1



 「オレンジになれないみかん」
 口の中でそう呟くと、もう一度繰り返したくなる。

 「オレンジに、なれないみかん」
 篤子は息を詰めて、しかも思い詰めたように言ってみる。なんだかとってもドラマチックだ。
 「もう一回、言ってみようかな?」
 そう思って、篤子は、繰り返す。
 「オレンジになれないみかん」

 今度は、あんまし上手くいかなかった。
 だから、立て続けにもう一回やる。
 「オレンジになれないみかん!」
 こたつの前に立って、立ったままそう怒鳴ると、なんだか自棄になったみたいな気がする。
 そういうドラマは好きじゃない。くさいな、と、思う。篤子がなにも言わなくても、こたつの上のみかんは、黙って十分に、“物語”を演じてくれているような気がする。だから、それ以上に濃厚なドラマは、くさくなるだけだ。
 篤子は、最初のときのように、口の中でそっと呟いてみる。
 「オレンジになれないみかん───」
 それがやっぱり一番いいと思う。一番自然だし、一番濃厚に“物語”があるし。
 篤子の部屋のこたつの上にあるみかんは、黙っておんなじことを言ってるし。そのみかんとひとつになることが、一番気持ちのいいことのように思う。
 だから、篤子は黙って見ている。音を立てないように、せっかく出来上がった物語の雰囲気を壊さないように、そっとこたつの中に足を入れて、蛍光灯の下で静かに輝いているみかんを見ている。
 「オレンジになれないみかん」。
 それが、篤子の発見した篤子自身の“物語”だ。
 “物語”があるのは、とってもいい。それだけで落ち着く。テーマだけで、その他にはまだなんにもないけど、自分自身に“物語”があるのはとってもいい。身体の中が豊かになって、頬がぼーっと温かくなってくるような気がする。ヨーガの先生の言ってた“温感”というのは、こういうことなんじゃないか、と、篤子は思うようになった。
 なんだか知らないけど、自分は、オレンジになれないみかんだ。それだけが発見できて、それだけでも自分で発見できたことが、嬉しいと思う。
 今日は、少しつまらないことがあった。
 いや、正直に言うと、今日ではなく昨日に、つまらないことがあった。でももっと正確に言うと、それは昨日でもなかった。ただのOLの生活にそんなにドラマがあるはずもない。
 正確に言うと、ここんところあんまり面白いことがない。あんまりいいことがない。あんまりいいことがない、ということを忘れさせてくれるようなことが、あんまりここんとこない。そんなことに、昨日、気がついた。なんか変だと思ったら、ここんとこいいことが全然ない、と。
 篤子は、不幸だと思った。つまんないと思った。だから、むかつくから、明日はずっと不幸せな顔でいてやろうと、昨日ぐらいに思った。
 テレビの予約録画もしなかった。それが、篤子の、なんにもない日だ。なんにもしないまま、手抜きの顔で会社に行って、誰かに、「なんかあったの?」って言われたら、ただ無愛想に、「別に!」って、それだけ言ってやろうと思って会社へ行った。
 言ったけど、別に、誰も、「なんかあったの?」とは言ってくれなかった。営業所の人間は、昨日とおんなじような顔をしていて、篤子の小さな変化なんかに気付いては、くれなかった。それもいっか、と思って、篤子は十分に不幸せで、それが結構気に入っていた。午後の三時くらいまでは。
 今日は誰とも口をきかない!と思って、昼過ぎくらいまでは大丈夫だったけれども、午後の三時を過ぎてきたら、それもかったるくなってきた。
 それで仕方がないので、女子トイレに行って、狭い中でタイルの壁を蹴っ飛ばしてみた。
 篤子が鏡の横のタイルを蹴っ飛ばしていると、経理のカモメちゃんがやってきて、「なにしてんの?」と言った。
 カモメちゃんは篤子よりひとつ年上で、名前が「カモメ」だから「カモメちゃん」と言われている。

