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森田・パブロ・敏夫さんと最初に出会ったのは、いつであったろうか。 僕の記憶に間違いがなければ、それは、1988年が半ばを過ぎたころだったのではないか。たぶん、世界中のテレビが、連日、ソウル・オリンピックの映像を流していた頃だ。 当時は、未だ、旧UWFというプロレス団体があって、前田や、藤原や、佐山が、そのおなじリングで闘っていた。それまでのプレロスでは、ほとんど機能することのなかった蹴り技や、本格的な関節技を、UWFはリングの上で機能させた。本格的ということとは少しずれるかもしれないが、チキン・ウイング・フェイスロックという技が、UWFのリングを席巻していた頃である。 ちょうどその頃、僕は、コロンビヤやら、エクアドルやら、ペルーやら、ブラジルやらを、あっちへこっちへ、こっちへあっちへ、ウロウロしていて、それならば、どうしておまえはそのころの日本のプロレス事情を知っているのだという疑問があるであろうが、バックパッカーというのは、どういうわけかプロレスを心から愛している狂人や、粋人が多く、そういった情報にはまったく事欠かなかったのであった。 むははは。 ショーマンスタイルが馬場の全日本プロレス。 ストロングスタイルが猪木の新日本プロレス。 リアリズムスタイルが前田のUWFプロレス。 そのような色分けが、各団体に、今ほど複雑ではなく、されていたように思う。 チリからアルゼンチンに抜けるバスで一緒になって、森田さんと、このUWFの話をしたのが、最初の出会いだった。 冒頭に、森田・パブロ・敏夫さんと記した。 彼は、れっきとした日本人である。さらに、この、森田・パブロ・敏夫とは、本名である。本名であるが、日本国国家に登録されている名前ではない。禅問答のようになってきたが、つまりは、この、「パブロ」というのは、洗礼名なのであって、森田さんはカソリック教徒なのであった。英語読みで「ポール」となり、ドイツ=オーストラリア語読みで、あの、法王ヨハネ・パウロ2世とおなじ、「パウロ」となる。なかなかに由緒のある洗礼名なのである。 森田さんは、それほど口数は多くなく、僕のプロレス話に付き合いながら、ぽつりぽつりと、河や、釣りや、カヌーの話をした。 その当時、森田さんは、バルパライソという、語源を辿れば「天国行き」という、洒落っ気たっぷりの街に住む、生活者だった。 一方で、その当時の僕は、半年以上ペルーに居座る、旅人であった。 その森田さんが、 「一度、バルパライソに遊びにきませんか」 と、言うのであった。 朝早く、湖の上でカブーを漕ぐのは、大変に気持ちがいいのだと言う。 「月夜の晩に天国湖にカヌーを浮かべて、お酒を飲む。大変に気持ちがよろしいのだぜ」 と、李白が聞いたら、感涙にむせび、 天湖一片月 酒池肉林宴 我好可愛女 釣好焼魚食 などという五言絶句をたちまち書いてしまうようなことを言うのであった。 「では、ぜひ」 という話をして、僕たちはアルゼンチンはブエノスアイレスでいったんのお別れをしたのだが、次に森田さんに会う機会は、それから半年先まで待たねばならなかった。 あの頃、僕は、コカインとマリファナの常習者だった。 濃い草色をした粘り気のある葉っぱを、罰当たりだと知りつつ、コンサイスの英和辞典から破った紙に巻き、それに青味がかった純白のコカインの粉をまぶして、煙草のようにして吸う。巻いたものの口を付けるほうの根元には、本物の煙草の葉を少しだけ詰める。こうしておくと、マリファナとコカインが、最後まで無駄なく吸える。 煙は肺の血管を媒介として、一気に脳細胞を刺激する。刺激された脳細胞ゆえに、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚などのあらゆる感覚の、通常、伏せられていた能力が花開く。いや、花開いた気分になる。 僕は、物語が書きたかった。 しかし、哀しいくらいに、書けなかった。 書こうという意思、書きたいとする欲望すらあるのに、書けないでいる。 下痢が続いて、身体は異常なほど痩せ細り、微熱が治まらなかった。 すべては、コカインによるオーバードーズのせいであった。 