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大江健三郎という「嘘の巨塊」
15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する:
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。
このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。
追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。
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こんなものを載せてる朝日が恥をさらしているのは、いつものことですが、ただ呆れるばかりですね。日本の裁判の質が気になるぐらいでしょうか。
http://japan.techinsight.jp/2007/11/200711221525.html
この場合、本人も事務所も謝罪している分だけ、大江氏と岩波書店よりましです。彼らが口先で唱えてきた「人権」や「ヒューマニズム」の偽善性が、根底から問われているのです。だからこそ、彼らは絶対に非を認めないのでしょうが。
「121号」とは、日本人が忘れてはいけない「米議会下院・決議121号」のことだ。
隼・英字チームは「慰安婦決議の嘘」を出版するスタートラインに着いた。巻頭文を池田信夫先生にお願いしたい。やはり、このエントリのように、5000字以内(和文)の、詐欺師マイク・ホンダが読んでも明快なメッセージをお願いしたい。英訳は伊勢がする。
認めれば、いくらか良心があるというものだ。人を文書で「殺人犯」と書いて、無罪で済むのでしょうか? スエーデンのノーべル賞アカデミーは、この裁判をどう考えるのでしょう?
隼速報に、「謎解きゲーム」「出版計画」を載せました。http://falcons.blog95.fc2.com/
勇気ある(?)反論にお答えして以下簡潔に。
(祭りの予感がしますが)
誰が読んでも、
赤松大尉=罪の巨魁=屠殺者
と読めてしまうから今問題になっているのではないでしょうか?
しかも、大江氏は日本語を使う作家です。弁解できないでしょう。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html
曽野氏も、そんなことは書いていない。「それほどの確実さで事実の認定をすることができない」(『集団自決の真実』p.296)と書いただけだ。こんな簡単な事実確認もしないで、はてなブックマークに「死ねばいいのに」というコメントをつけることこそ「無謀な誤読」だ。これは規約に違反する「犯罪の教唆」として事務局に通告した(もう証拠は保全したよ)。
君は、こういう低級なコメントをつけてくる常習的なストーカーだ。このコメントを訂正して謝罪し、ブックマークを削除しない限り、次の段階の行動をとる。
いや、ごめんなさいすればまだ良いのですが、絶対にしないところは頑固なのか商業性が無くなるので出来ないのかは知りませんが。「過ちを改めず。これを過ちという」
20世紀の遺物世代はきつい世の中ですよね。「歴史」として語られる世代ですから。
あと日本語は文法的に誤魔化しが効くので、誤魔化しが難しい英文で大江健三郎氏がこの本を書くとどうなるかが見物です。外語訳できない文章は基本的に悪文だと思っています(文学除く)。
も訴えた方が良いですよ。
「君は訴状を読んだのか。」とのことですが、この点に関しましては、
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
を読まれたのかどうかを、私のほうから問いかけさせていただくことで回答に代えさせていただきます。
【関連】
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/398325
こちらのほうが読みやすいかと存じます。
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
こちらもあわせて。
> これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。
(曽野綾子氏の発言)
本訴訟において、曽野綾子氏の「ある神話の背景」などの大江批判が大きな影響を持つことはご存知の通りでしょう。大江氏の発言は、本訴訟の底にある、この曽野綾子氏の読解に対する反駁であるという文脈を無視できないはずです。
ノーベル文学賞はその作品群を対象に与えられるものですから、本人の資質とは関係がないはずです。
薬物中毒者、禁治産者、犯罪者----優れた文学作品を書いた作家本人は不道徳という例はたくさんあります。
(何十万というゲルマン人を殺したカエサルの「ガリア戦記」という例もある)
コメントのいくつかにノーベル賞にふさわしくないという主旨のものがありましたので、敢えて書いてみました。
「死ねばいいのに」というタグについてはどう考えるのか、答えろ。
荒々しい言葉を言うな 怒りを含んだ言葉は苦痛である 報復が汝の身に至るであろう。
きちんと池田氏に反論すればいいのに他人様のブログのコメント欄を使ってのこうした毀損行為はまわりの共感を得られないと思います。
山崎氏の文章を読むと『文芸評論家』という割に文章が猥雑で非論理的です。多分無名のまま一生を終わられると思いますが、これでは氏が弁護される大江氏や岩波書店が少し気の毒な気がします。
「罪の巨塊=赤松大尉」とリテラルに書いてある場所というものの存在が、私の立論に必要ないことは一般的な普通の日本語読解能力があればご理解いただけることと存じますが。
訴訟の原点に、曽野綾子氏の著作や各方面での発言があり、大江の反論は、それを下敷きとした「罪の巨塊」解釈に対する反論なのですから、その文脈を無視しての批判はおよそ建設的なものといえないのではないのではないのかといいたいのですがごりかいいただけないでしょうか?
曽野綾子女史が「罪の巨塊=赤松大尉」と読み取ることが可能な発言をしていることは、すでに引用したとおりです。
>「死ねばいいのに」というタグについてはどう考えるのか、答えろ。
一種の作品であるエントリーのほうで、どのような暴言を投げかけられれも感情は抑制できますが、対話モードでこれでは、貴兄の血圧が心配になります。
品の悪い冗談ではあると考えてはおりますが?それほどご不快だというのでしたら、それは申し訳ないですね、としか言いようがありません。
【参照】
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E0%A4%CD%A4%D0%A4%A4%A4%A4%A4%CE%A4%CB
http://www.news.janjan.jp/living/0705/0705155553/1.php
こういう流行語が不快だという年配の方の意見は尊重したいとは思いますが、全く使うなといわれるとやや応答に困ります。
そして、ノーベル文学賞! 不可解なり、と思った。
彼は、この現状をどうするつもりだろうか・・・
私は命令がないのに自殺してしまうその空気と言うかそう言ったものの方が恐ろしいと感じたのですがそうは思わない人が多いようですから。
戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」は有名だが
その前節の「愈々奮励して其の期待に答ふべし」は語られない。
自決は期待にこたえたのか?
こんなことも書かれている。
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」
無茶苦茶だが他の部分を読んでも自決せよ、と言っているとは思えない。
(私は死ぬまで戦え、と言っている様に思える。どの道ひどいことに変わりはないが…)
戦陣訓は日本の死生観やその場の空気でさらにおかしな方へいってしまったのだろう。
真実に目を向けなければ再び同じことが起きるであろうことを理解できない人が多い。
>(評論家として)三流どころか査定外。
何の根拠もなしに断定的に語ることが多いし、他人を罵倒する言葉も多い。
品位にかけている。
当時の慶応文学部なんてバカでも入れたはず。
> 私の立論に必要ない
Unknown (Buyobuyo) さんの投稿より
2007-11-28 09:08:02
> 大江が問題としている部分は、訴えている側が、
> 「罪の巨塊」=赤松大尉と読んだところだったはずで
「罪の巨塊=赤松大尉」とリテラルに書いてある場所がなくてもこの投稿が成り立つんですか?
