解説







 ほとばしりが月の光に反射して輝きを放ちながら、湯気を立てて勢いよく大地を叩いた。上空には満点の星。最中に、うえを見上げるのは、私の幼いころからの癖だった。
 私はブルッと身震いして最後の滴を振り切ると、ジッパーを上げて、逃げた体温を取り戻そうとバスに戻った。
 ガタンッ。ゴロッ。座席に腰を下ろした拍子に、脇に掛けてあった小筒が床に落ちて転がった。その物音に、隣で寝ていた彼女が眼を覚ました。
 「ゴメン。起こしちゃったな」
 「気にしないで。でも、バスが動きはじめたのかと思ったわ」
 「小便、してきた。しかし、このバスはまだ動かないよ。動かないと思っていたほうが、気がラクだよ」
 私は旅に疲れていたが、同時に、馴れ切ってもいた。
 「ねえ、ひとつ教えてほしいの。南十字星はどれなのかしら?」
 彼女は、寝ぼけ眼を擦りながら、思い出したようにそんなことを言った。
 「そんなものに興味があるんだな。ずいぶんとしおらしいことを言うじゃないか」
 私は意外な顔で少々笑い、彼女をまざまざと見つめながら、そう言った。
 「言ったでしょう。私は神秘的なものには興味があるのよ。早く教えてくださいな」
 天の川の中心に際立って輝いているクロスの星座を見つけて、私は指で示した。その北には、ケンタウルス座がある。
 「あれだよ」
 「あの天の川の真ん中にあるのがそう?」
 「そうだよ。べつにどうと言うことはない。単なるクロスの星座だよ」
 「とても芸術家のセリフとは思えないわね」
 「オレは芸術家なんかじゃないよ」
 「あら、ブラブラ旅ばっかりしながら、寝たり食べたりしている人なんて、芸術家以外に説明のしようがないじゃない」
 「褒められているのかどうかわからないな」
 「軽蔑してるのよ」
 「……」
 「嘘よ」
 彼女はそう言って、私の首に抱きついてくちびるを寄せてきた。  眠るしかなかったが、座席と座席のあいだが狭く、身体を紙のように折るしかない姿勢でないと眠ることが出来なかった。しかし、どんな姿勢であっても、私は睡魔と取引出来た。痺れるような熱さと、刺すような寒気を交互に浴びて、分泌された脂がしっとりと全身を膜のように覆っていた。それがたまらなく心地よかった。膚一枚で、世界を感じることが出来た。いつ頃から、神経が麻痺し出したのだろうか。
 ビッグバンのように弾けた彼女は、とても私の手に負える代物ではなかったが、苦し紛れに吐いた私の提案めいた喘ぎを、彼女は呑んだ。むかし、なにかで観た映画のシーンのように、彼女の涙をハンカチーフで拭ってやることも、無惨に色落ちしたくちびるにルージュを引いてやることも、濡れた瞳にそっとキスすることもなにも出来ずに、オロオロするばかりの私が、苦し紛れに絞り出した言葉のようなものを、彼女は受け入れた。意味はなかった。意味はなく、なんの自助作用もなかったが、私たちは荷造りをして、もっとも早くに出発するバスを選び、それまでの宿代を精算してバスに乗り込んだ。彼女には多少の気まずさがあっただろうが、私は情けないほどに言葉を見出すことが出来ず、必要最低限の事務的な会話に終始していた。交互にやって来るバスの暖気と冷気、土埃、汗、脂、そして時間などが、徐々に私たちを冷ました。と言うよりも、冷ますしかなかった。それは、長い年月をかけて培われた、大人の救済措置だった。全身の血を、頭や眼や鼻や頬に集中させておくことは、ある場面においては幸福なことかもしれないが、そんなことをずっと続けていくことなど出来ないことや、その先に待っている不幸を回避するような、生きていくうえでの知恵といったものを私たちは身につけていたらしく、私たちは徐々に身体を冷ました。イヤ、冷めたふうに装った。彼女の仕草や立ち居振る舞いから、それは如実に感じられるし、自身のそのような姿も彼女の眼には映っているように、私には察せられた。これはまたいつかどこかできっと爆発するのだと、私は思った。

 私はまた眠った。舗装されていない、ただ踏み固めただけの剥き出しの大地を、バスは再び走り出していたが、その揺れは、あらかじめ定められていたように私の睡魔を誘った。おぼろで虚ろな眼に涙を溜めたり拭ったりしながら、私はぼんやりと彼女を見るともなしに見ていた。髪は薄くバターを塗ったみたいに脂と埃にまみれており、暗がりで垣間見る顔は、鼻の頭も、頬も、おでこも、ある部分は水を与えられない大地のようにカサカサにひび割れており、ある部分はクリームを薄く伸ばしたように、あるいは養分を蓄えている肉茎のように輝いていた。ディオリッシモの香りはすでに褪せて久しかった。いずれにしても、そこには日々を楽しんでいる成果のようなものが見えず、自転車操業を続けてきた末の、ある種の徒労感のようなものが、しっとりと膜を張って覆っているふうに見えた。
 バスは、まだずっと海岸に沿って砂漠の道を走っているはずだったが、砂漠の小高い丘が漆黒の闇のなかに現れていて、海を見ることは叶わなかった。バスの音はじゅうぶんにやかましかったが、遠くにかろうじて海鳴りの音を聴くことが出来て、そこに海があるのだと知ることが出来た。バスはカーブを切ることもスピードを落とすこともなく、一定のフォルムを保ちながら走ったが、名前ばかりのじゃがいもの表皮のような道を走っていたので、ときおり、座席から腰が飛び出すくらいに揺れた。それも含めて、私にはずいぶんと心地がよかった。開けているでもない閉じているでもない重い瞼を引きずりながら、私は前の座席の背もたれの、破けてウレタンが飛び出しているところを、惰性のように引きちぎったり、押し込めたりしていた。そのうちに、ウレタンは弾けたり、飛び散ったり、グニャリと押しつぶされたり、ボロボロになったり、あるいは細かいチリとなったりする。ここにも定型はない。一定のフォルムがない。私は溶けてしまった。私はずっと遠い情景を思い出していた。無力について思い出していた。




 当時、私は自身が剥げかかっているのを知りながら、眼を逸らすことに耽っていたが、近頃は、ことに今は、眼を逸らすことすら出来なくなってきている。私は擦り切れかかっていて、接着剤が硬化して粘着力を失い、ちょっと指で突いただけで、たちまち無数の破片となって散乱してしまうように感じられてならない。いつか彼女が、駅前広場の早朝の食堂で、外国暮らしをしていて人格剥離が起こるのはツラいわよ、と言ったが、私には人格と呼べるほどのものがあるとは思えないのに、剥離だけがヒドく感じられる。どこにいても、道を歩いていて。不意にたまらなくなってしゃがみ込んでしまいたくなったり、ホテルのドアをすり抜けようとしたはずみに愕然と立ち止まりたくなってしまったり、夜中に目が覚めてライターを取ろうと手を伸ばしたはずみに、凍りついてしまったりする。それは兆しもなく、予感も出来ず、不意にやってきて、瞬間に私の足を掬ってしまう。人と話したり、チャイを飲んでいたりしているときに、突然、奈落に落ち込んでいくような衝動が起こるのである。雪崩のようであったり、足場の砂が崩れるようであったり、突然、足がガクンとなるようであったり、さまざまだが、一度それが起こると、私は痺れて阿呆みたいになってしまう。必死でその剥離を隠そうとして、私は引きつったような微笑みを頬に浮かべるのだが、突然、流暢に喋っていた相手の男が眼を背けて曖昧になったり、ぐずぐずしたりするので、眼が私を裏切っているらしいことが察せられる。身体が椅子から転げ落ちないように、テーブルの端を掴んでいなければならない。音もなく、表層や内部を崩れて落ちて走っていく夥しいものの気配に私は怯え、子供のような眼をしているのだと思う。
 瞬間は、私がひとりでいるときにも、人と一緒にいるときにも、雑踏のなかにいるときにもやって来る。地下鉄の構内でも、饐えた臭いのする裏町でもやって来る。食事の最中にも、情事の最中にもやって来る。気紛れで、過酷で、容赦なく、選り好みということがない。一瞬、襲いかかると、圧倒的にのしかかってきて、すべてを粉砕して去っていく、会話、冗談、機智、微笑、言葉という言葉、すべてが一瞬にさらわれて、ダストシュートに呑み込まれてしまうのである。待て、と声をかける暇もない。気がついたときにはいつも遅すぎて、私は呆然として凍え、音も匂いもない荒涼とした河原に立って、あたりをまじまじと眺めている。そうでなかったら、皿や、グラスや、コックの頬や、ピカピカと光るガラス扉や、その向こうに見える巨大なビルなどが、壮大で無慈悲な塵芥の群れ、手のつけようのない屑と感じられ、私は波止場に降り立ったばかりの移民のように立ちすくんでしまう。
 この10年間、私は旅ばかりしてきたが、考えてみると、ただなにかに追いつ追われつし、逃げ惑い、しょっちゅう先を越しているつもりでありながら、いつも待ち伏せされて叩きのめされ、ひとたまりもなく降参して、あてどない渇望と怯えのなかでウロウロしていただけのように思えてくる。たしかに旅の感動は出発にあるけれど、空港へ向かう暗いハイウェイを走るバスのなかで、すでに私は火が消えかかるのを感じる。帰国ともなると、なにもない。私のこの色褪せさ加減は、なんなのか。しかも、出発にも帰国にも目覚ましさらしい目覚ましさがまるでないのに、帰国してからものの3ヶ月も経つと、私はそわそわとして焦燥を覚えはじめるのである。沈殿を汲みはじめるのである。座ったままで、頭からじわじわと腐敗し出すように感じるのである。旅はとどのつまり、異国を媒介として、動機として、あるいは静機として、自身の内部を旅することにあるように思われるが、自身を目指すしかない旅は、やがて、遅かれ早かれ、ヒドい空虚に達する。空虚の袋に、毎日毎日、私はパンや肉を注ぎ込んでいるに過ぎないのではないか。
