沖縄第32軍は1945年2月15日『戦闘指針』を通達した。これには「撃敵合言葉(標語)」として「一機一艦船 一艇一船 一人十殺一戦車」と記載され、この合言葉が特攻作戦へとつながっていった。
陸は兵員の斬り込み、空は飛行機による特攻攻撃、そして海は特攻艇による艦船等への攻撃である。もちろんこれは、特攻基地である座間味島や渡嘉敷島の海上挺進隊の兵員に伝えられた。
しかしこの撃敵精神は、日本軍将兵にのみ求められたわけではない。
32軍参謀長長勇はそれより前の1月27日、沖縄県民に対して「一人十殺一戦車」特攻を求めている。
「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ。即ち一人一〇殺の闘魂をもって敵を撃破するのだ」
「従って戦場に不要の人間が居てはいかぬ。先ず速やかに老幼者は作戦の邪魔にならぬ安全な所へ移り住むことであり、稼働能力のある者は『俺も真の戦兵なり』として自主的に国民義勇軍などを組織し、此の際個人の権利とか利害などを超越して神州護持のため兵隊と同様、総てを捧げることだ」
「敵が上陸し戦ひが激しくなれば増産も輸送も完封されるかも知れぬ。その時一般県民が餓死□□□……□□ったって軍はこれに応ずるわけにはいかぬ。我々は戦争に勝つ重大任務遂行こそ使命であれ、県民の生活を救ふがために負けることは許されるべきものでない」
「沖縄県民の決戦合い言葉」は「『一人一〇殺』これでゆけ」
(『沖縄新報』四五年一月二七日)。
こうした激が飛ばされ、特攻基地であった渡嘉敷と座間味では、一人十殺一戦車の戦闘指針は、防衛隊員など島民に徹底されたことは当然である。
渡嘉敷島では米軍上陸の一週間前3月20日頃、防衛隊員に2個づつの手榴弾が守備隊の兵器軍曹によって配られ、「一個は敵に向かって投げよ、いざとなったらもう一個で自決せよ」と申し渡されたという。まさに、「一人十殺一戦車」通達の実践である。
「新しい歴史をつくる会」会長の藤岡信勝氏や顧問の秦郁彦氏などは、沖縄本島以前の米軍の慶良間諸島上陸は予想外だったのだから、前もって手榴弾を防衛隊に配るはずがない、と主張している。そうして、このことの証言者を嘘つきだと言う。しかし、戦争指導の実情を知れば、それがとんでもない言い草だ、ということがわかる。
渡嘉敷島も座間味島も特攻基地である。「一人十殺一戦車」の方針が、手榴弾を渡すことによって徹底された。硫黄島の戦況も伝えられ、すでに3月20日頃には手榴弾配布の条件は整っていたというべきではないか。
参謀長訓示に関連しては、もう一つ重要なことが指摘できる。
慶良間の島民は既に余所へ疎開することも許されてはいなかった。そこは秘密基地なのだから。数ヶ月まえに疎開を許されたのは、戦闘の邪魔になる老人や子供だけであった。疎開するかイザという時の死か、その2つに一つの選択を迫られていた。しかし、疎開船の撃沈はすでに前年の夏から起こっているし、老人や子供だけが家族から離れて疎開することよりも、「残留して死ぬときは家族といっしょで」を選択したに違いない。
そのようにして島に残留した島民は、長勇参謀長の激、あるいはそれを復命する戦隊将校の激を、いったいどう受け止めただろうか?
参謀長ははっきりとこう言っている。
「従って戦場に不要の人間が居てはいかぬ。・・・・」
「敵が上陸し戦ひが激しくなれば増産も輸送も完封されるかも知れぬ。その時一般県民が餓死□□□……□□ったって軍はこれに応ずるわけにはいかぬ。我々は戦争に勝つ重大任務遂行こそ使命であれ、県民の生活を救ふがために負けることは許されるべきものでない」
結論は言わずとも誰もが分かる
それは、
ということだ。戦いに参加できぬものは、自ら死を選べ!
さらに、渡嘉敷島に米軍が上陸したとき、この戦闘指針と参謀長訓示と同じ内容を、A戦隊長が訓示したであろうと思うことに何の不思議も無い。
住民たちの証言に基づいて書かれた「鉄の暴風」のA隊長命令。その内容は、上記の長勇参謀長の『激』を凝縮したものに過ぎないではないか。
赤松大尉は
『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで闘いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』
ということを主張した。
自分たちは家族どうし殺しあって玉砕したにもかかわらず、日本軍部隊が玉砕せずに生き残っている姿をみた住民たちが、その予想外の事態をなんとか納得しようと、戦隊長の方針をそう読み解いたとして、何の偽りがあろうか。
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by ni0615
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