#私はこれのことかと思ってました。
「沖縄タイムス 2007年11月10日(土) 朝刊 1・26面」
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200711101300_01.html
--------------------
原告側は反対尋問で、「沖縄ノート」の記述の解釈や、根拠について詳細な説明を求めた。
「罪の巨塊」という言葉で、個人を断罪しているのではないか。作家・曽野綾子さんが著作「ある神話の背景」などで「沖縄ノート」の記述を批判しているのと同様の主張を尋問でぶつけた。
--------------------
ただ私は
赤松大尉が「罪の巨塊」を犯した、と言う風に読みました。
「罪の巨塊」=赤松大尉だとまたも誤読しそうです。
それをフィクション並にかいてしまったから、このような事態を招いたのでしょう。
フィクションでも山崎豊子のように、限りなく現実に近いものもありますが、沖縄ノートのように裏取りが不十分なものはノンフィクションの価値も低いが、文学的価値も低い要に思います。
大江氏の小説も少し読みましたが、好きにはなれませんでした。
私は両氏に礼節を求めたいのですが、山崎氏のこの態度を強く批判したい。他人を基地外だなんだと罵る前に、誰かに議論を求めるそもそもの資質に全く欠けている人間だと思う。取り巻きに囲まれてシャドーボクシングで俺ツエー! とかやっているそこいらのチンピラと同レベルでしょう。
「死ねばいいのに」については、はてなの返事をみて、こちらの対応を考える。こういう事件が何度も繰り返されているので、今回は問題を根絶するまで徹底的にやる。
純文法的に言えば、目的語は明らかに「つぐなう」の前にある「それ」であり、では「それ」とは何かといえば、その後に出て来る「あまりも巨きい罪」を先取りして前に持ってきた強調法だと思う。後の「巨塊」は文学的表現としての累々たる幻影の死体の山であろうとなかろうと目的語「あまりも巨きい罪」を強調する表現法と解するのが一般的だろう。
つまり、「あまりも巨きい罪」を更に「巨塊」と擬物化することで並列させ、強調する修辞表現だと思う。
とすると、「巨塊」を死体とするのは文学表現としてもおかしい。「罪」を擬物化して死体とするのは、それこそあまりに無理がある。なぜなら、死体は被害者であり罪はないからだ。
この態度からして、意見が論理的かどうか以前に人間として色々なものが欠けてる気がしますね。日本の左翼の行動原理は自分が持っていないものを持っている人々に対するルサンチマンで成り立っているので、粘着的で自意識過剰、そして品位に欠けていることが多い気がします。大江氏もその同族です。
ここに粘着している某も似たようなもので、ノーベル賞ばりの権威がない代わりに、支離滅裂な駄文を投稿し続けてるのでしょう。
大江氏の言うように「罪の巨塊」=「死体」というのなら、「あまりも巨きい罪の巨塊」は「あまりも巨きい」+「罪の巨塊」と分解しなければならない。もし、そうなら「あまりも巨きい」は「罪の巨塊」を修飾していることになる。これはいくら何でも大作家の文章としてはへたれ過ぎる。「巨塊」は巨きいから「巨塊」なのだから、屋上に屋を架す、馬から落馬するの類の小学生並みのお粗末な文章ということになる。どう見ても後付の下手な言い訳なのは明らかだと思える。
大江氏の文章は雰囲気で読む文章で、論理的には多くが支離滅裂です。だから、大江氏の裁判での反論・証言も支離滅裂です。意図的なのかな?とにかく、裁判でそれがうまくいくかどうか、つまり吉と出るか凶と出るか。
この問題で、大江氏は『鉄の暴風』などを参考にして、守備隊長が出した軍命によって集団自決が起きたと言っていたわけです。そして「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と言っていたのです。
でも、実際は自決命令どころか、赤松氏も梅澤氏も逆に「自決するな」とか、自決を制止する方向であったことが明かになっています。
例えば、自決しなかった島民を命令違反で殺すどころか、集団自決を知って「なんてはやまったことを」と嘆き悲しんで逆に衛生兵を派遣して治療にあたらせています。
事実のベクトルは逆なんです。それが知られてきて、『鉄の暴風』を参考にして書かれた『沖縄県史』や家永三郎『太平洋戦争』さえも、書きかえられて軍命説を取り消しています。
しかし、今回の大江氏は、自分の書いた文章は赤松氏らの守備隊長に対してのものではない、だから赤松氏らへの名誉毀損にはならない。という論法で逃げようとしているようですね。
大江氏も、文章を書く人間の責任として事実は事実として素直になるべきだったのですよ。
大江氏は柳美理氏の裁判の陳述書で次のように述べています。
「不愉快にさせたなら、書き直すべきであり、それで傷つき苦しめられる人間をつくらず、そのかわりに文学的幸福をあじわう多くの読者とあなた自身を確保されることを心から期待します」
上の文章を美しいと感じるか、いやらしさを感じるか。私は後者です。好みというか、こういう文章はあまり好きじゃないですからね。もっとも、もし別の人が言ったなら感じ方も多少は違うかもしれませんが。
人間は一部の職人と一部の科学的思考をもった人間しか残念ながら信用ができません。日本の文学者の恣意的な解釈は伝統的なものです。そもそも日本語の文法も論理性に英語に比べればかけています。だからつけこまれます。
しかし、フランスの哲学者も造語を作り出したりしますがここまでの無法者はほとんどいません。私の印象ですが日本の文学者は自分のイデオロギーや信念でもって文法や意味解釈を
捻じ曲げても屁理屈をつけて表現します。
たとえば、かつては共産国を賛美したり途上国への移民を賛美したりと新聞メディアでもやりたい放題です。外国メディアの解釈も日本人の英語力のなさを逆手にとって恣意的な解釈の
オンパレードです。つまり、日本の文字メディアに携わる人間はすべて信用が著しくない人間ばかりだという認識が残念ながら知れば知るほどわかるということです。
自称文藝評論家が慶應文学部だからバカっていってる人もいるけど、東大文学部の大江も支離滅裂だから、これは一流大学でも文学部は論理性を欠いてるってことだろうな。奴らはレトリックに酔うから。自称氏なんか「哲学や文学が分からないやつが経済を語るな」ですから・・・有名無名は問わず、文藝評論家や文学者系の連中は論理性を欠いているにも関わらず社会問題や経済問題で床屋政談を繰り広げ、それをバカな大衆が「知識人」のご信託としてあがめる構図がかつてあった。吉本隆明とか柄谷とかもそうでしょ。ま、無学な理系学者の社会論「国家の品格」も困り者ですが。あと、自称氏はプライドが高いんだから、地雷を踏むよといったら本当にそうなったじゃんw
buyobuyoも奴なんだから「徹底的にやる」なんてのはやめたほうがいい。社会の底辺でルサンチマンを抱えている奴らはブログで著名人にケンカを売るのが「癒し」の一つなんだから。
>赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071023/edc0710230343000-n1.htm
私もこの「罪の巨塊」という表現は行為として捉えたので、「罪=命令」「巨塊=集団自決」と解釈してました。すると、「隊長の命令による集団自決の死体の山の前で、なんとか正気に〜」と読めます。一応、大江氏の説明も成り立ちます。
ところがそうなると「〜つぐなうには、」を受ける文章が無くなるので私は非常に変な文章だと感じていました。
一方、「つぐなう」を生かす文章だと、「人間としてそれをつぐ なうには、あまりにも罪が大き過ぎるが、かれはなんとか正気で〜」と解釈できます。すると原文の「まえで」という表現が不明になります。
要するに非常に”悪文”だという事です。
どちらの解釈にしても「罪」を犯したのは「かれ」だと書いているのですから、十分、名誉毀損に当たります。
こんな馬鹿馬鹿しい論点そらしを法廷でやっているということだけでも、大江氏は「有罪」です。
「かれ」が「日本軍のタテの構造」のことであって特定の個人をさしたものではない、という弁解も成り立たない。たとえば次のような一節があります:
<かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(『沖縄ノート』p.211)>
ここで「屠殺者」と呼ばれる「かれ」の「甘い涙」や「歪んだ幻想」というのは、きわめて個人的な内面の表現であって、日本軍の組織にも構造にも大江氏は言及していない。赤松大尉という個人が住民を「屠殺」したと断じているのです。屠殺者というのは、IMEの辞書でも出てこない差別語で、きわめて強い表現です。名誉毀損は助からない。しかも「罪の巨塊」が「他殺体」の意味だとすれば、ここでも赤松大尉を殺人者と断定していることになる。大江氏の弁解は、みずから墓穴を掘っているのです。
現在の「空気」なら書き得ない表現でしょう。ノーベル作家の筆を滑らせるほど「空気」とは強いのでは。
訴える側も、現在の「空気」なら勝てると踏んで、敵対イデオロギーの象徴的作家を引きずり降ろすべく頑張っているのでしょう。
赤松氏や大江氏を叩くより自覚すべき事があるはずです。「空気を読まない裁判官」は立派ですね。厳正な裁判を期待します。
捻じ曲げても屁理屈をつけて表現します。
たとえば、かつては共産国を賛美したり途上国への移民を賛美したりと新聞メディアでもやりたい放題です。
彼らは自分たちを「神」とでも思っているのでしょう。無責任な言論が社会にどんな悪影響を及ぼし、如何に多くの人々の運命を狂わせるかということなど、全く思考の外なのでしょう。文壇という「オリュンポス」の住人である彼らにとって、「下界」の民衆は奴隷や道具以上のものではないのです。
あゝ、あの虻や蜻蛉(とんぼ)を悪戯少年(いたずらこぞう)が扱ふやうに、吾々人間をば神さまが扱はっしゃる。
(シェークスピア『リア王』坪内逍遥訳)
慶良間や座間味で自決があったのかなかったのかについては、一方の訴状がいかに書こうと歴史の問題であって、
問題が問題だけに、本人がいかに「命令してない!」と言おうとも説得力は私にとってはありませんね。
歴史学会においても肯定論否定論両方あるわけで、「既に証明されています」というのは一方当事者が言ってるに過ぎない。
というより、ハッキリ言って証明のしようがないだろと思います。
そういう意味で大江氏の記述が断定的過ぎる側面はありますし、違うかもよ、という批判はありうると思います。
しかし、曽野氏が「ファシズム」や「軍国主義」という言葉を使わず、「空気」という単語で述べられるのには隠れた意図を感じますね。
現在の沖縄にはまだガマから生還した方がご存命の場合もあり、日本軍国主義への拒否感情も当然あるわけですが、それを「異様な空気」とする点も逆に異様さを感じます。
「諸君!」という雑誌との関連も、その政治的立脚点がどこにあるかを考えれば勘ぐってしまいます。
ここで第三者たる私たちがはっきりさせておかなくてはならないのは、日本軍による命令があった場合もなかった場合もあろうけども、
人が次々と自ら死を選ぶという異常事態が起こったのは、明らかに強烈な人権抑圧のファシズム体制によるものであるという点ではないですか。
知性の未熟なネット右翼イナゴ?の子ども達が、
「大江氏のその部分が誤りだったと訴えられている」=「日本軍国主義はやっぱりまちがっちゃいなかった!」
と安易に解釈しがちなのが気になります。
原告:罪の巨魁(赤松はとんでもない罪悪人)と書いてある
大江:罪の巨塊(大きな罪)と書いてあり、誰がとは書いていない
ということなのではないですか?証人尋問でも梅沢氏たちはそう認識していると答えたように思います。ここで問題は
A:原告がなぜ名誉毀損だと認識しているか?
