解説







 みっしりと、覆われている。
 心も言葉も、すべて硬いもの、かたちあるものが犯される。眼もなく、耳もない一頭の巨大な軟体動物が蠢いているのである。それは膨れ上がって部屋いっぱいになり、壁を這いまわり、夜空までを満たしている。数知れぬ足を動かして、暑熱は窓のあたりをひそひそと歩き、あらゆるものに濁った指紋を記してまわる。湿気を帯びた床を犯し、壁を犯し、暗がりだが冷んやりとする夜の空気を犯し、それはやがて、私の手を犯し、足を犯し、口も、眼も、耳も、鼻も犯しにかかった。それはねっとりと貼りついて、私の身体を蝕んでいく。私はぽってりとした大きな海綿となってベッドの淵に凭れ、水を滲んでいる。私は、おそらく、深緑の葉に漂白された粉をまぶして、それを吸っていた。さっきまでは、隣りで軽くいびきを立てて寝ている女と、なにか粘り気のある液体のようなものを舐めながら、白蟻が樹を食むようにして、気怠い時間をつぶしていた。私の三半規管は不調を訴え、頭だけどっぷりと水にでも浸かっているような感覚となり、耳元では輪ゴムを噛んでいるような味気ない音が鳴っている。見えているものの一切、たとえば、壁が鳴いていたり、天井がグニャグニャになっていたりで、明らかに現実ではない。これは現実ではないと判るくらいに醒めてはいるのだけれど、枕元にあるものが、スタンドなのかペンギンなのか、いっこうに判然としない。どうしてもペンギンに思えて仕方がないのだけれど、ま、いいかと呟きながら、きっと私は惚けたようにケタケタと笑っている。
 もう、行かないと……。
 ドスンッ。身体を起こそうとしたら、ジェットコースターに乗って急降下したみたいに、私は硬い床に尻もちをついた。
 「うるさいわね、なにごとなの?」
 今の物音で、女は眼を覚ましたようだった。顔を向けるのが面倒なのか、背を見せたまま、女は気怠そうに言った。
 「行くんだっ!」
 私の語気は荒かった。自身の情緒が不安定だったのは自覚するのだけれど、それをどうにかするだけの意思がない。
 「そう? 行くのなら、お金、置いてってよね」
 私は小さく舌打ちした。ラリっていても、金のことだけはしっかりと覚えている。記憶喪失のふりをしているかそうでないかを判別するには、金を見せればいい、とどこかで聞いたことがあったのを思い出した。人間は、記憶を失っても金だけは忘れないらしい。記憶という筍の皮を剥いていくと、最後の芯のところに金が残るのだそうだ。記憶の井戸、深層心理の澱には、貨幣が泥に塗れている。清々しい真理だ。
 私は財布から適当に紙幣を数枚抜き出して、無造作にベッドのうえに放り投げた。この女がいったいいくらなのかも、そして私が財布から抜き出した金がいったいいくらなのかも、自身で、なにも判っていなかった。女は相変わらず背中を見せたまま、腕だけを後ろに伸ばして、横着に金を手繰り寄せていた。しかし、女こそ、それをただ単純に金だとしか判っていないはずだと察せられた。
 私は、黄緑のカマキリを上着と決め込んで、シャツの上からはおった。きっと、それに違いなかった。
 チャオチャオ!
 私は女に別れを言って、手を振った。女はけっして振り返ることはなかったが、なにか言葉にならない唸り声を返していた。




 まだ霞が立ち込めている早朝だった。私は駅に出向いた。虚ろで冷たく、薄暗い街角のあちらこちらには、夜が名残惜しそうに去り切れずに這っていた。駅の構内には、深い緑色の大きな影がどっぷりと横たえ、食堂にはピンクのネオンサインが輝いているけれど、壁は寒々としていて、夜と朝がひっそりとせめぎあっていた。女と男の横顔は、コーヒーカップの縁で皺に閉じ込められているか、吐く白い息に掻き消されるかしている。食堂の入口近くでは、何人もの旅の人がバックパックを枕にして軽い眠りを楽しんでいる。しかし、風に晒されっぱなしの長髪や首筋からは、足の指の垢のような、ねっとりとした匂いが立ち上がり、旅に託していたあらゆる希望の光は、すっかり色褪せて見えた。私は席をとると、火傷しそうなほど熱く沸かしたチャイを注文した。数種の香辛料を仕込んだ熱くコクのあるチャイの滴が、香りを立てながら、くたびれて柔らかくなった腸の皺に沁みていくと、一滴一滴、花が開くようだった。澱んだ疲労のしたで、期待が冬眠から目覚めたようにもぞもぞと蠢きはじめた。それは急速にチャイと混じり合って、冒されたものが浄化されていく様が、たしかな感触で判った。チャイは、身体よりも精神に即効力があった。私は、覚醒してきた。
 彼女は寝台車で来るのだが……。よく眠れただろうか。
 10年になる。
 かれこれ、10年になる。朦朧としている。捉えようがない。私は人混みのなかにいるのに、繁茂しかかっている。一昨日、隣りの国の小さな首府から彼女が電報を打ってくるまでは、回想がしっかりしていた。
 ベッドのなかで毛布にくるまって、声や、眼差しや、髪の跳ね具合や、肌触りを並べ、何時間もそれらを置き換えたり、削除したり、切り貼りしたりして過ごした。通り過ぎる女の顔が、全部ひとつに見えた。それはしなやかな身体を丸めて、全身を小刻みに震わせて笑っていたり、薄いくちびるを噛みしめて眼を伏せたり、眼に入りそうな前髪を払ったりしていた。けれど今、チャイの甘い香りと煙草のいがらっぽい霧のなかでは、別れた日の遠景が小さく見えるだけであった。

 とある郊外の駅、とある夜の8時半。その日までに何度か彼女は食事や情事のあとで日本を捨てる決心を打ち明けたのだが、暗示のように仄めかすだけだった。決意として語らなかったし、計画の細部も知らさなかった。話そうにも話しようがなくて途方に暮れていたらしいのだと、あとになって外国から手紙が来て察せられた。それまでの、あらゆる場面とおなじように、私は、なにひとつ言わなかった。耳をダンボのようにして、黙して語らず、横たわっているきりだった。語ろうとしないことや、語りたがらないでいることに、しいて私は立ち入らなかった。私は、責任の煩わしさに耐え切れない自身の脆弱さが不安なために、あまりに自身に執着しすぎる心を、ときに悔やみ、厭いながらも、頭をそこからもたげることが出来ないでいた。
 汗にまみれて全身で発光しながらのしかかってくる広大で白い胸と争いながら、私は彼女の肩越しに遥か遠くの人声を聞いていた。彼女が絶望から力を抜き出して、その無制限さに怯え切っているのだと、私は察することが出来なかった。ただ、牡の誇りで呼応することにのみ耽り、自身を確認することに腐心していた。雪崩落ちる髪のなかで彼女が切れ切れに叫び、夜半の子供のように、口のなかで転成し切らない言葉を持て余して囁く声を、私は完全に誤解していた。そうと知ったのは、彼女が声を実践して、ほとんど着のみ着ままで日本を去ったと判ってからだった。手紙を手にして、私は強かに打ちつけられた。
 しかし、どこかで、もうこれで身辺に苦しむ彼女の眼や、声や、体重から解放されたことを歓迎していた。彼女の果敢さに打たれたのは、荷が軽くなった心の戯れではないか。その後、何度も、ひとりで、一緒に訪れて冗談や議論に耽った場所へ行き、みっともなくも狼狽している私なのだが、あの寂しさは、疾々しさのコインと表裏一体ではなかっただろうか。手のなかにあるうちは玩具だが、失われたと判ると初めてそれを宝石と感じ、身を焦がす。そうした子供にも似た心に、私はしばらく囚われていた。舌が虚ろなのに心は感傷にある、というような食事を、ひとりで何度も重ねた。
 その後、彼女はいくつかの国を渡り歩き、国を変えるたびに私に手紙を寄越した。私もやはり国を渡り歩き、国を変えたが、そのたびに私はきっと彼女に連絡先を報らせた。彼女は手紙に、こう書いた。とりあえずは、あてどなく広場や街頭に立って一人芝居をしていたこと。古式の様式美に則った舞踏を演じたときには、拍手喝采を浴びて思わぬ大金のおひねりがもらえたこと。そうかと思えば、キャバレーの煙草売りをしていることや、ボランティアの一団に混じって井戸を掘っていること。前衛舞台を志す小さな劇団の一員に加わったこと。ギリシャ系のアメリカ人と恋をしていることなどを、何枚もの便箋によって、あるいは何枚かの葉書によって、私は報らされた。文面から察するに、彼女は不断の不屈で、無敵で、そして好奇心の触れるままに前進し、国から国、街から街を、性急に生を貪ることに夢中になっていた。
 日本の社会の前衛舞台や舞踏への理解のなさや、売れるための努力をまるっきり放棄してそれが正しいと信じている内部への憤りや、イメージしていることが上手く表現出来なくて悩んでいること。日本にいるとき、私と顔を合わせるたびに痛嘆し、罵倒したそれらのことについて、彼女はひとことも手紙で触れようとせず、理想的な拠り所をようやく発見したことに専ら熱中し、戯けたり、小躍りしているふうに、私には読まれた。私は手紙を受け取り、針の穴に糸を通すようにして、一字一句を読んでいった。しかし、私は私で捉えようのない熱に浮かされていて、十年間の大半を、外国へ出かけ、スナフキンを気取って、自身を追い立てて歩くことに夢中になっていた。彼女からの手紙のうちの何通かは外国の宿で受け取ったのだけれど、読んだあとには、かねてからの約束に従って、切れ切れに裂いて、きっと川へ捨てた。ぼろぼろになった魂のかけらを拾い集めているか、頭上にどうしようもなく存在する熱球に打ちのめされているかしていることがしばしばだったので、彼女が読まれたいと思っているふうには、おそらく私には読めなかった。それでいて、私は彼女に返事らしきものを書いて送った。その場で嫉妬に揺らめいたとしても、私にはなにも出来ないし、その資格もないのだということを、私は知っていたらしく、他愛もないことばかりを書いて送った。




 到着時刻がやって来た。まだ、夜の最後裔が残るプラットホームに、私は出てみた。心地よい澄んだ空気が、私の全身をひと刷けした。彼女は隣りの国の小さな首府から、ほとんどまる一昼夜に近い時間を費やしてやって来るはずだった。もっともそれは、列車が人員、機関ともに真面目に仕事をし、なおかつ神のご加護があってアクシデントがない場合にかぎられた。幸福なことに、と駅員は前置きしてから、列車は順調にこちらに向かっているとの報告を受けている、と言った。その言葉を無防備に受け入れるには、私はこの国の列車事情にも人柄にも精通しすぎていたが、信じ難いことに、列車は間もなくその勇姿を遠景のなかに現した。
 悠久流れる朝の空気を切り裂くように、甲高い汽笛をひとつ吐いて、列車は停まった。コンプレッサーのけたたましい音が止んでドアが開くと、身体の倍以上は優にあると思われる荷物を肩から背負った人たちが、大勢降りてきた。彼も彼女も、老若男女問わず、その出で立ちは図ったように一様だった。この国では、まだ、旅をすることが、形勢逆転のための一発勝負であり、バカンスでもなんでもないことが如実に知れた。
 にわかに活気を獲得しつつある駅の構内で、彼女は立っていた。申し分なく、ぴったりとフィットした濃紺のレインコートに、鮮やかなエンジを基調としたスカーフを覗かせて、大振りのスーツケースを横に従えて、大股で仁王立ちしている彼女を、私は見つけることが出来た。その立ち姿の毅然さ、身のこなしのしなやかさ、視線のオクターブの高さ、彼女は彼女以外の何者でもないそれらの証拠を携えて、そこに立っていた。たとえ十年の年月分のなにかがそこに付加されているのだとしても、私には見間違えようもなかった。
 抗い切れないものが、私の胸の裡に込み上げてきた。かけよっていったのは、わたしのほうだった。赤く染まって小高い頬に髪が濡れてこびりついているけれど、眼は生き生きと輝き、微笑みが顔いっぱいに広がっていた。
 「手紙、届いた?」
 「届いたよ」
 「来てくれたのね」
 「あたりまえだ」
 両足をしっかりと踏みしめたまま、彼女は少し仰け反って私を見上げた。成熟し切って、肩も、腰も、すでに山の神のように逞しく深くなった彼女が、睫毛をほんの少し濡らして、
 「会えたわ、とうとう」
 激しかかるのを抑えて、
 「会えたわよ」
 と言った。
 「何年ぶりかしら」
 「10年、だね」
 「そうね」
 「かれこれ10年だよ」
 「そうね」
 「コンサートが終わったのさ」
 不意に彼女は高い声で笑い、
 「調律が狂いっぱなしの」
 と言った。
 深みのある色を湛えた構内を抜けると駅前広場に出るが、その縁に一軒の店が開いていたので入ることにした。店にはもうすでに朝の最前線がやって来ていて、テーブルとテーブルのあいだを疾風が迅速に駆けまわっていた。
 彼女はカフェ・オ・レと三日月パンを注文し、私はアンチョビのピッツァを注文した。強かな塩辛さがモッツァレラ・チーズの膜を破って、私の口と言わず鼻腔と言わず心地よく刺激した。カフェ・オ・レと三日月パンを彼女が別々に食べようとするので、少しずつちぎってカフェ・オ・レに浸して食べてもいいのだと教えた。彼女はおとなしくその通りにし、寝台車なのに一晩中音楽がかかっていてよく眠れないので車掌に不平を言い続けたこと、眠れないまま不眠症の女を演じるのにはなにがポイントなのかを考えてとうとう徹夜してしまったことなど、とりとめもなく話した。訴える相手をやっと見つけたことではしゃいでいるふうでもあったが、徹夜の憔悴でうなだれそうになっている気配でもあった。
 カフェ・オ・レを飲み干したあとで、彼女はカップを受け皿に伏せた。しばらくしてからそれを立てて、カップの底に残った澱をしげしげと眺める。
 「占ってあげるわ。私はなかなか上手いのよ。劇団の連中にもよく褒められたの。ジプシー直伝とはいかないけれど、評判はいいんだから。これはですね、ヤシの実、だな。双子のヤシの実、ですね。いったい、なんのことかしら」
 「なんだろうね」
 「待って、言ってあげるから」

