戦争で焼かれた村の海辺で、アーマン(オオヤドカリ)に棲みつかれた肉体を離れて海を見つめる男の魂に、
「帰れ」と訴えかける女の声は届くのか……。
現在と過去が交錯する沖縄の風景から甦る戦争の記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 公民館のほうからラジオ体操の音楽が流れてくるのを鼻で笑い、ウタは開け放した座敷の濡れ縁に座ると、朝露に濡れた庭の緑が陽の光を受けて鮮やかさを増していくのを眺めながら黒砂糖をひとかけ口に含み、熱い茶を啜った。昔から、朝起きたらまずはお湯を沸かし、熱い茶で身体を温めてから年寄りは身体を動かすものだと伝えられてきたのに、村の教育委員会と老人会の役員が、やれお年寄りと子供たちの交流だの、やれ早起き運動への協力だのと言い出して、老人会のと子供会の合同ラジオ体操を公民館前の広場でやりだしたのは、4月の初めだった。それから1ヶ月ばかり経ち、似合いもしない運動着を着て楽しげに通う老人会の仲間にどんなに誘われても、ウタは「我ね行かん」とひとこと言って、朝の茶を守り続けている。
 ラジオ体操は最初は公民館の屋根の上に据え付けた大型のスピーカーで流していた。そのあまりのうるささに公民館の事務所に怒鳴り込んだウタを、子供会会長の川上という野球帽をかぶった小太りの中年男は、笑って眺めるだけでとりあおうとしなかった。ウタは家にとって返すと軒下にかけた鎌を手にとり、子供たちが体操をしている広場の真ん中を突っ切って、スピーカーに繋がる電線を切るために電柱を攀じ登りはじめた。川上は慌ててスイッチを切り、以来、ラジオから直に流すことになった。朝の静けさのなかで耳障りなことに変わりはなかったが、子供たちの手前、ウタもそのあたりで妥協することにした。
 最初は子供たちばかりだった集まりも、1週間ほどすると5、6人の老人が集まり出し、2週目の終わりには広場は子供や老人でいっぱいになった。老人たちに声をかけてまわったのは教員上がりのグループだったが、そのなかのひとり、校長で定年退職して教育委員をしていた大城が、ラジオ体操から帰ってすぐに家の玄関前で倒れ、そのままあの世へ旅立った。集落の細い道を火葬場に向かう車の列がゆっくりと進んでいくのを庭先で眺めながら、「人の言うことを聞かんからやさ」とウタは内心呟いた。これでラジオ体操も終わりだろうと思っていたら、一時的に参加者は減ったものの、すぐに以前にも増して盛況になった。参加している老人の半数はウタとおなじ独り暮らしで、孫のような子供たちと触れ合いたいという気持ちはわかったが、それでもウタはラジオ体操を拒み続けた。

 近所に住んでいるフミが石垣の門を足早に入ってきたのは、ピアノ曲が第2体操に変わったときだった。古い石積みのヒンプンの横をまわり、いきなり、「ねえさん」と縋りついてきたフミの今にも泣きそうな表情を見てウタは驚いた。
 「なにやが、いったい。朝なーから」
 「あね、ねえさん。お願いやこと、家まで来てそーれ」
 「は−待て待て、うね、茶ん一杯飲んでから」
 そう言ってお茶を注ごうとしたウタの手を引っ張って、フミは強引に縁側から降ろした。
 「あね、なにやが。草履もくんでおらんしが」
 慌てて黄色いゴム草履を突っかけたウタの手首を掴み、フミは道に敷かれた白い砂を蹴り立てて歩いていく。20メートルも離れていない家まで言葉を交わす間もなく着くと、フミは玄関を上がり奥の部屋にウタを引っ張った。
 「おばー」
 奥の裏座の戸は閉められていて、その前に座っていた健太郎と友子が、不安そうな目でウタを見た。小学校3年生と1年生の兄妹で、ウタは孫同様に可愛がっていた。2人の顔を見てウタは真顔になった。手首を掴んでいた手を離し、フミがゆっくり戸を開けた。雨戸を閉めた4畳半の部屋には蛍光灯がつけられ、その中央に幸太郎がタオルケットを腹に掛けて軽くいびきをかいている。
 「脳溢血な?」
 フミは黙って顔を横に振る。枕元に座って額に手を置き、脈をとった。熱も脈も正常だった。額にうっすらと汗をかいてはいるが、寝顔は安らかでこれといって異常は見当たらなかった。
 「なにやが? どこが悪いか?」
 問いに答えず目に涙を浮かべているフミはウタは苛立った。
 40歳を過ぎて子供も2人いるというのに、先祖が首里の士族と自慢しているわりには役にも立たん、と腹のなかで罵りながら、ウタは気持ちよさそうに寝ている幸太郎の顔を見た。50歳を過ぎたばかりにしては頭はかなり薄くなっているが、血色のいい顔は健康そのものだった。半農半漁の生活で、昨日も釣ったばかりのグルクンを持ってきて、ウタと1時間近く話していた。戦争で両親と死に別れてから、幸太郎は祖母のカマダーお婆の手で育てられたのだが、隣近所に住んでいるウタも小さい頃から可愛がってきた。戦争で夫の清栄が行方不明になり、子供もなく戦後を独りで生きてきたウタは、心のなかでいつも幸太郎のことを実の子のように思ってきた。幸太郎もそれを察してウタのことを気遣ってくれていた。
 幸太郎の頬をさすりながらしばらく様子を眺めていたウタは、また魂の落ちておるやさや、と思った。乳飲み子の頃に両親を失ったせいか、幸太郎は幼い頃からよく魂を落とす子供だった。少しのことにもビックリし、怯え、元気がなくなってしまう。木から落ちたり、海で溺れかけたりして、年に5、6回は魂を落としてしまい、そのたんびにカマダーやウタが魂込めをしてやった。さすがに成人になってからは少なくなったが、それでも2、3年に1回は魂を落とし、ウタが呼ばれた。
 「また魂、落としておるごとくあるむんな」
 人騒がせな、と思いながらフミに言うと、俯いて小さく首を横に振る。いったいなにやが、と声を上げそうになったとき、ふと幸太郎の鼻から黒いものが突き出ているのに気づいた。最初は鼻毛かと思っていたら急に引っ込んで、今度はくちびるの隙間から3センチほどはみ出し、頬や顎のあたりをちょんちょんと探るように動いている。驚いて見ていると今度はくちびるの隙間からマッチの頭のような目が突き出し、歯が剥き出しになった。紫がかった灰色の爪が口をこじ開け、姿を現したのは大人の拳くらいもありそうな大きなアーマン(オオヤドカリ)だった。あまりのことにしばらく我を忘れてアーマンを見ていたウタは、身震いして、近くにあった蠅叩きに手を伸ばすと思い切り振り下ろした。アーマンの動きは素早かった。プラスチックの蠅叩きが乾いた音を立てたときには口のなかに潜り込んでいて、寝ている幸太郎のいびきが止まり、鼻と口の周りが編目模様に赤くなった。
