急がずに,だが休まずに
Without haste, but without rest.
――J.W.Goethe
Augustrait







『I’m sorry,mama.』



 代表作ではない。間違いなく、この作者の最高傑作は『グロテスク』だとの声が高く、わたしもそう確信している。東電OL殺人事件をモデルにしながら、独自の規範を不文律とする冷酷な階級を描いた『グロテスク』は、まぎれもなく桐野夏生の完成度として最高の域にある。
 深夜の弁当工場で働く主婦たち。そのうち1人の夫を殺害したのち、死体をバラバラに解体する逸脱行動における連帯意識。それが『OUT』においては描かれていた。現実に生起した地獄と、作者の虚構として作品に照射される地獄は、どちらがより陰惨かを判定することなどできないほど強烈なものだ。現実に起き得ないことを安心させる“よすが”を読者になど与えはしない、という語り部の矜持がそこにはある。


 時間がなかなか取れず、ささやかな趣味の創作文すら思うままに書けない普段の生活に、憤怒に近い苛立ちを感じることがある。そのメカニズムは、自分でもはっきり理解している。時間を取れないことが不満要因ではない。時間を取れないゆえに、不如意な文章に堕していく自分を知るのが嫌なだけなのだ。そのせめぎあいの中で、この2か月足らずの時間を過ごしてきた。
 そのうち、日々の時間の使い方をランク付けせざるを得なくなったのは、果たしていつからだったかと思うようになった。多少なりともクリエイティブな仕事は刺激的で、それを文字で表現することを許された自分は幸せな者だ。と、自覚的に言い聞かせるようにしている。

 手に入るものは手に入れたい。手に入らないが欲しいものは、所有するために手を伸ばす。それができない場合にはあきらめよう。誰でも、その繰り返しで生きている。締め切りの近づいた原稿の執筆や資料の作成で、趣味の時間を削られるのはたまらない。けれど優先順位からいえば、趣味を仕事に先行させるわけにはいかないのが当然のところで悩ましい。
 何もかも投げ出してしまえば、全てを壊せば悩みから解放されるのだが、最低限の良識を備えた自分にはできないことだとため息をつきたくなる。生きていくとはそういうことだ。


 誰しも、己の内部には獰猛な獣を飼っており、同時にそれを解放させないよう注意深く手綱を握った猛獣使いに管理を任せているのではなかろうか。その手綱には、おそらくいくつもの種類と名前がある。それは理性であり、常識であり、規範であり、倫理であり、自尊心であり、他者への思いやりであり、自分の未来への責任感と我が身可愛さであり、行為のもたらす影響に対する恐怖心である。それらがかたく結わえられた綱が、おそろしい獣の首にはしっかりと巻きつけられ、猛獣使いの鋭い眼下に置かれている。いや、そうある「べき」なのである。
 実は、この手綱は2色の重層で塗られているのだ。それは、1つには社会的強制力をともなった制度という色だ。行為に対する制度の適用、それは罪刑である。罰があるから罪になる。だからこそみんな我慢をする。そのおかげで、わたしもこれまで誰にも殺されずに生きてこられたはずだ。次に、この色をコーティングしているのが、「これを行えば次に何が起きるか」「起きた結果、どこにどのような影響が生じるか」を推測する力という色だ。これは一般に、「想像力」という便利な言葉で説明されている。

 本書の主人公、アイ子の内部には、人並み外れて獰猛な獣が棲んでいる。そして、それを統御すべき手綱と猛獣使いが存在しない。したがって、そのような獣をいとも簡単に解き放つ。そんな女性の物語である。抽象的だが、一言で言うなら、これが本書の骨子を説明する言葉になるだろう。
 ゆきつくままに人からあらゆるものを奪い、殺し、逃走する。この3つの原理だけで動く“人間めいたもの”を桐野は描いた。自己の獣を社会に向けて放つアイ子は、自身が怪物へと遂げた稀有な例ともいえる。計画性など何もない。欲しいから、邪魔だから、危険だから。それが動機のすべてなのだ。

 批評家、佐々木敦がある桐野作品についてこう言及したことがある。
 <アクチュアルな「虚構」とは、「怪物」と化した「物語」のことでもある。しかしそれは、「現実」とは完全に絶縁した、まったく別の次元にある「世界」なのではなく、実は「現実」にぴったりと貼り付いて、まるで多重露光のように織り重なって存在しているものなのだ。つまりそれは、「現実」の隠された「怪物」性の露呈なのである>*1


