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自分は、何者であるのか。 どう、生きたらいいのか。 なにを、したらいいのか。 それがわからなくなる時期がある。 それについて迷う時期がある。 今も、わからない。 今も、おなじ迷いを迷っている。 過去において、迷うたびに、僕は、書くことを選びとってきた。書くという方法論が、そのまま、迷いの答えであった。 迷い、書く。迷い、書く。その連続であった。 迷い続け、書き続けて、気がついたら、今の、この場所に立っていたのである。 なぜ、書くのか。 10代の後半から20代にかけて、そういう問いを、僕は自らに問うたことがある。それは、答えようのない不毛な問いだ。 なぜ、書くのか。モノを書きはじめた書き手の誰もが一度は陥るその泥沼から、僕は、比較的早く脱出出来たように思う。 書かなければもの書きではないという、単純な事実に気がついたからだ。 僕が望んでいたのは、物語を書いていくことだった。書き続けていくことだった。 書くから、もの書きなのだ。 画家は、絵を描くから画家なのだ。絵を描かない画家は画家ではない。小説を書かない書き手は小説家ではない。 あたりまえのことであった。 それは、理によってわかったのではない。 わからないまま、書き続けることによってわかったのである。 なぜ、書くのか。 文学とはなにか。 その問いを自らに問い、その問いに自ら悩むこと。悩みは、危険な密である。人は、その悩みにたやすく陶酔する。 まずその人は、物語を書かずに、物語について語るようになる。書き手にとって、他人の物語を批評することは、甘い毒である。その密と毒の誘惑から逃れて、書くことの旅をこそ、書き手は選ぶべきなのだ。 僕は、考えるよりも書くことを選んだ。 そうして、今、僕は、この場所に立っているのであった。 その場所で、僕は未だ迷っている。 気がつけば、巡り巡って、10年近くもむかしに置いてきたはずのその問いのまえに、僕は今、再び立っているのであった。 なぜ、書くのか。 自分は、何者であるのか。 平成元年の後半を、僕は迷いのなかで過ごした。 僕が鬱々とした日々を送っていた。 書いても書いても仕事は終わらなかった。 涙が出るほど悔しいのは、もっと時間さえあれば、この物語を最高の状態にして送り出してやれるのにと、歯を噛むときである。 気持ちは常に新しい表現を求めながら、おなじ言いまわしをつい使ってしまうのだ。 これは、旅ではない。 ひとつの場所に留まることだ。 僕は書くことによって旅を選んだ書き手である。おなじ場所に留まるのは、旅ではない。 量産、という問題がある。 量産はいけないという考えかたがあるが、量産には、ひとくちでいけないと言い切れない側面もある。量産によるマイナスは、質の低下となって表れる。しかし、必ずしも、量産によって質が低下するわけでもないのだ。ときとして、量産は、信じられない傑作を生む。量産ゆえに涌いてきたアイデア、量産ゆえに出来たとんでもない表現、量産ゆえに出てきたとんでもない発想というものが、間違いなくあるのである。 手塚治虫という漫画家を見るがいい。 あれほどたくさんの漫画を描きながら、あれほど忙しい日々を過ごしながら、彼が生み出した漫画の多くは水準を超えている。 もし、手塚治虫が、描く量をセーブして、その量を半分にしていたらどうであろうか。 僕の大好きな『火の鳥』のシリーズのうち、半分は描かれておらず、そのなかには、あの大傑作『鳳凰編』も入っていたかもしれないのだ。 『シュマリ』も『きりひと讃歌』も『アドルフに告ぐ』も、この世には産み落とされていなかったかもしれないのである。 しかし、にもかかわらず、量産、つまり毎日をただひたすら書くというなかで、僕は飢えていた。 こんなものではない。オレがやりたいのは、こういうやりかたではない。 その思いが渦を巻いていた。 