 「ねえさん」
 呼ばれて目が合うとフミは床に突っ伏して号泣した。5分ほど泣くだけ泣かしてウタは事情を聞いた。
 酒と三線の好きな幸太郎は、晩酌の興が乗るとよく独りで浜へ下りて、三線を爪弾きながら、島歌を唄っていた。盆のエイサーや4年に一度の村踊りの歌者である幸太郎の美声が、木麻黄の林を抜けて集落に流れてくるのを楽しみにしている村人も多かった。
 昨夜もそうして歌っていたのだが、10時を過ぎて歌が止んだのでフミは浜に迎えにいった。最後は酔っていい塩梅で寝てしまうので、体重が半分しかない痩せた幸太郎をいつものように背中にしょって家まで連れて帰った。寝室に使っている裏座に寝かせて、自分も隣りで横になったのだが、異変に気づいたのは朝になってからであった。目が覚めて何気なく横を見ると、幸太郎の口の上に黒い塊が乗っている。雨戸の隙間から朝の光が射し込んでいたが、寝ぼけ目もあってなにがなにかよくわからなかった。身体を起こし、目やにをこすり落としてよく見ると、マッチの頭のような目と目が合った。一瞬の間があって、フミは後ろに飛び退いた。尻もちをついたまま後ずさり、柱にすがって立ち上がると雨戸を開けた。埃がきらめく光の帯に曝されたアーマンは、口のなかに姿を隠したが、すぐにまた触覚を振りながら姿を現した。
 「あいえーなー。大事なっておるもん」
 フミは幸太郎の真上にある蛍光灯の紐に恐る恐る手を伸ばして引っ張った。アーマンはふたつのはさみをかざし、光を遮るようにしてフミを見ている。アーマンが暴れ出すのを怖れ、足音を忍ばせて壁沿いに戸のところまで行くと、フミは裏座を出て、ウタの家に走ったのだった。
 泣きながら語るフミの話を聞きながら、ウタは、下顎まで爪を伸ばし、触覚をしきりに動かしているアーマンを観察した。ヤドカリの一種と言っても、アダンの茂みや海岸近くの畑をアフリカマイマイやサザエの殻を引きずって歩きまわっているアーマンは、大きいのは子供の拳くらいもあり、太い爪は割り箸をへし折る力があった。目のまえのアーマンは、普段目にするものより二まわりも三まわりも大きく、なるほどこれでは身体を入れる貝殻を探すのも苦労するはず、と思ったが、だからと言って人の口のなかに入り込むというのは横着が過ぎると思った。
 「はっさ、え、大人の風姿もない。なあ、泣かんけ。童もいるのに、おまえがしっかりさんねー、ちゃーすが」
 ウタは懐からネルのハンカチを出すと、フミに渡した。
 「幸太郎は魂の落ちておるもん。やこと、自分の身体を守ることもかなわんでアーマンに入られておるさ。やがし、心配すな。魂の戻りねー、アーマンもすぐに出ていきよる。我がすぐに魂込めやることよ。しばし、待っておれ」
 そう言うと、ウタは幸太郎の着ているTシャツを脱がしはじめた。アーマンは慌てて口のなかに引っ込み、それを見てフミも恐る恐る手伝った。村に伝わっている魂込めの儀式は、それほど難しいものではなかった。魂を落とした場所にそのときに着ていた衣服を持って出かけていき、御願を捧げる。帰りに小石を3個着物に包み、家に持ち帰ると、落とした人の傍で御願を捧げ、着物を着せる。それで落ちていた魂はもとの身体に戻り、ぐったりしたりぼんやりしていた者も元気になった。
 魚の血や畑の土で染みだらけになった汗臭い水色のTシャツを脱がすと、ウタはそれを丁寧にたたんで小脇に抱えながら立ち上がった。幸太郎の寝ていたという場所を確かめ、裏座の戸を開けると健太郎と友子が入口の傍で膝を抱えて座っていた。早く朝ご飯をつくって子供たちを学校に行かせるようフミを励まし、健太郎と友子の頭を撫でて、心配するなよ、と笑いかけた。

 フミの家を出るとウタは急いで自分の家に戻った。台所で御願に使うお盆や米、酒を用意し、風呂敷に包む。改めてお湯を沸かし、お茶を入れて仏壇に供えた。お香をあげて手を合わせ、お茶を2杯飲んでから鶏と山羊に餌をやると、風呂敷包みを提げて家を出た。
 福木や石垣のあいだの細い道は白い砂が敷かれていて、木麻黄の林に続いている。林といっても浜に沿って100メートルほど伸びている防潮林で、幹のあいだからその朝生まれたばかりのような海の色が見ている。蝉の鳴き騒ぐ林の前で、ウタは海に向かって両手を合わせ、林の木陰を抜けた。眩い白砂を踏んで歩いていくと、木麻黄の林が切れたあたりにアダンの茂みがあった。その前に、松の古木のように枝振りのいい浜うす木が1本生えている。ビロードのような手触りで兎の耳に似たかたちの葉が風に揺れている。浜うす木の木陰は格好の昼寝の場所で、その下で幸太郎もよく三線を弾いていた。
 ウタは、その木の近くまできて、木陰にひとりの男が座っているのに気づいた。水色のTシャツを着た男の横顔を眺め、もしやと思いながら近づくと、やはり幸太郎の魂だった。ウタは傍に腰を下ろすと、大きく息をついて襟元に風を入れた。
 魂込めといってもたいがいは気休めのようなものだった。子供たちがビックリしたときや疲れてぐったりしているときなど、元気を取り戻してやるためのまじないとして行うのが普通だった。ただ、ときどきは実際に魂が落ちているときがあった。アーマンが入り込むくらいだから、今度は本当だろう、と予想していたが、魂を目にするのは久しぶりのことで、しかもそれが幸太郎のものなので、さすがにウタも緊張した。
 幸太郎の魂はぼんやりとした表情で海を見つめている。短く刈り上げた頭や無精髭に白髪が混じり、海と畑仕事で灼けた顔を、抱きかかえた膝の上に乗せている。愛嬌のある笑いを絶やさないいつもの様子とは違って、どこかもの寂しげだった。ウタも海に目を遣り、しばらく一緒に眺めていたが、白い陽の光が散乱する海は眩いばかりで、特に変わった様子はなかった。
 「あね、幸太郎。フミも健太郎も友子も心配しておるよ。早く、家に戻らんな」
 そう声をかけたが、幸太郎は反応を示さなかった。ウタは風呂敷を広げてお盆の上に米を小さく盛り、杯に泡盛を注いだ。100円ライターでお香に火を点けて砂に立て、居住まいを直した。両手を合わせて幸太郎の横顔を見つめると、ウタは呟くように御願を唱えた。
 如何なる理由の有りしかは分からぬぬしが、幸太郎の魂の落ちて家人衆の心配しておる事、村の神々んかい対する敬い、ご先祖に対する扱いで粗相の有り侍らば、すぐに直す事、だてぃん、幸太郎の魂を戻してきみ候れ……。