書けないことから来る、コカインの摂取による、オーバードーズの症状だった。 情けなかった。 書けない自分も情けなかったが、書けないつらさからマリファナやコカインに飲まれている自分が、情けなかった。 オレは、なにをやっているんだろう。 と、思うことすらなかった。 ただ、書きたいという情念だけが、空まわりしていた。 なにを食べても、胃の痛みが治まらない。 痛みを抑えながら、脂汗が浮いてくる。 食欲はないが、無理に胃のなかへ食物を詰め込む。 気持ち悪くなって、吐く。 米の研ぎ汁のような、下痢が続く。 高熱でないから、コレラや赤痢ではないことは、はっきりしている。 オーバードーズだ。 微熱が続く。 吐いて、また食べる。 また吐く。 黄色い胃液ばかりが出てくる。 小康状態になったと思ったら、また脂汗がじわりと浮いてくる。 このまま死ぬのかな、と思ったり、未だ死にたくないな、と思ったり、これで死ぬのもチンケで悪くないな、と思ったりしていた。 そういうときだ、僕が思い出したように森田さんに連絡をとったのは。 安宿の黴臭いベッドでのたうちまわっているときに、どうして森田さんの顔が浮かんだのかわからない。しかし、森田さんの顔が浮かんでから、無性に会いたくなったのだ。 森田さんの家で仮眠をとって、未だ陽が昇らないうちに、外へ出た。 眼のまえが、天国湖、つまりバルパライソ湖である。 カナディアンカヌーを、静かな水面に降ろし、そっと朝霞のなかを漕ぎ出した。 滑るように、カヌーが進んでいく。 パドルで水を掻くと、カヌーは、すうっと前に進む。 パドルを水中から上げても、未だ、カヌーは進んでいる。 その、自分が水に加えた余韻のように、カヌーが水面を滑っていく。 その速度が、なんとも、心地よかった。 ばしゃっ、 と、音がした。 その音の方向へ眼をやると、すでに、その音を立てたものの姿はなく、水面に、丸く波紋が広がっていくのが見えるばかりである。 魚が跳ねたのだ。 「ブラックバスだね」 森田さんは言った。 魚が好きな人と一緒にいる時間というのは、このうえなく、気が休まる時間であった。 1時間ほどで陸へ上がり、車で、近くの農家に炭を買いにいった。 「炭は煙が出ないからね」 湖の岸辺で炭を燃やしながら話をする。 僕はインドの話をし、森田さんはユーコンの話をした。 「ユーコンをひとりで下っているとね、おかしな人間に会うんだよ」 と、森田さんは言った。 その話は、なかなか、楽しく、面白く、しみじみと、僕の身体内に染み込んできたのだった。 ここから先は、僕の記憶で書くから、どこまで森田さんの話が正確に伝わるかわからないが、とにかく、それを書いてみる。 ユーコン河は、カナダからアラスカへと流れ、最後にはベーリング海へ注ぐ、とてつもなく大きな河である。 河の左右には、何10キロも人家がなく、それこそ荒野のただなかに、たったひとりであるというような状態が普通である。 その河をひとりで下っていると、向こうの河岸の岩のうえに、人が立っているのが見える。 よく見ると、老人で、ライフルを持っている。 「こっちへ来い」 と、老人が合図する。 向こうは銃を持っているから、言うことを聞くしかない。 老人のいる岩までカヌーを漕ぎ寄せると、 「降りろ」 と、言う。 カヌーを降りると、こっちだ、と、老人が先頭に立って歩き出す。 辿り着いたのは、小さな小屋であった。 「よく来たな」 老人はそう言って、コーヒーを出し、サーモンの薫製を出し、カリブーの肉を出す。 いろいろと話をするうちに、この老人が、たったひとりで、この、誰もいない荒野の真ん中に丸太小屋を建てて住んでいるのだということが、わかってくる。 「オレはねえ、人間嫌いなんだ」 と、老人は言う。 「だから街には住めなくてね、それで此処に、ひとりで住んでるんだよ」 よくよく聞いてみれば、人間嫌いのその老人が住めない街というのは、人口がたった100人余りの、荒野のなかにある街のことである。 人間がイヤでひとりで住んでいるのだが、そのくせ、寂しくてたまらない。 人恋しい。 で、 ライフルを持って、岩のうえに立ち、一日中、老人は河を下ってくる人間を待っているのである。 また、 これはマッケンジー河を、森田さんがひとりで下ったときの話だ。 マッケンジー河を下り終えると、そこは、北極海である。 