりゃあな」
「……」
 思い切りジッカの足を蹴り付けてやりたかったけれど、奴はほっとした顔でようやく料理に手を付け始めたところだったので、やさしい俺は我慢してあげることにした。
「あー、ジッカが打ち明けてきたわけじゃねえよ。俺が気づいたの」
「なんで?」
「こいつ分かりやすかったよ。おまえがいるとこではかっこつけるし、テンション高ぇし。おまえからもらったもんはどんなゴミでも捨てずに取ってあるんだぜ」
「マジ?」
 それキモくね? と言い掛けた言葉も我慢した。恋愛は忍耐の連続だ。この先やっていけるだろうか。
「でも困らせるからっつって、ずっと言わずにきたのにな。まさか言うとは思わなかった」
 ジッカがはっと真剣な顔になった。真っ直ぐに俺を見つめて彼は口を開く。
「ルチ」
「んん?」
「やっぱりうちのLSに」
「行かねえぞ。何度もしつけえな」
 俺はうんざりと遮って椅子に深くもたれる。ジッカの隣でシリルが、ほらきた、と言いたそうな含み笑いをした。ずっと同じことを聞かされていたのかもしれない。
 ジッカは渋い顔をする。
「あのヒゲが…ちょっと…」
「何だよ。係長は普通以上にいいリーダーだぞ。おまえが何知ってるんだっつーの」
「そうやって人を誉めたことがなかったじゃん。ルチはその内あいつを気にするようになると思う」
「だーから俺はホモじゃねーって」
 ジッカこそ、そうやって変に人の内心を疑うことはなかったはずだった。一体何が気になるのかいまいち分からない。
 言いづらそうなジッカの代わりに、笑いながらシリルが口を開く。
「結構年が上なんだってな、その人」
「十歳は上だと思う」
「今まで俺ら年の近い連中としか接してきてないから、ルツィエが誰かに丁寧語で礼儀正しく接するってのが珍しかったんじゃね。それがどうもべたべたに懐いてるように見えたみたいで」
「あほか」
「それだけじゃねえよ。向こうもルチのことかわいがってた、あれは」
「あほだ…」
「おまえがあのLSにいたら俺はずっとそういう心配をしてしまう」
 ジッカはあくまで真面目に切実に訴えてくる。確かに係長は年下の扱いに慣れていて、例の「おいで」のように甘やかすような言葉を軽く使うから、その辺りを敏感に感じ取ってしまったのかもしれない。
 俺がきゅんきゅんしたのは単に妄想で使おうと思っただけであって、別に係長に言われて俺が嬉しいわけではないのだけれど、それを理解してもらうのは大変そうだ。
 妄想の材料として気に入ることと、俺自身の感情を向ける対象として好意を持つことは、まったく意味が違う。
「まあここはおまえが引いとけ、ジッカ。調子に乗りすぎなんだよ。ルツィエはおまえと同じくらい好きだの何だの思ってるわけじゃねえんだ」
「……」
 的確だけれど思いやりもクソもないチンピラの言葉にジッカは下向いてしまった。
 今のところそのことを忘れてもらっては困るのは確かだ。俺はジッカから向けられている好意と同じものは抱いていない。ただジッカとなら別にいいか、程度の思い切りで受け入れたのであって。
 申し訳ないような、鬱陶しいことに足を突っ込んでしまったことを後悔するような気持ちで溜息を吐いたら鼻水が出てきて、堪えきれずひとつくしゃみをした。




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