 そういうことを繰り返し繰り返し、集落を守る御嶽の神やあらゆるところにいて自分たちを見舞っている御先祖の神に祈った。祈りが終わると、ウタはTシャツを幸太郎の肩にかけて立ち上がらせようとした。しかし、水に触れるような感触が指先にかすかにあっただけで、幸太郎の魂は座ったままだった。今まで何百回も魂込めをしてきたが、ほとんどの魂は素直に言うことを聞いてくれた。海を見つめたまま動こうとしない幸太郎の魂にウタは戸惑った。
 「海になにか有んな?」
 ウタは目を細めてもう一度海を見たが、やはり変わった様子はなかった。それからウタは1時間ばかり、幸太郎を説得してみた。しかし、結局はなんの反応もないままだった。さすがに疲れて砂に尻をおろし、木漏れ陽が踊ってときおり姿が薄くなる幸太郎の横顔を見つめていると、ねえさん、と後ろから声をかけられた。フミと区長の新里文昭が立っていた。
 「魂込めはどうなってるね?」
 不安そうに尋ねるフミに、あね、そこに座っておるさ、と言おうとして、ああ、2人には見えないのだなと気づき、黙って首を横に振った。
 「上手くいかんね」
 「心配すな。少し彷徨ってる如くあるしが、すぐに戻るさ」
 フミの言葉に苛立ち、叱るようにそう言うと、ウタは区長の新里を見た。3年前に役場を定年退職してから区長になり、2期目に入っていた。子供のころ、悪さをしてはよく叱られていたので、今でも新里はウタに頭が上がらなかった。
 「ウタねえさん。いち大事なってるやさや」
 しゃがんで木陰に入ると、新里は首に提げていた手ぬぐいで顔の汗を拭いた。
 「今さっき、幸太郎見てきたやしが、あれえ、いったい何やが?」
 「アーマン」
 「それはわかるしがよ。なんでアーマンの幸太郎の口に入っておるか?」
 「それまで我んがわかるかひゃー。ただや、我んねー昔、恨神をしていたグジイねえさんから聞いたことがあるしが、人の魂、落としてるときは身体も弱っておるから、よからぬ者の悪さする事が有るんでぃ言うさ。幸太郎もそれやあらんがや。やこと、今、幸太郎の魂込めの御願捧げておるさ」
 「はー」
 新里は曖昧な声を漏らしたが、ウタは2人に背を向けて幸太郎の魂に小声で、早く戻ろうと促した。フミが来ても幸太郎の様子に変化はなかった。三人が傍にいることさえ気がつかないように海を見つめ、動こうとする気配はない。仕方なくウタはTシャツをたたみ、お盆や酒を片付けた。「あとでまたするさ」と2人を促して、ウタはひとまず引き上げた。

 幸太郎の家に着くと、裏座に幸太郎を挟んで腰を下ろした。フミが朝ご飯を運んできてくれた。目の前で口から出たり入ったりしているアーマンを見ながらでは食欲が出ず、ウタは軽く手をつけただけだったが、新里は三杯もお代わりをした。ふと、新里が焼き魚の切れ端を箸でつまむと、アーマンの前に差し出した。素早くはさみで切れ端を掴み、アーマンは口のなかに引っ込んだ。
 「この痴れ者が、なにしよるか」
 ウタに蠅叩きで頭を叩かれ、新里は平謝りに謝った。雨戸を閉め切った部屋は扇風機をまわしていても暑くてたまらなかった。幸太郎がしばらく動けないでいると、いろいろと手助けが必要だから区長に相談するのはわかったが、魂込めが終わるまで待てんかったか、とウタは内心不満だった。フミが食器を片付けて裏座に戻ると、新里が「相談やしがよ……」と話を切り出した。
 新里は、このことは集落のごく一部の者だけのあいだにとどめて、絶対に他村の者に知られてはいけない、と言った。医者にかかるような病気ではないから診療所の大城には秘密にし、ウタの魂込めが上手くいくように協力すること。幸太郎が元気になるまでは新里が責任を持ってフミや子供たちの面倒を見ることなどを告げると、フミは何度も頭を下げて礼を言った。
 「困ったときはお互いさまやさ」と言いながらにやけた笑いを浮かべている新里に虫の好かないものを感じたが、提案にはウタも同意した。
 夕方から老人会の三役や壮年会長など主だった連中を集めた話し合いを持つことにし、新里は引き上げた。ウタもしばらくフミを慰めたあと、家に戻った。幸太郎の魂が気になったが、独り暮らしで、畑仕事や山羊の世話をはじめ、毎日やらなければならないことはたくさんあった。
 午前中は畑に出て、午後は昼食のあと2時間ばかり身体を休め、山羊の草を刈ってから再び浜に行ったのは5時過ぎだった。幸太郎の魂は同じ場所に同じ格好で座っていた。陽射しが和らいで海の色も淡い光に包まれ、水平線から立ち上る入道雲の横に白い月が浮かんでいる。
 「早く家に戻らんな」
 ウタは静かな口調で繰り返した。正面にまわり手を合わせても、幸太郎の答えはなかった。遠くからでもウタを見ると声をかけてくれ、実の親のように慕ってくれた幸太郎だったのに、自分が忘れ去れてしまったような寂しさにウタは溜め息をついた。フミが呼びに来るまでの半時間ばかり、ウタは海と幸太郎の横顔を交互に見つめ、掌から砂をこぼしながら黙って座っていた。

 公民館に入ると、老人会、壮年会、青年会、婦人会のそれぞれの区長が、事務所横の畳の間に座ってウタを待っていた。区長の新里をはじめ、すでにビールを何缶か空けたらしい男たちは、夕飯代わりに出された刺身や握り飯を頬張りながら、3ヶ月後に行われる村会議員選挙の話をしていた。壮年会長をしている古堅宗佑が立候補しようとしている噂もあって、青年会長の金城弘の肩を叩きながらビールを勧めている姿に、ウタは幸太郎のことを気遣う気持ちを汚されたような苛立ちを覚えた。
 「あね、古堅、もう早よから票読みかいな」
 皮肉りながら席に着くと、古堅はいかにも下心のありそうな笑みを浮かべた。
 小皿に醤油を入れようとする古堅の手をはねのけ、ウタは自分で入れた。婦人会長の又吉ツルが頭を下げて割り箸を差し出す。ウタが二切れ刺身を口にし、箸を置いたのを見て、新里が皆に声をかけた。
 新里はいきなり用件に入った。公民館に来る前に全員が幸太郎の様子を見てきたらしく、ウタはその手まわしのよさに驚くと同時に、なにかイヤな感じがした。
 「それでよ、我んが一番心配しておるのは、この件で、ヤマトの企業が計画しているホテルの建設にも支障が出るんじゃないか、ということなわけよ」
 昼間とは違った話の展開に、ウタは驚いた。
