
背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった。
まだ黄昏どきなのだが、背中のあたりに暗がりが集まってしまったらしく、密度が濃くなったその暗がりの塊が、背中に接着し、接着面の一部が食い込んでいるのだった。
振ったり揺らしたりしたが、夜は離れない。手で剥がそうとしても、実体を持たないふらふらしたものなので、掴みどころがなくて困る。一番濃い暗がりの部分を捕まえた、と思っても、見る間に暗がりは拡散していき、違う部分が今度は濃くなってしまったりする。
そのうちに痒くてたまらなくなってきて、ばりばりと背中を掻いた。掻けば掻くほど、暗がりは背中に食い込み、食い込めば食い込むほど、痒くなる。たまらなくなって、駆け出した。
駆けてみると、馬のような疾さである。夜が食い込むと、なるほどこのように速くなるのかと感心しながらかけた。道や歩く人や看板が、電車の窓から見る風景のように遠ざかる。
しばらく走っていたが、直に飽きてしまった。馬のように身体から湯気が立ち上がった。鼻息も荒い。立ち上る湯気のなかに、夜の暗がりのような混じっているらしく、周りを取り巻く空気が曖昧になる。何人かの人が遠巻きに眺めている。珍しいものを見るような様子で、眺めている。
鼻息のなかにも暗がりが混じり、吐き出されて暗い筋をつくって、どこまでも伸びていく。息を吐くと、筋は少し伸び、吸うと鼻に近い部分がいったん鼻に吸い込まれる。再び吐くとまた少し伸び、そうやって、暗がりは鼻に生えた紐のような鋼のようなものになって伸び続けた。
眺めている人のうちの一人が、「いいものを見たねえ」と言って、手を叩いた。ぽんぽんと、池のコイを呼ぶような叩きかたをした。他の見物人たちも倣って手を叩く。突然、腹が立った。こら、と、叫ぼうとした。
叫ぼうとして声が出ないことに気がついた。こら、の、こ、が、出ない。鼻息を荒くして、こ、こ、と息むが、鼻息がますます荒くなるばかりである。見物人は喜び、さらに手を叩く。
あんまり腹が立って、飛び上がった。飛び上がりながら声を張り上げると、嘶きになった。馬の嘶きになった。そのままどこかの屋根の上まで飛んで、さかんに嘶いた。下で見物人たちが手を叩いている。叩く音に負けないよう、何度でも嘶いた。身体も馬になり、全身は黒い毛で覆われた。
「夜がはじまるよ。夜の馬が来たよ」
先ほど最初に手を叩いた見物人らしきものが言い、それとともに身体から吹き出す湯気は勢いを増し、暗がりは広がっていった。

歩いているうちに、人が多くなった。いち方向に流れている。流れに乗って歩いた。
黄昏よりももう少し夜に近い時刻である。前を歩く人の輪郭はわかるが、何色の服を着ているのかは定かでない。街灯夫が長い棒を持って流れに逆らうようにして街灯に近づいていた。棒を街灯まで伸ばして何秒か静止すると、街灯が点る。見ると、街灯夫は何人もいて、あちらでもこちらでも街灯が次々に点った。
人は先ほどよりも増え、そろそろ歩きにくくなっていた。
「あなたも行くの?」
そう訊かれて振り向くと、髪の短いほっそりとした少女がすぐ後ろを歩いていた。
「まあね」
どちらとも取れる答えをすると、少女は持っている小さな鞄から紙包みを取り出して、開いた。カバンを探る間も紙包みを開く間も、少女は流れの速さで歩き続けた。押されるようにして、同じ速さで歩いた。
紙包みからは、緑色の切符が現れた。
「一枚余ってるから、あげます」
そう言って、少女は緑色の切符をこちらのポケットにするりと入れた。礼を言おうとすると、手を振って制止する。それから後方を指差した。流れが塞き止められて、人々が団子のように固まりはじめていた。平面のダンゴになったその人々の上に、さらに後ろから来た人々が重なって、立体的な団子をつくりはじめている。
慌てて前を向いて歩きはじめた。前の人との距離がずいぶんと開いている。追いつこうと走りはじめると、再び少女に制止された。
「走ると混沌がはじまっちゃうのよ。まだまだ。まだまだ」
よくわからないことを言う。仕方なく、また歩いた。
終点が近いらしく、流れは太くなりつつあった。太くなったその突き当たりに、なにかが聳え立っていた。
切符切りが数十人並び、そこを通り過ぎると、聳え立っているものがはっきりと見えてきた。
大きな歌手だった。3階建てくらいの高さがあった。下から見上げると、顎の裏側にあるホクロや上下する胸の様子がはっきりと見てとれた。
「あれ、つけボクロよ」少女がうっとりと言った。
歌手は、音試しをするように、いろいろな高さの音を出している。高音を出すと、歌手の頭のすぐ横に生えている丈の高い銀杏に停まっていた小鳥が何羽も飛び立つ。低音を出せば、地面が何カ所も盛り上がって、地中の小動物がわらわらと現れる。
歌手の前にある広場が聴衆でぎっしりになった頃に、歌手は前置きなしに歌いはじめた。大きな楽器が上空で鳴っているような、調べが空を泳いでいくような、そんな感じがしたと思ったら、歌手の声はすべてを覆ってしまっていた。声が聞こえるのではなく、声の中にいるようで、なにが歌われているのか聴き取ることも出来ないのであるが、確かに歌手は揺ゆたうようにゆっくりと歌い続けているのだった。
歌手の調べに乗って、人々は広がりはじめていた。ぎっしりと詰まっていた広場から、また流れをつくって、四方八方に流れていく。湖からあらゆる方向に流れ出ていく小さな川のように、連なって流れていくのであった。
「どこに行くの?」
訊くと、少女は気持ちよさそうに眼を閉じたまま、何回か頷いた。
「どこなの?」
「夜よ」
答えた途端、少女はがっくりと首を折って、深い眠りに落ちてしまった。眠ったまま、流されていく。
少女と並んで、混沌の一部になったまま、夜に入っていった。

白い階段を上がっていくと、扉があった。扉を開けると、宴会が行われていた。
白い服を着た紳士が何人もいて、飲み食いしている。食卓の中心には、ウニ、ヒラメ、ホタテ、ホッキ貝、鯛、シマアジ、マグロ、いか、タコ、白魚などの盛られた大皿があり、その周りには煮たものや焼いたものや揚げたものの皿がぎっしりと置かれていた。紳士たちは盛んにぱくついている。
「ここの柔らかいところがたまりませんな」
「いやいや、柔らかくなってしまってはいけない。固いうちに食べるのが肝心」
「それだけの価値はあります」
紳士らしい物静かな口調で、いろいろ言い合っている。
あまり食卓の上のものが美味そうなので、咽喉が鳴ってしまった。紳士たちは一斉に振り向き、注視した。
「おや、遠来の客ですかな」
「客ですな」
「これは珍しい」
「祝すべきことでございますなあ」
言い合い、立ち上がる。ナプキンを椅子の上に置き、両手を差し出しながら、こちらに近づいてくる。
「よくいらっしゃいました」
先頭の紳士がそう言うと、他の紳士たちも口々に、「ようこそ」と言った。
食卓の中心にある席に案内され、ナプキンを首から下げさせられ、キラキラ光るナイフとフォークをあてがわれた。
「どうぞ」
「どうぞどうぞ。ご遠慮なく」
再び食卓についた紳士たちの顔がこちらを向く。右側にいる紳士たちは左に顔を向け、左側にいる紳士たちは右に顔を向ける。重ね絵のように、紳士たちの顔が中心に向かって続く。
「さあさあ、ヒラメも美味しいですよ」
「香炸鶏塊などいかがですか」
「グーンキョワーンがよろしければ取り寄せますよ」
一斉に勧められて、フォークが迷った。紳士たちはそのフォークの先をじっと見つめている。涎を垂らさんばかりに、フォークの先を眺めまわしている。
傍の皿に盛られている、種類のよくわからない肉らしきものにフォークを突き刺すと、溜息が漏れた。
「ああ」
「遠来の客はさすがですなあ」
「お目が高い」
味もわからぬまま、ナイフで細かく切ったそのものを食べた。
「次はなにを食べますかな」
「ほらほら、余計なことを言うと、客の気が散りますよ」
見られたままで食べた。食べるごとに溜息や歓声やどよめきが起こり、味はますますわからなくなっていった。
腹がいっぱいになったのでナイフとフォークを置くと、紳士たちに睨まれた。
「客は案外腹が小さい」
「いやいや、ただの小休止ですよ」
「まさかこれでお終いということはありませんよ」
居たたまれなくなって、食べ続けた。腹が破裂しそうになったが、食べ続けた。食卓の上のご馳走がほとんどなくなるまで、食べ続けた。ようやく終いに近づいたと思ってほっとしたのも束の間、一人の紳士が涼しい音のするベルを鳴らした。
「客は果報者ですな」
「よのような珍味佳肴を味わえるとは」
「夜明けまで、いくらでも好きなだけ食べられるのですな」
「ええ、夜が明けるまでは食べ続けていただきましょう」
もう、ひとかけらの食物も入らないと思ったが、紳士たちはにこやかに厳しく眺めている。
窓の外で、夜啼鳥が鋭く鳴いた。もう食べられません、勘弁してください、そう言おうとするのであるが、言い出せない。
夜啼鳥が、また、鳴いた。食卓の上の皿はピカピカと光り、皿の上のあらゆる種類の食物は艶やかに息づいている。
夜は、まだはじまったばかりだった。