 不意に、まるでつくったみたいに雨が音を立てて降りはじめた。ハンバーガーやサンドイッチの値段を白ペンキで描き殴った大きな窓の傍に座っていたのだけれど、雨は不乱に窓を叩き、舗道で白く跳ね、たちまち広場にいくつもの条をつくった。駅も広場も、なにもかもが一瞬にして溶けてしまった。四方八方から迫ってくる激しい雨音のなかで、ここは太平洋の小島のようにひっそりと取り残されてしまった。
 「よく降るわね。いくら夏でも異常だわ。私のところも毎日こうよ。今はどこへ行ってもおなじなの。イヤになるわね。朝に眼が覚めた途端、十も老けた気分になるわ」
 「去年もおなじだったね。毎日降ったよ。そのときも異常気象だと言ってた。しかし、こうも続くと異常とは呼べないね。むしろこれが常態だと言いたいくらいだな。洪水期に地球が差しかかってるんだと言われたなら、オレは信じるね」
 「洪水期」
 彼女はクスッと笑いながら、そう言って、
 「私こそ洪水期のように老けたかもしれなくてよ。いい年をして追いつけ追い越せでやって来たけれど、どうかしたはずみにがっくり来ることがあるの。外国でつんのめるのは、人格剥離が起こるのは、つらいわ。一日でも二日でも寝込んじゃって、ぼんやりしてるのよ。その日その日の運勢を、腕で見ることにしてるの。朝に眼が覚めると、こう、腕を伸ばして裏にしたり表にしたりするの。するとね、白磁みたいに白いなかに血が蒼く沈んで、透明に澄んだかんじがするときがあるの。そういう日は元気が出るわ。なにかいいことがありそうでね。コーヒー占いよりは頼りになるわよ。この十年、私は腕だけが頼りだったのよ」
 「むかしも、そう言ってたよ」
 「むかしはほかにもあったの。肘とか、肩とか、脚なんかもね。自慢だったのよ。だけど、もうダメ。腕しかないわ。よくわかってるの。これで槍でも持たせたらアマゾネスだって、悪口を言う男のコがいるの。憎ったらしいったらないわ。ひっぱたいてやろうかしらって思うんだけど、ふと、うなずいちゃったりして。だらしがないったらないわ」
 「オレはもっとひどいよ。腕すらないな。キミが羨ましいくらいだ。身体は崩れていくし、物覚えが悪くなっちゃって、眼も当てられない。朝からゴロゴロ寝てばかりだ。とめどなく眠れるな。一度、競走に出てみたいくらいだよ。どうしてこうも眠いのか」
 「励ましていただくのは嬉しいけれど、あなた、変わってないわよ。羨ましいわ。自信持っていいわよ。手紙ではもっとひどいことを想像してたんだけど、ホッとした。お腹も出てないようだし」
 「ナイフで削ってきたんだよ」
 「明るいところがつらいわ」
 「……?」
 「顔を見られたくないの」
 彼女は静かに、低く、言い捨てた。ちらっと私を見て、顔を伏せ、煙草に手を伸ばした。輝いていたさきほどまでの高揚が消え、逞しい深い肩に成熟が表れていた。聡明な眼に悲しみがあった。重そうな腕をゆっくりとテーブルに置いているところは鷹の嘴のように堂々としているが、苦々しげにカップを眺めているくちびるの脇や目尻には、見慣れない傷のようなものが表れていた。背けた彼女の眼に映った自分を、私はまざまざと読んだような気がした。膨張し、どこもかしこも擦り減って、溶け、崩れ、怯えまくっている男を、そこに見たと思った。彼女が刻まれたのなら、私は崩れてしまった。十年は、やはりあったのだ。不意に、圧倒的な気配が店のあちらこちらから立ち上がって、襲いかかってきた。
 「十年ぶりに会ったのよ。もう少し楽しい話がしたいわ」
 痛ましいだけだった彼女の顔に、晴れやかな微笑みがひろがった。彼女はテーブル越しに身体を乗り出させると、じっと私の顔を見つめ、いきなり眉を上げて眼を精一杯丸くしたり、今度は眉を寄せ、眼をくしゃくしゃに細めた。丸くしたり、細くしたり、吹き出しそうになりながら、それを繰り返した。
 「女優さんだ」
 そう言って、私は静かに笑った。
 部屋に入ると、彼女はスーツケースを隅っこに置き、煤けた灯のしたを歩きまわった。ドアのノブをひねったり、ベッドのスプリングを確かめたり、洗面所に入って水道栓を開閉したりして、旅馴れた熟練の作法をひとつひとつ披瀝していった。私の荷物がベッドのしたに押し込んだリュックひとつきりしかないと判ると、彼女は両手を腰にあてて、咽喉をそらし、若い声で高く笑った。指紋や、ニコチンや、葉っぱのかけらや、パン屑などが、一斉に揺さぶられた。すでに顔は変わっていて、あの繁茂はどこにも感じられなくなっていた。彼女が頼むので灯を消すと、穴だらけのカーテンに早朝の光が射して、蝶々が舞ったみたいになった。しばらくしてある気配に振り返ると、彼女は全裸になって佇んでいた。朧げな薄明かりのなかに、橋桁のように逞しい太腿が青磁の蒼白さで輝いている。彼女は、両手を差し交わしてたわわな乳房を抱え、掌で顔を覆い、低くおずおずと、
 「私、まだ見られる?」
 と、訊いた。
 指の隙間から、こちらを見ている。
 「もちろん。これからキレイになる季節じゃないか。おいで」
 優雅な山が動いた。彼女はついに堰を切って私に飛びつき、私は彼女をしっかりと受け止めた。受け止めはしたが、彼女に切られた堰は止まることなく、二人はそのまま勢いよくベッドに飛び込んだ。ベッドに飛び込むと、彼女は声を上げて転げまわった。朝の身体は果実のように冷たく引き締まり、肩、乳房、下腹、太腿、腕、すべてがそれぞれ独立した楽器のように生き生きと躍動し、ぶつかり合い、絡み付いてきた。広い胸を肺いっぱいに吸い込もうとすると、彼女は長い腕を上げて、激しく抱きしめようとした。冷たい、しっとりとした肌のうちから熱が放射され、それが爽やかな温風のように私の胸に染み透った。私は彼女の腕をゆっくりと解きほぐすと、ベッドに膝をついて身体を起こした。むかし、いつもそうしていたように、彼女の手をベルトに導いた。彼女はぶるぶる震えながら外そうとしたが、途中でやめてしまい、
 「待ってたの。待ってたの」
 と言って、倒れた。




 雨は際限なく演奏されるジャム・セッションのように降り続けた。私は、ずっと部屋にこもったままで過ごした。窓にカーテンを下ろしたままで、ベッドのなかで寝たり起きたりしていた。食品の買い出しは彼女がやった。彼女は4カ国語を自由に操れるようになっていたが、この国の言葉は出来ないので、新聞紙やノートの切れ端に簡単な店頭での挨拶や品物の単語を、私に訊いては書き留めていた。それを持って街に出かけ、雨のなかをパンプスで歩きまわって、欲しいものはきっと買ってきた。そして帰ってくるなり、きっと明細書を書いてテーブルの端に置いた。それは徹底的に几帳面、精密、緻密に書かれてあった。私はテーブルに金を無造作にばらまいたままにしていて、彼女が出かけるときに自由に持っていってくれと言ってあるのだが、彼女はきっと明細書を書いた。それが、束になる。
 「そんなに気を遣うなよ」
 「お金はお金よ。ハッキリしとかなくちゃ。いずれ決算して、フィフティ・フィフティにするの。お互い、貸借なしにしようと思ってるの。お金のことでこじれるのはイヤだもの。これまでにも、ずいぶんと苦しめられたのよ。ずいぶんとイヤな思いをした。だから、気にせずにはいられないの。それはそれ、これはこれ、よ。こうしたほうがいいのよ。友情が長続きするの。あなたに甘えたら、初めは可愛いけれど、いずれイヤがられるわ。わかってるの、私には、だから……」
 「初志貫徹か」
 「孤独な女の哀しい知恵だわよ」
 「観察と覚悟がいいと言ってるんだよ」
 「どうでしょうか」
 彼女は呟いて、明朗に微笑み、堂々とした仕草で明細書をテーブルに置き、Tシャツとスパッツに着替えた。鏡の前で直立不動の姿勢をとり、右脚をすっくと頭上まで伸ばした。右手で右脚を掴む。バレエの基本的な型をはじめた。イヤ、それはバレエの基本的な型のように見えたが、本来の高貴さ、気高さは失われ、むしろ人間の本性を剥き出しにした毒々しい奔放さが勝っていて、同じ型でありながらも異質なものを感じさせた。私の知らない10年間のあいだに、当然のことだが、彼女はなにかを獲得していたのだ。その姿勢のまま、彼女はいつまでも凝縮していた。
 窓とカーテンがあるとしても、部屋は途絶えることのないエンジンの鈍い唸りに取り囲まれ、ときどきその潮騒の彼方で鋭い歯軋りが起こる。雨が窓や壁を打ち、無数の控えめな、そして小さくはあるが、拳の気配が立ち込める。私はうとうとと眠っては目覚め、目覚めては眠った。そして、体表のどこかにポッと赤みを帯びると、彼女をベッドに誘った。いつ、どのようなときに誘っても、彼女はお茶にでも応じるかのように気軽に応じ、猫のように身体を丸めてベッドに忍び込む。そして、全身で応じて果てたあと、ときに低く苦笑のような声を漏らしながら、蒼白い顔を髪で隠したまま、手と腰で這うようにして鏡のまえへ寄っていくのだった。荒涼とした浴室に入って、剥げたコンクリートの壁の下でお互いの身体を洗い合ったり、しゃぶり合ったりするが、ベッドに戻ると、再び私は、抱いて、眠り、彼女は、抱いて、眠って、鏡のまえで演技をするのだった。数知れない声と、垢と、脂が染み込んでいるはずの古くて頑強な壁は、なにを叫んでも声を外に漏らす気配はなく、厚い石の防御材というよりは、なにかの厚くて柔らかい脂肪膜に保護された部屋のどこかに、私はいるらしかった。私は彼女の深い胸に鼻を埋め、なだらかで甘美な酔いを覚え、気怠いままに溶け、膨らむままに膨らんで、蔓延った。匂いが熟れすぎて、鼻腔や顔一面がみっしりとした花粉のようなものに覆われてくると、私は、再び彼女の手を手繰り寄せた。
 「私たちって、ちょっと変なんじゃない。こんなところでキャンプ生活して、ご馳走を食べにも出ず、散歩にも出ず、穴のなかにこもったきりで。なんだかヤドカリみたいだわ」
 つい、今しがた買い物から帰ってきた彼女は、やはり精緻な明細書をテーブルの端でつくりながら、そう言った。
 「ご馳走はいずれ食べにいくよ。この季節じゃロクなものはないけど、探せばそれなりにあるよ。2、3軒、知ってる。だけど、もうちょっと辛抱するんだ」
 「どうしてよ」
 「美食と好色は両立しないからね」
 「そうかしら? 本当かしら?」
 「どちらかだね。ふたつにひとつ。一度にふたつは無理だな。ご馳走はご馳走、好色は好色。どちらを選ぶか、だ。ふたつ同時だと、眠たくなるんだ。もともとどちらも眠るためのものらしいけれど、味くらいは知っておきたいしね。あとは眠るだけだ。なら、ふたつにひとつ、だろ」
 「むかしはそんなこと言わなかったと思うけどな。ずいぶんと心細いことを言ってくれるじゃない。しっかりしてちょうだいな。むかしは、理屈抜きに、あなた、ひどいだけの一点張りだったわよ。変わったのね。私、受けて立ちます」
 「たしかにむかしはそうだった。そうだったらしいと思うね。しかし、あのころ、どうだろう。力はあったが、味は知らなかったんじゃないかな。どれかひとつの味、それともふたつともの味、なにも知らなかったんじゃないかな。同じ眠るのでも、麻痺して眠るのと、大層な違いがあるだろうよ」
 「なんだか、それってへ理屈のかたまりみたいね」
 「そうかな」
 「セビッチェが食べたいな、私」
 「もっといいのをご馳走しますよ」