 私は名のないものに不意を撃たれて、凍ったり、砕けたりしてきた。いつ剥離するかもしれない自身に怯える私には、昂揚や情熱の抱きようがなかった。情熱は、抱くのも恐ろしいが、醒めるのも恐ろしかった。私には、いつも、人の視線の刺さない薄暗い部屋が必要だった。瞬間に剥離されたときに、そこへ潜り込んでうつらうつらしながら、ひたすら破片が元へ戻って、私という心臓のある人形のかたちになるまで、潮が満ちるのを待つようにしていられる、ひっそりとした小部屋が必要だった。ときに、壊滅的に走るあまり、その小部屋をも砕いて流し去ってしまうことがあったが、そういうときには、昼だろうと夜だろうとかまっていられずに歩きまわり、顎が落ちそうになるまで歩き続けた。白昼と闇とが、句読点も文法もない支離滅裂な文章のように入り交じって、そのことに苦しむ力もなくなり、膝が震え出すほどにくたくたになってしまわなければならなかった。無数の色を重ねて、いつかは白となるのを待つような望みのない作業だが、闇から白昼へ、白昼から闇へ、昼のコウモリのようにせかせかと飛び歩いていると、解怠に耽っているはずなのに、ひょっとすると私は激情家、熱狂家、なのではあるまいかと思われることがあった。
 瞬間に襲われて砂糖の城のように脆く崩れてしまった自身に耐えたり、立て直したりするのに、おそらく私は手を使うべきだった。物事を壊すのでもいい。創るのでもいい。ただ触れているだけでもいい。手を使うべきだった。しかし、私には牧場や畑を探しにいっている余裕などなかったし、瞬間はいつ、どこで現れるかわからなかった。私は通りすがりの映画館に入って、眼を酷使した。呼吸のざわめきは、イヤな臭いを立てるグニャグニャと温かい膚に満たされた、絶え間なしに色と音が変わり続けているその闇に潜り込んでいると、潮のように迫ってくるものからしばらく身体をかわすことが出来た。そうすると、ヒリヒリする、それでいておぼろな不安に混じって、一抹の優しい安堵が滲み出てくるようであった。遥かのちになって、古着屋のバックヤードのような安堵の闇のなかで、のびのびと手や足を伸ばして瞑想に沈んでいったことを思い合わせると、10代のむかしから私を追い立てているものは、やはり未だに、追ってきているのだと思うしかなかった。
 今でも、ヘトヘトにくたびれて息をつくのもやっとという有様は続くのだけれども、闇から白昼へ突き出されたときのような過酷さはない。酔った女、酔えない男、荒廃した少女、無気力な少年、吐瀉物の泡と汁、競馬場のような紙くずに満たされた深夜電車以上に、私に相応しいものはないように思える。自身を覆う気力を失ってしまい、曝け出してしまって、魚かカエルのような眼になりながら、見交わし合って恥じることもなく、避けることもない。ひとかたまりのスポーツ新聞が、城のような影を落としている。
 無力さについて語るなら、いくらでも語れる。そういう状態に、私はあまりにも馴れてしまった。無力さのことを語るよりも、沈黙することを選んできた人たちも少なくはあるまい。そうしたなかで、自身の無力さを語るというかたちではなく、この無力さの根そのものを掘り崩すことは、もはや不可能なのだろうか。半端な白夜を突き破る炎の柱を立てたり、路上の石畳を飛び交わしたりすることは、無理なのだろうか。あれは、いつか見た夢なのだろうか。もう、私からは埃まみれのアクビしか出ないのだろうか。




 ふと気がつくと、バスはずっと走っていた。私はバスの旅が大好きだった。バスに乗っていても、空のどこかに横たわっているような気になることがある。夜があまりにも静寂で透明なため、半覚半睡でうつらうつらしていると、この大きな箱が空のどこかに浮かんでいて、ガラス窓も座席もなくなり、剥き出しのまま私は空に漂っているような気になる。その感触がまざまざと伝わるのである。私は狭い座席を工夫して身体を折り畳んで座っている。彼女は羊のように無防備に眠っている。闇でなにも見えないが、海からのかすかな薫風を捉えることが出来る。風は足音を立てず、ただ夜と砂漠だけの深沈とした気配だけが感じられ、切れ切れだけれども絶え間のない私の回想もたまたま遠景でしかないときには、私は肉の袋から抜け出し、汚れた脂肪と意識をあとにして、揮発していく。そのとき、寂々としたものはあるけれど、孤独はなく、自由はあるけれど、焦燥はないのである。試験や牛に追いかけられる夢のほかに、子供のころから、私は闇のどこかから不意に落下する夢で苦しめられた。遥か下方に、小さな粒として光るものがあり、それは地球だとわかっている。そこをめがけてまっしぐらに落下していくのだが、ゴマ粒ほどの光点があるにもかかわらず、私の身体のどこかには、広大な、深い草の茂る、どっしりとした草原が、そこにあると感じられる。にもかかわらず、そこに到着出来るかどうかがわからない。衝突して粉々になるのではないかということは少しも考えず、ただそのことだけが不安でならない。氷結しそうな、ワクワクする不安で私は落下していき、捩れそうになり、思わず失禁しそうになって、そこで眼が覚める。ベッドのなかで私は手や足が痺れ、冷たく硬直して、眼を開いていた。それ以後、いくら歳をとっても、闇を一瞥すると、それが淵に間探りようのない闇だと、私のどこかには、決まってこの記憶が浮かんでくるのである。けれど、どうしてか、今はなにかの条件が整備されているらしい。このバスのなかの、革のうえで感じる闇には、墜落が起こらない。額や肩から抜け出し、揮発した私は、クラゲのようにのびのびと夜空を漂う。
 しばらく眠って、朝が来た。朝になると、かたちが戻っている。無碍の放下は消えている。私は脂っぽい、大きな袋に封じ込まれ、顔をねっとりとした脂と汗で覆われて、座席のなかに転がっている。日光と一緒に意識が射してきて、しばらく、うつらうつらしているあいだはいいけれど、ある無慈悲さに追われ、やがて浮かび上がっていく。1秒刻みで輝きながら、微風から、熱から、朝の進行していることを感じることが出来る。キラキラする果汁でいっぱいの、巨大な明るい果実のなかに私は横たわっているらしいのだが、少しずつだが確実に足から力が抜けていくのを感じると、食べて吐くだけのミミズになりつつあるような気がする。
 「よく眠れたかしら」
 眼を覚ました彼女が、私に不意に話した。ぼんやりとしていた私は、彼女が起きていたことに気がついていなかった。
 「よく眠っていたよ。疲れが出てたみたいだね」
 「私じゃないの。あなたよ、あなた、眠れたの?」
 彼女は笑いながら、そう言った。
 「ねえ、今朝方、初めて街らしい街を走っていったような気がしたけれど、このバスは停まらないのね」
 「本当だな。停まるときは、いつも用のないときばかりだ」
 「たまの街だから、降りたり乗ったりする人もいるでしょう」
 「さっきの街は、船員のための街だよ。船乗りの街なんだ。だから、このバスの乗客には関係ないね。たしか“天国行き”という名前の街だよ」
 「わかった! キレイな女の人がたくさんいるんでしょう。男性天国の街なんでしょう。船乗りさんの寄港地でそういうところが多いというのは聞いたことがあるわ」
 「ご名答だ。勘がいいね」
 「博学と言ってほしいんだけどな」
 「でも、船乗りさんとキレイな女の人が出会う街の名前が“天国行き”というのは、洒落てていいわね。眩しくていいわよ」
 「真実はいつだって眩しく輝いてるものだ」
 「これ、日本だったら、なんとか銀座、って地名よ。センスないわね。ねえねえ、ほかに素敵な地名はないの?」
 「ある。ジャングルのど真ん中を開拓して人間が住めるようにした場所があるが、街らしい街がひとつもなくて、ただ1軒だけ小間物屋のような売店があるきりのところがある。そこは“緑の田舎”と呼ばれているよ。街じゅうのいたるところに花壇があしらわれているところは、ずばり“花を見なさい”という名だ。これはちょっとエゴが強くて、オレは好きじゃないな。“美しい海岸”という名前の国もある。内戦を繰り返してゲリラの拠点となっているところは、皮肉なことに“平和”という地名だ。いろいろあるよ」
 「うーん、どれも面白いというわけではないわね」
 「そうだな。オレの知るところでは、“天国行き”が最高だな」
 そう言って、私は彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。
 彼女には屈託がない。バスに乗り込むまでの鬱屈したような、水槽の底にたまった澱のようなものが見られず、たったひと夜でキレイに掃いてしまったかのように察せられる。昨夜のように、私は相変わらず、ヒリヒリする徒労と墜落のなかで、なにかを掴もうとしていることでは、なにひとつ変わっていないと痛感させられる瞬間があるが、彼女もおなじようになにも変わっていない。きっと、いくらでも足をすくわれるような目に遭ってきたのだろうが、そのたびに克服してきたに違いない。生産工場のラインで働くような、決められたことを何度も何度も繰り返し、超克する術を身につけてきたに違いない。それは瞬間の瞥見であり、痛覚なのだから、たぶん正しい。定義の言葉を求めて分析にかかろうとする瞬間に消えてしまうことだから、たぶん、それは正しい。