たぶん、僕は、言葉や表現や、書くことのあれこれに、とことんのめり込んでみたかったのだ。 言葉と、爛れた付き合いをしてみたいのだ。言葉と、ドロドロの付き合いをしてみたい。言葉と、行き着くところまで堕ちてみたい。そういう欲望が、僕の内部で渦を巻いていたのである。 その時期、僕は、ここに書けることも書けないことも含めて、鬱々とした日々を過ごしていたのだった。 アフリカに行こうか、という考えが浮かんだのは、11月の半ば頃であった。 じつは、友人の平野悠さんのそのまた友人であるK氏が、パリ・ダカール・ラリーに出場することになっていたのである。 パリ・ダカと呼ばれるそのラリーは、毎年クリスマスにパリを出発し、アフリカのダカールまで、サハラ砂漠を越え、およそ20日間、車を走らせる競技である。 そのラリーに出場するKさんの追っかけをやろうかという気になったのだが、この計画が、なんと二転三転して、モスクワのプロレスに辿り着いてしまったのである。 ひとりでアフリカに出かけ、ラリーの途中の、サハラ砂漠の真ん中にある街で、このKさんを待ち伏せし、そこでしみじみと好きなチャイでも飲もうかと、僕は考えていたのだった。 言葉もわからない、右も左もわからないのは慣れっこだったし、とにかく、ほな行こかと、僕は決心してしまったのだ。 砂漠のどこかの街のチャイ屋で、正月に友人とチャイを飲むという、そんな絵が浮かんでしまったものだから、よし、これはなんとしても実現させようと思ってしまったのである。 が、しかし、 そうなると、急に欲が出て、それならついでに、ベルリンを見ておこうかという気になった。 この年は、激動の年であった。 天皇陛下は亡くなり、昭和は平成となり、手塚治虫が死に、美空ひばりが死に、同志だと勝手に思っていたロックンローラーの江戸あけみが自殺し、北京では天安門事件が起こり、ホメイニは死に、猪木はソビエト人レスラーと闘うわ、ついでに国会議員にもなってしまうわと、じつにさまざまなことがあったのだった。 ヨーロッパの東側ではさまざまな改革が進み、そのなかでも最大の事件は、なんと言ってもベルリンの壁が取り払われたということだろう。 この極東の島国にいると、ヨーロッパの情勢のことなどまともに知る由もないが、ベルリンの壁だけは、このなんやかんやとあった1989年のひとつの象徴として、しみじみと眺めてみたい気分になったのである。 友人の話をしよう。 じつは、このような決心を、僕は仕事の電話のついでにある友人にしたのであった。 そうしたら、 「じつはオレも行くつもりなんですよ」 と、野心家のライターである友人は言うではないか。 「今年はなんと言ったって、ベルリンの壁ですよ。壁。この壁を見つめながらベルリンでクリスマスを迎えるというのが、今年の締めくくりとしては最高なんじゃないですか」 「せやね」 と、僕は唸った。 「ならば一緒に行きませんか」 「一緒に?」 「ええ、ついでにですね。ヨーロッパの東側を全部まわっちゃいませんか。チェコや、ポーランドや、ハンガリーや、あのあたりを全部まわってですね、最後はモスクワに行きましょう。今年の12月31日に、モスクワで、猪木がプロレスをするんですよ。知ってるでしょ。そいつを見て、今年の締めくくりにするなんてのはいいじゃありませんか。ね、行きましょう。行くべきですよ」 と、その友人は言うのであった。 その気になってしまった。 そうなったら、 「オレも」 「オレも」 と言い出す連中が出てきて、久しぶりに、ひとりで言葉のわからない国を放浪するという、僕の甘い計画は、どこかへぶっ飛んでしまったのであった。 いやはや。 かくて、それならついでに、英語やフランス語やドイツ語やロシア語など、世界7カ国語をペラで操る友人女史をアメリカのシカゴから呼び出して、ついでに東大の先生まで道連れにして、みんなで出かけてしまおうということにもなったのであった。 はずみというのは、つくづく恐ろしい。 