B:実際に出版された本の記述と、それが一般的にどう解釈しうるか?
C:裁判所がどう判断するか?
の3点だと思う。判決の出ていない現在、Bの点では、大江健三郎は沖縄戦での軍の行動全体を批判したのであって、個人を批判したのではない。というのが新聞などの日本人の多数の見方だと思います。
確かに大江氏の文章は難しい。池田さんのブログでは屠殺者と書いてあるように思えますが、大江氏の朝日新聞の記事を読んだ後では、これは赤松氏個人を指している訳ではないのはわかります。池田氏がメディア論の専門家であるなら文法解釈ではなくどのように受け取られているかの分析の方に期待したいですね。出版されて相当年数がたつ訳ですから。
戦時中あれだけ、庶民たちがメディアが日本軍部を連合国に対して戦争するようにけしかけたということもあれば、いーや、むりやり日本軍が庶民をメディアを騙して戦争にいかせた。
だいたい後者が多いね。戦争に負けた後の論調、戦後民主主義教育、特に歴史教科書に載っていることは。
そして冷戦前は前者の意見を学会でいおうものなら、問題になってレッテルをはられたり追放されたりしていた。
だいたい日本のみを極悪非道扱いして、原爆をおとしたり、東京大空襲だって軍の施設を攻撃したわけではなく、罪のない人間に対する大量虐殺以外なにものでもないこのような発言をするだけで、軍国主義を復活させようとする発言だとか、日本が悪いからこのようなことをされたとか、このように言論の自由なんてあったものじゃないということね。
社会に影響力のあるノーベル賞作家に、「あの男は沖縄の住民を屠殺した」と後世に残る印刷物で断じられたら、君はどうするんだ?「当時の軍国主義が悪い」とでも言うのか?自分の未熟に気がつかないんだな。裁判ではな、右翼も左翼も関係ないよ。伊勢
戦後民主主義の連中の思考傾向は前者。そしてレッレルを貼ってそれをネタに商売するんだ。だんだん嘘がばれてきて、今度は外国勢力とくんで、外国になきつき、外国の本土でロビーを行う。このような構図だね。
>大江氏の朝日新聞の記事を読んだ後では
まず、朝日新聞の記事を読むところから止めた方が良いのでは?
そもそも、新聞云々よりも沖縄ノートそのものが争点となっています。新聞の記事は・・、と言うのは理論のすり替えですね。
>B:実際に出版された本の記述と、それが一般的にどう解釈しうるか?
> 判決の出ていない現在、Bの点では、大江健三郎は沖縄戦での軍の行動全体を批判したのであって、個人を批判したのではない。というのが新聞などの日本人の多数の見方だと思います。
と、勝手に日本人の多数の意見を作ってしまうのもおかしいです。
その前に係る「新聞などの」は、何を意味するのでしょう?「新聞がそういってるよ」と言うなら、新聞が嘘を書いている可能性を疑うべきですが。少なくとも、イコール日本人の多数の意見という話にはならないと思うんですがねぇ。
罪の巨塊という表現に合致するものがあるとすればそれはこれら巨大な日本のメディアこそ相応しいのではないでしょうか。
汐留のコンラッドホテルで外国人にペコペコ頭を下げる件の罪の巨塊の役員たちの姿を見かけました。日本は米国にずっと間接統治されてきた半分植民地のような国です。広い視点に立てば大江氏も犠牲者なのかも知れません。日本人同士を対立させることによって巧妙に隠蔽されているのが沖縄での米国の残虐無法ぶりの数々の歴史です。そのうち沖縄では旧日本軍が最大の加害者で米国は沖縄を解放してやったのだ、われわれは沖縄の人たちを一人も殺害していないと言い出すかも知れません。罪の巨塊の日本のメディアを通して。
私はここに従軍慰安婦騒動と相似形の構造を見ます。
私はそんなことより総理大臣が、沖縄の集会に影響されて教科書検定を引っくり返してしまうことの方が怖くてなりません。これぞまさに空気が支配する政治。
大江氏は『鉄の暴風』などを参考にして、守備隊長が出した軍命によって集団自決が起きたと言っていたわけです。
しかし、事実は全く逆です。そういうことが知られてきて、『鉄の暴風』を参考にして書かれた『沖縄県史』や家永三郎『太平洋戦争』さえも、書きかえられて軍命説を取り消しています。しかし、大江氏は直さないわけです。
例えば、大江氏は「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」などと言っています。
しかし、大江氏は、赤松さんや梅澤さんのことを言ったのではないから名誉毀損にもならないと言って逃げようとしています。この訴訟戦術が功を奏するか否か。
わたくしは肝心の「原告がホントに屠殺したのかどうか」が余人にはわからないことだ、と言っているのです。
赤松氏や梅沢氏が軍の大方の方針にあえて反し、住民を自決に駆り立てはしなかったとしたら、大江氏は断罪されてしかるべきでしょう。
ナチ党員にもユダヤ人を逃したような人もいたわけですし。
ただこれは、多くの証言者が既にお亡くなりになった今、どちらかに断定することは困難な問題だと思います。
私の指摘はそこがポイントではありません。
ここに多くいらっしゃる「イデオロギッシュ」な方々は軍命などなかったと断定してらっしゃいますが、それも異論があることろであって、個別の自決に関してわたしには判別などできません。
歴史に学ぶべきわたしたちに肝心なのは、日本ファシストのイデオロギーとそれに基づく政治体制がもし存在しなければ、集団自決などという異常事態はありえなかったという点です。
大江氏が誤った記述をした(可能性がある)ことが、日本のファシストたちを免罪することには到底ならない、という意見です。
以上と関係ありませんが、
>ななしさんへ
>戦後民主主義の連中の思考傾向は前者。そしてレッレルを貼ってそれをネタに商売するんだ。
↑これをレッテル貼りと言いませんか?