 「ところでさ、そろそろ行き先を教えてほしいのですけどね」
 「なにを?」
 また彼女の眼が好奇心でいっぱいに満ちた。くちびるの端々に、なにかの含みを持たせているようにも見える。
 「行き先は、だから、現実的に神秘的な場所だよ。キミがご希望したところさ」
 「どうあっても教えないつもりね。ねえ、暑いところなの、寒いところなの。それくらいは教えてくださいな。バスは南をずっと走り続けているようだけど」
 「南半球は南へ下れば下るだけ寒くなるのはあたりまえだよ。しかし、オレたちが行くところは、“火の島”と言うんだ。寒いには違いないが、“火の島”と言う」
 「なるほど、現実的に神秘的な場所らしいわね。活火山が火を放って、ブリザードが吹き荒れているのかしら」
 「想像力が逞しいね。しかし、地獄の三里塚じゃないんだ。そこまでヒドいところじゃないよ」
 「なんだか、トムじいさんに連れられて川を下ったハックルベリー・フィンみたいね。さっぱりわからないわ」
 「でも、ハック・フィンは素晴らしい旅をしたじゃないか」
 「そうよ。今、私、すごくいいことを思いついたわ」
 「……!?」
 「私たち、ハックルベリー・フィンの冒険物語のなかで出会えばよかったのよ」
 彼女はそう言って、不敵に高く笑い、どう、と言いたげに鼻をフフンとやった。
 私は唖然としたが、それは、名案だと言うほかなかった。私には思いもつかなかった。そう、私たちは、ハック・フィンとともに、あの物語のなかで出会い、そこで永遠に生きるべきだったのだ。思想とか、信条とか、哲学などといった、凝り固まればそれ自体が迷信に堕してしまうものから、私たちはもっと清々しく自由であるべきだった。そうすれば、私たちは別々にこの10年を生きることもなかっただろうし、ともに生きることもなかった。私たちはあらかじめ太古のむかしから、そこで生きてきたかのように、自然に振る舞えることが出来たのだ。




 私は、朦朧としかけていた。ハック・フィンさえいれば、私はきちんと彼女を愛してやれたかもしれなかった。しかし、しかしだ。彼女がいつだったか看破したように、私は自身すら愛せない男なのだ。
 名のない憂鬱が薄い汚水のように広がりかけている。それは私から滲み出て、あたりを漂い、早くも足を這い上がってきて、腰を浸している。愛という言葉を聞くたびに覚える、捉えようのない当惑と居心地の悪さが、憂鬱に混じって、ゆっくりと動いている。この言葉を耳にするたびに、私は痛切と朦朧を同時に覚えさせられて、ぼんやりとなる。透明で柔軟だが、貝殻のように不浸透の膜に包まれて、外界を眺めるようなのである。遠くの薄明かりに、何人かの女の眼や顔や裸の肩が見える。どの女も、今浴びせられたのとほとんど変わらない言葉を口にした。ある女は情事の谺が消えるのを待ってから、おもむろに顔を上げて、私が自身すら愛せないでいるのだと言った。ある女は、昼下がりのうどん屋へ、それだけを言おうとやって来て、私は女の下半身には惚れるけれど、上半身にはまるで興味が抱けず、興味を抱こうと焦ることも知らないのだと言い、天ぷらうどんを食べて出ていった。ある女は、これも情事の谺が消えかかってからだが、丹念だがもの憂げに私のモノをくわえながら、太腿のあいだから顔を上げて、私は空中から言葉を掴み出しているだけだと言った。
 それぞれが不意で、また、抉り立てるような痛烈さがあった。愕然とする正確さが込められているのだった。女たちは私がそれらしいことをなにも言っていないのに、突然、どこからか言葉を掴みとってきて、口にし、私が驚き、その驚きが私にまだ続いているのに、女たちはもう忘れてしまったかのような顔をして、一瞬まえの英知とはおよそかけ離れた、どこそこのアイスクリームは使っているクリームが違うとかどうとかの話題に、生き生きと興じるのだった。そこで油断していると、いつか、不意に切れた主題が突然顔を出して、またしても必殺的な寸言をひょいと口にして、私を脅かす。持続があるようであり、ないようであり、峻烈このうえなく、愚昧もこのうえない。しかし、私が愕然とするのは、思いがけないときに、思いがけない女が、口にする峻烈さであった。それは女のくちびるから零れ落ちた瞬間に、それ自体が質量を帯びて、肉薄してくる。女はとっくにどこかへ行ってしまっている。トゲが刺さって痛がるのは、私であった。私はそれがどこで膜を破って、雪崩れ込んでくるのかを待った。しかし、女たちが、愛を、純溜しようとすればするだけ、私は怯えつつ、朦朧となっていくのだった。すべての言葉には、両極併存の、朦朧でもあり寛容でもあるものが込められているが、人事の原始単位の痛切を決定しようとするこの言葉が、顕微鏡でありながら、望遠鏡でもあるらしい気配を背負わされているために、広大な痛切のどこに自身を置いていいのか、私にはわからなくなるだけだった。女に、白い臀が好きかと訊かれると、私は明朗な口調で答えられる。けれど、それを愛しているかと尋ねられると、立ち上がるまえにうずくまることを考える。それが臀でなくて、心になると、いよいよすくんでしまう。男は具体に執して抽象を目指そうとするけれど、女は抽象に執しながら具体に惑溺していこうとする。私は男根の先端に全神経を集中しつつも、汗まみれになってなにかべつのことを考えているけれど、女は羨ましいほどの没我の精力でまっしぐらに異次元に駆け込み、全身で動乱する。愛は、遥か彼方に漂っている。にもかかわらず、芝居が終わると不意にそれが、それしかない立役者のように呼び出されてくる。ピッツァとチャイに満たされた私は、トロリとなりかかっているが、苦渋があるので眠気は躊躇っている。




 バスは走り続けていた。最初に動きはじめて、もう、どれくらいの時間が経ったか。バスは走り続けたが、景色は一幅の風景画のように、どちらを見ても代わり映えがしない。ヒトが住むのに悪意しか示さないような、苛烈な大地が延々と繰り返される。陽射しは根強いが、風が優しく冷たくなってきている。緯度が高くなってきたためである。気配がそこかしこにわずかずつだが、感じられるようになってきた。まもなく、景色は動き出すはずである。
 バスは何度か人為的不可避的にかかわらず、アクシデントに見舞われて途中停車したが、それ以外にも食事や休憩をとるために停車することがあった。舗装されていない、大陸の端から端を電話線のように一直線に繋いでいるハイウェイ道路は、ただただ大地を踏み固めたただけのものだが、ガソリンスタンドや簡単な食事が摂れるサービスエリアが、忘れたころに現れるような感覚で整備されていた。
 私たちは、とあるサービスエリアで、軽い食事を摂るために降りた。チャイニーズ・レストランがあった。彼女には、先ほどまでの激情や、清涼としたものがなかった。激しくなる力を、ことごとく消耗してしまっている気配があった。苦しめなくなっているらしかった。長旅で疲労が蓄積してしまっているのだと単純に考えることも出来たけれど、これまでに見たことも想像したこともなかった虚脱が表れ、すでに異域に滑り込んで漂っているのではあるまいかとも感じられた。不安が私を走り抜けた。手や足や胴が、不意に冷たくなった。彼女の肩から、手が滑り落ちそうになった。
 「どうしたの?」
 「……」
 「お母さんのようになりたくないわ」
 「お母さんがどうしたの?」
 「……」
 覗き込むと、顔は廃墟になっていた。先ほど噴出した精気はどこにも見られず、ただ蒼ざめて、口を少し開け、深く皺を刻み込まれ、稀薄な静寂があった。私は、彼女につきまとっている、いつかの不幸の残像のようなものを感じた。これまで彼女が自ら進んで喋り出すときのほか、私は彼女の身の上話を立ち入って聞こうとはしなかったし、彼女も笑いながら出来る身の上話のほかにはなにも喋ろうとしなかったのでそのままで来たのだが、察するに、彼女に色濃く漂う不幸の気配は、あるいは日本と日本人を憎む動力の源のようなものは、彼女の母親に起因するのだろうか。
 突然、彼女の顔がこちらに送り返された。顔から廃墟が消えていた。眼に焦点が出来ていて、穏やかな微光すら漂い出していた。彼女は私を見て、微笑みを浮かべた。
 「私、なにか言ったかしら?」
 「イヤ、なにも言わないよ」
 「そう…」
 「不意におかしくなっただけだよ」
 「なんだか、いきなり頭のなかでガラスの割れる音がしたの。それからフワッとなって、なにがなんだかわからなくなった。なんだかヘトヘトだわ。疲れているのかしら」
 「疲れてるんだよ、きっと。馴れない長旅を続けているからね」
 「でも、自信なくしちゃうな。私はこう見えても旅芸人なのよ。旅芸人が旅で疲れてたんじゃ、お話しにならないわね」
 「なにが原因なのか、はっきりしたことは言えないけれど、旅のせいで疲れたんじゃないと思うがね」
 「精神的なことだって言うのね。精神分析までするのね、あなたって」
 「だから、なにが原因なのか知らないと言ってる。それから、付け加えると、ここは海が近いから、なにかを癒すなら、今だ。心身を癒すのなら潮風にあたれ、鍛錬するのなら山の空気を浴びろと言ったのは、たしかキミだ」
 「私が言った? 覚えがないけど。どうせ、誰かの受け売りを言ったのよ、私って、そうだもの。そんなことよりご馳走を食べましょうよ。空腹のときには人間はロクなことを考えない。これは、あなたのセリフよ。さあ」
