「努力は必ず報われる」。「額に汗する人は馬鹿を見ない」。これらの言葉を誤解している人がかなり多いと思います。
先日、テレビ局の友人から「我が侭な部下」の話を聞きました。番組全体の編集方針に合わない取材を却下したところ、その映像を取ってきた部下が「せっかく頭を下げて偉い政治家に取材させてもらったのに・・・」と食い下がり、方針に沿う追加取材を拒否したそうです。
そういえば、私が経営コンサルタントをやっていた頃、一番面倒なのは真面目な部下が残業して作った分厚い提案書を却下することでした。「一所懸命作ったのに・・・」との言葉に「一ヶ所だけに命を懸けなくていいから問題を解決するものを作ってください」と言っていました。
「努力は必ず報われる」とそのまま信じきった人には努力という主観に評価の基軸を置きがちです。信じ込んだ努力が報われない時、彼らは馬鹿にされた気分になり他人や世間の否定に走ります。
皆さんも同じ経験をお持ちだと思いますが、いくら努力してもどうにもならない時はあります。他人以上に努力しても他人以下の成果しか得られない時もあります。一年間の努力が一瞬にして消えてしまう時もあります。
それでも淡々と努力を続ける人は本当の努力家です。「努力は報われる時もあれば報われない時もある」。この現実を前向きに受け入れる人こそ、信念の人であり、リスクを取り、変化に柔軟になり、他人と社会に寛容になるのです。
広い視野に立ってみれば、リスクを取ることは脳みそに汗する行為であり、額の汗よりもレベルの高い努力だと思います。大きな失敗をしても一週間の休暇でやる気を取り戻せるならば、その一週間の休暇こそ最高の努力だと思います。努力への狭い解釈は努力の幅を狭め、社会の活力を削るのです。
これと似ていますが、人間はあまり表面上の真面目さだけを追求すると、思いもよらない落とし穴が待っています。最近の犯罪を見ていると、思いもよらない真面目な人によって思いもよらない些細な理由で引き起こされるケースが目立ちます。
努力も真面目も言うまでもなく良いことですが、原理主義的にそれを信じ込むと複雑な世間や多様な人間に対して寛容さを失っていきます。クレーマーの急増と魔女狩的な批判風潮は、ここに遠因があるのではと考えますが、読者の皆さんのご意見はいかがでしょうか。
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個人的には「努力の宝くじ論」と呼んで、宝くじになぞらえていたりもします。
とはいっても、努力の量に対して、報われる頻度があまりに少なかったら、人の心も腐ります。腐らないように、「報いて」あげられる部分を、わずかでも拾い上げるのも、マネージメントの1つとも思っています。
まぁ、腐るのがあまりにも早い、っていうのは、その個人の問題で、べつの問題ですけれども。
「努力」が「結果」と同じように報われるということは、裏を返せば「結果」の軽視にもつながっているということなのかもしれません。私のような中間管理職は、汗をかくことがついつい目的になりがちです。
はっとさせられるご指摘でした。ありがとうございました。
心の汗は一番きつい。
私は極力若いときにスポーツなど競い合うことをすることを勧めています。どんなに努力しても喜びを味わえるのは1人または1チームであり、ほとんどの人は努力が報われることはありません。このことを理屈ではなく感覚的に身につけることが出来ます。
仕事はまだましです。報われることもあるわけですから。あるいは100点でなくても60点ぐらいで次へ繋げることもできます。
額に汗して「頑張る」ことは誰でも出来ることで、そのこと自体にあまり価値はありませんし、それで努力したと勘違いしてはいけません。結果が出ない現実に立ち向かい、あるいは柔軟にかわすことが出来る人たちや子供達を育てていきたいと思います。
新鮮な切り口から、努力の方向を見直すきかっかけを頂きました。
これの誤解は簡単にできます。
努力すれば,例外なく報われる
ということは,
報われないならば,努力していない。
ということと論理的に同値です。(対偶)
報われないことを怒る人は,努力していないと批判されたと,怒っているのです。
「努力は必ず報われる」
努力の価値の大切さを信じろ,しかし,期待した価値が得られる確率が高いとは信じるな,と受け止めると役立ちます。
「報われるならば,努力する」
となってしまったら,努力に価値はありません。
「努力すれば必ず報われるというのは嘘、努力すれば報われることもあると言うのが正解。」
その時は漠然としていて良く分からなかったけれど、四十を超えた今は
「どうすれば報われる為の努力になるか」を考えてます。
十年後に報われるならば十年間努力する価値があると思います。
私は十年前に自説の正しさを証明するために会社を辞めこつこつやりながら仲間を集めやっと報われつつあります。
自分が正しいと思うのなら喰らい付き続ける位の執念は必要じゃないかとも思われます。
途中で挫折していじけてしまうようなら論外ではないでしょうか。
一生懸命やっているつもりが、思ったほどの評価を得られず、少々の不満を抱いたことがあったことを思い出しました。
あれから月日はずいぶんと経ち、いろんな経験をしていくうちに、少しずつですが視野が広がってきたと思っています。
ただ、視野が広がるにつれ、周りの状況を考えて、なかなか自分の意見を言ったり、考えを述べたりする場所がなくなってきたことも感じます。
私の言い分は「偉い」と思われるフシがあり(そう言われたくて言っているわけではないですが)、共感を得るためにはまず他人の話を聞くことから始めなくてはなりません。
今は、以前の日本文化に個人主義という風潮が吹き込まれ、状況が変わってきていると感じます。
以前はものを言わなくともお互いに以心伝心、みたいな理解しあえる感覚があったのに、今は、少しのズレも裏切りや差別化といった方へ理解してしまう。要は、自分を否定されたくないのだと思うのですが。
そのあたりで無意識下にあるストレスを他人にぶつけたり、小さなミスも見逃さずチェックしたり、といったギスギスした人間関係にも発展していると思います。
努力や真面目は良いことだと思いますが、本人の方向性もさることながら、周りの理解の方向性にも目を向けたほうがよいのではないでしょうか?
