19世紀の英国の哲学者、ウィリアム・キングドン・クリフォードの論文です。
一部抜粋してご紹介したいと思います。(長文です。意訳・修正あり)

クリフォードはまず、ひとりの船主を例に出します。
この船主の持ち船は移民船で、満員の乗客と乗員を乗せ、いままさに出港しようとしています。
しかし、船主には気がかりなことがありました。
彼は、自分の船の老朽化が進み、状態が悪く、加えてもともと造りがよくないことを心配していたのです。
はたして、この船はもう一度、無事に航海をつとめることができるのだろうか?
しかし、いまさら船を改装するには時間も資金も足りません。
船主はなんとか自分を納得させます。いままでだって無事に航海をしてきたのだ、今度だってきっと上手くいくさ。船員たちは皆優秀だし、船大工だって立派に自分たちの仕事をこなしてくれたはずだ。彼らを疑うようなまねはよそう。自分の船を信じてやろうじゃないか...
そして、
船は出港し、乗客乗員もろとも大海原に沈みました。この船主は罪をまぬがれることはできない、とクリフォードは言います。
「船主は、自分の船の安全を、誠意をもって信じていた。しかし、そのような誠意はなんら罪を軽くするものではない。その確信は、忍耐強い調査によって得られたものではなく、疑念を押し殺すことによって、意図的に自分に思い込ませたものなのだから、責任を問われなければならない」次にクリフォードは、話の結末をちょっと変えて語ります。
船が運よく、無事に目的地に到着し、乗員乗客すべてのひとが命を失わなかったとしたら、この場合はどうなるのでしょう。
船主は罪を負わずにすむのでしょうか?
「そんなことはない。発覚していないだけで、船主が無実になったわけではない」というのがクリフォードの結論です。
「問題は、結果として正しかったかどうかではない。何を信じたかでもない。なぜ信じたのか、どのような過程を経て信じるに至ったか、目の前にある証拠を信じる権利があったかどうかである」

クリフォードはもうひとつ、例をあげています。
むかし、ある町に、とある宗教組織がありました。
あるとき、町のひとたちのあいだに、「あの宗教は、非合法な活動をしている」「若者を拉致監禁して、無理矢理信者にしている」などという噂がひろまりはじめます。
噂を聞きつけ、義憤にかられた市民の団体が、その宗教組織を糾弾するキャンペーンを開きました。
市民団体は、さまざまな場所でその宗教を告発し、批判し、関係者をきびしく非難しました。
騒ぎが大きくなったので、町は専門家による委員会を組織して、調査を開始しました。
ところが、委員会による調査の結果、その
宗教組織はまったく無罪であることがわかったのです。
市民団体は、噂をうのみにし、ちょっと調べれば用意に入手できたはずの無罪の証拠を見ようとせず、まともな証拠もないまま告発していたのです。
この市民団体が、信用を大きく失墜させたことはいうまでもありません。へたをすると所属メンバー各人の人間性さえ疑われたかもしれません。
この市民団体もまた、自分たちの告発を誠意を持って信じていました。
しかし、そのことはなんの免罪符にもなりません。
かれらの確信もまた、
地道で堅実な調査のうえに成り立ったものではなく、偏見と感情から生まれたものだったからです。
ふたたび、話の結末をちょっと変えてみましょう。
さらに綿密に調査した結果、
くだんの宗教組織は非合法活動をしており、罪があることがわかったとします。
これによって告発した市民団体への評価は変わるのでしょうか。かれらはヒーローとしてよみがえるのでしょうか?