 砂漠のなかに蜃気楼のようにして、眼のまえにチャイニーズ・レストランがあった。天井から床までコルク壁に埋められている数知れぬパイプが、褐色の宝石として静かに輝いているのが、窓越しに見えた。すでにバスの乗客で立て込み、赤と金と黒のなかで、潤んで閃く淡い青色の眼や、汗ばんだ頭頂や、バラ色の頬などが明滅していたが、ハッタリ臭い金粉をちりばめた屏風の陰の席がひとつ空いていたので、私たちはそこに腰を下ろした。私は例によってチャイを注文し、彼女はキリキリに冷えたドライ・マティーニを注文した。給仕の傲慢ではないが謙虚と呼ぶにはあまりに貧弱な素振りから、出される料理には期待が一向に持てなかったが、やはり乏しすぎるメニューのなかから、冷菜にクラゲとブタの胃袋、スープにフカヒレと卵白を絡めたもの、温菜にはチャプスイ、小エビの揚げ団子を選んだ。チャプスイは屑物の交響曲で、さまざまな漢字を置くことが可能だが、ここでは“八宝菜”となっていた。試しに手帳を一枚破って“全家福”と書いて給仕に渡したら、彼は中国人に違いないはずなのだが、漢字がまったく読めないらしい素振りであった。紙切れを持って調理場へ消えていったが、やがてとろけそうに笑いながら、残飯箱のゴマ油炒めを運んできた。バターでなく、ゴマ油の香りがするので、中華料理だと言うのなら認めるしかないが、むしろこれは馬の餌だった。彼女は眼を白黒させながらも全部を食べていたが、私はなにも言わずに半分だけを食べた。この店には中国人はいるが、料理人はいないらしい。
 「…これなら、オレにも出来るよ。屑物野菜の五目炒め学生ヤケクソ風というようなもんだ。これで銭が取れると言うんだから世間は広いね。香港あたりでこんなものを出してごらん、苦力(クーリー)にぶったたかれるよ。あそこの波止場の苦力はじつに美味しいものを食べてるもの。ゴミ箱の陰でモツの入った五目入りのおかゆをすすってごらん。混沌、かつ静寂だよ。ここのシーサンは、いったい、どこでとれたんだろうか」
 「わかってる。わかってるの。大きな声を出さないで。私はこれで満足してるの。これでも私には大変なご馳走なの。いろいろヒドいことを言ったけれど、私、すっかりあなたに奢らされてしまった。お詫びしたいわ」
 不意に声音が低くなったので、急いで覚悟を決めにかかったのだが、さっきから彼女はずっとそうだったのだ。チャイの気怠い甘みの混じったなかで眼を据えてみると、蒼ざめた、高い頬の血が灯に射しかかっているが、肩にも、首にも、これまでいつもそうだった機敏と不屈が消えていた。全裸で、鏡のまえで緩やかに滑っていた残像も、日本と日本人のことごとくを撃破した疾風のような残像も、消えていた。冷たい酒精と温かい料理のために、頬がほんのりと雪洞になっているが、テーブルの白布に腕を置いて眼を伏せている上体は、ずっしりとしながらも、これまでの姿はどこにもなかった。ほとばしる流れや、そのなかで緩く動く渦や、陽と戯れる浅瀬や、思いがけない豊暁で暗い淵や、水が澄み切っているのに泡だけが黄ばんで緩慢に震えている落ち込みなどが、すっかり消えてしまい、彼女の眼も肩も腕も、冬の陽のようになっていた。どこもかしこも淡くて、やつれていて、柔らかく、寒い。腰骨を貫通させられたのに、なにが起こったのかわからない眼差しで、足を折ってしまったかのようなところがあった。




 私たちは、バスを降りた。バスを降りて、そこしかない、チャイニーズ・レストランと同系の宿をとった。ここでしばらく食事を続けるのかと思うと滅入ってくるものがあったが、すでに、旅を続けられるような状態ではなかった。
 小屋のような部屋だった。干し草を詰めてシェラフを置いただけのベッドがあるきりで、簡素な空間だったが、干し草のなかで眠っていると、ふかふかと柔らかく、このうえなく香ばしく、たっぷりと疲労と睡魔が蓄積されているはずなのに、眠れないほどだった。小屋の壁板の隙間や節穴から日光が射し続けている。それが薄い瞼に届いて、私たちは身軽になり、透明になり、腸の隅々までくまなく陽に照射されたが、批評することも、されることも忘れ、沈思と下降を覚えなかった。干し草はつい1時間ほどまえに新鮮なものと詰め替えられたかのような新鮮な匂いを放ち、その匂いは生き生きと開いて動くが、しっとりと重いところがあった。私たちはどっぷりと暮れて小さな死を迎えるはずであったが、干し草の香りに誘われて、交わり合った。互いのものをくまなく眼で眺め合い、舌で弄り合っていると、ときどき、干し草のひと筋、ふた筋がシェラフを突き破ってきて、毛と一緒に噛むことがあったが、そんなときは上と下とで爽やかに笑えばすむことであった。
 私は、
 「そこだ、袋の裏」
 と、言ったり、
 「うん、そこの縫い目のところをずっと」
 と、言ったり、
 「皺を軽く噛んでみて」
 と、言った。
 やがて私は射精の動揺や、彼女の呻吟や、男根の波立ちの記憶などと一緒になり、眠りながらも浮揚している。どこかの涼しい陰で沈むようにして、眠ると言うよりも、赤々と日の射す渓流のなかで弄ばれて、沈んだり浮いたりしつつ流れていくような気配である。眼が覚めると、陽は通過し、横で彼女は薄く口を開けて眠っていた。
 どこか穏やかな気候の山の中腹あたりの、草原のなかにいるようだった。彼女は草むらにうずくまっていて、花輪を編んでいたりする。私は眼を覚まして小屋の入口に立ち、湖、葦原、村、その彼方の牧場を眺め、それらすべてのうえにある淡い、赤い夕焼けの兆した雲を眺めている。すると、誰もいないと思っていた牧場地から、不意に彼女がそこにやって来て、花束や花輪を手にわたしてくれる。
 「これ、菊みたいだけれど」
 「アレチノギクじゃないかな」
 「なんでも知ってるのね」
 「あてずっぽうだよ」
 「ご謙遜を」
 広い肩や、逞しい腰を見せ、威風堂々、草を踏みしだくように歩いているふうに見えるのに、彼女が後ろ姿を見せて遠ざかっていったり、草むらにかがみ込んで花を探したりしているところを見ると、怯えてもいず、寂しがってもいないのに、いつもどこか、儚いところがあった。それを見ると、いつか、意気揚々と、女は怖いわよと、笑いながら叫びつつ孤立して見えたことが、まざまざと思い出された。彼女はいつも孤立しているように、アレチノギクからも孤立し、分離されているようである。彼女がいくらこの牧草地を歩いても、足跡ひとつ残らない。儚いと私が見るものは、そこから来ていた。
 「さあ、元気を出して」
 彼女は草に跪くと、そっと私のズボンに指で触れて、ジッパーを下げ、たった今まで眠りこけていたのに、ふと細い指で触れられたばかりにみるみるうちに昂揚してしまったものを、眼を閉じて、一度、口いっぱいに頬張ってから、音を立てて離し、クローバーの花輪を引っかける。彼女は身体を折って笑い、軽く拍手をして、あたりを跳ねまわった。薄く暗闇かけた赤い黄昏のなかで、その声は、湖に湧く夕霞や、遠くの牛の鈴の音や、秘めやかな微生物たちのざわめく声がたじろぐほど遠くまで、鋭く響きわたっていった。
 突然、車が1台、野太く逞しい甲高いうねり声を上げながら、小屋をかすめた。小屋は丸ごと身震いしてから、怒って身構えつつ、静かになった。シェラフの底深くに潜り、丹念で、精緻な、小鳥が嘴で突くような仕事に耽っている彼女を、私は静かに引き上げる。腰や、横腹や、胸に触れつつ、彼女がゆっくりと上がってくる。
 「さっき食べた八宝菜なら、私、いくらでも代用食をつくってあげるわよ。ちょっと見かけたんだけれど、マスが出まわっているみたい。私、つくって差し上げるわ」
 「それはいいな。ここでの宿題としよう。でも、今度はオレがつくるよ。オレがつくって差し上げます。キミは斥候だ。報告するだけでいい。出来るだけいいマスを選んできておくれ」
 「いいわよ。任せておいて。そういうふうに言ってくれると嬉しいのよ。いつもその調子だと嬉しいわ。あなたが崩れているのを見ると、ツラいの。こちらまで狂っちゃう。私は男勝りだけれど、ある点を突かれると瓦解しちゃう。そういう点があるの。そこをあなたは、ご自分は崩れて寝たままで遠慮会釈なく抉ってくるから、このあいだみたいなことになるのよ。あなたは容赦しないわね。人前では隠してらっしゃるけれどね。隠そうとしても、そうなっちゃうらしいんだけれどね。あとで自分を責め立てる。その刃が自分と他人を同時に切ってしまって、また苦しむ。だから冷酷なんだ。女に惚れることが出来ないのよ。賭けることも出来ないんだ。我を忘れるということが出来ないんですからね。私は、そう見てる」
 「我を忘れることが出来ないから、逃避することも出来ないんだよ。外へ行こうが、内へ行こうが、おなじことだ。逃避などということは、あり得ないよ」
 「濡れ場にしては妙なセリフになってきたわね」
 「だけど、そのとおりだよ」
 「当たってる?」
 「不足だけれど、まずじゅうぶんだよ」
 「イヤだ、イヤだ」
 不意に柔らかい髪がオートバイの駆け抜けるなかで、顔に降りかかってきた。くちびるが激しく、そこかしこを貪って歩いた。敏感で薄紙のようになった膚に、熱い刻印が目まぐるしく押された。それは震えながら流れたり、突然ビックリするような方角に飛び立ったりした。ひとつひとつの刻印がやがて溶け合って、鬱蒼とした熱の森が広がりはじめた。髪が額や鼻に覆いかぶさるたびに、彼女が小屋のなかで含み笑いをしながら、次々と干し草を投げつけてきた。