私の祖父は台湾で銃剣術の指導教官であったために戦死を免れましたが、当時「西蛮」と呼ばれた台湾原住民を強制徴用して南方に送り出し、ついに一人も戻ってこなかったことを生涯悔やみ続けておりました。
その悔恨に基づき、戦後の平和と民主主義を非常に価値あるものとして語ることしばしばでした。
今私たちは、もし日本政府や自衛隊が「お国のために死ね」といおうと、それに反抗し、そんなことを言う政権をひっくり返すための手段を持っています。
これは祖父の持っていたような悔悟の念に一定の基礎を置くものだと思います。
そのような意味において、戦後民主主義の理念は重要な役割を今なお果たしている側面もあるのではないでしょうか。
裁判所というところへ行った事がありますか?裁判所は律儀なところだ。必ず、判決があるんだ。私個人の意見ではないよ。法学部の一年生でもわかることだ。まもなく、君にもわかるよ。伊勢
歴史というのは光と影があるんですよ。ただ私は戦後民主主義にどっぷりつかってましたけど、ある時期まではアジアや欧米に対する戦争の贖罪意識はずっともっていてましたと。それがおかしいときずいた。
欧米のほうがよっぽど野蛮じゃないかと、ナチスやドイツさらにはシナに至っても野蛮以外なにものでもないことをしてきていると。
そういう野蛮国家に対してどう対抗しようとしたのか、いろいろ日本政府の批判もいいが、当時の世界情勢をふまえたときに、人道的ことで連合国側は何故裁かれなかったのかと思いますがね。
台湾だってかつては毛外の地といわれていたし、清朝統治時代はろくに教育もうけていない人たちばかりだったんだから、日本が統治して初等教育を行い、知的意識が高まったように、いいこともしてるんですよ。
よころが日本統治は極悪非道だったことが延々と日本の教科書にはかかれている。日韓併合時の公文書なんか、日本や韓国国内にあると思いきや、アメリカにあるそうで、日本や韓国にはない。
そういう公文書がないままに検証も解析もされないままに日本が極悪非道のようなことを繰り返したという思考になっている。
裁判は、真実の探求の「努力」をし、一応の決着をつける法技術です。
殊に民事訴訟は、真理の探究を可及的に追求しつつも、紛争をどのように合理的に解決するかの法技術の側面にウエイトを置いた訴訟形態です。
わかりやすく言うと、水掛け論であろうとも一定の決着をつけないと社会がうまくまわって行かないから、そのために編み出したシステムが民事訴訟というわけですね。
民事訴訟上の既判力は当然社会的な強制力のある一つの結論ではありますが、歴史学上、あるいは社会学上の真理の探究とは大きく意味合いを異にするものです。
本件に関して言えば、大江氏が著作中において事実の摘示を行った部分が、事実と合致していたかどうかに関して、もし互いに自説を裏付ける証拠がほとんど出なかったとしても、両者が和解しない限り「必ず」結論が出るわけですね。それが民事訴訟です。
しかし、この裁判の底流にある沖縄戦集団自決と日本ファシズムの関係については、私たちは歴史学上、社会学上、政治学上の真理の探究に安易な決着をつけてはならないのではないか、という個人的な感想をわたくしは述べたのです。
私の経験上、「人権派」は、事実調査を無視し、想像で語るクセがあるように思いますが、あなたもそうですかね?
>わたくしは肝心の「原告がホントに屠殺したのかどうか」が余人にはわからないことだ、と言っているのです。
なぜ、それを赤の他人である作家が、さも事実のように書いたのでしょう?そして周囲の証言、証拠からも、反証ばかりが集まっているから、名誉毀損として訴えられたのでしょう?
>赤松氏や梅沢氏が軍の大方の方針にあえて反し、
的外れです。これは「軍命令による集団自決」の唯一の証拠とされた物が崩れ、という話です。そもそもあなたは、本当にこの件について知っているのですか?せめて今号だけでも、SAPIOで池田先生と曽野さんの対談を読みなさいな。
>ナチ党員にもユダヤ人を逃したような人もいたわけですし。
ホロコーストと一緒にする時点で、根本から間違えていますよ。ホロコーストとは、最新の技術を動員し「軍事的効率を無視してでも」ユダヤ人狩りを行った物。もちろん、ユダヤ人と戦争などしていない。だから特殊なんですよ。
沖縄戦の場合は、軍が崩壊し、窮地に追いやられた住民が自決に至ると言う、いわば戦史としてオーソドックスなケースです。
>ただこれは、多くの証言者が既にお亡くなりになった今、どちらかに断定することは困難な問題だと思います。
笑わせないで欲しい。自ら調査した曽野氏がまだお元気なのに。で、少なくとも、大江健三郎氏は現地に入らず、聞き取り調査もせずに本を書いたのですよ?
あなたのような方は、価値相対的に「どちらかの中間を取るべき」とお考えなのでしょうが、史料として圧倒的に優位なのは曽野さんの側です。
>ここに多くいらっしゃる「イデオロギッシュ」な方々は
イデオロギッシュに「自分の人権感覚」と思想を最上位に置き、相手の意見すら読まず、史料調査すら無視し、自説を頑迷に唱えているのは貴方ですよ?それが妄想的でなくて何か?
>軍命などなかったと断定してらっしゃいますが、それも異論があることろであって、
問題はあくまで、実証的な歴史研究であり、日本軍が命令を下した「証拠」が必要なだけです。
>日本ファシストのイデオロギーと
ほら本音を出した。天皇・軍部・議会の全てがバラバラだったのに、どうファッショ(束ねる)されているんですか?
あえていえば、存在したのはミリタリズムですが、「ファシズム」で通常浮かぶ、ナチスのユダヤ人狩りは、ファシズムという「体制」とは必ずしも関連しない。
>それに基づく政治体制がもし存在しなければ、集団自決などという異常事態はありえなかったという点です。
世界情勢を無視して、日本の政体だけで戦争が可能と思っているのでしょうか?あまりに歴史に無知です。
全体主義体制は、その後も(一部戦中から)ソ連、中国共産党、北朝鮮などの社会主義国家で行われているし、過渡期に軍政に陥る国も珍しくない。「ファシスト」と言えば分かったつもりですか?
>戦後の平和と民主主義を非常に価値あるものとして語ることしばしばでした。
それはそうでしょう。しかし、南京が落ちる数日前、フライングの陥落の知らせで、公権力が「止めるのを恐れた」ほど、国民が自発的に盛り上がっていたという史実もあります。
>今私たちは、もし日本政府や自衛隊が「お国のために死ね」といおうと、それに反抗し、そんなことを言う政権をひっくり返すための手段を持っています。
満州事変以来、弱腰な議会よりも軍人さんを頼りにしていたのは国民ですが、私はそれが、当時の「国民がバカだったから」とは、全く思いません。
世界恐慌で各国がブロック経済を行う中、刻々と増える人口を養うため、平和的、経済的手段を尽くした後、拡張主義に至るしか無いという状況にあった。
そうした中で「軍人さん」の方がよほど頼りになる、と思ったとして、少なくとも「平和主義バンザイ!」とやっている、貴方のような人よりは、よほど物を考えていたように思いますね。
その後、平和が良いと言う考えに至ったのも含めて、ね。
戦争とは、他の手段を持ってする政治の延長。戦争に至る歴史が必ずある。
そもそも「問題あるファシズム」のドイツ自体、第一次大戦で敗北して、破滅的な状況に陥ったから、ヒトラーが「民主的に」勝ちあがったんじゃないですか。
一体、あなたは今までの人生で、何を考えてきたんですか?自然にそういう疑問が湧きます。
私は、自由主義と民主主義は支持すべきだと思いますが、戦後民主主義だの憲法九条に幻想を重ねる『平和主義』は、断固否定しますし、I田さんこそが「非実証主義・観念主義」であると確信します。
大江さんは、今回の書籍を上梓するに当たり、そうしてない。
人間としての誠実さに欠けるとは思わないんですか?
ナチスがやったホロコーストはユダヤ民族を世界で一人残らず国策で抹殺しようというドイツ政府の方針です。
戦争は敵の兵隊と戦う。敵国の軍施設などを攻撃するなどです。
アメリカの原爆なんさ、日本民族をホロコースト虐殺以外なにものでもない。
シナにいたっては民間の庶民をうしろから国民党軍が銃でおどしてけぢかけて、民間人が油断させておいて日本軍を攻撃してきた。
だから民間の人間を殺したと大騒ぎしているが、
戦争という非常時で、このような国際法を平気で破ることをしてくるものだから、ころさらなければやられる。それが政治的に利用されて日本に賠償金はらえとたかってくる。
そもそも、I田さんはなぜファシズムや軍国主義を憎むのですか? イデオロギーを振りかざして個人を踏みにじる体制が嫌いなのではないですか?