 鼻先すれすれのところに、景観が現れる。顔をもたげるまでもなく、全貌が眺望出来る。そこからまるで時間が流れなかったかのような気配なので、驚かされる。懐かしさが、こみ上げてくる。小皺を集めてしっとりと閉じた肛門の、とぼけた、親しそうな、それでいて嘲笑っているような奇妙な顔つきも、淡い褐色のくちびるを開けた、びしょ濡れた襞も、赤くせり出した佇まいも、小さな襞の群れの囁きも、ざわざわする暖かい森も、すべてがその位置にある。壮大な渓谷のなかに横たわったままで、わずかに顔を上げて舌でくすぐったり、くちびるでくわえたりしながら、私は遠くにある光景を眺めている。
 西陽しか射さない安普請のアパートに少女は独りで暮らしていて、高く掲げた白い臀の隅々には、磨りガラスに漉された柔らかい秋の午後の陽の光があたっていた。春に私と知り合って、早くも秋には少女は不幸になっていたけれど、けっしてそれを口に出そうとせず、むしろ快活に冗談を言う工夫に耽っていた。けれど、忘我の彼方に飛んでいくときには、いくら耐えても不幸はまざまざとやって来て、かたちを与えまいとする必死の努力は辛うして成功したけれど、気配の氾濫は留めようがなかった。私はわざとそれを無視し、奥からせり出してくる不幸を、再び奥へ押し戻し、封じ込めてしまうことに熱中していた。
 果てると彼女は眼の毛羽立ったシーツの上に倒れ、喘ぎながら涙を滴らせた。
 「どうしたの?」
 「いいのよ」
 ときに壮麗な身体のそこかしこから、悲惨が膿のように流れ出した。それは彼女が不幸になるより以前にも、ふとしたはずみに見せる眼差しや言葉の端に顔を覗かせることはあったのだけれど、あとになって現れた光景に圧倒されるあまり、私はまたしても誤って、不幸がそれを誘発したのだとばかり思い込んでいた。彼女が外国へ去ってずっと経ってから、私はふたりのことをつぶさに回想し、点検していくうちに、悲惨は不幸よりも先に、彼女の背骨のなかにあったのではないかと思うようになった。あれは背骨から分泌され、過去から分泌されているのではなかったかと思うようになった。どこか一点を衝けば、一瞬にして全体が瓦解してしまいそうな、そういうものを彼女は潜ってくるよりほかなかったのではないか。日本を去らずにいられなかった衝動の背後に、諦めや、憎悪や、怒りや、絶望があったとしても、その、口に出しようのない想いの醸し出す瘴気が、朧ながらも、しぶとく絡みついていたのではないか。彼女は毎日、日本語ではなく、今住んでいる国の言葉で日記をつけているらしい気配なのだけれど、そうするしかなかったのではないか……。
 壮大な臀が震えている。太腿に伝わる汗が粒子となり、霧となって散る。赤い闇のなかで臀は、いよいよ掲げられる。太腿が震え、力を失い、落下する。私の鼻と口は、温かいぬかるみに埋もれてしまう。泉が溢れて、顎に滴る。
 「ほら、もっと、もっと」
 「こう?」
 「そう、もっと、もっと」
 「こう?」
 「叫べ、喚け、日本語だ」
 「無理よ、あなた、それは無理。こんなもの頬張って、叫べだなんて。ふたつにひとつ、よ。どちらか。どちらかだわ」
 不意にびしょ濡れの全面積が顔一面に覆ってきて、私は突き飛ばされ、ヘッドボードに強か頭をぶつけて、倒れた。闇のなかを、赤く長い孤独が弧を描き、それまで腹筋と背筋で支えられていた彼女の全体重が、私にのしかかってくる。シーツがオーブンのように発熱している。船底いっぱいに荷を呑み込んだ船のようにゆらゆらしつつ、彼女は私を覆い、ときどき鋭利な戦慄を起こしながら、下へ、さらに下へ、部屋の床を抜けて、地下鉄の線路床へ、石油を分泌する層まで、重力の赴くままに、音もなく沈降していく。
 風呂の湯は、出たり出なかったり、熱いときもあり、温いときもあり、その日そのときの栓をひねってみて初めてわかるという気まぐれさだったが、熱い湯が出るとわかるとか、彼女はきっと全裸になって駆けつけた。まるで修羅場をくぐり抜けてきたように傷ついた大きな浴槽に湯を入れて、バス・チューブのエスメラルダ色のリキッドを絞る。湯に触れるとそれはたちまち白い泡となって、綿菓子のように膨れ上がる。彼女が持ってきたものだが、これはいい。身体を擦ったり磨いたりしなくても、ただそのなかに浸っているだけで、泡が全身をくまなく浄化してくれる。湯から上がっても、いちいち身体を拭かなくてもいい。私はぬるま湯に浸り、顎まで泡に埋もれ、細巻きの煙草をくわえて、壁に立てかけた新聞を読む。
 「こうするとタバコが美味いよ」
 「そお?」
 「どうしてかな」
 「どうしてでしょうね」
 「お湯で煙がしっとりとしてくるんだよ」
 「お風呂に入ってタバコを吹かすなんて、ギャングの親玉のすることなんじゃないかしら。映画で観たことあるわよ。アル・カポネとかね。苦虫走ったみたいな顔して、お風呂に入って、葉巻をくわえていたわよね。三下を呼びつけて、しゃがれた声で命令するのよね」
 「よしてくれよ。アル・カポネほどの貫禄はないよ」
 「あら、やってることはアル・カポネ並みよ、あなた。特に怠惰なところなんか」
 「ギャングはみんな勤勉だよ。必死になって他人の稼ぎを掠めとってる」
 「あれは勤勉って言えるのかしら」
 彼女は、激しく熱い湯を好んだ。膚にちかちかと電気が射すような、新鮮な、はしゃぎたった湯を好んだ。汗を滴らせながら、膝を抱えて、そこにしゃがんでいると、やがて血が全身のあらゆる箇所で騒ぎ、沸騰し、見事な転生を見せる。彼女が熱い湯のなかから立ち上がると、白い豊満な膚から、珠になった湯が転がり、全身の山岳や平野や森を、音を立てて流れ落ちていく。その轍には、淡い桃色に輝いた、柔らかい霞のような、見事な磁器が現れる。その瞬間、染みだらけの浴槽や、ひび割れた鏡などは、ことごとく、声もなく輝きのなかに隠れてしまった。
 彼女は白い泡をつけたまま全身で部屋に入っていき、タバコの残り香や汗で蒸れている闇のなかを見まわし、他にどこにも場所がないと知って、ベッドに飛び乗る。
 「見て、見て」
 快活に笑って、脚を大きく閃かし、臍も、陰毛も、なにもかも曝け出すままに曝け出し、飛んで跳ねる。
 「ほら、白雪姫よ」
 生き生きと、叫ぶ。
 「ほら、眠れる森の美女よ」
 歌うように、
 「ほら、白鳥だ」
 と、笑う。
 こんな瞬間、彼女の顔は生き生きと咲き誇り、小さな、白い歯が光り、眼に痛烈な、挑みかかるような、憚ることを知らない輝きが揺れた。

 温かい彼女の室のなかに入って、闇のなかに弛たっていると、ときどき、とろりとした甘い吐息を感じる。それに耐えながら、私は知らず知らずのうちに、襞のざわめきやそよぎから、歳月を読もうとしている。彼女の履歴を探ろうとしている。ここを通過していったに違いない男の、壮大な事業の跡を知ろうとしている。室に入ってすぐ右のあたりに、柔らかくて小さいが敏捷に動く小鳥の嘴のようなものがあったはずだ。それが減っていないか、あるいは大きくなっていないかを知ろうと、感官を集め、耳を澄ますようにして、一歩一歩入っていく。嫉妬からではない。むしろ、淡いが友情に近いものがあるからである。……。ある。立ち止まる。あった。それは私を迎え、ビクッとなって目覚め、柔らかく小刻みに射し、退き、震えたりしはじめる。躍動感のある小人の踊りに似ている。戦慄を奏でている。変わっていない。懐かしさが、広い領域にわたって支配する。
 湯から上がったばかりの彼女の熱い太腿にこめかみを載せて、毛の先に泡が輝くのを見つめている。飽満にぐったりとなり、戯れに舌とくちびるを使い、茂みのなかに潜む新芽を際立たせようと耽っていた。臀も、ケモノ道も、いつもの闇に隠されていず、見慣れない光に不躾に照らされている様を、私はじっと見つめていた。
 ようやく気がついて、私は眼を上げた。いつの間にかカーテンが開いていて、この国特有の水銀のような黄昏が、きらきらと輝いていた。赤、紫、紺、群青、すべての色彩が淡く、高く、明朗に輝いて、部屋を光線で満たしていた。光線は茂みをくまなく射し、濡れた淡褐色のくちびるの、小さな皺のひとつひとつを見逃さなかった。テーブルの手を伸ばして時計を見ると、8時だった。
 夜の8時だった。
 私は鼻を埋め、
 「雨が止んだみたいだよ」
 言った。




 なかなかはじまらない夏の夜に業を煮やしているのか、まだ陽が沈みきっていないうちから、街にはあちらこちらに毒々しいネオンが咲きはじめていた。
 メイン・ストリートとブロックをひとつ隔てただけの裏通りを歩く。裏通りは谷のようでもあり、溝のようでもある。狭くて、暗く、苦く、壁は雨でぐっしょりと濡れ、立ち小便、糞、汚物がいたるところに散らかっている。敷き詰められた舗石、壁、窓、すべてがねっとりとした分泌物の匂いを放ち、冷たく汗ばんでいる。煤けた、饐えた匂いに混じって、華やかだが、安っぽい香水の香りが鼻につく。それとおぼしき女が、あちらこちらの角を拠点にして立っている。
 私と彼女は、女の視線を避けようか、それとも大きな眼差しで受け止めようか、迷いつつ歩いた。今の私には、女の視線にまともに刺されて、大らかにその棘と戯れるだけの余裕がない。
 「ここにも、たくさんの愛があるのね」
 彼女は、溢れ出る好奇心を抑えた声で、そう言う。
 「オレにはちょっとツラな。一個でいいよ、今は」
 「あらあら、情けないですこと。愛はいっぱいあったほうが楽しいに決まってるのに」
 「今さら、疲れるんだ、そういうのは」
 「疲れるような愛を、たくさんもらったのかしら?」
 「どうだろうね。疲れないような愛は、本当は違うんだろうな」
 「長続きはしないわよね」
 「経験則から導かれたテーゼ、だな」
 「さりげない愛情は強いわよ。駅のホームに転がってるくらいのさりげないのが、一番強いのよ」
 「あぶり出されてる。醸造されてるな。しかも研磨されてる。鋭いテーゼだ」
 私は彼女の10年間に敬意を払い、そう言った。