 くちびるほど外光と視線に曝され、絶え間なく酷使されて、ほとんどそこにあることを感じさせず、滅多に思い出されることもなくなった器官もないと思われるが、2時間も3時間もかけて吸っていると、不意に、一切が溶けてしまう瞬間がある。いつ、どこから来るのかわからない。お互いの身体が質量を失ってしまう。無骨な骨、煩わしい脂肪、すべてが熟れすぎてムッとした夏の遅い午後のなかで、トロトロに溶け合う。どこもかしこも柔らかくて、熱くて、深く濡れている。泥とも蜜ともつかない広い不定形が、炉のように闇を含んでから、浮かび上がって漂う。穏やかな混沌がたぷたぷと広がる。くちびるだけだが、そこから混沌が、背後にではなく、眼前に広がる。明るい海で、2頭の小さな海獣が浮きつ沈みつして戯れ合っている、黄昏の湖で、水が桟橋の脚にぴちゃりぴちゃりと音を立てている。ゆたゆたと漂う白い肉のうえに澱みながら、私は戯れが引き起こした無限をまじまじと眺める。
 彼女が気怠く手を上げて、
 「……」
 涙を拭っている。
 3時間目になると、閉じているのは肛門だけになってしまった。肛門は生真面目に小皺を集めて固く閉じているが、それすら泥に覆われ、没してしまった。もはや吸うまでもなくなっていた。ディオリッシモの香りがふくよかに開いて、動き、雌の匂いと混じって、咽せそうに熱い揮発があたりに立ち込める。その霧のなかで浸透していくと、いくつものくちづけのあととで出会う、ざわめく右壁もなく、左壁もなく、熱い沼があるばかりである。恋矢のいくつかが、いつもの場所に達して、待ったり、佇んだり、そのあたりをこつこつと当たったりしても、ひとつも現れない。ほとんど繊維質を溶かし切ってしまうまでに果肉が熟したのだろうか。繊維も筋も核も、ただ一面の火照りのなかに隠れてしまったようである。湯滴の内側に滑り込んで呆然としながら立ち込める霞のなかを、ゆっくりと往復する。それから突然、どうしたことか、きっかけも予感もないうちに、一瞬が来た。混沌が消えた。下から上へと突き上げられているのに、肩にのしかかってくるものがあり、私は崩れた。背骨が震え、下腹に火を覚え、激しいざわめきに満ちた闇のなかに、あちらこちらで、かたちが早くも起き上がってくる気配を覚えながら、私は堕ちていく。
 どこかでぼんやりした声が、
 「…、…」
 呟いている。




 けれど、続かなかった。
 ほとんど毎朝、彼女は眼を覚ますと腕を眺める習慣がある。シェラフのなかから裸の腕を突き出し、おぼろな影の立ち込める曙光のなかで、裏に返したり表にしたりしながら、くまなく点検するのである。しばらく黙って観察したあと、独り言のように、ウン大丈夫だと言ったり、私も老けたもんだと嘆いたりする。ときどき、どう、見てちょうだい、と言って差し出してくることがある。たしかに、逸品と言いたくなる朝があった。触れた指を弾くよりは、しっとりと吸いつくようにして、そこに留めておくようなキメの細かい膚のしたに、精妙な肉と冷たい脂の気配がある。産毛も、そばかすも、染みもなく、毛穴があるとも感じられず、血を深く沈めても、どこもかしこも蒼く冴え、しかもどっしりと純金のように重いのである。一日の自信を置くに相応しい荘厳さがある。
「李朝の壷も、こうはいかないわよ。いつか美術館で見てね、こっそりと比べてみたの。明代のも宗代のも李朝のもあったけれど、とても私の腕には及ばないと思ったわ。今や落ちぶれて、腕だけしか残っていないのは悔しいけれど、これはまだまだ売れるわよ」
 今朝も彼女は枯れ葉色のカーテンから漏れる明るい光のなかで、腕を伸びやかにしたあと、そう言って笑い、干し草から出ていった。くしゃくしゃになった枕を腕に抱き、私は新鮮な牛乳に満たされたようになって、うとうととしていた。すでに高い角度を与えられた陽の光が瞼に射して、爽やかだが微熱がそこかしこに兆していた。
 「ちょっと、この人、あなたが大好きだったロック・アーティストじゃないの? たしか、ずいぶんむかしに亡くなってるわよね。ねえねえ、面白そうなことが書いてあるわよ」
 部屋に用意された英字新聞を彼女は片手に持ち、片手で歯ブラシを使いながら、含み声で言った。部屋のなかをゆっくりと行ったり来たりしながら、彼女は声を出して新聞を読んだ。
 「…ふむふむ、追悼コンサートがあったんですって。珍しいわね。自然発生的に人が集まってはじまったらしいわよ。どこかが主催したわけでもないんですって。まるでウッドストックみたいじゃない。そんなこと、現代に可能なのね」
 「むかしはよくあったけれどね。オレたちもよくそんなことをやって遊んだもんだよ。ほかにはなんて書いてある?」
 「30万人が集まったって。夢みたいな話ね」
 「本当かな。第一、自然発生的に集まったのなら、誰がその人数を集計したんだい。怪しいもんだ」
 「本当。怪しいもんだわ。でも、あなた、動揺しないわね。私に匂ってこないわ。私、割合と、こういうことには鼻が利くんだけどな」
 彼女はそう言って笑い、洗面所のところに行って顔を洗った。私は、起き直って新聞を拾い上げて、中面の右隅に載っているだけの、その、なにげない記事を眺めた。大きな記事ではない。遠い国の地震か、自国人ではない大使の誘拐を報道する程度の面積しか、占めてはいない。
 「じゃ、私、ちょっと外出してくるわよ。買うのはマスと、ヒゲ剃りのシェービング・クリームね。あなた、お髭が伸び放題よ。気がついてた?」
 私は彼女に言われて、慌てて口元に手をやった。目の粗いサンドペーパーに触れたときのような、ザラついた感触が手に残った。ハッとして、私は正気に戻った。
 バイバイ、と手を振って彼女は部屋を出ていった。いつの間にか、彼女は蚕が繭を紡ぐように主婦になってしまっている。堅固な、したたかな気配が、肩や腰にある。生き生きとし、自信に満ちて、眼も顔も安堵し切っている。いつか私は、ママゴト以上にしてくれるなと言ったけれど、まるで子供の戯言としか思えない。不意に私は、命名出来ない憂鬱が広がりかけているのを感じた。おぼろな焦燥がそれを縁取っていた。私が18歳で知ってしまったことを、彼女は今になって手に入れたと感じている。忌々しいまでに、生き生きとしている。しすぎている。
 彼女が部屋を出ていったあと、私は空っぽのなかでタバコを吹かしたり、ベッドに寝そべったりした。鈍いが強い一撃を浴びたあとの谺が、そこかしこに感じられた。いきなり頬を打たれたようでもあり、なにか新しいものを見たようでもあった。不意に顔のない動物が現れて、こちらを襲うでもなく、窺うのでもない素振りで、けれどしぶとい気配でそこにうずくまっている。かさばっている。それは牧草地の小屋や、土砂降りの雨に打たれた窓や、女の泣き声や、トロトロに溶けた彼女自身のうしろを、注意深く足音を忍ばせて歩き、見れるときにはいつも後ろ姿だけで、すっかり私を油断させておいてから、やにわに登場するのである。私はぼんやりとなってしまい、それが部分であるのか主題であるのかさえ、しばらくはわからないでいた。潮騒に耳を傾け、名残の体液の滲みたシェラフに鼻をあて、天井や壁で踊る陽を眺めていると、私は干し草のベッドに縛られたまま、ぶわぶわと太り、息が詰まりそうになってかたちを失い、そして、とどめようもなく根が伸び、葉が茂り、蔦が絡み合って、かぶさってくる。このままの姿勢で、腐ってしまいそうな気配を覚える。更新され、蓄積されたものは、もう尽きかかっている。ムッとした暑熱のなかで発酵がはじまりかかっている。
 彼女が帰ってきたら読めるようにメモを書いてテーブルの真ん中に置き、私は部屋を出た。
 海へ向かった。造作のないことだった。小高い丘のようになっている砂丘をひとつ越えれば、そこは海だった。夕暮れがはじまる直前で風は凪いでいて、水面は不動の鏡であるように、そこにあった。南極から冷水を運んでくるこの寒流は、陸のうえに住む生物を寄せつけない静かな荒々しさに満ちていたが、海岸の砂漠は真昼の熱をたっぷりと吸い込んだ熱砂であり、どこにも居場所を与えない不思議な光景を醸し出していた。少し離れた岩場には、コウテイペンギンが数十頭、群れをなして慰め合っていた。
 群れの近くの岩場まで行って、私は腰を下ろした。私は記憶のなかを先へ進んだり、あとへ戻ったり、素早く繰ったり、ぼんやりと放心したりしていた。過酷な霧が立ちこめていて、すべてが顔を失っているけれど、しばしば私が通過したり泊まったりしたことのある小さな街に出会うと、あまりにもたびたびに回想したので指紋でべったりとなってしまったはずのものが、不意に鮮やかな光景を閃かせて、コウテイペンギンのあいだを横切っていく。それらは絶え間なく修正に修正を重ねられ、おそらく原形をとどめないまでになっていたはずで、言わば、私は私だけの国の光景を見ているに違いなかったが、ありありと照射されるのを感じた。
 ふと、気配がして振り向くと、遠くの砂浜に男がいた。男は砂に座って、ハモニカを吹いていた。

 「虹を見たか?」
 男は、ハモニカの調べで、そう問うていた。
 虹は、見れない。こんな海に男と女を閉じ込めてどうするのか。私は思った。水面を見た。しかし、水のなかに映る彼女のくちびるは、七色に輝いている。再び、私はハモニカの男に眼を遣った。男は、砂に変わっていた。虹?




