上の航空写真で、沼津の狩野川河口の岸に点々と白っぽく見えるのは「不法係留」の漁船なんだが、国交省がせっせと貼り紙してどかそうとしているわけだ。平成14年には300隻あったそうだが、今では150隻ほどに減ったらしい。で、面白いといっちゃ何だが、我入道には不法係留でありながら、ちゃんとした漁協があり、沼津市が補助金出して運営している我入道の渡しというのもある。漁協も渡しも不法係留だというんだから話は複雑なんだが、そもそもだな、沼津港というのは歴史の浅い港なのだ。作られたのが昭和8年、外港は昭和45年だ。それ以前はどうだったかというと、永代橋あたりが魚河岸で、我入道には漁師がいっぱい住んでいて、大型漁船も出入りしていた。その時代から船を川に泊めているわけで、何を今さら、という人が多い。特に我入道漁協はそうだな。
ところで、沼津でもこのあたりは比較的新しい時代に開発された地域だ。静浦から南には小さな漁港が点々とあるんだが、それらの港は北条水軍の流れを汲む、というか、下手すりゃ縄文時代から続いた漁民であって、中世には三島大社の鑑札で漁業をしていたらしい。君沢郡というのがその名残りなんだが、狩野川河口の連中はもっと時代がさがる。彼らは武田の系統の水軍で、戦国時代に住み着いた。彼らは西伊豆の後北条水軍とは敵対していて、千本浜の沖で「駿河湾海戦」なんてのをやっているんだが、
三枚橋城は、「甲陽軍鑑」「北条五代記」などによると、天正5年(1577)、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城し、高坂源五郎昌信に守備させたという。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松平周防守康親が城主となり、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっている。
戸倉城というのは、現在の清水町にある本城山だ。古くは伊豆に属していたらしい。で、伊豆に進出しようとした武田勢なんだが、なんせ山国育ちなので海戦は不得手だったらしい。一方で後北条氏の水軍は重須にある長浜城に陣取っていて、安宅船という巨大な軍艦を持っていたとも言われる。
このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではないが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。
駿河湾海戦とか立派な名前がついていても、結果も判らないというんだから、せいぜい小競り合い程度だったのかも知れない。で、伊豆の北条水軍はたいして活躍もしないまま姿を消すわけだが、まぁ、水軍とか海賊とかいうのは結局、単なる海の民でしかないわけだ。場合によっては武器も手にするが、普段はおとなしく魚を獲ってカツオブシなんぞ作っている。武田の三枚橋城はその後廃止されるが、住みついた漁民たちは江戸時代を通じて我入道で漁業を続ける。で、今でも我入道漁協はけっこう力を持っていて、沼津港の製氷工場のオーナーだったり、土産物屋を持っていたりするんだが、漁協の港はあくまでも「不法係留」なんだよね。
おいらの身内にも、我入道漁協に自分の船を置いている人がいるんだが、追い出されかかって青くなっているわけだ。というのも、沼津では遠く離れた足保という港まで行かないと係留場所がない。しかも足保ではとても、150隻の船を係留できないのだ。おいらのヨットも足保なんだが、そら、沼津港の近くに係留できればそれに越した事はないんだけどね。なので、まだまだこの問題は揉めると思われる。
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