前回は民主党衆議院議員・長妻昭氏をお訪ねし、ジャーナリズムについて語っていただいた。今回はそこで出た話題について解説してゆく。前回連載分と照らし合わせながらお読みいただきたい。
【ミスター年金・長妻昭氏に聞く取材テクニック】
インタビュー対談では、生き方としてのジャーナリズムということがテーマになった。話に出ているようにジャーナルの語源はラテン語のディウルヌスdiurnusである。これは「1日の」という意味の形容詞である。例えば、この形容詞を用いてローマ時代に官報『アクタ・ディウルナ』が発行された。日刊で政府の活動を広報しようとしたものだった。
ただし、この『アクタ・ディウルナ』をジャーナリズムの起源と見なすことには多少の留保が必要だろう。官報はあくまでも政府発表の情報メディアである。『アクタ・ディウルナ』は確かにディウルナ=ジャーナルの語を冠した日刊発行物の嚆矢だったかもしれないが、それを最初のジャーナリズムと見なしてしまうと、政府発表情報とジャーナリズムの距離感を失わせかねない。
ローマまで遡らずに英語の歴史に注目した方が、ジャーナリズムの理解は易しいのだと思う。『オックスフォード英語辞典』によれば毎日の記録、つまり日記としてジャーナルの語が用いられるようになったのは1500年頃から、日刊新聞にジャーナルの語が使われるようになったのはもっと時代を下って1728年以降なのだそうだ。つまりジャーナルの意味としては「日記」の方が早く確立された。「ジャーナリスト」とはまず「日記作者」だったのである(以上、鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』筑摩書房より)。
ではなぜ日記を記すのか。個人的な備忘録のため、ということが多いのだろう。しかし中には後世に書き残す意志を持った人もいただろう。典型的なのは戦前、戦中の時代を生きた外交評論家にしてジャーナリストの清沢洌(きよさわ・きよし)が戦争中に書きためていた日記だ。
若き日に米国で暮らした清沢は米国の実力を知っており、日米開戦に極めて否定的だった。勝ち目のない戦争に突入しようとしている国策を批判する記事を多く書いた清沢は、やがて情報統制の時代にマスメディアでの発言の機会を次第に失ってゆく。そして最後に日記だけが彼に残った。
清沢は日本社会が戦争中にどのような対応をしたか書き記すことが、敗戦後の時代に役立つと考え、膨大な記録を「戦時日記」と記した大学ノート、日記帳に書き残した(より具体的には戦後に自分で「現代史」を執筆する時の資料にしようとしていた)。残念ながら彼自身は終戦の日を前に亡くなってしまうが、その日記は編者・橋川文三によって『暗黒日記』の題を与えられて戦後に刊行された。
この清沢のケースのように「残す」意志の反映である日記の場合、ただ日々の思いをつれづれに書くだけでなく、より自覚的な調査活動を伴うことが多い。清沢も特に取材と銘打ってはいなかっただろうが、日々の出会いの中で聞き取れた印象的な言葉を書き留め、新聞の切り抜きを日記に張り付けていた。こうした調査を伴う記録という作業にまで至れば、日記はほとんどジャーナリズムの様相を呈する。
そして、そこで示されているのは「生き方としてのジャーナリズム」と「職業としてのジャーナリズム」の乖離ではないか。
日記作家は職業として日記を記しているわけではない。ただ調査し、記録することに価値を見ている。それがジャーナリズムになるとすれば、彼はジャーナリストという生き方を生きている、と言えるのではないか。
私たちにとって既に習い性になっているようにジャーナリズムを職業の名だと考える時、そうした生き方としてのジャーナリズムのあり方は見失われがちだ。職業ジャーナリズムとしての新聞はより多くの人に読まれることを良しと考え、テレビはより多くの人に見られようとする。それはジャーナリズムの力が世論の喚起を介して機能するものであり、その力を求めようとすれば数の論理が必要となる事情によっているが、一方でそれは新聞人や放送人たちが職業としての安定や、収益の向上を目指すことでもある。
日記は記録の時点では刊行されないために何の社会的影響力も持ち得ないが、だからこそ、逆に、例えば部数拡大の要請や、組織としての安定のために必要な配慮等々を求められることなく、存分に調査し、記録できるという点では、日刊新聞としての「ジャーナル」よりも日記の「ジャーナル」の方がむしろジャーナリズムらしいと言えるのかもしれない。