 アイ子の物語は虚構のものだ。だから、われわれは安心して本書を読み終え、「ああ、またひとつ物語を読み終えることができた」とつぶやき、その日の晩も熟睡して翌朝、仕事に出かける。そうできて当たり前の現実世界に住んでいるわたしたちと、善良な小市民の生活と生命を脅かすアイ子が息をひそめて棲息する虚構世界には、接点はない。
 ところが、その接合を想像力によって可能にするイネイブラーがいる。言い換えると、虚構と現実の狭間を飛び越えて、われわれを震撼させる者である。桐野である。アイ子には、思考することの不毛を捨て去る思い切りの良さが備わっている。なぜならそれは、「面倒くさい」からだ。考えても仕方のないことを考えても無駄だし、それは自分にとって明らかに無駄なことだとアイ子は悟っている。

 悟性(intelect)も理性(reason)も廃したアイ子には、感性(sensibility)すら麻痺していることは明らかだ。殺人を犯しても何の感慨もわかず、概念や分析を行う力をも拒絶する。もちろん、そこに分別などない。すなわち、この人物はカント(Immanuel Kant)が規定した人間の「精神の総体」としての能力を、欠陥した存在、ということができる。このような“もの”を、なんと呼べばいいのだろうか。怪物、としかいいようがない。

 ところで、小説とは何か、という問いに対して、桐野は立場を明確にしている。
 <答えは簡単です。作家が「自分の妄想で作る世界」です。この世界は、言葉で構築されていますので、理解するためには、想像力が必要とされています>*2

 この想像力を掻き立てる描写の巧みさでいえば、桐野は疑いなく卓越した技量がある。本書の冒頭でガソリンを登場人物の頭から浴びせかけ、躊躇なく点火する場面のおぞましさは、到底忘れられるものではない。『グロテスク』で中国から来日したチャンという男の逃避行の過程でくぐり抜けてきた非人道的な処遇についても同じことがいえるし、『残虐記』で少女を監禁していた男が部屋に入ってきた彼の昼食の残り香、強烈なそばつゆのにおい云々のくだりでは、本当にその匂いが紙面から漂ってくるかのような感覚に襲われた。
 人間の思考は、言葉で形成されていく。文学は言葉で構築されているのだから、作家の思考が縦横無尽に炸裂する世界が文学作品となっている。「自分の妄想で作る世界」というのは、そういうことを意味しているのだと解釈できる。


左 《桐野夏生》
右 《イマヌエル・カント》
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 その想像力をもつことには、意外にもディバイドがあることが一連の作品には流れている。社会生活において格差が拡大し、規範が機能しなくなってくることを予見しながら、徹底して底流をあがいて泳ぎ切ろうとする人物は、あたかも濁流でなければ生きることを許されない水棲生物の生涯であるかのようである。その中で、特異な人物像でモデルと思えたのが、アイ子だった。
 欲しいものは殺してでも奪う。ふつうの人間ならば、そうではなく、さまざまな欲求をランク付けして重要なものを手に入れるように努める。むしろ、手に入れられるものを逆算的に序列化して把握するのが健全な欲求と消費行動の関係なのかもしれない。そのような行動原理を無視して欲望を充足させようとする人物が物語の主軸には必ず据え置かれているのが、桐野文学の特徴だ。

 言葉は思考を現し、想像力は思考と感性を働かせることでしか身に着かない。それを乏しくさせることを余儀なくされる社会階層の人物を描く作者のまなざしは、怜悧にして現代社会の矛盾を見逃さない。そこに物語の姿をまとって立ち現れるのは、表面上は隠蔽されているこの社会に蠢く存在の暗部である。


残虐記 (新潮文庫 き 21-5) グロテスク〈上〉 (文春文庫) グロテスク〈下〉 (文春文庫)

en-taxi eRotica 乱歩賞作家 黒の謎 (講談社文庫)

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▽ 『アイムソーリー、ママ = I'm sorry, mama.』桐野夏生
-- 集英社, 2004年
(C) Natsuo Kirino 2004

*1 文藝春秋|本の話より|PICK UP
*2 『現代』2007年6月号、講談社、p.61




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