多数決で話はすすみやすいですが、その多数決の意見をマイノリティ側に立って洞察する目も養うと、また、
違った観点でものを見ることができるようになると思います。
真の意味での他人への寛容さも養われる、と私は実感しています。
今回の宋氏があげた事例も、「何のために」が抜けたために時間もエネルギーも無駄になった例と思われます。
自我の確立は結構ですが、自己中心性のみの増長はいただけないものですね。
「努力は報われる」というのは長期的には間違いではないが、短期的には正しくないと感じ始めています。
努力には、方向性が求められるのではないでしょうか?
「本当の努力、本当の真面目さ」まったく仰るとおりですね。私も若い頃にはよくはまりました。幸い、年齢や経験を重ねる事で、やみくもに突っ走る事や、ベクトルの違う労力を使わなくなりましたが・・・
記事にある二例(部下のわがままな「努力」の押し売り)は、厳しい言い方をすれば、「目的にそぐわない努力は努力ではなく、無駄な労力」でしょうし、やさしい言い方をすれば、「この経験が次に生かされると良いね」でしょう。是非、若い経験の少ない方は考えて頂きたいと思います。
突っ走る前に、先ず考えよう!あなたのミッションは何?目的を達する為の最善の方策は?そして、そのプロセスで手抜きが出来る事はないか?と。そうして尽力した事は結果が報われなくても、次の機会に生かされる大いなる努力であったと思います。
そしてもう一言、何事も準備と作戦が大事です。どんな仕事も事業も、準備と作戦が成功の90%を握っていると思います。その上で真面目に努力すれば、良い結果を得る事ができると思います。
「報われるように」努力することが大切なのだと思います。
そもそもの方向性・戦略・状況判断などが間違っていたり、あるいは無かったりしているのに、闇雲に無駄な労力をかけた末に、「そうは言っても頑張ってるんだから」「真面目にやったんだから」という台詞が登場すると、正当で前向きなすべての議論や検証が封じ込められてしまう。どんな努力も真面目さも、方向性や戦略が違ってたらそれはゼロどころかマイナスでさえあるのに。
何年か前にある元高級官僚の方とお話したことがあるのですが、その方は論客として知られている見識の高い方、だったはずなのに、話が彼の長年いらした官庁のことに及んだときにおっしゃった台詞がまさしくこれでした。「そうは言っても彼らも一生懸命やってるんだから」
あっけに取られてしまい、それ以降は議論にならなかったことを鮮明に覚えています。
頑張ったんだから許される、というのは厳しい言い方をすると「甘え」でさえあると思うのです。宋さんご指摘のクレーマーの急増や魔女狩的な批判風潮もそうですが、敗戦の失敗をいまだに国家として民族としてきちんと検証できておらずに、同じ失敗を延々と繰り返していることも、根本には同じ悪弊が根強く横たわっているとしか思えません。
それと、この話は、吉越さんのお話にも深くつながりますよね。吉越さんのお話の今後の展開を楽しみにしております。
私も何人か部下を持ち、同じような経験が何度もありました。特に「一年間の努力が一瞬で無駄になる」という経験をした者に何と言葉をかけてよいのか・・・と思う事がありました。私は世襲により役員という立場になりましたが、部下にはたたき上げの年上の人間が何人もいます。今は上手く組織が成り立っている(社員のおかげで)と思いますが、これからは宋さんのこの項の意見を参考に・・・努力した過程は無駄じゃないと伝えられるように、また、努力している者はその努力は結果として報われるのかどうか一緒に考えていけたらと思います。
宋さんの意見はいつも「やっぱりそうか」とか「うーんそうかなぁ」という考えさせられるきっかけになり大変嬉しく思います。これからも色んな視点の色んなジャンルの御意見宜しくお願いします。
文章が下手ですいません。
指示に基づき時間を掛けて準備した資料が
厳しく批判されたり訂正されたりすると、
客観的に事象を検証しようとするよりも
時分が否定された様な悲しさ悔しさからまず相手を否定返しし、指示が理解しきれないと、そのヒト個人を嫌いになる傾向のある自分がいます。全自分が否定されたわけでもないのに
幼いと思いながらも自分のプライドを守ろうとする筋違いの感情ですね。「努力は報われる事も報われないこともある」冷静に前向きに物事を見つめる気付きになりました。
私は正に不必要な努力で額に汗をかいて、いじけていく派(笑)
正直、自分でもそんな自分に疲れ果ています。困ったものです。