これも「NO」だと、クリフォードは断言します。
「問題は、信じていたことが正しかったか間違っていたかではない。正しい根拠に基づいて信じたかどうかである」「結局はおれたちが正しかったじゃないか、という意見にはなんの意味もない。自分たちが、目の前にある証拠を信じる権利もないのに思い込みを深めていたことを正当化するものではない」このふたつの例をふまえて、クリフォードはつぎのように論じます。
「不十分な証拠にもとづいて信じることも、疑念を押し殺し調査を避けることで自分の信念を強めることも、どちらも間違いである。信念とは、長い経験と果てしない労苦によって立証され、さまざまな追求にも耐えうる堅固な真実に対して持つべきものである。証拠もなく追求もされていないものを、自分への慰めや個人的な快楽のために信じれば、その信念は神聖なものでなくなるばかりか、われわれを貶め、卑しめるものとなる」
「正しい信念を持っていると賞賛されるひとは、不適切な対象を信用して汚点を残したりしないよう、徹底的に用心を重ねて自分の信念を吟味し、その純粋さを守ろうと努力しつづけている」
「知の感覚には、力の感覚が伴うため、自分の知識が正しいと立証されたとき、人は高揚する。その知識が人類共通の財産であり、他者と共有できるものであると認識できるからである。しかし、不十分な証拠をもとに何かを信じたとしたら、その喜びは不当に得たものであり、本来得られないはずの力の感覚を得ることで自分自身をだますことになる。そしてそれを周囲に共有させることは、疫病を伝染させるようなものである」
「不十分な証拠をもとに何かを信じたとしても、それだけではさしたる害にならない、という声もある。その何かはほんとうは真実かもしれないし、真偽があきらかになる機会は、未来永劫こないかもしれない。しかし不適切な理由で何かを信じるたびに、われわれは自己統御力を弱め、疑問を持つ力を弱め、公正かつ公平に証拠を吟味する能力を弱めている」
「自分の信念について常に注意を払っているひとは、他人が自分に話して聞かせる物事の真偽についても、常に相手に注意を求めるようになる。この義務は厳しいものだが、誰もが自分の心と相手の心の誠実さを尊重すれば、人は互いに真実を話す。しかし、もしわたしが真実に無頓着だったら、そして自分が信じたいから、そのほうが安心できて楽しいからという理由で物事を信じる人間だったら、周囲のひとはわたしの心の誠実さを尊重するはずがないではないか」
「軽々しく物事を信じる性質を持ちつづけ、不適切な理由によって信じることがあたりまえのようになると、これはさらに大きな悪を生むことになる。”わたしが誰かから金を盗んでも、単に所有者が変わっただけで、何の害も無いかもしれない””相手は金を失ったことに気づかないかもしれないし、相手が悪いことに金を使うのを防げるかもしれない”そのうちに周囲は虚偽と欺瞞の空気につつまれ、その中で生きていかなければならなくなる」そして最後に、クリフォードはこう結びます。
「結論を言うと、不十分な証拠をもとに何かを信じることは、いつでもどこでも誰にとっても間違いである。子供のころに教わったことやその後に説かれたことを信じているひとが、それについて自分の心のなかにわき上がった疑念を払拭しつづけ、それについて疑問を呈することや本を読むことや論ずる人々の輪に加わることを意図的に避けて、それを揺るがしかねないような質問を不信心だとみなした場合、そのひとの人生は人類に対する長いひとつの罪となる」いかがでしょうか?
わたしはこの文章を数年前にトム・デマルコ著「熊とワルツを」という本で知り、たいへん感銘を受けました。
最近読み直してみて、これは赤青問わずエンジョイ住人のみなさんに示唆する部分の多い文章だと思いましたので、書き写してみた次第です。
自分には「目の前の証拠を信じる権利」があるのか?
われわれが歴史を見つめる際、これはたいへん重い言葉だと思います。
もしも、わずかでも証拠が不十分だと感じたとき、そのときは迷わず出港を取りやめ、リスクを避けるのもひとつの手段です。
そうすれば少なくとも、冒頭の愚かな船主のように、船が沈んでから「なぜこうなったのだ」と嘆く事態だけは避けられるのですから。
たいへん長文になりました。お読みいただいたみなさまに感謝いたします。