 『バカはおまえだ』『サル』『労働者よ、学生よ、団結だ!』『暴力と強姦、バンザイ!』『イヤ!』『やって!』『愛と平和』『愛と平和とカネ』『造反有理』『想像力』。裏通りには、あちらこちらに落書きがあって、活字は潜めいているけれど、噎せ返りそうな悪臭の立ち込める暗い溝を、私と彼女はゆっくりと歩いて、表通りに出る。
 不意に鮮やかな夕焼けが現れ、夏は下痢から回復して、空、寺院、フジの並木、川岸の胸壁、すべてが真っ赤に熟れていた。それは私をも包み込み、身体内の隅々を充填し、透明で希薄な輝きに私は満たされる。溝のなかを歩いているときは、部屋から持ち出した彼女の体温や、息遣いや、囁きなどが身体のあちらこちらにコロンのようにまとわりつき、それが消耗しきった私をかろうじて包んでいてくれたのだけれど、この瞬間、すべては霧散してしまった。ただ、淡く、眩いばかりである。音もない。質量もない。
 「病人みたいだ。漂ってるみたいだ」
 「腕をとってあげましょうか」
 「イヤ、いいよ。歩くよ」
 「……」
 彼女は口のなかでなにか呟き、低く笑った。眼の下には翳りはなく、不屈の成熟が苦笑しているばかりである。
 大通りの緩やかな坂を上っていくと、大きな飾り窓には、赤や金や黒が輝き、長髪の学生が闘争の機関誌を売るけたたましい声や、水が一滴ずつ滴り落ちるような手まわしオルガンの旋律や、給仕たちの正確だがもの憂げな声、一瞥で本質を見抜く若い女の眼、タバコの滲みた教授たちの顎髭などでごった返す舗道の端には、独りの老人が座っている。道にチョークで延々と書き連ねている。
 「見て、見て」
 「見てるよ。詩、だな」
 「反戦詩? 告発? 叙事詩?」
 「寓話のような……。意味を知りたいかい?」
 「知りたいわ」
 「では、訳してしんぜましょう」
 欲望を捨て慈悲深い行為に土を耕す
 鉄の頭を持つ偶像の顔が輝いているうちに
 遥か彼方に浮かぶ船は霧の向こうへと進んでいく
 ハリケーンが吹き荒れるなか
 両の手に舵を握りしめているおまえは生まれた
 自由がすぐ近くに待っているとしても
 真実に手が届かないのなら何の意味も成しはしない
 ジョーカーマンはナイチンゲールのさえずりに踊る
 鳥は月光に高く舞う
 ジョーカーマンが姿を現す
 まるで落下するかのように陽が沈む
 おまえは誰にも別れを告げないまま起き上がる
 愚か者は天使さえ足を踏み入れない場所へと雪崩れ込む
 どちらの未来も恐怖に満ち溢れているのだが
 おまえはそれを教えてやりはしない
 また一度脱ぎ捨てて心の内側に潜む迫害者の一歩先を行く
 ジョーカーマンはナイチンゲールのさえずりに踊る
 鳥は月光に高く舞う
 ジョーカーマンが姿を現す
 おまえは山々を支配し、雲の上を歩きはじめる
 そして民衆を自在に操り、夢を歪める
 ソドムとゴモラの市へ向かうとしても、何を構うこともない
 そこの誰もおまえの妹と結婚したがることはない
 殉教者の共であり、私生児として生まれてきた女と通じている
 燃えさかる炉の奥を覗き込めば、名もない富豪が見えるだろう
 ジョーカーマンはナイチンゲールのさえずりに踊る
 鳥は月光に高く舞う
 ジョーカーマンが姿を現す
 「まだまだ、延々と続いている。まるで黙示録だな、これは」
 「現代社会を照らし出す寓話、ってわけね」
 「そう、この国もまた、病んでいる」
 「でも、居心地は悪くないでしょ。だから、この国にいるんでしょ」
 「どこへも行けないんだ、オレの場合は」
 「どこへだって行ってたじゃない」
 「どこへも行けるけど、結局は、どこへも行けないんだ」
 「旅をしているとずいぶんと哲学的になるわね。この詩人も旅をしているのかしら。ずいぶんと哲学的だけど」
 「どうだろうね。でも、こういうふうに詩を書く人は、どこへも行けないということを知っている人だと思うけどね」
 詩人に声をかけなかったのは、私と彼女の最低限の礼儀だった。詩人には、道に書き殴る言葉がすべてのはずだった。舞踏家に、今の踊りはなにを表現しているのか、と訊くことが失礼千万なことのように、詩人には詩以外のことを求めてはいけないのだ。詩人とは、詩を媒介にしてしか繋がれないし、舞踏家とは、踊りを通じること以外に交わる術はない。それ以外の一切は、蛇足のはずなのだ。
 そう思っていたら、老人は今度は演説をはじめた。たちまちたくさんの学生に包囲されている。老人はちょっといびつな卵型の禿頭を持ち、貧しい身なりをしていたけれど、きちんとした爽やかさを放っていた。真摯な眼差しでなにかを演説しているのだけれど、彼が話し出すと、たちまち学生たちがあちらこちらから嘲笑を浴びせることとなった。老人はいくらでも嘲笑われ、罵られ、笑われたが、びくともせず、演説を続ける。学生たちはいよいよはしゃぐ。
 「これはなにかしら?」
 「よくわからないけれど、あの男は電気技師で、詩も書くと言うんだ。で、人間は1年間働いたら3年間は遊ばねばならない。それが理想の社会というものだ。そういう社会をつくらねばならない。私が議員に当選したら、そういう運動をする、と、演説しているらしいんだな。学生の嬲りものにあっているけれど、しかし、いくら野次られても一向にへこたれる気配がない。荒野の叫び、というところなんだが、この界隈には変わったのがいっぱいいるな」
 「1年働いたら3年遊ばせてやるというなら賛成だけどな。いいこと言うじゃない。私なら一にも二にも投票してあげるけど。なにもあんなに野次ることないじゃない」
 「それじゃあ、賛成って言ってあげたら」
 「教えて」
 私に教えられた単語を、彼女は甲高い声で二度叫んだ。老人はそれを聞きつけて、顔をこちらに向けた。豹のように輝いた眼が、不意に微笑みで細くなり、深い皺を顔中に刻ませて軽く会釈した。そしてまた、精悍な首をひねって、学生たちを折伏しにかかった。




 本格的な夜がはじまるのでひとときは、橋のたもとのチャイ屋で過ごすことにしている。ビニールの紐で編んだ椅子が舗道に出してあるので、そこに凭れて、一杯のチャイを、時間をかけてゆっくりとすする。昼でもなく夜でもないこの時刻には、なにか新しいことがありそうな、あてどない希望が、グラスにも、灰皿にも、並木道のざわめきにも感じられる。細かい湯気を立ててぐっしょりと濡れたチャイのグラスを取り上げると、金無垢のような充実した重さがあり、くちびるに滴を一滴乗せると、ポッと赤みを帯びて熱を持つ。淡くて華やかな黄昏はゆっくりと滲みていき、やがてその滲みは大通りいっぱいに広がり、いつとなく頭を越え、窓を犯し、屋根を消して、優しい冷酷さで空に満ちてしまうのだが、そうなるまえのほんの瞬き、緊張を帯びた激しい赤と紫に輝くスミレ色の充満するときがある。ほんの一瞬か、二瞬。気づいて眼を凝らすと、すでに消えている。激しい、辛い、虚しい一日は、このためにあったのかと思いたくなるような、瞬間がある。熱帯、亜熱帯の黄昏には、混濁した活力がぎしぎしとひしめているが、澱んだ粘り気を大気に含むために哀愁を覚えさせられ、この一瞬のような明晰を極めたシーンを目撃することが滅多にない。彼女の顔や、首筋や、髪がスミレ色に浸され、そこかしこに見覚えのない悲痛や威厳が、ひと刷けされて、表れる。身体を立て直そうとすると、もう消えている。妙に明るいエーテルの下で、30歳相応の女子が、小さな歯を見せて微笑んでいる。
 「火を点けましょうか」
 「イヤ、いいよ」
 私はポケットに手を入れ、ジッポーのライターを探り当てて、火を点ける。緊張は消えた。はっきりとしている。もう、夜だ。
 「今、夕刊売りが来たわよ」
 「気がつかなかった」
 「顔を見せて、なにか叫んだなと思ったら、もういないの。どこかへ飛んでいっちゃった。いくらピリピリしてなきゃならないと言っても、ちょっと度が過ぎるんじゃないかしら。兵隊さんでもあそこまでピリピリはしていないわ。追っかけて買ってきましょうか。今晩、読むものあるの?」
 「新聞なんかどうだっていい。それより、そろそろ鍋が熱くなってるころだよ。これからどこへ行ってなにを食べるか、それを決めなくちゃ」
 「そう言われると困っちゃうわね。なにしろ私のところはハンバーガーとコカコーラの国でしょ。そこで10年も過ごしてごらんなさい。いい加減舌がボケちゃって、どうしようもないわ。教えていただきたいようなものよ。うしろから、影を慕いながら、どちらへでも参りますわよ。なんでも食べる。あなたなら間違いないとにらんでるもの。あなたの真似してたら、間違いないと思ってるの。官能をバカにしちゃいけないわ。風呂屋でも阿片窟でも、どこでも連れてって!」
 「皮肉を言うなよ。食べる話だよ。今晩、今からなにを食べるかという話だよ。モツ料理はどうかな。これはいいものだよ。あのウンコ通りに1軒、いい店を知ってる。席に就くと、給仕が望遠鏡を持ってきて、ドアに貼ったメニューを覗かせる。出てくるものはその日その日によって違うんだが、モツをワインや香辛料をコトコト煮込んだやつだ。壷に入って出てくる。心臓、肝臓、胃、腸、睾丸、腎臓、なにが出てくるか知れないが、なんでも美味い。腸について言えばだね、ほんの少しだけ加減して、ウンコを残してあるのが、コクがあるね。馴れないとダメだけれど、馴れるとそれなしではいられない。なんだかペテンにかけられた気分になる」
 「じゃあ、睾丸は?」
 「これも悪くないよ。ぽわぽわして、含みが深い。バルセローナの凄まじい貧民街の安食堂で、子牛の睾丸のフライを食べたことがあるけれど、これはじつに上品で清純な味だった。柔らかくて、丸くてね。説明をしてもらわないと、睾丸だなんてわかりゃしない。総じて、モツをバカにしちゃいけないよ。魚でも、ケモノでも、相手を倒したら、真っ先にモツから食べにかかると言うじゃないか。オードブルはスズキだな。ここらは海流が冷たいから、魚が美味いよ」
 「いいわね。モツ料理は、私のところではソウル・イートって言うの。奴隷の黒人の料理なの。あの国の人は名だたるバカが多いから、きっとモツを捨てたのね。だから奴隷の料理だったんだわ。一度だけ、食べさせてもらったことがあるけれど、蕩けるようなイメージしか残ってないわ。美味しかったのね、きっと。なんだか、食べたくなってきちゃったわ。よかった、セビッチェなんて言わなくて。危ないところだった。さあ、行きましょうよ、ウンコ通りへ」
 彼女は大きく笑って、椅子から立ち上がると、ペイズリー柄のブラウスを少したくし上げて、力むポーズをつくってみせた。逞しいが、よく引き締まったその腕には、しっとりとした蒼白い青磁のような輝きが沈んでいた。舗道とランタンを浸して、店内に雪崩れ込もうとしては拒まれて立ち往生している夜のなかで、青磁の腕は、一層、妖しい輝きを放っていた。
 裏通りの小料理屋は、貧しくて、狭くえ、汚れに汚れ、テーブルにも、壁にも、1センチは、人の垢や、脂が、塗りつけられているように見えた。阿片窟さながらの暗さだが、壁の一ヶ所にだけ、小さなライトが円光を投げている。そこにコンニャク板のメニューが貼ってある。給仕は客があると、黙って1本の望遠鏡を持ってくる。それもメッキや塗りがボロボロに剥げた大航海時代の代物である。
 「ふんふん、あれが今晩の屠殺場ですね」
 コンニャク板を望遠鏡で覗いて、彼女は言った。
 鉛筆のように痩せた店の老主人が寄ってきたので、私はパン、スズキのアルミホイル包焼き、内蔵は本日の特選品を注文した。
 「モツはなにが出てくるの?」
 「わからない。出されてくるものを食べてりゃいいんだよ。こういうところでは、店に任せておくのが一番なんだ」
 「匂いでわかるのね」
 「なんなら、キツくするように頼もうか?」
 「いいの。冗談よ」
 やがて、壷がホカホカと湯気を立てて登壇する。フォークを入れてベロベロしたものを拾い上げて皿に取ってみると、胃袋であった。トロトロに煮込んであって、むっちりと柔らかいが、どこかに節のように弾力が残っているので、歯ごたえを楽しむことが出来る。濃厚なソースが芯まで染み込んでいて、そのトロトロさ加減が、煮込むと言うよりは、熟していると言いたくなる。熟し切っていて、果汁ではち切れそうになっている、と言いたくなる。初めのうち、彼女は美味いとか素晴らしいとか言っていたが、やがて口をきかなくなり、壷から胃袋を引っかけては皿に移し、パンをちぎり、胃袋を胃袋に流し込み、ときどき、手を休めては同じことを繰り返した。
 皿のソースを一滴残らずパンで拭い取り、そのパンの最後のひと切れを呑み込み終わると、彼女はぐったりとなって壁にもたれた。薄く汗ばんで、頬がバラ色に輝き、虚ろな眼が潤んで、暗がりできらきらと閃いた。
 「完璧だわ」
 彼女は、低く呟いた。
 「どうしようもなく完璧だわ。眠くなりそう。くたびれちゃうのね。ご馳走を食べると麻痺しちゃうんだわ。あなたの言うとおりね」
 恥ずかしそうに軽くお腹を撫でて、彼女は微笑んだ。眼は輝いているけれど、虚ろで、靄のようなものが立ち込め、汗に塗れていて、男の腕から逃れていくときとそっくりな眼差しをしていた。飽満が仮死ならば、美食が好色とおなじ顔になるのは、道理だった。
 豊熟した料理が誘い出して、顔のそこかしこに残っていたものではあるにせよ、洞窟じみた暗がりに、蝋燭の灯を受けて浮かび上がっている彼女の顔には、これまでに目撃したことのない、安堵し切った昂揚があった。そこに反射したり、滲み出たりしている微光は、彼女の頭のうしろ、深く、遠くから、歳月を越えてわたってきているもののように思えた。それは、私には、間探りようのないものだった。彼女は幸福そうだった。眼を細め、全身で発光し、それに気づかないでいる。かすかに耳を傾けているのは、2匹の猫の声を聞き取ろうとしているからだろうか。幸福が、こんな浪費に耐えられるとは思わない。私は少し不安を覚える。息苦しくもある。
 宿に戻ろうとしてふたりで裏通りを歩いた。夕方の黄昏どきのひとときはざわめいていたのに、すでに真っ暗な下水道となっていて、人の姿がどこにもない。香水をまき散らしていた女の姿もない。あちらこちらに酒場や料理屋の陽が虫歯の穴のように入口を照らしているが、壁はに私たちの足音が低くこだまするだけである。闇しか息をしていないかのような路地を入っていくと、汚水に浸り込んでいくような気がしてくる。この市が出来たときに山から切り出されて、それ以来、一度も日光を浴びたことがないのではあるまいか、と思いたくなるような石が積み上げられている。冬を吸収したままで、凍てついている。濡れた、頑ななその壁の横を過ぎたとき、咽せるような立ち小便の酸っぱい腐臭のなかで、立ち止まった。
 「誰か歩いていったのかな?」
 「どうかしら?」
 「靴音を聞いたかい?」
 「ずっと私たちきりだわ」
 「ドアの閉まる音も聞かないね」
 「そうだと思うけど」
 「だけど、香水の匂いがする。キミのじゃない。今、すれ違った。女とすれ違ったみたいだ。動いていた。誰もいないのに、不思議だな。どういうわけだろう」
 「幽霊と浮気したいの?」
 低く含み笑いをしながら、不意に、彼女が腕をからめ、有無を言わせぬ力で引き寄せると、背伸びをしてくちびるを寄せてきた。