もちろん影響力のないジャーナリズムに安住するわけにもゆかず、日記礼賛もほどほどにすべきではあろう。だが、職業ではなく生き方としてのジャーナリズムを意識することで見えてくる新しいジャーナリズムの風景があることも確かなのだ。職業としてのジャーナリズムとは異なる場所に、ジャーナリストの志が純粋に定置され得るジャーナリズムのあり方を見ること。そうしてみると長妻昭氏が国会議員になってなおジャーナリストなのであるということに私たちは気づくのだ。
実は、長妻氏とは取材の前に1つの話題で盛り上がっていた。事前に人物資料を読むと、筆者とかなり東京の近いエリアで育ったのではないかと思ったのだ。というのも、長妻氏も都立高校出身で、その高校は筆者の母校と同じ「学区」に属していた。
学区という制度は今はもうないが、当時の都立高校は地区ごとにグループ(=学区)に分けられ、その中で数校ずつ組み合わされて「学校群」を形成していた。学生は自分の居住所の学区の中から学校群を選んで受験する。そして学校群の合格ラインに達すると自動的に(受験生の意志を反映させずに)個々の高校に割り振られる。
この学校群制度は、日比谷、戸山といった歴史の長い名門都立高校と他の高校との格差を平準化するための措置だと説明されていた。だが結果として第1志望の高校ではなく、同じ学校群の別の高校に割り振られることもあり、その校風が気に入らなかったり、通学時間が延びてしまうことを理由に、私立に進学先を変える学生も少なくない、あまり評判のよくない制度であった。ちなみに筆者と長妻氏の学区は中野区、杉並区、練馬区の3区で形成されていた第3学区である。
おそらくその3つの区のどこかに長妻氏も住んでいたはずなので「同じ学校群ですけど生まれ育ちはどこだったのですか?」と尋ねてみた。すると驚くべきことに筆者の自宅から1キロも離れていない場所の育ちだった。年齢もわずかしか違わない。それが分かると俄然、取材がしやすくなる。どういう環境の中で、どのような時代の空気を吸いながら育ったのかが分かるからだ。
神戸女学院大学教授・内田樹は1958(昭和33)年が戦後日本にとって最高の年だったのではないかと述べている。「僕は、一九五八、五九年当時の、戦後民主主義社会が成熟してきた日本が最も幸福だったと思っているんです」(「日本人が共同体からの利益を捨てるまで」『中央公論』2007年12月号)。
それは『三丁目の夕日』の舞台となった年であり、実は筆者はまさにその年に生まれているし、長妻氏もその直後に誕生する。映画「三丁目の夕日」でも東京は盛大に普請中だが、筆者が物心ついた頃にも東京五輪を目指して至る所で工事がなされていた。家の近くではカンナナ(環状7号線)が作られ、西武池袋線を立体交差で越えようとしていた。
道路と鉄道の立体交差はまだ珍しく、その建設途中の風景を休日に父親がこぐ自転車の荷台に乗せられてよく見物に行ったものだ。父親はそこで鉄骨の端材を貰ってきて、家の日曜大工用に使ったりしていた。その意味では我が家も東京五輪特需で潤っていたことになる。というのは半ば以上冗談だが、日本が豊かになるのが実感としてあり得た時代だったことは確かだった。おそらく長妻氏にも同じような少年時代があったのだろうと推測する。
だが内田にならえば、昭和33(1958)年を頂点に日本はダメになってゆく。
「それぞれの人間が自己利益の追求を最優先することを少し抑制して、公共のシステムに私権の一部を委譲することで、結果的に自己利益を安定的に確保するという仕組み」が健全に機能していた時期を通り過ぎ、個々が共同体ではなく、自己利益の追求に明け暮れるようになる。確かにそうした軌跡をたどりつつ、企業は勝手放題をし始め、公僕であるはずの官僚まで省益や自己利益を最優先し、共同体へのサービスを怠るようになってゆく。
そうした劣化の過程は、古き良き時代を知る者にこそ一段と無惨に見える。筆者や長妻氏は良き時代の記憶を幼い頃に身体に焼き付けた世代だ。氏の政治家としての情熱は、おそらくそんな出自と、無意識のレベルかもしれないが、関係しているのではないか。
長妻氏の言葉に「日経テレコン」という名が出てきたのは懐かしかった。筆者はフリーの外部記者だったが、やはり同じデータベース・サービスを使っている。日本経済新聞社の「情報銀行=データバンク化」構想(杉山隆男『メディアの興亡』に詳しい)から誕生した「日経テレコン」は、ジャーナリズムで利用可能な当時ほぼ唯一のデータベースだったように思う。