 「やっぱり、相手はヤマトの人たちだからね。人間の身体に、はぁ、アーマンが入ったなんて話を聞いたらね、これはもうビックリしてね、はぁ、魂脱がして、計画も中止になるかもしれないわけですよ。ホテルの誘致は他の地域でも狙っておるからね、幸太郎のことがあちこちに知れたら、あの村に泊まったらいろんなものが身体に入ると噂されてね、あね、内地人は臆病だし、沖縄に偏見持ってる人たちも多いからね、せっかくの誘致もダメになるかもしれないわけよ。だから、今度の幸太郎の件はね、絶対に秘密にしておかないといけんと思うわけですよ」
 「刺身はこれだけな?」
 新里の話が終わると同時に、老人会長の島袋源八が怒鳴った。
 「はいはい、今持ってきますよ」
 公民館の事務をしている嘉手納美代子が明るい声で盆に載せた刺身皿と泡盛の三合ビンを持ってきた。まだ25歳なのに2度離婚していて子供も3人いたが、屈託のない性格で神行事の手伝いも熱心にしてくれるので、ウタのお気に入りだった。女たちの茶碗に茶を注いで美代子が事務所に戻ると、新里はみんなの協力を仰いだ。
 「やがしよ、区長」
 青年会長の金城が手を挙げると、あっさり決まると思っていたらしい新里は不愉快そうな顔をした。
 「逆によ、口にアーマンの入った人間がいると知られたほうがよ、宣伝になるとは考えられんな? やっぱ、あんな珍しいものはよ、誰でも見たいんじゃないか。新聞とかテレビでニュースになったら、集落にも人がいっぱい来るんではないか」
 新里がヤバいという顔をしたのと、ウタが怒鳴りつけたのは同時だった。
 「やな腐れ童や、幸太郎、見せ物にするつもりな?」
 今にもテーブルを飛び越えてきそうなウタの剣幕に、金城は腰を浮かして逃げの態勢をとった。
 「あね、ウタねえさん、堪えてきみ候りよ。この青年やモノわからんで言いよるもの」
 新里と古堅が慌ててウタを抑えた。
 「青年会長する者が、人の哀れもわからんな。モノや言い欲さ勝手やあらんど」
 テーブルを叩いて腰を下ろしたウタの横でフミは俯いて肩を震わせ、その肩に手をやりながら婦人会長のツルも男たちを睨みつけた。新里や古堅も一緒に詫びているのを見て、茶碗の泡盛を飲み干した源八がいきなり声を上げた。
 「何やが、お前たちや、女子に頭下げて風姿もないらん」
 「黙りみ候れ」
 ウタが一喝すると源八はすぐに静かになった。
 こういういざこざはあったが、新里の提案はみんなに受け入れられ、ウタの魂込めが終わってアーマンが身体から出るまでのあいだ、この場にいる者だけで秘密を厳守してフミを助け、さしあたり幸太郎は那覇の親戚の家に用事で出ていることにした。

 男たちが酒を飲んで騒いでいる公民館から出ると、フミを家に送り、ウタはひとりで浜に戻った。白い蕾のような月の明かりで、懐中電灯を点けなくても歩くのに不便はなかった。打ち寄せる波の音を聞きながら滑らかな砂の肌に足跡を刻み、ウタは浜うす木のところまで来た。青みを帯びた淡い影のしたで、幸太郎の魂は海を見つめている。その横に腰を下ろすと、ウタも月の光が揺らめく海に眼を遣った。
 ウタが若い頃は、夜になると浜に若者が集まり、三線を弾き、歌を唄い、月を眺めて酒を飲み、深夜まで遊んだものだった。即興で歌の掛け合いがはじまると、皆、耳を澄まし、優れた歌詞は口伝に伝えられ、情のこもった声の持ち主は憧れの的となった。そうやって幾夜も遊びを重ねるうちに、ウタは清栄と知り合い、幸太郎の両親のオミトと勇吉も一緒になったのだった。
 浜のどこかから三線や歌の掛け合いの歌声が聞こえてくるような気がして、ウタは胸の奥が痛んだ。夜、ひとりで浜に出てきたのは、いつ以来のことか思い出せなかった。清栄もオミトも勇吉も戦争で死んで、自分だけが年を取り、こうして浜に座っていることが急に寂しくなって、ウタは幸太郎の魂に声をかけた。
 「お前や何見よるか」
 返事はなかった。月が雲に隠れ、光が弱まると、幸太郎の姿も消えていくように思えた。
 「帰らんな、幸太郎」
 ウタは立ち上がりながら言った。柔らかい風が吹いてくる海を見つめたまま幸太郎は、ほんの少し首を傾げたように見えた。葉影の揺らめきでそう見えたのかもしれなかったが、少しだけ自分の気持ちが通じたような気がして、ウタは両手を合わせると浜を出た。

 翌日からウタは、朝起きて茶を飲むとすぐに浜に行き、午前中の畑仕事を終えたお昼過ぎと夕方、そして夜と、日に4度、浜うす木の木陰で魂込めを行った。しかし、幸太郎の魂は海を見つめたまま動こうとしなかった。3日、4日と重なるうちに、焦りが募ってきて、ウタは無力感と苛立ちで食事もろくにとれなくなった。痩せていったのはウタだけではなかった。魂が抜けてただでさえ精気がないのに、水や流動食も途中でアーマンにとられてしまうらしく、幸太郎の身体は目に見えて衰えてきた。反対にアーマンは日一日と成長し、今では宮古や八重山に棲むヤシガニと見まがうばかりになり、口から身体を出すときには今にも顎が外れそうに見える。フミの手前、口にするのは憚られたが、幸太郎の身体のなかでアーマンの腹部がどうなっているかを想像すると、皆ぞっとした。
 5日目の夜だった。全員が裏座に集まり、幸太郎を囲んでこれからどうするかを相談しているとき、口をこじ開けて姿を現したアーマンがぐいと身体をひねった。横を向いた幸太郎の頭が枕から落ち、15センチ以上もある足が布団をかき寄せ、爪先が畳にかかる。灰色がかった紫色の足が曲がり、ぎしっと擦れる音がしたかと思うと、呆気にとられて皆が見ているまえで、幸太郎の身体がわずかではあるが動いた。フミの叫び声が上がり、ウタが蠅叩きを振り上げると、アーマンはすぐに身体を隠した。古堅と金城が恐る恐る幸太郎の頭を枕に載せた。しばらくは誰も口を開くことが出来なかった。
 「やっぱり、病院に連れていって、手術してもらったほうがいいのやあらに?」
 古堅がウタの顔色を窺いながら言った。
 「やしが……」
 傍で泣いているフミを見て、新里は言い淀んだ。みんな疲れていた。昼のあいだは、酒とご馳走にありつけるので、源八が喜んで枕元に座っていたが、夜、2人一組で看病し、徹夜で番をするのは、みんな仕事を持っているだけにキツかった。
 ウタが魂込めをしているあいだ、男たちもアーマンを外に出そうといろいろ試してはいた。スルメやチーズを餌に誘い出し、うまく爪にワイヤーを引っかけたのだが、いとも簡単に切られてしまった。普通のアーマンなら、貝殻の底に穴を開けて釘で突いたり、ライターで炙って簡単に出すことが出来る。しかし、幸太郎の尻を炙るわけにもいかなかった。