 「なにしてんの?」と言われて、篤子は、別に、と言った。別に、は、言葉のうちに入らない。別に、は、なんにも言わない言葉、だからだ。
 別に、と言われて、カモメちゃんは、「なんかつまんないことあったの?」と言った。
 篤子は、ううん、と言って、それで、もういっか、と、思った。
 不幸せは癖になるから、あんまりやらないほうがいい。不幸せももう飽きたから、今日はここら辺でいっか、と、篤子は思って、黙ったまんま普段の篤子に戻った。
 別に面白いことないからさっ、と篤子は言って、普段の篤子に戻る。知らない間に戻ってきた普段の篤子に向かって、カモメちゃんは、「ふーん」と言う。
 カモメちゃんは馴れている。普段の篤子に馴れているのでもなく、ころころ気が変わる篤子に馴れているのでもなくて、篤子とおんなじようなOLの日常に、カモメちゃんは馴れている。
 「今日、どっか行く?」
 カモメちゃんはそう言って、篤子とおんなじように、トイレのタイルの壁を蹴った。
 「どうしてうちの会社のトイレのタイルは、女子用までグレーなんだろう? 気が利かない」と、カモメちゃんは思っている。
 「どっか行く?」と訊かれた篤子は、カモメちゃんに「行く?」と訊き返して、カモメちゃんは「いいよ」と言った。日常生活にちょっとだけ溜まったつまんないガスを抜いて、篤子の日常は、また、ここんとこいいことが全然ない、と思う前の日常に戻った。