逆に、自分が真面目であることを前提にしつつ(或いは自分を棚にあげて)、他人の不真面目を非難するのは貧しい心の現われだと思っています。
今回の「努力の報われ方」についてですが、多少の異論があります。宋さんの云う(一般的にもそうですが)「努力」を狭義に捉え過ぎているのではないでしょうか。
たとえ、その時点では努力が報われなくても、努力した事実は残りますから、次に同様のことをする時に非常に参考になり、効率が上がったり、成功率が高くなる訳です。そして、将来的に成功すれば、最初の努力も含めて「報われた」ということになるのではないでしょうか。
ただし、私自身は「報われないのは努力が足りない所為」だと思っています。また、「足りない努力はただの作業である」とも自分自身や部下に対して言っていました。
最近、少しの努力が報われなかったからといってすぐに不平不満を漏らしたり、退職してしまう若い方が多いのはとても気になります。失敗を含めさまざまな経験が成長の源泉であるということを、もっと先輩や上司たちが(あるいは社会やメディアが)真剣に教えていくべきだと思います。
今後のメルマガにも大変期待しております。
時節柄、お身体にも充分お気を付けください。
サラリーマンの世界では正直もんが馬鹿を見るのがあたりまえではないでしょうか。真面目にこつこつやっても大概は報われないのでは・・・。適当にやって上司にゴマすりの方が報われています。特に悪いことをしたものがえらくなっています。ある意味ではいい会社です。
本末転倒、目の前の事案に気が取られ、本来目指していた物から遠のく・・。
折角の努力が、ただ水の泡になること自体はよくある事。。。それを必要以上に食い下がると、最も欲してた周りからの評価を下げる事になる事を忘れている。
高い結果を求めるための努力が、逆に現状より低い結果を招く。。
努力とは、生きる事(目覚め、食し、考え、働き、眠る事)。その結果、病気になる事も、トラブル事も、嫌われる事も、様々・・。
生きる事(努力)に意味を求めてはいけないと思います。
果てに結果を求め、落胆するから。
もっと、極自然に、必要な努力を惜しまず、得られた結果を惜しまない。
そんな生き方がしたいです。。
チャンスは常に努力する人のみつかみませよね。
「努力は必ず報われる」という言葉は夢に向かって努力を積み重ねる人に日本では使われていることが多いと感じています。
この前提が明確でないと議論がぶれてしまうのではないでしょうか?
夢に向かっている人にとっては、報われないことから得られるたくさんの気づきも夢に近づくことなのです。あきらめなければ、必ず努力をしていることは、報われると思います。
Heaven helps those who help themselves.
人事を尽くして天命を待つ
と似ていますね。
今回は、言葉の使う状況と解釈が適切でないひとがいるということではないかと思いました。
ただし、とらえ方の問題ですが、
却下された徹夜で仕上げたレポートも要求水準をなにが満たしていないのかを必死に気づこうとすれば、自己成長の機会を得たという意味で十二分に報われると思います。
すべてその人の人間力にかかっているのではないかと思っています。
これからも素晴らしい気づきをわかちあわせていただければと幸いです。
ウェーバーの説によると、「努力は報われる(因果律)」の宗教が支配的だった国、例えば中国やイスラム諸国などは、近代においては後進国に転落してしまった。
これとは対照的に、因果律と反対の「予定説」を奉ずるプロテスタント系キリスト教国では、「努力は必ず報われる」という信念を、
「全知全能の神のみぞ知る運命を、人間ごときの努力で変えられる、という考えは不遜であり、神への冒涜だ」
として否定した。「努力が報われる、という不遜な考えは持ってはならない。しかし神の栄光を増すために、人は努力しなければならない」という予定説の教義のおかげで、イギリス、ドイツ、アメリカは、近代において大発展をとげた。・・・・・・
一見すると逆説のようですが、マックス・ウェーバーは、その原因を実に明快に分析しました。
宋さんの考えと、ウェーバーの考えを比較すると、微妙に重なるところがあるような気がします。
ちなみに西洋の社会学者の説によると、江戸時代の日本人は「努力は報われない(無功徳)」をモットーとする禅宗の影響で、偶然ながらプロテスタント系キリスト教国に近いエトスをもっていたはずなのですが──いつから今のようになったのでしょう?