 健太郎と友子のことも気がかりだった。結婚してから10年以上も子供が出来ず、健太郎の生まれたのは幸太郎が42歳のときだった。そのせいもあって、ことのほか子煩悩で、夕方になると毎日のように親子で浜で遊んでいた。この1週間近く、部屋に出入りするたびに、「父ちゃんはいつ治るね?」と聞かれるのがみんなつらくてつらくてたまらなかった。那覇に行っている、と子供に嘘をつかせているのも後ろめたかった。
 心配事は、それだけではなかった。カメラを提げた若い男が2人、集落をうろつきはじめたのは、昨日の昼過ぎだった。ひとりはヤマトの人間で、もうひとりは那覇の出身ということだったが、区長の新里を訪ねてきた2人は、最初は各集落の遺跡や行事の写真を撮って記事にしているのだと話していた。しかし、言葉の端々から、男たちの狙いが幸太郎の件であるのを新里は見逃さなかった。
 「最近、変な病気で寝込んでいる人がいるそうですが……」
 そう聞かれて、少しまえに隣字で足が腫れて寝込んだ男がいたがね、とごまかすと、茶も出さずに男たちを陽射しのなかに立たせておいた。その後、男たちは共同売店のまえで遊んでいる子供たちやゲートボール場の老人たちから話を聞き出そうとしていた。男たちは夕方、浜で祈っているウタのところにもやって来た。相手にしなかったが、内心は穏やかではなかった。カメラを向けるのに「やめれ」と睨みつけると、男たちは苦笑いを浮かべて去っていった。
 昨夜は誰が話を漏らしたのかと口論になり、真っ先に疑われた金城はすねて、もう抜ける、とまで言い出した。どうにかなだめて止めたが、お互いの不信感は消えなかった。みんなが重苦しく黙っているなかで、ウタは無力感に打ちのめされていた。自分にもっと力があって魂込めが上手くいっていれば、幸太郎にもみんなにもこんなに哀れさせないでいいのに、と思うと、すっかり気が弱くなり、早く病院に行かせたほうがよかったかもしれん、とまで考えた。
 「あと1日待たんな」
 酒臭い息を振りまいて、源八が言った。
 「病院に行ったからといって治るものやあらんはずやしが、ただ、なー仕方ねんさ。やしがや、あと1日やウタに魂込め、お願いしちまんな?」
 源八の言葉にウタは頭を下げた。

 翌日、ウタは畑に出ずに1日を魂込めに費やした。炎天下の砂浜で1時間以上続けて座っていることは無理で、何度も家に帰って休まなければならなかったが、ウタ自身の身体が危ないからとフミや新里が止めるのを振り切り、幸太郎の横に座って一心に祈り続けた。しかし、幸太郎は海を見つめたまま、ウタの方を振り向いてもくれなかった。澄み切った空に星明かりが見えはじめた頃、ウタはフミと新里に両側から支えられて裏座に戻った。雨戸を閉め切った部屋は暑さで饐えたような臭いがする。そのなかでツルも古堅も金城も汗まみれになりながら待っていて、源八も珍しく素面で幸太郎の枕元に座っていた。ウタはみんなの姿を見ると床に頭をすりつけて、自分の力のなさを詫びた。
 「あね、ねえさんよ、頭上げみ候れ」
 「やんどー。お婆は何ん悪くねんど」
 ツルと新里が慌ててウタを起こした。
 「ご苦労やったさ」
 源八のねぎらいに、古堅と金城も頷いた。
「ありがとうございました」
 フミがそう言って床に頭をつけたのを見て、ウタは申し訳なさと悔しさに目頭が熱くなった。幸太郎とフミの2人とも実直な人柄だったし、集落の神行事にも積極的に参加して神女のウタをいつも助けてくれた。そういう2人がどうしてこんな災難に遭わなければならないのか。ウタは集落を守るはずの御嶽の神を初めて恨んだ。丸く膨らんだ幸太郎の頬や咽喉がもぞもぞ動いた。鼻の穴から黒く艶やかな触覚が2本出て様子を窺い、それが引っ込むとくちびるのあいだから鉛筆くらいの大きさになった目が潜望鏡のように突き出る。源八は蠅叩きで頬を軽く叩いてそれを引っ込めさせた。毎日付き合っているうちにアーマンの扱いも手慣れたものになっていた。一同は、明日、診療所の大城に連絡することを確認して、一番座敷に移り、夕食をとりながら酒を飲んだ。
 ウタはブタの腸の吸い物に手をつけることが出来なかった。隣の部屋でテレビを見ていた健太郎と友子の頭を撫で、心のなかで謝ると、家で休むからとフミに告げて外へ出た。心配してついてきてくれたツルと自分の家のまえで別れ、ウタはそのまま浜に降りた。
 星明かりをほとんど消してしまうほどの月の光で、浜は蒼い靄に包まれているようだった。ウタはゴム草履を脱ぐと両手に提げ、生きものの脇腹のように柔らかく温かい砂を踏んで、浜うす木のところまでゆっくりと歩いた。風に揺れる葉影が幸太郎の姿を不安定にして、ときどき向こう側が透けて見える。砂に腰を下ろすと、ウタはなにも言わずに一緒に海を見つめた。波打ち際で海蛍が光っている。6月が近かった。梅雨はだいぶ遅れていたが、もうすぐ雨の季節になると幸太郎の魂はどうするのだろうと気になった。仮に病院で手術をしてアーマンを取り出しても、幸太郎の魂は戻るわけではなかった。明日からもウタは同じように魂込めを続けるつもりだった。
 昼間の疲れで、いつの間にはウタは砂に横たわり寝ていた。顔にかかる砂と深い溜め息のような音に目が覚め、顔を上げると、浜うす木の木陰に幸太郎の姿がない。慌てて身体を起こした。5メートルほど離れたところに立っている幸太郎の後ろ姿が見えた。その足許で、なにか黒く平たいものが砂を跳ね上げている。近寄って幸太郎の横から覗き込むと、1メートル以上もある海亀だった。砂をかぶった甲羅に数え切れないくらいのフジツボが張りついている。ときおり頭をもたげ、深く息をつきながら穴を掘っている海亀を、幸太郎は真剣な面持ちで見つめている。
 「これを待っておったんな」
 そう呟いた瞬間、ウタはこの場所が、オミトが死んだあの夜に、海亀が卵を産んでいたのと同じ場所であることに気づいた。膝が震え、ウタはしゃがみ込むと海亀に向かって両手を合わせた。







 米軍の空襲で、村の家の大半が焼かれてから1ヶ月近く経っていた。近くに海軍の特別攻撃班の基地があったおかげで、ウタたちの集落はとりわけ被害が大きかった。他の集落の者たちは山に逃げ延びたあと、焼け残った家に戻って食糧や生活用具などを取りに帰る余裕があったが、ウタたちの集落は最初の爆撃で破壊され尽くしていた。着のみ着ままで山に逃げたウタたちは、艦砲射撃から逃れるだけでなく、1日目から食糧の確保に追われた。