 1週間ほど、私と彼女は、毎日、ビタミン剤でも飲むように、規則正しく店へ通った。店に通っては、望遠鏡で覗いてその日の特選内蔵料理を注文した。腸のときがあれば、脳みそが出てくる晩があり、ペニスを食する日があったが、私も彼女も、きっと官能を総動員して食べた。そして食べたあとは、例外なく、激しい運動をしたあとのような疲労困憊に陥るのだが、ある朝、彼女は起きがけに私に言った。
 「ねえ、どこか遠いところへ連れていってほしいわ」
 「どこか、って?」
 「美食と好色が両立しないというあなたのお説は了解しました。次は、もうひとつ。ほら、あなた、むかしに言ってたじゃない。旅を続ける秘訣は、美食と好色だって」
 「よく覚えてるんだな、たしかに言ったよ」
 「重要じゃない、些末なことって、覚えてるものなのよ。気をつけたほうがいいわよ。で、だから、美食も好色も両方持ってる私たちなら、旅をしても面白いかな、って」
 「帰納法の論理だな」
 「こう毎日、ご馳走を食べてると、私、ブロイラーになっちゃうわ」
 「しかし、どこへ行こうと言うんだい」
 「それがわかってたら、私はあなたにお願いしません。手を引っ張って、私からあなたをお連れしますわ」
 「どこと言われても……。まさか、遺跡が見たいわけじゃあるまい」
 「遺跡はけっこうよ。神秘的なところは好きだけど、人間の手が入っていないところのほうがいいわ」
 「前人未到の地、か」
 「あるの?」
 「ない。この地球上に、人類が影を落としていないところは、すでにない。もはや、冒険の余地はないんだよ。あるとすれば、深海だな。1万メートル以上の深海だな。陽が差さないだろうから、もちろん影もない」
 「1万メートルの深海も行ってみたいけれど、もう少し現実的な話をしてくださいな。私は現実的に旅がしたいのよ」
 「現実的に神秘的なところを旅したい。難問だな」




 数日してから、私たちは宿を引き払った。
 彼女はレインコートとスーツケースを手に提げ、私はリュックサックを背負って、停車場へ向かった。広場の食料品店で、パンとハムを買ってから、バスに乗り込んだ。市内を走るバスは、たわわに実をつけたパームツリーのように溢れんばかりに乗客を詰め込んでいるけれど、大陸を縦横に走る長距離バスには、座席以上に乗客が乗ることはなかった。が、しかし、座席は出稼ぎに行く人で埋められていた。この国の人たちは小柄だが逞しく、燻ったように膚が浅黒く、眉が濃い。暑く貧しい諸国の農村や貧民街から出てきて、冷たくはあるが富める国へ行き、建設現場でセメントをこねたり、道端でアスファルトを煮たりするのである。女は料理屋で皿洗いをしたり、街角に立ったりする。富める国から来るバスは花と香水の匂いがするが、ここから出ていくバスには、汗と涙と塩の香りがする。人々は声高く喋ったり、叫んだりし、身振りが俊敏で豊かだが、放埒で、図々しい。しかし、仲間が消えて自分たちだけになってしまうと、不意に、男の眼は寂しくなり、女には痛々しいまでの荘厳さが表れる。男たちは爪が焦げそうになるまでタバコを惜しみなく吸ったが、昼飯どきになると、カラシとチーズと卵のソースをかけたじゃがいもや、サラミ、キュウリの甘酢漬けや、サクランボなどを、次から次へと編袋から取り出して、私たちに勧めてくれ、私たちの勧めるパンとハムを遠慮なく食べて、あちこちの国や道端や駅でかき集めたに違いない単語の切れ端を繋いで、美味しい、とか、素晴らしい、とか言うのだった。
 バスはちょうど半分ずつの月と太陽を従えて走った。24時間が経って、国境を越えるために私たちはバスを降りた。砂漠のなかではあるけれど、偏西風と海流と緯度の幸福な出会いが、ここをちょっとしたオアシスにしていた。温暖な、優しい陽光が燦々と輝き、これまでと打って変わって、ここはなによりも清潔だった。キチンとしていた。情念ではなく、理性が支配していた。
 「いいところじゃない」
 「ここで何日か休憩していこうと考えてる」
 「いい考えだわ。ここは休暇の土地なのね」
 「海がある。清潔で安くて親切な宿がある。美味い魚を食わせる店がいくつもある。フリーポートでモノが安い。相対的に人間が素朴だし、相対的に美人が多い。小さいが公営のカジノもある。街全体がこじんまりとしている。今度で3度目だけれど、いつ来てもいいよ、ここは。
 「日本の女の子が知ったら、大挙して押し寄せてくるわよ」
 彼女は含みのある笑いを交えながら、そう言った。
 「ここまでやって来る日本人の女の子は滅多にお目にかかれないけれど、たとえ来たとしても、この街は素通りだな。大抵の人は素通りしてしまう。なにもないから、見落としてしまう。なにもないところへ行くのが本来的な旅の目的のはずなのに、やはり彼らは、あるいは彼女らは、なにかがあるところへ行こうとする。イヤ、ここにだって立ち寄るべき価値のあるものはたくさんあるんだけれどね」
 「いいのよ。それぞれの旅があって。いろいろあるほうが楽しいのよ」
 並木路の枝は逞しく繁茂し、葉の一枚一枚に光と闇が込められている。たしか、ここを抜けたところに宿があった。
 潮風にやられて、あちらこちらにヒビが年輪のように刻まれているが、そのひとつひとつはパテで埋められており、白壁ひとつとって見ても宿の女将の人柄が窺えた。海岸に近い宿を、私と彼女は訪ねた。ここへ来ると、私はきっとこの宿を常宿とするので、今度で3度目となる。初めて訪れたとき、毎朝、アメリカン・オークの床を磨いていた少年は、今にもここを飛び出しそうな、はち切れんばかりの希望を胸に抱いた青年に成長していた。
 「あなたも、むかしはあんなかんじだったのね」
 彼女は、青年と頬にキスの挨拶を交わしたあと、私に向かって冷やかすようにそう言った。
 「よしてくれよ。忘れた。むかしのことは一切忘れた。ヒマラヤ並みの消しゴムで一切を消した」
 「嘘ばっかり。そういう嘘をついていると、ミサイル並みの鉛筆で奇襲をかけるわよ。ペンの暴力は怖いわよ」
 希望を持つということは、絶望に絶望することではないか。私は、ずっと絶望の淵を歩いていた。絶望からの脱出を試みることが、私のこれまでの人生の大半だった。そんなことは徒労でしかないと、どこかで知りつつも、その事実に眼を背け、私は重力に逆らって歩いてきた。そんな私に、希望を胸に抱いた時代があった。そんなことがあった。信じられない。彼女は、あのころの私に、いったいなにを見ていたのか。
 「冷や汗が出るようなことを言わないでおくれよ」
 少し混乱したまま、私が精一杯吐いた言葉だった。
 「あらあら、私、余計なことを言っちゃったかしら。でも、深く考えないで。深く考えることはないの。ここは海のそばよ。潮風が優しいところなのよ。人間は癒されたいときには潮風にあたりにくるの。鍛錬のときは山にこもるのよ。ここは、海よ」
 「まったくだ。癒されよう。旅は長い。ここから先は過酷だよ。神秘的な場所は、この先の、過酷をくぐり抜けたところにある」
 「楽しみだわ」
 彼女はそう言って、これ以上ない満面の笑みを、静かに浮かべた。
 ベッドは清潔だった。綻びも皺もなく、早朝の静かな湖面のような清々しさをたたえたシーツが敷きつめられていた。部屋に案内されるなり、彼女は、いつもそうするように、スーツケースを隅っこに置き、一見して掃除が行き届いているとわかる部屋の点検をはじめた。湯が、いついかなるときでも栓をひねるだけできちんと出た。洗面所は古くてガタが来ていたが、艶やかなレモンの表皮のようにピカピカに輝いていた。ベッドのスプリングは、若い乳房のようにしたたかだが、心地よい弾力に飛んでいた。ドアのノブは壊れていて使いものにならなかったが、3ヶ所に錠が据えられていた。指紋もニコチンも葉っぱも汗も脂もパン屑もなにもなかったが、そこに生活の塩のようなものが感じられるのは、女将の心映えだろう。私はリュックをベッドの下に押し込んだ。
 「必ずベッドの下に置くのね」
 「置いてるんじゃない。ねじ込んでいるんだよ」
 「なにかのおまじないなの?」
 「リュックが眼に入ると旅に出たくなるんだ、せっかくここで落ち着こうしているのに、これを見てると旅に出たくなるんだ。悪い癖だ。おまじないでもなければ、縁起を担いでいるわけでもないよ」
 「あら、おかしなことを言うわね。ここに落ち着く気なの?」
 「そういうわけじゃない。何日もしないうちに、ここは出るよ。だから、これは悪い癖だと言ってる」
 「なんだか、怯えてるみたい。逃げてるみたいよ」
 「……」
 「そう責めないでおくれよ」
 私は自信なさげな声で小さく低くそう呟いてから、ソファベッドに腰掛けた。そして靴を脱いだ。そこに白と茶色の斑点のある大きな獣の皮が敷かれてあって、その長い毛のなかに素足を置くと、気持ちがよかった。
 「それなに? アルパカの毛皮?」
 「よく似てるけど、ちょっと違うな。たぶん、ヤクの皮だよ。チベット牛の皮だ。むかし、チベットにいたころに使っていたのとおなじもののようだ」
 「趣味がいいわね」
 「まったくだ」
 それから彼女は、軽く化粧をすると言って浴室に入った。
 「さっきここへ来る途中で市場を通ったでしょう。中華料理の食材がたくさん並んでたわ」
 「華僑がいるんだろう。中国人はすごいよ、世界中のどこにだっている。どんな田舎に行っても、中華料理屋の一軒は必ずある。オレはその土地の食べものには最大級の敬意を払うけれど、どうしても受け付けない場合は、迷わず中華料理屋に飛び込むね」
 「だからね、チャプスイをつくろうと思うの。いかがですか? 私のチャプスイなんてあなたの口に合わないかもしれないけれど、私の腕も捨てたもんじゃないのよ」
 「そんなことないよ。オレはチャプスイ、大好きだもの。いただきますよ、喜んで」
 「じゃあ、素晴らしいものをつくってみせるわ。孤独な女の手料理もたまにはオツなものよ。コクがあるに違いないわよ。パンに涙の塩して食べるって言うけれど、私の手料理なんてまさにそれだわ。孕まぬ腹、主なき犬の類いだわ。これは辛口過ぎたかしら」
 「女の涙をスープにしたのはまだ知らないから、ぜひ試してみたいね。しかし、キミは楽しそうだな。なんだか、羨ましいくらいに楽しそうだな」
 「今ね、私、幸福の真っ只中にいるの」
 「むかしはそうじゃなかったみたいだな?」
 「むかしはね、悲しみの真ん中あたりで泣いてたの」
 明朗さに苦みの潜んだ声を立てて、彼女は低く笑った。それがガラスが砕けるような音ではなかったので、私は安堵した。朦朧のなかに立ち込める悲惨を、彼女は肩越しに振り払って微笑しているらしい気配だった。その明朗さもまた、私には間探りようもないものだったが、少なくとも悲惨は、今は、膿ではなくなっているようだった。勝った者の寛容さを、彼女はすでに匂わせていた。むかしも、笑うときは敏感で痛烈だったが、それはすぐに引っ込み、長く続かず、笑ったあとできっと沈思に陥る癖があった。頬骨の高い、鋭い顔立ちなので、彼女は思案に耽ると、余力のあるときは精悍、そうでないときは悲痛が口元に切れて、痛ましかった。