2



 篤子は、二十四歳になる。なんだかもう、とっても長生きをしてしまったような気になる。
 だって、もう二十四歳だ。四年もこの営業所に通っている。篤子は三年以上おんなじ生活をしたことがないので、だからそれで自分はとまどっているのだと思っている。
 短大は二年だった。高校は三年だった。中学だって三年だ。小学校のときは、この状態が永遠に続くのかも知れないと思っていたから別で、篤子はだから、同じような状態が三年以上続くということの経験が、ない。短大は二年だったから、なんとなく、大人の世界は一年ずつの裏表で全部カタがついてしまうんじゃないか、なんて思いかけていた。
 就職して二年経って、でもなんにもカタがつかないから、へんだな、とかも思った。就職先は、一流企業だったから、別に自分にはなんにも間違ったことはないはずなんだと思っていたけれども、気がついたら小さな営業所に入れられて、四年も経っている。
 別にいいけど、でもちょっと、へんだな、とは思った。なにがへんなのかはよくわかんなかったけど。
 二年前に、篤子は同棲していた。二ヶ月だったけど、それもやっぱり冬だった。なんで同棲していたのか、と訊かれれば、その答えの半分は、冬だったから、ということになるのかも知れない。
 冬は、寒くて動くのが面倒臭い。篤子もそう思っていて、相手の男もそう思っていて、篤子の布団の中に入り込んだ男は出て行かなくて、篤子もそれが自然だと思っていた。寒いから動きたくないと私が思っていたのは、きっと私がデブだったからだろう、と、篤子は今ではそう思っている。
 相手の男は、篤子よりひとつ年上だった。一年前に大学を卒業して、「映画を作るんだ」と言って、フリーターをしていた。
 なんだかすごく忙しそうで、それがよかったと、その当時の篤子も思っていた。きっとそうなんだろうな、と、忘れてしまった昔のことを、篤子はぼんやりと思う出すこともある。
 篤子は裸になると、いやらしい身体つきをしているらしい。あんまりそんなことを鏡の前では考えたくないけれども、なんかどうも、相手の男はそんなことを考えていたような気がする。
 相手の男のことは、鎖骨の辺がくっきりと深かったことしか覚えていない。もっといっぱいあったかも知れないけど、どうも男の身体のことは覚えていにくい。なんか知らないけど、思い出すのを邪魔するなにかがあるような気がする。
 足が細くて、細い腿に細かい毛がいっぱい生えていたからかも知れない。当人もちょっと気にしていたみたいだったから言いにくかったけど、鎖骨がくっきりした細い首の男の足が毛深くて、それが自分の身体をいかにも好きそうに見ていたというのは、なんか、生々しくてイヤだ。
 鎖骨がくっきりと深くて、おんなじセーターを好きで着続けていて、それがちょっと臭ったとかというところで、篤子の記憶バンクは容量オーバーになる。毛の生えた細い足で内股の辺りをムチムチとこすられるのは、別にイヤなことでもなかったけれど───。
 その男と篤子が同棲したのはなんでかというと、その男が篤子とまったく関係がなかったからだ。
 篤子は短大出のOLで、男は、「映画を作りたい」と言う、大学出のフリーターだった。二人の間には、なんの接点もない。
 篤子は別に映画が好きだったわけでもないし、大学を出たばかりで理屈ばっかりの男が好きだったわけじゃない。篤子は、ただ、「映画を作りたいんだ」と言うような男と一緒にいる自分が好きだっただけだ。別に相手がいいヤツで、そんなにやたらに友だちを連れて来るんじゃなかったら、その相手がロックをやってる男でもよかった。普通の人がやれないようなことを、自分自身のペナルティでやってるような男は貴重だから、そういうのとしばらく一緒にいられただけでもいい。
 夢というのはプロが追うもんで、シロートが手を出すもんじゃない。篤子は直感で、そのことを知っている。知っていて、でもちょっと割り切れないのは、どこにシロートとプロの境界線があるのかということだ。
 別に、自分は映画を作りたいわけじゃない。演劇をやりたいわけじゃない。バンドをやりたいわけでもない。「やらないか?」と言われて、今の会社を辞めなくてすむんだったら、やってもいい、と、篤子は言って、ちょっとだけそれをやるだろうけど、でも、そうじゃなかったらやる気はない。
 あまりにもリスクが大きすぎる。「一生を賭ける」と言ったって、篤子にはそれを賭けたら他にはなんにもないんだから、いくらなんでもそんな危険な勝負は出来ない。一生、というのは、ちょっとやばすぎる全財産だ。
 映画をやる、なんてことを言ったら、それではほとんど自分の一生を賭けるみたいになっちゃうような気がするのは、自分がシロートなのかな、と、篤子は思った。世の中には、別にそんなシリアスな顔をしないで、平気で「映画が作りたい」と言う人間がいる。
 自分がそういう才能がなくて、自分に出来ることがあるんだとしたら、お金を出す、という、そっちの才能くらいかなと思う篤子には、とってもそれが重要だ。