 夜になるとウタたちは山中の洞窟から出て村に戻り、畑から芋を掘り起こしたり、他集落の無人の家から味噌や塩を盗んだりして飢えをしのいでいた。その日の夜、ウタは同じ洞窟にいたオミトと2人で、海のそばの畑に来ていた。たいていの畑は掘り尽くされていて、痩せ地のこういう畑くらいしか残っていなかった。崖とアダンの茂みに挟まれた畑で親指ほどの芋を掘り起こしていると、オミトがウタの袖を引いた。
 「兵隊の来よる」
 2人はゆっくりと後ずさり、アダンの茂みに隠れた。崖に沿って歩いてくる3名の人影が見えた。低く身を屈め、銃を手にして崖の影を移動していく男たちの息遣いや鉄兜の木の葉を擦る音が、異様に大きく聞こえる。砂に顎を埋め、息をこらして数メートル先を通っていく日本兵の姿を見つめた。スパイ容疑で隣部落の警防団長や小学校の校長が日本兵に斬り殺されたという話は、ウタたちの洞窟にも伝わっていた。海のそばの家に立ち寄った隣村の兼久いう男が、沖の米軍の船に合図を送ろうとしたという言いがかりをつけられて日本兵に連れていかれ、戻ってきていないという話も耳にしている。友軍だから自分たちを守ってくれるとは、ウタたちも単純に信じられなくなっていた。3名の姿が見えなくなっても、ウタたちは身動き出来なかった。
 不意に背後で聞こえた砂音に、思わず声を上げそうになった。腹這いになった太腿にオミトがしがみつく。草の葉に砂をばらまくような音は繰り返し繰り返し聞こえている。それが日本兵の足音ではないと知り、汗まみれの顔についた砂をそっと落とすと、ウタはオミトを促して態勢を変え浜のほうを見た。
 月明かりの下、砂を飛ばし、1頭の海亀が穴を掘っていた。沖には数百隻のアメリカの軍艦が浮かび、連日島に砲撃を加えていた。そういう海を泳ぎ、産卵のために島に上がってきたその海亀が、なにかこの世のものではないような気がした。ウタは戦争がはじまるまえの村に戻ったような不思議な感覚で、砂に身体を埋めた黒い塊を見つめ、浜ヒルガオの葉に落ちる砂の音を聞いた。
 それから1時間近く、ウタとオミトは腹這いになった身体を重ねるようにして、アダンの茂みに隠れていた。耳を澄まし、浜と崖のほうを交互に見ながら、ウタは日本兵の動きを探った。オミトは月の光を浴びて産卵している海亀の様子を一心に見つめている。やがて砂を埋め戻し、掘った跡を消すと、海亀は海に向かって歩き出した。その姿が波のなかに消えるのを見送り、ウタは、洞窟に戻ろう、とオミトを促した。オミトは浜を見つめたままなにか考えているようだったが、振り向いて、「卵を採ってくる」と言うと、アダンの茂みを飛び出した。ウタが止める間もなかった。前屈みに走ったオミトは浜に身を投げ出すと、両手で砂を掘りはじめる。
 「え、戻れ」
 ウタは小声で叫んだが、オミトは聞かなかった。しばらくして、片手を肩のあたりまで砂に埋めて、卵を芋の入った袋に入れはじめる様子を見て、オミトの大胆さに呆れると同時に卵を採ることを考え切れなかったことを恥じた。洞窟のなかではみんな飢えていた。老人と子供たちの衰弱は特にひどかった。手助けをしなければ、と思いながらも浜に身をさらす勇気が出なかった。オミトの姿をやきもきしながら見ていると、突然、火のなかの竹が弾けるような乾いた音が響き、オミトの身体が横倒しになった。反射的に砂に身体を押しつけて顔を伏せる。機銃の集中砲火が次の瞬間にもはじまりそうで、ウタは清栄の名を呼び、御嶽の神に祈った。銃声の長い残響が消え、波と葉擦れの音が戻ってくる。顔を上げてオミトを見たが、身動きひとつしない。袋の口に手をかけたまま横向きに倒れているオミトのふたつの足の裏がとても小さく見えた。乱れた髪だけが風に動いていた。
 アダンの茂みを抜け出したのは、東の空が緑色に変わりはじめていたからだった。洞窟に戻る直前、ウタは小さく声をかけた。声は波音に掻き消された。ウタは、明日の夜に清栄や勇吉と一緒に迎えにくるからと約束して、洞窟に戻った。
 30分以上走り続け、勇吉やオミトの両親に告げる言葉を探す余裕が出たのは、洞窟の入口が見えてからだった。なかに飛び込むと、岩陰にしゃがんで息を整える。頭のなかで砂と波が鳴っているようで、言葉をまとめることが出来ない。滑る岩に足をかけて奥に下りながら息苦しさに喘いだ。数家族が隠れている洞窟の奥まで着いて、いつもと違う気配にすぐに気づいた。岩の割れ目から射し込む月の光で、洞窟のなかは海の底のようだったが、いつもは家族単位でかたまっている人の姿がない。
 「ウタな?」
 勇吉の母親のカマダーの声が聞こえた。闇のなかから現れた手がウタの袖を掴む。
 「如何し侍りたが?」
 カマダーの手をとってそう聞くと、洞窟の隅の岩陰で泣き声が起こった。なかにいたのは女と子供だけだった。先まわりした日本兵たちに、男はみんな連れ出されていた。清栄も勇吉も、老人を含めた他の男たちも。そして、二度と戻ってこなかった。

 産卵を終えた海亀は砂を埋め戻し、腹で打って固めている。前脚で身体を持ち上げ、砂を腹で打つその仕草は腹這いになった人間が行っているようだった。
 両親がいなくなったのも知らずに洞窟のなかで眠っていた幸太郎は、まだ1歳にもなっていなかった。戦争が終わり、村が復興されると、清栄とのあいだに子供のなかったウタは、独りで乳飲み子を育てているカマダーを助けて実の子のように幸太郎の世話をした。幼い幸太郎を抱くたびに、浜に倒れていたオミトの姿が目に浮かんだ。米軍の収容所から解放されるとすぐにウタは浜に向かった。だが、そのときにはもうオミトの遺体はなかった。どこに葬られたのかもわからなかった。連れ出された男たちも、スパイ容疑で処刑されたという話はあったが、どこに埋められたか、ということはとうとうわからずじまいだった。幸太郎を慈しむことが、少しでもオミトの無念を晴らし、自分の罪を購うことであるかのように思った。けれど、それ以上に、独り身のウタにとって幸太郎の成長する姿を見るのは、生き甲斐だった。
 月の光は何十年も何百年も変わらないと思う。砂を掘り、海に戻っていく海亀が、戦争のさなかに見たのと同じ亀であり、同時に、あのとき砂のなかに残っていた卵が孵化し、成長したもののようにも思える。甲羅の砂を波が洗い落とす。滑るように海に入った海亀は首を反らすと浜のほうを見た。幸太郎が海に向かってゆっくりと歩き出す。