久しぶりのバックパッカーの旅は、 「モスクワでプロレスですよ、プロレス……」 その言葉のまえに消え去ってしまったのであった。 かくして、とにかく、ほな行こか、ということになった。 そうなったら、モスクワのあとから、パリ・ダカへというのは、どうしても無理筋である。 なにしろ、サハラ砂漠の真ん中に行くのである。 フランス、リビア、ニジェール、マリ、チャド、モーリタニア、セネガルと、7カ国を通過するのである。 とにかく、この7カ国のビザをすべてとらねばならず、破傷風やらコレラやら黄熱病やらの予防注射もせねばならず、ヨーロッパの東へ行く作業もせねばならず、おまけに、サハラ砂漠の真ん中に行くための装備と、冬のモスクワへ行くための装備は、まるで違うのである。 2種類の荷をつくって、そのうちのひとつをとりあえず(テントとかコンロとか、寝袋とか)フランスへ送っておかなくてはならず、そのためには、あれやらこれやらそれやら、やらねばならぬことがどっと出てきて、とても両方は無理であることに、僕は気がついたのである。 アフリカは諦め、激動のヨーロッパの東側ツアーに出かけ、最後はモスクワにて、猪木のプロレスで締めくくるという、そういう旅を、ひとまず、僕は選んだのだった。 不思議な縁である。たぶんに、僕が、プロレスという悪女と手が切れないというだけのことなのだが……。 ああ、またとりとめのないことを書いてしまった。 しかし、自分の心がとりとめのない混乱状態にあるのなら、それをそのまま書いていかなくてはならない。 迷いや混乱をそのまま抱えて、僕はその旅に出ることになった。 最終的に、モスクワの猪木のプロレスに辿り着くための旅である。 さまざまなしがらみや、持て余すような欲望や、抜けない刃を胸に抱えながら、自分の方法論を探す旅である。 モスクワのプロレスは、無論、終着地ではない。終着地も、そこへいたる道筋も、未だ見てはいなかった。 おそらく、これまで天について語ろうとしてきた言葉を、なんとか、人間について語る言葉にしていく方法論を、僕は探しているのかもしれなかった。 そんなことを、漠然と、僕は考えていた。 僕の視線は、天から、ゆっくりと人間に、向けられつつあるように思う。 しかし、それは未だ言葉にはならない。 1989年12月27日。 その日、僕は、ベルリンにいた。 前日の26日に列車でパリを出発し、途中、ベルギーのブリュッセルで1泊して、この日、東ドイツを通って西ベルリンに辿り着いたのであった。23日に日本を発ってから5日目であった。 1989年は、激動の年であった。 おそらく、この1989年は、世界史に深く刻み込まれることになるだろう。 天安門事件。 ベルリンの壁消滅。 このふたつを頂点にして、これでもかこれでもかというように、世界史に斧が打ち込まれていった。世界情報をまともに収集出来ない極東の島国に僕はいたが、その僕のところにまで、その斧が打ち込まれる響きは届き、わけがわからないままに、胸の血が熱くざわめいた。 僕の手の届かないところで、僕の知の及ばない理、力によって、世界は動いている。 轟々と動き出した世界史を眼のまえにして、僕はうろたえた。 どうしたらいいのか。 想像もつかない歴史のエネルギーによって動いていく世界史に、僕がどうかかわれるのか。 この動き出した巨大なエネルギーのどこに、自分はどう接すればいいのか。 世界史への参加。 それは、今思えば、そういう旅であったのかもしれない。 ささやかな僕の個人史が、この世界史にどうかかわれるのか。 日本では、大阪で『国際花と緑の博覧会』という平和ボケしたイベントの準備に余念がなく、僕はペルー共和国からの出展代表者として、一時帰国していたときだった。太平洋を横断する連絡のやりとりはスムーズに進まず、山と積まれた仕事をまえにして、僕は、そういうことを考えていたのである。 1989年は、世界史のみならず、昭和という時代においても、僕の個人史においても、特筆されるべき年となった。 