しかし、その河口は、街ではない。 河を下り終えたら、今度は、海岸線に沿って、何日もカヌーを漕いでいかねばならない。 しかし、すぐには街に出ずに、何日も、その北極海に面した海岸で、テントを張って、森田さんは暮らしたのだという。 あんまりひとりでいる時間が長過ぎて、すぐには社会復帰、つまり、人間のいる街のなかへ入っていく気力がなかったのだというようなことを、森田さんは僕に言ったように思う。 その海岸には、無数の丸太が、累々と打ち上げられており、その丸太のなかには、5000年も前からのものもあるのだという。 からからに乾燥しており、マッチ1本で、丸ごと一本の樹に火がつく。 「青い、紫色の炎を上げて燃えるんだよな」 と、森田さんは言った。 焚き火をしながら、ただ、ぼうっとして、その海岸で、背中を丸めて青い火を見つめている森田さんの後ろ姿を想像した。 やるせなく、僕の胸は騒いだ。 物語を生む陣痛から逃れて、マリファナやコカインばかりに埋もれて、視野を塞がれていた僕のまえに広がったのは、バルパライソ湖の静かな水面と、魚の跳ねたあとの、丸い波紋であった。 そして、不思議な余韻を持ったカヌーの速度。 そして、北極海に面した海岸で燃える、5000年前の青い炎の色。 そうか、そういう人生のやりかたもあるのだ。 僕は、自分がそういう選択肢を持っていたことを思い出した。 僕の胸の裡に燻っていたそういう方向へ僕を向かわせる風が、はっきりと体感出来る速度となって、僕に吹きはじめたのは、そのあたりからであった。 此所ではない何処か、へ、行こうとすること。 遥々とした距離へ向けられる視線。 意思。 僕は、その視線の距離を埋めていく旅に出たいと、胸を焦がしていた。 未だ、僕はリビドーばかりを持て余している、欲望深き、書けないもの書きであった。 その年の暮れに、森田・パブロ・敏夫さんから1枚の葉書が届いた。 その葉書には、次のようなことが書かれてあった。 一、今年の12月いっぱいでバルパライソの家を引き払います。 一、住所不定となるため、もう僕はつかまらなくなります。 一、郵便物などは、日本の九州の実家へ送っておいてください。 この年、一番インパクトのあった手紙はどれかといえば、森田さんから来たその葉書であった。 すごい。 森田さんは生きることの現役なのだな、と思った。 遥かむかしにサラリーマンをあっさり辞めて、放浪をはじめたその旅の未だ途中に、森田さんはいるのだった。 50歳を超えた年齢で、こうも軽々と身軽になってしまえる人間が、今、何人いるのだろう。 他人には窺い知ることの出来ない部分が、この、自由人宣言にはあるのだろうが、非常にわかりやすい、清々しい、シンプルな手紙だった。 僕は、森田さんに、大至急連絡をとった。 僕は、森田さんに、どうしても会いたいと思った。 かくして、僕は、森田さんとユーコン河を下ることになった。 森田さんを、途中の街で待ち伏せして、合流し、しばらく一緒にユーコンを下ろうというのが、僕の計画だった。 猶予は3日間しかなかったのだが、それをフルに使って、アンカレジで2泊し、その後、セスナよりもふたまわりほどの大きさしかない飛行機で、森田さんと合流する予定の街、ガレナに向かった。 アラスカの原野のうえを飛ぶ。 見わたすかぎり、針葉樹の森林であった。 その原野のなかを、巨大な蛇がのたうつように、ユーコンが流れている。 無数の支流が絡み合い、大小の湖沼が点々と森林のあいだにあり、そのどれもが、少しずつその青い水の色を異にしている。 その森林のうえに、雪を被り、谷に氷河を抱えた山がある。 その雪と氷河から、水が流れ出し、ユーコンに注いでいるのである。 ガレナに着いた。 しかし、そこは、荒野のただなかに、ぽつんとある小さな飛行場であった。 乗り合いのバスの発着場といった雰囲気の飛行場である。 飛行機のうえから、街らしきものが見えたが、どちらへ行けば、その街へ着くのかわからない。 とにかく地図を手に入れて、歩いていくつもりで、僕はいた。最悪でも、河の方向を聞いて、とにかく河へ出て、河沿いに歩いていけば、街に出るだろうと考えていた。 しかし、英語が通じない。 そして僕は、フランス語が喋れない。 タクシーは街に1台しかないこと、 地図はないこと、 わかったのは、それくらいである。 