向いている方向は逆でも、大江氏やあなたがやっていることはまさにそれでしょう。
曽根氏が「空気」を問題にしているのは、それが結局は軍国主義の燃え上がり(の結果起きたように見える集団自決)を引き起こした/加速したのではないかという土壌に対する考察でしょう? しかも日本では絶えて久しい軍国主義とは違い、「空気の支配」というものは今でも日本に根を張っている。
それを言葉尻をとらえて「軍国主義以外に標的を向けるのはけしからん!悪いのはあくまでファシズムだ!」と言い張る辺り、このコメント欄で最もイデオロギッシュなのはI田さんだと思えてなりません。
本来であれば原告側が現地調査だの反証だのを出す必要すらないです。(もちろん原告なので証左を提示する訳ですが、原告からまず反証のような訴えが出てる時点でおかしな構図です。
これを文法上の解釈と言い出すのは詭弁でしょう。
大江側が本来反論する場合は「赤松氏が殺人犯だった」または「殺人者と呼ぶに相応しい」という反証を提示して自らの表現が適切であったという説明になって然りです。
大江氏は頭が悪いのかレトリックを使って悪質にも逃げようとしてるとしか受け取れません。
イデオロギーとか関係ないでしょ。
この事で「日本ファシズム」なる物を空想し、責任転嫁した所で、何の意味もない。思考が浅すぎる。
あなたのような無知な法律家がいるから、日本の法権力が、民衆の支持を受けないんですよ。
そもそも、なぜ、このブログで池田先生の文章だけでもきちんと読んでから、反論されないのか?
あなたは間違っている。
曽野氏の誤字・脱字を指摘していますが、これは主旨から外れているので、おかしいと思う。
誤字を書いているから、その人の意見は信頼できないという論理のようです。
また大江氏は沖縄タイムズの意見をそのまま信じて書いたものだから、大江氏は善意であり罪はないとも主張しています。
このあたりは、法律上の扱いはよくわからないが、そうであれば、言い訳めいたひねり論理を展開するより、沖縄タイムズの記事を信じて書きましたといった方がすっきりする。
>>法学の徒の端くれであり、法律を生業とする者です。
嘘をつく人間は、嘘をつく技術者だ。君が法科を出て、法律を生業とする者ならば、大江健三郎の「詭弁」を見抜けるはずだ。もしも、君が裁判官だったらと考えた。君の文章には、真実を捻じ曲げる印象がある。恐ろしいことだよ。伊勢
この段階で変な思想が入っているのが判ります
強制徴用ってナニ?
そもそも台湾での徴兵自体が1944年からでほとんどは戦地に行く前に終戦
それ以前に軍に入った人達は志願兵として軍にいたわけですが?
田舎にはまず岩波の本はありません。普通は返品出来ないシステムであり、小売や問屋に負担が大きいからです。
逆にPHPや新潮の新書などは田舎のコンビニにすらあります。「国家の品格」を新入社員に買わせる会社も続出しました。
しかし、読者として無くなって困るのは岩波の方です。必要なのは教条的頑固さでもスイーツ的(笑)な経営姿勢でもなく、謝罪してみせる戦術や古典を人質にし続ける戦略でしょう。
大江氏がここまで必死に取り繕うのも、危機感と立ち位置から来る責任があるからでしょう。それが偽善かどうかは別として。
曾野氏はよく知りませんが、井沢氏については史学業界、ひいては関連するイデオロギーへのルサンチマンを指摘されています。主張される事実は度々無視されます。
何故なら最低限の実証的史料批判や整理がなされていない、トンデモだからです。
史学者は、史学が学として成り立ち得る存在意義の為に実証性にはカリカリしています。
彼の深い動機は知りませんが、羽入達郎氏と折原浩氏のヴェーバー論争とは不毛さは似ていてもレベルが違います。
学者と作家は看板を偽るべきではありません。井沢氏も、そして大江氏も。
corpus delicti
は『犯罪の実体』(実際に犯罪が行われたこと)であって、他殺体のことではありません。
wikipediaでも、窃盗では、本当にものが盗まれたということ、放火の場合では、火をつけた結果財産が失われたこと、と殺人以外の例もあげています。
大江健三郎の場合は、『罪の巨塊』が不穏当な表現であることは曾野綾子の指摘通りであると彼も分かっているので、よく知りもしないラテン語由来の英語を使って目をくらまそうとしただけではないのでしょうか。
本来なら、山崎氏のBBSで書きたいのですが、何しろあそこは、些細なことで削除されまくりなので、読者が意見表面も意見交換も出来ない。
率直な所、小生も山崎氏の主張に疑問を持っています。強いて言えば主張の無さに。
大江氏がこう書いた、ということのみを持って事実を確定させている。文芸評論家でいらっしゃるからには、文法上の解釈なり論説の補強なりなさった方が有効だと思うのですが、あれではまるで信者が教祖の文言をオウム返しに繰り返しているのみで、氏に主張があるのかすら疑わしくなる。
私は「日本ファシズム」なる言葉を初めて聞きました。この議論を進めるには、そもそもファシズムの定義の議論を一通り経てからでなければ無理でしょう。
仮に、ファシズム的な要素が当時の日本にあっただろうことに同意できたとしても、この裁判で焦点となっている事件に、そのような概念を持ち込むことが相応しいとは思えないのですが?
そのことを問題にしているわけではないのです。
全般として日本政府や軍の命令があったかなかったかについては、わたしはここに集う方々とは異なる見解を持ってます。1000の内1つに反証を挙げて1000全部を否定はできない、という主張なわけですね。
だがここであれこれ言ってもしょうがない気がしてまいりましたので終了ということで。
つくづく、フェスティンガーは慧眼だったなと思いました。
>少なくとも「平和主義バンザイ!」とやっている、貴方のような人よりは、よほど物を考えていたように思いますね。
現在のアメリカのように、利権・利益を守るためには力を使い殺しあうことも当然許されるというイデオロギーなのであれば、議論する土台も必要性も欠くわけで、互いに時間のムダではありますね。
わたしは、国際協定に反し不当廉売を続けていたクウェートに対して、原油価格維持による国民生活の保護を訴え侵略を強行したサダムの考え方には、いくら仕方がなかったと言われても同調できません。
ドイツ哲学者カントは、力のあるものが弱いものから奪うのが当然だった18世紀の欧州で、恒久平和のために常備軍の廃止、民族自決、共和主義、集団的安全保障、国際交流、商業主義の規制、秘密条約の禁止を提唱しましたが、もちろん当時は夢物語、学者のタワゴト、空想だと揶揄されました。
しかし常備軍の廃止はともかく、現在ではどれも(不十分ではありますが)国連憲章の諸原則となっています。
わたくしは、これは非実証主義でも観念論でもなく、新しい国際秩序を作る先進性と気概だと思ってます。
>sakimiさんへ
少し勘違いをなさっていると思いますが、当時在台湾の日本人が「西蛮」と呼んでいたのは、山岳地帯に住む非中国系の未開部族のことです。いわゆる台湾人とは違うのです。
あまり広く知られていないことですが、祖父の任務は、高床式住居に住み自給自足の生活をする彼らを徴兵し、銃剣術とゲリラ作戦を教えることでした。
祖父の徴兵は42年、半年の訓練の後すぐ任務であって、日本人とも台湾人ともあまり交流のない広東語すら通じない民族で、集落から引き剥がすのに苦労した様子を語ってくれました。
ヘンな思想もなにも、祖父がわたしと二人だけのときに語ったものであって、ウソ偽りを言う必要性も何もないことだと思ってます。
よそ様のブログでこれ以上はっちゃけるのもアレなのでこれでスゴスゴと消えるとにします。
曽野さんは、それほど思想的に深い人だとは感じませんでした。しかし、ある意味、男らしい?人と感じました。勇気とか潔い性格というような意味です。
集団自決の問題で、曽野氏が自分で実際に現地調査をしたら、自決命令はなかったわけです。その当時の正義や世相に反していたのですが、曽野氏はありのままに述べています。
当時の世相や正義に迎合するために、表現や理屈をひねっくったりして、ごまかしせんでした。もし今後、曽野氏が自決命令があったという証拠を発見したのなら、曽野氏はたぶんそれをありのままに述べて自説を変更するでしょうね。
そういう意味で曽野氏のことを男らしいと言ったわけです。でも、これは不適当な表現ですね。言いたいことは、事実は事実として認めること、が大事だということです。
>だがここであれこれ言ってもしょうがない気がしてまいりましたので終了ということで。
今読み返してみたけど、君のコメント、嘘と自己満足しかなかったね。
>つくづく、フェスティンガーは慧眼だったなと思いました。
こういうコメントも、読んでるほうが恥ずかしくなるからやめたほうが良いですよ。
>全般として日本政府や軍の命令があったかなかったかについては、
全く貴方の思考が浅い。そのSAPIOの、38ページの池田先生の言葉を、仕方がないので引用します。
池田:本当の事実は何だったのか。日本軍は確かに悪いこともしたでしょう。しかし、泥棒で前科3犯だったから、強盗も強姦も全部やっただろうという話にしてはいけない。イデオロギーを越えて戦争」を書く時期だと思います。
私もこれに同意します。少なくとも、「日本ファシズム」なる、歴史事実と異なる妄想を作り、そこから細部を組み立てる、怠惰な思考で何が分かるのか。
>1000の内1つに反証を挙げて1000全部を否定はできない、という主張なわけですね。
これをやっているのが貴方であり、大江健三郎や朝日新聞です。思考としては手軽で、だから貴方の低いレベルでも行えるのでしょう。
それを相手がやっているようにレッテルを貼る。I田さんは非知性的です。
>だがここであれこれ言ってもしょうがない気がしてまいりましたので終了ということで。
違います。I田氏が信じる無謬性が、学術的に間違っている。自分の敗北を反省しない所に成長など無いですよ?