長い間流されていたと思っていたが、起き上がってみると時間が止まっていた。時間が止まっていたので、長い間流されていたとしても、それはもう長い間ではなくなっているのであった。
一緒に流されていた少女の髪が腰のあたりまで伸びていた。時間は止まっているのに、少女の髪だけは伸びているのである。
おはよう、少女が目覚めたのを見て言うと、少女はくすくすと笑った。まだおはようじゃないわよ、まだ夜なのよ、そう言って笑った。
そうか、今は夜か、答えると、少女は腕を絡ませてきた。
少女の髪が少女の腕とともに絡まる。髪はさらさらと温かい。
長くなったね、そう言うと、少女は、でもあなたの髪は伸びてないのね、と言う。髪は、たしかに伸びていなかった。
少女の髪が生きもののように持ち上がって、首や肩を撫でた。くちづけをしようと被さると、少女は薄く開いたくちびるから息を吐き出した。少女の息の匂いは百合の花が萎れる直前の匂いと同じものであり、吐息の音は蝶が羽ばたく温い音と同じものであった。
少女の息を吸うようにしてくちづけをした。吸われて少女は少し萎んだ。腕の中の少女は、次第に軽く薄くなっていった。腕の中に盛りを過ぎた百合の匂いが満ちて、息苦しかった。くちづけの味わいがあまりにも甘美なので、少女が萎んでいくことがわかっても、止められない。ますます少女は萎み、胸には濃密なものが充満した。
掌に入るくらいに縮んでしまった少女を持ちながら、くちづけをした。足の先から頭の先までが痺れ、大きな柔らかいものに包まれているような心持ちになった。重なり合った巨大な花びらのようなものに包まれた感触のまま、くしゃくしゃに縮んだ少女とくちづけをした。
ついに少女は直径1センチほどのものになった。くちづけをしているのだかくちづけの余韻に浸っているのだかわからないようになってしまってからも、少女の吐く息はますます百合の匂いに満ち、蝶の羽ばたき音にも似た息の音は耳にうるさいほどに高まった。
掌の少女を見ると、夜の中で白く光っていた。光沢のある少女の表面を撫でると、つるりとした温かいような感じがして、よく見ると少女は真珠玉になっていた。真珠玉の奥には、少女の顔が映っており、映っている少女の眼の奥を覗くと、さらに小さな少女が映っているのであった。
無限に小さくなっていくそれぞれの少女は、相変わらず甘やかな息を吐き、静かに、しかし執拗に、誘っていた。真珠玉の表面を掌で探ると、それぞれの少女はひらひらと笑い、ますます誘った。
真珠玉を口に含み、舌の上にしばらく置き、それから飲み干した。
無数の少女が咽喉から腹に降り、血管を通じて身体じゅうに広がった。爆ぜるような快さの波が身体を駆け巡ったと思ったら、突然髪が伸び、止まっていた時間が流れはじめた。
少女の欠片が身体の隅々に達するまで時間は流れ続けた。少女は細やかな粒子よりもさらに細かなものに砕かれて、身体の中を巡った。巡るごとに少女は均質化されて混じり合い、終いには少女が自分であるのか自分が少女であるのかわからなくなってしまった。わからなくなってから初めて少女を慈しむような心持ちになった。少女だか自分だかはっきりしないものを慈しんでいるような心持ちになった。
そう思った瞬間に、時間が止まり、しばらくすると、ものすごい勢いで収斂がはじまった。

いくら注いでもコップがいっぱいにならないと思ったら、コーヒーだったはずの液体が、いつの間にか夜に変わっているのだった。
コップに注がれている夜を覗き込むと、表面に近いところには小さな星やガスが渦巻いていて、その底でなにかが笑っていた。ぞっとして流しにコップを運び、入っていた夜を全部こぼしてしまおうとしたが、いくらこぼしても果てがない。
1時間こぼしても、夜は全然尽きない。排水口に吸い込まれても吸い込まれても、尽きない。諦めてコップを戻してもう一度覗くと、底で笑っている声がますます高くなった。コップを壁に投げつけると、割れた欠片のあいだから夜がフワフワと広がり、ふわふわの中から笑いの主が現れた。
大きなニホンザルだった。
歯茎を剥き出して、大きな声で笑っている。サルなのに人間のような声で笑うのに驚いて、掃除用のモップの先で突いてみた。
突かれて、ニホンザルは笑い止んだ。
「なぜそんな無作法なことをする」ニホンザルは恐ろしい声で言った。
謝ろうと思っても、舌の付け根が乾いたようになって、声にならない。
「親に礼儀というものを教わらなかったのか」ニホンザルはさらに大きな声で怒鳴った。
ぺこぺこ頭を下げて、少しずつ後退りした。ニホンザルはにじり寄ってくる。
「謝りなさい」割れ鐘のような声が響くと、部屋の壁にひびが入った。
さらに後退りすると、もう一度ニホンザルは「謝りなさい」と怒鳴り、同時に部屋の天井がどさりと落ちた。
間一髪のところでドアを開け、夜の廊下に飛び出した。隣近所の人が何人も出てきていて、落ちた天井を指差してはなにかを話し合っている。人垣を掻き分けるようにして走り出す。瓦礫の中から怒ったニホンザルが大きな唸りをあげながら現れると、野次馬の人々は、蜘蛛の子を散らすように散り散りになった。
逃げ遅れた何人かが、怒りで視界の狭くなったニホンザルに跳ね飛ばされ、遠くまで飛んだ。振り返ってみると、飛ばされた人々は笑いながら放物線を描いて夜の中に消えるところだった。一瞬、気を惹かれて立ち止まりそうになったが、すぐ後ろにニホンザルの荒い息が迫っているのがわかって、反射的にまた駆け出した。
「謝りなさい」ニホンザルは、はあはあと息を切らせながら言う。
謝りたいのだが、一度勢いのついてしまった足は止まらない。
「謝りなさい」はあはあいう息はそのうちぜいぜいになって、ぜいぜいの中に、雷鳴のような音まで混じるようになった。
「謝りなさい」首筋のすぐ後ろでニホンザルがそう言うと、何十もの雷鳴が響きわたる。雷は次第に激しくなり、空の高いところで稲妻もしきりに光る。雷鳴と稲妻の間隔が短くなり、直に雷が鳴るのと同時に稲妻が光るようになった。何回か落雷があり、そのたびに闇が白色に変化しては再び闇に戻った。足が地面を蹴る速さは、雷が鳴るごとに高まる。
音速を超えてしまったらしく、雷鳴が聞こえなくなった。稲妻だけがひっきりなしに光り、その中をニホンザルと一緒にびゅうびゅうと駆けていく。ニホンザルの「謝りなさい」という言葉も、もう聞こえない。音のない中を必死に駆けていく。
ついに疲れて足の動きが鈍くなり、ニホンザルに追いつかれた。ニホンザルの足の速さは緩まない。見る間に追い越していったと思ったら、すぐに見えなくなった。
少しずつ足の動きが遅くなり、それにつれて音が戻ってきた。ニホンザルの荒い息や雷鳴が、最初は水の中を通した音のように曖昧に、そのうち次第に明瞭に、耳の外からやって来た。次の瞬間には、あらゆる音がいちどきに押し寄せ、溢れた。
音の洪水のようなものの中で耳を澄ませると、その洪水の底でひときわ大きくなっているものがあり、よく聞いてみると笑い声だった。
夜の中に鳴り響く音の中でも、ひときわ力強く鳴り響いているのは、ほかならぬ、ニホンザルの笑い声だった。