昭和天皇が、下血という人間宣言をして死に、僕の大好きな手塚治虫という漫画家が死に、美空ひばりが死に、同志だと僕が勝手に思っていたアンダーグラウンドのロックンローラー、江戸あけみが自殺した。そして、元号は平成へと改まったのである。 まだある。 僕個人で言えば、1989年の4月に婚姻届を出し、僕と連れ合いは、夫婦として正式に日本国家に登録された。 まだある。 僕は、その年の6月4日に起こった天安門事件のため、念願であった玄奬三蔵の道である天山の氷河古道へ行くのを断念したのだった。 ささやかながら、他にも、いくつかの個人的な事件が、僕にはあったのである。 僕は迷っていた。どうしたいいのか。 自分がなにを行動規範にして生きていくのか、ということである。何処に根を張って生きていくのかということだ。 僕は立ちすくんでいた。 その迷いの最中に思いついたのが、ベルリンの壁を殴りに行くことだった。 ごちゃごちゃとあった、この1989年の想いを込めて、1989年の象徴とも言うべき、ベルリンの壁を素手で叩いてくる。それこそが、この、よくわからない、僕や、世界を突き動かしている巨大なエネルギーに対する、僕なりの参加の方法であろうと思った。それは、本当にささやかではあるけれども、僕には相応しいやりかたであろう。 個人史を世界史に刻むのではなく、世界史を、個人史のなかに刻む。 そういうやりかたならば、出来る。 想いを込めて、壁を殴る。 そのために、僕はベルリンまでやって来たのである。 「壁がなくなってから、ベルリンの街が汚くなったわね」 タクシーの運転手である女性は、壁に向かう途中、僕にそう言った。 「東の人が大量に入り込んでくるから、マーケットでは行列が出来るし、壁の行き来が自由になったと言っても、私たちにとっては、特別にいいことも悪いこともないわね」 運転手の女性は、壁については、僕の想像以上に醒めていた。 「彼らは、なにを一番買っていくの?」 「ポルノ、マクドナルドのハンバーガー。でも、お金がないから、見るだけの人とか、盗みを働く人間もいるわ」 「彼らが欲しがっているものは?」 「自由よ。その次が、ジーンズにウォークマン。それからロック……」 運転手の女性はそう言った。 壁が壊れて嬉しいのは東側の人であって、西側の人々はそれを特別に嬉しがっているわけでは、なさそうであった。 チェックポイント・チャーリーに着く。 外国人が、西ベルリンと東ベルリンを行き来する場合は、このチェックポイント・チャーリーを通過することになる。 以前までは、まえもってビザを取得していなければ通れなかったのだが、今は、パスポートを見せれば、その場で、1日分か2日分のビザを発行してくれるのである。 壁のまえに立つ。 「壁という言葉の意味が、あれを見て初めてわかりましたよ」 何年かまえに、この壁のまえに立った友人の言葉を、僕は思い出していた。 その壁が、眼のまえにある。 「チャーリーはリタイアした」 そんな文字がペイントしてある。 壁一面に、ペンキや絵の具で落書きがしてあり、その壁のまえに、無数の人間が群がっていた。 あちこちから、ハンマーの音が響いている。 壁のあちこちで、何人もの人間が、ハンマーとノミで、壁を壊して、そのかけらを集めている。 日本を発つまえに、僕が思い描いていたのは、心に熱いものを抱いて、壁を壊す人々の姿であった。しかし、僕が見る人々は、誰も、そのような感情を胸に抱いているようには見えなかった。 あっけらかんと、壁を叩いている。 ドイツ語に長けた友人のマリルダ女史に通訳を助けてもらって、壁を叩いているひとりのオッサンに尋ねた。 「壁を砕いてどうするの?」 「持ってかえってね、売るのさ」 オッサンは、屈託なくそう言った。 そう言えば、ここの壁のかけらが、日本で売られていたことを思い出した。 ふたりの男女が、仲よく壁を叩いている。 男がハンマーを使い、女が飛び散った壁のかけらをビニール袋に入れている。 