 彼女が私のまえに現れたのは、大学を卒業してからのことだが、諸外国を放浪して帰国してから、そのあとに定職に就くことなく、翻訳をしてみせたり、ルポライターの真似事をしてみたり、ときには学者たちのアマチュア演劇のためにチェーホフ劇の演出を買って出たりして暮らしていた。アマチュア劇では楽しんだが、生計を得るには苦しんだ。芝居の練習の合間に書いた細切れの原稿を持って新聞社や雑誌社を歩き、夜になるとヘトヘトになって私のいるライブハウスに現れた。そのころ、私はそこでピアニカや三線、カスタネット、ブルースハープ、シタールなどを賑やかに演奏していた。彼女はおとなしく座っていつまでも耳を傾けていたが、私の演奏が終わると、駆けつけて、その日のうちに会った人やことがらについて、罵ったり、嘲笑ったり、喜んだり、賞賛したりして、鋭く笑った。しかし、眼差しは、あてどなく、壁や、ランタンや、酒瓶を滑っていき、その横顔は、たいていは怯えているようだった。果敢な好奇心、飽くことを知らない知的欲求、絶え間なくなにかしていると感じないことには我慢ならない勤勉さ、どんな貧苦にあってもオシャレに心を砕いて苦渋を隠そうとする気取りなどのなかに彼女はいたけれど、グラスの縁を迷い歩いているときの眼は、しばしば、闇に怯える子供のそれであった。それが現在のあてどなさに怯えていることもさることながら、過去の悲惨に戻ることを心底怖れていることから来ているものだと察するに、私はずいぶんと時間がかかった。私は若くて理屈ばかりが立つ阿呆だったから、彼女の絶望や不幸が、情事と快楽にヒリヒリとした辛みを添えてくれる気配だけを貪っていた。甘さは辛みと手を携えて進んでいかなければ完成されないけれど、そうと知るには、夥しいほどの自身を殺さなければならなかった。当時の私は、自身を殺さないでおいて、欲望だけに没頭していた。それしか他になったのは、ひとつには、彼女もまた壮麗な白雪の下腹で、私を貪ることに忘我で呼応していたからでもあった。どれほど創意と工夫を凝らした精緻で完璧な交渉であても、男と女が、それぞれ違う夢を見ている以上は、室の箇所ではめいめいの領域の拡大、充填だけに終わるしかなく、接すれば接するだけ、壁を広げれば広げるだけ、いよいよ領域が離れて、鈍化されるばかりであるらしい気配に、私は朧げながらも気づいていたのだろうが、痛烈さにおいて、それを察知するということがまったくなかった。そうと知ったのは、情事のあとで足を絡め合わせながら、冷め切ったチャイをすすりながら冗談めかして仄めかしていたことを、彼女がついに実践して、日本を去り、再び帰国する意思のないことを手紙で報らされたときだった。私は阿呆ぶりを悟らされ、頬を引っぱたかれたかのように感じた。その痛撃が去るのを待ってから、私は彼女がさりげなく、しかし断固とした気配で、言及するのを避け通したことについて考えてみた。改めて点検してみてわかったことなのだが、私はなにひとつとして彼女のことを知らなかった。なにひとつとして知らない私が、知る手がかりをなにも与えられなくて、それでも知ろうと努めるのは、妄想、邪推でしかなかった。そうと知りながらもそのことに耽ったのは、荷が降りて軽くなったと、どこかで感じている私の、圧迫であるよりは、回想となってしまった孤独からだった。彼女はたまゆらの沈思、孵化し切らない言葉の呟き、戯れにくちびるから零す卑猥な言葉、息絶え絶えの瞬間にふと漏らす自戒の呻き、などしか私には残されていなかった。その泡の群れに、街角や夜更けに、私は浸っているきりだった。




 「買いものに行くまえに、お風呂に入らない? 私、身体中がベタベタなのよ」
 「そうしよう」
 「じゃあ、ちょっと待ってて。お風呂にお湯を入れるから。バス・チューブをたっぷり入れて泡を立てるから。それに浸ってタバコをお吸いなさいよ。お湯のなかでタバコを吸うと美味いって言ってたじゃない」
 「オレの足、水虫なんだけど、それも洗ってくれるの?」
 「どこもかしこも洗って差し上げます」
 「泣けてくるよ」
 「ふざけるなって」
 湯は爽快に精力的にほとばしった。栓をひねってちょっと待つと、たちまち熱でピチピチした湯が叫喚をあげてほとばしった。沸き立つ浴槽に彼女がエスメラルダ色の滴をふんだんにふりまくと、見る見るうちに白い細緻な泡が浴槽いっぱいになって膨れ上がり、立ち上がってきた。そこへ彼女が香水を2、3滴ふりかけた。オー・ド・トワレの香りが広がって、浴室が朝の10時頃の春のような香りに満ちた。豊満だがひつこくなく、目覚めたばかりの軽快さが、右に左に跳ねた。あの赤いシールドで窓を隠した部屋では、湯が出たり出なかったりで、出るときも栓は絶え間なく咳き込んだり、しゃっくりをしたりで、心細いかぎりだったが、ここは蛇口から水道栓にいたるまで、ことごとく正確、有能を極めているらしかった。全身を湯に浸し、顎まで泡に埋没し、右手にしめやかなタバコを持って恍惚としていると、彼女が全裸になって入ってきて、そっと、隅から泡のなかに潜り込んだ。湯が動いて、熱が関節や髄にまで滲みてきた。彼女はスポンジで私の堅い脛を掻き、柔らかい足の指のあいだは、指で洗ってくれた。一本一本、隅々まで洗ったあと、力強く折ってポキポキと鳴らしてくれた。
 「ありがとう」
 「どういたしまして」
 暖かく香ばしい霞のなかで、彼女の逞しい肩や背中が潤んで、淡い桃色に輝いた。スポンジで掻いたり、流してやったりすると、赤い条跡が膚のうえに刻まれ、しばらくするとそれが溶け合って、赤い雲となって、白い泡や湯に漂い、内奥から射す光で、眩いようなフォルムが広がってくる。
 「このバス・チューブもいろいろあるのよ。海の青だとか森の苔だとか言って。バラの匂いのするのもあるし。いろいろ買って試したんだから」
 「この、森の苔っていうのはよさそうだね。バラよりもしぶとそうじゃないか。この石鹸は気に入ったよ。浸っているだけで泡が勝手に身体を洗ってくれる。そのあいだはなにもしないでただぼんやりしていたらいいんだから、オレみたいな無精者にはピッタリだ」
 今、彼女には怖れもなければ怯えもない。泡のなかにのびのびと横たわり、浴槽に私とふたりで並んで寝そべり、丸々とした自分の肩が、発光するエスメラルダの湯に消えたり現れたりするのを、恍惚と眺めている。私は寝返りを打って、ゆっくりと浸透していく。彼女は肩を眺めるのをやめて、静かに眼を閉じる。泡に耳元まで埋もれ、そうやって白い雲のなかに顔だけが浮かんでいるところは、ある連想を誘う。それが、彼女に滲みた。
 「私ね、とんでもない人に舞踏を習ってたのよ。日本で唯一、舞踏神と呼ばれた人だったの」
 「有名な人だったんだろ」
 「その人が死んで、私たちはそれぞれに散っちゃったけれど、私たちの結束はどんな政治的な集団よりも強かったわ」
 「そのわりには、オレは散々劇団の悪口を聞かされたがね」
 「近親憎悪のようなものよ。今ね、ふとそんなことを思い出しちゃったわ。不思議ね。何年も思い出したことなかったし、やり切れない気分になったこともたくさんあったけれど、そんなときだって思い出したりしたことはなかったのに。なんでこんなときに思い出したりするんだろうな」
 「不幸をね、それが不幸だったと仮定してのことだが、不幸を忘れるのは、時間がかかるものなんだよ。で、忘れたことに気づくのは、思い出したときなんだ。思い出したときに、心に波風が立たなかったら、不幸は去ったんだよ。客観的に見られるようになったんだよ。不幸を咀嚼して、消化することが出来たんだ。それだけの時間が経ったってことだよ」
 「聞いたふうなことを言うわね」
 彼女はそう言って、低く含みを持たせて笑った。そっくりその言葉を私に返したいふうであった。
 「先生が亡くなったとき、私、ゴハンを食べてたのよ。変でしょ。私、悲しみよりも先に、お腹が減ってて、どうしようもなくて、ゴハンを食べたの。それから、すぐに詩が出来たわ。詩をつくっちゃったの。天から言葉が降ってきてね、詩が出来ちゃったの」
 「不思議でもなんでもないよ。そういうことはあるよ」
 「それを思い出しちゃったの。恥ずかしいから2行だけ言うわ」

 嵐のまえの夜に 途切れがちな潮で
 この生暖かくなった小石のように 大人の愛について語る

 彼女はゆっくりと眼を閉じる。
 「どう?」
 私は密かに肉のなかを行き来しながら言う。
 「全部言ってくれなくちゃ」
 「いつかそのうちにね」
 背に焦燥や不安を負わず、不幸を密封するためでも、しばらくのあいだの避難所を求めるためでもない。ただ、明るく、香ばしく、暖かく、清潔である。唯一、驚愕に値する。
 私は、覚えのある右側面に沿うようにして進んだ。いくらも行かないうちに、馴染みの挨拶がある。矢が出てくる。ちょっと立ち止まる。矢はヒクヒクと突いたり、そっと触れたり、羽虫のように軽く身震いしながら、踊っていたりする。乳房が昂揚し、下降し、泡のなかで明滅するところは、バラ色の岩海苔が波に洗われるのを見るようである。眼を閉じると、小波がガラス壁をすり抜けて、やすやすと入ってきて、浴室の戸口で佇んでいるのが、感じられた。
 突然、彼女が頭を上げた。激しい動作だったので、泡が散り、湯が揺れ、首に強い筋が現れた。彼女は耳を傾け、眼を澄ませた。
 「聞こえない? ほら、聞こえるわよ」
 彼女の顔に微笑みが広がった。
 「ほら、鳴いてる。チョロチョロって、鳴いてる。聞こえるでしょ、そこ。そこのうしろの配水管のところよ。ちょっと、見てやって」
 彼女のうえに乗っかったまま肩越しに振り返り、言われるところを眼を凝らして眺めると、便器の陰に排水口があり、その金属蓋の小穴から、小さな小さな影のようなものがふたつ出てきた。それは臆病そうな仕草で壁にぴったりと寄り添って蠢き、やがて便器の陰に消えた。しばらくすると、そこから嘆息とも鳴き声ともつかない声が、細く切れ切れに流れてきた。タイルに染みもつけず、影もつけず、消えてしまいそうな弱々しい声であった。
 「驚いたな、コオロギだよ。おい、ここは少なくとも砂漠だよ。なんだってコオロギがいるんだ?」
 「甘いところはここだって、知ってるのよ。砂漠で生まれたコオロギの生きる知恵だわよ」
 「なんだか、栄養失調みたいだ」
 「そりゃ、配水管をつたって2階まで上がってくるもんだから、それでヘトヘトになっちゃったのよ。いざ清水の舞台になると、もう演奏する元気がないのよ。どうすればいいのかしら?」
 「キュウリを切って置いておくといいよ」
 「コオロギって、キュウリが好きなの?」
 「むかし、理科の時間に習わなかったか?」
 彼女は耳を傾け、微笑みつつ、口のなかでキュウリ、キュウリと呟いた。湯は冷えかかっていたが、私には温かみが、ほのぼのと広がっていた。私は彼女からそっと抜け出し、身体を洗い、浴槽を出た。




 甘くて、静かで、柔らかい。
 ゼラニウムの咲き乱れるバルコンに立って眺めると、海はおろしたての小麦粉のようだった。豪奢というよりは素朴、豊暁と呼ぶよりは清潔であり、そのために蓄積されたものの底の深さを感じた。
 この街は、ずっと戦場だった。今となっては、そのことを微塵も感じさせず、そうと聞かされるまでは知る由もないが、ここは戦場だったと聞いている。北の国が取ったり、あるいは南の国に奪われたりしたのだ。島国に住んでいると、歴史の教科書でも紐解かないかぎり触れることはないが、国境線というものは動くものなのだ、ということが、ここに立っているとわかる。この街の人と喋っていると、心の奥底まで糸を垂らすような話をしていると、必ずと言っていいほど、ふたつの国がせめぎあっているのがわかる。