「日本人か?」 と問われて、 「そうだ」 と答えると、近くにいた若い男が、 「日本人のイクラ工場がある」 と言い出した。 「オレはこれから街へ行くから、その工場まで乗せていってやろう」 どうやら、そういうことを言っているらしいことが、ようやくわかり、その車に乗った。 トラックの荷台である。 ユーコン河に出て、その河沿いに車で走っていくうちに、街に出た。 小さな街だ。 人口は、1000人くらいだろうか。 米軍の基地があり、映画館はそのなかにあり、酒場が1軒、レストランが1験、マーケットが2軒。 陸路は、完全に外界と遮断されている。 隣の街まで陸上を行こうと思えば、森のなかを歩くしかない。 道がないのである。 街と街の行き来は、船か、バス代わりの、郵便を配達するためのセスナを使うことになる。 1年のうちの半分以上が雪に覆われているため、せっかく、原野のなかの小さな街から街へと移動する道をつくっても、1年のうちのほとんどを、その道を使わずに過ごすことになる。つくってからのメンテナンスが大変であり、その道路の使用頻度を考えた場合、予算との折り合いがつかない。 そのため、アラスカの原野のなかにある街は、陸の孤島として、点在する。 ガレナには、無論、何台もの車があるが、それは、街のなか以外、どこへ行くことが出来ない車なのである。 それを、僕が知るのは、ガレナに着いて、しばらくしてからである。 トラックに乗って、街に入ったときには、未だそんなことは知らない。 「着いたぜ」 と言われて、車から降りたとき、すぐ眼のまえに日本人らしき男の後ろ姿があった。 森田さんだった。 ザックを荷台から降ろし、運転手に礼を言ってから、僕は森田さんに向かって、歩いていった。 森田さんは、ひとりの白人と話をしている最中であった。 「森田さん」 と、声をかけると、森田さんはようやく僕に気づいた。 「来ちゃいましたよ」 と、僕は言った。 「本当に来ちゃったんだなあ」 森田さんは、バルパライソで会ったときよりも陽に灼け、顔も、お腹のあたりの肉も引き締まっていた。 昨日、このガレナに着いたばかりだという。 日本人が、この街でイクラ工場をやっているというので、それでこの工場まで来てみたのだという。そこで、僕と会ったのだ。 テントは河岸に張ってある。 「とにかく、酒のあるところだよ。リカーショップか酒場に行って、日本人を知らないかと訊けば、森田さんのことはわかるから」 仲間からそう言われていたので、半日かけて森田さんの居場所を探そうと思っていたのだが、こうもあっさりと出会えるとは思ってもみなかった。 いくらを、腹いっぱい、死ぬほど食ったことのある人間が何人いるか知らないが、僕と森田さんは、間違いなく、その何人かのうちに入る。 「さあどうぞ」 と、僕らのまえに差し出されたのは、4キロのイクラであった。 もう少しまえから話をせねばならない。 僕と森田さんが出会ったイクラ工場が、日本人が経営するものであることは、すでに書いた。 では、なぜ、このような北の果てに、日本人のイクラ工場があるのか。 もちろん、此処でイクラを獲って、それを日本に送るためである。 僕も、此処へ来て初めてわかったのだが、日本人が食べるイクラのほとんどが、じつは海外で獲ったものであることを知っているだろうか。 ユーコンには、夏になると、毎年、数え切れないほどのサーモンが、海から上がってくる。 イヌイットたちは、そのサーモンを獲って暮らしている。 日本人が食べる白鮭は、チャムサーモンと呼ばれ、ユーコンでは犬の餌である。 人間の食料となるのは、キングサーモンである。 イヌイットたちは、そのキングサーモンを獲って、その魚肉をスモークして、売るのである。これが、インディアンの夏の収入源となる。 もともと、サーモンの卵であるイクラを食べる習慣は、イヌイットにも白人にもなかった。 日本人がやって来るまでは、イヌイットたちは、イクラを捨てていたのである。 しかし、そこへ日本人がやって来て、大量にイクラを買っていくようになり、彼らはイクラを日本人に売るようになったのである。 