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2007.12.15









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(b1面)フロントランナー
「再生請負人」次の一手は
ケンウッド会長
河原春郎さん(68)

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予約待ちの人気の「メディアケグ」を手に。後方の卵に似た製品がゼットエムピーと共同開発した「miuro」=東京・丸の内のショールームで

 ケンウッドと日本ビクター。オーディオファンなら誰もが知る名門2社が08年、経営統合に踏み出す。人懐っこい笑顔を浮かべるこの人が、業界再編の口火を切った統合劇の立役者だ。

 「日本の専業メーカーが勝ち残るには大同団結しかない」。韓国や台湾との価格競争、デジタル化で膨らむ開発費。規模のメリットを出せない中堅メーカーは剣が峰だ。重複する事業が多いビクターには2年前にも協業を呼びかけていた。

 昨秋からの統合交渉。資金力に勝る米系ファンドが優勢になっても「志は変わらない」と言い続けた。再生への確信は関係者を動かす。共同開発に向けて両社で立ち上げた新会社の発足式で、技術者130人にこう呼びかけた。「力を結集して強い製品を作り、カーマルチメディアで世界一をめざそう」

 7月の提携発表から2カ月後、シャープとパイオニアも資本・業務提携を発表した。

■    ■

 社長に就いた02年は「不良債権処理の嵐」の真っただ中。銀行はバブル期の貸付金の回収に走り、ケンウッドも170億円の債務超過で会社の存続さえ危ぶまれていた。そこで講じたのが債務を株式に変える金融手法。会社が再生すれば株価は上がり債権者も利益を得る。同時に増資もして資本を増強、工場集約などを一気に進め、1年で過去最高益を達成してみせた。

 国内で前例のなかった財務テクニックは、日本長期信用銀行を買収した外資系ファンドのリップルウッドで学んだ。東芝の役員を引退後、「米国のお金で日本を再建できるなら」と転身。日本コロムビアの買収を担当し、音響部門デノンと日本マランツとの統合を指揮した。ビクターへの出資にも応じた筆頭株主スパークス・グループの阿部修平社長は「決断は速く、迷いがない。彼になら任せられる」と全幅の信頼を寄せる。

 「再生請負人」は名うてのエンジニアでもある。東芝時代に開発した発電所の自動制御システムは今も現役だ。技術者の視点はケンウッド再建でも生かされ、「何でもアジアが安いというのは間違い」とMDプレーヤーの製造をマレーシアから山形の工場に移した。向こうで22人かかった工程を熟練工が4人でこなし、不良率は激減。製造業の国内回帰のお手本になった。金融も技術もわかる「ハイブリッド経営者」は時代の要請ともいえる。

■    ■

 本業と並んで大切にしている活動がある。「ベンチャーを支援するベテランの会」。熟練経営者たちが起業家の事業発表を聞いて助言や指導をする会に、01年の発足時から加わる。05年にはロボット制作会社の技術支援を引き受けた。3人しかいない「音質マイスター」の1人を派遣し、動いて踊る音楽プレーヤーを共同開発した。

 ベンチャー支援も企業再生も、思いを支えるのは次世代への責任だ。「高度成長の成功体験を忘れられない僕らがバブルを招いた。その負の遺産の始末もせずに若い世代の世話になるわけにはいかない」。日本の専業メーカー再編を「最後の仕事」と任じている。

文・後藤絵里
写真・江口和裕




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「ベテランの会」で。01年に元インテル会長の西岡郁夫氏の呼びかけで発足。昨春から会長を務める=東京・丸の内で

■全社のリスク負って方向性決める

 ――電機業界きっての再編論者ですね。

 河原 日本メーカーのグローバルな地位の低下は著しいのです。薄型テレビの世界シェアはサムスン電子、LG電子ときて3位でやっとソニー。専業メーカーの名前はありません。デジタルはソフトウエアや半導体の開発投資が大きく、技術革新も速い。しかも競争はグローバル。一方で、家電市場はいまだ過当競争が続き、コスト削減が単価の下落に追いつかない。当社売り上げの6割を占める車載AVも昨年、営業赤字になってしまった。専業メーカー生き残りには再編が必要なんです。

■「煙突」の先

 ――危機的状況なのに、なぜ同じように再編を訴えるトップは少ないのでしょう。

 河原 私もそうですが、日本の会社は新卒で入って定年まで生え抜きで育つでしょう。外界を知らないので、ほかの会社と一緒になることに恐怖感の方が先に立ってしまうんです。それで何でも自分たちの中で解決しようとする。現実問題としてM&Aが進まないのはトップが決断できないからです。社長と課長の視座は違う。リスクの小さい計画をいくら足しても会社の戦略にはなりません。社長の仕事は全社のリスクを負って方向性を決めること。多くの社長はそこも部下に下請けさせるから、外から大波をかぶったときに判断できない。

 面白いたとえがあります。入社して「煙突」の中をはい上がり、社長や役員になって煙突を抜けパッと視界が広がる。自分は金箔(きんぱく)をつけて出てきたと思っても、外から見ると煤(すす)だった。そんなギャップがある。