 「才能のある人は、きっと、“お金がかかるのに”という発想をしなくてすむんだ」と、篤子は思う。「だからきっと“お金がかかるのに”と思わなくてすむ人は、才能のある人なんだ」と、篤子は思う。
 「才能があって、青春があるんだったら、きっと“映画を作りたい”と言えるんだろうな」と、篤子は思った。「自分は才能がないし、もうOLだから、半分は青春じゃない」と思った。
 青春の人の中にはときどき特殊な人がいて、そういう人は平気で「映画を作りたい」と言うんだと、篤子は思っていた。そういう人が友だちの中にいる人も、やっぱり特殊な選ばれた人なんだと。
 プロとシロートの境は、きっと、そういう選ばれた人と自分みたいな人間の間にあるんだと、篤子はそれまで思っていた。いや、そうではない。篤子は、そんなに意味のないことを考える人間ではないので、その男が現れるまでは、決してそんなことを考えていなかった。
 飲み会の席の端っこにそういう男が現れて、そういう男となんか気が合って、帰り道が一緒の方だと知ったその後になって、自分はそういうことを考えていたんだ、と、篤子は勝手な過去をでっち上げた。
 内面の過去なんか、いくらでもでっち上げられる。重要なのは、篤子が、そういう内面の過去を平気ででっち上げられるパーソナリティの持ち主だという、そのことだけだ。
 飲み会で逢って、その五日後に二人で一緒に逢って、その三日後に電話して、その日の夜中に、男から、「今、そこら辺にいるんだ」という電話があって、篤子と男はおんなじ布団の中で目を覚ました。
 その日は日曜だったから、昼過ぎまで寝ていた。息が白くなる夜の夜中に、「今、そこら辺にいるんだ」と言った男を探して外に出るのは、とってもロマンチックだ。夜はしんしんと冷えて、空気が、まるで傘が必要なくらいに重く湿って感じられる。
 雨の日の出会いはロマンチックだけど、きっと傘が邪魔だろうかな、と、篤子は思う。だから、傘のいらない冬のしんしんと冷える真夜中は、傘のいらない雨の日の出会いみたいでロマンチックだと、篤子は思った。
 誰もいない、街灯だけが点っている道を通って表通りに出ると、小さな人影が手を振っていた。
 「嘘みたい」と思うと、その人影が走ってきた。
 篤子は、夜のガードレールのある歩道の上で、自分がほんとに傘をさして立っている女になっているような気がした。走ってくる男の吐く息が白くて、それが冬の夜の街いっぱいに広がった霧雨のように見えたからだろう。
 その日曜日中男はいて、出勤する篤子と一緒に篤子の部屋を出た。
 月曜の夜には篤子から電話して、水曜の晩には逢って、木曜の朝にはまた月曜とおんなじような別れかたをして、それで、「どうしようか?」と、篤子は様子待ちをした。
 それ以上の出方をすると、深みにはまってしまうような気がした。篤子はもう学生じゃなかったので、学生じゃないのにそういうボーイフレンドを持っているのは、ちょっと危険な気がした。彼女には、もう、張る“手”がない。ロマンチックなことは、一週間かその前の一週間にやり尽くしていて、後は張るんだったら、結婚、という手を張るしかない。
 篤子は、自分を不器用な女だとは思わないで、堅実なカタギの女だと思った。自分は普通の女で、まさか「映画を作りたい」と言うフリーターと結婚したいとは、思わなかった。「映画を作りたい」と言うフリーターがボーイフレンドでいてくれるんだったら嬉しいけど、まさかそういう男に、結婚してくれ、と言われたらイヤだな、と、思っていた。リスクが大きすぎるし。でも、思っていたけど、相手がボーイフレンドでいてくれるかどうかは相手の出方待ちなので、自分からはどうするわけにもいかないなと、篤子は思っていた。
 映画や夢に一生を賭けるわけにもいかないのとおんなじで、フリーターに結婚を賭けるわけにもいかない。つまんないことを考えないでいてくれればいいけど、もし相手がそんな気を出すんだったら、それはそれでおしまいでもしょうがないな、と、篤子は思っていた。
 自分から男のところへ電話をすれば、きっと変なふうに深入りするのに決まってるし、もしも男が電話をしてこなかったらこのまんまだ、と、篤子は、男がそよ風のように、記憶だけを残して消えてしまうことを覚悟していた。
 すると金曜の夜中に、男から電話がかかってきた。先週の週末の夜中とおんなじように、「今、そこら辺にいるんだ」と言った。
 公衆電話の向こうにはなんにも音がしなくて、バックに車の音が流れていた先週とはちょっと違うなと、恋の中にいる女の常として、そういうことに鋭くなっていた篤子は、すぐにわかった。
 わかったけど、なんにも言わなかった。
 そうしたら、男が言った。
 「こないだと違ったとこ歩いてたから、道に迷っちゃって」
 「どこにいるの?」
 篤子はそう言って、ワクワクした。
 「どこにいるか、わかんないんだよ」と、男は辺りの説明をした。
 夜中の住宅街で、辺りには目印になるようなものがあんまりなくて、篤子だって通勤の道以外はほとんど街を知らない。
 どこだからわからない街の中にポツンと離れた恋人たちが迷っているのは、とってもロマンチックだと、篤子は思った。