もう少し正確に言うと、このガレナの工場(と言っても、じつに狭い、普通の家の、ちょっと広い駐車場くらいのスペースしかない)の場合、何人かの、自分の船を持った白人がいて、その白人が、その船で、イヌイットの村や、イヌイットのフィッシュキャンプを定期的にまわって、イクラを買い集めてきて、それを、この工場で冷凍にして、4キロずつ箱詰めして日本へ送っているのである。 なんと、その作業にあたっているのは、ロスやニューヨークからやって来た、アルバイトの白人の女子大生なのであった。 日本の女子大生で言えば、 「今年の夏休みは、北海道の牧場で、ちょっとアルバイトしてみようか」 的感覚が、彼女たちにはあるようであった。 どうして、女性ばかりであるのかと言うと、男に作業をやらせると、仕事が粗っぽいため、イクラを潰してダメにしてしまうケースが多いからだという。 工場の周囲には、トレーラーハウスや大型テントが張ってあり、彼女たちはそこを分宿しているのである。 ともかく、サーモンを、網や、水車のような器具を使って大量に獲ってよいのは、イヌイットだけである。 白人や、他の国の人間が、サーモンを獲る手段は、唯一、釣りのみである。しかも、その釣りをするのにも、ライセンスが必要で、1日にキープしていい尾数が、決められている。 で、その工場の責任者の山崎さんが、我々がガレナにいるあいだに、アンカレジから帰ってきたのであった。 で、この山崎さんが、僕と森田さんに、どん、と4キロのイクラをくれたのだった。 僕と森田さんは、いそいそと米の飯を炊き、醤油や海苔までも用意して、そのイクラに挑んだのであった。 しかし、5日経っても、そのイクラは終わらなかった。 その工場のほかに、もうひとつ印象深かったのは、ガレナの若者たちである。 彼らは、夜になると、大勢でトラックに乗り込み、日本の暴走族のように街のなかを走るのである。 白夜である。 ガレナは、なかなか陽が暮れようとしない。 その白夜のなかを、彼らは、走る。何処へも行けない道だ。どの方角へ行っても、戻って来ることになる。 トラックの荷台に立ち、ビールをラッパ飲みして、彼らは、小さな街をまわる。まるで、酒を飲みながらまわっていればなにかいいことが起こるかもしれないと考えているように。 しかし、いいことなど、それだけではなにも起こるはずがないのであった。 ならば、此処が、日本やアメリカ本土であれば、走っているうちに、なにかいいことがあるのだろうか。 結局のところ、暴走というのは、その行為そのものに意味があるのだろう。 もの書きの、物語る行為そのものにしか、意味がないのと、おなじように。 ともかくも、そのようにして、ガレナの白夜は、ゆっくりと更けていくのであった。 ガレナの街に1軒だけあるバーに行く。 ビールと、バーボンと、何種類かのウイスキーが置いてあるだけの小さなバーだ。 沈まない夕陽が、開け放たれた、奥手のドアから入り込んでくるなかで、ビリヤードをやっているイヌイットの男たち。 カウンターに座ってチャイを注文すると、そんなものはないと言われて、コーヒーは出来るのかと訊くと、出来るという答えが返ってきて、出てきたのは本格的なエスプレッソだという、大変に不思議なバーだ。 酔っぱらった白人が話しかけてきた。 「ジャパニーズか?」 「そうだ」 「オレは朝鮮戦争のときに、日本に行ったことがある」 その酔っぱらいが言った。 ろれつがよくまわっていない。 ただでさえ、僕の英語力は怪しいが、相手が酔っぱらいでは、もうお手上げである。 「日本へ行ったことがある……」 それだけを、何度も言う。 周りにいる男たちが、 「またはじまったぜ」 そんなかんじで、顔を合わせた。 アラスカでは、酔っぱらいは大抵イヌイットなのだが、この元軍人の白人は特別だ。 カウンターのなかにいた女の子が、右手の人差し指を自分のこめかみあたりに持っていき、そこで、指先をくるくるまわした。 「この男はおかしいから相手にするな」 彼女は無言でそう言っているのである。 柱や天井に、銃の弾痕がめり込んだ痕が、あちこちにある。 そんなものが、不意に気になった。 森田さんは、向こうで勝手に飲んでいる。 カウンターのうえにお金を置いて、外に出た。 やっと、暗くなっている。 河岸に沿って歩いていく。 河の、動いていく水の量感が、心地よく暖まった僕の胸のなかまで届いてくる。 すると、遠くからボートのエンジン音が聞こえ、イヌイットの乗ったボートが近づいてきた。 