 「行ってはならんど。幸太郎。行ってはならんしが」
 ウタは叫んだ。幸太郎は一瞬立ち止まってウタを見た。しかし、すぐにまた、波間に頭をもたげて漂っている海亀に目を移し進みはじめる。ふと、その海亀がオミトの生まれ変わりのような気がした。
 「あね、幸太郎、待ちよう。待ちよう」
 ウタが追いすがろうとしたとき、急にその姿が揺れ、砂に吸い込まれるように足許から消えていった。ウタは四つん這いになって幸太郎が消えたあたりの砂を撫でまわした。海亀の身体についていた海蛍がふたつ、砂のなかで光っている。不意にイヤな予感に襲われ、ウタは立ち上がるとフミの家に走った。

 玄関の戸を開けるまえからフミの泣き声が聞こえていた。急いで裏座にいくと、戸のまえに座った源八が、健太郎と友子を自分の膝に座らせて頭を撫でている。源八は小さく首を横に振った。戸を開けると、入口のそばに立っていた金城が険しい顔でウタを見、身体をよけてなかに入れる。幸太郎にすがりついてフミが泣いていて、新里と古堅が腕組みをしてそれを眺めている。奥の雨戸のところに、後ろ手に縛られた男が2人、ふてくされた顔で座っていた。畳に置かれたカメラの横に、引き抜かれたフィルムが投げ捨てられ、黒い円を描いている。
 「この2人がよ、いきなり雨戸を開けて写真撮ってよ、フラッシュの光に驚いたアーマンが、慌てて口に潜って、咽喉に詰まってよ……」
 金城が興奮した口調でウタに話しかける。ウタはゆっくりと幸太郎の枕元に腰を下ろした。
 「ねえさん」
  フミがすがりつこうとするのを手で制した。顔にかけられた白い布をとり、鼻の穴に脱脂綿の詰められた顔を見た。魂の抜けた身体は窒息してもあまり苦しまなかったのか、穏やかな表情をしている。ただ、異様に膨れ上がった咽喉は見るからに息苦しく、ウタは布でそこを隠すと、手の震えを抑えながら幸太郎の額を撫でた。何んでぃち我んよか先にお前が死なんねーならんが……。掌に冷たさが染み込む。洞窟のなかで力のない泣き声を漏らす小さな身体を抱いたときから今まで、幸太郎が先に死ぬことなど想像したこともなかった。どんなに自分が愛情を注いでもオミトの代わりになれないのはわかっていた。幼い頃、魂込めをしながら、我んが出来るかぎりのことはするから幸太郎の魂を戻してくれよ、と祈り、元気が戻るとすぐにオミトの名が記された一族の位牌にお香を上げ、礼を言った。幸太郎は小学校、中学校と上がるにつれて丈夫になり、魂を落とすことも少なくなった。中学を出て3年ほど本土で働いてから村に戻り、カマダーを手伝って農業をはじめた。カマダーが死んでからいち時期は酒や博打に溺れたこともあったが、そういうときでも仕事は熱心で、畑を広げ、中古の船を買って海に出るようにもなった。漁から戻ってくる姿が、あまりに勇吉にそっくりなのでそう告げると、幸太郎はとても喜んだ。フミと一緒になり、40歳を過ぎてからやっと子供が出来、これからが働きがいもある、といつも言っていたのに。
 「あいやー、幸太郎よ」
 うっすらと髭の生えた頬や乾いたくちびるにウタの涙が落ちた。不意に、鼻に詰めてあった脱脂綿が落ち、黒い艶やかな触覚が二本伸びる。くちびるがむぐむぐ動き、口元がにやけた笑いを浮かべたように歪んだかと思うと、紫の鉛筆のような目が突き出てウタを見る。フミの泣き声が止み、みんな息を詰めて幸太郎の顔を見つめた。やがてふたつの大きなはさみが口をこじ開け、アーマンが半身を現した。と思った瞬間、ウタが両手で左右のはさみを鷲掴みにし、「この腐れアーマンが」と叫ぶと同時に、幸太郎の肩に足をかけて力まかせに引っ張った。足の爪を顎に引っかけてこらえるアーマンは、はさみを振りまわしてウタの指を食いちぎろうとする。
 「あね、何とろばってるか。手助けさんな」
 ウタに怒鳴られて金城は幸太郎の顎を抑え、新里とフミは身体の上に覆い被さり、古堅はウタの腰を掴んで、「うねひゃあ」と気合いを入れて引っ張った。アーマンの身体がぎしぎし軋んだ。金城は左の肘で幸太郎の顔を固定し、右手で左右の顎に食い込んだアーマンの爪を一本一本剥がした。左側の4本の脚がはがれた瞬間、右の頬を爪が引き裂き、アーマンの全身が口から一気に引きずり出された。ウタと古館が後ろにひっくり返った隙をついてアーマンはウタの掌を傷つけ、ぬらぬら光る巨大なカブトムシの幼虫のような腹を引きずって雨戸のほうに逃げる。
 「うわあああ」
 それまで呆気にとられて成り行きを見守っていたカメラマンたちが、近寄ってくるアーマンを飛び上がって避け、ウタと古館の上に転がった。アーマンは雨戸をガリガリ引っ掻き、開かないのを知ると壁に沿って逃げ出す。新里とフミが叫び声を上げて幸太郎を跨ぎ、反対側に逃げる。
 「あね、どきくされ、姦さぬ」
 ウタは3人の男を蹴り飛ばすと、源八が飲み干した泡盛の一升ビンを振り上げ、部屋の隅に追いつめたアーマンの上に振り下ろした。がしっ、という激しい音がした。はさみに当たってビンは跳ね返され、アーマンは傷ひとつ負っていない。
 「あね、弘、鍬持って来よ」
 ウタの声に弾かれたように金城が物置に走る。ウタは一升ビンを肩のあたりに構え、第2撃を見舞ったが触覚が一本折れただけだった。ビンを握った右手が血で滑った。大きなはさみで防御の姿勢をとっているアーマンの目が自分を小馬鹿にして笑っているように思え、ウタは怒りに震えながら怒鳴った。
 「弘や、まだな」
 「まだやいびーん」
 背後でフミと身を寄せ合っている新里が間の抜けた声で言った。ウタに睨みつけられて新里が愛想笑いを浮かべたとき、勢いよく戸が開いた。
 「あり、ウタねえさん」
 金城が平刃の鍬を放った。右手の一升ビンをアーマンに投げつけ、同時に左手で鍬を受け止めると、身体の前で半回転させて振りかぶり、「死に腐れ」と気合いもろとも打ちおろす。ガシッという音が響き、鍬の刃が畳みに食い込んだ。脚が2、3本吹き飛んだが、アーマンは素早く逃げて戸のほうに走っていく。叫び声が上がり、フミや新里やカメラマンがひと塊になって逃げ惑う。
 「逃がすなよ、弘」
 「おー」
 金城は上段に構えたスコップをアーマンめがけて振り下ろした。
 「ほー」