しばらく質量がなくなっていた。質量がなければ存在しないような気がするのだが、しかしたしかに自分がいるのはわかった。面妖である。
自分がいるだけでなく、例の少女もすぐ傍にいる。少女も質量がなかった。なにもないところから少女の動く音が聞こえた。それで、少女がいるのがわかった。
少女に声をかけようとしたその刹那に、夥しい光があたりを照らした。
夜空の一角から光は射していた。その部分だけ夜を剥ぎ取ったように、空が四角く切り取られていて、四角から溢れる光が拡散せずに直進してやって来ていた。端から見れば、四角い光の柱が地面から天に向かって立てられたようであったに違いない。
光に照らされて、質量があるようになった。あらたかな光なのであった。質量はあるようになったが、わずかな質量だったので、二人ともひどく小さかった。鼠なんかよりも、もっと小さかった。
小さいまま、少女に向かって、「愛しい」と言った。降り注ぐ光の中で、「愛しい愛しい」と言った。言うたびに、大地から妙なものが生まれた。
最初は少女の出来損ないみたいなものが現れた。目の前にいる小さい少女の二倍くらいの大きさで、金属製だった。ぎしぎしと光の外に歩み去った。
二番目にもまた少女の出来損ないが現れた。銀色だった。光に照らされるので銀色なのかと思ったが、光の外に出ても銀に輝いていた。顔から手から足からみんな銀で、威嚇するように輝きわたっている。金属製の最初のを追って、これも去った。銀の軌跡が残像となっていつまでも目の中に残った。
三番目の少女も出来損ないで、これはほとんど少女にそっくりなのであるが、ただ尾っぽが生えているのだった。尾っぽをひとしきり振りまわしてから、前の二人を追った。
四番目の「愛しい」を言おうとすると、少女が手を伸ばしてきて口を柔らかく塞いだ。口に当たる少女の手は夜の香りがした。少女の手を外そうとしてゆっくりと手首を掴んで下に移動させた。
「どうして」と訊くと、少女は、「だって、それ、嘘でしょ」と言う。
そっと抱き寄せると、同じように抱き返してくる。「そんな簡単に言えることじゃないでしょ」と言いながら、抱き返してくる。図星を指された、と思いながら、抱き合ううちに、また「愛しい」と言いたくなってしまった。
嘘なのだから止めればいいのに、つい言ってしまった。言った途端に地面が轟々と響き、ぱっくり割れたと思ったら、正確な質量の自分と少女が生まれ出た。巨大に見えるその二人は、にこやかに微笑みながら、一番目に生まれた金属の少女と二番目の銀色のと三番目の尾っぽの生えたのをその巨大な目で難なく夜の中から見つけ出し、鞄の中にしまった。それからこちらに向き直ると少女をひょいと摘まみ上げ、同じく鞄にしまった。
最後に自分もしまわれるのかと待っていると、案の定しまわれた。
しまわれたまま、もう出してはもらえなかった。

水槽の中にはドジョウのようなものが何匹も泳いでいて、それを掬い出しては、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と、投げつけている。投げつけているのは、子供だった。
投げつけられたドジョウは、いったん仮死状態になってから生き返り、水の脈を残しながらそこらに多くある水たまりに潜っていく。
「そんなに投げるとドジョウが死んでしまう」と注意すると、子供は眉をしかめた。
「死なないよ」低い声でそう言って、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と、投げつける。
長い間投げつけているのに、水槽の中のドジョウは、ちっとも減らない。小さな蛍光灯が水槽に取り付けられていて、闇の中に水槽を浮かび上がらせている。子供はその光から少し外れたところにいるので、顔はしかと見定められない。
投げても投げてもなくならないどころか、少しずつ増えているようにも見える。
「柳川は好き」子供が訊いた。
「え」と言うと、子供はひときわ大きな音でドジョウを投げつけながら、もう一度「柳川」と言った。
「まあね」
「それならこの水槽、あげるよ」ますます低い声で言う。
ドジョウなどにかまわず通り過ぎてしまえばよかったのである。子供は濡れた手でこちらの袖口を掴み、ドジョウを握らせてくる。
「美味しいよ」
言ってから、また、ぴしゃっ、と、投げる。
闇の底のほうで何匹ものドジョウがうねうねと水たまりに向かって移動する。水たまりはドジョウを飲み込むと直に消えて、次のドジョウが投げられると再びすうっと現れる。
「いや、ドジョウはいらない」
答えると、子供はうなだれた。
「どうしても」そう訊いて、うううっ、というような声を立てる。
どうにも気味が悪くて、子供から離れようと思った。握られたドジョウをこっそり地面に置き、なに食わぬ顔で歩きはじめようとした。ところが地面にドジョウを置いた途端にそこに大きな水たまりが出来て、足下まで広がってくる。水たまりは油を流したようにとろりとしていて、ドジョウが潜り込んでもさざ波ひとつ立てない。
「どうしても」もう一度、子供が訊く。
「どうしても」
答えると同時に、子供に強く押されて水たまりに落ちた。引き込まれて、どんどん沈んでいく。頭まで沈んで見わたすと、暗い。夜なので暗いのか、暗い質の水たまりなのかわからないままに見わたしていると、目が慣れてきた。
沈んでいく先の奥底に、無数のドジョウがいる。いやだいやだと思って手を見ると、すでにヒレに変化しはじめていて、足先も尾っぽになりかけている。ドジョウはいやだと強く思うとヒレはもとの手に戻るが、油断するとすぐにヒレになる。
「それでも水槽はいらない」頭の上から子供の低い声が降ってくる。
忌々しかったが、仕方がない。
「柳川は大好きだ」大声で答えた。
子供の手に掴まれて、ぴしゃっ、と、地面に投げつけられた。うねうねと子供の足下に行き、子供の足を這い上がった。足から腰、腰から腹を這い上がり、やっと子供の腕に達した。うねうねと手まで達すると、子供はまた掴んで、ぴしゃっ、と、投げつけた。
七回同じことを繰り返して、やっと人の姿に戻った。
「柳川は好きでしょ」子供が念を押すので、
「柳川は大好きだ」と再び答えた。
水槽を押しつけると、子供は水たまりの中に身を躍らせて、消えた。水たまりはしばらくしんとしていたが、やがてなくなった。
水槽の中のドジョウがますます増えている。水面までぎっしりとドジョウが詰まったようになっている。
夜の中に水をこぼさないように気をつけながら急いで持ち帰り、柳川の用意をした。ごぼうを笹掻きにして、ありったけの鍋を煮立てた。いちどきにドジョウを鍋にあげ、蓋をすると、いい匂いが立ち上がってきた。
「柳川は好きでしょ」もう一度子供の声が聞こえ、それを合図に、夜に住むあらゆる生きものが戸の隙間から入り込んできた。それから、柳川を貪り食べた。

知らないうちに少女とはぐれ、探しても探しても出てこないのであった。
月は高いところに行ってしまい、地面の上には夜の植物の影が薄い月明かりに照らされてぼんやりと映っている。
「おおいおおい」と叫んでも、少女はちっとも答えない。何回呼んでも出てこない。
月のつくるぶわぶわした影を辿って歩いていくと、柔らかな少女の殻がいくつも脱ぎ捨ててあって、そのたびに本物の少女かと抱き上げるのであるが、どれもただの抜け殻なのである。
長い間見知ったようでもあるしほとんど知らないようでもある少女のことになぜこれほど探すのかよくわからないままに、探し続けた。少女のことを好きかと問われれば好きであると答えるかも知れないし、さほどでもないかと問われればさほどでもないと答えるようにも思う。探しはじめてしまったので、探し続けているのかも知れなかった。
今までで一番大きな少女の殻を拾うと、まだ温かみが残っていた。おそらく間近に少女は潜んでいるのであろう。
月に映し出された影の群れが尽きるあたりに大きな箱が置いてあって、触ると温かく震えていた。
少女の入った箱に違いなかった。先ほどよりもさらに大きな殻が箱のすぐ前に脱ぎ捨ててある。殻はまるで生きた少女のように半分膝を崩した様子で地面の上に横たわっている。そっと撫でてみた。しかし殻なので些かも動かなかった。
すぐさま箱を開けようと思って開け口を探したが、つるりと白い箱には取りかかりがなかった。そのまま迷っていると、箱は大きく震える。
明けて、と言っているのか、開けないで、と言っているのか、ぶるん、ぶるん、と、震える。箱ごと抱きしめ、頬ずりした。
いつまでも頬ずりしていても仕方ないので、どうにか箱をこじ開けようとするのだが、箱の表面はどこまでも滑らかなのであった。押してみても指の跡ひとつつかない。小さなナイフを懐から出して突き立ててみても、跳ね返されるばかりだ。
往生して考え込んだ。
箱は何回でも、ぶるん、ぶるん、と、震える。斧で箱を叩き割ろうかと考えた。しかしそれでは中の少女まで割れてしまうかも知れない。ではこのまま箱を持ち帰り、部屋の中で永遠に箱ごと愛でていようか。しかしそれでは少女はいないも同然である。
考えに考えた。
今この箱の中にある少女とはいったいなんであろうか。いるようでいない。いないようでいる。いるといないが半分ずつ混じったような、そんなものであろうか。
横たわる少女の殻を足先で触りながら、考えに考えた。
考えているうちに辛抱出来なくなって、部屋に飛んで帰り、げんのうを抱えて引き返し、滅茶苦茶に箱を叩き壊した。
壊れた箱の中から少女は現れた。現れた少女は予想通り割れて崩れた少女なのであった。悲しくておいおい泣いた。なぜ箱を壊してしまったのかと悔やみながらおいおい泣いた。しかし壊さずにはいられなかったのである。
いるようでいない、いないようでいるなどという馬鹿馬鹿しい状態をどうやって持ちこたえることが出来ようか。
量子力学を深く恨みながら、おいおい、おいおい、と、泣き続けた。