 「お食べなさいな」
 彼女がそう言って、私の背中をポンとはたいた。景色が、パッと晴れた。いつの間にか、彼女は大皿にこぼれそうなほどのチャプスイと盛り上げていた。ニンジンだの香草だのの野菜に肉の細切れと、それらが見えなくなるほどのシャンピニオンを混ぜて炒めたらしい。サフランの香りがバターの風味と相まって、重層的ではあるが、どこか軽やかな感じがした。
 「あなたのお説にしたがって、モツを少し加えたのよ」
 「豪勢だな。これは美味いよ。チャプスイであってチャプスイではないな。また、サフランが泣かせるよ。チャプスイにサフランが合うとは考えつかなかったな。しかし食べてみると、これは唸るよ。なるほどと思わせるものがある」
 「私の住んでるところの近くにチャイナタウンがあってね。そこで中国人の移民のおばさんが教えてくれたの。小汚いところなんだけれど、絶品なのよ。もちろん、私のつくるチャプスイなんか足元にも及ばない」
 「これを食べると、そのおばさんの味が想像出来るね。これより美味いとなると、相当なものだ。しかし、裏通りの小汚い店にかぎって、えてして美味いもの屋があるというのは、真実だな。バンコック、イスタンブール、ナポリ、パリ、ナイロビ、サンパウロあたりのチャイナタウンときたら、店という店、屋台という屋台がことごとく汚いから、どれを選んでいいのかわからなくなるよ」
 「例の癖がはじまったわね」
 「いいから聞けって。で、結局、人が一番たくさんたかっているのを狙うわけだ。そこらじゅう、痰だ、唾だ、洟だ、犬のウンコだというひどい有り様でね。そこに悠々と腰を下ろして唯我独尊を貫くには、かなりの訓練が要る。オレも初めは胸がムカムカしたけれど、精神修養の結果、超克しましたね」
 「そりゃそうでしょうけど、もともとあなたは好きなのよ。そういうのが好きなのよ。好きでやるのなら自己鍛錬と言えるかどうか、疑問だわ。対立物の止揚と言えるかどうか。私の劇団に社会学と心理学のスペシャリストがいるから、今度、訊いてみることにするわ」
 「不潔と食欲の関係を訊いてほしいね。きっと汚い店へ行ったら気分が寛ぐから、その緩んだはずみに胃も舌も広がって、それで美味く感じるのかもしれない。しかし、腸の茹でたのはちょっとウンコ臭いほうが味が深くなるということがある。ステーキだって生血の匂いのあるほうがいいだろう。深さは純粋よりも、混濁に手助けしてもらわないと出てこないんじゃないか。言葉だってそうじゃないか。意味に定量がない。経験によってどうにでも変貌する。絶え間なく生きて、動いていて、止まるということがない。止めるということも出来ない。立ち止まって、じっと凝視していたら、たちまち崩壊してしまう。ときたま、なにかハッとする一瞬があるので、きっと、その一言半句を掴む。掴んだら、すかさず眼を逸らさなければならない。じろじろ眺めていたら、たちまち指紋で曇ってしまうか、ガラス玉のように弾けるか、雲のように千切れるかして、散ってしまう。玉虫の甲みたいなものだ。キミは子供のころに玉虫採りをしたことがあるか?」
 「紙切り虫なら知ってるわよ」
 「残念だ」
 食事がすむと、彼女は活発に光と影のなかを往復して、キッチンに皿や鍋を運ぶ。全裸である。私も全裸だ。前面のガラス壁をカーテンで隠し、右のガラス壁も半ばカーテンで隠し、半ば開いておいて、バルコンから光と風が入ってくるようにしてある。今日一日、部屋にいるときはいつでも全裸でいようと約束したのだ。人の身体もまた、言葉とおなじように定型を持ちながらも変容している。陽炎ではあるまいかと、思う瞬間さえある。経験によって、絶え間なく変わり、かつ、変わらずにい続けているのではあるまいか。経験が、ドラマだけなく、物憂い瞬間の知覚をも指すならば、彼女の身体も、私の身体も、絶え間なく明滅しているはずである。ビルドアップされ、鍛えられた筋肉はべつとして、布やベルトで、隠したり、絞めたり、支えたりしなければ、人体は到底直視するに耐えられるものではない。私たちは、醜悪で傲慢な、そして吹き出すほどに奇妙な深海魚だ。しかし、私はソファに腰を下ろし、睾丸の皺に冷たい革を感じつつ、勤勉に動きまわる彼女の身体のうえに現れる小さな変化に見とれている。乳房のしたにぽっと閃いては消える小さな影や、臀のうえにあるふたつのエクボの浮沈や、明晰と映る注視の眼や、陰毛のかすかな震えや、鋭く長い筋や、太腿からくるぶしへかけての腱の目まぐるしい出没、たくさんの大小の骨の組み合わせ、また、その解消ぶりに見とれている。それらもまた、一瞬の戯れでしかない。彼女が、この部屋に匂いをつけ、主婦の素振りに馴染むことを、私は怖れている。一瞬でも、それを先送りにし、遅らせ、避けようとしている。




 また、眠くなってきた。
 そんなに寝てばっかりでは石になってしまう、と言って、彼女は私を外に連れ出した。街は午後ともなると少しは活気を帯びてくる。大きなデパートメントも、ないではない。大通りが賑わっていないことない。しかし、駅前を古い市電がゆっくりと這い、そのチンチン鳴らす音がタクシーの騒音に掻き消されることなく、ひとつひとつ聞き取れるくらいである。
 陽射しはこれまで淡く乾いて、透明であるばかりだったが、ようやく激しさと熱がみなぎりはじめている。あらゆる物事が眩い輝きの最中で倦怠を分泌している。光が緩んだり、潤んだりしはじめている。ショーウインドウというショーウインドウは、削られるほどに磨き込まれ、その奥で脂っぽい頬が閃いたり、ゆっくりと影が動いたりしている。




 また、眠くなってきた。
 枕元にサイドボードを寄せて、たっぷりと沸かしたチャイをヤカンごと置いて、気が向いたらグラスに注いで飲む。その横に、外出のたびに彼女が買ってきてくれた新聞、雑誌、本などが積んである。しかし、私はひとつの記事を最後まで読み通す力がない。2行か3行読むと、たった今、眼が覚めたばかりなのに、もう睡魔がそこまで来ている。寝るまえに飲んだチャイがニコチンと混じって、イヤな匂いを口にこもらせている。それを新しいチャイですすいで、胃に送ってから、私は眼を閉じ、ゆっくりと沈んでいく。いくらでも眠れる。その気になりさえすれば、眠れる。ソファの革にはおぼろげだけれど、確実なかたちで私の寝姿の窪みと皺が浮かび上がりかけている。一度か二度、寝返りをうつだけで、それを見つけることが出来る。寝返りをうつまでもない。ただゴロリと横たわっているだけで、嵌まり込める。初めてここへ来て一瞥したとき、このソファはただものではないと見抜いていたけれど、今では従順で親しいばかりである。
 私は読めないし、感じられないし、考えられない。ねっとりとしたクリームのような眠気が身体の隅々に広がっていて、角材が泥に沈むようにして私は沈んでいくだけである。柔らかな無数の繊毛が音もなく蠢いて忍び寄ってくると、頭だろうと、腹だろうと、感じた箇所から私は眠ってしまう。バルコンからの微風が足の裏を撫でてくれる。だらりと伸び切った睾丸の生暖かい皺のひとつひとつを軽い羽毛のようなもので撫でられると、浮き浮きとしてきそうだ。私は、足の裏や睾丸の皺から眠りはじめる。そこからかたちを失い、質量を失っていく。全裸の腹にノロノロと毛布を載せ、ときには明朗な、ときには朦朧とした、どうしていいかわからないほどの広大な空虚のなかを、漂う。痺れた頭のどこかで、本や議論のないところへ行きたいなと思うが、無人島などというものは、この時代にはないのだとも思う。しばらくして、ここが無人島なのだ、ガラス壁で囲まれた無人島なのだ、空のなかの島なのだ、と思う。