自分は数年前まで外科医として手術をしていました。うまく行くときが大半ですが、中にはうまく行かないときもあります。この時、どれだけの努力を費やしたのかには全く値打ちがありません。患者さんの命を救えたのか、苦痛を取り去ることがどこまでできたのかだけが問題です。
手術書を読み、疫学や病理の勉強をし、優れた術者の下に出掛けて手術を見て学び、さらに自分の手指の動きをコントロールするトレーニングをし、機械の操作に熟達し、突発した急変にどう切り込むのかを瞬時に判断するシミュレーションを繰り返す努力はもちろん必要です。
しかし、よほどの才能と幸運に恵まれた天才でない限り、常勝というわけにはいきません。自ら行った手術で患者さんが亡くなり、あるいは予想外の後遺症が出ることは、皆無というわけにはいかない厳しい現実があります。
現場を離れて思うのですが、うまく行かなかったときに(言い訳ではない)赦しを得るためには、徹底して無私でなければならないのではないでしょうか。
そして、その無私を表現する方法として、相手の目に見える形での努力というのは、不可欠のような気がしています。もちろん、為すべき方向と理由がきちんと理解されていない場合は問題があるかも知れません。
そう考えると、リスクも身近に感じられ、それにどう付き合っていくか、という視点が得られると考えます。私自身、一度はこの世から消えたいと思った人間ですので。
リスクとどううまく付き合っていくかを考えることが、私にとって努力を要することだと思います。
もっと違う目標や、方法があるのではないかと考え始めると、努力も力が入らなくなります。確固たる目標を持った人は強いですね。疑うことなくそれに向かって走り続けます。しかし、それが結果としてどう出るのか、わからないものです。疑いを持ち始めるときりが無い。結果が出るまで、それがどういう結果であろうと、なかろうと、信じて努力し続けるしかないのでしょうか。
ただ、失敗して初めて気付く事も多くあるはずです。場数を踏むという事も必要ですよね。失敗がなければ、失敗する人の気持ちも、なぜ失敗したのかも理解できませんからね。
重要なのは、成功し続ける事ではなく、失敗を恐れず、経験を積むことだと思います。
努力は、目標を達成するためのプロセスです。つまり、努力は本来目的ではありえません。
宋さんが引用した報告書の事例も、
報告書を作ることが目的になってしまい、報告書で相手に対して何をどう伝えたいのか、という視点が欠落しています。
「手段の目的化」をよく目にします。
物事の本質を理解する「努力」をして頂きたいものです。
その通りだと思います。
ただ、却下する側も「努力すれば報われる」訳ではないという点に触れていただけたら良かったと思います。
文章の趣旨とは外れますが、部下の成果(「努力」は抜きます)を却下する側も、知的労働者(肩書きはともかく)ですから、却下という判断で全体としての成果の質が向上することが前提です。要は、上司の側も、「うちのやり方」といったものを我侭な部下に押し付ける『努力』だけで成果を挙げているとは評価できません。
本来の目的を達成するのに適うやり方を選ぶ=正しい判断という成果が必要です。
宋さんもコメントされた方々も重々理解されているとは感じましたが、コラムとしては「我侭な上司」の例が無かったのが物足りなかったもので、一言述べさせていただきました。
いつも楽しく読まさせていただき、ありがとうございます。
私は常日頃、努力という言葉は「マヤカシ」だなあと思っております。
なぜなら、努力度数を測るモノサシは100人100様であり絶対値ではないからです。
ですから、努力しても報われないという言葉自体ナンセンスであり、努力という言葉は各人の内に秘めるものだと思います。
また、努力という言葉には、どこか苦虫をつぶしたような顔をして頑張るというイメージ、いやなことを忍耐して我慢強く頑張るというイメージがつきまといがちです。
そんな感覚があるから、努力しても報われないという言葉につながっているのでしょう。
本当は違うんですよね。つらいなら頑張らなくていいんです。
喜んで、楽しく、感謝しながら努力していれば、たとえ結果がでなくても、「努力しても報われない」という言葉はでてきませんし、そのうち結果も自ずとついてくるんだと思います。
今後とも、歯に衣着せないメルマガを楽しみにしております。ありがとうございます。
今回の文章を読んで私的に思いますことは、仕事の進め方で人間のモチベーションが変わってくるのではないかと思います。結果で判断すると、その人の努力が水の泡になったとき、その人は絶望感に陥るでしょう。しかし、その過程での報告や相談を行うことで、その人が行っていることの善し悪しが判断できるのではないでしょうか。用はコミュニケーションの問題です。
遠く人里離れて1ヶ月に一度しか連絡が取れないのであれば方法は少ないと思いますが、僕の周囲を見ていると、席が隣接しているにもかかわらず、経過の話しもせずに作業が終わった段階で「これでどうでしょうか」と言う報告をするケースが多いように見受けられます。中間での話しを怠ったばかりにそれまでに使った時間がパーになり、修正を行う時間を追加し、モチベーションも下がるので良い物がなかなか出来ない、といった事になります。うちの会社は注文機械の設計製作を行っていますが、最初の構想を要としています。ここが一番重要で、その次に大切なのが中間の確認です。これを行うことで最大限のコストダウンが出き、作業者も納得して仕事が出来るという物です。
「コミュニケーション」 簡単な言葉ですが、実行はなかなか大変です。でも、これを行うことが善い物を生む最大の武器になるのではないでしょうか。
寒くなって参りました。宋さん体に気をつけてこれからも頑張ってください。
また、コメントさせていただければと思います。
徹底した時間管理と生産性の管理によって
縛られているという意識が働く側に生じていた、
本末転倒な現場の元労働者です。
どうして、ここ(コラム)で挙げられている論調と
現実の会社の実態に乖離がしょうじるのだろう?
吉越浩一郎氏の連載コラムと合わせて
じっくり読んで考えて、
自分達のチームで達成してみたいです
残業ゼロと給料アップ交渉
それはそれとして、「脳ミソに汗するのは、額に汗することよりレベルが高い」との宋さんのお言葉ですが、そうでしょうか?
これは頭脳労働の方が肉体労働よりもレベルが高いと仰っているように聞こえます。 労働にレベルの高低は無いと思います。 私は主として頭脳で労働している部類ですが、肉体労働も素晴らしいことだと思っています。 われわれが生きていくために必要不可欠な衣食住の大半が肉体労働によって作り出されているのではありませんか?