ぶつかった拍子に、男の懐からは何匹ものモグラがこぼれ落ちた。
「しまったしまった」騒ぎながら拾い集めている。
知らぬふりをして行き過ぎた。夜の中で会う者にかかずらわると、どうもロクなことがない。
「待て待て」と叫びながら、男はモグラを追いかけまわしているようであるが、振り向かずに足早に歩いた。
声の聞こえないところまで歩いて、立ち止まった。追ってくる様子はない。しばらく待ったが、なんの気配もない。もっと待ったが、こそとも音は聞こえない。天頂にある月を見たり風がざわりと起こるのを確かめたりしたが、何事もはじまらない。
つまらなくなって戻った。
探しはじめると見つからないもので、どれだけ戻っても男の姿はなかった。ときおりモグラがうろうろしているので、それを頼りに道を戻った。
モグラを辿って歩くうちに深追いしすぎたらしく、知らぬ道に入り込んでいた。道のあちこちからゆるい調べが流れていた。調べを聴いていると、眠ってしまいそうになる。聴くまい聴くまいと思っても自然と耳に流れ込み、身も心も眠らせようとする。
我慢出来ずに地面に寝そべった。昼間の光に温められて、かすかなぬくみがある。ああもう眠ると思った。思った途端に男に叩き起こされた。
「この横筋野郎」
激しい口調で罵倒する。飛び起きた。
「そういう了見で世の中わたっていけると思っとるのか」
続けざまの罵倒である。呆気にとられて男を眺めると、ますます罵倒する。
「おまえには三角意識というものがないのか」
「とんでもない四化瞑虫だ」
「こうなったら折って畳んで逆さに振って終いには壷月にしてやる」
勢いに押されてなにも言い返せないでいると、はっしと睨みつける。よく見ると、男の顔はモグラそっくりであった。そっくりと言うよりも、モグラそのものであった。モグラそのものの男が、懐いっぱいにモグラを隠して罵倒する。
「一昨日会ったら大恐慌だったんだぞ、ええまったく」
だんだんわからなくなってくる。モグラなのだから仕方がないと思い、黙って聞いていた。うなだれた様子をしていると、次第に静まってくる。最後にははあはあと息を吐くだけになった。
息を激しく吐きながら、寄ってきた。
びくびくしながら顔を上げると、肩を抱きにくるところだった。顔を寄せてくんくんと嗅ぐ。丁寧に、何回でもくんくん嗅ぐ。すっかり嗅ぎ終わると、突然格好を崩して「やあ」と言った。
「やあ、先ほどは失礼しました。少々気が立っていたものですから」
180度の変わりようである。
「よかったらお近づきになろうではありませんか」
言いながら、手を差し出す。掌は漆黒で、鋭い鈎がついていた。握手を返しながらそっと窺うと、神経質そうに瞬きを繰り返している。油断出来ないと肝に命じた。
「ご趣味はなんですか」
「近頃儲かりますか」
「どこか面白い店を知ってますか」
次々に訊いてくる。当たり障りのない答えをしながら、さらに様子を窺った。
気がつかないうちにまたあの小路に入り込んでいて、調べが聞こえはじめていた。油断してはいけないと何回も思うのであるが、調べが耳に入るごとに、身体のどこかのタガが緩んでくる。
「お好きなタイプの異性は」と訊かれる頃には、すっかり油断が身体じゅうに充満していて、ついにむずむずする口を抑えられなくなった。
小さな声で答えた。
聞こえなかったらしく、もう一度「えっ」と大きな声で聞き返された。
「モグラモチ」
答えた途端に、男の懐いっぱいに詰まってモグラが溢れ出て、道いっぱいに広がった。男は掌を握りしめる。
「モグラモチ、ですか」
わなわなと震えながら、男が答える。
モグラは陸続きの男の懐から湧き出て、地面は折り重なったモグラでいっぱいになる。
モグラたちの立てる密やかなざわめきが、夜を満たす。

しばらくはばらばらになった少女を掻き集めて泣いていたが、泣いていてもなにもはじまらないので、元締のところに少女の欠片を持っていくことにした。
元締のいる場所が近くなるにつれて、騒音が大きくなった。轟々というその音は、大きな風車がまわる音なのであった。風車は元締の座っている玉座の後ろでまわっている。風車は夜を集めては、掻きまわしているのであった。
掻きまわされた夜はいったん緩やかな流れをつくり、それから固まっていく。もう夜も半ばに差しかかっているので、夜の体積の半分近くが固められ、そのために夜の中を歩いても、夜のはじまりの頃の浮遊感はなかった。代わりに、みしみしいうかんじの確固としたものがあって、それはそれでまさに夜らしいかんじなのではあった。
「再生をお願いします」
地面に膝をつき、最上級のお辞儀をしながら、言った。
「再生とな」
元締は目を細めながら答える。元締の身体は玉座に沈み込んでいる。あまり大きな元締ではないのであった。元締が手にしている錫に嵌まった巨大な青い宝石が、きらりと瞬いた。
「元締さまなら再生能力がおありになろうかと存じまして」
もう一度深々とお辞儀をしたが、元締はお辞儀が終わるのを待たずにせかせかと答えた。
「ワシはいやじゃ」
「なんと」
「少女の再生などまっぴらじゃ」
そう言ったきり、もう取り合おうとはしない。何回かまた最上級のお辞儀をしてみたが、効果はなかった。もともと儀礼的なことが嫌いなのかもしれなかった。
がっかりして立ち去ろうと後ろを向くと、肩を突かれた。冷たい肌触りのもので突かれたと思ったら、元締の錫の先で突かれているのだった。
「ワシはいやじゃが、どうしてもと言うならおまえが再生してみればよかろう」
そう言って、突く。難しい顔をして立っていると、何度でも突く。突くたびに、巨大な青い宝石がいちいち瞬いた。
「そういたします」
突かれるのいやさにそう言うと、元締はやっと突くのを止め、もとのように玉座に沈み込んだ。風車が轟々と鳴る。
元締からだいぶ離れた場所まで歩いていって、少女の欠片を選り分け、再生に使えそうな細胞核を取り出した。いつも元締がやっているように、肘の内側の細胞にマイクロピペットで細胞核を注入し、さらに元締の真似をしてとんぼを三回切った。とんぼがえりと再生がどう関係するのか知らないが、ともかく元締が行うことはなんでも真似しておこうと思ったのである。
しばらく待ってから、仮眠状態に入った。
そのまま長く仮眠して目覚めると、相変わらず夜だった。それではやはり再生はならなかったのかとがっかりして肘の内側を見ると、なんと細胞塊のようなものが出来ているではないか。
喜び、背中を地面につけて独楽のようにくるくるまわるダンスを行った。意味は知らないが、これも元締の真似である。細胞塊は次第に形をとりはじめ、勾玉や紐や鞠やその他いろいろな変なかたちに変化しながら、最後はついに少女らしきものになった。すでに腕は少女らしきものの重さで痺れ、少しも上げることが出来ない。切り離すときが来たと思い、針金で少女の付け根を縛った。直に少女の付け値が腐り、少女はぽろりと落ちた。
落ちるとすぐさま少女は再生のダンスを踊り、それから軽くくちづけをしてきた。
少女は再生したが、いやに機能的に再生してしまったので、少し釈然としなかった。あまり熱心にくちづけを返さないでいた。少女はかまわずくちづけしてくる。
離れたところから、風車の轟々言う音が聞こえてきた。固まった夜の空気がときどき身体に当たっては、再びどこかにひょんと飛んでいってしまう。
「もうあたしのことなんかどうでもいいのね」不熱心な様子を察して少女が言った。
「いや」
曖昧に答えると、少女はわっと泣き出した。かまいたくなくて、放っておいた。
「再生したのに。せっかく再生したのに」
そう言ってわんわん泣く。うるさいので背を向けて歩きはじめた。少女は泣きながら縋りつく。
「ひどいわ。ここまで来ておいて」
なんと言われても、気持ちが奮い立たない。我ながらひどい人間だと思うが、どうしようもない。
「お願い。もう一度よく考えて」少女が嘆願する。夜の塊が先ほどよりも激しく身体に当たるようになっていた。流星雨のように、夜の塊は降り注いでくる。夜を避けながら、首を振った。
「そう。それならいいわ。あたしにも考えがあるわ」
言うなり、少女は細い抜き身のナイフを一閃させ、斬りつけてきた。あっと思う間もなく、右胸の肉が一片切り取られた。少女は身を翻して駆け去った。ぼんやりと胸から垂れる血を見ているうちに、はっと思い当たった。
見つからないようにこっそりと元締の場所まで戻ると、案の定、少女は元締に肉片をわたしているところだった。元締は鷹揚に頷き、すぐさま再生を行った。見る間に自分と同一物が再生され、少女は嬉しげに再生物を受け取った。
手に取って去る少女と自分の再生物を見送ってから、元締の前にまかり出た。
「こういうものなのでしょうか」
訊くと、元締はおっほんと咳払いをして、重々しく頷いた。
「だいたいがこういうものであるかもしれぬ」
元締の錫の宝石が大仰に青々と光る。
「不満か」
元締が訊いた。
「少し」
「なにが不満か」
「わかりません」正直に答えた。
「わからないなら、また再生してみればいい」
風車からの風が直接目や頭や腹に当たり、夜の成分を擦りつけてくる。夜が当たった部分はしばらく黒々と光ってからもとに戻る。
元締に言われた通り、再生を行った。何度でも少女は再生し、何度でも同じことが繰り返された。
「あなたも飽きないねえ」何度目になるか忘れるくらいの再生を行って出てきた少女がナイフをきらめかせたときに言うと、少女は悲しそうにうつむいた。
「だって、あたしはいつも新しいから。あたしにとっては初めてのことだから」そう言って、細い首を折るようにして俯く。
俯いた少女がかわいそうになり、初めて自分から少女にくちづけした。少女は脱力したままくちづけに応える。ますますかわいそうになり、力を込めた。力を込めているうちに、執着する気持ちが少し戻ってきた。
「あなたでもう再生は止める」そう言い、少女を強く抱きしめた。
結局、これが順当なのだろう。半分諦めたような心持ちで思いながら、少女を抱きしめた。
固まりかけたクリームのように、夜が身体の周りで相を変えはじめていた。少女はまだ脱力したままである。
「いやよ」
思いがけず、少女は、地の底から沸き上がってくるような声で言った。
「ふん」
少女は思い切り身体を引き離した。弾みで手を地面についてしまう。
「さよなら」
そう言って、少女は今まで通り胸の肉を削ると、嬉々として去ってしまった。
憤然としたまま退場し、最後の再生を行った。再生された少女を大事に抱え、夜の奥へと入っていった。出来るだけ元締から遠く離れるよう、奥へ奥へと入った。
そのまま少女の手を握り、眠りについた。しばらくは目覚めたくないと強く願いながら、浅い眠りについた。