 ――41年間東芝に勤めた生え抜きなのに、なぜそのギャップが生まれなかったのですか。

 河原 僕は会社では「エイリアン」でしたから(笑い)。28歳でGE(米ゼネラル・エレクトリック)に行き、「世界とはこういうもんだ」と思って帰ってきて20年、「あいつは変だ」と言われ続けた。工場の主任の頃、海外に自分たちの製品を売り込みに行き、高い評価を得て帰ってきたのに上層部から「勝手なことを」と怒られた。それでも生き残れたのは、コンピューターという当時誰もやらない仕事をやってきたからだと思います。

 ――ビクターの再建にはケンウッドで見せた改革の手腕が期待されています。

 河原 両社のケースはかなり状況が違うし、当然、処方箋(せん)も違います。当社は債務超過で存続の危機にありましたが、本業の黒字は出ていた。ビクターは資本・財務構造はしっかりしていて、日々のビジネスをどう黒字化するかの問題です。事業の改善は時間がかかるんです。ただ、赤字の事業と同じくらい黒字が出ている事業があるので期待が持てます。プラスもマイナスもなく全体がじり貧というのが一番難しいんです。

 ――ビクター再建にはどうかかわっていくのですか。

 河原 今も毎週、向こうに行って話し合い、必要なら軌道修正もします。ただ、基本はビクターの経営陣と従業員が一心不乱に計画を実行していくということ。彼らの自主再建への意欲は強い。長年のごたごたにケリがついて、今とても元気です。

 ――再建の暁には経営統合でどんな姿をめざしますか。

 河原 「1+1」よりもはるかに強い会社にしたい。共同開発や生産の相互委託、調達の共同化でコスト競争力をつける一方、ブランドは存続させます。当社の音響・無線技術、ビクターの映像・音響技術と、互いの強みの技術を生かし、美しい音と絵がどこでも手軽に楽しめる、マルチメディアを実感できる夢のある製品を作りたい。

■論理的な解

 ――最近、河原さんのような理系技術者が経営を担うケースが増えています。

 河原 専門のシステム設計は様々な部品やソフトウエアを有機的に結びつけ、課題に対する「解」を作るのが仕事です。これは、関係者と話し合いながら複数の道筋を考え、最も合理的な方法を選び実行する経営のプロセスそのもの。論理的思考を訓練される技術屋は経営に向いているかもしれません。

 高度成長の頃は二番せんじでも商品さえ作れば商売になったので、ある意味「フィーリング経営」でよかった。ところが社会が成熟し、電機業界のような過当競争になると、感覚だけでは解にならない。トップがリスクを負い、戦略的に大きくカジを切らないといけないんです。

 ――論理的思考で導き出した「最適解」が業界再編だと。

 河原 そう。再編ありきではない。AV業界での勝ち残りという目標への解を考えたとき、複数の道筋の中でビクターとの統合が最適解だったのです。エンジニアの僕が仕事人生の最後に業界再編にかかわることができた。自分なりに世の中に付加価値を生み出し、お客さんも従業員も株主も「エブリバディハッピー」になれば最高ですね。



◆ 転機 ◆

■「世にないもの作り出す」作業を学ぶ

 米国・サンノゼで技術者として強烈な体験をした。

 当時28歳。東芝は火力発電所のコンピューター制御システムの開発で先頭を走っていたが、原子力の先進技術を学ぶというミッションを与えられ、1年間、米国のGEの工場に派遣された。67年、シリコンバレーは一面の果樹園だった。

 当時、日本で「開発」といえば海外製品のまねを意味した。だが、米国で体験したのは「世の中にないものをつくり出す」という全く次元の違う作業。人種も性格も様々な技術者たちが、議論しながら頭の中にあるアイデアを形にしていく。発言しないと「会議に貢献しない人間はいらない」。自分のイメージを正確に他人に伝えるために、絵や文章に具体的に落とす作業がどれだけ大事かも、この時に学んだ。

 個性豊かな技術者集団をまとめていたのは5歳年上の設計課長だった。週1回、2人で話す時間を作ってくれた。チームをどうまとめるか、革新的な発想をどう製品化につなげるか。毎回2時間を超すミーティングでは、細かな技術指導より、「無から有を生みだす」ためのマネジメントの基礎をたっぷり仕込まれた。

 帰国後、原発の自動制御システムの開発を本格化する。3人で始めたプロジェクトは20年間で3000人の事業に成長した。

 33年後、設計課長とサンノゼで再会を果たした。60代後半の彼はシリコンバレーのベンチャー3社の非常勤取締役をしていて、こう言った。「僕の経験と残された時間は次の世代のために使うんだ」

 「これだ」と思った。ちょうど東芝の役員から顧問に退く直前で、引退後の人生をどう生きるべきか考えあぐねていた。同年、リップルウッドに誘われ、企業再生に取り組み始めた。ベンチャー支援の会にも加わった。そして02年、「嵐」の中のケンウッドへ。あの設計課長ほど、ビジネス人生に影響を与えた人物はいない。



39年 横浜市生まれ

61年 東大工学部卒、東芝入社

98年 上席常務。翌年IEEEフェロー

00年 顧問。請われてリップルウッドへ

02年 ケンウッド社長に就任

07年 会長


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★ケンウッド 旧社名は「トリオ」。07年3月期の売上高は1691億円、当期利益15億円。

★国際派 85〜87年、東芝の米国との合弁会社CEO。海外の投資家に通訳なしで対応する。

★多趣味 ラン栽培は自宅の温室も手作り。学生時代はフラメンコギターを弾き、タンゴを踊った。機械いじりも好き。62年型のトヨタコロナには35年乗り、最後は博物館に寄贈した。





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