れば報われない時もある」。この現実を前向きに受け入れる人こそ、信念の人
であり、リスクを取り、変化に柔軟になり、他人と社会に寛容になるのです。」
まさに上記のとおりと思います。
私の言葉では、上記の人を「誠実な人」と表現します。
「真面目な人」は、壁にぶつかってもある程度の努力はしますが、壁が高いと真面目なために悩んで投げ出したり、逃避したりします。
「誠実な人」は、どんな壁でも、自分の努力&他の人の力を借りてでも目標に向かって努力します。
そのようにいきたいと思っていますが、現実は、実現できていないですが。。。。
ただ、「・・・クレーマーの急増と魔女狩的な批判風潮は、ここに遠因があるのではと考えます・・・」というご意見については、少し考えさせられました。遠因といっても、そんなに因果関係があるかなという違和感でした。
でも、一つ思い当たることがありました。それは「それは、努力してないということではないか!」というような風潮です。何をするにしても、複雑な条件の中で、多様な課題を抱えながら進まないといけないはずなのに、一つのほころびやミスに対して「努力が足りないからそういうことになる」と思いこまれることが多いのではないかと思います。
確かに努力がたりないのかも知れませんが、事実上無理なのかも知れません。人間の能力にも組織の能力にも限界があるというのもどうしようもない事実なのです。
「努力すれば何とかなる」というのが基本となってしまっているから、「努力が足りない」と言う発言が違和感なく受け止められるのでしょう。
私は常日頃から「努力」を評価する風潮は、「努力すれば必ず報われる」という空想を追っているとしか思えませんでした。
学校では、出席や宿題を評価の対象として、結果を出せない学生を救済するようなことをしていました。
会社に入っては、長年文句を言わずに残業を続けて来た社員を昇進させたりしていました。
それが、本質的に良かったのでしょうか。
先生の言う通りに一生懸命やった学生の中には、とにかくマジメにやるだけで、つまづいてしまった人もいます。余計な努力を強いられて遠回りした人もいます。応用力の低下はこういう部分にも原因があると思います。
会社では、努力を認められて昇進した上司の中にはマネジメント能力も課題抽出力もなく、やみくもに不断の努力を強いられる部下もいます。会社の人的資本を効率よく活かせないという意味で、それは会社のためにもなっていないと思います。さらにその部下が将来どういうマネジメント観を持つのでしょうか?
とは言え、確かにマジメに努力することは大切なのだと思います。金儲けにあまり興味のない研究者やエンジニアの成果をしっかりと評価したりすることも重要です。要領よく生きることばかりが、もてはやされるとそれはそれで、社会や経済の本質的な成長を阻害することになります。
努力をしても成果を出せなければ、それはまた次に努力をする時に「いかに成果をだすか」ということを考える機会になります。
逆に、成果を出した時には評価できる社会であって欲しいですね。
努力そのものを評価基準にするから複雑になって、成果そのものが見えにくくなるということはあるかも知れませんね。
ただ、なんとなく”隔靴掻痒”の感が拭えない。
できれば ”馬鹿正直”な人たちにどうすれば報われるようになるかを教える方法なり秘訣があれば最高です。
語弊もあると思いますが、私も若いときは『やることに意義がある』主義でしたが 今では『結果よければすべてよし』主義になりました。
実はたいていの人はわかっちゃいるけど真面目な人ほど信じてしまうので困るのです。見返りなんか理屈なんかなくていい、世の中そういうもんなんだよ、ということでいいのだと思います。
その提案書、記事、が却下されてもそれを作る際に得た知識、人脈等、は別の時に活きるかもしれません。短期的に、報われることを求めすぎないことが大事かと思います。
もちろん、却下されない意味のある努力をするよう注意することも重要ですが。。。
でも、努力を「(目標を見ないで)真面目に作業を行うこと」だと考えている人たちがいて、その人たちが作業に疲れてしまうことがあるのはよく聞くことです。こんな時は、「お疲れさまでした」としか言いようが無いですね。
大事なことは、目標を持つこと、前向きな行動を続けることではないでしょうか。
横軸には、独りよがり(左方)から他との調整・調和(右法)という基準を置き、一方の縦軸に努力の大きさ(上方)から無作為(下方)という基準を置いて、自分や他人の行為の成果がどこに位置しているか判断しています。もちろん成果の大きさとして、大きな丸印か小さな丸印かの判断基準はそれぞれの場合で違うとは思います。
第1象限が最適で自分の努力が自他共に認められる成果。
第2象限は独りよがりで自己満足の世界ながら、アドバイスや考え方次第でいい方向へ。
第3象限は付き合いたくない最悪のスタッフ。
第4象限は努力をしないので人畜無害だが、このままだと将来問題児。
ところで、リスク・テイクに絡めての脳の汗と額の汗の比喩には非常に納得しました。
そもそも自分がどのような結果を望むかによって努力の仕方は変わってくるのではないのでしょうか。
年収300万稼ぎたい人と1億稼ぎたい人では、努力の仕方また仕事に対しての考え方も違うのではないでしょうか。
日本人はちょっと結果を考えてない感じがするのは私だけでしょうか・・・。