深緑と金茶の房を垂らしたビロードの布の上にその者は座っていた。ビロードの布は高さ5メートルはあろうかという塚の上に敷かれている。塚は朽ちた木の枝や葉そして柔らかな土を固めたものであった。その者は片膝をつき掌を上に向け、なにかを待ち受けるかたちで座っている。裾広がりに聳える塚からは発酵臭とともにゆるい蒸気が立ち上っていた。蒸気はときには薄くときには霞のように濃くその者の肢体を取り巻き絡めとる。取り巻き絡めとられながらその者は待つ姿勢を崩さない。
こうこう。
鳥が啼いた。鶏ほどの大きさの鳥が塚の周りに散りばり、しきりに啼くのであった。雉にも似た鳥はその者を威嚇するように、またその者に向かって懇願するように首をもたげ、啼き騒ぐ。騒がれてもその者はこそとも動かない。像のように相変わらず片膝をつき掌を上に上げたまま目を見開いている。角度によって紫に光ることもあれば灰色の艶消しの色になることもある目が見つめているのは天の一角であった。天の一角にはなんの輝きもない。天の他の部分を覆い尽くしている恒星や星雲は存在せず、ただ布で覆ったように平坦で暗い。
こうこう。
再び鳥が啼いた。高い羽音を立てながら塚の頂上に飛んでいく鳥もある。頂上まで飛んで、鳥はその者を嘴で齧る。齧られてもその者は片膝をつき掌を上に向ける姿勢を崩さない。鳥の嘴によって鋭く齧られた皮膚からは薄く赤い血が数的垂れる。一羽二羽が齧ると下で啼き騒いでいた鳥たちも一斉に羽音を立てて飛び上がり、次々に血を滴らせる。ビロードの布の上に夥しい血が滴り、赤く黒い模様を記す。
鳥たちは殺到し、腕、踵、顎、こめかみ、ぼんのくぼみ、みぞおちを齧りに齧る。
次第に身は傾き、しかしそれでもその者は片膝をつき掌を天に向ける姿勢を崩さない。身体の表面に羽鳥たちに齧られた穴が点々と散る。黒く深く穴はその者を覆い尽くそうとする。
一羽の鳥が目を突く。
左の目が失われた。残った右の目で、その者はなお一層強く天を見据える。鳥たちの羽による風圧で不安定に揺れながら、なにもない天の一角を凝視する。
右の目も失われ、それでもその者は天を見上げる。すでに身体の大部分は虚ろな穴となり、片膝を突き掌を天に向けているかどうかも定かではなくなってくる。その者であったものは、それでもビロードの布の上に留まり、天を凝視している。
こうこう。
最後の鳥のひと齧りでついに身体は失われた。ビロードの布は主を失い、鳥たちは羽ばたきによって天へと吹き飛ばされていく。塚は鳥たちの手に戻り発酵する塚の頂上にあったビロードの布とその上に座る者によって隠されていた何十もの卵が露になった。鳥たちは歓喜の声で啼き立てる。
鳴き立てている鳥たちの気づかぬ間に、夜は奥行きを増し深更を迎えた。
目に見えぬものとなったその者の気配があらゆる方向に広がり、天と地の間を満たす。気配に包まれて夜はいよいよ更けに更け、闇は真のものとなっていくのだった。

なにかが弾ける音がして目が覚めた。隣で眠っていたはずの少女の姿が、ない。重い身体を起こして見まわすと、少女は木の股に腰掛けて遠いところを眺めていた。
「なにが見える」訊くと、少女は手招きをする。
「見て」そう言って指差す方向には、大きな花火が上がっていた。
火の玉がするすると上って弾け、赤や橙や緑の小さな光が雨のように散り広がる。何回でも花火は上がり、そのたびに少女の顔が照らされて赤や橙や緑に染まった。
行きましょうと言われて、少女にしたがった。少女は木の股から降りると、花火の上がっているほうへ向かった。階段をのぼるようにしてなにもないところをどんどんのぼっていく。
「行きましょう」そう言いながら手を差し伸べる。手を引かれてこわごわ足を踏み出すと、固いものが足の裏に触り、固いところを伝っていくと身体が宙に浮いた。
どんどん歩いて、花火の横に達した。
近くに寄ると花火は熱い。服に火が散って小さく燃えてはすぐに消える。かまわずにますます花火に近寄った。
「やめよう」そう言ってみた。しかし、少女は止まらない。
「突き抜けるのよ」ますます固く手を握る。
無理矢理引かれて、花火に突入した。
「もっともっと」と言われてもっと進んだ。いやで仕方なかったが、進んだ。進むうちに身体じゅうに火が飛び、火まみれになった。熱い。ひどく熱い。終いには焼けてしまった。少女も焼けている。二人で焼けて骨も残らなかった。
「なぜこんなことをする」怒っても、少女は黙っている。
「なんでもあなたの思う通りにしなければ気が済まないの」嵩にかかって言っても、少女は黙っている。
「ごめんだ」言い放って、少女を置き去りにした。
行く先も決めないでずんずん歩いた。もう少女のことなど考えないようにした。なにも考えないようにした。なにも考えずに歩いていると、そのうちに言葉を忘れてしまった。なにしろ身体がない。脳もない。
ただ歩いてまた歩いてさらに歩いて、最後に夜よりもさらに暗い場所に辿り着いた。
辿り着いた途端に吸い込まれ、もう出られなかった。少女と一緒にあのままいたら、こんな場所に来なくて済んだだろうかということだけを、少し思った。しかし、それ以外のことはなにも思わなかった。
そのうちに少女のことも忘れてしまった。全部を忘れてしまった。ときどき自分の顔に似たものがこちらをじっと眺めているような気がしたが、すでに顔も身体もなにもかもなくなっていたので、果たしてそれが何者なのか、考えることは出来なかった。出来なかったし、それにどうでもよかった。