岸に着いたボートから、3人のイヌイットが降りてきた。 酔っている。 そのうちのひとりが声をかけてきた。 「おい、これを買わないか」 みると、マンモスの牙である。 アラスカの、永久凍土のなかに埋もれているマンモスの屍体が、河の浸食作用で、河沿いの崖に、その屍体の一部を露出させていたりする。 そういうマンモスの屍体から採ってきた牙だ。 手に取ってみると、重い。 黄色く変色しており、なんと、その牙に細工が施してあった。 女の裸体だ。 稚拙な細工である。 彼らが自分で彫ったのだろう。 「いくらだ」 「50ドル」 「高い」 「高くない。安い」 「フレンドプライスにしてくれ」 「47ドル」 迷った挙げ句に、買うのをやめた。 なんの細工もしてないものであったら、たぶん、僕は買っていただろうが、人の手の加わった加工品では、気持ちが動かなかった。 カヌーという乗りものは、なんと不思議な速度を持った乗りものであろうか」 実際に、ユーコン河のうえに浮かんでみると、速度感は、ほとんどない。河は流れているから、カヌーは動いているはずなのだが、その速度に対する感覚が稀薄なのである。 それは、気球に乗った人が、風をほとんど感じない現象と、似ているかもしれない。つまり、気球は風とおなじ速度で進んでいるので、その風が感じられないのである。 たとえば、カヌーを漕がずにユーコン河のうえに浮かべていると、僕のカヌーのすぐ横に浮かんでいる枯れ葉が、いつまでもおなじ位置にあったりする。 そういう枯れ葉を眺めていると、自分が、湖のような静止した水面に浮かんでいるのかと思えてくるのである。 これは、その枯れ葉とカヌーが、おなじ速度の水のうえに乗って流れているからである。枯れ葉とカヌーは、このとき、おなじものだ。 このような巨大な河の持っている速度、時間というのは、そのまま、宇宙の速度や時間とも繋がっているようであった。僕にとって、カヌーというのは、そのような自然の速度や時間のなかに、入り込んでいくための乗りもののように思える。 自分が動いていないように思えて、遥か彼方に河岸を見遣ると、ゆっくりと、岸の針葉樹が動いている。 それで、ようやく、自分が動いているのが実感出来るのである。 白夜のなかを、森田さんと、カヌーで漕いでいく。 正確に言うなら、カヤックである。 地平線すれすれまで、太陽が来ているというのに、その太陽はなかなか沈まない。 適当なところで、キャンプ。 火を起こし、飯を食べ、眠る。 その翌日もまた水のうえだ。 天と地のあいだを漕いでいく。 高い空を、 ホンク、 ホンク、 と、鳴きながら、2羽の鶴が飛んでいく。 風が出てくると、遠くの雨雲から運ばれてきた雨滴が、ぱらぱらと落ちてくる。 「雨だね」 「雨だね」 会話はシンプルで短い。 さらに漕いでいくと、イヌイットのボートと出会う。 マリファナをやっている。 僕らは、船とカヤックを寄せ合って、ビールで乾杯する。 「何処から来た」 「日本だ」 「なんでそんなところから、わざわざ来たんだ」 話がはじまる。 森田さんのカヤックに、ギターが積んであるのを彼が見つけ、 「それを弾いてくれ」 と言う。 森田さんが、ほろほろとギターを弾いて唄う。 『舟唄』 意味などわからないはずなのに、イヌイットが、目頭を押さえて、涙を浮かべる。 そのあいだにも、カヌーは、水にまかせて、ユーコンをゆるゆると下っていく。 よい日々であった。 何処から何処までと決めずに、行き当たりばったりで漕いでいく。 よい場所があれば、そこでキャンプして眠る。 満ち足りた日々であった。 森田さんのやりかた、と言うのだろうか。森田さんの方法、と言うのだろうか。 それは、ようするに、 好きなことを好きなようにやる、 ということに尽きるだろうか。 原稿が締切に間に合わなくても誰も死ぬわけではないということは、僕にはすでにわかっていた。 たとえ、僕が原稿を落としても、白いページの本が出るわけでもなく、雑誌はきちんと発行され、パンフレットの類いは、僕の原稿を待つしかない。そして世の中はあたりまえのように動いていく。 もうひとつ、僕にはわかっていたことがあった。 それは、自分が一生書いていく人間である、ということであった。 一生、書いていく。 それは、間違いがない。 それだけは、わかっている。 