 戸の隙間から覗いていた源八が、感心した声を漏らす。正面から振り下ろされたスコップの刃を、アーマンはふたつのはさみで見事に受け止めていた。しかし、その隙をウタは逃さなかった。大きなハムくらいもある柔らかな腹部に、鍬の刃が振り下ろされた。ブシュッという鈍い音とともに、生臭い液が飛び散る。腹部を両断されたアーマンは、それでもスコップの刃を離さない。そのはさみの根元にさらに鍬の刃が打ち込まれた。はさみが折れ、金城がひっくり返る。アーマンは脂光りするしなびた腹を引きずりながら残った脚で壁まで這い、身体を返してウタを見た。弱々しい目の光に不意に哀れみが涌いた。
 「待てぃよ、弘」
 そう叫んだが、振り下ろしたスコップは止められなかった。背中の甲羅が砕け、濃い緑色の液が流れ出す。それでもまだアーマンは死ななかった。ふたつの目が自分を見つめている。そう思ったとき、突然浮かんだ考えにウタは胸を衝かれた。
 このアーマンこそがオミトの生まれ変わりではなかったか……。興奮した金城がスコップを振り下ろし、とどめを刺した。
 しばらくは、誰もモノを言う気も、動く気もしなかった。腰を抜かして呆然としてカメラマンたちのまえに来ると、ウタは鍬を振り上げた。
 「ウタねえさん」
 フミと新里が同時に叫んだ。
 悲鳴を上げたカメラマンの腕をかすめ、鍬の刃はカメラを粉々に打ち砕いた。
 「ここで見たことは胸にしまっておきよ。でないと、お婆がヤマトまで追うていって、必ず撃ち殺すよ」
 2人は何度も頷いた。ウタは新里らに、アーマンの身体を片付けて浜に埋めてくるように言った。部屋に散らかった身体をスコップですくって肥料の空き袋に入れ、カメラマンたちを引っ立てて新里と金城が出ていくと、ウタはフミと一緒に丁寧に部屋を掃除し、アーマンの体液で汚れた幸太郎の身体を拭いて着替えさせた。源八は泡盛をあおりながら、子供たちに居間で手品を見せてやっていた。神妙な顔で手品を見ている健太郎と友子を見て、ウタは涙をこらえながら、2人に幸太郎の死を告げるのは翌日にすることをフミに相談した。
 明くる日、幸太郎の死の知らせに村人たちは驚いた。憶測が飛び交ったが、告別式は滞りなく行われた。骨が折れたのは、診療所の大城を説得することだった。解剖の必要があると主張する大城に、事情を打ち明けても信じようとしなかった。最後にはウタが手の傷を見せて訴えた。
 「あんたは、この我んが嘘物言いしよると思うな?」
 ウタが涙を流すのを初めて見た大城は、死亡診断書を書き、火葬が早く行えるよう取り計らってくれた。
 アーマンのことは少しだけ噂になった。しかし、確かめようもないままやがて立ち消えになった。

 人のあの世に行くのと亀の子の海に行くのは四十九日。浜に立ってウタは、幼い頃、父が幾度か口にしていた言葉を思い出していた。梅雨が明け、再び月の光が浜を照らし出していた。
 そんな日の午後、四十九日が終わり、仏壇の前の花や写真が片付けられた。源八が芋の蔓を絡ませた竹で部屋中を払い、幸太郎の魂が家や村に未練を残さないであの世に行くようにと強い口調で言った。それを見ながらウタは、幸太郎の魂は無事にあの世に行けただろうか、と思った。
 座敷に残って酒を飲んでいる源八や新里ら男たちの世話を、手助けにきた婦人会の女たちに任せ、ウタはフミの家を出た。いったん自宅に戻って山羊の草を刈りに行き、簡単な食事をすませると浜に出た。砂のなかに消えてから、幸太郎の魂は二度と姿を現さなかった。しばらくは毎晩浜うす木の下に座って海を眺めていたが、梅雨に入ってからは足も遠ざかっていた。前の晩から浜に出るようになったのは、海亀の孵化が近づいているからだった。
 7時を過ぎたばかりでまだ早すぎると思ったが、部屋で待ち切れなかった。浜うす木の下に座り、海を見つめてウタは待った。波の音を聞きながら月の光の揺れる海を見つめていると、自分もすでに死んで魂になっているような気がし、とりとめもなく浮かぶ記憶と現実の区別がつかなくなる。
 汗疹が出来た幼いウタを母親が海で水浴びさせ、父親が裸のウタを抱き上げて笑う。膨らみはじめた胸が恥ずかしくて両腕で隠すと、木麻黄の下に立っていた清栄が走ってきて腕をどけくちびるをつける。乳首をくすぐる舌の感触に笑いながら声を上げて身をよじり、浜を走った。浜の中央まで来ると、月明かりの下でオミトや勇吉や村の若い衆が車座になって歌い舞う姿が見え、波と風の音のあいだに三線の音がかすかに聞こえる。
 海のそばの集落に生まれ、海に涌く生きものを食べて育ち、人間は海によって生かされ、死ねば海の彼方の世界に行くのだと教えられてきた。浜に横たわるオミトの黒い影が目に浮かんだ。米軍の収容所から出て真っ先に浜に行った。目が痛くなるほど白い光を反射する砂浜を見つめ、ウタは海を背に立ち尽くしていた。乾いた砂が動き、なにか黒い木の実のようなものが顔をのぞかせる。大きな前びれで砂をかきわけ、褐色の身体を砂の上に出した海亀の子は、熱い砂に灼かれてしばらく動くことが出来なかった。やがて頭をもたげ、子亀はウタのほうに向かって這ってきた。よく見ると足元の砂に細かい足跡が無数についている。前の夜に孵化した仲間から遅れた子亀は、ウタの影のなかで立ち止まって頭を巡らす。それから急に勢いよく走り出すと、打ち寄せる波にぶつかり、透明な緑の世界に滑り込んでいった。
 そうやってみんな海の彼方の世界に帰っていくのだと思った。滑らかな砂の肌が崩れる。ウタは立ち上がって溢れ出す黒い群れを見つめた。月明かりの下を扇形に広がりながら海に向かう小亀たちの速さと勢いにウタは驚いた。左右から走ってきた砂カニが子亀をはさみで捉え、頭上にかざすようにして運んでいく。それでも勢いは止まず、子亀たちは次々と海に入っていく。群れが消えると、ウタは沖の珊瑚礁に砕ける白い波を見た。父が海亀の孵化する日に関心を持っていたのは、子亀を狙って浜の近くに大きな魚が寄ってくるからだった。その魚を狙って、父は銛を手に海に出ていった。白い波に辿り着ける子亀はほんのわずかだった。
 ウタは浜に立ち、あたりを見まわした。浜うす木の木の葉がかすかに揺れ、アダンの茂みでアーマンの這う音がしている。木麻黄の防潮林が黒い壁になって海と集落を隔て、浜にいるのはウタ一人だった。急にいたたまれなくないほどの寂しさに襲われて浜を下りると、ウタは足首を波に洗われながら歩いた。足元に海蛍が光っては消える。波は温かく柔らかだった。ウタは立ち止まり、海に向かい、手を合わせた。しかし、祈りはどこにも届かなかった。

fin.