あなたの思考の浅さは、「個体としての才能」以前に「努力不足」と「頭を少ない哲学書にすっぽり預けてしまい、自分で思考していない」点が最大要因。
>つくづく、フェスティンガーは慧眼だったなと思いました。
ヘーゲル「精神現象学」では、ある出来事の「当事者に取っての意味」と、「学術的訓練を積んだ有識者に取っての意味」は別とします。
今回の沖縄問題に当てはめると、理解しやすいと思います。
>現在のアメリカのように、利権・利益を守るためには力を使い殺しあうことも
貴方の思考は万事この調子で、単純なデータ不足から来る無知をさらしながら、バカと思われたくないため、哲学の引用で凌ぐというパターン。
なぜ、自国だけでも、自存自衛のための
あらゆる物が足りる「自己完結」国家であるアメリカと、「資源と国土」という永遠の課題を抱える日本の事情が同じになるのか?
増える人口と、世界恐慌によるブロック経済化で、国際協調への絶望が覆った日本とアメリカという、全く「別物」の国家を、ただ「同類だろう」と当てはめてしまう、圧倒的な無知にも関わらず、ソクラテスの「無知の知」すら理解していない。何でしょうねこれは。
「自分は頭が悪くないんだ」と言いたいがために、その場限りの言い逃れをしてもしょうがないよ。
>ドイツ哲学者カントは、
という事で、カント「永遠平和のために」を持ち出しても、I田の言っている事はまず「思考」の体裁を為していない。
>力のあるものが弱いものから奪うのが当然だった18世紀の欧州で、
「民族自決」のためには力がいるよ?中国は、常備軍が無いに等しかったチベットを侵略しましたよ?
「平和主義」に眠ったヨーロッパは、第二次大戦でヒトラーを育つ事を許し、
今はアメリカのいわゆるネオコンに、軍事力格差を指摘されて、EU統合を進めてるわけで。
>しかし常備軍の廃止はともかく、現在ではどれも(不十分ではありますが)国連憲章の諸原則となっています。
国連は各国の利害対立の場でしかない。昨今もアメリカの単独行動に対し、何の抑止力も無かった事を証明したじゃないか。
いくら批判しても、「戦勝国体制」であり、中国の人権問題に制裁などできない。
残念ながらI田の思考は、先進的でも何でもなく「妄想」。「現在を保つための力」を完全に無視して、「向かうべき未来」を勝手に規定しているが、こういう思考は現在から逃れるための「宗教」に過ぎない。
>わたくしは、これは非実証主義でも観念論でもなく、
また読み違えているが、非実証主義とか観念論と言ったのは、沖縄問題に関する、あんたの史料検証の適当さと、根源的な知性の浅さ。
で、「永遠平和のために」では、「平和条約の不完全さ」こそ戦争原因って書いてあるよね?学術的正確さを欠く「日本ファシズム」だの1を持って100を決定する思考を、それこそ「全体主義」的に押し付けることが、ルサンチマンを生み、将来の戦争原因になりえるのだが。
まぁ450円のSAPIOの3ページを読めないI田が「永遠平和のために」なんて700円「も」する本をちゃんと読めるわけないか(笑)
>よそ様のブログでこれ以上はっちゃけるのもアレなのでこれでスゴスゴと消えるとにします。
あなた、本気で少しでも「討論」をしたと自分でお思いか?独学でもそこまで酷い思考にならないと思うが。
たかが思考問題での敗北も反省できない人間に、勝利も平和も作れるわけがない。
>渡辺さん
全体的に同意します。問題は、「あれをやったからこれもやった」と事実を曲げる事であり、今後、事実が証明されれば、あっさり「あった」と認めるだけです。
先の大戦を日本から見た場合,白人が世界を制覇した歴史の中で,避けることは殆ど不可能であった.戦争目的の不明確性,戦術的誤り,非合理的指導者が多かった(英米と比較して),国民に冷静さを欠いたなど多くの問題があったことは確かである.それでも,白人による有色人種の植民地支配を打破する上で大きく貢献したことは明らかである.
戦争は国際政治の一形態であり,日本と連合国とで道義的にどちらが上であるかを議論することは無意味である(戦勝国の歴史としては日本が悪者とされているが).また,先の戦争で日米のどちらがより残虐であったかを比較した場合,むしろアメリカの方がより残虐であったことは間違いない.
左翼の思考は単細胞的であり,マルクス主義・コミンテルン的史観にしたがって天皇と「日本軍国主義」を悪者にしたてて自らを免責しているに過ぎない.大江健三郎は,日本の国益と安全の大きな障害となっている左翼の巨魁といえる.
このように書いてみると,日本では極右扱いされそうですね.でも,世界的に見た場合,自国の歴史をこの程度に正当化することは極普通の態度です.日本は,世界的に見て自虐性が極度に高い国です.こんなことは日本を離れて生活をしてみればすぐに分かることです.
>1000の内1つに反証を挙げて1000全部を否定はできない
というのがあなたの主張だとすると、これはお門違いです。この記事で問題にしているのは、
>大江氏が調査不足で書いた文章であったなら、それについて賠償責任が認定されるかもしれません
という事実関係であり、それ以上ではないのです。あなたが法律家なら、記述が真実であるか、真実と信じるに足る十分な根拠がないと名誉毀損が成立することは知っているでしょう。大江氏の記述は伝聞であり、その出所となった『鉄の暴風』も伝聞です。しかもその裏を取りに行った曽野氏の調査で、この伝聞情報は完全にくつがえされた。だからもう「真実と信じるに足る」根拠は何もないのです。法的には、これで勝負はついていますが、被告側が苦しまぎれに「かれ」は赤松大尉ではないという荒唐無稽な主張を持ち出したため、訴訟が無駄に長期化しているのです。
渡嘉敷島だけでなく、沖縄戦のどこでも自決の命令がなかったことは、歴史学でも常識です。「軍の強制」説をとる林博史氏でさえ、「軍命がなかったことは20年ぐらい前に歴史学界では確定した事実だ」と述べています。「1000の事実」もないんですよ。林氏らが主張しているのは「事実上の強制」という慰安婦と同じレトリックです。「強制」という言葉をこのように曖昧に使うことが彼らの特徴ですが、かりに強制と呼ぶとしても、その主体は現地の守備隊ではありえない。「軍のタテの構造」が住民に及ぶはずもない。問題は、日本全体をおおっていた「空気」なのです。ここまできてもそういう問題の本質が理解できない大江氏は、作家としても失格ですね。
>歴史学会においても肯定論否定論両方ある
これが大嘘!それは最近公開された沖縄戦専門家の意見書に書いてありましたよ。専門家がはっきり、「集団自決」の軍の強制否定論なぞ存在しないと書いていて、ビックリしました。
いやあ、世の中、面白いですね。
今も昔もタテマエが代わるだけで、個人+組織のホンネはいつも儒教+法華です。リベラル気取りの組織も同様です
それでファッショ的に政治・社会・道徳まで運用されるんだから参ってしまいます。
西洋を受け入れた社会には聖書と共産主義という妖怪が取り憑きますが、日本社会には儒教と法華という先輩妖怪がいました。
キ太郎も大変です。みなさん悪の研究や弾劾はお盛んでも、善の研究は読むだけですからね。
>祖父の徴兵は42年、半年の訓練の後すぐ任務であって、
これは軍隊と言う物に少しでも知識があれば信じ難い主張だ。
初めての検閲を受けたばかりの二等兵ではないか。
また俗に言うゲリラ戦教育も42年では中野学校など極一部でしか行われていなかった筈だ。
僅かな書き込みでこれほど疑問点が出てくる経歴話も珍しい。
貴重な武器である、手榴弾が多数 手渡されていた事実。軍隊の駐留していない地域では、”集団自決”は発生していないという現実。こうした、事実は、軍隊の”集団自決”に対する関与性を示唆するに足る材料であるとみる。
また、赤松隊は、守備隊ではなく、特攻隊の部隊であり、本来、渡嘉敷島を守る目的で配置された部隊ではなく、本土防衛(国体護持)の目的こそ彼らに委ねられた任務と推測する。米軍の侵攻に対して、早々と特攻を断念した赤松隊の、次なる目的は、貴重な部隊戦力の温存と、再起(再び特攻を遂げる機会を得る事)が、最重要の課題であり、本土防衛の捨石と目されていた、沖縄とその離島群を守る事ではなかったであろう。すなわち、渡嘉敷の部隊は、渡嘉敷の住民を守ることより、自らの戦力の温存を最優先とする、決断を下した可能性も高いとみる。
小生自身が、26歳でかの地の守備隊長で、圧倒的で猛烈な米軍の艦砲射撃の嵐を受けたなら、もちろん冷静ではいられないし、後の世の批判に耐えうる行動を取れる自信は無いが、全く意思阻喪してしまって、早々に敵軍に降伏してしまうことも、決断できなかったであろう。
何度も書いているように、この裁判で争われているのは、一般的に軍が集団自決に「関与」したかどうかではありません。軍が関与したことは明らかです。そうでなければ、住民が手榴弾を入手できるはずがない。
原告はそんな自明の事実を争っているのではなく、大江氏が「屠殺者」と断定した赤松大尉が「集団自決を命令した事実はない」というきわめて具体的な事実を争っているのです。それに対して、罪の巨塊がどうとかいう大江氏の弁解は、まったくトンチンカンです。
沖縄の離島で起こった、おぞましい事件は、そうした官製の空気の醸成の果てに立ち現れたのである。
ここに、次世代に問うべき、民主主義の確立に向けてのヒントを観てとることができるだろう。シビリアンコントロールと呼ばれる空文を現実化するためには、新しい国家観(国民国家のその先に)に基づき、共生共死の思想に組しない、戦わない階層による国家支配が行われ、有効なシビリアンコントロールを機能させることが、戦力を有せざるを得ない近代国家の次世代の有り様であろう。そしてそのような、戦うことに不都合な国家体制は、帝国に対抗するという目的における国民意識の共有化を前提とすることになるであろう。国軍の位置は傭兵によって置換される時代がくる・・・・?