 月曜の朝には篤子が「どうする?」と言って、男は「着替えだけ取ってこようかな」と、同じ布団の中で干からびた声を出した。
 「じゃ、そうしなよ」と篤子は言って、一人で会社へ行って、そのときからもう二人の同棲がはじまっていた。
 男が一年前に大学を出て、コンビニでバイトをしていたことだけは知っていた。「バイトするんなら、ほんとはコンビニじゃないほうがいいんだ」と男は言って、篤子にはどういう意味があるのかよくわかんなかったけれど、でも篤子は「ふーん」と言った。
 素直に、「ふーん」と言っていさえすれば、会話が続く。大切なのは、それだけだった。
 一番大切なのは「一緒にいること」だったけれども、会話がなくて一緒にいるだけだと、なんだかその相手のことをもう愛していないような気になって、少し気まずかった。

 結局のところ、男は、なんでもなかった。大学生でもなかったし、フリーターでもなかった。男の本職は、「映画を作りたい」と言うだけのなんでもない人間で、篤子はそれで満足だった。
 別に、男を養ってやろうなんて気は、全然ない。応援してやろうという気がないわけではないが、ないわけではないだけ、だった。応援、というのが、どういうことすることなのかはよくわからなかったし、自分で「映画を作りたい」というような才能のある人間には、頑張って、という愛の言葉以外の応援なんか必要ないと思っていた。
 重要なことは、「映画を作りたい」と言うことだけで、その他にはなんにもしないでいてくれることだった。ただのフリーターと同棲するほど、篤子はバカじゃない。そして、自称クリエーターと同棲するような苦労だって、篤子はあんまりしたくなかった。
 クリエーターと同棲するのは、ほとんど結婚しているのとおんなじだ。私だって会社があるし……、と、篤子は思った。
 自分は会社に行って、それだけじゃ寂しくてつまんないから、ただのフリーターじゃなくて、厄介なクリエーターでもない彼がなんとなくいてくれるのがいいな、と、篤子は思っていた。
 篤子はまだその頃二十二で、短大を出て二年目だった。ほんとだったら、私はまだ学生でいてもいいはずなんだから、こんな、働くなんていう苦労をしている私には、きっと神様が、いい子いい子、っ言ってくれて、アキオ君をくれたんだ、と、篤子は一人で思ったこともあった。二十二の年の冬には。
 男は、「アキオ」といって、アキオは春になると、篤子の家から出ていった。
 二月の終わり頃に、「親が、帰ってこい、って言うから」と言って、アキオは篤子の部屋を出ていった。街の卒業式帰りの大学生がうろつく頃だった。
 そのまま田舎に帰ったわけじゃなくて、その後もしばらくはこの街にいたんだという噂もある。でも篤子は、その先を知らない。一年遅れで、卒業・就職ってことが頭に入ったのかなあ? あいつも結構遅れててトロいからなあ……、と、篤子は思った。
 冬が終わって、あんまり二人で部屋の中にいるばっかりじゃうんざりかなあ、と思いかけていたので、アキオと入れ換えでやって来た沈丁花の花の香りが、結構気に入っていた。
 二十三の冬は、概ね、みかんと一緒だったような気がする。
 こたつの上にみかんだけあって、まだ、“物語”はなかった。一緒にいる男の代わりにこたつを買ったのが、その年の冬だった。こたつがある女の部屋に平気でいてくれるような男がいいな、とは思ったけれども、それがどういう男なのか、篤子は全然イメージできなかった。
 年下の男なら平気で入ってきちゃうかも知れないけど、なんかなあ……、と、篤子はそれだけを思った。
 二十三の冬には結婚なんか全然考えなくて、ただムダ話と買い物と飲み会で気ままに暮らして、ときどきはボーイフレンドもいた。結婚なんか全然考えたくなかったから、ボーイフレンドには深入りしなくて、いっぺん付き合った後のボーイフレンドには平気で要求が高くて、だからそのときどきのボーイフレンドの調達には、ちょっとばかり苦労がいった。それだけの話だけれども。
 二十三の春が終わって、二十三の夏が終わって、二十四の秋になって二十四の冬に入って、なにかが少しだけ重くなってきた。冷蔵庫に入れたゼリーが少しだけ固まってきたような、そんな感じで。
 結婚って、しなきゃいけないのかなあ、と、篤子は少なくとも、秋になってから三回は言った。自分はあてどがないし、現実だって十分にあてどがない。それなのにどうして結婚しなきゃいけないんだろう、と、篤子は思った。結婚できないは辛いけど、結婚しなきゃいけないのも窮屈だな、と。
 もっといろんなことも経験したいし、見聞も広めたいし、と思って、でもそんなことは嘘だな、と、思った。
 いろんなとこに旅行はしたいけど、別に見聞なんか広めなくてもいい。愛情がほしくないわけじゃ全然ないけど、愛情だけの生活なんかほしいわけじゃない。ただのんびりしたいだけだ。会社で別にハードな仕事があるわけじゃないけど、結構気を遣う。はっきり言ってしまえば、娯楽がない。娯楽があれば結構会社だけでもいいかも知れないけど、会社には娯楽がなくてオヤジがいる。
 自分の生活の中心にはいつの間にか会社があって、それがなくなったら暇を持て余して困っちゃうのだろうから、別にそれで悪いとは思わないけれども、自分の生活の中心にあるものに娯楽がなくてオヤジがいるのには困っちゃう。つまんないし、のんびりできない。
 オヤジから逃げるためには結婚するしかないのよ、と、短大時代の友だちが言って、至言かも知れない、と、篤子は思った。思ってでも、結婚って、しなきゃいけないのかなあ、と、やっぱり篤子は思う。
 「結婚って、やっぱりしなきゃいけないのかなあ」と、あと六回くらいは言ってみたいと、篤子は思う。それくらい言って、別にたいした答えが返ってこなかったら、結婚してやってもいいかな、くらいのことは思う。
 第一、結婚って、誰とするんだろう? と、篤子は、昼真っから蛍光灯満開の営業所の中を見る。
 結婚してもいいか、と思えるような男には、どうやら女がいる。
 肥ってる男は、やだ。性格の悪いのも、やだ。ノリだけで生きてるのも、どうかと思う。いいヤツは、やっぱり頼りない。