永遠の象というものが西方にいると聞いたので、探すことになったのであった。あまり気が進まなかったが、探すことに決まってしまっているのだった。一人で行くのは心細いので、何人かの知り合いに声をかけた。
「それ、なにかの役に立つの」どの知り合いにも言われ、答えられないでいると、全員が某かの理由をつけて同行を断った。曰く、金融不安がありそうなので行けない、もうすぐ天変地異が来るので移動したくない、内縁の妻に子供が出来たので時期が悪い、八卦見に相談したら凶と出た、云々。
仕方がなく、一人で出発した。
西瓜がやたらに生えている道を真っ直ぐに行くと広場に出て、そこに標識があった。
永遠の象、こちら。
矢印を象った標識に、そう書いてあった。
苦難の道を予想していたのに、いやにあっさりしている。矢印の方向に向かい、一時間も歩くと、すぐに象が現れた。
小さな象で、耳が丸かった。何頭も連なっている。どの象も、白い。夜目にも、白い。
いったいどの象が永遠の象なのか、全然わからなかった。試しに手近な象に向かって、「こちら、永遠の象さんですか」と訊いてみると、大きく頷き吠える。象特有の声で吠える。十頭ほどの象に訊いても、まったく同じ反応が返ってくる。
苛々して、先へ進んだ。進むにつれて象は増え、増えた象同士がますます絡まり合った。
そのうちに象たちが絡まり合うさまがなにかに似ていることに気がついた。座って考えているうちに、それが曼荼羅であることがわかった。道の左側で絡まり合っている象たちは、金剛界曼荼羅をかたちづくっていたし、右側のは胎蔵界曼荼羅をかたちづくっているのであった。
騙されたような心持ちになった。ますます苛々して、来た道を帰ろうとすると、道の両脇、象たちの絡まるところよりももっと奥にある森からわらわらと象使いたちが走り出て、引き止めにかかる。
「曼荼羅ですよ」
「それも金剛界と胎蔵界。滅多にありませんぜ」
「ゆっくりしてってくだせえよ」
どの象使いも金襴の衣装を纏っている。しかし、その衣装は古びており、金襴の糸もあちらこちらがほつれているのだった。
「もしお嫌いでなければ、ここはひとつ、象使いになっちまう手もありますぜ」
「そりゃあいい」
「象使いはいいですぜ」
言いながら、どんどん金襴の衣装を着せかける。かなわないので、ものも言わずに逃げ出した。
もとの標識のところまで逃げて息をついていると、なんだか見知った人物が現れて、決めつけた。
「なぜ逃げる」
「だって、曼荼羅、つまらないですよ」
「私は見たい。早く戻るように」
強く命令する。なぜこんな命令にしたがわなければならないのかと訝しく思いながらも、ついしたがった。
「早く早く。胎蔵界を特によく見るように」
さらに強く命令する。命令されて、象たちのいるところに戻った。全然面白くなかったが、命令通りに右側の曼荼羅を特に念入りに眺めた。眺めているうちに眠くなり、眠った。しめしめ眠くなったと思いながら、眠りについた。夢の中で早く誰かに命令を下すのだと思いながら、眠りについた。

離れていると慕わしくなる。もう忘れたと思いながら、ひょいと思い出してしまう。折りがあるとすぐに思い出す。そういうわけで、少女のところに戻ることにした。
風の強い道をどこまでも戻ると、少女がいた。なにもないところに椅子をひとつ置いて、そこに腰掛けている。煙草なんか吸っている。
「どうしたの」訊くと、
「体質が変わったの」と答えた。
試しに少女の髪を撫でてみると、乾いた破片がいくつも飛んだ。ひと撫でするごとに、破片がきらきらと舞い落ちる。綺麗なので、何回でも撫でた。
「もうやめて」と言われて止める頃には、髪がだいぶ薄くなっていた。
風に煽られて煙草の煙が四方に広がる。広がった煙がいちいちもののかたちになるのが、鬱陶しかった。猫やら鼠や鼬やらのかたちになる。なったあとは闇の中へと駆け去る。ときおり鼠が猫につかまってきゅうと鳴く声が聞こえるのも鬱陶しかった。
「踊らないの」と訊くと、少女は椅子から立ち上がって身を寄せてきた。抱き合って踊っている間にふと見ると、髪が割れて覗く少女のうなじに、茸のようなものが生えている。小さな、赤い、笠の開いた茸のようなものだった。
ぞっとして少女を突き放した。
突き放されて、少女は下を向いた。無言で下を向いている。すまなく思い、肩に手をまわして再び踊りはじめた。
「これね、増えるの」
少女は言って、ますますうなだれた。
「何時間かに一回ね、胞子が散って、どんどん増えるの」
顔色が変わっているのが自分でもわかったが、踊り止めずに、ただ頷いた。
騒がしかった猫や鼠や鼬の声がやがて聞こえなくなり、足が疲れてきた頃に、少女のうなじをもう一度よく見てみると、赤い茸は先ほどの二倍ほどの量に増えていた。
「増えてるよ」そう言うと、少女は顔を上げた。草食動物のような黒目がちの目が長い睫毛に囲まれる。くちびるはふっくらと色づき、産毛の生えた頬から顎にかけての線が丸くたおやかである。
「あのね、あなたの首にも出来てるわよ」
少女は囁くような声で言った。
指で首の後ろを確かめると、小さな突起が点々とある。その指を目の前に持ってくると、指にも茸の芽生えが見えた。
「あなたも体質が変わっちゃったのね」少女は息をつきながら言った。
いやな気持ちが吐き気のように込み上げてきた。少女を揺さぶりたいような心持ちになったが、堪えた。
「仕方がないわね」そう言って、踊りの足取りを速めた。くるくると踊っているうちに、笠が生長してくるのがわかった。丸い小さな突起だったものが、菌糸を増やしながら傘をつくり、やがてその傘がふわりと開く。開いた傘から無数の胞子がきらきらと舞い落ちる。舞い落ちた先に、また小さな茸が芽生える。
身体じゅうが赤い茸に覆われていくのが感じられた。いやだった気持ちは次第に懐かしいような眠いような心持ちに変わっていき、終いにはすっかり茸に馴染んでしまった。
身体の表面にびっしりと生えていく茸を感じながら、踊りは速さを増していくのだった。

高い小さな声が聞こえるので下を向くと、キウイが喋っていた。
「ここでひとつ問題」キウイ特有のきいきい声である。
「カナリアをもっとも効率よく長生きさせるための餌は」
キウイは茶色でその茶色の中に点々と黒い種のようなものが散っていた。しゃがんで目を近づけると、種ではなく斑だった。
「わからないか、さあわからないか、正解は次の三つのうちのひとつだ、アミニシキヘビの卵、夜の鴉の鳴き声、分子量126の水ガラス」
呆気にとられてしゃがんだままじっとしていると、
「わからないか、まだわからないか。正解は分子量126の水ガラス」と叫んだ。驚いているうちにまた一匹どこからか現れて、訊く。
「昨年中に雷に撃たれても生き残った者の数は」最初のよりもいくらか低い声である。
「わからないか、さあわからないか、正解は」
言いながら、輪を描いて地面を走りまわる。
「20億5000万人、20億5000万人」
何回でも20億5000万人を繰り返す。繰り返しながら、走りまわる。
どんどん増えて、見まわすとそっくり同じに見えるキウイが50匹はいるだろうか、その50匹が順番に質問を繰り出す。
「アンリ・ミラーが一番愛した自動パン焼き機の色は何色」
「しんばり棒とめんどり棒、どっちが本質的な存在」
「雨の日に一番暗くなる隅はどちらの隅」
「片栗粉の匂いと生クリームの匂い、どちらが曇りの日に遠くまで広がる」
「古代ローマの浴場で捨てられたあの丸い緑の石は今カンブリア紀の地層よりも何層上に眠ってる」
勢いに押されて、こちらも次々に答えた。
「金茶色」
「めんどり棒」
「東南東の隅」
「片栗粉」
「13層」
そのたびにキウイたちは、
「正解」
「正解」
「正解」
「正解」
と叫び、50匹ともにくるくると走りまわるのであった。
50の質問に答える頃にはキウイもこちらも疲れ切って、息が上がっていた。
「これだけ答えればもう満足でしょ」ぜいぜいしながら、キウイたちが言う。
「訊くから答えただけだよ」
そう答えると、キウイたちは「とんでもないよ」「まったくこれからだ」「もうこうなったら」などと黄色い声で叫び返す。黙って聞いていると、調子に乗っていくらでも叫んだ。
「そんなに言うなら、君らをひとまとめにして密輸業者に売っぱらっちゃうよ」
一喝すると、急に静かになった。
「なにもそこまで」「そういうつもりじゃ」「悲しいことを」と、何匹かが小さく言う。
「もう君らのような者たちに夜の時間を左右されるのは飽き飽きしたんだ」
さらに大きな声で言うと、どのキウイも声を上げなくなった。声を上げずに足下の草を突いたり、茂みに隠れたりした。
「僕らも悪気はなかったんです」そう言いながら、丸い小さな尻をこちらに向けながら、茂みに隠れる。
「さようなら」と言いながら、最後のキウイが茂みに消えると、花の匂いはますます強くなり、夜の空気がことりと変わるのがわかった。夜明けが少しずつ近づいているのであった。
しばらく花の匂いを嗅ぎながら待っていたが、キウイたちの消えた茂みはしんと静まり返っている。
「君たち」とキウイに呼びかけてみた。
「悪かった、ちょっと短気だった」
そう呼びかけたが、キウイはもう出てこなかった。
花の匂いが、長く伸びていく。