「どこから来たの?」 「東ベルリンから」 「壁を砕いてどうするの?」 「記念だよ」 と、男は言った。 一緒にいる女性は妹で、家族の土産にするために、壁のかけらを集めているのだと言う。 それにしては、ビニール袋の中に入っているかけらの数が多い。 たぶん、売りもの2するのだろうと、僕は思った。 現に、壁の近くで、削った壁のかけらを売っている連中が無数にいる。 また、その壁のかけらを、観光客が買っていくのである。 ベルリンの壁が、やがてなくなるであろうと予測した人はいたかもしれないが、まさか、このようにして、その壁のかけらが売られているであろうとは、誰も考えなかったに違いない。 こうなのだ。 たぶん、このように、実際の歴史は、常に、誰かの予測や予想を裏切って、刻まれていくのに違いない。 1989年に、ベルリンの壁がなくなったのとおなじくらいに重要なことが、その壁が売られていた、という事実であろうと思う。 凍りついた道を踏みしめながら、壁に沿って歩いていくと、集まってくる人間目当てに、温めた甘いワインを売っている連中がいた。 なるほど、このような商売をやったってかまわないのである。 壊れた壁をデザインしたTシャツまで売っている。 人々が、壁を壊していくのは、ペイントがしてあるその表面部分だけである。人間の手が届くあたりまでは、壁は、表面を削られ、でこぼこのコンクリートが、ただそのまま剥き出しになっているだけである。 そういうでこぼこのコンクリートの表面に、絵の具で、絵を描いている日本人がいた。 「これをやりたくて、わざわざ日本から絵の具を持ってきたんですよ」 中年になりたてに見える、新人中年のその男性は言った。 こうなのだ。 それぞれの人間が、それぞれの個人史のなかで、この壁をどう位置づけるか。1989年。とりもなおさず、現在を、その人間がどう生きているか、それを考えるためのイベントを、各自が各自のために、壁を相手に自分に対して演出しているのである。 たぶん、そのオッサンも、得体の知れないもの、あるいは、それは、歴史に対する昂りであったかもしれず、あるいはそれは、なにか吹っ切りたいものがあったのかもしれず、そのなかでじたばたした挙げ句に、 壁に絵を描くこと、 そういうイベントを、自身に対して演じることにしたのだろう。 そうやって、眼に見えない壁を越えて、その向こうへ行こうとしているのだろうか。そうでなければ、この12月に、たったひとりで、こんな場所に来るような年齢の人間ではないのだ。 自分に対して、自分のための祭り、イベントをつくっていく。男は、いや、人は、たぶん、常にそういう、おそらくはとてつもなく無駄なことをやりながら、生きていく生きものなのだろう。 僕もまた、地面に転がっていたハンマーを手に取って、壁を叩いた。 マイナス10度。 寒気の大気のなかに、僕が叩くハンマーの音が、キンキンと響く。 壁は、ただの壁であった。 その壁を、少し照れながら、少しムキになって、叩く。 しばらく叩いて手に入ったのは、小指の先よりも小さなかけらだった。 どかどかと、気持ちよく壊れてくれる壁ではないのだ。 その壁を叩いたところで、なにがどれほど変わるわけではないと知りつつ、叩く。人の力ではどうしようもないもののまえでは、せいぜい、なにをやるにしても、このように壁を叩くほどの意味しかないのだろう。 ベルリンの壁を殴る。 漫画のような、その恥ずかしい行為で僕が得た発見は、自分という人間が持つ非力さであった。 「そんなものをね、みんな吹っ切るために、オレ、ここに来たわけだからさ」 ヨーロッパを、モスクワに向かって旅している最中、頭のなかに響いていたのは、新宿ロフトのオーナーである平野悠さんの、その言葉であった。 本来、この旅は、最初は、ベルリンの壁を見たあと、パリ・ダカール・ラリーを目指すはずのものであった。 