 部屋に戻ると、彼女が干し草のベッドから身体を起こし、
 「どこへ行ってたの? メモはあったけれど、心配したわよ。病人がそうそうひとりで出歩いちゃイケナイんじゃないの。ちょっと眼を離したら、たちまち逃げちゃうのね。油断も隙もあったもんじゃないわ」
 と言って、怒った。
 シャワーを浴びたあとで、干し草のベッドに横になったが、眠れなかった。タバコに火を点けたり消したりしているうちに、夕暮れどきになってしまった。静かなところで、ゆっくりと火の島の話を聞きたかったのだと言って、彼女は夕食用に買ってきた品をいそいそとテーブルに並べた。マス。生ハム。レアチーズ。パプリカの甘酢漬。オリーブの塩漬け。サクランボ。チャイ。赤ワイン。マスは香草をたっぷりとちりばめた清蒸に仕立ててあった。ポケットナイフ1本で彼女はマスを手早く巧みに切り分けると、次に新聞紙を皿代わりに切って、テーブルに置いた。今朝のあの記事のところはたちまち脂とソースに塗れ、1時間後には紙屑箱に捨てられた。マスも一群の骨となって紙に包まれ、いくらか大きな玉となって捨てられた。
 「大きな魚の場合、美味いのはくちびると目玉だね。ゼラチン質があるし、基本的に筋肉だから、美味いよ。食べてごらんよ、わかるから」
 話しつつ、なだらかでぽってりとした霞のなかで、私は未知でなさすぎる穴が広がるのを感じた。言葉の裏にも後頭部にも穴は広がり、じわじわと私を吸い込みにかかった。
 彼女は赤ワインをちびりちびりすすりながら、テーブルに地図を広げてメモ用紙を置き、今日歩きまわった場所を細かく話した。小さな漁港とそれにへばりついたような小さな商店街があるきりの、小さな街であるらしかった。地図が必要なほど大きな街ではないらしかった。
 「あなた、さっきはどこへ行ってたの。なにをしてたの」
 彼女は地図を私のまえに差し出して、そう言った。彼女はすっかり影から抜け出して、弾んでいて、堅固だった。
 「ただの散歩だよ。海を見に行ってただけだよ」
 「聞かせて? 新聞に載ってた追悼コンサートは関係あるの?」
 「追悼コンサートは関係ないよ」
 「むかし、アジアのどこだかで戦争が行われているところへ行って、街頭に立ってギターをかき鳴らしてた、って言ってたわね。スナフキンを気取っていたときがあったって言ってたわね」
 「そういう場所にいたし、そういう時代でもあったんだ。沈黙が余剰であるという時代ではなかったんだよ。沈黙しているかぎりは誰の邪魔にもならない、というような時代ではなかったんだ。あの時代、沈黙は参加だったんだ。加担だったんだよ」
 「状況による、と言いたいの?」
 「そうだね」
 「なら、黙ってなさいよ。おとなしくしてなさいよ」
 「だから、黙ってる。キミが日本や日本人を憎むまえから、オレだって、ずっと憎んできた。でも、まえにも言ったが、虚しいんだよ。憎悪を原動力に生きていくことの虚しさが、オレには見える。オレひとりが、イヤ、世界中の音楽家が歌をうたっているけれど、世界は一度だってよくなったことはないじゃないか。歌は世に連れるけれど、世が歌につられた試しは、一度もない。このことに気づいてしまうと、虚しくなる。とてもじゃないが、やりきれない。オレはだから黙ってる。黙ってる」
 不意に彼女の身体が開いた。腹と腕からなにかが剥がれたようだった。私は軽くなり、シェラフのなかに空洞が出来た。振り返ると、小さな灯のなかで立ち上がる広い腰と白い臀が見え、彼女はゆっくりとした足取りで闇のなかに入って言った。どこかでかすかな金属の軋む音がし、爽やかな微風が流れ込んできて、あちらこちらに鮮やかに縞をつくった。しかし、彼女が身体を開いた瞬間に発生した、ざわめくような林のようなものは、みるみるうちに部屋いっぱいに広がり、風に消されなかった。彼女はそのなかを酒瓶を提げてゆっくりと横切っていき、私の横に佇むと、空っぽのグラスに赤ワインを注いだ。
 「また、行くつもりね」
 「……」
 「私から逃げ出したいことがひとつね」
 「……」
 「生き生きしてきたわ」
 「……」
 ひっそりと呟いたが、抉り立てるような痛烈さがあった。灯が乳房までしか届かず、淡い桃色の霞のような絹漉しに、胴と、臍と、陰毛が仄かに見え、酒瓶の首をしっかりと握った手が見えるきりだが、私は彼女の獣のような敏感さにひしがれていた。伸び上がるか、振り仰ぐかして、闇のなかに彼女の眼を探すのが恐ろしかった。それは誤解だと主張する気力がどこにもなかった。無慈悲な完璧さで、彼女は正確だった。私が適当な言い訳を繕っているあいだに、彼女はとっくに先まわりして、横たわって、息を潜め、ただ待っていたようだった。最後に私が愚図ついたので、彼女はちょっと手を伸ばして押しやった。それでよかったのだ。恥ずかしさが泥のように広がってきて、穴から溢れ出した。
 「10年前のことをお話しして。今まであなたが話そうとしなかったから、こちらも聞こうとはしなかったけれど、阿片窟じゃなくて、どうだったの? まずそれからだわ。ただ聞いておきたいだけ。それだけよ。気にすることはないわ。こうと知ったら、遠慮するんじゃなかった」
 彼女はゆっくりと干し草のベッドの淵をまわって、そっとシェラフに肩から潜り込んだが、私の身体からはしなやかに遠ざかり、自分の身体のつくった窪みに音もなく嵌まり込んで、1ミリとはみ出さなかった。娼婦の眼をしていた。
 朝、眼が覚めると近くのカフェへ食事をしに行った。ゼラニウムの花影に座り、卵を割ったり、パンにバラのジャムを塗ったりしながら、ゆっくりと食事する。新聞や雑誌を読んでいて、ときどき手を止め、しばらくしてからまた動かす。凄惨は顔をこちらに向けているようであったり、横顔を見せているようでもあったりするが、眼も見えず、傷口も見えない。それはひと切れのパンを越えてくることがない。観念が次から次へと浮かんでくるが、なぶっているうちに、どれもこれも、たちまち肉が流れ、汁が零れて、抜け殻となってしまう。指を伸ばすまでもない。ちょっと眺めているうちに、眼のしたでそうなる。
 彼女はゆっくりとした手つきでパンを割り、バターやジャムを塗って口に運ぶ。頬がもぐもぐと動き、歯がパンの皮を砕く音がくぐもって漏れてくる。
 部屋に戻ると、私は窓を開けてから椅子に腰を降ろす。彼女は干し草のベッドに横たわって英字新聞を読んだりしているが、やがて投げ出して、話をはじめる。ベッドから出てきて、たわわな乳房のしたに両腕を組み、荒涼とした暗い壁にもたれて、話しはじめる。ひそひそした声で、憎むでもなく、罵るでもなく、しかし執拗な気配で、話をはじめるのだった。初めから匂っていたわ、と彼女は言うのだった。あなたは愚直な人だわ。愚直で不器用なのよ。知らなかったわ。自分を避けることが出来ないのよ。これまでずっとふたりきりで、あなたは外出しようともせず、散歩にも行かなかった。寝ては食べ、食べては寝て、私が旅に出ようと言って初めてしぶしぶ付き合ってくれる程度だった。だけど、ここへ来て、追悼コンサートの記事を私が見つけてから、どうでしょう。ひとりで飛び出して行って、それも私のいないあいだに。匂うのは、あなたのその態度よ。生き生きして、充実してたの。子供みたいにヒリヒリしてるの。そこなのよ。あなた、私と寝ながら、お尻越しになにか来ないかと、ただ待ってただけなんじゃないの。私は乗り換えの駅の食堂みたいなもので、次の列車が来るまでの時間つぶしじゃなかったかしら。あなたのことだ。プンプン匂うわ。吐いてしまいなさい。それは違う、と私が言う。それはまったくの誤解だ。オレは追悼コンサートに虹なんか見ちゃいない。30万人集まろうと40万人集まろうと、そんなことでなにかが変わると思ってるほどおめでたくはない。オレはそういうところからイヤになって逃げ出したんだからね。そうかもしれない、と彼女が言う。どうやらそうらしいわね。でも、だったらなぜ、あなたは飛び出したりしたの。あなたは絶望したくせに、飢えてるのよ。カードが一枚足りない、足りないと、言い続けたのよ。それで私と寝てみたり、旅をしてみたり、いろいろしたんだけれど、どうしても埋まらないのよ。そこへ、突然、エースが降ってきて、パッと手も見ずに、あなたは掴んじゃった。もう、それから離れられないの。私は駅の食堂。ピッツァ・スタンドだったのよ。初めからあなたは私のこと、愛してなんかいなかったの。いつか申し上げたことだけれど、女どころか、あなたは自分すら愛していないのよ。だから危険を冒しちゃうの。空虚な冒険家なのよ。自分の空虚を埋めるためならなんでもするし、どこへでも行く。あなたは観念を弄っているだけじゃ済まされないの。ベッドのなかでおならにむせんでいるのがイヤなのよ。だけど、なにをしていいのかわからない。そこで、他人の情熱を借りようとするの。バクは悪い夢を食べるそうだけれど、あなたは他人の情熱を食べようとするの。そのためにはなんだってやっちゃう。愚直なまでにとことん突っ込んじゃうの。それは敬服のほかないので、氷の焔だと申し上げておくわ。私と何度寝たって、あなたは事実としか寝てないのよ。そうでない身振りをしようとするけれど、すぐ醒めちゃう。あなた、なにをしようと言うの? またギターを物置から引っ張り出してくるの? 阿片を吸いたいの? 