 時は、ゆっくりとだが、数学の森のなかのように正確に流れた。
 ここへ来て何日目かのある朝、夕食にラビオリを食べたあとで、デッキチェアをバルコンに出して、それに寝そべってサクランボを食べた。空にはいつものスミレがかった赤紫が広がりかけていたが、長い午後の緩み切った微熱に犯されて、私は息をつくのがやっとという状態で、背後の室内には、汗と体臭と膿がいっぱいになっているように感じられた。私はデッキチェアに打ち倒され、サクランボの種をひと粒ずつ吐くのに手を上げ下げするのも煩わしくてならないほどだった。
 なんの話がきっかけになっただろうか。彼女はデッキチェアに伸びてお喋りをしているうちに、身体を気怠く伸ばしているのに、いつの間にか昂ってきた。初めのうちは冗談めかしたいつもの口調の雑談だったはずなのだが、捗々しく私が受け答えをしないので、彼女が独りで喋っているうちに、それは抜き差しならぬ痛烈さを帯びはじめ、自身の漏らす口調に、自身が誘われ、彼女は蛇のように頭をもたげてしまったのである。
 「……眼鏡をかけてカメラをぶら下げている黄色いのが向こうから来たら、日本人だとひと目でわかると言うけれど、私に言わせたら、歩きかたね。歩きかたで、ひと目でわかる。ヤマトはどういうわけか、歩きかたが下手なのよ。ひどく下手なの。下手なだけならまだしも、汚い歩きかたをする。やり切れないわ。眼を背けたくなる。あ、ヤマトが来たなって、角の向こうからでもわかるわよ。横町へ逃げたくなるわ。ベッドでの振る舞いかたを近頃の女性週刊誌では写真入りで教えているらしいけれど、そこまでやるのなら、どうして歩きかたを教えないのかしら。歩きかたが汚いうえにやり切れないのは、あの目つきよ。イヤな目つきをしてる。とてもイヤな目つきだわ。妙におどおどしているくせに、傲慢なのよ。自信のある人はかえって謙虚になるものだと思うけれど、その裏返しね。そうなのよ。怯えた目つきのくせに、ふんぞり返ってるようなところがあるの。インテリにかぎって、そうだわね。レストランに行っても、隅っこで壁にへばりつくようにして座るか、日本人同士で一緒になって座るかしないことには、安心出来ないらしいし。どうもヤマトは一人だと不安でしょうがないらしいんだな。それが、おのぼりさんだけじゃなくて、そういうことを嘲笑っている新聞記者や学者がそうだもの。新聞記者も日本人同士で固まって、毎日おなじ顔ぶれで、おなじレストランで、ゴハンを食べてるじゃない。日本語で記事を書くから日本語を喋りつけていないことには根なし草になっちゃうだなんて、気の効いたことを言うのがいるけど、ウソよ。独立独歩で出来ないのよ。だからごらんなさい。日本の新聞に出てる外国報道の記事なんて、どこも似たり寄ったりじゃない。それも、為替交換所みたいに仲間同士だけでやりとりした情報がネタらしいし。たいていはこちらの新聞に出た記事の焼き直しよ。ひどいもんですよ。新聞記者というのは、新聞に出た記事を書くから新聞記者というのよ。ここの新聞記者たちが笑ってるわよ。私は何人かおつきあいがあるから知ってるけれど、日本人の記者というのは、お笑い種よ。しかも、自分がお笑い種になっていることに気づかない。ぐずぐずと仲間同士でしか通じない悪口を言って慰め合ってるの。その仲間同士も、別れたら途端に悪口だわ。まだその後ろ姿が見えているのに、今の今まで仲よく笑っていたはずなのに、たちまち悪口を言い出すの。もっともこれは記者だけじゃなくて、学者も、ビジネスマンも、皆おなじですけどね」
 彼女は忍び寄ってくる黄昏のなかで、サクランボを頬張っては種を吐きつつ、険しい、鋭い、ひたすら罵倒の口調で、話し続けた。蛇は一度頭をもたげたら、必殺の打撃を与えるべく、一度、身体を躍らせると思うのだが、彼女は頭をもたげて身体を揺らし、次から次へと沸いてくる主題に飛びついては噛みつき、飛びついては噛みつき、そのたびごとに、攻撃は毒々しくなっていった。相手を倒すための毒が、自身に帯びてくるような気配があった。自身の毒に諭される焦燥の気配はまだ露に表れてはいないが、忘我の口調ははっきりとそこかしこにあった。彼女は日本人の旅行者、新聞記者、学者などの次に、ホテルの廊下を下着一枚でのし歩く中年男性を罵った。外国旅行をする資力があるのなら、もっとほかに家庭の内部と周辺をしっかりと整備し、備蓄するべきであるのに、それをしないで遠い外国へ観光旅行に出かけるその態度を罵った。外地手当をもらって気の大きくなった商社の駐在員の、身の丈を忘れた浅はかな贅沢に耽る態度を罵った。外国人の男にちょっと口説かれただけで、たちまちよろめいて妊娠してしまうイエローキャブの女たちを罵った。酒を飲みはじめれば猥談しか出来ない日本人紳士が、街頭で娼婦を交換し合って、とても日本では出来ないような恥ずかしいことを堂々とやっているその態度を罵った。そのくせ白人女を卑屈に買って、いざというときに萎えてしまうその神経を罵った。大枚をはたいてブランドものを盲で買い漁る観光客の態度を罵った。1千万を超す人口を持つ東京が、その6割から7割に達する人口の屎尿を海へ船で持っていって捨てるしかない現状に眼をつぶって、ハイウゥエや高層ビルの建築に夢中になっていることを罵った。日本と日本人を罵る記者や学者や評論家を罵った。儲けたカネを市民文化に還元しない企業を罵った。企業が人畜無害と認定してスポンサードするようなモノしかつくれない日本の現代文化の担い手たちを罵った。右翼を罵り、左翼を罵り、タカ派を罵り、ハト派を罵り、政治と経済を罵り、日本と日本人について、思いつくかぎりのことを罵った。
 それらのすべての嘲笑の、毒々しい、抉り立てるような口調のうしろには、紛れもなく、孤独があった。聞いているうちに、ようやく私にもおぼろげながら察せられることがあった。私の知らない、間探りようもない、この10年近くの歳月を、彼女がなにに縋って生きてきたのかが、ようやく察せられるようであった。屈服するにはあまりに自尊心が強すぎて、流浪するしかなかった彼女は、おそらく、どこであっても孤独とともに生きるしかなかったはずだが、ただひたすら、日本と日本人を憎むことに縋って生きてきたのではないか、と思われた。胸苦しい早朝にも、恐ろしく親密な夜更けにも、彼女は、貝が石灰質を分泌するように、ひたすら憎悪だけを分泌することに耽って、毎日をうっちゃってきたに違いない。観光ツアーの通訳や、レストランの皿洗いや、キャバレーのタバコ売りや、日本商社のタイピストなどをして彼女はかつがつ凌いできたはずだが、だとすれば、今、全開して息つく暇もなしに叩きつけてくる憎悪は、洗剤で荒れた手や、くちびるの強張りそうな紋切り型の解説や、咽喉が引きつりそうなタバコの紫煙や、荒涼とした便所の粗い壁などからの分泌物である。タバコの吸い殻が刺さっている脂っぽい肉や魚の冷えきった残飯から立ち上がってくる分泌物であるはずだ。闇のなかでヌラヌラと笑う濡れた眼や、財布を取り出す巨大なウジ虫のような指や、唾で光った厚いくちびるなどに、危うく足を取られそうになりながら、どうにかこうにかしぶとく耐え抜いて培養してきた、屋根裏部屋の呪いであるはずだった。
 夕焼けのなかにいたはずだが、いつの間にか夜になってしまっていた。午後の火照りが、ようやく、空からも、バルコンからも、微風からも消えかかって、涼しさの兆しがちらほらと明滅するようになった。彼女はそれにも屈せずに、私、というよりも、闇に向かって、頭をもたげ、抑制してはいるけれど高い声で、なにかえげつないことを嘲笑まじりに話し続けた。
 「もういいよ。もう、そのへんでいいよ」
 息をつくために彼女が黙したときに、私は呟いた。デッキチェアの固くてザラザラした帆布が冷たく膚に触れて気持ちよかったが、私は鈍い脂肪に覆われていて、腐りかかった酸の不快さが全身にあった。
 「それだけ日本が憎めるのは羨ましいよ。今まで、キミはそれでやってきたわけだ。たった独りでやってきた。問題はこれからだと思うな。キミの劇団は名を上げつつあるんだろう。名声を博しつつあるんだろう。キミの芝居が認められつつあるんだろう。苦節十年の苦労が実るわけだ。日本の企業なり某かの団体が、キミたちを招いたらどうなる。そうなるだろう。オレは思うよ。これまでのように日本を憎めなくなるよ。大願成就するんだからね。すると、憎悪という情熱が殺される。酔いが醒める。酔えなくなったら、生きていくのはツラいよ。次はなにに縋ったらいいのか。そこをどう思う。なにか、酔えるもの、夢中になれるもの、ある?」
 突然、暗闇のなかで彼女の息を吸い込む気配がした。不意を撃たれたように彼女は黙り込み、身体を強張らせた。痛ましくもあった。私は自身に問うことを彼女に問うてしまったのだが、それまでの毒々しい雄弁を、一瞬、沈黙が抑えつけてしまったらしい気配に、彼女の怯えがまざまざと伝わってきた。
 しばらくして、私が呟いた。
 「オレにはないんだよ」
 彼女が息を吸って、低く、
 「私にもないわ」
 と、呟いた。
 しばらくしてから彼女は、もたれていたデッキチェアから離れ、なにも言わずに部屋へ入っていったが、いつまでたっても戻ってこなかった。憂鬱を引きずって部屋へ入ってみると、彼女はソファに腰を下ろして足元のヤクの毛皮を眺めていた。頬が青ざめ、眼が虚ろで、くちびるは少し開いていた。私は冷蔵庫からつくり置きのチャイを持ってくると、ふたつのグラスに注いだ。グラスはたちまち細かい霜で霧がかかったように白くなったが、彼女は手を出そうとはしなかった。
 彼女はノロノロと呟いた。
 「あなたはヒドいわ。恐ろしいことを言ったのよ。私がひた隠しにして怖れているところを衝いたのよ。衝いただけじゃない。いきなり足場を切り崩しちゃったの。高いところにあるものを背伸びして取ろうとしているのを、いきなりやってきて、踏み台を取っちゃうようなことをしたの。勘がいいけれど、無情すぎるわよ」
 「そんなつもりじゃなかったんだよ」
 「わかってるわよ。私を黙らせたかったんでしょう。みんなそうだわ。私が日本の悪口を言い出すと、みんな顔を背けるの。それまで一緒に悪口を言っていたのも黙っちゃう。イヤなところが、私にはあるんだわ。体臭みたいなものね。自分の体臭は自分ではわからないから、つい、私は夢中になっちゃうんだけれど、イヤなんだと思う。ときどき自分でもハッとして顔を背けたくなることがあるくらいだもの。独りで生きていくうちに、いつの間にかこんなふうになっちゃったのよ。あなたの言うとおりなの。日本を憎むよりほかに縋りつくものがなかったの。なにからなにまで憎かったの。憎んで憎んで、それで、ただ、もう馬車馬みたいに走ってきたって気持ちだわ。それが消えたあとはどうするんだって、あなたは言うけれども、ガックリとこたえたわ。そのとおりなんだもの。ときどきそこを考えてゾッとなることがあるのよ。人前では出さないけどね。不意に奈落へ突き落とされたみたいになるの。痺れちゃって。バカみたいにボーッとなっちゃうの。なっちゃうのよ。身体のなかを転がり落ちていくみたいなの。私、怖いわ」
 呟きつつ、彼女はゆっくりと顔を上げ、呆然と室内を眺めた。不意にやつれて、いくつも老けてしまったようだった。くちびるの脇に傷のような長い皺がくっきりと浮かんでいた。肩を落とし、背中を丸め、すくんでいて、逞しい肩や、豊かな腰も、日頃の精悍さをことごとく失い、どこもかしこも子供のようであった。彼女はかつてないほど閉じて、凝固しているが、まだ破片になってはいず、予感で苦しんでいると思われたが、稀薄になっているために、かえって濃厚なものが周りに立ち込めているようでもあった。
 「皿洗いもしたし、タバコ売りもしたし、恋もしたわ。旅行もしたの。黒のシルクのストッキングを穿いてバニーガールのスタイルでタバコを売って歩いたの。首から木の箱をぶらさげてね。でも、キャバレーのおっさんに言わせると、私の顔は悲劇的なんですって。お客が湿っぽくなっちゃうんでしょうね。恋は熱烈なのをしたわよ。結婚しようかと毎晩徹夜で考えたことがあったのよ。日本人じゃないわ。影のない男ではなかった。実体も影もあって、でも真剣だったわ。だけど、とどのつまり、私はいざというところで踏み切れなかったの。そのころ、私はようやく劇団の公演が上手くいきはじめていて、ここからフリダシにしてやるんだって気持ちが勝ったのよ。少なくとも自分ではそう言いきかせてきたのよ。結婚しても劇団にいればいい、芝居を続ければいい、協力するよって相手は言ってくれたけれど、私は酔ってたな。やっと掴んだ自由に酔ってたの。自分を捨てたい一心だったのが、たまたま拾えたっていうところだったから、酔っぱらってたのよ。結婚なんかして捨てたくなかったし、傷つけられたくなかったの。だけど近頃になると、心細いことが多いもんだから、お金や暮らしのことじゃないのよ、それはもうなにも心配要らないの。だけど、さっき言ったみたいに、心細いことが多くてね、フッと子供が欲しくなったりするのよ。夜中に独りで芝居の稽古なんかしてると、ムラムラッと子供が欲しくなるの。こんなとき、子供がいたらどんなだろうかって思ったら、たまらなくなるのよ。私はカタワじゃないかと思えてきたりしてね。バカな話よ。断固として自由を守り抜きたい、そのために日本を捨てる、結婚も捨てるって誓ったのが、あなたの言い草とおり、なにかを得るためにはなにかを捨てなきゃならないんだと言っていたのが、今になってね。ときどきそれがヒドくなると、男なんかどうでもいい、誰でもいい、クローン・ベイビーだってかまわないって気持ちになってくるの。人工授精だって、私は平気よ。父親が誰だかわかんなくたって、平気。私、そうなんだから。かまうもんですか。なんだろうと平気よ。こたえない。私にはやれるんだもん。今まで、ホラ、やってきたんだもん」
 突然、まじまじと瞠った彼女の眼から涙が溢れてきた。それはたちまち頬を伝って顎へ滴り落ちた。彼女は白い拳を握りしめて、白い、逞しい膝に置いたが、涙は流れるままに任せておき、しばらく耐えていながら、突然、ソファに倒れた。涙は次々と溢れ、彼女は声を殺して静かに泣きはじめ、ときどき嗚咽で肩や腹を震わせた。崩れてしまったことを恥じるか、嘲るかのような仕草で、二度ほど拳でソファを激しく撃った。その痛恨は、堂々としていた。彼女は呻くように、
 「子供が欲しいわ。今すぐ欲しいわ」
 と言った。
 私はじっとしていた。なにか二言三言呟いたが、慰めにもならず、忠告にもならなかった。励ましにもならなかった。それは冷たいまま狼狽した心から、泡のように涌いてきたが、くちびるから零れたときに、すでに曖昧な霞となり、たちまちのうちに散ってしまった。かたちも質も量もある言葉は、今の私をどう揺すっても落ちてきそうにない。私はテーブルの横に腰を下ろし、ヤブ医者のように手をくすね、チャイのグラスと彼女の横顔を交互にちらちらと盗み見ていた。今、うっかりと口をきいてはいけないという打算もどこかで忙しく働いている気配であった。それすら、心を砕いて没頭出来るようなものではなかった。ただ冷たく、無気力で、朦朧とし、居心地悪そうに、そこに腰を下ろしているだけのことだった。彼女の身体は貪ったけれど、その心に触れたり、立ち入ったりすることを煩わしがってきたことに、恥ずかしさを覚えさせられた。怒張もなく、下降もなく、私はただモゾモゾと漂っていた。
 しばらくして彼女は泣きやむと、拳で頬や顎の濡れたところを拭った。ソファの革の細かい、しなやかな皺をまじまじと眺めた。眼差しがうっとりとし、口調はひそひそとしているが、しぶとかった。
 「日本を出るとき、見送ってくれたのは、女子校時代の友だちがひとりで、ユキちゃんだけだったの。ユキちゃんは空港まで見送ってくれたの。私は、家財道具って、なにもないんだけれど、ユキちゃんのところに少しだけ置いてきたの。どういうわけかユキちゃんとは、私、気が合うの。ユキちゃんはいいわ。結婚してね。もう、2人か3人ベイビーがいるのよ。私は相変わらずふらふらしてるけれど、ユキちゃんはもうコロコロ子供生んじゃってね。写真を送ってきてくれたりするのよ。この街の子供もシャンパンの泡みたいで可愛いけれど、日本人の子供って可愛いわよ。眼も鼻もチマチマッと小さくて、髪が黒くて真っ直ぐでね。まるで、クワイかコケシみたいだわ。あんなのを抱くと気持ちがいいだろうなって思っちゃう。すると、もう、なにもわからなくなってしまうのよ。しっとりとしてて、ポワポワ柔らかくて、それでいてズシッと実の詰まった体重がこちらの腕に来るのよ。それだわ。そんな子供をひとり持てたら、父親なんかどうだっていいわよ。勝手にほっつき歩いて、女房の悪口でも言って、浮気でもなんでもしてりゃいいのよ。父親なんか、要らないな。私は抽象的鍛錬についちゃ、いささか精進したから、誰の子だっていいのよ。人類の母親になってみせるわ。自信あるわよ。どこの馬の骨ともわからない男の精液だってもらってきて、それで子供つくって、それを乳母車に乗せて公園へ連れていって、私は毛糸の靴下を編むか、時代遅れのギンズバーグの詩でも読むかしてね。ときどき、その子にバババババ、ブーッ、ブワッて言ってやるのよ。その子が大きくなって私を捨てようとどうしようと、かまわない。徹底的に奉仕してやるの。そのものと化すのよ。どうしようもないな。母は醜し、されど麗しってところよ。あれをやってみたいの。私のお腹は皺がないと言ってあなたは喜んでいるけれど、これ、精子なき大地なのよ。そんなこと考えたこともないでしょ」
 彼女はゆっくりとソファから身体を起こすと、小指を立ててチャイのグラスをとって、ひとくちすすった。そして舌打ちせんばかりの苦い顔をつくってから、浴室に消えた。しばらくして出てきたときには、かすかなディオリッシモの香りを漂わせ、仰ぎ見ると、暗い眼がキラキラと輝いていた。いきなり私の鼻先すれすれまで顔を近づけて、
 「バババババ、ブー、ブワッ!」
 叫ぶような声を立てた。
 彼女は息を荒げて、威風堂々、
 「私には、それだけしかないの」
 と言った。
 不意に、異様な声を上げたかと思うと、彼女はソファに転がり込み、拳であたりを撃ったり、叩いたりしながら、身悶えして、号泣しはじめた。白い背中や、豊かな腰から、絞り出すようにして、ウェーン、ウェーンと、憚ることない声を立てて、彼女は泣きはじめた。明るい乳白色の灯に輝いていたガラスの箱が、突然、音を立てて崩れたようであった。完璧な気遣いが凝らされているこの部屋も、彼女にとっては原始の森に等しかった。彼女はソファをのたうちまわって号泣し、逞しい腿を開いたり、閉じたりし、拳を握りしめ、笑いにも似た響きを立てて、ひたすらに泣き続けた。私は、その声が高くなったり低くなったりするたびに、身体のそこかしこに堅固で具体的な打撃を覚えつつ、バルコンへ逃げ出そうと思いながら、なんとなく出来ないままに、彼女の髪が発作のたびに開いたり閉じたりして花の香りや汗の香りを立てるのを見下ろして、立っていた。暗い夜空のなかに剥き出しで、そうして立っているように感じられた。今までにない荒寥が襲いかかってきて、たじたじとなった。くねくねとして、行き詰まるようにのしかかってくる脂や、憂鬱が消えた。
 私はおぼろに、
 「まだ、旅の途中じゃないか」
 と、呟いた。



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