今年のパリ・ダカに、悠さんの友人であるKさんが出場することになっており、当初の予定では、ベルリンのあとに、そのKさんの追っかけをやって、アフリカの砂漠の街で、そのKさんとチャイを飲む予定であったのだ。 しかし、そのことを決心するのが遅すぎたため、パリ・ダカの追っかけをやるにはさまざまな問題が山積みになっていることに気がついたのだ。 そこへ入ってきたのが、 「1989年の12月31日は、モスクワでプロレスですぜ」 という誘惑であった。 僕の友人たちの何人かも、それぞれに想いを込めて、東欧に視線が向いていたのである。 「ベルリンの壁を眺めながらクリスマスを迎えて、今年の締めくくりはモスクワのプロレスですぜ」 と、友人は言った。 なんと、アントニオ猪木は、その年に国会議員となり、ついにモスクワでプロレスの興行を打つことになっていたのである。 共産圏で、史上初のプロレスが行われるのだ。 しかも、その場所は、モスクワである。 西と東に世界を分けるとすれば、西側の文化の頂点にあるのが、ひとつにはプロレスです。もっとも東側に遠い存在がプロレスである。 そのプロレスが、モスクワで行われるのである。 ゴルバチョフのはじめたペレストロイカの波に乗ってのことではあるが、それにしても、共産圏の人間が、プロレスにどのような反応を見せるか、僕はそれが見たくなった。 これを見なければ、これまで、睨むようプロレスや猪木やUWFを見続けてきた意味がないとさえ、僕は考えた。 かくしてアフリカに行く代わりに、モスクワへ向かう決心を、僕はしたのであった。 結局、パリ・ダカについては、パリで、12月25日の早朝に、その出発を見送るということで落ち着いた。 そこで、Kさんと一緒にであったのだが、やはりパリ・ダカで追っかけをやることになっていた悠さんとも出会ったのである。 悠さんは、いつもの綺麗に整えられた髭ではなく、無精髭を濃く生やし、少しやつれた男っぽい顔をしていた。こういう顔になるまで、どれほど自分を追い込んできたのだろうか。 話をしているあいだにも、次々に車が出発していく。 見ているだけでも、なんだかドキドキしてくる光景である。 「ドキドキしてこない?」 と、僕は悠さんに訊いた。 「もう、今さらドキドキはしないよ。これまで、やるだけのことはやり尽くしたからね」 悠さんは、そう言った。 「仕事は?」 「もう、いいんだ」 「えっ?」 「もう、みんな、投げちゃった。こっちへ来るまでは、飛行機のなかでいろいろと考えていたけど、こっちへ着いたらもう、そんなこと……」 「いいの?」 「そんなものをね、みんな吹っ切るために、オレ、ここに来たわけだからさ」 悠さんは、そう言った。 「そんなもの」 の、なかには、おそらく、仕事のことや、プライベートのことや、日本にいて引きずらねばならないあれやこれやの、あらゆることが含まれているのだろう。 多少とも悠さんの現在の状況を知っている僕には、うっすらと、理解出来た。 悠さんもまた、じたばたと悩み抜いた果ての結論が、この、パリ・ダカに参加するKさんを応援するということであったのだろう。 そういうことを、吹っ切るために、ここへ来たのだと言う。 これは、そのための、悠さんが自身に課したイベントなのだと、僕は思った。悠さんもまた、そういうイベントを、自分の個人史のなかに課しながら、やっていくタイプの人なのだ。 僕は、そのとき、悠さんのその言葉に、激しく共感したのだった。 そのときの悠さんは、惚れ惚れするほど素敵だった。 オレも、と、僕は思った。 オレもやる。 しがらみのあれやこれやを振り切って、気の遠くなるような長い物語を書きたいと、まえから考えていたのである。 言葉や、表現や、書くことに、とことんのめり込んでみたいのだ。ねちねちと、言葉と爛れた付き合いをしてみたいのだ。言葉とドロドロの付き合いをして、行き着くところまで堕ちてみたいと、そういう欲望が僕のなかで渦巻いていたのである。 ベルリンにおいて、そういう想いとともに、僕は悠さんの言葉を思い出していたのである。 まさに、激動の東欧であった。 