昔の本が再刊されるとき、一字一句校正することはないので、これは出版社の責任です。どっちにしても、こんな表記の問題は大江氏の重大な事実誤認を免罪する根拠にはなりえない。
ちなみに巨根が罪なのではなく、罪が巨根ということ、すなわち巨根とは大江氏を指すということだ。
これまでの歴史研究は、マルクス主義など欧米的な歴史観の影響が強く、特に戦争については、ホロコーストのように主語のはっきりした犯罪をモデルにして考える傾向が強いが、日本の戦争犯罪は、そういう図式では理解できないのです。マルクス主義者に比べると、丸山眞男はこの違いに自覚的だったと思いますが、彼も結局は「近代西欧」と「前近代的な日本」という図式に収めてしまった。
こうした無人称的な「空気」をどう理解するかはむずかしい問題で、日本人だけの特徴でもありません。行動経済学でも、herding behaviorとして研究対象になっています。ある程度は遺伝的に身についた「集団同調本能」みたいなものかもしれない。
保存も兼ねて、全文転載します。
【断 呉智英】大江健三郎の“特権”
大東亜戦争末期沖縄での集団自決の実態再検証に世論の関心が高まっている。大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書)の真偽を巡って係争中の裁判の報道もあった。その中に、えっと思う記述があったので『沖縄ノート』を読んでみた。
第九章にこうある。
沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は一九七〇年春、慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた。それは「二十五年ぶりの屠殺(とさつ)者と生き残りの犠牲者の再会」であった。
自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解での)を屠殺者になぞらえていることだ。
これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として部落解放同盟と屠場労組の苛烈(かれつ)な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。
一九八二年、俳優座のブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い上演は困難を極めた。これについて部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した。
また、一九八九年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の「戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述が問題にされ、回収処分となった。
だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい。(評論家)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071201/acd0712010322001-n1.htm
何かの思いこみでしょう。学徒動員された私の父は、軍隊のことも自衛隊のことも快くは思っていなかったし、新聞と呼べるのは「朝日」だけwという偏った人間でしたが、それでも大江という作家を誉めたことは一度もありませんでした。
大江健三郎という男を戦後文学界のモンスターに育て上げたのは、いわゆる革新勢力や朝毎新聞であり、望外wのノーベル賞受賞は、せっせと現地語訳本を出し、朝日新聞が運動してくれたお陰に過ぎない。言わば、彼を評価しない人間は、メディアから締め出されたからこそ、モンスターが跋扈することになったのです。
誤字誤植問題
この問題が唯一意味を持つのは、以下の二点に影響を及ぼす時だけです。
教科書が実際に書き換えられた時と、進行中の名誉毀損裁判で原告が負けた時。教科書記述は現に書き換えられようとしているわけですが、裁判で原告が勝利した場合、教科書記述はまた元の表現に戻る可能性が高い。従って問題の焦点は、裁判に影響を及ぼすか否かの一点に絞られます。
所が、裁判の経過を見ても解る通り、この誤字問題は法廷で最大もしくは唯一の争点になっているわけではない。目一杯評価してもせいぜい論点の一つ、に過ぎないでしょう。
大江の法廷での証言や朝日への寄稿をもってして誤字解釈が最大の争点であるかのように主張している人々がいますが、それは単に大江サイドから言えば、「これが一番筋が良い」という程度の話に過ぎない。それすら法廷での反論否定は可能である。
大江サイドの人々は当然、「誤字が曾野綾子の誤解の発端であり……」と主張してくるわけですが、それが法廷の主要論点にならない限り意味はなさない。残念ながらここを譲っても他に原告側の傍証は作中に数多ある。
現状では、せいぜい外野の議論に於ける曾野綾子批判の材料の一つにしかならないでしょう。裁判の行方自体は全く不明ですが、少なくともこれは些末な問題であると言わざるを得ない。
kiki 氏は一度、現地が当時、どんなに混乱し、悲惨凄惨な状況にあったかを時系列でもってお読みになられてはいかがでしょうか? ネット上でもそこそこのテキストは入手可能です。あの過酷で追いつめられた状況下で、「軍の命令があったからこそ自決したのだ」という発想がいかに状況を無視したナンセンスな発想かを多少は理解できると思うのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%8D%9A%E5%8F%B2
この人、戦後の人間ですぜ。もしかしたら軍事の知識がないかも。それとこの人は教科書検定について言及しているわけで、教育を視点にした場合は、沖縄の方々のことを学生が「勝手に自殺してアホなんちゃうか」というような理解をされたら困るとは思いますよ。まぁ教育を視点なら、教科書の記述云々よりも壇上での先生の発言の方がはるかに影響力があります。或いは大学入試でどんな問題が出るかの方が大きいです。個人的には戦史なら半藤さんの方が信頼できるかなと思っています。軍事的な戦略を考慮して日本軍を評価しているから。文学部出身なのにめちゃめちゃ論理的な発言をするなぁと。古代史なんかはそれぞれの資料の関連性、つまり状況証拠から当時の常識を理解したうえで資料を読むわけで、現在と結びつけようとした時点でそれは歴史家個人の政治的な評価であって歴史としての視点は失われると思います。I田さんは軍事知識がないことをマクロに言っちゃうから誤解されるのではないかなと。軍人が人を殺すのを犯罪者だと非難するのはえらい失礼な話だと思いますが。それでも僕自身も第二次世界大戦あたりの話になるといやな気分になるのは確かですわ。歴史を自虐的に認識しているかどうかは人の勝手だとは思うんですが、マクロに考えたらやっぱり教育の問題だろうと思います。義務教育でも正当防衛の考え方から発展させれば、軍国主義的な発想をしないで軍事を教えられると思うんだけどな。世代間の穴埋めにもなると思いますけどねぇ。僕にとってはサンダーさんのような発言が一番ありがたいわけですよ。学校で教えてくれないから質的な感覚が全くわからないわけ。軍事知識があることを特別扱いされない世間であればいいとは思いますけど、まだまだ先は長そうです。学習指導要領書には「核兵器の脅威に着目させ、」と突然書かれるからわけわからん。「軍事に使う兵器の一つで使うと軍人ではない大量の民間人を巻き込むことは確実なんですがそれでも持つ意味がありますか」という説明をせずにんまぁ〜とっても政治的だこと。話がずれました。
<渡嘉敷島と座間味島において、それぞれの戦隊長が自分は自決命令を出していないとの主張は、1970 年代あるいは1980 年代から、研究者の間でも広く知られていることです>
と明言しているのです。彼は大江訴訟にも言及していますが、さすがに被告をひとことも擁護していません。大江氏を擁護する人は、どこにもいないんですよ。
文学的修辞はあるにせよ、大江氏の弁明はありきたりの手法に則ったものでしかありません。問題はそれが法廷で通用するかですね。
「沖縄ノート」が出た時に、それを読んだ曾野綾子氏は、大江が意図したようには解釈しなかった。すでに曾野氏の初版本で誤字は無かった、という事実がありますが、問題の焦点は、曾野氏は、大江氏が意図したようには解釈しなかった、という一点のみでしょう。曾野氏は何かの悪意をもって曲解したのか?