それがわかったら、急に安心した。 今、此処で、書けない、書けない、とうだうだ言ってみたところで、それは、一生書いていく、ということのなかの、ひとつのシーンに過ぎないのだ。 人は、さまざまな事情のなかに生きているのであり、その事情のなかでじたばたしていく生きものなのである。 当時も、この原稿を書いている今現在も、僕は、揺れ動きながら、さまざまな事情や感情のうねりのなかにいる。 それは、今後も続いていくのだろうが、それでよかろうという覚悟のようなものが、僕には出来たのだった。 20日間のアラスカであった。 20日目に、森田さんと別れの抱擁を交わして、僕はまたペルーに戻った。 ユーコン河は、カナダのホワイトホースから流れはじめ、何千キロかを下って、アラスカのベーリング海へ注いでいる河である。 その河の曲がりくねりかたたるや、丸めた糸屑のようである。 広く、太い、茶色に濁った水が、悠々と流れていく。 そのうえを、僕は、森田さんにくっついて、一人乗りのカヤックを漕ぎながら、下ったのである。 恐ろしくて、僕ひとりではとてもやれるものではない。 河幅は、2000メートルから5000メートルにもなり、もし、河の真ん中で沈んだなら、少なくとも1000メートルを泳いで岸まで辿り着かねばならない。 それは、まず無理だ。 水が冷たすぎて、死んでしまう。 5分から10分くらいで死んでしまうのではないだろうか。現に、この年も、すでに9人ものイヌイットが、酔っぱらって舟を運転し、流木などにぶつかって河に落ち、死んでいるのである。 ビギナーの僕には、本当に恐ろしかった。 もうひとつ、恐ろしかったのが、グリズリーである。 なにしろ、身長が、立ち上がったときで3メートルを超えるやつがいるのである。 夜、最初の晩は、僕はびくびくしながら眠った。 まったく、夜の森のなかでは、じつにさまざまな音がするのだ。 樹の軋む音。 風の音。 小動物の動く音。 それらのあらゆる物音が、グリズリーが足音を忍ばせて近づいてくる物音に、聞こえてくるのである。 ベアバスターという、44口径のマグナムを森田さんは持っていたのだが、それでも、初めて、そういう猛獣のいるかもしれない場所にテントを張り、そこで眠った晩は、オレは、怖かったのである。 しみじみと、怖かったよ。 恐ろしく、真剣に怖かった。 こういう夜もあるのかと、さやさやという風の音にも驚きながら、オレは、新鮮な恐怖を、自分の裡に発見していたのである。 現代社会のなかでは、すでに失せている感覚である。 水のうえもよかった。 高い空と雲を見ながら、白夜のなかを、流れとともに下っていくのは、最高であった。広い天と水のあいだに向かっていく、果てしなく自分の力と水の流れとで下っていくという感覚は、僕を酩酊させた。 「ざまあみろ」 と、なにがざまあみろだかわからないのだが、そんな気分になる。 ざまあみろ。 こんなに最高だぞ。 イヌイットの家族の舟と、水のうえで出会い、そのまま舟とカヤックを寄せ合い、河を下りながら、森田さんはカヤックのうえでギターを弾き、日本の歌を唄ったりした。 河のうえの空気は、いつも動いている。 風だ。 風のエネルギーは、そのまま波のエネルギーだ。 わずかながら、風も強まり、雨も降り、高くなった波を越えてカヤックを漕いでいくのは、スリルがあった。 馴れてしまえば、ラクな風や波なのだろうが、初心者としては、やはり心臓が速くなってしまうのだ。 ガラナからヌラトまで、おそらく1000キロに満たない距離だと思うが、そのあいだをカヌーで下った日本人としては150番目くらいの人間になったのではないかと思う。 そしてその旅のあと、人間という生きものは、もはや、どのような生きかたをしてもいいのだという、そんなあたりまえのことが、コロンと、オレのなかに転がっていたのだった。 この旅での最高の収穫というのは、そんなあたりまえのことの発見であったような気がする。 どのような生きかたをしてもいいのなら、小説だって、文章だって、どのような書きかたをしてもいいのだ。 だから、オレは、まだまだやれる。 いい話を書きたいな。 そう思う。 うん。 いい旅だった。
fin. |
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