3



 篤子が就職した先は、ミシン会社だった。就職するときは、ちゃんとしたでかいビルのある一流会社だと思った。テレビのCMじゃ見ないけど、かえってそれがまともだと思った。でも、就職して営業所に回されてしばらくしてから、騙されたと思った。
 誰がミシンなんて買うんだ? ミシンなんてどこで売ってるんだ? ミシンを持ってる友だちなんか、一人もいない……。

 街の一応ど真ん中の辺にあって、でもそこの営業所のセールスマンたちは、誰も買わないミシンを売りに行く。
 誰が買うんだろう?
 セールスマンの男たちは、女たちにミシンを売りに行って、篤子の知り合いの女たちは、誰もミシンを買わない。持ってない。
 シュールだなあ、と、篤子は思った。
 そういうシュールな世界で一生懸命働いているらしい男と結婚するのは、無理だ。どうしてもリアリティが湧かない。シュールならシュールで、もう少しなんとかしたほうがリアリティだって増すだろうとは思うけど、きっとそうもいかないんだ。この世のどっかにはミシンを買う女もちゃんといて、それでこういうちゃんとした会社もあって、私はテキトーに生きてるんだから、と思うと、現実の不可思議に撃たれて、篤子はなんにも言えなくなってしまう。
 会社って不思議だよね、とは思うけども、娯楽のなさにはやっぱりうんざりする。