日経新聞の過去記事がほぼ80年代のすべてにわたって検索可能であり、他の新聞の記事も検索可能時期こそ短くなるが横断的に調べられた。まだコンピューターパワーの少なかった時期に設計されており、フリーキーワードによる全文検索ができず、使いこなすには検索のノウハウを習得する必要があったが、逆に腕に覚えがあれば他の記者にはなかなかアプローチできない過去記事を参照することもできた。
長妻氏は日経グループのマスメディア組織の社内記者だったので、おそらく存分に日経テレコンを使えたのだろうが、筆者の場合はフリーランスだったので経費が大変で、深夜帯しか使えない代わりに格安な家庭会員契約を結んでいた。当時は特別の接続ソフトを使って回線と繋ぐパソコン通信方式だったが、最初はデータの保存が利かず、手元に資料として過去記事を残すには印刷するしかなかったので、少しでも接続時間を短くするために、高速のページプリンターを導入した。従量課金制がフリーの身には過酷な料金設定で、プリンターに設備投資して元が取れるぐらいだったのだ。
そこまでしてもデータベースは魅力的で、大いに仕事を助けてくれたと思っている(日経テレコンは今はインターネット経由の日経テレコン21にバージョンアップしている)。
そうして手に入れた過去記事を含めて(ほかに役に立ったのは大宅文庫の雑誌記事だろう)資料を片っ端から読んでゆく。そうすると即席の専門家になれる−−。長妻氏も使っていたこの言い方は、過大評価も、過小評価もせずに理解すべきだろう。
1週間やそこら資料を読んだとしても、その道の権威になれるはずはない。それは当たり前の話で、にわか仕込みの知識で偉そうに振る舞うジャーナリストは、その姿勢自体が専門知識の厚みに対する無理解ぶりを示しているのであり、軽蔑に値しよう。これは実は量の問題ではなく、1週間が数カ月に延びても、あるいは数年に延びてもその事情は本質的には変わらない。
職業選択を誤った、能力に乏しい研究者が相手であればそれを凌駕する知識を持つこともあるいは可能かもしれないが、その道一筋で研究してきた天才たちを取材相手にする場合は、資質の違いもあり、いかに予習をしても敵うはずがないのだ。
しかし、だからといって劣等感や無力感を感じる必要もない。というのは、ジャーナリストは専門的な知識の深さで勝負しているわけではないのだ。伝える仕事であるジャーナリストは伝える相手、つまり読者や視聴者の知識のレベルを知っている。興味の持ち方や感じ方の傾向も分かっている。だからこそ専門知と一般社会に伝達する媒介役を果たせる。ジャーナリストに必要とされる知識は、まずはこうした媒介役を正しく果たすために必要なものだ。
つまり伝える先の読者なり、視聴者なりに間違いを伝えないように専門知を正しく理解する程度の知識、その専門知がどのようなかたちで読者や視聴者に影響を及ぼすのかを的確に把握する知識がまずは最低限必要だということになる。
そうした知識の習得のために新聞や週刊誌、月刊誌といった刊行ペースの速い媒体の場合、取材にかけられる時間にはおのずと制限があり、資料を片っ端から読んでまさに「1週間で専門家になる」必要がある。しかしジャーナリストが取材に持ち込む知識はそれだけではない。
経験のあるジャーナリストは、取材や執筆の経験を通じて様々な社会問題に触れてきている。ジャーナリストとして活動をする前に仕込んだ知識・教養のバックグラウンドもある。そうした経験知の蓄積もまた取材に生きる。そうした経験知と接続させることで、その時に取材で得られた情報を、別の文脈に照らし合わせて評価することができる。そうした作業を通じて、専門知を分かりやすく噛み砕いて世間に伝える「翻訳家モデル」のジャーナリズムを超え、新しい情報を様々な文脈の知識と接続し、歴史と社会の中に位置づけ、評価しつつ報じる「批評家モデル」のジャーナリズムの仕事が果たせる。
ジャーナリストが目指すべきは、そうした「批評家モデル」であり、だとすれば専門知を深めることの危険もまた理解できるだろう。専門知の蓄積は、ただ情報量の増加を意味しない。必ずその専門知を育んでいる共同体への没頭、感情移入を伴う。
ある科学技術者を深く取材しているうちに彼と同じ気持ちを抱くようになり、科学技術に対する冷静な判断が下せなくなってしまう。業界取材をしているうちに業界の一員になってしまうのと同じ論理である。専門知はあればそれに越したことがないが、こうした危険も視野に入れておくべきだろう。