阿片はもう一度やってもいいな、と私が言う。オレはなんの当事者でもない。ここでも、あそこでも、どこへ行っても当事者じゃない。非当事者であるくせに、当事者であるかのような振る舞いは出来ない。したい人はすればいいが、オレには出来ないね。しかし、なにを歌う? 当事者と非当事者の隔たりのすごさというものを、つくづくと悟らされたね。だから、ここでもあそこでも、オレのいる位置は、東でも西でもない。オレは東が見えるなら東を見る。西が見えるなら西を見る。空も見るし、樹も眺める。地べたに這っていなければ掴めない現実もあるだろうし、摩天楼のビルの頂上から見える現実もあるだろう。どちらもそれを唯一の本質だと言いたがる。けれど、オレには唯一の本質など、ないね。眼に触れるもの、ことごとく本質だね。もし生き延びられて、オレがなにかを歌ったら、どちらの側もめいめいに都合のいい部分だけを抜き取って、自分たちの正しさの証明に使うだろうね。キミの言うとおりだよ。使えないとわかれば、嘲笑、罵倒、または黙殺だね。使えるあいだはどちらかが、あるいは両方から、歓迎してもらえるだろうが、あとはポイだな。本質はひとつしかないと叫んでいるくせに、困ると、色のついていない第三者を証人に使いたがるというのは、いい気なもんだな。遠い国の政治問題ほどキレイに苦悩出来るのが魅力だと、いつかキミは言ったが、正確だな。殺すか、殺されるかの覚悟がなかったら、なんでも語れるし、論じられるよ。歌うことも出来るし、叫ぶことも出来る。どうだっていいわ、そんなこと、と彼女が言う。女が愛せないなら、それでもいいの。そのままでいいの。今のままで、もう1ヶ月、私と一緒にいて。いてよ。そのあと、どこへでもおいでなさい。私にも肚を決めるだけの時間がほしいのよ。これじゃ、あんまりよ。駅の食堂だわ。スナックだわよ。もうちょっと我慢して、私といて。こんなこと言うなんて、私も落ちぶれたもんだわ。イヤな女だと思われるのがわかっているのにさ。言われなくてもわかるの。逃げたいのなら、はっきり言ってしまいなさいよ。もうおまえがハナについたのさ、バイバイって、さ。捨てられるのは、私、馴れてるの。こちらも捨てたしね。潮先が変わっただけのことじゃない。それがあまりにも不意すぎたってわけよ。ただ、それだけのことだわ。
 彼女は頬が落ちて、顔が蒼ざめ、魚のような眼をしていた。輝きながら、虚ろで、爛々としつつ、愕然としているようでもあった。香ばしい肉が消えた。黄昏の牧草地で拍手して踊っていた娘が消えた。堂々とした主婦も消えた。不意に、彼女は10歳も老けてしまい、険しい陰惨と、嘲るような冷酷のなかに横たわっていた。自身の無類の正確さに大破されながら、それと気づいていないような様子であった。すみずみまで明晰でありながら、同時に朦朧をもきわめていた。彼女が、にわかにかさばって感じられた。彼女は膨れ上がって、淵からはみ出し、部屋いっぱいに広がり、隙間という隙間をぎっしりと満たしてしまった。彼女は干し草のベッドから降りて、ノロノロと部屋を歩き、顔を洗ったり、髪を撫でたりしながら、またベッドに戻った。あぐらをかいて足の裏の魚の目をしげしげ眺め、新聞をつまらなさそうに拾って、ベッドに倒れ、ファッションのページを読みはじめた。
 眼を上げることが出来ないので、私は干し草の目を数えたり眺めたりするのに注意を注いだりしていた。私は居心地が悪くて、息苦しく、嫌悪がいたるところに漂うのを感じた。彼女の指摘はことごとく正確で、抉り立てるような容赦のなさがあった。まるで無影灯のしたに曝されているようであった。眼をしばたくことも出来ず、手で覆うことも出来ず、ただ、私は立ちすくんでいた。彼女がニュースを読んで聞かせてくれたとき、私は隠されていた主題が不意に出現したように感じたのではなかったか。待ち続けていたものが、突然、かたちになったように感じたのではなかったか。昂揚を覚えたのは、瞬間、出発出来ると感じたためではなかっただろうか。逃げ出せると感じたのではなかったか。
 彼女は新聞を置いて、ベッドから起き、
 「ドラッグなの? 音楽なの? 女なの?」
 と、訊いた。
 じろりと私を眺め、
 「隠してないで、言ってしまいなさいよ」
 しばらくぐずぐずしてから、魚の目をまた眺め、吐息をついてベッドに倒れた。そして広い背をこちらに向け、顔を見せないで、独り言にしては高い声で、
 「あんなに上手くいっていたのに、上手くいってると思ってたのに。私としたことが、ついつい深入りしてしまったんだ。バカな女だわ。信じちゃったのよ。お笑い種よ。流行歌だわ。駅の食堂並みだと、爪の先ほども知らなかった。鈍くなったもんだ。ひと夏、棒に降っちゃった。こうとわかってたら、結婚でもすればよかった」
 激しく舌打ちする気配がした。
 私は自身をすら愛していないのかもしれない。彼女の言うとおりだ。自己愛を通して女を愛することも出来ないのだ。私は自身に怯え、ひしがれている。なにかを構築するよりは、捨てることで自身に憑かれている。忘我になるということがない以上、逃避などはあり得ないと、私は彼女に言ったが、旅がなくて通過があるだけのこの時代には、出発は廃語でしかあり得ない。また1ヶ月、瞬間と剥離にびくつく無気力な内乱を抱えて、彼女と暮らしていかなければならないのだろうか。干し草のベッドに呑み込まれて、じりじりと肥りつつ、葉に覆われ、蔦を生やし、根を伸ばして、体液を乾いた粉に塗れさせなければならないのだろうか。私と重なり合った地帯では、彼女は一瞥で全地形を把握してしまう老獪な漁師だった。ほとんど指一本上げる手間もかけず、彼女は風のそよぎだけで私を嗅ぎつけ、薮から突き出し、崖っぷちに追いつめてしまった。しかし、自身と重なり合わない地帯については、なにひとつ感知出来ないようだ。私を引きずり込もうとしている力は、過去から来るが、その経験を私は話したにもかかわらず、木の葉一枚のそよぎも伝えられなかったように思う。その記憶もまた、歳月のうちに、原形をとどめないまでに修正してしまったはずだと思われるが、あるとき、膚に浮かび上がってくるものを、浮かび上がってくるままに言葉に換える努力を、私はしたはずだった。彼女は聞き終わっても、なにも言わなかった。頬にも、眼にも、新しいものはなかった。小さな読書灯のなかに、裸のずっしりとした腕を差し出して、黙っていた。私は空き瓶に言葉を吹き込んで、栓もしないでそれを海へ投げ出したような気がした。事実だけを列挙するにしても、それはお喋りに過ぎない。お喋りはお喋りである。重ねれば重ねるだけ、いよいよそれは遠ざかり、朦朧となった。言葉は皆、虫食いになっていった。指紋で汚れた孤独が、おぼろに胸や肩のところに広がっていた。話しながら嫌悪が込み上げてきて、私はイライラし、何度も口を閉ざしてしまいたくなった。なによりも、それは何十回でも何百回でも言葉を換え、他人に話せるものになっている。酒の肴に出来るのだ。経験は非情な独立だが、抜け殻は、なぶればなぶるだけ粉末になるばかりである。地図にない島の周りを、潮に乗せられるまま旋回し続け、岸や森や河や渚を細密に眺めながら、一歩も近づけないでいるような気がした。
 ふと、彼女が起き上がる。干し草のベッドから両足を垂らし、病み上がりのように背を丸めて、顎を出し、陰険な小声で訊く。
 「あなたのお友だちなんか、どうしてるの?」
 「近頃、滅多に会わない」
 「みんな家庭に収まって、退屈だけれどもしっかり暮らしているのよ。あなたみたいにキョトキョトしてないわよ。あなたは軽蔑しているらしいけれど、これだって大変なことなのよ。貝が真珠をくるみとるようなことなのよ」
 「とんでもない。軽蔑なんかしていない。それも誤解だね。ただ、オレは我慢が出来ないだけなんだ。じっとしていると、頭から腐っていきそうな気がしてくる。毎日をどうやってうっちゃるか。オレはそれだけで精一杯なんだ。弱いんだよ。虚弱なんだ」
 「いい歳をして子供っぽいことを言ってるわ。弁解にしても三流だわよ。堕ちたものね。こんなところで女にいじめられて、ひとこと、バイバイが言えないばかりにぐずぐずしていたりで、いい気味だわ。バイバイって、言わせないわよ。いつまでもそこでそうやってなさい」
 「大学に残ったのは、非常勤の講師をやってる。父親の会社を継いだのは専務だか常務だかになってる。車のセールスをやってるのもいるよ。みんな太ったね。顔のかたちがすっかり変わってしまって、見分けもつかないよ。会えば仕事の愚痴かゴルフの話だね。あとは子供の話だ。これをはじめると生き生きしてくるわね。無限に語れるらしいね」
 「それであなたは腐るのがイヤなばっかりに、独楽みたいに回転し続けているってわけね。まわっているあいだは立っていられる。止まったら倒れる。誰に頼まれたわけでもないのに、機関銃の弾が飛び交うようなところへ行って、歌って、ゴミ箱の陰で犬死にして、それで本望だってわけ。ご苦労さま、だわ。いい気味だわ」
 髪を白い指でなぶっていた彼女が、顔をこちらに向けた。顔一面が髪で覆われ、そのなかで眼が爛々と輝き、噛みしめたくちびるに酷薄と冷嘲がまざまざと浮かんでいた。蛇が怒って頭をもたげたようであった。叫ばれるか。襲われるか。私は彼女を凝視した。彼女は淵まで来て、身を乗り出した。しかし、どうしてか、次の瞬間、彼女は踵を返した。彼女は眼を髪に覆われたまま、ベッドへ荷物のように転がった。