僕は、この旅の出かけに、大阪空港でルーマニアの事件を知ったのだった。 チャウシェスクが捕らえられ、人民が孔の開いた国旗を振り、都市部で銃撃戦があり、放送局には何人かの人間が立てこもり、放送を続けているというのである。 「いつ、ここへ、軍隊がやって来るかもしれません。しかし、我々は放送を続けます。もし、この放送が急に中断されるときがあれば、それは我々が死ぬときです。それでも、我々は、放送を続ける覚悟です……」 そのような画面が、その日の朝に、日本のテレビに流れたのだという。 僕は、仕事の原稿を書き続け、この3日間の睡眠時間が30分だけという状態で、大阪空港に駆けつけたのだった。 パリで別れ、モスクワで合流することになっているフォトグラファーの時枝さんは、そわそわしている。ルーマニアに行きたくてしょうがないらしい。 彼は、あの天安門事件のときに、最後まで残っていたフォトグラファーのひとりである。 思えば、あの事件によって、僕は天山行きを断念したわけで、そのとき現場にいた彼と、こうして、大阪空港で顔を合わせているというのは、不思議な縁と言うほかない。 チャウシェスクが処刑され、その死体が路上に転がされているという話を耳にしたのは、フランスを発つときであった。 「チャウシェスクの奥さんも処刑されたそうよ」 通訳として僕が引っ張り込んだマリルダ女史は言った。 チャウシェスクは、殺されるまえに、「おまえたちの好きなようにしろ」と、そう言ったらしい。 僕はドキドキしながら、凍った地面を踏んで、夜のベルリンの壁に沿って歩いた。 ブランデンブルグ門のまえの壁に、僕は攀じ登った。壁は高く、壁の上部は霜が降りており、それが凍って滑る。 その壁の上に立った。 ブランデンブルグ門が、大きく見える。 人々が、ぞろぞろ歩き、あるいは立ち止まり、壁の周囲を動いている。銃を持った兵隊もいる。 夜のベルリンの街が見えている。 ゆっくりと眺める間もなく、兵隊がやって来て、下に降ろされてしまったが、滑る壁から下に降りるには、飛び降りるよりほかなく、それはかなりの勇気が必要であった。 下へ降りて、少し歩くと、路上に、無数のろうそくが灯されていた。 そのろうそくの群れのなかに、バケツが置いてあり、そのバケツのなかには、大小のお金がぎっしりと入っている。 立て札がある。 「これ、なんなの?」 僕はマリルダ女史に訊いた。 「ルーマニアで、たくさんの人々が死んだ。その人たちのために祈ってください。そして、ルーマニアの人たちに送るためのお金を集めているので、あなたのお金を寄付してくださいと、そう書いてあるわ」 マリルダ女史は、そう言った。 大きなお札を1枚と、小銭のほとんどを、僕はそのバケツのなかに入れた。 音を立てるようにして動いていく力のまえでは、僕という個人は、恐ろしいほど無力なものなのだなと、そんなあたりまえのことを、僕は噛みしめていた。 とぼとぼと、歩いた。 どうにもならないものは、あるのである。 それは、厳然と、ある。 自分には、なにが出来るのか。 そんなことを考えながら、歩いた。 たぶん、ささやかながら、言葉と心中することなら、出来そうであった。 物語を書き続けること。 物語を書き続け、書き続け、書き続けながら、死ぬまで書き続けていくこと。 たぶん、それならば、出来る。 自分は、もの書きなのだ。 そんなところに縋るようにして歩いた。 書きかけの物語の、あれやこれやの場面や、未だ書きはじめてさえいない物語のシーンが、浮かんでは消えた。 連れ合いの顔や、かつて心を焦がしていた女の顔さえ浮かんだ。 自分は、どのようにして生きていくべきなのか、そんなことばかりを考えていた。 切ない欲望に満ちた自分の心と肉体を持て余しながら、僕は夜のベルリンの街を歩いた。 僕は、物語と心中したいと考えていた。 |
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