そもそも結果を考えずどうやって他人や自分自身をコミットするんでしょうか。
>努力も真面目も言うまでもなく良いことですが、原理主義的にそれを信じ込むと複雑な世間や多様な人間に対して寛容さを失っていきます。クレーマーの急増と魔女狩的な批判風潮は、ここに遠因があるのではと考えますが、読者の皆さんのご意見はいかがでしょうか。(本文より抜粋)
クレーマーの急増と魔女狩り的な批判風潮とはまったく関係ないと思います。
偽装事件などが多発してるからでしょう。
宋さん最近コラム手抜いてませんか?(笑)
今回の「努力すれば報われる」のわたし的な理解は、「努力したことは、目前のことにたとえ役に立たなくとも、別の機会などで報われることもある」という感じです。直接的に報われることにばかり目を向けてしまうと、前の方もかかれておられましたが、「報われないなら努力などしない」という短絡的な行動しかとれないように思います。
一見無駄に思えることも、成長するためには必要なことだったりすることってあると思っています。
自戒の念もこめて、努力を持続する「継続は力なり」を実践できるように頑張りたいです。
私は、努力に報いてくれなかった『結果』という事実に、何度も打ちのめされ逃避した過去を持っています。精神的に病んだ経緯を経て、そして今日のお話から思います。
「どんなことに対しても、その瞬間に自分が出来る最高の対応をした(仮に何の努力も出来なかったとしても)。だから、その結果は、どんな結果であれ等身大の自分自身。大切に受入れよう」と。
宋さん、いつも大切なことを考え、そして混沌とする自分を整理する機会を与えて頂き、ありがとうございます。
ただ、それを期待してしまうと、こんなに努力したのにという不満ばかりが募り、
他責になってしまい、結果的にはつらい思いをします。ですから、そんな人をみたら
努力の押し付けはよくないよと言っています。
同じようなことでも、若いときの苦労は買ってでもしろ。というのがありますが、これは人がどう見ていようが、自分の意志で行動するものだから、誰も異論はないですね。そんな人が一番信頼が置ける人ですね。
ところで今回のコラムですが、個人的には非常に頭の痛い題です。随分昔のことになりますが、高校受検で勉強していたとき、自宅の勉強机の前に『努力』とマジックで書いた紙を貼っていました。それを見た父が、『お前にほんとの努力のなんたるかがわかるのか!』と一喝されたことを今でも覚えています。非常に悔しい思いをしました。
真面目にコツコツと努力するのは日本人の美徳であり世界に誇れる資質のように言われてきましたが、今の日本人は、その資質をどこに向けて発揮したらよいのかを見失っているのではないでしょうか。私にもまだ真の努力、真面目さは備わっていませんが、家族と自分を支えてくれる多くの人たちの力になれるよう真摯にひたむきに努力していきたいと思います。今回も有意義なコラムありがとうございます。
※今回から始まった吉越浩一郎さんの『残業は悪いこと』は、すごく楽しみにしています。私も残業と無駄な会議はすごく悪いことだと思います。次回が待ち遠しいです。
「努力」という言葉は自分自身に対する評価、ある意味で自分を賛美する言葉ではないでしょうか。何かを仕上げた時、それが納得出来たもの、満足出来るものであった時に出てくる言葉だと思います。自分自身をよくやったと評価しているので、報われない時に疑問に思ってしまうのではないでしょうか。でも自分が「努力した」と思えるときに結果が悪いとつらいですよね。そんな時には無駄となってしまわないよう、報われるまで頑張りたいものです。
当社の社内新聞(420部発行)の今年の7月号に、「本気で努力しつづずけよう、たとえ結果がどうあれ、間違いなく人としては成長するはず」と書きました。
経営は結果、社員には結果より努力を怠るなといいつずけます。1年間の努力がほんとに無駄なのかな?努力に対しての尊敬だけで成長しますよ、気持のある人は
「努力は必ず報われる。」僕は、そう思います。ただ、それは、単純な結果としてではなくてです。コラムにあるような努力は、きっと、何らかの形で、報われると、そう思います。
宗さんの言うように、その努力が、結果に対して、間違った方向に向けられているなら、それを正しい方向に導いてあげることこそ大切だとも思います。
でも、僕は、コラムにあるようなことが、努力だとは、言いたくないですね。
彼らは、好きでやってる。例えば、サッカー選手が、サッカーの練習をすることが、努力なのでしょうか?例え、それが、他人からは、苦行のように見えても、努力とは言えないと思います。
少なくとも私は、自分が好きでやっていることを努力なんて言いたくないですね。
ただし、そうやって好きなことをやっていたとしても、どこかで、壁にぶち当たるんだと思います。
それを、乗り越えようとする行動や力こそ努力と言えるんだと思います。
クレーマーについては、私には、それほど実感がありませんが、魔女狩り的な批判風潮というのは分かります。
残念ながら、人は、流されやすい生き物です。特に、下へと流されやすい。
批判ばかりする傍観者ほど、楽なことはないでしょうから。
そのせいで、もっと大切な議論に、国民の目が向けられていないように思えます。
宗さんは、日本の投票率を知っているでしょうか?はっきり言って異常に低いです。私は、「クレーマーの急増と魔女狩的な批判風潮」こそ、投票率の低さの遠因だと思います。…は、少しムリがあるかな?