作家が、文章の解釈を読者に委ねることはままあることです。しかし「沖縄ノート」は、現地取材が無かったとは言え原則としてドキュメンタリーだと思うのですが、そこで読者に解釈を委ねるような文章があるべきかという部分で疑問が生じます。大江氏の文章は難解さが売りです。それを著者が意図した通りに解釈できない人間がバカなのか? 愚かな読者に罪があるのか?
ことは個人の名誉に関わる問題であって、解釈が左右されるような文章が許されるはずもない。それは敢えて言えば、訴訟逃れのダーティな文法テクニックに過ぎない。
現に、大江氏が法廷に立って、「その解釈は実はかくかくしかじかです」と申し述べるまで、誰も大江氏側の正確で正解、と著者が主張する解釈を披露した人々はいなかった。
文学者たるもの、読者に誤解を招くような表現をした時点で失格です。それが何かホットな論争を巻き起こしたというのならともかく、個人の名誉を傷付ける結果になり、その正解とする解釈を40年を経て法廷で披露することがいかに滑稽なことか。
大江氏のファンが、なるほど! そういう解釈だったのか、と感心するのは自由だけれど、少なくとも当事者や世間、そして同業者も、この数十年間、大江氏のような解釈は出来なかったことの方が遙かに重大なことだと思うのです。
「China's Thanksgiving Snub」を英字ブログに乗せました。腹が立ったもんですから。
米海軍の原子力空母キテイ・ホークと海上自衛隊の艦船は、丁度、福田康夫さんがブッシュと会見している頃、西太平洋上で七日間の演習をしていた。航空機、原潜、巡洋艦を含む、今まででは最大の規模だった。演習後、キテイ・ホークの水平8000人と米海軍艦船は香港に向かった。感謝祭の晩餐をアメリカから飛んできて待っている家族と一緒にするために、、だが、中国政府は、、http://bomanchu.blog81.fc2.com/
このWSJの記事をわしは先週の月曜日11・26日に読んだ。読売は、今日12月2日になって発表したのだ。日本の新聞社はこんなもんだ。日米同盟をなんと考えているのだろうかね??伊勢
引用終わり。台湾人の部隊を南方のジャングルで投入したという話は、読んだ事があります。音も無く、敵に気づかれず地雷原などを除去するので重宝がられたそうです。
「作戦終了後、丸3日は心身ともに疲れ果て起き上がれなかった」という記述があったのを、強烈に覚えてます。
ただ、それを別にしてもI田さんの書き方は問題があるなと思います。台湾は、かつて清に統治され、また戦後蒋介石政権の統治下にあったものの、文化的または言語的な見地でみれば中国ではありません。詳しくは「むじな 台湾」でグーグル検索をかけて貰えれば分ると思います。こちらの主宰者さんが、大変御詳しいです。
高砂族ではなく本省人の回想ですが、一番の屈辱は兵補(正規の二等兵の権利が無い臨時の階級)だった事だと書き残した方が居ます。戦前には兵役は名誉捉える感覚がありました。特に外地では。これは欧米植民地でも同じで普遍的傾向です。なぜなら本国人と同じ義務を果たす事により同じ権利を主張できるからです。フランス植民地でドゴール亡命政権に参加した兵は、戦後にフランス本国の国籍を申請できたそうです。
>集落から引き剥がすのに苦労した様子
従って上記の記述は全く信頼できません。明らかに兵役を全面的に厭う戦後価値観の目線で語られています。私は某氏の祖父なる人物が存在する確率は極小と考えております。
その時のメディア対策をきちんと今から考えておく必要があると思います。
先回りして他メディアで朝日の捏造を予見しておくなど、朝日がアサヒるのを防がなくてはいけません。
このニュース、日本でも11月22日に報道されてますよ。例えば↓
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20071122-286566.html
その後、寄港拒否撤回したと中国政府は言ってますが、見解が二転三転しているようです。キティホークは結局香港には寄らずに横須賀に帰港しました。読売の記事は拒否なのかどうかはっきりしなかったから報道を留保していたようで、政治的意図はないと思います。
それからキティホークは原子力空日でなく通常型空母です。
朝日を中心とする日本の左派は米国の中国系学術団体からノーベル財団までありとあらゆるコネクションを使って世論操作するでしょうね。慰安婦問題と同じです。米国メディアもヒロシマやオキナワ等自分たちの暗黒面がカモフラージュされるので朝日と利害が一致、終始一貫して大江を支援する方向でいくでしょう。真実なんかどうでもいいんですよ。
「大江氏の「罪の巨塊は、「巨きい数の死体」」というexcuseは、
ベタなパラフレーズでは文法的に破綻し、
文章が意味が通るように解釈すると、旧軍の構造ではなくやはり「彼」を断罪している。大江氏のexcuseはおかしい」
という池田氏の批判をbuyobuyo氏は読解できていないようでした。
彼は、池田氏が承知で行ったにも関わらず
ベタなパラフレーズだからできないという指摘で満悦してしまい、
「人間としてそれをつぐなうには、あまりも大きな罪の証拠であるあまりにも大きなおびただしい死体の山のまえで……」
と池田氏の批判に沿った解釈をしている。
(しかもまだ句読点の位置がおかしいので、証拠をつぐなうと読めてしまう)
つまり、「彼がつぐなうべき罪」と彼を断罪しているのだが、
これにに気づきもしていない。
こうした自分の文章も理解できていないのではないかと疑いたくなる
酷い読解能力にも関わらず、buyobuyo氏は相手の文学鑑賞能力を哂い、
さらに実名で活動している人間に、「死ねばいいのに」となげつけています。
彼は哲学を専攻しているといってますが、
彼の一連の行動は、研究を志している者がとった行動であると考えるには、
怖気がするものだと感じました。
彼の指導教官は、彼の恥ずかしい行動を一体、把握・容認しているのだろうか?
池田氏には是非、前例として毅然とした対応をとってもらいたいと思いました。
解放だの革命だの、愛だの平和だのと言う名の下に大量の人間が虚無的に殺されていく。
リベラルでない戦争の時代には、人間の死は苦しみだったが、今や苦しみも無い。
言葉のために、人間が轢き殺されて踏み潰されていく。
それがリベラルの時代だ。
リベラルというのは、本当に、心底、恥知らずだ。
本当に、本当に、恥知らずだ
ホロコーストにまつわる”夜と霧”を詩情豊かな散文詩で描ききった アラン・レネに、日本の関係者は、ヒロシマをテーマに同様の映画の製作を強く要請した。一度断った彼が、用意した映画は、デュラス脚本の、錯綜する時間と記憶と個人的体験を鋭く追及した作品だった。冒頭の場面で、フランスからやってきた女優が”ヒロシマで私はすべてお見た”と言い、同衾する、ヒロシマの男が”君は何も見ていない”と繰り返す。”24時間の情事”1959年
沖縄戦の悲劇を、映像の世界で追求するとしたら、やはり、アラン・レネが適任ではないだろうか、彼を是が非でも降霊し、3つ目の歴史に残る名作を依頼したい。執拗に拒絶する彼が作り上げる物語は、案外、現在進行形の、裁判をモチーフにした、訴訟にかかわる弁護士や裁判官の、猥雑な日常が描き出されるような気がする。沈み行く大和の航跡に始まり、最後は、勝訴した弁護士の深いため息で、しめくられるのではないだろうか。
沖縄の物語は、沖縄の人間がまず語るべきだろう。
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