かさかさと音がしていた。音は少女の身体の中から聞こえた。
少女の腹に耳をつけて音を聞いた。草の上を歩くような、天球儀がまわるような、静かな音が同じ速度で続いていた。
少女は寝息を立てている。薄く匂いのない汗が、首筋や乳房の間を湿らせはじめていた。湖に水が満ちるように、汗は寝ている少女の窪みという窪みに満ち、溢れ落ちた。幾百もの汗の筋が少女の身体を伝って地面を濡らす。
横たわっている柔らかな草の上で、少女は多くの汗を滴らせた。
少女が横たわっている草が汗を吸って生長する。茎が伸び、頂芽が枝となり、側芽が葉となり、見る見るうちに伸びていく。少女の身体は瞬く間に生い茂る緑に囲まれた。
生長はそこだけに留まらず、少女の横たわる地面から同心円を描くように外側に広がっていく。何枚もの子葉が地面から芽生え、それぞれが若葉色の新芽を次々に開かせながら、ものすごい速さで伸びていくのだった。
耳を澄ませると、かさかさかさという音が雨のように降っている。枝が長くなり、葉が開いていく。その音である。少女の身体の中から聞こえていた音よりもさらに若々しい音である。
少女を囲む植物は濃くなり、森となっていった。森のもっとも深いところで、少女は眠り続ける。腹に耳を当てると、外から降ってくるかさかさかさという音に呼応するように、少女の身体内でかさかさかさという音が引き続いている。
そのうちにかさかさかさという音はさらに増え、気がついてみると森の生長は止まっているのに、あらゆる場所からかさかさかさは聞こえてくるのであった。
聞こえてくるかさかさかさは、足音だった。森の下生えを踏みしめる数多くの足音なのであった。
足音の主は森の住人で、多くの枝葉に邪魔されて姿は見えないながらも、風に乗ってやって来る足音の方向により、住人たちがどちらに向かって移動しているのかがはっきりとわかるのであった。最初は西へそれから南へ次には東へ最後は北へ、住人たちの足音は移り変わっていった。
何百もの足音は円を描くようにして森の中心に近づいてくるのであった。
近づくにつれて、足音以外のひそひそ囁きかわす声や咳払い、小さな笑い声やらっぱの音などが混じるようになり、そのうちに木々の隙間に住人たちの姿がちらほらと覗くようになった。
派手な鳥の羽や極彩色の布が緑の隙間に見え隠れする。住人たちの声が聞き取れるくらいに大きくなり、らっぱや太鼓の音がいよいよ高まる。
ついに住人たちはその姿を現した。
どの住人も身長は1メートルほどで、丸い顔をしていた。きらびやかな布を身体に巻きつけ、手には楽器か長い杖を持ち、にこにこしていた。全員が裸足で、一様に口をもぐもぐさせていた。なにかしら食べているらしいのであった。どの住人の口の周りも、食べたものがこびりついて汚れている。丸い顔で、口の端に食べかすをこびりつかせながら、住人たちは横たわる少女の周りを丸く巡った。
少女は眠り続けている。住人の立てるかさかさかさという裸足の足音に共振するかのように、少女の身体の中からかさかさかさという音は、さらに高まる。
住人たちは円を描いて行進し続けた。これ以上円の半径を狭められないくらい少女に近づくと、同じ円周上を繰り返しぐるぐるとまわりはじめた。
足音と、お喋りする押し殺した声と、太鼓の音と、らっぱの音と、食物をもぐもぐ噛む音が混じりあって、森の中心を満たす。
空の高いところに明けの明星が光り、その下で住人たちは飽きずに円運動を行った。そのうちにまわっている住人たちの身体が細かく振動するように見えはじめたと思ったら、ひとまわりするごとに住人たちの身体はどんどん縮みはじめているのであった。
いったん縮みはじめると、縮小は見る間に進み、終いには蟻ほどの大きさになってしまった。蟻ほどになっても、まだ住人たちはひそひそと喋りあい、らっぱを鳴らし、太鼓を叩き、もぐもぐと噛んだ。
蟻の大きさになって何周かしたあと、住人たちは一列になって少女の身体に潜り込み、消えた。
最後の住人が見えなくなってから、眠る少女の腹に耳をつけると、かさかさかさという音に混じって、かすかならっぱの音と太鼓の音が聞こえてくるのであった。

もうすぐ夜明けが来るというので、祝宴になった。
川のほとりの屋敷に、見知ったような顔が何人も招かれた。気安い者同士なので挨拶もなく酒がはじまり、てんでに肴を突ついた。酒盗とうるかが卓の中央に山盛りになっているのが気にかかったが、誰も手をつけようとしないので、目の前にあるきんぴらや川魚を焼いたものばかりを食べた。
そのうちに屋敷の主人が立ち上がり軽く顎を上げた。途端に厨のほうがざわつきはじめ、前掛けをした女や角刈りの男が何人も走り出た。どれも卓を跨ぎ越しては庭に逃げていく。跨ぎ越しかたが下手な者もいて、そのたびに銚子が倒れたり皿が割れたりした。
酒を飲んでいる者たちは気にしていない様子で、立ち上がっていた主人も再び座って、きぬかつぎなどをむしゃむしゃ食べている。
何時間も経ったような気がして時計を見るとまだ夜明け前で、東の空は真っ暗だった。調理人たちが逃げてしまったせいか、肴がもうなくなってしまった。しかし卓の中央に盛ってある酒盗とうるかだけには、まだ誰も箸をつけようとしない。
きん、というような音が聞こえたと思ったら、厨のほうから大きな影が現れ、卓を飛び越した。実体のない、影だけのようなものなのであった。その影が、きん、と吠えては部屋の中をうろうろする。
ときどき影は主人の膝にのぼって主人の頭を銜えた。影にすっぽり銜えられると、主人は首から上がないようになる。首から上がなくとも、主人は盛んに酒を飲んだ。影の中に隠れたまま、酒を飲んだ。
主人の顔を銜え終わると、影は客たちの顔を順番に銜えていった。どの客も首から上がないようになった。影が銜え終わってからも、顔はないままである。主人をはじめ大方の客の顔がなくなったところで、影は卓の中央の酒盗とうるかに気がついた。
ひらりと飛んで、影はうるかを喰いはじめた。貪るように喰う。大皿いっぱいに盛られたうるかは瞬く間になくなり、うるかが終わると影は酒盗にかかった。こちらも、数秒と経たぬうちに空になった。
すべてを平らげると、影は左右を見わたす。首から上がなくなった客たちは、まだぐずぐず酒を飲んでいた。その客たちの今度は首に取りついて、影は客の飲んだ酒を吸った。客の身体にたっぷりと溜まった酒を、吸った。ひと巡りして主人の身体の酒まで吸い尽くしてしまうと、影はいよいよこちらにやって来て、頭を喰らい酒精を吸った。吸われて気が遠くなった。あまりの快さに気が遠くなった。
自分の成分がすべて影に飲み尽くされた頃に、影はかたちをとりはじめた。金のたてがみが最初に現れ、首から胴、柔らかな肢、そして尾っぽにかけての流れるような毛並みが見事な、それは獅子であった。
獅子は卓を蹴り、庭へ飛び出した。東の空が薄い色を持ちはじめている。その東の空に向かって、獅子は走った。全速力で、走った。走りながら、夜の中で出会った数多の生きものたちを喰らっていった。
すべての生きものが喰らい尽くされ、獅子が東の空の彼方に消えてしまうと、主人は座を諦め、客たちは三々五々散っていった。
夜が明けはじめていた。