 私も分離している。自身を密封出来ない。組み込むことも結びつけることも、固定することも出来ない。完成もしないし、解すことも出来ない。それは眼のしたで蝶か花のように起きたり、倒れたりするが、ある決意を集めることが出来ない。晩夏の気怠い微風と、海鳴りが伝わる壁のなかで、ゴミ箱の陰の死にどう備えていいかわからない。朦朧のままでは、ここから出ていけない。座り込んで、チャイでぽってりと火照って、頭から腐っていく。干し草のベッドに呑み込まれ、シェラフの目に縫い込まれ、彼女を抱くことも出来なくなる。本や新聞やフォークを取り上げるためだけに、手を使う。繊維で膨張した芋虫になる。独り言しか言わない芋虫になる。ゲリラに混じって密入国し、弾丸が飛んでくる最前線で、三線をかき鳴らして歌った。道端で、死んで腐敗に腐敗を重ねて地虫の棲み家となった死体の群れを見た。野ネズミを洗面器で煮て食べている子供を見た。彼と彼女がたしかに結ばれる夢を見た。独立した自由な精神の持ち主が、ワイヤレスに、ダイレクトにメイクラブしている夢を見た。ラスタマンに成長したルードボーイが、対立するふたつの政党の党首を同時にステージに上げて、握手させている夢を見た。夢ばっかりみとったらアカンど、とどやしつけた高校教師を睨み返していた夢を見た。天に吐いた唾が自身に返ってくる夢を見た。墓に唾を吐くべきか、花を盛るべきか思案している自身を見た。ステージで100万の愛を浴びた女が、ひとりで孤独に家へ帰っていく夢を見た。なにから決意を集めればいいかわからない。あそこでは、蟻のようになにからなにまで集めることが出来たが、今の私は、言わば、下腹が柔らかくなっている。美食と好色と役立たずの内省で、グニャグニャになっている。ハイエナのように食い漁って、渡り歩いてきた無数の光景が、次々と浮かんできて、どこか1ヶ所を痛烈に抉り立てるか、骨に錆ついているかして、同時に、私を駆り立てにかかったり、静粛に誘ったりする。バカな話だ。この期に及んでも、他人の言葉に束縛される。彼女の言うとおりだ。私はベッドに顎まで溺れて、おならにむせている。
 ときどき、恐怖が、広い、冷たい、濡れた背をもたげて、突き上げかかってくる。身体を強張らせて眺めていると、やがて沈んでいく。やむを得ず、私は、地下道、病院の遺体慰安室、爆破された酒場、ジャングルで目撃した大蛇、砂漠で出くわしたサソリ、臨終、小さな死、ステージが終わったあとの荒涼とした会場、生きているというよりも肉の塊と表現したくなる瀕死の肉体などを思い出そうとするが、どれもおぼろで、役に立たない。それは口で描写すると、ひょっとした瞬間に彼女を怯えさせることが出来るかもしれないが、抜け殻であることを私は感じすぎている。彼女が強張っている背のうしろで、私は弛むということになる。おなじ事物を、今、ここで目撃したら、私は声を呑んでしまうに違いない。死はいつでもぎこちなくて、痛烈で、新鮮であり、野暮で、みすぼらしい。異物が侵入してくると、私は強張って黙り込んだり、そのあとで強張りを解す気配を見せつつ笑ったり、おなじ状態にある同席の人々をほぐすために、一撃の声を出して笑ってみたり、異物の周辺を畏怖を込めて語ってみたり、挨拶としてそれを歌ってみたり、どう歌うかに心を煩わせたり、無数の、小さな、無様な動作と言葉と歌で、異物を消化することに努めようとする。しかし、生きているものは、絶え間なく動くのだ。その流れが釘のように刺さり、錆びていきながらも、異物もまた生物のように流転していく。お喋りは梅毒である。内省もまた梅毒だ。今の私には、平和が梅毒だ。それは間探りようもなく、逃げようもないのに、私をひっそりとしぶとい気配で腐らせにかかり、椅子へ座り込ませてしまう。萎えて柔らかくなった下腹に脂がしっとりと盛り上がり、はみ出してくるのを覚えつつ、ベッドにかさばった彼女の身体を眺めている。

 トイレに行くにはベッドから出て靴を足に引っかけ、ドアを開けて、長く暗い廊下を行かねばならない。廊下もまた古風なので天井が高く、壁の胸あたりから暗くなって、振り向いて仰いでも天井は見えない。便器も浴槽も、頑強で、大きく、太く、厚く、傷だらけである。彼女が帰ってきて、部屋に入り、いくらか和らいだ口調で、鏡に向かって、
 「今、私、考えたんだけどね。あなたがそれだけいろんな経験をしたのなら、たいていのことはバカバカしくなって、まともに相手にする気になれなくなったんじゃないかしら。だから、ああして、昼寝ばかりしていたんじゃないかしら。それにイライラした私が、バカだったんじゃないかしら。そう思えたわ。ふと、そう思ったの。お風呂のお湯の出が悪くて、ちっとも温もれなかった」
 晴朗のような、媚びるような、詫びるような柔らかさで彼女はそう言ったが、ベッドに入っていく横顔を見ていると、険しく肉を削ぎ落とされた顔が、口を噛みしめ、眼のしたについぞ見たことのなかった翳りが出来ている。枕を少し手で叩いてかたちを直し、再び彼女は黙りこくってシェラフのなかに沈み込んだ。
 私は思い出そうと努めた。それらは現れもしたし、没しもした。回想という不断の指紋まみれの仕事のために、それらは彼女を越えてくることが出来ないほど損傷されてしまい、眼も口も見分けがつかなくなっている。しかも、それらは、呼び起こされて、ついそこまでやって来はしたものの、霧に遮られて立ち止まったり、佇んだり、呆然とした顔つきでいる気配であった。手元まで呼び寄せようとして、私が躍起になって濃くなろうとすればするだけ、それらは稀薄になり、おぼろになり、見えなくなった。微風や壁に浸透されていたくないばかりに、私は夜と馴染んで、その力を借りつつ、自身に堅い殻を被せようとするのだが、そうすればするだけ、剥かれた貝の肉になるような感触があった。微風にも、明滅する壁にも、森の苔にも、彼女の密やかだが聞こえよがしと感じられる吐息の音にも、私は浸透されたくなかった。しかし、恐怖はそうして正面から追っていくと、人形だけを残してどこかへ来てしまうのだが、なにげない瞬間に立ち戻って、容赦なく襲いかかってきた。ヒビの、黄色く、大きく広がった便器に小便を注ぎ込んでいる最中とか、暗い廊下をゆっくりと壁を伝って歩いているときとか、それは不意に現れ、一瞬で私を砕き、思わず心臓が止まりそうになるようなものを闇のなかに見せて、去っていった。
 「わかった。わかったの。女はいつだって泣かなきゃならないのね。私、よく考えたら、いつだってそうだった。いつも、泣かされてばかりだ。あなたは冷酷については馴れてらっしゃるけれど、優しさについては不器用そのものよ。もう、追及しないわ。どこへでもいらっしゃい」
 諦めでもなく、冷嘲でもない。ある透明な自由さで彼女はそう呟き、かすかに眉をしかめた。優しい口調だったが、私には墜落が起こった。突然、プールの跳躍台の先端に立たされて、うしろから眺められているような気がした。求めていたものが得られたはずなのに、昂揚よりは下降しかなかった。彼女は異域を背後に持っていて、いつそこへ滑り込むかも知れず、すでに半身を犯されているかもしれないのに、暗い、澄んだ瞳でじっと灰皿を凝視し、しかも、それに囚われてはなかった。彼女の大きな羽の影に身体を隠しながら、顔だけを出して、躍起になっているだけのことではなかったか。ふと、そう思うと、私は崩れかかるものを覚えた。彼女は半ば狂いながらも堂々としているのに、私は混乱そのままで正気を装うことに腐心している。安堵しながらも、不安が湧き上がってきた。ワクワクするような、肚にこたえる孤独が、音もなく襲ってきた。死がテーブルの端にやって来て、背とも顔ともつかぬものを見せて佇んでいる。すぐそこに来ている。手を伸ばせば触れられそうである。かたちが見えそうである。
 彼女が遠くで、
 「お手紙をちょうだいね」
 呟いた。
 まだ遅くはない。恥ずかしくもない。手の込んだイタズラだったことにして、解消してしまってもいいのだ、旅を続ければいいのだ。単純で、剥き出しで、巨大なその思いが胸に来て、座り込んだ。絶対自由主義者であるらしい私が、憎悪や欲望の根を求めていた。いくらかずつは真実であることが感じられたが、だと言っても、全部を合わせても、私を覆うことは出来そうになかった。ことごとく壮大で、稀薄すぎ、言葉でありすぎて、身体を委ねることも出来ず、踏み板となりそうにもなかった。死はいつもそこに来ているのだが、私がここにいない。私は虫と人のあいだを漂っている。私は決意をしていない。私は私にまだ追いついていない。決意も出来ず、追いつくことも出来ず、いつでも引き返せるのだと思いつつ、おぼろなままで、出ていく。中世の僧はテーブルに頭蓋骨を置いて、日夜眺めて暮らしていたらしいが、私は生暖かい亜熱帯の土のなかで腐っていく自身を、蒼白い鑞状からはじまって灰色の粉になるまでの過程を、想像する。
 「小さな公園を見つけたの。行ってみない?」
 「それより、海に行きたいな」
 「海?」
 「問題の海だよ」
 「いいわ」
 彼女は淡い顔をして立ち上がった。









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