 「カモメちゃん、仕事って好き?」
 ラザニアを突っつきながら篤子が言った。
 「仕事って、好き嫌いとは関係ないんじゃないの」
 カモメちゃんの言う判断は適切すぎて、他にはなんとも言いようがない。
 だから篤子は、まあね、と言う。会社で仕事のことを問題にしたってしょうがない。
 それくらいは、篤子にもわかっている。
 じゃ、会社ってなんだ? ってことになると、もう篤子にはわからない。
 ほとんどOLは、会社と結婚してしまった主婦だ。テキトーに働いてゴロゴロして、別に不満はなくて、そんなに嫌いでもないけど、今さらどう転がったって、愛してる、なんて言いたくもないし、言ってほしくもない。選択肢は“離婚”だけだ。きっと、家庭の外に生き甲斐を求める主婦って、私たちみたいなんだろうなあ、と、隣の席のオバサンたちを見て、篤子は思った。
 「今日、どっか行く?」と言われて、篤子とカモメが会社の帰りに寄ったイタリアン・レストランの隣の席には、三人組の主婦がいた。五十くらいの中年の。

 「ねえ、私たちって、ほとんど主婦だよね?」
 篤子は言って、目だけで隣の席を指した。
 カモメちゃんも隣をちらっと見て、ああ、と言った。
 それで今さら、どう結婚をするって言うんだろう? 篤子には、それがわからない。
 わからないから、カモメちゃんはゴロゴロしている。ゴロゴロして、ふっと落ち込みそうになるのは、やっぱりまだ、ここんとこあんましいいことがない症候群から抜けてないからかも知れない。
 「でも」
 カモメちゃんが言った。
 「つまんないこと考えないほうがいいよ」

 そうだね、と、篤子は答える。それが、このまんまの状態を持ちこたえるコツだ。自分たちは、所謂、キャリアじゃない。ただのOLだ。やがて結婚して、つまんない過去は一切帳消しにしてもらえる。帳消しに出来ないようなつまんない傷は、残さないほうがいい。人生はエステで、それが最大の目的だ。
 すでに人生ははじまっている。気がついたら人生はもうはじまっていたというところが、OLの辛いところだけれど、もうはじまっているんだから、仕方がない。OLはオレンジじゃない。OLは、初めから、オレンジになれないみかんなんだ。少なくとも篤子には、それだけがわかったような気がした。わかっていて、それをどう扱えばいいのかがわからなかった。

 レストランを出て、カモメちゃんと二人で、歌を歌いながら歩いた。
 ワインの酔いが気持ちよかった。
 ワインの酔いは部屋の前まで一緒で、部屋の中に入って明かりをつけたら、ちょっと質の違う理性がそこに待っていた。ような気がした。別に悪いことじゃない。
 こたつの上には白い小さな籐のバスケットがあって、そこに小さなみかんが四つ、猫の子のように眠っていた。
 「オレンジになれないみかん」
 それが、かわいいな、と、篤子には思えた。
 「オレンジになれないみかん」
 口の中でそう呟くと、もう一度繰り返したくなる。
 そう、“物語”がないのがいけなかったのだ。主役の設定を誤っていたのがいけなかったのだ。
 でも、もう“物語”はある。
 オレンジにはなれないみかんの物語───。

 “物語”だけあって、他にはなんにもない。
 でも、それでも十分いい、と、篤子は思った。だって、私は頭が悪いし、まだ二十四だし、と。
 篤子は少しトクをしたような気分になって、こたつの上の白い籐のバスケットに手を伸ばした。
 四つの小さなみかんの影に、食べかけの半分のみかんがあった。黄色いみかんの皮の中で、白いみかんの袋はカラカラに乾いていた。
 それをそのまんま食べられるほど、オバサンじゃない。それをそのまんま捨ててしまうほど若くはない。
 篤子は、中の果汁でパンパンに膨れ上がっているみかんの乾いた袋を指で触って、どうしようかな、と、少し考えた。
 「捨てよっか、食べよっか───」
 答えは、すぐには出なかった。

fin.