少女はすでに少女ではなくなりつつあった。
僅かの間にその肌は紙のようになり、瞳の色は透明になった。手足の先がいくつもの枝に分岐し、髪は抜け落ちた。
地面に横たわったまま、変わりゆく少女を眺めた。
なんだかわからないものに変わっていく少女を眺めているうちに、忘れていたことを思い出しそうになった。忘れていることであるから、どんなことなのだかさっぱりわからないのだが、今にも思い出しそうになるのであった。
「あなた」と少女に話しかけた。
「なに」と、なんだかわからないものになりつつある少女は答えた。
「あなたは以前からそんなふうだったのか」
「そんな気もするけど」
答える声はむろん少女の声ではなく、なんだかわからないものの声なのであった。高いような低いような、木のうろの中で響くような声だった。
変わっていく少女を見ているうちに、悲しいような心持ちになって、泣いた。
「どうしたの」と少女だったものが訊いた。
「変わってしまうから」と答えると、少女だったものは、笑った。
「だって、そういうふうに出来ているんだからしょうがないわよ」そう言って、笑った。
笑い声を聞いているうちに、ますます悲しくなった。
「まだ泣いてるの」
「そう」
「でも、生まれたら最後はこうなると決まっているんだから」
「知らなかった」
「あなただっておなじよ」
そう言われて自分の手足を見ると、少女と同じように無数に枝分かれして木とも綱ともつかないようなものになっていた。肌は表面がぼろぼろと崩れ、抜けた髪が地面に降り積もった。
憮然として、抜け落ちた髪を足で蹴ろうとしたが、無数に分かれた枝のようなものが竹箒のように髪を掻き集めるばかりだった。
「どうしてだろう」そう問うと、少女だったものはまた笑いながら、
「老化したのよ」と答えた。
とうに沈んだはずの月が、夜のはじまりのときと同じように、東の空にするすると昇った。月は見る間に中空に移動し、それから西へと沈んだ。
見ていると、再び月が東の空に昇り、しかしこのたびの月は先ほどの新月よりも少しだけ太っていた。そうやって、ものすごい速さで月は昇ったり沈んだりしながら満月になり、そのあとは欠けていった。
「あの月みたいなものか」
「違うわよ」
「だって月はまた新月になるもの」
茶色い蝶がいくつも飛んできて、少女に停まった。少女は喋り止め、目を閉じた。蝶は羽根を開いたり閉じたりしながら少女にたかり、それからまたどこかに飛んでいった。
疲れたので、少女の隣に寝そべった。寝そべったまま、上を見ていた。月が上がったり下がったりする空を、大きな獅子が飛んでいった。きん、という獅子の吠え声を聞きながら、少女だったものにくちづけをした。それから、すっかり老化して、朽ちていった。

はじまるよ、と高らかな声が響くと、大勢の人が集まってきた。街灯夫が人の波に逆らいながら、長い棒で街灯を消していく。
森の木が伐り倒され、川は埋め立てられ、丘だったところは削られ、谷だったところは平らにされた。整地が終わると、集まった人々はてんでに懐から鋸やら金槌やら鉋やら鍬を取り出し、伐り倒された木や削られた砂を使って町をつくりはじめた。
見る間に町が出来上がった。町が出来上がると、人々は口笛を吹きながら鋸や金槌や鉋や鍬をしまい、その場に座り込んで、自分の建てたものの自慢をはじめた。
日が高くなるまで自慢合戦が続き、ようやくそれに飽きると、人々は弁当を取り出して旺盛な食欲で平らげた。
一人が昼寝をするために横になると、次々にごろりと横たわり、大きな鼾をかきはじめた。すべての人が眠ってしまうと、私は水面に顔を出し、空気に匂いを嗅いだ。
金臭い匂いがした。前肢と後肢を交互に動かして、ゆっくりと地面を進んだ。肢が短いので、遅々として捗らなかった。私の後ろを私の仲間たちがつきしたがった。
ようやく街の中心に着くと、昼寝をしている人々の顔に乗ったり塔に張りついたり弁当の残り滓を漁ったりした。なにしろゆっくりとしか進めないので、そんなことをしているうちに、夕方になってしまった。夕方になっても、人々はまだ眠っている。仲間とともに、眠っている人々の肉をひと齧りずつしてから、また水に戻った。人々は齧られたことも知らずに、眠り惚けていた。
水に戻ると、糞をしてから藻を舐め、気が向くと卵を産んだりした。どろりとした沼が静まると、私たちも眠りについた。
fin.
解説 切りがない話 鳥居節子
前作『Winnie-the-Pooh Mugcup Collection』(長いな)でキャリアにひと区切りをつけたりゅうちゃんは、当分、小説を書かないと思っていた。事実、彼も、当分は書かないと言っていた。それに、彼は、夏になにかを創作する人ではないのだ。暑い盛りの頃はプールでぼーっとしていて、秋から冬を経て春にコトを起こすのが、これまでの彼の変わらぬパターンだった。それなのに、突然の新作が届けられた。それも、真夏に。なにか、異変が起こったのか?
今作『夜が食い込む』には、恒例の、りゅうちゃんによるあとがきがない。その理由は、わからないでもない。前作でひとつの頂きを登り詰めた彼が、次の作品を発表するとき、読み手はどうしても前作から今作にいたるプロセスを探ろうとしてしまう。前作の次、という位置付けが、今作を読むまえに、スクリーンのように私たちの目を覆う。作品そのものについて考察するまえに、作品の位置付けについて考察してしまう。彼は、そうしたことについて言及するのがイヤだったから、今作にあとがきを書かなかったのではないだろうか。今作は今作、前作は前作、そう捉えるのが、この『夜が食い込む』の、おそらくは正しい読みかただ。
『夜が食い込む』は、一見、変わった物語だ。変わってはいるが、よくよく考えると、りゅうちゃんお得意の、「ここではないどこか」が、描かれた作品だ。ロード・ムービーと言っていいかもしれない。
ただ、ロードムービーと呼ぶには、時空を旅するだけでなく、分類学上の種と種の間を横断するという破天荒さが、この作品の肝になっている。これを読んでいると、彼は、あたかもリンネの命名システムなどまったく信じておらず、ひとつの種からもうひとつの種へと存在は自由に往還出来るとでも思っているかのようだ。誰も彼もが勝手放題に自分を動物化し、植物化し、終いには生物と無生物の境界も消え失せてしまう。
主人公は、固定された種のカテゴリーの内部に安穏と留まっていることが、どうやら嫌いらしい。自分の輪郭をどろりと溶かして自分ならざる何者かになってしまいたいと、欲望しているらしい。なんのことはない、これは作者そのものの姿だ。
そして、そうした輪郭の溶解は、唐突に起こる。 背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった…。
いきなり、なんの理由も因果もなく、唐突に起こるのである。不条理ですらあるが、私たちは、現実に起こるたいがいのことは不条理だということを、知っている。
この物語は、不条理であるうえに、際限がない。切りがない。
切りがなく、意識を越えた昏い力が不意に湧出して、それに引きずられ、どこまでも得体の知れない異界へ連れ出される。
そこで描かれるさまは、ホラー映画さながらの生々しさがあるが、同時に、艶かしさも漂う。このあたりは、描写力を武器とするりゅうちゃんの真骨頂だろう。思わず芥川龍之介や宮沢賢治やつげ義春を引き合いに出したくなるが、それは褒めすぎだろうか。
そう言いたくなるだけの、物語へ引きずり込む強力な力が、この作品にはある。
いきなりな一行を読みはじめるやいなや、私たちが唐突に招き入れられるのは、哺乳類も爬虫類も、動物も植物も、さらには生物も無生物も、気体も液体も固体も、なにもかもが自由自在に場所を交換し、互いの役割を取り替え、おぞましさと境を接した悦楽の世界である。優雅な、アミューズメント・パークのような空間だ。
分類学の廃墟ではなく、むしろアミューズメント・パーク。そこは、あらゆる意味で「切りがない」空間だ。順列組み合わせの想像力の戯れによって、ほとんどありとあらゆるスリルと恍惚が可能となり、同時にまた、それが必然的に伴う恐怖と暴力によって人を戦慄させずにはいられない、言葉の遊園地だ。
りゅうちゃんは、いよいよ混沌とした世界に足を踏み入れつつある、のか?
終 |