「ホントに努力したの?」これは、僕の好きな言葉の1つです。
長くなりました。読んでもらえたことに、感謝します。
でわ、お仕事がんばってくださいv(^。^)v
最後に、このコメントは、コメント覧に載せないでください。もちろん、できればの話ですが。
同感です。
私は、努力とは、ニーズに沿ったものでなくてはいけないと考えます。
目的を明確にして、アウトプット(最終結果)をイメージする。 プロセスは、短時間で結果がでるように工夫する。 このプロセスが努力。
会社だと未だに、残業しているイコール仕事しているとみる人が大勢います。
このような人は、仕事のアウトプットを評価出来なくて、プロセスでの工夫も全く、分からない。 つまり、若いころから、遅くまで仕事することだけを評価して、中身がわからない。
こんなこと、続けてると会社は衰退していくことに気付かない、病です。
宋さんのご意見に全くの同感です。
努力しても必ず報われるという保障は全くありません。努力というのは自分自身の行動の範囲ですが、結果には、必ず、第3者的な要素による判断が係ってくるからです。自分も受験失敗などを始めとして、痛い経験を色々してきました。
しかし、最初からから努力しないと、一生報われる事が無いという事も事実です。
後は、腐らないような忍耐力と少しでも前に進もうとする前向きな行動力をその個人が持っているかどうかに係ってくると思います。
正しくは
「正しい努力は報われる」「正しくない努力は単なる徒労」だと
昔、部下に叱責していたことを
思い出しました。
でも、何が正しい努力かは作業中は判断つきにくいですね。
他人に報われたいと考えながら行動していることは、努力しているとは思いません。
人生を真面目に生きて行こうと考えている人は常に自分との会話をしながら、何が正しいことなのかを思考しながら努力していると思います。
人は自分が一番可愛いのです、己を満足させたいから目的を持って努力を続けるのでしょう。
なかなか、世の中思うようには行かないものです。
ましてや自然現象(天候、天災)は人間の力ではどうしようもないことを思えば寛容な心になり、変化に柔軟になれるのではないかと考えています。
人間も動物なのです、たまには自然界の中に身を置いてのんびりと空を眺めながら地球の過去、将来そして宇宙を考えることが必要な時代ではないのでしょうか?
何のために生きるのか、生きているのかを考えながら行動できる人々が多くなることを願っています。
宋 文洲さん
生き物すべてに寿命があることを知ることの大切さを、地球ができるだけ長生きするために考え行動するにはを、世界の人々に訴え続けてください。
国家公務員として仕事をしていた頃、それを痛感しました。
毎日午前様残業という「努力」=成果と捉え、自己満足していました。仕事の中身を振り返ることすらせずに。成果をはかる指標(売り上げ等)が立て辛い業務であると、余計にそうなるのかもしれません。
しかし、この努力という免罪符は、お役所のみではなく、民間企業、はては学校家庭においても錦の御旗。日本文化の特徴なのでしょうか。
個人的には、脱却を模索していきたいです。
読者の皆さんのコメントの多さを見ると、今回のテーマが琴線にふれるものだったことがわかります。
私もかつては「なぜこんなことが理解してもらえないのだろう」と上司や部下に歯がゆい思いをしたものでした。
そんな私も、心を病み、ヒラに戻って自分や周りを見つめ直す機会を得て数年、ようやく宋さんが書かれているようなことが、わかるようになりました。
このごろの世相を見ていると、つくづく日本人は危ない方向へ走っているように思えます。
もっと、肩の力を抜いて生きようよ、といってあげたいのですが、当節、そんなことを言っても、余計なお世話だと言われるのがオチでしょうし、下手をすると急に暴力をふるわれかもしれません。
お前は生活が安定しているからそんな悠長なことが言えるのだ、と言われれば、返す言葉もありませんが、歩く速度で周りを見れば、都会の紅葉もまんざら捨てたもんじゃないなあ、とちょっぴり心豊かになれると思うのですが。。。
宋さんがあげられた例はいずれも上司の方針にあわないものをせっせと
作った部下の話ですね
できあがってきた物をみて、これじゃダメと言われるわけですが
それって、お互い時間の無駄だし、あまりに遅すぎるんじゃないでしょうか
やり直す時間があればまだしも、そうじゃないときはどうするんでしょう
上司は、このような可能性も考えて、進行過程で時々は見ておくべきじゃないでしょうか
もうひとつ、この例はどちらかというと事務系というか文系というかの世界ですね
理科系だと、えてして優れた発見とか革新は、上司の意見に従わない部下が成し遂げたりしていますね
例えば青色発光ダイオードのように
上司が部下のしたことを理解できない可能性があるということも、
あるんじゃないでしょか、たまには
今回の「努力と真面目」について私の経験からですが、もう二十五年以上前の事ですがあるセミナーに参加をした時に講師から「全ての結果には原因が有る」と冒頭に話され・・・随分当たり前の事を言う人だと思いました。がその次に出た言葉は「では皆さんは良い結果が出る為の原因作りをどれだけやっていますか」と話が続いたときに自分の今までの努力は「空振り的努力」だと気が着きました。 営業職でしたから、新規開拓には次々と工夫を重ね面白いくらい実績が出来ました。このセミナーで「目からうろこ」だった訳です。 世界的に活躍する日本の建築家の話でも、プレゼンテーションに負けた時はどうして負けたのかを徹底的に調べて次のプレゼンテーションに生かす様にしているそうです。 俗に言う「岡目八目」で努力をしている本人は気が着かなくて「俺は真面目にやっているのになぜ駄目なのか」と思っていても傍から見れば、何が足らないか見えてくる事が多いものです。十分にやったにも拘らず相手の事情で駄目になる事も多い訳ですから。 良い結果が出た時でも自分の努力以外のファクターで思わぬ良い結果に成ったりもしますし、絶対にいけると思っていてもその逆の結果に成る事も随分経験をしてきました。 他人に後ろ指を刺されないように正しくきちんとやる事は人として大事だと思います。そうでない人が役人になって上りつめ悪さばっかりしていると真面目な庶民は何とも遣りきれないものです。不真面目な人には何処かで天罰が降りると思っています。
