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【正論】京都大学名誉教授・市村真一 「徳育不要論」では日本が傾く
■適切な教科書作成が絶対に必要
≪家庭での愛としつけの大切さ≫
人は家庭で生まれ育つ。子は親を選べない。どんな家庭に育つかは、親の重い責任である。その家庭が、日本で崩壊しつつあると気づいたのは、今から四十数年前、わが家も子育て最中のころであった。学校参観から帰った家内から「うちは放任主義ですの」と語るお母さん方が多く、しつけができていなくて、学校も困っていると聞いたときであった。
いま、そういうお母さん方の子供が母親、その子が生徒なのである。その帰結は、毎日の新聞・テレビの報道が示している。要するに「放任主義では、良い子は育たない」のだ。
家庭にとってまず大切なのは、そこに親、とくに母親の愛情があふれ注がれていることである。赤ん坊は、母の胎内にあるときから、その愛情を体感する。生まれては母乳を、やがて食べ物を与えられ、身の回りの世話をされ、1年くらいたってようやくよちよち歩ける。その後の数年間も、親の世話にならなければ、自力ではほとんど何もできない。
ところが、子供の発育には、この数年が決定的に重要なのである。最近の脳科学は、人間の脳細胞の9割が、この期間に育成され、『愛は脳を活性化する』(松本元著)ことを明らかにした。この時期の子供に、親が言葉と行儀作法などを教えるのがしつけである。1歳から3歳児の驚くべき能力に注目したのが井深大ソニー元会長で、氏は『幼稚園では遅すぎる−人生は三歳までにつくられる』(サンマーク文庫)などの著書によって、世を啓発された。
この時期こそ、子供が情緒や感受性を習得する大切な時である。子供に絵本を与え、おもちゃで遊ばせ、おとぎ話を話して聞かせ、子守歌を歌って寝かせ、やさしい音楽を聴かせ、庭や公園で花の色や香りを楽しみ、そして少しずつ挨拶(あいさつ)や感謝の言葉を教える。子供の情緒は次第に豊かに、親子の愛情も深まる。かくして子供の心の中に芽生える親、特に母親への敬愛の情こそ人間の情緒の根幹である。
学校教育は、教育基本法の改正で大きく変わるだろう。旧法が、徳育に一切言及しなかったのに反し、新法は愛国心、愛郷心の重視と徳育の強化を明記した。第2条(教育の目標)に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する云々」及び「豊かな情操と道徳心を培う」と書き、前文に「公共の精神を尊ぶ」と明言した。
≪山崎中教審会長の自己矛盾≫
だが奇妙にも、文部科学省中央教育審議会の山崎正和会長が『中央公論』(5月号)と『文芸春秋』(7月号)で「道徳教育不要」と主張された。よく読めば、氏の論は決して道徳や愛国心教育の全面否定ではなく、学校の徳育は「遵法(じゅんぽう)の精神」を教えれば足るとの意見だが、その論は自己矛盾しており、思慮も足りない。
第1、改正教育基本法が徳育の強化を要請しているのに、「遵法」を教えよという会長が、それに反して徳育不要と言うのは自己矛盾である。本気なら、山崎正和氏は、今の基本法の下での中教審会長を辞任されるべきであろう。
≪「教え方」にも思慮を欠く≫
第2に、情操を豊かにし、道徳心を培うには、特に幼少時のしつけと教育が大切なことは上述した。学校では特に小学校の教育が大切だが、小学生に「遵法」とは、遅刻せぬことや校則を守ることだが、その前に、やさしく人のありようを教えるのが物事の順序である。例えば、狼少年の話で正直を、蟻とキリギリスの話で勤勉を教えるなど。氏には、初歩の徳育の教え方への思慮が不足している。
徳育の強化には、適切な道徳教科書の作成が絶対に必要である。それ以外に、しっかりした徳育の方法がない。その内容であるが、幸い既に、日本にも外国にも子供が道徳をやさしく学ぶにふさわしい寓話(ぐうわ)や童話や教訓話は多い。イソップ物語、グリム童話集、アンデルセン物語、幼學綱要などなど。最近鳥居泰彦前中教審会長より頂いた福沢諭吉の『童蒙おしえ草・ひびのおしえ』も名著で「石をなげる少年とかえる」の話に始まる。それらをうまく取捨選択すればよい。かつての国定修身教科書もそうしたものだが、今ならもっと多様な面白い教科書がつくれよう。
先生は、そうしたやさしい道徳の教科書を、ただ生徒と一緒に謙虚に読めばよい。それは、親がいくつになっても子供に物語を読んで聞かせるのと同じで、そうして自分も復習する。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」。そこにおのずとできる先生と生徒の信頼関係が徳育のはじめなのである。(いちむら しんいち)