形骸化した思想は、とても危険で窮屈で
つまらないものだと思います。
また、努力、真面目さや、誠意というものは、
それを汲み取る側にも一定のレベルを
要求するものだとも思います。
ただ、これらのこと労務管理にあたる上で
労働者に一方的に要求するものであると、
それもまた怖いなと感じました。
善意の要求であれば問題ないのですが、
悪意をもって利用する場合においてと、
限定されますが。
こんなにやったのにという思いが仕事の本質を見誤らせることがある。
だから上司やリーダーは当人に対して、仕事の前、途中、後の対応が重要だ。
また、個々人の能力を把握した上での対応が必要である。
最も大切なことは、その仕事の目的やいつまでに何を達成すべきかをきっちりと理解させることがマネージメントである。
その個人の問題だけでなく、そのマネージメント力をいかにして高めるかという手法や技術論も
育成する必要があると思う。
宋さんのご意見・お考えは「傍目八目」時代から読ませていただいており、「自分だったらどう考えるだろう」といつもものさしさせていただいております。
『努力が報われないことがある』というの重々承知していますが、努力する側とそれを受ける側の緊張感も重要だと思います。
部下と上司のエピソードの場合だと、「この資料は問題を解決しているかどうか」というものさしは当然ですが、上司が「指示要件を的確に伝えたかどうか」というものさしも重要だと感じています。
ですので、努力に関しても「努力する側」と「そのアウトプットを受ける側」の緊張感が重要であり、原理主義者の方でもその明確な意思があれば僕はその行動を尊敬し、それに応えようと努力します。
ここでいう「緊張感」とは「双方の意思が明確がどうか」ということと同義です。
部下と上司のやりとりであればたとえ表面上は資料をつき返しても、上司が「次はもっとわかるように要件を伝えてやろう」という意思があればそれは相手に伝わり、次に必ずつながると考えます。もちろん逆もしかりで、部下のほうも資料に本人の意思、例えば「次はちゃんと問題を解決できる資料を作ろう」が明確に入っていたらそれは上司にも伝わると思います。
>原理主義的にそれを信じ込むと複雑な世間や多様な人間に対して寛容さを失っていきます。
おっしゃるとおりだと思いますが、そんな真面目や努力に真摯な方々が報われない世間はどうなんだろうな、と最近思うことがよくあります。
わたしは自分の仕事が評価されるのは、そんな原理主義者の、大真面目な方々がいるからだと思っています。得をする人間がいれば、その裏側で損をする人間がいる。これは世の中の必然だと思いますし、どうしようもないことですが、だからこそ、常に緊張感を持って生きることが大切だと思います。
駄文にて失礼いたしました。
理科系の研究者にとって、どれだけ研究室に長時間残って実験したところで、科学的に価値ある結果が出なければそれは徒労でしかありません。
サイエンスの世界は企業のような組織体ではないので、結果を評価するのは上司ではなくて世界の科学者です。結果を認められなくても、それで上司を恨むことはありません。
個人の努力の成果が、その個人の納得できる形で評価されて個人に戻されているのであれば、努力が報われなくても納得できるものです。そして次の努力の方向と方法を考えます。
上司や組織のために働く企業と、科学的真実のために働く研究者を比較するのは無理かも知れません。
ただ、個人の努力のフィードバックはどのようになされているのか、それが気になります。
特に成功したスポーツ選手、オリンピックで金メダルを獲った選手などが子供に向かって言っているのを見ると、2位の選手,予選落ちした選手が努力しなかったのかと言いたくなります。
大人は子供に、努力はしないと成功しないけど、努力しても成功するかどうかはわからないと教えるべきではないでしょうかね。
最近、ある人の影響で論語を少しずづ呼んでいます。「子曰く、学びて時にこれを習う。また説ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして慍らず。また君子ならずや。」と言う事でしょうか。なかなかそう考えていても抑えられない場面が私にもあります。
私はこの言葉は嫌いです。
昔は盲目にこれを信じて突っ走ってました。
確かに「何のため」はありましたが、途中からそれを固定化してしまい、挙句の果てに目的自身の喪失に至りました。
何のためがはっきりしているだけでなく、それ自身のアップデートも意識する必要があると思います。
でないと結局は額に汗を書くだけで終わってしまうでしょう。
それでも汗をかくこと自身が常に報われることはあるべきでもないし、ないと思います。
自身の見解が常に正しいとは限らない以上、腐らずトライアンドエラーに挑戦する気構えが必要かもしれません。
そして、それを支えてくれる数多の人へそんなリスクに携わる感謝を心がけていたいと思います。
私の周りでも同様に「一生懸命」に「努力」した結果、あさっての方向に行ってしまった事例を見たことがあります。また、自分も陥ったことがあったようにも思います。
そういう時は、得てして人の意見が聞こえなくなっているものなんですよね。
最近の批判的風潮についても行き過ぎと思うことが多く、そういった意見に接するたびに思うにですが、考え方や感じ方が人それぞれ違うということが分からない方が増えたように感じます。だから自分の方向性や理解の範疇を超える他者に対して、必要以上に攻撃的になっているような…。
自分自身に対して一途であるよりも、なるべくいろいろな考えを受け入れられるようになりたいと思っています。